わき道をゆく第201回 現代語訳・保古飛呂比 その㉕

▼バックナンバー 一覧 2022 年 12 月 29 日 魚住 昭

保古飛呂飛 巻五萬延元年
萬延元年庚申佐佐木高行  三十一歳

    正月

一 この月元旦、御祝詞をのべるため(高知城に)登城。

一 同十九日、このたび(日米修好通商条約の批准書交換のため)アメリカ国に使節を差し向けられる。正使・村恒淡路守、副使・新見豊前守等が昨日勢揃いし、今日乗船。土佐藩より山田馬次郎(八右衛門の弟)、御小人目付の栗島某の従者となり、発船したとのこと。
 ただし山田は西洋好きである。そのため、わが国体家(※国体を第一に考える者)を一人同行させたほうが米国事情が分かる、山田一人を派遣したのでは、帰国したとき誰も(彼の言うことを)信用しないと申し立てたが、そのことは行われず、遺憾なことである。
 上使・副使・御目付・御祐筆がそれぞれ下級の役人を引き連れ、総勢二千五百人ばかり[実はおよそ二百人ばかりという]が彼の国に渡るとのこと、日和見合(天気の状況を観測すること)等は申すことなく、ただちにこの日乗船したという。[この部分の記述は翌二月、諸家の筆記を参照した]

一 正月二十一日、外祖母で齋藤内蔵太さまの実母が永国寺町の御屋敷で病死、行年八十五歳。
 ここ数年間、ご病気だったが、ついに亡くなられた。外祖母上は正妻ではなく、弘岡村の百姓の娘で、ご兄弟はいずれも長寿である。葬式の際、一般の慣習で、柩の前を身近な者が位牌・香花を持って歩こうとしたところ、正妻ではないのにいかがなものかという声が出たが、自分たちにとっては實祖母なのだから、一般の慣習のように位牌や香花を持って柩の前を歩いても何も礼典に反しないと主張して、その通りに行われた。
 ちなみに言っておくと、外祖父上は文化六年十月十四日に病死されたとのこと。

    二月

[参考]
一 諸家の筆記に曰く。(※内容からいって江戸藩邸詰めの土佐藩士の筆記と思われる)
  二月五日、江原登兵衛が(江戸藩邸に)来た。江原は與力式台預(注①)である。四方山の話のうち、このたびのアメリカへの使節が海上に乗り出して四日目に、彼の国よりやってきた使節船と行き逢った。その使節船の者が言うには、アメリカの首都が焼失する火災が起きたので、使節の受け入れを断るとのこと。そのためアメリカに向かっていた使節船は下田まで引き返し、幕府の指示を待っているとのこと。使節船についてはこのごろ諸説あって、情報が入り乱れているが、この説は信用できるという話があった。
 さてこちらよりアメリカに参る人数が(二千五百人ばかりと)夥しく多い文書を見たので、不審に思って尋ねたところ、(二千五百人というのは)事実ではなく、およそ二百人ばかりだろうとのこと。公儀は一人あたり米五俵・たくあん二樽・梅干し一壺を支給しているとのこと。それにかかる費用はさておき、人数は慎重に吟味されているという。上使の村恒淡路守という人は、十五歳のときに新たに召し抱えられた、二百俵取りの旗本。現在、外国奉行を勤めている。なかなか尋常の人ではない云々。[この筆記は正月十九日に拝見した]

【注①。式台は将軍への用件や献上物を取り次ぐ場所のこと。また学研全訳古語辞典によると、與力(よりき)は「江戸幕府で、諸奉行などに属し、「同心(どうしん)」を率いて上司の業務を補佐した役人」。與力式台預は江戸城で式台を預かる役人のことか】

     三月

一 この月三日、水戸浪士十七人、井伊大老を桜田門外で殺害したとのこと。
 右は同十九日夜、早飛脚により伝えられた。[立通リ、](※意味不明。原文のまま記す)

[参考]
一 三日、夜明けより大雪、
 六ツ時、(太守さまが)お供を引き連れて御登城、[付上リ御供](※御供の者はそのまま城内で待機して、という意味か)、四ツ時すぎに藩邸に戻られた。

       狼藉に関する聞き書き
 今日、太守さまの御供をして(江戸城に行き)詰め所で待機していた。大雪なので誰もが詰め所の中に入りたいと言って、[大詰め番人制度ニ世話ヤケ居候處](※詰め所の番人にかけ合っていると、という意味かと思われるが、確かではないので原文を引用)、これから追々、水戸、尾張、紀州の御三家様が登城して来られれば、[何程詰之可申難儀ナル様子制人共申居ル中](※詰め所の中がどれほど混み合うことやらと話していると、という意味かと思われるが、確かではないので原文を引用)、松田源七が申すには、まだこれでも水戸様が登城されてないゆえ大いにましだと言う。なにゆえ水戸様はまだ登城されていないのかと尋ねたところ、何やら大いにもめている様子と言う。ほどなく尾張様が登城され、[後太鼓打例ノ扇子上ル](※其の後、太鼓が打たれ、いつもの扇子が上がる、という意味だろうか?)、雪はますます強くなった。紀州侯が登城された。老中も若年寄りも追々登城された。井伊さまは登城されない。ある者が言った、桜田門外に五人切られている、即死だとのこと。切った者は逃げたという。どこの人かわからない。切られたのはそれも誰かはわからない。ある者は井伊様だという。紀州様の後について井伊様が登城されたところ、その御供の行列の先頭に切り込んだという。ひとり股引きをはいている人も切られている。腕が落ちている。これが切った人であるか切られたのか。ただ通りがかりに見てわけがわからん。上下(かみしも)を着た者が切られているなど、口々に仲間話をしている。皆(襲撃したのは)水戸浪人かと胸中で思っている。交代の吉蔵が来たので、これより道具置き場に出た。さて桜田門外でたったいま狼藉を見たという者の話によると、左右四人ずつ合わせて八人が赤合羽を着ており、それを脱ぎ捨て、左右から一斉に切りかかって(井伊の乗った)駕籠を刺し通したようだった。また駕籠のなかから(井伊が)首を出して見ているところを切ったようだった。そうして大騒動になり、切るもあり、切られるもあり、逃げるもあり、大変な騒ぎだったという。聞いたところでは、なるほど井伊には不意のこと、そのうえ大雪が降っていて(護衛の者たちが)いずれも雨装束をまとっていたため、遅れを取ったのは明らかだと思われる。また、ひとりを八代州の川岸で見たが、その者は雨具なしで、(わらじもはかず)足袋だけはいて北へ走っていく。それを追って三人が抜き身を引っさげて北へ向かう。不審に思ったのであとから見に行ったところ、増山様の辻番わきで刺し違えて死んでいるという。これは深手を負って、それ以上行くことができぬため、そこで死んだものという。また一人は大刀で首を貫いたまま行ったという。また言う。辰ノ口の水落(注②)の脇に、ひとり喉をはね、切腹して、脇に(井伊大老の)首を置き、[夫(それ)ヲシテ、セヽラ笑ヒヲシテ雪ヲ摑ミ喰抔(くうなど)シテ、ウント息ヲ吹テ居ト云フ](※訳が難しいので原文を引用。置いた首の脇でせせら笑いをしながら、雪をつかんで食べる凄惨なシーンのようだ)、これは二十歳ばかりの男で、体の前に刀身を抜いて置き、脇差しは平造り(注③)で脇に置いてあったという。また、遠藤様の辻番にもひとり死んでいるという。かたや日比谷御門を抜き身を引っさげて三人連れで行くのを御屋敷の二階窓から見たという。一方、桜田門外で即死五人、手負い九人、あるいは十三人、または十六人と口々に言うことがちがった。井伊の首は革製の甲冑の胴に入れて包んで帰ったという。戦ったとき、雨具を脱ぎ捨てたので、下にはたすきをかけ、頭巾をかぶっている者もあり、鉢巻きをした者もあったという。桜田門外からお堀端を東へ、日比谷御門を抜け北へ、ひとりは加治橋通りを走り、もうひとりは注進のためと思しき者が辰ノ口のほうへ走って行ったという。皆口々にいうことがまちまちで、以上は切れ切れの話である。五ツ時より四ツ時過ぎて一時ばかりの間の話である。(襲撃を目撃した者たちは)だんだん帰り、その後、屋敷内から(現場を)見に行った者の話では、(死体に)むしろや合羽が着せられていたので、詳細はわからなかったという。また桜田門のほうは死体がみな引き取られ、その後掃除され、血には土をかけてあった。死体のひとつは[鬢ワゲ](注④)があったという。しだいに警固の者たちが(現場付近に)繰り出して、道は通行止めになったという。また辰ノ口の死骸は俵を覆い被せて、その脇の首は戸で囲い、白い股引き・脚絆の番人十四人が守護していたという。白脚絆は井伊家の家来である。この首には不審な点があるという。あるいは、井伊様は存命だという。また言う、井伊様のお首は包んで水戸のほうへ持ち運ばれたと。諸説がまちまちで正確ところは分からない。まことに古今の大変、天下の大老職にある人に向かい、このような狼藉に及ぶのはまったく乱のはじまり、まことに血なまぐさい話だと思って書き留めた。この日の夕方、日暮れ前に若年寄が退出される際に夥しい数のご家来衆が警固し、その脇には遊軍(持ち場が決まっておらず、自由に動ける護衛武士のことか)までも出動したように見受けられたとのこと。[諸家筆記]

【注②。江戸城の外濠と内壕を結ぶ水路を道三壕と言い、道三壕が内堀に交わるところを辰ノ口(現在の丸の内一丁目にあたる)と言った。辰ノ口の水位は、内濠と道三壕とでは落差が合ったので水落と呼ばれたのではないか】

【注③。日本刀の形状は鎬(しのぎ)造りと、鎬のない平造りに大別される】

【注④。鬢ワゲ。ワゲは上方の言葉で髷(まげ)を意味する。これは私の推測だが、鬢髷とは、江戸時代の武士に共通する、額の上の月代をそり上げた髪型のことではなかろうか。これと違って月代をそり上げずに髪の全体を後ろで束ねた髪型を総髪といい、浪人などによく見られた】

一 井伊直弼に特に目をかけられ、最も奸計をめぐらせていたのは細工頭の松永半六だとのこと。松永は身分はもともと低かったが、細工頭に用いられて御目見えの身分に出世したという。細工頭は大奥へ立ち入って、女中に(接近するのに)もっとも都合がいい場所である。井伊が大奥によくよく信用されたのには、松永が預かって力があった。このように井伊に信用されたため、三月三日に桜田門外の変の後、松永は退城の途中、桜田門外にある上杉屋敷側の雪隠とかで自殺したという。いわゆる殉死と言うべし。
 ただし本文の話は世人がほとんど知らない話であって、自分は明治二十六年、両宮(明治天皇の第六皇女・常宮と、第七皇女の周宮のこと)のお供で日光に滞在中、林昇元大学頭より親しく聞いたところである。

[参考]
一 三月三日、幕府より諸大名への通達は次の通り。
 今朝、桜田門外において水戸殿家来の者が短筒を使って乱暴に及んだ。ついては、この者たちが万一銘々の屋敷へどんなことをするか分からない。もし飛び道具等で乱暴に及んだ場合には、こちらも鉄砲で応戦して構わない。

[参考]
一 三月三日、水戸殿家来の大関・森・杉山・森山、右の者たちが細川越中守様の玄関へ入って、次のように言った。今朝、井伊掃部頭が天下のためにならないので討ち果たしました。右について法の定めの通りご処置を願い上げ奉ります。越中守様の取り次ぎである吉田平助が右の口上を承った。即刻(幕府の)御用番へ届け出た。

[参考]
一 辞世
 佐野竹之助が着込んだ白地(の下着?)に朱で次のような文字が書いてあったとのこと。
   敷島の錦の御旗もち捧げ
      皇御軍の魁やせん
   桜田の花と屍を晒すとも
    などたゆむべき大和魂

[右の佐野竹之助、名は光明、の日記中に有村治左衛門の辞世があった]
  岩がねもとほらざらめや武士の
      御国の為と思ひ切太刀

[参考]
一 三月五日、幕府が井伊家に通達、次の通り。
 このたび掃部頭に不慮の出来事があり、重臣どもをはじめ末端の者までも心配したとのことを聞いている。もっともなことではあるが、万一井伊家全体が動揺するようなことになったら、もってのほかである。万事、ご公儀の指図に任せ、そのようなことにならぬようにすべきである。あとあとのことについても厚い思し召しがあるのだから、末端の者にいたるまで安心するよう、家来を呼び出して通達する、云々。

一 (襲撃犯の)御預かり場所
 本多様・稲葉様・田村様・出雲様・堀様・菅沼様、
  ただし三月十一日以降(この預かり場所は)変わる。河野勘兵衛と申す者が細川へ訴え出て、ただちに菅沼へお預かりになったとのこと。

[参考]
一 桜田事件に関する雑事。
  一 近江八景
     桜田の青乱       日比谷の落雁
     井伊の半死半鐘     一石橋の帰藩
     上巳(三月三日のこと)の朝の雪 掃部の運の月
     家内の夜の雨      世間の長咄

一 桜田へ無常の風の誘ひ来て
    是迠の忠勤みんな水戸の泡

一 かもんに疵が付くかつかぬか、足白く鞘が黄色でつら青し、御門が赤で内はまっくら、

一 朝の雪とふとふ隠居鴨(掃部。かもん)をしめ

一 紅の雪年代記ちる桜

一 凡(およそ)世の中ない物づくしが多い中に、今年のない物たんとはない
  上巳の大雪めつたにない
  桜田騒動めっそうもない
  そこでどうやらお首がない
  夫でちつとも追人がない
  一人や二ぢゃ仕方がない
  引馬どこへかうさでない
  上杉辻番色がない
  御番所どこでも止めてがない
  浪人少しも驚かない
  脇坂取次出人がない
  桜が咲ても見人がない
  茶屋小屋芝居は行人がない
  唐人咄は丸でない
  道中飛脚の絶間がない
  伯耆噂で嘘でない
  そこで板倉首がない
  讃岐騒はしりてがない
  芸者此節呼人がない
  常陸の宝蔵にたからがない
  諸屋敷門に出入がない
  夜中はさつはり通りがない
  町人金持気が気でない
  老中増す供みつともない
  全体役人腰がない
  是では世の中治らない
  是でも先まあ運はない
  唯ねこし[元ノママ]は請合ない
  ないもののないは兎もあれ、埒もないめつたな事をいふものでない

[参考]
一 三月六日、(江戸藩邸の)御奉行たちが、近日(太守さまが)武芸を上覧なさるとのことなので内々心得ておくようにと稽古場において申し聞かせた。こういう時勢なので一同油断してはならじとて、白髪頭の者も熱心に訓練した。他の話は一切なく、ただ三日の大事件の話ばかりである。[諸家の筆記]

一 三月二十日、(高行が)臨時の御用を申しつけられ、江戸表に出張することになった。

一 三月二十三日、(高行らが)北山通りを出立。
 同行は大谷源四郎・毛利恭助・津田弥吉・園村拾三郎・小島勝作・原源八・荒尾恒吉・葛目繁次・朝比奈時馬、
 ただし右の十人はいずれも武人で、葛目は読書家である。壮士なので他から十人組と称された。[十名ハ惣領又ハ次男三男、或ハ養育人等ニテ御雇也](※御雇とは、この出張のために臨時に雇われたということだろうか。その辺の事情がよく分からないので、原文を引用しておく)
 右のほか物頭等の役職者または馬廻り組も同時に江戸出張を命じられた。われわれ十人組はいずれも壮士なので、大身家や役人連中を圧倒した。北山通りを経由して東海道を進み、大愉快だった。

  閏三月

一 この月朔日、萬延と改元。

[参考]
一 同七日、井伊家老・木俣清左衛門の願い書、次の通り。
 萬延元年三月三日、登城中に掃部頭が桜田門の近くで、浪士を格好をした者に切りつけられました。折からの雪でほんの近い距離も見えなかったとはいえ、御供の者たちの防戦の仕方には不行き届きがありました。わずかばかりの浪士、たとえどんな狼藉に及ぶとも、即時に捕らえて当然のところなのにそれもできなかった。わずか二人を討ち取っただけで、その他は取り逃がしたのは当家の恥辱と、誠にもって恐れ入ります。そのうえ前文のお届け[前文は略す](注⑤)を掃部頭の名前で出したのは、不届き千万と恐れ入ります。私がその決定の場にいましたならそのようなことはしなかったと思います。右の不始末に対するお咎めをお伺いします。また、ご公儀の思し召しにより御役御免を仰せつけられたとしても、このたびの不始末は世間全体が取り沙汰していますので、当家がお取り潰しになるのは必定と家中一同覚悟しております。さりながら先祖の直政・直孝の武功を考え、家名の存続をそのまま許されたなら、今後、国持ちや外様の諸侯方がこのたびの件にかかわるような、異変を万一起こした場合、家名お取り潰しになれば(幕府は井伊家を)依怙贔屓したといわれるでしょう。もしまた当家の都合により家名を存続させたら、ご公儀の政治に対する批判が世の中に起きることになりかねません。掃部頭の不覚悟の始末は家中すべてが恐縮しておりますので、どうか正しい御沙汰をお願いしたく存じます。その後で、先祖の忠節を考慮され、聊かなりとも家名を存続させていただけるようお願いします(注⑥)。なお家中のものや百姓どもに対しては、当家の不覚悟によって余儀なく家名お取り潰しを仰せつけられた旨をとくと申し聞かせ、心得違いがないよう理解させ、お指図を待って静かに退散する覚悟であります。
   閏三月
 右の書面、御用番の中務大輔殿へ差し出したとのこと。

【注⑤。吉村昭著『桜田門外ノ変』(新潮文庫)によると、藩主が自らの過失で死亡、または生前に跡目相続をせずに死んだ場合は、家名断絶という幕府の掟がある。井伊直弼の死はこれに相当し、溜間詰筆頭大名である名家の井伊家はお取潰しとなり、藩士は浪々の身となる。また、彦根藩を取潰した場合には、喧嘩両成敗の定めにしたがって、幕府は水戸藩も取潰す。老中の安藤信睦は、そのような事態を避けるには、まず彦根藩の安泰をはかり、また水戸藩に対しても、その存亡にかかわるような制裁をくわえぬことが最も賢明な道である、と判断したのだ。そのためには井伊大老が死亡したことをかくし、負傷しただけとして、その間に跡目相続をすれば彦根藩は存続し、すべてが穏便におさまる。この安藤の方針にもとづいて井伊家では幕府に対する届書を作成することになった】

【注⑥。江戸時代、いったん家名断絶となった大名が、後で小大名や旗本として取り立てられ、家名の存続を許されたケースがあったらしい。木俣もそういう処分を望んだとみられる】
(続。またまた解読できない個所がいくつも出てきました。後で専門家に尋ねて正解を記すつもりです。申し訳ありません)。