わき道をゆく第202回 現代語訳・保古飛呂比 その㉖

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[参考]
一 (萬延元年)閏三月十五日、御老中様より通達。
 去年の夏に開港して以来、各国の船が入港している。外国の情勢は計りがたい。そのうえ、今般不慮の事件(桜田門外の変を指す)も起きた。ご一同いずれも油断するようなことはないだろうが、さらに気を引き締められるようにと将軍はおっしゃっている。
 以下は太守さま直筆の文書。

   覚え

 別紙の通り、将軍のご意向が伝えられた。近年、外国の勢力が侵攻のすきをねらっている。天下の形勢は不穏なので、さらに文武に励み、士気さかんに心がけるよう。以上。 

 右についての徳永氏の意見は次の通り。
 徳永千規が謹んで思うところを述べさせていただく。文武を励み、士気さかんに心がけるようにとのお言葉、とてもとても尊くかたじけないご教示なので、心に刻んで忘れるべからず。だから家臣は貴賎の隔てなく、その旨を深く心に刻み込んで会得し、朝夕間断なく勉強して、太平の時代には主君を輔弼する良臣として、乱世には忠臣義士となって、国から受ける恩に報いる工夫をこそなすべきである。昔、乱世に生まれた人々は、譜代の臣として君恩を受けてきた者はもちろん、臣下の列に加わった以上、大事に臨んでは馬前に討ち死にする覚悟を持たねばならぬのは当然であり、古書の記述を枚挙するに及ばない。そのことは、長曾我部元親(注①)の一族が豊後戸次川で戦死した人数を見ても明白であるが、最近は目に干戈(たて・ほこ)の光を見ず、耳に金鼓(戦陣で、指揮に用いる陣鉦(じんがね)と陣太鼓=精選版日本国語大辞典)の声を聞かず、ありがたき聖代に生まれたので、いつしか怠けおこたる風に染まり、まず飲食・衣服・住まい等すべての世の趣に奢侈を尽くすこととなった。その中にたまたま文武の道に志を立てて学ぶ人があっても、嘆くべきことに、道と芸の本末(文武の根本は道あるいは徳にあり、芸は二義的なものにすぎないという考え方)をさえ理解せず、ただ博識詩文を振りかざして世間ににらみを効かせ、大言を吐き散らし、当面する修身の工夫すら度外視する輩も少なくない。武もまた然りである。理気一体の詮議(注②)は差し置き、ひとえに勝ち負けを争うのであるから、たいていちょっと見には実用らしき実用にあらずして、かえって花法(実戦にかかわらない、見せ物の武芸)に陥るのと同じことに至るのも少なくない。このようなことでは一大事に臨んで、臆病風にとりつかれて腰を抜かすことになりかねない。こうした風潮は天下一般にはびこっていて、人情道徳の廃れた末世から生じたものだから仕方がない。この風潮を一変させなければ、士気を勃興させることは難しいだろう。

 さて、その士気を育てようとすれば、まず第一に、武士たちに天の定めた秩序の根本の理より理解させなければならない。その理を明らかにして教え導くことは、学政の第一の急務であるけれども、差し当たっては、礼儀廉恥の徳目を心にかけて、朝夕覚悟させることこそ望ましい。齋藤(拙堂)氏が『士道要論』(注③)で言っている。士大夫(注④)は士民の首となり、上は君につかえ、下は民に臨むものであるから、その風は正しくあらねばならない。士風が正しいというのは、礼儀・廉恥を第一とすることにあり。近ごろの世の中は士風が日々下がり、まずもって驕奢に流れ、ついには懦弱(弱くて無気力なさま)に陥り、ほとほと礼儀・廉恥の心を失うに至った。この悪い風習を正すためには、質朴・剛毅は武士の本領であり、主君の手足たるゆえんもここにあるのだから、いつも質朴・剛毅であるべきだ。

 さて、風(ふう)というのは人々に共通する性向なのだから、武士に生まれた者は、三歳の童子であっても、弱いことを恥じ、強いことを喜ぶのを習慣とし、恐れ驚くなどということは臆病と言って、ひどく恥ずかしいことだと思わせるようにしなければならぬ。人は強いのも弱いのも、皆持って生まれた気質だが、士たる者はひたすら強いことを第一とし、弱いことを嫌い、恐れ驚くべきことをもこらえ、我慢して口にも表情にも出さぬようにしてこそ頼もしく思われる。もしふだんから、それほどまでもないことにも驚き恐れては、弓矢や鉄砲玉が霰のように飛び散る戦場に突進して、槍を入れ太刀を振るって、敵を退散させることはできないだろう。士たる者は、こういう時は一歩も引かず、主君の馬前で討ち死にするのを第一の職分とし、第一の面目とするのであるから、つねづねこの風を守って、勇気を養い、雷鳴を聞いて驚かず、風波を踏んで疑わず、泰山(中国山東省にある有名な山で、道教の聖地)が目の前で崩れても表情を変えないようにしなければならぬ。昔から武士という限りはこの風を身につけていたのだが、太平の世が永く続いてこの風がいつしか薄らぎ、武士の子も寒暑や労苦をさえ甚だしく厭い、或いは婦女子のように蛇を恐れ、雷を驚く者がいる。

 齋藤実盛(注⑤)が西国の武士を嘲って、戦に出るのに夏は暑いといい、冬は寒いと嫌うと言ったのよりひどい。士も同じ人間だから暑さ寒さや病気の苦しさに恐れ驚くことも変わりないけれど、自分の評判を下げ、職を辱めることを恐れればこそ、このように慎むのである。にもかかわらずこのように慎む者を見て、我慢なりと言って笑い罵る者があり、それはどういう心づもりなのかと訝しむしかない。士の風俗は国家の盛衰にかかわる大切なことであるから、誰もがみな剛毅の風に映り、たとえ身は虚弱であっても、心は無数の武士の雄であるべきだ。宋懦の気質変化の説(注⑥)があるのだからつねづねの心がけにより弱い者も強くなるはずだ。近いところでは、謝顕道(北宋の儒学者)が「克己、須從性偏難克處克將去」(※己に克つは、須らく性の偏にして克ち難き処より克ち将ち去るべし、と読むのだろうか)と言ったことを守り、遠いところでは尚書(書経。孔子が編んだといわれる)の「沈潜なれば剛にて克つ」ということを行い、朝夕に忘れなければ、ついに剛毅堅忍の風となるにちがいない。近世の後光明天皇(生年1633年~没年1654年)はつねに雷を恐れられたが、程朱(宋代の儒学者。程顥・程頤の二兄弟と朱熹のことをいう)を学ばれ、気質変化のご工夫をされたので、ついに雷を恐れぬようになったという。非常に尊いふるまいである。

 さてまた剛毅の風を身につけるには、まず質朴倹素の風を守るべきだ。士が惰弱になったのは、驕侈華奢に流れるからである。もし質朴倹素の風となれば、おのずから剛毅堅忍の風にも近くなるだろう。であれば農夫が田野で力仕事をして、その風も質朴になり、商売に比べれば心も剛になって身も健やかになる。ゆえに士の風は農夫に近いところを嫌わず、商売に似たところは厳しく戒めるべきである。もし俸禄がわずかなため貧窮して、やむを得ず、生活の助けをするとしても、商人めいたことはしてはならない。川で魚を捕り、山で狩りをし、田を耕し、菜園をつくり、米をうすに入れてつき、薪を集めたりする類いのことはかまわない。三河の「士近翁某」(※士の身分の者で○○某という意味らしい。が、近翁という姓は聞いたことがない。誤植だろうか)は、家が貧しかったので、つねに百姓に雇われて田んぼの耕作をしていた。あるとき、鷹狩りに出かけた東照宮(徳川家康)が突然、通りかかったので、隠れることもできず、泥まみれのままうずくまって、恐縮しているのを東照宮がご覧になり、その志を憐れまれてお咎めにならなかっただけでなく、かえって禄を増やされたという。であれば士風の農夫に近いのは悪いことではないと知るべきである。礼記(儒教の経書の一つ)にも、士の子で年長の者のことを、よく薪を背負うと言い、幼い者のことをいまだ薪を負うことができないという。また士の病を采薪の憂い(病臥していて薪をとりにいけないという意味)と言うのが礼儀となっている。古(いにしえ)の時代、士風を質朴第一としていたことがうかがえる。士たる者、鄙びた(田舎っぽいという意味)ことを自らすれば、身体が健やかになるだけでなく、倹素も守り、一家の暮らしぶりも豊かになる。はては武器の用意は言うまでもなく、人も馬も事欠かぬようになるのが理想的である。どんなに武勇があっても、一人では功をなすことは難しい。古より士が著しい功名を挙げたのは、多くの場合、よい配下たちに恵まれたからであり、自らの分以上に人馬の用意をしたいものである。

 井伊直孝(注⑦)が鷹狩りをした時のことである。小身の士の家で良い男児が肥えた馬を洗っているのを見て、大いに褒め、(その家の主の)禄を増やされたという。昔はこのように上下ともに武備を第一にしていたので、たとえ五十石とりでも士である以上、大方は馬持ちだったと聞く。中国でも周の時代は文を尊んだといっても武備はそれ以上に大事にした。礼記に、大夫(周代の職名。卿(けい)の下、士の上に位する執政官=精選版日本国語大辞典)の富がどれくらいあるかと尋ねられたら、車馬の数を数えて答えると書かれている。また大夫は百乗(注⑧)、諸侯は千乗、天子は万乗など、すべて軍役用語を単位にして言っており、いまの何千石、何万石と米穀の高によっていうのと同様である。昔は武備をどれほど大事にしたかを知るべきである。昔は士たる者は衣服飲食の費用を徹底してはぶき、もっぱら武備の用意をもってたしなみとしたので、誰もが倹素だった。

 滝川一益(注⑨)は関東管領となり、関八州(関東八カ国の総称)諸士の頭となったが、着替えの衣さえなかったらしく、あるとき客人が訪ねてきた際、ついさっき衣を洗ったばかりで裸でいるので、しばらく待っていただきたいと(取り次ぎの者に)言わせたという。倹素にすぎたことではあるけれど、昔の人が衣服飲食をえり好みせず、武備を第一としたことを知るべきである。今の士は禄が多い者だけでなく、実入りの少ない者が飲食にふけるため、多くは病身となり、溜飲(胃の消化作用が不調となり、酸性のおくびが出ること=日本国語大辞典)・疝気(主として下腹部の痛み)などがない人はごくまれで、士同士で集まるときは「某は何の病あり」ということを、気候の挨拶と同じようにいうのを習慣としている。士たる者は弱いことを恥じとし、痛いとか痒いとかは歯を食いしばっても言わぬのを嗜みとしているのに、このようなありさまなのはとても苦々しい。

 孔子の言葉に「群居して終日、言、義に及ばず、好んで小慧を行う。難いかな」(集まって終日話しても、その内容は義に関することが一言もなく、ただ小賢しさを競うだけ。それではどうしようもない、という意味か)がある。士たる者は、友人と会うとき、だんだんと志を述べ、忠孝の道をみがき、武道の吟味をしてこそ、「言、義に及ぶ」というべきだろう。にもかかわらず、このように「ナマメキタルコトヲ」(※文脈からいって病気のことを気候の挨拶代わりにしゃべる習慣を指すと思われるが、ナマメクという言葉は主として女性が若くて優美なさまを表わすときに使われる。読解不能)自慢げに言い散らして日を送ることは恥もなく、義もないというべきだ。であれば、剛毅堅忍の風になってこそ、礼儀廉恥の心にもなることができるにちがいない。仕たるもの礼儀廉恥の心が薄ければ、先々どういうふうになるか心もとない。

 管子(注⑩)曰く。礼儀廉恥は国の四維(「維」は綱の意) 国を維持するのに必要な四つの綱。礼・義・廉・恥の四徳=精選版日本国語大辞典)である。四維が張られなければ国はたちまち滅亡すると。ああ、それを恐れないでいられようか。士風がすでに正しいならば、士気を養うことが肝要だ。士風を守るのも士気を養うためであるから、風は外面のことで、厳めしいといっても、深くたのみとするものになり難い。気は身体中に満ちあふれ、火が燃えるありさまだからやや頼もしい。士気が振るってこそ、士風もまことに剛毅なものになるだろう。力量が並み以上に優れていても、気が臆すれば敵に向かって働かせることができない。武芸がどれほど巧みであっても、気が臆すれば敵に面と向かったとき、その力量を発揮することができない。気が満ちてこそ、智力も勇気も用をなすにちがいない。ゆえに馬は毛色のよいことを貴ばず、かんのつよいことをよしとする。千軍万馬の中で自由にのし歩けるのもこの気があるからである。主君に面と向かって直言し、きびしく諫めることができるのもこの気があればこそである。常日ごろ威風凛凛として人に恐れられるのも、この気が満ちているからである。もし気が満ちていなければ、「腹ヌクルナリ」(※意味不明だが、次に腰抜けという言葉が出てくるので、同じような意味ではないか)、腹が抜ければ腰も抜けるにちがいない。士であっても腰抜けは何の用をなすだろうか。近ごろ士風は大いに衰え、まるで婦女のように柔弱になり、商売のように卑しくなった。このような者は、どうにかして国を守る勇者になろうとしても無理な話で、弓矢・刀剣をへし折って武士をやめたほうがいい。なかには士らしいといわれる者があって、裃を着て、大小の刀を帯びたところはいかにも厳めしく見えるが、多くは外面だけが強くて内面は軟弱な輩のみで、年老いて身寄りのない弱者を侮るけれども、強者に会えば責めるべきことも言えずに黙っている。こんなくだらない士をどうして公侯の腹心とすることができようか。

 こうした病は皆、わが身可愛さと欲深さから生じるものだ。孔子が申棖(しんとう。孔子の門人と思われる)のことを論じて、申棖は欲があるので剛とは言い難い(注⑪)と語ったという。とすれば、気が臆せぬ剛の者になろうと思えば、まず周易(注⑫)に書いてあるように、欲をふさぐべきだ。欲の心が盛んだからこそよくないことと思いながら、上司にへつらい、金銭のためによくないことと知りながら商人にも頭を下げるのだ。恥ずかしいかぎりではないか。孟子は言った。恥の人に於けるや大なり、と。士たる者、恥を知らざれば士というべからず。古の士は恥より死のほうがましだと言って、恥辱をもって士の大きな瑕(きず)とし、身を殺しても辱めを受けないと言った。それだから罪を犯して殺されることになっても切腹を許されることを光栄とし、縄にかかるのを「屍(かばね)の上(=死後)」の辱と言って嫌った。およそ罪を問われるほどの人は良からぬ者だから、「栄辱の沙汰アルマジキニ」(※よく分からないのだが、今さら評価が変わるわけでもないのに、というような意味かも)このように健気(けなげ)であるのは、古の士と呼ばれるほどの人は、善悪や恥を知らなかったり、武道の心得がなかったりする者はいなかった。知るべし、国は士をもって立ち、士は気をもって立つと。士の気が強くなければ、生姜の辛くないようなものだ。何の味があろうか。そのような士だけなら士がいないのと同じだ。国は何によって成り立つか。(気である)。さて、その気は恥を知ることと、欲を忘れることにより生じる。これはいわゆる廉恥の心である。欲を忘れれば、自分の身のために良くないこともいとわず、恥を知れば、身を殺しても顧みず、そうなれば世の中に恐ろしいと思うことはないはずで、強いのは当然である。

 孟子に「志士不忘在溝壑、勇士不忘喪其元」(志士は常に自分が殺されて、溝の中に遺体が転がることを覚悟し、勇士は常に自分の頭が切りとられる事態を念頭に置いて忘れない)と言った。士たる者はこの重要な文章を肌身離さず忘れなければ、廉恥の心を失うことはあるまい。廉恥の心を失わなければ礼儀の心にもなるはずである。まことに礼儀廉恥の心を失わなければ、数百巻の書物を読まなくても、立派な士となれる。葛目氏(※高行といっしょに江戸に向かった壮士十人組の一人。読者家)が所持する覚え書きというものがあるので次に写しておいた。
 これらの律儀な士は、今の世にまれであろう。

   萬延元年三月

一 閏三月二十一日、(壮士たちが)江戸着。
 東海道に差しかかってから終日、日々雨天が続き、大井・天龍・富士の大川をはじめ、阿部・興津・酒匂等の諸河川がことごとく川留めになった。ふだんなら長く川留めになるところだが、この時期、水戸浪士の高橋多一郎は大坂天王寺境内で自殺し、金子孫次郎は伏見で召し捕られ、網乗物(護送用の駕籠)に入れられて江戸に送られた。沿道の大名が順送りに護送するので、それぞれが警固の人員・武器を繰り出した。そのため川の水量が少し減ると、川留めが解禁され、意外に川明けが早くなった。もっとも桜田門外の一件があったため、各藩より大勢の人数が差し出され、川明けの際の混雑は甚だしかった。

 自分たちは従者等には任せず、荷物等は自力で運んだが、(従者任せの)大身家等はいずれも遅れた。阿部川に差しかかって、そこでも川留めになった。その際、同行十人組のなかの朝比奈・津田・荒尾等の荷物が紛失したため(朝比奈ら三人はその荷物を探すため)一泊遅れ(同行は七人になっ)た。それから興津川の川明けの際には相変わらず混雑した。物頭の前野氏の従者は「雨笠ヲ持テ渡シ夫ヲ叩ク」(※人夫に担がれて川を渡る際に雨笠で人夫の頭を叩いた、という意味か?)、人夫は四方に散乱し、荷物を運ばなかったので大いに窮した。しかしながら自分たちは直接(川渡の人夫たちと?)やりとりしたので早く川を渡ることができた。このとき、大身家はとかく家来任せで何事も手早く運ばないと思った。これからもし戦争になれば大身家は緊急のときに役立たぬ。小身の貧者こそ頼もしい存在になるにちがいない。そう考えて、大いに競った。

 三島に夜の四ツ時(十時)ごろに到着、そのまま夜通し箱根を直行しようとした。が、宿役人(注⑬)が、夜中は中宿にも人足がいないので、是非ともしばらく休息していってくださいと言った。それでそのまま休息し、八ツ時(午前二時)前に出発。山中は雨が降って難儀した。酒匂川が川留めになろうとしていたので、急いで川を渡った。その夜五ツ時ごろ平塚で宿駕籠(宿場の間を行き来する駕籠)に乗ろうとしたが、宿駕籠が不足していて三挺しか確保できなかった。それで同行七人でくじ引きをして、駕籠に乗る者を決めることになり、自分は幸い当たった。その夜四ツ半(午後十一時)ごろようやく藤沢に着き一泊した。翌日即ち閏三月二十一日、七ツ時(午前四時)より藤沢を発った。一同歩きである。園村拾三郎がもっとも健脚で少しも疲れた様子を見せなかった。大谷源四郎がそれに次いだ。自分らは大いに疲れて足が痛かった。それでも元気を振るい、負けてはならじと頑張って、同夜五ツ時(午後八時)ごろ、築地の土佐藩邸に着いた。夜中だったので受け入れの用意は何もなかった。幸いに友人の足軽・小畑孫三郎の周旋で大いに便宜を図ってもらい、休息安眠した。右の通り同行の者たちがいずれも頑張ったので、大いに褒められた。

【注①朝日日本歴史人物事典によると、長宗我部元親は「没年:慶長4.5.19(1599.7.11)生年:天文8(1539)戦国・安土桃山時代の大名。初名弥三郎。土佐国長岡郡岡豊(南国市岡豊)城主国親の長子。永禄3(1560)年,家を継ぎ,七守護といわれた本山,安芸,津野などの有力国人を倒し,天正2(1574)年,三国司の一家,一条兼定を豊後に追い,翌年には安芸郡東部を制圧し土佐を統一した。その年から阿波,伊予,讃岐に侵攻,ほぼ四国を掌中に収めた同13年,豊臣軍に攻められて降伏した。それ以前,元親は徳川家康と結び豊臣秀吉の後方を脅かしていたからである。土佐一国(9万8000石,通説の22万石は誤り)を安堵され,以後,豊臣氏外様大名となる。翌年には島津征討の先陣を務め,豊後戸次川の合戦で長子信親以下七百余人の戦死という痛手を被る。16年正月,叙爵,4月,任侍従,聚楽行幸に供奉。このときは秦姓,のちに羽柴の苗字,豊臣の本姓を授かる。小田原攻め,朝鮮出兵に従軍し,伏見で没。土佐浦戸の雪蹊寺に葬る。寺内に宝篋印塔が現存(天甫寺山の宝篋印塔とする通説は誤り)。法名雪蹊恕三。贈正五位,少将。この間,天正16年,居城を岡豊から大高坂(高知市),18年に浦戸(高知市)へと移した。慶長1(1596)年,サン・フェリッペ号が漂着したのはこの浦戸である。 元親の施政で注目されるのは,天正15年よりの一国総検地であり,その正本283冊が高知県立図書館に保存されている。また,慶長1年制定の「長宗我部氏掟書」は豊臣時代の法であるが,土佐の後進性から戦国の様相もうかがわれ,分国法として著名である。元親は武勇,寛容,律義の人であったが,また狭量,悪逆の人ともいわれる。しかし,五山僧の過褒とはいえ策彦周良の『雪蹊字説』が「為人不凡庸」「文韜武略全者也」,惟杏永哲の『慈容賛』が「明悳必隣」「和気靄々」とするように,力量,人格ともに優れた武将であったと思われる。(下村效)」】

【注②。理気一体の詮議=理気二元説のこと。精選版 日本国語大辞典によると「中国宋代の儒学で唱えられた哲学説。宇宙は根本原理である理と、質料としての気とからなり、この両者が相伴って万物をなすという説。北宋の程頤(ていい)に始まり、南宋の朱熹(朱子)によって大成された」】

【注③。日本大百科全書(ニッポニカ)によると「士道要論」は「江戸後期の儒学者斎藤拙堂(せつどう)の著述。武士道論。1837年(天保8)8月成稿。拙堂41歳の著で、当時、拙堂は津藩(三重県)の藩校有造館の講官であった。1850年(嘉永3)、上州(群馬県)安中(あんなか)藩主板倉勝明(かつあきら)の手により、藩校造士館蔵版として刊行された。武士たる者の心得を仮名交じり文で平易に説く。原士、士風、士気、士節、士心、士道の6章からなる。朱子学に基づきつつ、礼義廉恥(れんち)を重んずべきこと、剛毅(ごうき)の風を持し、節を守り、職分を尽くすべきことを説く。聖人の道は、日本の祖宗の神々の道に同じとし、太平のときにあっても、武を忘れず、文を読み、政治や風俗の動向に留意することこそ武士の職分である、と教訓する。[佐藤正英]」】

【注④旺文社世界史事典 三訂版によると、士大夫(したいふ)は「中国の社会階級中国古代の5階級,天子・諸侯・大夫・士・庶民の中の第3と第4を合わせ称したもので,天子・諸侯は1国の主権者であるのに対し,大夫・士はその臣下であるとともに庶民の上に立ってこれを支配する者。古代封建制が崩壊したのちも上流階級をさす言葉として用いられるが,時代によってニュアンスを異にする。宋以後は社会的には農工商以外の読書人・知識階級を示し,政治的には科挙出身の文人官僚をさす。中国の文化は士大夫の文化といわれる」】

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると「斎藤実盛」は「没年:寿永2.5.21(1183.6.12)生年:生年不詳平安末期の武士。大治1(1126)年生まれか。斎藤実直の子で祖父実遠の猶子。越前国に生まれ,武蔵国長井に移り住む。源義朝に仕えて長井斎藤別当と称し,保元の乱(1156),平治の乱(1159)に参加。のち平家に仕える。治承4(1180)年10月富士川の合戦では鎌倉武士の勇敢さを述べて平家の士気を阻喪させる。寿永2(1183)年源義仲追討のために北国に発向し,加賀篠原で討死。老武者と侮られぬために白髪を黒く染め,また,故郷に錦を飾る故事を踏まえた逸話が『平家物語』に載る。『満済准后日記』には応永21(1414)年に篠原で実盛の亡霊が出現したとの記事があり,種々の伝承が流布したようである。稲の株につまずいて討たれた恨みから害虫となり,稲を食い荒らすという伝承は,農村の年中行事(虫送り)と結びつけられている。(櫻井陽子)】

【注⑥。宋懦とは、中国の宋の時代の儒学者。その代表的存在が朱熹。気質変化の説とは、人間の気質は後天的な努力によって変えられるという朱熹らの説を指す】

【注⑦。日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、井伊直孝(1590―1659)は「江戸初期、幕閣の元老の第一人者。駿河(するが)国(静岡県)藤枝に生まれる。直政(なおまさ)の庶子。兄直勝が多病のため彦根(ひこね)15万石を相続した。大坂冬の陣、夏の陣に先鋒(せんぽう)で軍功をあげ、領知を5万石加増され、さらに1617年(元和3)にも5万石の加増を受けた。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の没後、松平忠明らと一時幕政に参与した。1633年(寛永10)にも5万石(下野(しもつけ)佐野、武蔵(むさし)世田谷(せたがや))の加増があり、あわせて30万石を領した。これは譜代(ふだい)大名中抜群の領知高で、徳川氏の重鎮的地位が確定された。秀忠、家光(いえみつ)、家綱(いえつな)3代に仕え、1634年より江戸に終身定住する。幕閣の主要な会議には常時出席して幕政に献身し、元老として重んぜられた。直孝は決断力に優れ、また、質素倹約を重んじたことで徳川家康に似ていた。万治(まんじ)2年6月28日死去。墓所は東京・世田谷の豪徳寺。[煎本増夫]」】

【注⑧。精選版日本国語大辞典によると、乗は「車、また、兵車を数えるのに用いる。中国では、兵車一乗に士三人、卒七二人、輜重二五人がそなわる」】

【注⑨。旺文社日本史事典 三訂版によると、滝川一益(たきがわかずます)は安土桃山時代の武将近江(滋賀県)の人。織田信長に仕え,伊勢(三重県)長島一揆を平定。武田氏滅亡後,関東管領として上野 (こうずけ) (群馬県)厩橋 (うまやばし) (前橋市)を居城とした。後北条氏と戦い敗れ伊勢長島に帰り,賤ケ岳の戦い(1583)後豊臣秀吉に服し,’84年小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れ,妙心寺で出家,不遇のうち越前(福井県)で没した。」】

【注⑩。旺文社世界史事典 第三版によると、管子(かんし)は「春秋時代の斉 (せい) の管仲の著といわれる書物。現在残っている本は24巻76(もとは86)編に分かれているが,実際は戦国のころ加筆された部分が多い。農民を富ませ,その上に君権を強化せよと説く」】

【注⑪。論語の「子曰く、吾れ未だ剛者を見ず。或人対へて曰く、申棖かと。子曰く、申棖や慾あり、焉んぞ剛を得ん」を踏まえている。つまり真の強さは無欲でなければ得られないという意味】

【注⑫。この場合、周易=易経。易経は「五経ごきょうの一。伏羲(ふっき)氏が初めて八卦はっけを作り、孔子が集大成したといわれるが未詳。天文・地理・人事・物象を陰陽変化の原理によって説いた書で、元来、占いに用いられた。六十四卦(け)およびそれぞれの爻(こう)につけられた占いの文章(経)と、易全体および各卦について哲学的に解説した文章(伝もしくは十翼という)とから成る。周代に流行したところから周易ともいう。易】

【注⑬。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、宿役人(しゅくやくにん)は「江戸時代,五街道,脇往還の宿駅におかれ,人馬継立てなどの駅逓事務を取扱った役人の総称。名主,問屋,年寄,帳付,人馬指 (じんばさし) などがあり,名主,問屋,年寄の三役には役給が与えられた。また幕府が宿場の監督のため派遣した役人をも宿役人と呼んだ」】

   四月

[参考]
一 この月四日、新しい小判の鋳造と、二分判(=二分の一両)・二朱金(=八分の一両)の改鋳につき、その通用・引き替え等に関して幕府より命令があった。(注⑭)

【注⑭。デジタル大辞泉による「万延貨幣改鋳」の解説。「万延元年(1860)に行われた、江戸幕府による改鋳政策。日米和親条約で部分的に自由化された交易により小判(金貨)が大量に流出したため、従来より金の含有量を落とした小判を鋳造したもの。このため、国内は激しいインフレーションに見舞われた。[補説]江戸末期の金銀の交換比が日本では1:5だったの対し、諸外国は1:15だったため、外国人は銀貨を日本に持ち込んで小判に換え、それを持ち出して売ると3倍の銀を得ることができた」】
(続)