わき道をゆく第203回 現代語訳・保古飛呂比 その㉗
万延元年四月
[参考]
一 この月四日、新しい小判の鋳造と、二分判(=二分の一両)・二朱金(=八分の一両)の改鋳につき、その通用・引き替え等に関して幕府より命令があった。(注①)
【注①。デジタル大辞泉による「万延貨幣改鋳」の解説。「万延元年(1860)に行われた、江戸幕府による改鋳政策。日米和親条約で部分的に自由化された交易により小判(金貨)が大量に流出したため、従来より金の含有量を落とした小判を鋳造したもの。このため、国内は激しいインフレーションに見舞われた。[補説]江戸末期の金銀の交換比が日本では1:5だったの対し、諸外国は1:15だったため、外国人は銀貨を日本に持ち込んで小判に換え、それを持ち出して売ると3倍の銀を得ることができた」】
[参考]
一 (土佐藩士の)松井順助が江戸より徳永達助(同)に送った六月十三日付の書状は次の通り。
前略、さて江戸表での醜虜(=夷人)の模様、さして変わったことはございません。ただ、(夷人との)交易が中止された様子です。その理由は次の通り。ドルラル銀(メキシコ銀貨。当時、国際貿易の決済に用いられた)一枚につき、(日本の)一分銀三枚と交換するというのが最初の取り決めで、それが実際にこれまで行われていたのですが、ドルラル銀の品質がことのほか悪いため、市中の相場では二分(=一分銀二枚)ほど(の交換比率)になりました。そのため夷人との交換でもやはり二分ほどの相場にするべく申し入れたところ、彼らはどこまでも三分と言い張り、交渉不成立となりました。このため自然、(日本の商人たちが)いろいろな品を横浜交易場へ持ち出さないようになり、夷人側も強いて買おうとはしなくなりました。いずれこの一件についても彼らは必ず嘘を言い立てて難題を持ちかけてくるでしょう。上巳(三月三日の節句。この場合は桜田門外の変を指す)以来、夷人が往来する際は、警固の武士が付き添っています。多人数の夷人たちが馬に乗ったまま安全に往来できるよう、武士たちが求められるまま供をするありさまで、まことに恥ずかしく、憤りにたえません。このままだと夷人たちはますますのさばるでしょう。そのうえ将軍家は上巳以来、両山(徳川家の菩提寺である上野寛永寺と芝増上寺)へまったくお参りされず、いつも老中たちが代参しています。その時々、大名や小名(大名のうち比較的領地の少ない者)の邸から警固要員を間違いなく差し出すよう通達があります。我が藩の場合、物頭一人、平士(ひらざむらい)二人、足軽十五人を差し出すよう決められています。諸藩とも同様です。人心が背けば、金でつくった堅固な城も何の役にも立たないことをまったく知らないのでしょうか、笑うしかありません。すでにこのたび、増上寺で将軍家の法事があるので、将軍がお成りになるという連絡が一度あったのですが、その後、将軍が頭痛のため法事延期との御沙汰がありました。幕政の担当者が種々の献言をしているようですが、奸佞邪智の輩が役所や奥向きに取り入り、言われなきことを申し立て、このようなこと(法事等)すらまったく行われておりません。井伊家の相続は間違いなく行われ、御家督の御礼等も済みましたが、憤恥に堪えざる有志もいるようです。理由もなく何人かの家臣が出奔し、行方が分からなくなっているとのこと。一方、水戸公はいまだに登城を止められたままで、その後のご処置はありません。これは容易ならざる大事なので手間取るのはもっともかとも思いますが、まことにこのごろの国体は累卵よりも危うい形勢です。ポルトガルよりも先日、使節が渡来し、やはり交易を申し入れてきました。これまた交易が許されるのは明らかでしょう。今はこれ以上のことは承っておりません。(新たな情報が入ったら)追々申し上げるつもりです、云々。
順助より
達助さまへ
一 六月二十一日、御隠居様(容堂公)が御病気につき、月代(さかやき。額から頭頂にかけての頭髪を剃った状態)を剃り、屋敷内の空き地を散歩することについて、太守さまより(幕府に)内々にお願いしたところ、月代を剃って庭を散歩しても構わないと、下紙(土佐藩が幕府に問い合わせた文書につけられた付箋)によりお許しを得た。
一 六月、これまで藩の公用文書は黄色紙を使用すると決められていたが、今後は黄色紙を私用に用いるのはもちろん、売買も禁止すると命じられた。[吉田元吉(東洋)による改革中の一項](注②)
【注②本来公用文書専用である黄色紙が市中に流れて私用に使われるという悪習をただすための布告らしい】
一 この月朔日、従来(藩に)渡すよう定められていた御蔵紙(の制度)は今後廃止する。[吉田元吉による改革中の一項](注③)
【注③。御蔵紙制度についての補足。高行は簡単にしか触れていないが、吉田東洋による藩用の御蔵紙制度の廃止は重要な意味を持つ。石尾芳久著『海南政典・海南律例の研究(四)』(関西大学法学論集第16巻1号)の要点を紹介しながら、その意味を説明しておく。
土佐の特産品である紙は江戸時代、藩が独占的に買い上げて専売するものを御蔵紙といった。これに対し平売り(自由販売)できるものを平紙といった。しかし、右の平紙に対しても、宝暦二年には、藩は御蔵紙制度に準ずる制を設定したのであり、その後は国産問屋の不当買い上げを怨む農民の激しい抵抗が屡々おこっている。
御蔵紙制度は、概言すれば、藩当局と特権商人との結託による専売制であって、かりにそれが重商主義への傾向を有するとしても身分的独占的重商主義(藩を単位とするそれであるが)にすぎないものであった。
(略)しかして、われわれの興味を喚起するのは、正徳四年以来百四十六年とにかく継続してきた御蔵紙制度に終止符を打ったのが、吉田東洋であったという点である。(※石尾氏は、この後に御蔵紙制度の廃止を命ずる覚書の全文を引用しているが、ここでは省略して石尾論文のつづきを紹介する)
―右覚書のはじめに、『御蔵紙之儀は村々紙漉共御介補として御買上被仰付』とある点に注意するを要する。右史料に関して、平尾道雄氏(※土佐歴史研究の第一人者)は、「政法革新の意気にもえる吉田東洋の理想の一端を示すもので、同時に官庁用紙は黄紙に統一し、一般士民の黄紙私用と売買を禁止した。楠目盛徳の手記にも『去六月黄紙売買を禁ぜられ藩用ならでは使用することかなはず、御沙汰きびしくて小吏ども困惑なり』とあって、ややもすれば公用紙が私用される悪習をあらため、官紀を粛正しようとする新政のねらいであった」という解説をしるされている(平尾道雄著『土佐藩工業経済史』一一九頁)。氏は、吉田東洋の政法革新の理想の具体的内容については、明確にしるされておらず、公用紙が私用される悪習ということを指摘されるにとどまっている。
しかし、この問題は、藩専売制に対する根本的改革という吉田東洋の財政政策に関する方針の一環として考察されなければならない、と思う。
すなわち、結論を先にいえば、旧来の藩当局と特権的商人との結託にもとづく藩専売制を排して、小企業者階層の保護を主眼とする新しい藩専売制(それは極めて萌芽的な形においてではあるが国民的重商主義への方向を示唆する)を樹立せんとしたものである、ということができる。海南政典(※東洋が編纂した土佐藩の法典)の国産局の方針が国産品の他国移出に課する口銀の収納に重きをおくことであったということも、その根本には右述したような新しい藩専売制構想が存したことを勘案して把握すべきである。この点は、吉田東洋暗殺後、後藤象二郎が東洋の遺策をうけて、創設した開成館の組織及び事務管掌をみることによっても、確かめることができる。開成館は、軍艦局、勧業局、貨殖局、税課局、捕鯨局、山虞局、鉱山局、鋳造局、泉貨局、火薬局、訳局の十一局からなり、慶応二年二月に創設された。この中で最も興味深いのは、勧業局、貨殖局、税課局の三局であり、藩の財政に重大な役割を果し、既に安政五年、吉田東洋により地下浪人から土佐郡奉行下役に抜擢されていた岩崎弥太郎が、貨殖局運営の中心人物として活躍したのである。勧業局の事務管掌は「在来の国産方役所であって、産業の開発指導に当る」ことであり、貨殖局のそれは、「国産品の藩外移出、貿易を担当する局で在来の国産問屋に代るものであった」ものであり、税課局のそれは、「免奉行に代るもの、かつ物産税や商品移出入の課税も兼ねた。分一銀・口銀・冥加銀などの徴収もこの局の管掌である」ことであった(平尾道雄著『土佐藩』五四頁)。勧業局と貨殖局の職掌には、明かに、特権的商人との結託を排して小企業者階層の保護への方針が認められ、また貿易差額主義への方針も、原始的にではあるが、看取し得るのである。また、税課局については、統一的徴税機関の確立、新しい租税体系への企図を推測し得るのである。しかして、注意すべきは、開成館の勧業局・貨殖局・税課局の三局の企図するところは、海南政典そのものの中に、既に認められる、ということである。
(略)海南政典・国産局には、従来の国産問屋を認めた条文、或は、国産問屋との結託を認めた条文が、全く存しない。吉田東洋が御蔵紙制度の廃止にふみきったことは、単に一時の便宜にかられてそのような方針を立てたのではなくして、藩専売制の根本的改革という大局的視点に立って行ったのであった】
一 六月十五日、水戸斉昭卿が亡くなった。[ただし死去を公表したのは八月下旬である]
[参考]
一 六月二十六日、上使(将軍の使い)上野新三郎さまが来臨され、(将軍の)御鷹が捕獲した雲雀を拝領した。その後、(太守さまは)即刻大勢の御供を従えて登城され、老中の方々に挨拶回りをされた。[記録抄出]
[参考]
一 同二十六日、
一 水戸殿の家来で、出奔した
大関和七郎
蓮田市五郎
森山繁之助
杉山弥一郎
森 五六郎
右の者ども、外夷に対する幕府の処置ぶり等についていろいろ(異議を)申し唱え、めいめい示し合わせて国許を出奔した。そうして多人数で徒党を組んだうえ、「重キ御役人」(井伊大老のこと)が登城の際、場所柄もはばからず乱暴に及んだ。その行為は公儀を恐れぬやり方で不届きにつき、死罪。
一 水戸殿の家来
岡部藤助の伯父で、先ごろ出奔した
岡部三十郎
右の者は先ごろ出奔した身の上で、外夷に対する幕府の処置ぶり等にいろいろ(異議を)申し唱え、同藩の新兵衛(実行犯のリーダー格・関鉄之助のこと)そのほかの者どもとともに「重キ御役人」登城の際、場所柄もはばからず乱暴に及んだ。
ことに新兵衛一同はその場を逃げ去り、なお水戸殿の領内に立ち戻り、今も潜伏中である。たとえ(岡部自身は事件の見届け役で)刀を抜いて騒ぐようなことがなかったにせよ、右の始末は公儀を恐れぬやり方で不届きにつき、死罪。
一 水戸殿の家来で、出奔した
金子孫次郎(※事件の首謀者とされる)
右の者、外夷に対する幕府の処置ぶり等や、「重キ御役人」に乱暴に及ぶ手筈を同志の者どもに吹き込み、自身は内心期するところがあると言って、同藩の佐藤清剣の四男・鉄三郎を召し連れ、松平修理大夫(薩摩藩主・島津忠義)の家来・有村耶倶と身分を偽り、上京しようとした。その行為は公儀を恐れぬやり方で不届きにつき、死罪。
八月
[参考]
一 この月十一日、太守さまが(幕府に対し)大坂警衛準備のため、来年早春に暇をいただきたいとお願いした。よって、その願い書の内覧をお願いした。その書に曰く。
私こと、昨春、家督を相違なく譲り受け、大坂表の警衛任務もそのまま仰せつけられてありがたき仕合わせと存じ奉ります。守備の兵員らを(大坂表に)多数配置し、御厚恩の万分の一にも報い奉るべきはずのところですが、さる安政五年八月に(老中の)堀田備後守殿にもお伝えしましたように、彼の地の控え屋敷は手狭につき、多人数を収容するのに適当ではありません。そのうえ昨年夏、東叡山(寛永寺)の防火担当を仰せつけられ、なんやかやと空しく時間を過ごしている間に、外敵が不穏な動きを見せる時勢となったのみならず、先般の上意を拝承し、このままずぐずぐずしているのは不本意と思うようになりました。一方、近いうちに(大坂表の)陣屋をお渡しになるだろうとのこと。私は未熟ではありますが、彼の地に行って地形を検分し、そのうえ国許に帰って厳重に手配を申しつけたいと思います。かつまた、毎度申し上げているように、領国の海岸線が広いため、砲台や守備兵の配置をしてはいるものの、先代の容堂が安政三年、(江戸に)参勤して以来、私まで五カ年間、江戸におりましたものですから、国政・海防等がそのままになっております。
右の通りに心得、「五月十三日ヨリ通用可致候」(※これは高行が追記したものと思われるが、なぜ五月十三日より通用致すべき候となるのかわからない)
[参考]
一 同月二十六日、太守さまが来春帰国の可否を打診された件につき、改めて幕府に請願された。
右の帰国希望の可否はすでに伺い済みです。なにしろ遠国のことなので、この件はかねてよりお願いしております。以上。
八月二十六日 松平土佐守
[付紙](=幕府の返答を記した付箋)
願いの通り、来春、お暇を下されるであろう。
右のように即日了解のご指示があった。太守さまは、ただちに大勢のお供を引き連れて(登城され)老中の方々に残らず挨拶回りをされた。また、(将軍は)今日、久世大和守さまを上使として遣わし、水戸前中納言様の蟄居を解かれた。
[参考]
一 この月、ある攘夷家の願い書。
当今の神州の形勢は実に累卵よりも危うく見えます。その根元は、外敵の勢いの強さに恐怖し、一時の気休めのため横浜村に港を開いて以来、人々が正気を失い、世の中が騒がしくなったことにあります。そして悪賢い外人が俗吏に賄賂を渡したり、よこしまな商人が物珍しい品物で人々をたぶらかしたりして日用の必需品を掠めとるようになりました。次第に外敵の術中にはまり、万民は飢渇して患うようになり、それに連れて国家も疲弊するようになりました。利によってこの民を呑み込み、その方向に誘導すれば、不測の大災害を招くことになるのは、先見の明を待たずとも疑う余地はまったくありません。それゆえ天皇の御心を悩ませ、一度ならず天皇のお言葉をいただいたのにもかかわらず、よこしまな要路の役人たちがあくまでも(天皇の御心が国中に行き渡るのを)覆い塞いでおります。恐れ多くも万一天皇が譲位されるような事態に至れば、千年たっても消えない遺憾になりましょう。ところで、これまで外国人の跋扈を大目に見たのは、水戸中納言の盛大な徳があってのことであり、我々の嘘偽りのない真心から出たことでありますが、そのことについて外国人たちはどう考えているのでしょうか。このごろふと伝え聞いたところでは、右の御方様(水戸前中納言斉昭)が大病とのよし。我らは、(水戸前中納言の)英明な人となりを現在の天下の模範として尊び、恐れながらお屋形様と崇めております。それゆえ我ら漂浪の身と申しながら、上は叡慮を安んじ奉り、下は万民が塗炭の苦しみに陥るのを救うため、お屋形様の御武徳を仰ぎ、遂にはその膝下に馳せ参じるつもりです。願わくは、深大なる明晰さにより、いつか兵員を動員され、外夷どもを打ち払われるなら、我らは及ばずながらその先鋒をつとめようと必死に思い詰めております。何とぞ我々の微志を憐れみ察し下され、右の一筋をよくよくご勇決くださるよう、頓首百拝し、謹み申し上げます。
万延元年八月
薩州當詰家老(※當詰が江戸詰を意味するのかどうか不明)
同用人・島津壬生
九月
一 この月四日、御隠居様(容堂公)が謹慎処分を解かれる。
先だって、父容堂が謹慎を仰せつけられたが、(将軍の)破格の思し召しにより、このたび謹慎解除を仰せつけられた。
幕府の命令は次の通り。
松平容堂こと、謹慎処分は解除されたが、国許への帰国等は許可できない。また、親族その他との面会や文書のやりとり等については遠慮するようにとの(将軍の)内々の御沙汰である。もっとも、よんどころない事情がある場合はかねて申し聞かせた通りにするように。
このとき尾張卿(前尾張藩主・徳川慶恕)・徳川刑部卿(一橋慶喜)・松平春嶽侯(前福井藩主)等もみな謹慎を解かれた。
一 同月十六日、水戸中納言の逝去の知らせが高知に届いた。当日より高知城下および城外四カ村で営繕(建築物の新築・修理等)のことを止め、七日間音曲を禁じたという。思うに、これは徳川三家等に対する礼であろう。
一 このころ、大橋順蔵(注④)の小梅邸をしばしば訪問し、時事談義をした。
【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、大橋訥庵(おおはしとつあん)は(1816―1862)江戸末期の儒学者。熱烈な尊攘(そんじょう)思想家。名は正順(まさより)、字(あざな)は周道、通称順蔵。兵学者清水赤城(しみずせきじょう)(1766―1848)の四男として文化(ぶんか)13年江戸に生まれ、日本橋の豪商大橋淡雅(たんが)(1789―1853)の婿養子となる。佐藤一斎に儒学を学び、思誠塾を開いて子弟を教授、詩文に優れた。1857年(安政4)『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』を著して尊王攘夷論を鼓吹した。安政(あんせい)の大獄に刑死した頼三樹三郎(らいみきさぶろう)の遺体を収めて小塚原(こづかっぱら)回向院(えこういん)に埋葬。公武合体論による皇女和宮(かずのみや)の降嫁反対運動にも参加した。坂下門外の変に際し、計画の中心人物と目されて、老中安藤信正(あんどうのぶまさ)襲撃に先だって捕らえられたが、病のため出獄、宇都宮藩に預けられたが文久(ぶんきゅう)2年7月12日没した。47歳。[山口宗之 2016年4月18日]】
[参考]
一 同月、幕府より、大坂警衛のため、住吉に陣屋地を交付される。我が藩はすでに関西の諸侯と同じく、大坂警衛の命令を受けたとき、木津川口を守るべしと命じられていた。このため住吉に兵舎を置いた。その命に曰く。
大坂表海岸の御警衛を仰せつけられる。摂州住吉郡の中在家村と今在家村の入会地で、広さは一万七十九坪七合五勺。右の場所は陣屋地として下されたのでそのつもりで。もっとも地所の受け取り方等については、町奉行ならびに御代官に相談すること。
九月
一 同秋、住吉御陣屋の造営が始まる。担当は仕置き役・吉田元吉、普請奉行・後藤良輔(注⑤)、作事奉行・寺村勝之進。
ただし国役(幕府が特定の藩に課した臨時の課役)で、人夫数百人と普請方の役人を召し連れて出張した。
【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、後藤象二郎は「没年:明治30.8.4(1897)生年:天保9.3.19(1838.4.13)幕末の土佐(高知)藩士,政治家。名は元曄,幼名保弥太,通称良輔。暘谷と号した。高知城下に生まれ,義叔父吉田東洋に訓育された。乾(板垣)退助とは竹馬の友。安政5(1858)年,参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡奉行,普請奉行に任じた。文久2(1862)年武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は藩の航海見習生として江戸に出て航海術,蘭学,英学などを学ぶなどして雌伏。翌3年,前藩主山内容堂(豊信)が7年ぶりに帰藩,藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると,象二郎は大監察に就任,慶応1(1865)年,武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当たった。吉田東洋の富国強兵路線を継承し,推進機関たる開成館を開設,開港場長崎に出張所を置き土佐の特産品樟脳の輸出を企て,自ら長崎に出張。このとき亀山社中を経営する脱藩浪士坂本竜馬と邂逅,坂本の論策である公議政体論・大政奉還論に賛同,容堂の強い支持を得,公議政体派として討幕派との鍔ぜり合いを演じたが,王政復古政変から鳥羽・伏見の戦に至り,討幕派に機先を制せられた。 新政府では参与,外国事務掛,総裁局顧問,御親征中軍監,大阪府知事,明治4(1871)年工部大輔,左院議長,6年4月参議を歴任したが,征韓論政変に敗れて下野した。7年1月,板垣退助らと民選議院設立建白を左院に提出するが却下された。このころ,蓬莱社を設立,政府からもらいうけた高島炭鉱を経営したが膨大な負債を抱えて,14年岩崎弥太郎に譲渡。西南戦争(1877)の際は政府と土佐立志社の間にあって複雑な行動をした。14年政変と国会開設の詔の煥発を契機に国会期成同盟系の民権諸派は自由党を創設,後藤は総理に推されたが板垣に譲った。15年板垣との外遊資金の出所をめぐる疑惑が起こり自由党の混乱を醸した。帰国後,朝鮮の政治改革を目指す運動を密かに企図したが失敗した。20年伯爵。同年反政府勢力の総結集を目指した大同団結運動を巻き起こし,機関誌『政論』を刊行するなどしたが,22年黒田清隆首相に誘われると逓信大臣に就任。以後山県有朋内閣,松方正義内閣と留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣。商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって27年1月辞職。晩年は病苦,失意のうちにあった。<参考文献>岩崎英重『後藤象二郎』,大町桂月『伯爵後藤象二郎伝』(福地惇)」】
十一月
一 この月朔日、朝廷が和宮(注⑥)の降嫁を命じる。その内容は次の通り。
夷狄が猛威を振るい、わが国の国威は逡巡して、(天皇は)宸襟を悩ませておられる。そのため何度か関東(幕府)とやりとりして、遅くとも七、八年ないしは十カ年のうちには(夷狄を)拒絶する旨の言明があったので、しばらく猶予を与えた。右の期限内には夷狄を打ち払うとのことゆえ、武備の充実・海軍の調練はもちろん、第一に全国が一心一同にならなくては外国を圧倒しがたいので、まず国中が一丸となる基盤を築きたいとのお考えである。それだから、(幕府の)願いを入れて皇妹を大樹(将軍)に嫁がせ、より一層の公武合体を表明するという、重くて深い叡慮を全国に布告し、海内協和・国威更張の機会をなくさぬよう、遠大な策略をめぐらすべきだと思し召された。[十二月の薩州伺い書を参照]
【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、和宮(かずのみや)は「1846-1877 幕末,仁孝(にんこう)天皇の第8皇女。弘化(こうか)3年閏(うるう)5月10日生まれ。母は観行院(橋本経子)。孝明天皇の妹。6歳で有栖川宮熾仁(ありすがわのみや-たるひと)親王と婚約したが,公武合体のため,文久2年将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁。慶応2年家茂死後,出家して静寛院宮と号した。王政復古に際して徳川家の存続を朝廷に嘆願,江戸無血開城につくした。明治10年9月2日死去。32歳。墓所は増上寺(東京都港区)。名は親子(ちかこ)」】
一 十一月十二日、太守さまが今般、理髪をされ、そのお祝い式を首尾良く済まされたとのこと。
一 同二十一日、水戸浪人が横浜で外国人を殺したという。
[参考]
一 同二十一日、江戸の宿寺(外国人の宿泊する寺)の勤番が次の通り仰せつけられた。
和蘭(オランダ) 長應寺 松平和泉守
佛蘭西(フランス) 済海寺・正泉寺 石川主殿頭
佛蘭西 西海寺 松平遠江守
亜米利加(アメリカ) 善福寺 松平安之丞
英吉利士(イギリス) 東禅寺・上洞庵 阿部伊予守
魯西亜(ロシア) 攝過所(注⑦) 戸沢上総守
【注⑦。攝過所はおそらく安政五年、赤羽に新設された外国人の接遇所と思われる】
[参考]
一 藤井清治(横浜頭取=土佐藩の横浜担当者か)からの手紙の中に、
水戸の天狗組(注⑧)・悪党組が老公(徳川斉昭)の遺志を継ぎ、異人を殺し、忠義を尽くさぬ役人たちを除去する動きがあるなど、種々の説がありますけれども、火急のことゆえ略します、云々。
【注⑧。精選版 日本国語大辞典によると、天狗党は「幕末、水戸藩で、藩主徳川斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷運動の急進的な一派。元治元年(一八六四)筑波山に兵を挙げたが、幕府の追討軍に敗れ、翌年、幹部は処刑された」】
一、中濱(万次郎)氏より由比氏に送った書翰は次の通り。
昨夜九ツ時ごろ、講武所(幕府の軍事訓練所)より至急の呼び出しがあったので、同僚が講武所に駆け付けたところ、昨日二十一日、大勢が横浜表に乱入し、外国人四十人ほどを打ち首にするとの情報があったとのこと。念のため、お知らせします。
十一月二十二日 中濱万次郎
由比猪内様
[参考]
一 横浜頭取からの知らせは次の通り。
横浜の模様について昨日申し出てきた薬屋の鰯屋より早飛脚が来ました。それによると、夜の九ツ時ごろ(主人が)帰宅したところ、(横浜の?)出店の者が報告に来たので異国船の模様を尋ねたところ、何も変わりはないとのこと。もっとも二、三日前に、二、三百人の浪人者が横浜に入り込んでいるようだというので、役人方が警備を強化され、異常なく済んだという答えでした。以上のような返事の手紙を(土佐藩の)御買物方の役人を通じて、今朝早く知らせてきたので、このことを一応申し上げておきます。
以上。
十一月二十三日
頭取
藤井清治
[参考]
一 十一月二十八日、今日、太守さまが上使の阿部兵部さまから(将軍の)鷹が捕らえた雁を拝領された。
十二月
一 この月十六日、太守さまが五ツ時、大勢のお供を従えて登城され、侍従(※幕府の承認を得て朝廷からもらう官位。土佐山内家の場合は従四位下侍従)への任官を言い渡された。恐悦至極である。
一 このころ、若山壮吉先生(注⑨)より山鹿流兵学の免許状を下さった。次の通り。
甲州流山鹿傳兵学
師範免状
(貴殿は)甲州流山鹿傳の兵学をことのほか熱心に学んだので、奥義を秘授し、さらには別伝(特別の伝授)の口授に至るまで委細を授け終わった。今後は師範となり、修業に励んで功徳を積む者があれば、人選のうえ、(甲州流山鹿傳兵学の)奥義に至るまでを伝授すべき者である。ここに後々の証拠として師範の免状を与える。よって件のごとし。
若山壮吉
用極義
(※この三字の意味は不明だが、用も極も若山の号や名と関係あるので、サインのようなものではないか)
佐佐木三四郞殿
【注⑨。デジタル版日本人名大辞典+Plusによると、「若山勿堂 わかやま-ぶつどう1802-1867 江戸時代後期の儒者。享和2年生まれ。江戸にでて佐藤一斎にまなび,天保(てんぽう)年間に美濃(みの)(岐阜県)岩村藩の儒員,文久3年には昌平黌(しょうへいこう)の儒官となる。門下に勝海舟,板垣退助ら。慶応3年7月16日死去。66歳。阿波(あわ)(徳島県)出身。名は拯。通称は壮吉。著作に「論語私記」など】」
[参考]
一 十二月、和宮さまの御降嫁につき、薩摩藩より幕府への伺い書は次の通り[十一月朔日の項を参照]
このたび皇妹(孝明天皇の妹・和宮のこと)のご縁組み(将軍・家茂との結婚)の件について内々おっしゃられたことに関して申し上げます。
(和宮が降嫁すれば)天璋院(注⑩)は(和宮の)姑にあたられ、かつまた拙者も恐れながら皇親(天皇の親族)の末端をけがすことになり、重々恐れ入ります。(和宮と家茂が結婚したあと)天璋院さまがそのまま(大奥に)おられるようなことになれば、朝廷に対し、拙者も恐怖至極に存じます。何とぞ天璋院さまが(大奥を出て)お里方(薩摩の島津家)に長々と滞留されるようにと存じ奉ります。右の趣旨について一応心づもりを伺っておきたく、この件申し述べます。以上。
萬延元年十二月
松平修理大夫
【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると天璋院は「没年:明治16.11.12(1883)生年:天保7.12.19(1837.1.25)江戸幕府13代将軍徳川家定の御台所。薩摩藩支族今和泉領主島津忠剛の娘。鹿児島生まれ。薩摩藩主島津斉彬の養女。さらに家定と婚姻するため,近衛忠煕の養女となった。通称は篤姫。諱は敬子。婚姻から2年足らずで家定が没し,落飾して天璋院と号した。14代将軍徳川家茂に降嫁した和宮(静寛院宮)との仲は芳しくなかったといわれるが,幕府崩壊に際しては,協力して徳川家救済に尽力。明治維新後は,徳川宗家を継いだ家達の養育に専心した。家定との婚姻は政略的なものであったが,生涯徳川家の人として生きた。<参考文献>本多辰次郎「天璋院夫人」(『歴史地理』14巻5号)」】
(続。いつも言っていることですが、私の現代語訳には間違いや曖昧なところが相当あると思います。いずれは専門家のチェックを受け、正確を期したいと思っていますので、どうかご容赦ください)