わき道をゆく第204回 現代語訳・保古飛呂比 その㉘

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萬延元年十二月

一 この年、海南政典成る。

全部で十五巻。項目を分かつこと十三。(その項目を具体的に挙げると)職守、考課、継嗣(跡継ぎ)、寺社、戸籍、田疇(田畑)、山虞(山守)、関市(関所と市場)、賦役、営繕、倉庫、法律となる。このほか付録三巻あり、廟祭儀、考課例、界戌営規則という。別に海南律令草稿が一巻。これを草稿と名付けたのは、多年の経験に照らし合わせてはじめて完成稿になるという意味である。吉田元吉が総裁となり、松岡七助(注①)がもっぱら編纂に従事した。七助が侍講(主君に学問を講じる役)として江戸に召された後は細川潤次郎(注②)がそれに代わった。

【注①デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、松岡毅軒(まつおか-きけん)は「1815*-1877 江戸後期-明治時代の儒者。文化11年12月26日生まれ。安積艮斎(あさか-ごんさい)にまなぶ。土佐高知藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)の侍読となり,藩の法典「海南政典」や藩史「藩志内篇」の編修にたずさわる。維新後,文部省につとめ,明治8年元老院議官。明治10年11月6日死去。64歳。名は時敏。字(あざな)は欲訥。通称は七助。別号に毅堂」】

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、細川潤次郎は「没年:大正12.7.20(1923)生年:天保5.2.2(1834.3.11)幕末の土佐(高知)藩士,明治大正期の法制学者。儒者細川延平の次男。幼名熊太郎,諱は元,のちに潤次郎,号は十洲。幕末土佐藩の三奇童のひとり。生来頭脳明晰。博覧強記。藩校で学力抜群,安政1(1854)年長崎に赴き蘭学を修業,高島秋帆 に入門して兵学,砲術を学んで帰郷,5年藩命で江戸に出て海軍操練所で航海術を修業し,同時に中浜万次郎から英語を学んだ。文久年中(1861~64),吉田東洋政権の藩政改革の根幹である法典編纂事業に松岡時敏らと従事し「海南政典」「海南律例」を完成させた。維新政府に出仕,学校権判事として開成学校の基礎を固めた。明治4(1871)年米国出張,左院の諸役を勤め法制整備に広く関与した。9年元老院議官,23年貴族院勅選議員。26年から没年まで枢密顧問官。その間に女子高等師範学校長,華族女学校校長,東宮大夫,学習院長心得あるいは『古事類苑』編纂総裁を務め,33年男爵。<著作>『十洲全集』全3巻(福地惇)」】

一 またこのとき藩志(土佐藩史)四十三巻を編纂させた。

歴世事実九冊、政体沿革二十四冊、執政年表一冊、神社一冊、列伝付録が八冊である。

一 同年、土佐藩に他藩より槍術修業のために来た(者についての)覚え

予州西條藩 加地市之丞、横井亥三郎

上州館林藩 中村斧次郎

このたび槍術修業のため国許に罷り越したいという趣旨で、山田喜三之進より願い出て、許可されたのだが、いずれ(その者たちが)城下に着いたら、武芸所で藩士たちと試合をすることになる。その際には式日(特別な儀式が行われる日)と同様に臨席するようにと御奉行が言われておるので、お仲間たちに伝えるよう。以上。

右は中老たちに通知したこと。また(この覚えは)前野来成の触れ控え(お触れの記録集?)を写した。

保古飛呂比 巻六 文久元年

文久元年辛酉 萬延二年二月改元 佐佐木高行 三十二歳

正月

一 この月二十一日、太守さまが江戸表を発たれた。梶橋邸御門内へお見送りに出た。

一 同二十七日、(佐々木高行が)江戸表を発ち、東海道・中国路(注③)経由で、帰国の途に就いた。

【注③。百科事典マイペディアによると中国路(ちゅうごくじ)は「江戸時代,瀬戸内海沿いの道で,脇街道。西国(さいごく)街道・山陽(さんよう)道などとも。起点は大坂あるいは京都,終点は下関(しものせき)あるいは豊前の大里(だいり)(門司市)などの説がある。古代の山陽道が中世以降地位が低下,瀬戸内海航路の利用もあって通行量も少なかった。宿駅の常備人馬は25人・25疋で,多くは小規模」】

[参考]

一 同二十九日、幕府の命令は次の通り。

一 このごろ近郊のあちこちに浪人または宿なしのような者どもが徘徊し、物品や金銭をせびったり、不法行為をしたりすると聞く。不届きのことである。今後、右のような者どもが立ち回れば、いささかも容赦なく捕らえ、身体拘束するよう、早々に言い聞かせられたい。なお、手に余るようなことがあれば、切り捨てても構わない。時と場合によっては鉄砲等を用いても構わない。あらかじめ隣接の領地の面々で申し合わせておき、状況によっては相互に加勢を差し出すように致されたい。

一 小身(禄高の少ない者)の面々がその領地を治めている場合、(浪人や無宿者の)捕縛等に不行き届きもあるだろうから、最寄りの一万石以上の大名の陣屋等へ注進し、右の注進と同時に、自らが居る陣屋等より召し捕りに必要な員数を差し出し、これまで同様に取りはからうよう、かねて手筈を打ち合わせておかれたい。

一 御料所(幕府の直轄地もしくは幕府が皇室に献上した土地)ならびに寺社領の(浪人・無宿者)対策は、最寄りの領主たちがあたられたい。

右の趣旨は、関八州(注④)御料・私領・寺社領でも漏れなきよう、早々にお触れを出されたい。

【注④。精選版 日本国語大辞典によると、関八州(かん‐はっしゅう)は「江戸時代、関東八か国の総称。すなわち、武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸。幕府は、将軍の御膝元という理由などで、その取締りには特に意を注いだ。関内。関東筋。関東八箇国。関東八州」】

二月

一 この月朔日、箱根宿石内で休憩した。

一 同三日、対馬へロシアの軍艦が渡来。上陸して乱暴し、以来、対馬は大困難のよし。

[参考]

一 同六日、幕府よりの通達は次の通り。

水戸殿の領内に集まった浪人どもに不法の所業があり、このまま放置しておくのは難しいので、捕縛するとの連絡が水戸殿よりあった。(当方からは)その通りに取りはからってもらいたいと答えた。(このことは)心得として諸方面に伝えておきたい。

一 二月二十日、帰国。

帰途、大阪住吉の陣屋の建築現場に立ち寄った。その工事の進捗が速いので土地の人々が賞賛していた。木材や石は土佐より運送し、工夫も人夫もみな土佐人を用いている。(建築に携わる人々の)上下が大いに競い合い、その勇ましさが大阪住吉あたりの都会の人々の目を驚かせる。はなはだ愉快である。参政・吉田元吉が責任者で、吉田自身が最初実地に臨んで指揮した。普請奉行は後藤良輔(後の象二郎)である。後藤は若いけれどすこぶる鋭敏なので工事が最も速く運んだという。来る四月中には完成する見込みといい、いまのこの時節が上下ともに踏ん張り時である。この時点までは(土佐藩の蔵屋敷がある)長堀の近辺に警固の人数が散在していた。役職者等は少しずつ(住吉の陣屋に)引き移りつつあると聞いた。

住吉から中国路を通り、北山通に入った。北山は大変な難所である。毛利恭助・荒尾恒吉ら五、六名が同行。先を争って駆け足で登る。いずれも優劣はなし。もっとも、昨年同行した大谷源四郎・園村拾三郎の両人が一緒だったら、誰も及ばなかっただろう。園村はことに健脚だったが、今回は両人とも同行しなかった。

一 二月二十日、太守さまが御帰国。

(江戸を発って)東海道・伊勢通を経て、大阪に立ち寄られ、中国路・北山通(を経由して土佐着)。太守さまは数年間、江戸に滞在されたので、早めの帰国を幕府にお願いして許可された。

一 同月二十五日、藩士一同が太守さまにお目にかかる儀式(惣御目見)が行われた。

一 同月二十八日、文久と改元。

三月

一 この月朔日、毎月恒例の御礼登城。

一 同四日の夜、土佐郡井口村で殺人騒動(注⑤)があった。

藩士[住居は字西孕(あざにしはらみ)]山田廣衛・お茶坊主(注⑥)の松井繁齋の二人が節句のご馳走にあずかり、大酔いして中須賀より小川に沿って永福寺前の土橋のたもとに差しかかったとき、誰かが山田にぶつかった。暗夜の出来事だったから誰とも知れず、相手の二人連れは「これは失礼」と一言の詫びを言って、行き過ぎようとした。山田は酔っていたのでなかなかそれを聞き入れなかった。そのため相手方も遂に覚悟を決めて反論し、言い争いになった。山田が「憎き奴」と言って刀を抜いたので、先方もこれに応戦し、遂に刃傷に及んだ。山田は(剣の使い手として)名高い腕前だったので、ついに相手を倒した。そこで、山田は松井に命じて近くの人家に提灯を借りに行かせた。そうして山田はあまりに喉が渇いたので川端に降り立って口を潤していたところ、何者かが後ろから切り付けた。山田は深手を負い、それに屈せず、振り返って切り結んだが、ついに殺害されるに至った。油断大敵とはこのことである。

山田が殺したのは軽格の中平忠一郎で、忠一郎の連れは宇賀某だった。山田と中平が切合いになったとたん、宇賀某は小高坂村の池田虎之進という中平の実兄のところに駆け出し、事件のことを急報したので、池田は早速現場に駆け付け、前述のような始末になったとのよし。

【注⑤。この井口村の殺人騒動については『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』で佐佐木自身が、坂本龍馬の関与も含めてかなり詳しく語っているので、長くなるがそちらも紹介しておく。

「全体土佐は長曾我部の遺臣等が多くて、殺伐の気象が一般に存して居る。上を凌ぎ、我見を貫こうといふ様な国風であつたので、山内氏入国当時より階級制度を厳重にして、夫等(それら)を抑へ付け様とする政策を執られた。長曾我部の遺臣には、作り取り郷士といふ様な特典を与へてあるが、夫等軽格と士格との間には、非常に尊卑階級があつたもので、若し士格に対して無礼の挙動でもあると、切捨てられても仕方がない。階級制度の厳しいのは、ひとり士格と軽格のみでない。我々士格の間でも、夫々(それぞれ)身分に応じて、権力の差のあつたもので、家老が平士を呼ぶ時は、何兵衛、何右衛門で、恰も我々が郷士以下足軽を呼ぶ様に呼捨てにする。中老に対してさへも、苗字を呼ばないで、矢張り名計り呼ぶのであるが、中老は我々に対して呼捨てにすることは出来ぬ。で、其の軽格――郷士以下は、大部分は長曾我部の遺臣で、而も財力といひ、武力といひ、決して士格に譲らないものが多い。夫等が無礼咎めなどから葛藤を生じることが珍しくない。(略)

(文久元年三月四日に井口村で)また士格と軽格との衝突があつた。土佐では、三月三日は御先祖の御祥日であるから、節句を一日繰下げて、四日にする例になつて居る。所々に宴会などがあつて、相応に賑ふ。是歳も太守公始めての御帰国といひ、国中人気を直して謡ひ囃して居たが、この節句の夜、西孕に居る馬廻の山田廣衛といふ男が御茶童の松井繁齋といふのと、振舞酒にしたたか酔うて、城下外れの中須賀から、小流に沿うて永福寺の門前の土橋の詰にかかると、向ふから是も二人連でやつて来るものがある。暗がり紛れに山田に突当つた。『是は麁相(そそう。粗相)』と云うて行過ぎやうとする。山田は酔うて居るから中々承知しない。『何奴だ、人に突当つて名前も名乗らず、一言の詫で行過ぎやうとは不都合だぞ』と、其の口気で、先方は相手が士格の者と察したらしい。名乗らないから此方は軽格と推想して、尚更エライ見幕で罵る。先方も終に腹に据えかねたか、一ツ二ツ罵りかへす。果は双方白刃を抜いて切合を始めた。山田は麻田勘七の門下で、嘗て江戸に於て、撃剣を千葉周作に学び、土佐の鬼山田とも云はれた位の上手であるから、先方も敵することが出来んで、一人は瞬く間に切伏せられ、他の一人は逸早く闇に姿を隠した。そこで山田は松井をして提灯借りに人家にやつたが、あまり咽が乾いたものだから、川端へ下りて、水を飲んで居ると、後から誰とも知らず不意に切付けたものがある。山田程のものでも、初太刀に深手を負うたので、件の男と立合つたが、終に切斃された。此の男は郷士の池田虎之進といふもので、最初山田の仕留めた男は、この池田の弟中平一郎だ。池田は中平の同行した美少年の宇賀某より事変の次第を聞き、追取刀で駆付け見れば、無残や、弟はやられて仕舞つて、相手は水を飲んで居る様子、隙を窺つて一刀をあびせかけ、竟に本望を達したのだ。この時松井は提灯を借りて戻つて来ると、此奴も敵の片割と、一刀の下に坊主頭を梨割にして仕舞つた。夫から池田は、弟の死体を戸板に乗せて、三、四丁くると、諏訪助左衛門[後、重中、後備歩兵大尉]長屋孫四郎[後、重名同少将]の両人に行遇つた。いづれも上士の者である。忽ち夫を見咎めて、『容易ならぬ其の死体、役人の儉分の済まぬ内に、例へ親族たりとも、妄に引取る法はない。拙者等の目に触れた以上、後日の沙汰も如何である。死体は元の場所に置くがよからう』と、云はれて見ると、池田も理の当然に争ふことは出来ぬ。死体を元の場所に返して帰宅した。翌日になると、非常の大評判になつて、山田程の剣客が、中平と相打して果てる訳はない。何でも其の場の様子と云ひ、死体を窃に運ばうとした体たらくといひ、池田が復讐したに違ひないと云ふ風聞が専らであつた。この風聞からして、家中一同は大分沸騰して来て、廣衛の知己、朋友は素より、余り親しくなかつた人さえも、西孕の家へ詰めかける。皆上士の体面を傷けたといふ所から、このうえは池田の家に踏込んで、引張つて来て、事の始末を糾明した上、打果すがよいと云ふもあり、また一方には、イヤイヤ池田迚(とて)もさる者、闇々打たれに来る訳は御座らぬ。此方から仕掛けて打果すが善からうと唱へるものもあつて、評議まちまちの所へ寅之進及び宇賀某も所詮逃れぬ事と覚悟して、自殺したといふ報知があつたからして、先ずこれは無事落着したが、一時は中々の騒動であつた。

といふものは、山田と池田の刃傷計りで済まない。是が動機となつて、かねて上士と軽格とは軋轢して居つた者だから、上、下士の闘争とならむとしたからだ。現に此の時より五十余年前に郷士の高村退吾といふ者が日頃懇意の某士格と酒上の口論から例の無礼切捨に逢うた所が、其の士格の者の仕打が粗暴であつたといふ風評が立つたので、軽格の面々は大に沸騰して、藩庁へ書を上つていふには、重罪人の命を絶つさへ、夫々御吟味の仕方のあるべきを、ムザムザ斬捨てと相成ては、我等平生御奉公の甲斐もないと云ふので、国中の郷士一同も之に加はり、此の一條を其儘に差置かるるに於ては、御国暇を願ひ、立退くの外は御座らぬと強訴に及んだ。此の騒動は、隣国伊予松山迄も聞えて、由々敷一大事となつた。そこで藩庁は、彼等を説諭して、一先づ其の書付を取下げさせ、退吾を斬つた士格の者は、日頃礼譲を正さぬに依つて、箇様の仕儀にも及ぶのだといふ所で、終に罰を加へられたので、軽格の面々も漸く鎮静するに至つた。さういふ様な成行であり、また今度の下手人寅之進は、小高坂の軽格中屈強の者で、不免俗組の一人である。この不免俗と云ふ訳は毎年南河原の角力に、三盛組の者共、組合の徴号(しるし)を染め抜いたる慢幕を打たせて、立派に桟敷を粧うて見物して居るが、小高坂の軽格共の桟敷は其の隣にあつて、実に見すぼらしいものである。夫でも負けず嫌ひの瘦我慢に、犢鼻褌(ふんどし)へ不免俗といふ文字を筆太に記して旗としたので、此の組を自然不免俗組と称したのださうだ。考へて見れば、是は彼の晋の竹林七賢中の一人、玩籍の故事を襲うたものと見える。――感情の軋轢と人気の強剛な所へ、此度の騒動が起つたのだから、軽格連中の門田為之助、大石弥太郎等数十人、矢張寅之進の處で集合して、向ふから攻撃して来たならば花々しく防戦しやうと構へて居た。すると、其の中に老功の者があつて、池田も既に本望を達した上は、今更命を惜しむには当らぬ。さりとて山田の方へオメオメ池田を渡さるる者でもない。ここはモウ池田が潔く自殺して、武士の意気地を立てるの外はあるまいと云うたので、其の夜弟忠一郎の葬儀を営み、名残の酒宴を開いて、見事切腹して、相果てたのだといふ事じゃ。坂本龍馬も平素は池田兄弟とは絶交して居たが、此の時は直に駆付けて、何かと周旋し、其の切腹するや、自分の刀の白紐の下緒(さげお)を釈(と)いて血潮の中に浸し、勇士の遺物だと保存して居つた。

自分は山田とは深い懇意ではなかつたけれども、山田はもと麻田勘七の弟子で、自分も麻田へは時々試合稽古に出入して、知合であつたものだから、刃傷の翌日見舞に行つた。處が、成程大勢集つて騒いで居た。山田は兄弟共撃剣をよく遣て、弟次郎八の方は随分器用の遣振りであつたが、兄の方は中々シツカリした剣術で、見るから武骨な男であつた。――此の一件の結末は、山田の方も御咎めがあり、池田の父並びに中平の養父をば、平生教訓が宜しくないといふ廉を以て、格禄を召放されて、所謂両成敗となつた。寅之進を咎めた諏訪、長屋の両人は、天晴れの仕方と云ふので、其の為め加増せられた。諏訪は、其の時の事を自分で画巻物に作つて所持して居るが、見ると中々趣味がある」】

【注⑥。精選版 日本国語大辞典によると茶坊主は「武家に仕えて茶事をつかさどったもの。頭を剃(そ)っていたので坊主という。茶道坊主。数寄屋坊主。茶の湯坊主。茶屋坊主。茶職」】

四月

一 この月朔日、毎月恒例の御礼登城。(高行は)病気につき出勤せず。

一 同四日、(高行は)当分(注⑦)文武調役を仰せつけられた。

なお、同じ(文武調役)に宮地幸右衛門。

【注⑦。ここで当分とあるのは、文字通り当分の間、文武調役に任ずるという意味だ。佐佐木は『佐佐木老侯昔日談』で「自分は、当分文武調役といふのを仰付られた。以前文武小目付役を命ぜられたが、此度右之通り命ぜられ、当分と云ふことになつたのは、どういふ訳かといふに、段々と文武館も出来かかつて居る。夫が出来たならば、役替もあらうといふので、かういふことになつたのだ」と述べている。】

一 若山壮吉先生よりの書簡は次の通り。

手紙により申し上げます。やや汗ばむような季節になりました。(貴兄におかれては)いよいよご安泰のことと喜んでおります。ところで、小生は先月二十七日、江戸城に呼び出しがあり、思いもよらぬことに、(将軍への)お目見えを許す旨の命を老中の松平豊前守さまから受けました。(お目見えは)今月朔日に許され、滞りなく済みました。まことにもって冥加の至りとありがたく存じます。このことを(貴兄らに)吹聴いたしたく、このようにお知らせします。以上。

四月十日に記す。 若山壮吉より

佐佐木三四郎さま、奥宮周次郎さま(注⑧)へ

なお別封の手紙はついでの折りに竹村氏の方へお届けくださるよう願います。かつまた、本文の内容をお仲間の皆さんに伝言くださるよう万々お願い申し上げます。以上。

この若山先生は、松平能登守配下の儒者で、美濃国岩村藩の人である。

【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、奥宮慥斎(おくのみや-ぞうさい)は「1811-1877 江戸後期-明治時代の儒者。文化8年7月4日生まれ。文政12年江戸にでて佐藤一斎にまなぶ。郷里の土佐(高知県)で藩校致道館教授となるが,尊攘(そんじょう)派を援助して処罰される。維新後,高知県大属をへて教部省につとめた。明治10年5月30日死去。67歳。名は正由。字(あざな)は子道。通称は忠次郎,周次郎。別号に晦堂,敬簡斎。著作に「周易私講」「聖学問要」など」】

一 同二十一日、大阪警衛にあたる十一明組の侍大将に中老・山内右近が仰せつけられ、出発す。

大阪警衛について土岐氏の筆記に曰く。

摂海(大阪湾のこと)の警衛に関する箇条書き

大和川立花(柳川藩)
大和川より尻無川まで山内家(土佐藩)
尻無川よりアシ川まで因(州鳥取藩)池田
それより北備(前岡山藩)池田
兵庫(長州藩)毛利

なお、現地に陣屋を設けたのは毛利家と山内家という。両陣屋では双方の兵士による槍剣の試合が行われ、因州や立花の兵士もまた折々来営した。来なかったのは備州のみという。

大阪城代は松平伯耆守(宮津藩主)

一 右の警衛の人数覚え

文久元年四月三日に出立し、文久二年七月に交代。

侍大将中老山内右近
御馬廻組頭山田八右衛門
佐平の惣領間忠蔵
小森兔之助
宮川助五郎
中川作右衛門
井上武太衛門
茂之進の惣領増井銘吉
仙石庄助
義左衛門の惣領大田荘馬
横田祐造
坂本右膳
久萬清之丞
彦太夫の惣領長屋惣藏
和助の惣領馬淵源次郎
修馬の惣領太田仲十郎
足達武之功
東野七郎左衛門
小彌太の惣領濱田弥藤太
吉平の惣領武山 竈
寺田典膳
石河源十郎
晴次の惣領稲毛安兵衛
清水小助
西野彦兵衛
亀之丞の惣領谷村〇吉

ただし太田仲十郎は西洋式の銃隊に入るのを快しとせず、(入隊を)拒んだので、追い下し(地方へ追い払うこと)の罰を仰せつけられ、物部川(高知平野東部を流れる川)以東へ追放された。後日、仲十郎はまた家嫡(本家の家督を継ぐべき人)に仰せつけられ、もとの惣領に戻った。

文校司業小目付役(※藩校教授の指導的立場か)大谷茂次郎
文校助教ヲ以詰越多仲養育人(?)松下與膳
槍術指南役・甚左衛門の惣領岩崎甚八郎
剣術指南役・源六郎の次男毛利夾輔
文校教授吉田文次
当分小目付役福留健次
久米之進の惣領北村長兵衛
孫八の惣領伴 脩吉
恭兵衛の弟前川四郎九郎
又八の二男喜多村虎次郎
右膳の弟坂本文治
楠馬の養育人美濃部権六
筧 兔毛
源平の弟志賀秦八
又七の弟井上三平
美濃部捨吉
宮地左仲
彦之進の惣領小坂喜佐次
兵馬を養育する祖父勝賀瀬半介
吉本雋介
深井武士
参平の惣領中島要吉
琢左衛門の四男原四郎
馬之進の弟森辰五郎
源七の惣領藤山喜蔵
専吾の養育人弘田貢次郎
守弥の叔父奥宮猪惣次
辰吉の養育人・陣営に於いて亡命橋本繁馬

この者は、(土佐藩の蔵屋敷がある)長堀に詰めていたのを、いったん住吉の陣屋に繰り込まれ、その後、交代を命じられた人である。(※橋本に関して亡命という言葉が使われているが、ひょっとしたらそれは橋本が前線の陣屋からもとの蔵屋敷に戻ったことを揶揄したのではなかろうか)

白札

松井孫平太宮地七郎次
藤岡善吾 傍士茂左衛門
濱口安平中島與一郎
佐井楠左衛門 来正楠平
濱口源馬岡田小辨太
多田三五郎山脇亀五郎
鈴木七平中澤登治
北川平馬片山甚平
島地治内檜垣清〇
望月清平徳弘潤吉
年行司吉村堅助

郷士

有澤和平太島村繁之丞
徳弘武之進間崎琢一郎
島村善内貞岡新六
小松勝之進西山理之助
苅谷喜久馬安岡茂馬
桑原弘之助桑原介馬
追い下しを命じられた清岡道之進
恒石頼平
追い下しを命じられた安岡覚之助(注⑨)
服部権七
瀬々熊之進安岡壽吉
今村和助横山堅介
岡権平間崎次郎
河野権六郎西尾茂七
奥宮貞之助小松壽太郎
松崎彌之助

右のほか歩兵合わせて三百人ばかり。

【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、安岡覚之助(やすおか-かくのすけ)は「1835-1868 幕末の武士。天保(てんぽう)6年生まれ。土佐高知藩の郷士。砲術をよくした。長崎遊学後,武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党に加盟し,勤王党弾圧で投獄された。維新の大赦でゆるされ,戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍にくわわる。慶応4年8月25日会津(あいづ)若松攻撃の際に戦死。34歳。名は正義。号は皆山堂。」。

また同人名大辞典によると、覚之助の弟の嘉助(やすおか-かすけ)は「1836-1864 幕末の武士。天保(てんぽう)7年生まれ。安岡覚之助の弟。土佐高知藩郷士。武市瑞山(たけち-ずいざん)らの土佐勤王党に属し,那須信吾らと藩の参政吉田東洋をきって長州に脱走した。文久3年天誅(てんちゅう)組の挙兵にくわわって捕らえられ,4年2月16日処刑された。29歳。名は正定。」

さらにデジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、安岡道太郎(やすおか-みちたろう)は「1847-1886 明治時代の民権運動家。弘化(こうか)4年3月8日生まれ。安岡覚之助,嘉助の弟。はじめ道之助と称した。摂津住吉(大阪府)の高知藩陣屋につとめ,維新後は立志社に参加。明治11年杉田定一(ていいち)とともに九州地方をめぐり,愛国社の再興をうったえた。民権歌「よしや節」の作者。高知新聞の記者となった。明治19年6月26日死去。40歳。土佐(高知県)出身。」

作家の安岡章太郎は、この安岡三兄弟の末裔にあたり、三兄弟の足跡を描いた名作『流離譚』を書いている】

[参考]

一 四月、将軍の親書により、大阪・兵庫・新潟の開港を五年延期。開港の時期は来る卯年(1867年=慶応3年)とした。このことはついに将軍辞職の一因となった。(注⑩)

【注⑩。日本大百科全書(ニッポニカ)による「両都両港開市開港問題」の解説。「幕末期の江戸・大坂の開市と兵庫・新潟の開港期日延長についての外交問題。1858年(安政5)の安政(あんせい)五か国条約によって江戸は1862年1月(文久元年12月)、大坂は63年1月(文久2年11月)に開市し、兵庫は63年1月(文久2年11月)、新潟は60年1月(安政6年12月)に開港することが決められた。しかし、開港後の物価の高騰と、尊王攘夷(じょうい)運動の激発、朝廷の兵庫開港と大坂開市に対する強い反発のために、朝廷懐柔・公武合体により政局切り抜けを図る幕府は、イギリス公使オールコックらに開市開港の延期を提議した。オールコックも攘夷事件の頻発に対処する必要からこれを了承し、62年幕府は、正使竹内保徳(たけのうちやすのり)らの遣欧使節を派遣した。同年ロンドン覚書、パリ覚書などが結ばれ、通商の促進などを条件として開市開港の五か年延期が決まった。63年幕府は尊王攘夷運動に対処するべく、横浜鎖港を提議し、また貿易制限を図ったために列強諸国の反発を招き、開市開港問題が再燃した。65年(慶応1)列強艦隊は兵庫沖に集結し、条約勅許・税率改正・兵庫開港を求め、朝廷も条約を勅許し、また税率が引き下げられた。67年6月には、1868年1月1日(慶応3年12月7日)の江戸・大坂の開市と兵庫開港が公布され、大政奉還後、江戸開市・新潟開港はさらに3月に延期された。[井上勝生]」】

五月

一 この月二日、(高知城の)西大門前の平井・大瀬戸・間・日比・麻田・小瀬戸・原・後藤・岡部・市村の十軒の居屋敷(主人が常に住んでいる屋敷)と、川原町の十五軒[ただし川原町は士格ならびにそれ以下の居屋敷である]をそれぞれ取り上げ、文武館建築の御用地とされた。なお、(居屋敷を取り上げられた)一同には代替屋敷・引越料等を交付された。そのうち、手許不如意のためそのまま引き移ることができない古い家屋の人には割り合い高額な交付金が下された。今度ばかりは、富家よりも貧家のほうが却ってありがたいことになった。

この件に関して諸家の筆記に曰く。

先日、文武館を建築なさるについて、(高知城の)西大門へ通じる一角と、土手沿いの河原町北側に至るまでの諸士の居屋敷を立ち退くよう、それぞれに引越料を交付された。また(太守さまから)拝領した屋敷の面々へは代替地をくださり、十月を限りに引き払うことになった。

(続。胆嚢の摘出手術のため数日間入院していたので、更新が遅れました。ご容赦を)