わき道をゆく第205回 現代語訳・保古飛呂比 その㉙

▼バックナンバー 一覧 2023 年 2 月 17 日 魚住 昭

一 (文久元年)五月五日、毎月恒例の御礼登城を病気につき欠勤。

一 同十六日、兵部さま(山内豊廉。第十四代藩主・豊惇の子)が亡くなられた。

後日お含みの筋(注①)がおありのようで、民部さま(容堂の実弟の豊誉。土佐藩家老)が大隅さま(山内豊道。東邸山内家の初代当主)の養子に入られた。

【注①。亡くなった豊廉はもともと東邸山内家を継ぐ予定だったようだ。ところが早世したため、東邸には跡継ぎがいなくなった。そこで急遽、豊誉が東邸の養子に入ったらしい。当主の豊道は翌年八月に死去している。後日お含みの筋というのは、そういう事情一切を指していると思われる】

一 同二十八日、同夜四ツ半(午後十一時)ごろ、英国人の宿泊所となっている高輪東禅寺へ浪人組が討ち入ったとのこと。浪人は水戸藩を脱走した連中だという。

この知らせが届いたとき愉快に感じた。このように事件がしばしば起これば、必ず戦争になるにちがいない。幕府の因循によって、ついに如何ともしがたくなるだろうと、愉快を覚えた。

右についての幕府の触れ書きは左の通り。

大目付へ

五月二十八日夜、高輪東禅寺の外国人宿所へ乱入し、不届きの仕業に及び、逃走した者どものうち、

有賀半彌

岡見留次郎

前木新八郎

森半蔵

矢澤金之助

渡邊剛蔵

黒澤五郎

右の者ども、常州(常陸国)出身の浪人と思われる。現場から逃げ去ったので、怪しい風体の者を見受けたら、その場に留め置き、皇室・幕府の直轄地の場合は代官に、私領の場合は領主・地頭にすぐ申し出るよう。そこから江戸の月番の町奉行へ申し出られたい。もし(怪しい風体の者を)見聞きしたら、それも申し出るよう。なお、家来や又者(家来の家来)たちの行状をとくと入念に調べ、(怪しい者を)隠している場合はもちろん、取締をなおざりにしていることがわかったら違法行為となる。

右の通り、周知されたい。

一 五月、幕府が小栗豊後守(忠順。外国奉行)・溝口八十五(目付)を対馬に派遣し、ロシア人を説諭して退去させようとする。ついでまた野々山丹後守(兼寛。外国奉行)等を対馬に派遣する。

六月

一 この月朔日、病気につき御礼登城を欠勤。

一 同日、妹の於寅(おとら)が関原十郎の妻として嫁いだ。

一 同五日、妹が離別された。

一 同十四日、北奉公人町の山形屋喜平宅を旅宿に借り受けた。

喜平宅は、日比剛蔵の別邸中の部屋の一つである。日比は平井善之丞の次男で、日比家に養子として入った。

毎日出勤するのに、本宅から一里余りも歩かねばならず不便なため、日比の別邸の中から喜平が借りていた部屋を借用することにした。この部屋はわずかに四畳半ばかりの一間しかなく、いたって手狭だ。そこへ妻の貞、長女の千勢、次女の馬と同居することになった。貧しいので召使いは一人もなし。弁当は麦飯に香物・味噌のみである。

[参考]

一 六月二十二日、幕府より左の命令があった。

百姓・町人どもが大船を所有することが許されたので、大船の製造も自分の思い通りにして構わない。かつまた、外国の商船等を買い受けようと望む者は最寄りの湊(みなと)奉行へ申し出られたい。右の船を所有した者は国内で手広に運送業を営むことを許可される。もっとも航海に不慣れで差し支えがある者は、希望すれば航海士ならびに水夫等を貸与される。なお航海の手続き等詳しいことは、追って沙汰する。また右の船を製造もしくは買い受けた者は、その際の形船絵図面(船の構造を描いた図面?)を、当人または代官・領主・地頭より、幕府の軍艦操練所へ申し出るよう。

七月

[参考]

一 この月二日、幕府の命令は左の通り。

松平阿波守(徳島藩主・蜂須賀斉裕)へ

神奈川より長崎・箱館の海路は暗礁等が多く、これまでたびたび破船事故が起きて難儀している。そのため今回、英国より測量の申し出があった。人命にもかかわることなので測量を許すことにした。そなたの御国においても、やがて大船ができ、航海することになるので、精密な測量が行き届かないと差し支えが出てくるであろうから、右の英国軍艦に外国奉行・軍艦奉行・御目付の配下の者どもを乗り組ませ、一同で測量させ、やがて図面ができあがったら、諸侯それぞれに渡すことになるだろう。右については、場所によっては上陸もし、測量はもちろん、食物等の積み入れもする予定なので、その節は乗り組みの役人より(当該の藩に)相談することになる。すべて不都合なことがないよう取り計らわれたい。

ただし(以上の内容を)

松平大膳大夫

松平肥前守

藤堂和泉守

松平美濃守

松平相模守

松平越前守

松平左京大夫

松平内蔵頭

松平兵部大輔

松平出羽守

松平修理大夫

有馬中務大夫

細川越中守

松平安芸守

立花飛騨守

松平右近少監

松平左京大夫

伊達遠江守

松平土佐守

松平飛騨守

亀井隠岐守

へ通達すること。

一 七月七日、御礼登城を病気につき欠勤。

一 同二十七日、改制方(萬延元年に吉田東洋が新設した制度改正のための役場か)で、同役の宮地幸右衛門と、このたび建築される文武館の指図検分をした。

大目付の大崎健蔵がこれに立ち合った。(注②)

【注②。日記だけではよく分からないので、『佐佐木老候昔日談』の一節を引用しておく。「慥か七月であつたと思ふ。今度建築になる文武館を同役の宮地と両人で以て差図検方をした。其の時、吉田の門下で、大目付たる大崎健蔵も立会つて、段々絵図を拡げて、かういふ文武館が出来るに依つて、何うするか、一通り御目にかける。就いては、御意見の処を承りたいとの事で、始めて地図を見たのだが、格別是ぞといふ考えもなかつたので、まづ其の通りと答へて置いた。元来文武館は、吉田元吉の発企計画であるが、前々からあつた教授館とは其の組織が違ふのである。教授館は、重に文学を奨励せらるる思召で建てられたものであるから、この方では学問が主となつて居る。月々何度と日を定めて、儒者の講義でもあると、藩中の子弟が出席して、之を聴いた者である。また前々も話した通り、此処には蔵本が沢山あつて拝借が出来るから、家中の者は、そこで読むとか、拝借するとかしたのだ。然るに文部館は、藩中の文部を兼修する為めに建築するのだから、文学修習の傍ら、槍術もあらうし、居合、組打、馬術、兵学なども科目中に這入て居る。ツマリ吉田が、水戸の学制に模倣して、其の粋を抜いたとも云ふべきものである。其の構造や学制などに就いては、外に書いたものも沢山あり、旁煩はしくなるから、略して置く」】

八月

一 この月朔日、御礼登城。

[参考]

一 同十四日、藩にて左の通り。

覚え

一 甲浦(徳島県境近くの海岸)へ英国軍艦が見えたら、庄屋、老(としより=庄屋の補佐役)五、六人ばかり、八挺漁船(八丁の櫓がついた漁船)二艘で沖合いに出迎え、測量のため来航したかどうかを問いただしたあと、港口の深浅や暗礁のありかを教え、すぐに水先案内をして、入港の取り計らいをすべきこと。

甲浦で応接の際は、分一役(港で漁業税や商品税を取り立てる、藩派遣の役人)ならびに組合地下役(庄屋、老、組頭などを指す)が集まるべし。それより野根(甲浦の隣の港)まで測量船に従い、海陸の双方から参上すべし。もっとも天候の悪いときは一同陸から参られたい。

一 測量船が甲浦(の沖合いから)入港したら、郡奉行(農民の管理や徴税・訴訟などを扱った地方行政官)が配下の者を召し連れ、待ち受けるべし。そこから使者を小早舟(軍用船の一種)で派遣し、挨拶に参上して、公儀の役人の面々へ応接するよう心得ること。

一 食物の件は「日本風例(ママ)之通」(※おそらく日本のしきたり通り、というような意味だろうが、正確には分からないので原文引用)、前もって予想される人数分を甲浦に蓄えて置いて、先方の望み通りに渡すこと。東灘の浦々(土佐の海岸線は浦戸湾を中心にして東を東灘、西を西灘といった)は不便な土地柄なので、甲浦より田野浦(土佐西部の港)までの測量にかかる期間を考えて、受け取るよう挨拶すべきこと。

一 野根の港にも組頭等が集まるよう。佐喜浜・三津・椎名以西でも同じように心得ること。

一 郡奉行は甲浦で応接後、田野浦に帰り、またまた田野浦で応接すべし。他の浦々は郡奉行が出るに及ばない。庄屋、老の応接は甲浦の通り。もっとも、港に詰める要員は、お侍等は郡奉行より指図し、往来の船は八挺立て漁船にすべきこと。

一 甲浦で米穀を渡し、それから田野浦・戸須崎・清水でも渡すこと。もちろん挨拶のやり方は甲浦と同じと心得るべきこと。

一 測量船が浦戸口に来たとき、郡奉行をはじめ分一役・庄屋が出迎えて応接し、往来の船どもは甲浦と同じにすること。

一 (外国人が)内地に立ち入る件については、いずれのところももともと辺境で、人々は見識が狭くて頑固の気風であり、どんな無分別なことしでかしかねないと役人どもは深く心配している。以前からの公儀の御沙汰に従って、海岸測量の件は何とか受け入れられているが、内地に立ち入る件については御沙汰もなく、当方もまったく聴いていないので、なにぶん断らざるをえないと、なるべく申し述べるようにすべきこと。

一 浦戸口だけは裏海(陸地に入り込んだ海)が続いているので、(浦戸湾入口付近の)桟島より北は内地と同じ扱いだと心得るべきこと。

一 高岡郡奉行は須崎、幡多郡奉行は、一人は下田へ、もう一人は清水へ出迎え応接すること。甲浦の時と同様、往来の船は小早舟を使えるように前もって廻しておくこと。もし測量船が西から来たら、幡多郡奉行は宿毛に出張し、応接のやり方等は甲浦と同じと心得、再び清水でも挨拶すべきこと。

一 東西の郡奉行は下役一人ずつ、廻使番(※正確な意味は不明だが、伝令使の役割を担う使い番の一種かと思われる)を各二人召し連れ、ふだんの出張通りに参上すること。

一 東西の郡奉行は前もって浦々を巡見し、浦に詰めているお侍をはじめ庄屋、老、組頭などの地下役どもに、このたび測量が行われることを伝えること。測量船には公儀の役人が乗り込み、以前からその筋の命令が出ているように、なるべく丁寧を尽くし、心得違いのないようにと下々の者まで申し聞かせ、必ず直に言い渡すように。

右の各点を役場から申し渡すよう、奉行たちに命じられたい。以上。

八月十四日

覚え

一 酒・魚類・野菜等は先方の好みに応じてどこでも渡すこと。もし休息の際に食事をとりたいと言われたら、一汁一菜を与えるべきこと。

一 英船が大砲を打っても恐れないこと。

なお、英船は祝砲と称して、船の出入りの際に打つと聞いている。

一 見物人が二、三人以上連れだって来ることは禁止する。すべて目立たぬように心得るべきこと。

(徳永氏が言う。右の船は紀州海岸にまで来たところ本国より鄂夷(鄂は、後で出てくる記述と照らし合わせると、ロシアのことらしい)を伐つべきことが起こったので、早く帰帆せよと言ってきた。そのため急ぎ帰ってしまったという)

[参考]

一 八月十六日、英国軍艦測量について、再び藩にて左の通り。

口上覚え

このたび英国軍艦に公儀役人が乗り込んでの海岸測量が行われ、すでに上陸したところもあるとのお達しがあった。しかしながら、西洋軍艦が渡来することは古来より例がなく、ことに異国の人情は(日本とは)懸け離れており、それを下賤の者どもが見たら、怪しからぬことを企てる者が出ないとも限らぬので、家来の末端にいたるまで心得違いがないよう、まず組頭たちに示して聞かせ、次にその趣旨に沿って、組頭より配下の面々に示されたい。以上。

酉八月十六日

一 八月、武市(瑞山)(注③)以下尊皇攘夷の志士盟約(注④)を結ぶ。その書は左の通り。

盟白(※以下は歴史的名文の一種と思うので日記原文を引用する)

堂々たる神州、夷狄の辱めを受く。古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんとす。帝は深く嘆き給う。然れども、久しく治まれる御代の因循委惰といふ俗に習ひて、独(ひとりも)も此(この)心を振ひ、挙て皇国の禍を攘(はら)ふ人なし。畏(かしこ)くも我が老公(容堂公)、夙(つと)に此事(このこと)を憂ひ玉ひて、有志の人々(諸侯の有志たち)に言い争い玉へども、却(かえっ)て其為(そのため)に罪を得玉ひぬ。斯(か)く有難き御心におはしますを、など(なぜ)此罪には落入(おちいり)玉ひぬる。君辱めを受くる時は臣死すと、況(いわん)や皇国の今にも衽(えり)を左にせん(衣服を左前に着ること。昔、中国では夷狄(いてき)の風俗とした=デジタル大辞泉)を、他にや見るべき。彼の大和魂を奮ひ起し、異姓兄弟の結(ちぎり)をなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補(助け補うこと)せんとす。錦旗若し一たび揚らば、団結して水火を踏むと、爰(ここ)に神明に誓ひ、上は帝の大御心を安め奉り、我老公の御心を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす。去れば此中に、私もて何にかくに争つるものあらば、神の怒り罪し玉ふをまたで、人々寄(より)つどひて、腹かき切らせんと、己々が名を書き記しをさめ置きぬ。

文久元年辛酉秋八月

武市半平太小楯

以下連署。

【注③。「朝日日本歴史人物事典によると、武市瑞山は「没年:慶応1.閏5.11(1865.7.3)生年:文政12.9.27(1829.10.24)幕末の土佐(高知)藩の剣客,尊王家。通称半平太,諱は小楯。瑞山は号。土佐国長岡郡吹井(高知市)の郷士白札格武市正恒の長男。剣術修行に励み,国学,書画を嗜んだ。妻富子。嘉永3(1850)年に城下新町に挙家移住し,安政1(1854)年叔父島村寿之助と槍剣道場を開業,藩内東部に剣道出張指南に赴く。3年江戸に出て桃井春蔵に入門,塾頭を務める。帰郷後,道場の経営に尽力。安政の大獄(1859),桜田門外の変(1860)と時勢が動き始めると,藩から剣術修行の許可を得て門弟2名を従え北九州地方を巡遊,情勢を探索。文久1(1861)年文武修行のため再び江戸に上った。同郷の大石弥太郎から勤王諸藩の有志を紹介されて交流,土佐藩勤王派の結集を決意した。江戸で大石,島村衛吉,池内蔵太,河野敏鎌らと結盟,同年帰国,200名余の同志を糾合して土佐勤王党を結成した。時に山内容堂(豊信)の信任する参政吉田東洋が公武合体論の立場で藩政を指導しており,瑞山は挙藩勤王論を吉田に進言したが容れられず,勤皇諸藩の京都結集に遅れることを恐れた末,吉田の藩政改革に不満を持つ門閥派と結託し,文久2年4月,吉田東洋を暗殺。藩主山内豊範を擁して同志らと入京。攘夷督促の副勅使姉小路公知の雑掌となり名を柳川左門と称して江戸下向に随行した。このころが瑞山と勤王党の得意絶頂の時期であった。3年4月,藩命により帰国,このころより腹臣吉田東洋暗殺を遺恨する容堂の勤王党弾圧が始まり,京都の8月政変を契機に弾圧は強化され,9月瑞山も投獄され,慶応1(1865)年5月,切腹を命じられた。天皇と聞いただけでも涙したという真の勤皇主義者だった。<参考文献>日本史籍協会『武市瑞山関係文書』全2巻,瑞山会編『維新土佐勤王史』(福地惇)」】

【注④。土佐勤王党結成の経緯については高行が『佐佐木老候昔日談』で詳しく語っているので、それを引用しておく。「九月二十七日[文久元年]は、藤並宮の祭礼であつたからして、本町の親友たる山川左一右衛門の宅へ参つて居つた。処が、平井善之進から子息日比剛蔵を使として、一昨二十五日、武市半平太が河野益彌[のち敏鎌、子爵]、島村衛吉、柳井謙次等と共に、江戸から帰国した。何でも一通りならぬ大事件を齎して来た模様であると云ふ事を内通してきた。――一体武市がどうして何の為に帰国したかといふに、武市は昨年七月、岡田以蔵と九州を漫遊し、一旦帰国して、本年四月、更に小笠原忠五郎と東海道を歴遊し、六月を以て江戸に這入つた。其時分、麻布長州邸の空部屋で諸藩の有志の会合がある。時事を論じて夜に入ることもあり、人目を忍んで蕎麦などを取つて食事に換へることも珍しくない。其の会合に、砲術修行の為め鍛冶橋藩邸へ参つて居た大石弥太郎[のち円]の出席を求めて来たが、大石は、前から水戸、長州の有志と往来はして居たものの、さういふ秘密の場所へ時々出席するのは、留守居の手前もあるので、『自分よりは一層慷慨家で、朝廷の事を申せば涙を流すので、平生『天皇好』と綽名のある男がある故、夫を紹介しやう』と云うて、武市を勧めて列席せしめ、自分は其の席へ行かなかつた。夫から武市は、長藩の久坂玄瑞[通武]桂小五郎[のち、木戸孝允]高杉晋作[東行]等と知り合ひ、また久坂の紹介で、薩摩の樺山三円と心易くなり、三円に依つて、岩下佐次右衛門[のち方平、子爵]を知り、夫から夫へと段々交際が広くなつた。之が即ち武市が、諸藩の志士と結託して、尊攘の説を唱ふる権與(発端のこと)である様だ。

そこで武市は、何でも目下の時勢に適応して匡救(きょうきゅう。過ちをただして危険から救うこと)の道を尽すのは至誠の士が団結して、藩論を鼓舞して天下の人心を鼓舞するより外はないいふので、是歳[文久元年]八月、自ら盟主となつて、誓書を作り、血判連盟した。武市は至誠方直の剣客で門下も相応にあり、其の声名は下士中に嶄然(ざんぜん。ひときわ目立っていること)頭角を顕して居つたものだから、平生其の志操を慕ふものは、窃かに来つて、盟約に血誓したさうだ。で、九月二日、武市は、大石と共に久坂を麻布の長州邸に訪うた。折節樺山が来合せて居る。皆一同連立つて長州の周布政之助を訪ねると、桂小五郎もやつて来る。依つて此の四、五人で、時勢談で夜を更かし、迚も区々一藩の力を以てはいかぬから、各藩連衡して尽瘁(じんすい。自分が倒れてしまうほど力を尽くすこと)せねばならぬといふ話なども出て、払暁に至つて散じたが、此辺から更に結託を深くしたのであらう。当時天下の形勢は如何といふに、幕府では、皇妹親子内親王(和宮)の関東に御降嫁を奏請して、公武一致の口実を藉り、大に沸騰して居る人心を鎮静せんとして居る。久坂、武市等有志の面々之を聞いて、或一人は、『全体幕府の奏請は悉く虚偽で、其の実は朝廷を籠絡し、恐多くも内親王をば人質御同様にするのである。聞けば、此の頃塙次郎をして廃帝の故事を調べさせて居る様子、実に大逆無道の甚だしい者である。我々は此際京師に於て義兵を挙げて、内親王の輿を途に奪ひ奉り、また江戸に止まるものは一挙にして閣老の首を馘するが宜からう』と唱へ、此の説に賛成するものが多かつたが武市は之を止めて、『幕府の心術憎むべしとした所が、朝廷に於て既に納許せられた以上は、到底烏合の我々が粗暴なことをして見ても、志を遂げるのは六かしい。且乱賊の汚名を免れない。夫よりは、各自藩に帰つて、尊攘の実効を立てしむるが何よりの得策であると思ふが、如何で御座るか。』と、久坂を始め、其の他の面々も其の卓見に賛し、議論もこれに定まつた。で、明春を以て事を共にしやうと約して、武市は、河野等と、九月四日、江戸を発足して、同二十五日に帰国した。帰国すると其の足で、小野村に平井善之丞を訪ね、時勢談から江戸の模様等を語り、ここはどうしても一奮発致さなければならぬといふ事を警告した。平井も真面目一方の人だから、其の精神の在る所を察し、かねて機脈を通じてある山川の処へ、日比を寄越したのあつた。それ故、兎も角武市を呼んで其の説を聞かうじゃないかといふので、間もなく山川の宅で同志と会合した。列席者は、武市は素より、山川、自分、谷守部[のち干城、子爵]、林亀吉、其の他の諸士である。山川の手記にも『文久元年酉九月二十七日、武市半平太国に帰り、来訪、時勢大同小異、就中帝宸意(天子の思し召し)のある処を恐察し奉り、且豊信老公の退隠を解奉らんと、此事最も心頭に関る所、依て平井、小南、本山、佐々木、谷、林諸士と計画する所あり。』とある、談話の趣意は全く其の通りで、種々慷慨談もあつたが、何にしても武市は誠実一図の人であるから、浪士風の詭激なことは云はぬ。自分等も大体に於ては、武市と同感であるが、我々は藩公との関係が武市とは違ふぁら、悉く賛成することは出来ぬ。尤も武市の論は、至極温和な、正々堂々たるものであるが、その輩下の者は、重に軽格の壮士が多いので、随分危険である。そこで、自分等は、真鞆(まとも)にやる訳にはいかぬが、平井、山川等と相談して、陰密の間に援助を与え、その正理の点は伸ばしてやらうと定めた。武市といふ男は極く渋い男で、痩せては居らぬが脊の高い方で、顔が細長く、眼光人を射るといふ様な、所謂丈夫らしい人物であつた。一向笑ふことをしない。親しく話して見るとさうでもないが、俗人からはいかにも憎体(にくてい。憎々しいありさま)な人あつた。アノ長い顋(あご)で、『是が分らねば、政庁へ出て屠腹して、我赤心を明す積りだ。既に死を決して居る。命にかけても是程の皇国の大事を放任して置く訳にはいかぬ』と云うて居つたが、後に其の通り切腹して相果てた。至誠鬼神を泣かしむるといふのは、まづかういふ人であらうと思つた。自分は武市とは素から知つて居る。麻田の門下であつたので、――武市は学問も和漢をかね、剣術は中々上手であつた。かの馬場辰猪の親の頼八なども他流試合に賛成して美濃部の道場へも来た。自分も麻田へ行つて、互に試合をしたので、其の頃から武市と知合になつて居つたのだ」】

九月

一 この月九日、御礼登城。

[参考]

一 大石弥太郎(注⑤)が、寄宿先の勝麟太郎(注➅)方から徳永千規(注⑦)に贈った書状に言う。

先月二度、お手紙をいただきました云々。対馬を占拠した鄂夷(ロシア船を指す)を追い払うため英夷(英国船を指す)が駆け付けたところ、この島はかねて国王より貰い受けたものだと申し立てたため、(英国船は)すごすごと江戸に帰ったそうです。幕府には英国・佛国を頼んで魯人を追い払うことを決定したとのよし。これは私が師匠の勝麟太郎より聞いたことです。すでに四、五月のことだそうです。花輪と申す和学者(注⑧)が内命を受け、廃帝の前例を調べたらしいと承りました。たぶん調べたというのは間違いないと思います。幕府をはじめ諸侯は英魯を戦わせ、それを傍観するつもりと見られます。自分の用事を人に頼み、知らぬ顔をして、後の患いの大きさを知らないと思うと、夜も寝られず、書物も読めません。これらの事にて時勢の大抵をお察しください。ああ悲しいかな。再拝頓首。

九月九日 弥太郎拝

畏兄榻下(※榻下は「書簡の脇付(わきづけ)の一つ。宛名の脇に書いて、敬意を表わすことば。僧などにあてる手紙に用いる」=精選版日本国語大辞典)

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大石円(おおいし-まどか。通称弥太郎)は「1830*-1916 幕末の武士。文政12年12月17日生まれ。土佐高知藩の郷士。文久元年洋学研究のため江戸で勝海舟の門にはいる。同年武市瑞山(たけち-ずいざん)らと土佐勤王党を結成し,盟文を起草。戊辰(ぼしん)戦争では参謀,小目付として従軍した。大正5年10月30日死去。88歳。名ははじめ元敬。通称は弥太郎」】

【注➅。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、勝海舟(かつ-かいしゅう。通称麟太郎)は「1823-1899 幕末-明治時代の武士,政治家。文政6年1月30日生まれ。勝惟寅(これとら)の長男。幕臣。嘉永(かえい)3年江戸に蘭学塾をひらく。長崎の海軍伝習所で航海術を習得。安政7年遣米使節の随行艦咸臨(かんりん)丸の艦長として太平洋を横断。帰国後,軍艦奉行にすすみ,神戸海軍操練所をひらき坂本竜馬らを育成した。慶応4年陸軍総裁となり,西郷隆盛と会見し,江戸無血開城を実現。明治6年海軍卿兼参議となるが8年免官。下野ののちは徳川家の後見と旧幕臣の生活救済につとめるとともに,旧幕府史料を編修し「開国起原」「吹塵録」などをあらわした。21年枢密顧問官。伯爵。明治32年1月19日死去。77歳。江戸出身。名は義邦,安芳(やすよし)。通称は麟太郎】

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、徳永千規(とくなが-ちのり)は「1804-1870 江戸時代後期の国学者。文化元年生まれ。土佐(高知県)の人。岡本寧甫(ねいほ),田内菜園(たのうち-さいえん)に儒学を,鹿持雅澄(かもち-まさずみ),北川善淵(よしふか)に国学をまなぶ。藩校致道館教授をつとめた。門人に武市瑞山(たけち-ずいざん)らがいる。明治3年5月13日死去。67歳。通称は達助。著作に「天満社宮居考」など」】

【注⑧。「花輪と申す和学者」は塙忠宝のこと。朝日日本歴史人物事典によると、塙忠宝は「没年:文久2.12.22(1863.2.10)生年:文化4.12.8(1808.1.5)江戸後期の和学者。塙保己一の4男として江戸表六番町に生まれた。通称次郎,名は瑶,温故堂と号す。忠宝は大学頭林述斎 の命名。保己一の長男,次男は夭折し,3男は養子となったので,文政4(1821)年保己一の死の翌5年9月,16歳の若さで跡を嗣いだ。以後41年にわたって和学講談所を経営,『史料』『武家名目抄』『続群書類従』の編纂に努めた。晩年,老中安藤信正の委嘱により幕府が寛永以前に外国人を遇した式例を調査したが,これが廃帝の前例を調査したと誤って伝えられ,勤王家の怒りを買って,文久2(1863)年12月21日,伊藤博文,山尾庸三に襲われ,翌日死亡した。<参考文献>斎藤政雄「塙次郎(忠宝)小伝」(『温故叢誌』27号)(飯倉洋一)」】

一 九月末、同志と山川左一右衛門方にて集会をもつ。

九月二十七日は藤並宮の御祭礼につき山川左一右衛門方に行ったところ、武市半平太・河野万寿彌・島村衛吉・柳井鍵次等が江戸表より一昨日の二十五日に帰国し、大事件の案件を持参したよし。平井善之丞(注⑨)に詳細を相談したようだ。平井は(息子の)日比剛蔵を使いに出して、(諸士にひそかに)連絡し、集会をもった。同席したのは谷守部(注⑩)・林亀吉・林勝兵衛・小謙吉・服部与三郎等である。

一 右について無声洞日録(山川の手記)に曰く。

武市半平太が国許に帰って来て、我が家を訪ねて来た。(武市が言うには)時勢上、(我々と貴兄らの立場は)大同小異(で、細かな違いはあっても大体において同じだ)。その中でもとりわけ帝のお考えを拝察し、今まさに豊信老公の隠居処分を取り消そうとしている(のは同じだ)。これは最も留意すべきことである。よって平井、小南、本山、佐々木、谷、林の諸士と、あることを計画した。(注⑪)

【注⑨デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、平井善之丞(ひらい-ぜんのじょう)は「1803-1865 江戸時代後期の武士。享和3年生まれ。土佐高知藩士。13代藩主山内豊煕(とよてる)のもとで大目付となり藩政刷新にのりだしたが,保守派の反対で失脚した。尊王をとなえ,15代藩主山内豊信(とよしげ)の参政吉田東洋と対立。文久2年(1862)東洋の暗殺後,大監察となったが,豊信の勤王党弾圧により免職。慶応元年5月11日死去。63歳。名は政実】

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、谷干城(守部)は「没年:明治44.5.13(1911)生年:天保8.2.12(1837.3.18)明治期の陸軍軍人,政治家。土佐(高知)藩士谷万七の子。家系は土佐の著名な神道家で国粋派。安政6(1859)年江戸で2年間安井息軒の三計塾に学ぶ。帰郷して文武館の史学助教。桜田門外の変(1860)に触発され,また武市瑞山に啓発を受け尊王攘夷運動に参加。慶応1(1865)年藩命で長崎,上海視察,翌年西郷隆盛らと会談し薩土討幕密盟に加わった。戊辰戦争では大軍監として東北に転戦。明治4(1871)年兵部省に登用され,6~8年熊本鎮台司令長官。7年佐賀の乱の鎮定に当たり,台湾出兵の際は台湾蕃地事務参軍として西郷従道を補佐した。9年神風連の乱後熊本鎮台司令長官に再任,西南戦争(1877)で籠城2カ月,薩軍の攻撃に耐え熊本城を死守した。11年中将,東部監軍部長,その後陸軍士官学校長兼戸山学校長,中部監軍部長を歴任,14年長崎墓地移転問題で辞表を提出したが明治天皇は許さなかった。 同年開拓使官有物払下げ事件が起こると,鳥尾小弥太,三浦梧楼,曾我祐準らと払下げの再議,国憲創立議会の開設を建白,薩長専制を批判するとともに陸軍反主流派としての立場を強めた。このとき佐々木高行らと中正党を結成。17年学習院院長となる。18年第1次伊藤博文内閣の農商務大臣となって,19~20年に欧州視察をし,帰国後すぐに「時弊救匡策」を草して政府の情実,皮相な欧化政策をはげしく批判し,折から進行中の外相井上馨による条約改正にも反対して,農商務大臣を辞職。天皇は学習院御用掛,枢密顧問官などへの就任を希望したが,固辞した。また新聞『日本』(社長陸実)を主宰して「日本主義」を提唱,在野国権派の結集をはかろうとした。22年8月杉浦重剛,三浦らと日本倶楽部を結成して外相大隈重信による条約改正に反対,このとき民間の反対集会に参加したため予備役に編入された。議会開設(1890)以降は貴族院議員,懇話会のリーダーとして有力な反政府勢力を築いた。日清戦争(1894~95)後の過大な領土的要求を戒めたり,31年地租増徴問題で反対し,日露開戦にも反対した。<参考文献>平尾道雄『子爵谷干城』,島内登志衛編『谷干城遺稿』(田浦雅徳)」】

【注⑪。この個所は、山川左一右衛門や高行、谷ら上士身分の者たちと、武市ら郷士身分の者たちの立場の違いを考慮に入れなければならない。大同小異というのは、お互い細かな違いにこだわらず、共通の目標に向けて連帯しようという呼びかけと思われる。その共通目標のなかでも、いちばん大事なのは天子の意向を察して容堂公の隠居処分を取り消させることだと武市は言い、山川ら上士身分の者たちがそれに同意したということだろう。高行は『佐佐木老候昔日談』の中で「自分等も大体に於ては、武市と同感ではるが、我々は藩公との関係が武市と違ふから悉く賛成することは出来ぬ。尤も武市の論は、至極温和な、正々堂々たるものであるが、其の輩下の者は、重に軽格の壮士が多いので、随分危険である。そこで、自分等は、真鞆(まとも)にやる訳にはいかぬが、平井、山川等と相談して、陰密の間に援助を与へ、其の正理の点は伸ばしてやらうと定めた」と述べており、山川が「計画」したと言っているのもこのことだろう。】

十月

一 この月朔日、御礼登城。

[参考]

一 同十三日、松平大膳大夫(長州藩主・毛利慶親。注⑫)が時期を早めて江戸に参勤した。大膳大夫は、天下の形勢が容易ではないので、国是を定め、開国の業を起こすべき旨を幕府に建白した。すると老中は大いに驚き、なすところを知らず、後に大膳大夫に依頼して、京都の朝廷との間を周旋させる。

【注⑫。朝日日本歴史人物事典によると、毛利敬親(松平大膳大夫)は「没年:明治4.3.28(1871.5.17)生年:文政2.2.10(1819.3.5)幕末維新期の長州(萩)藩主。名は教明,敬親,慶親。猷之進,大膳大夫と称す。前藩主斉元の長子に生まれ,天保8(1837)年藩主斉広の養子となり,家督を継いだ。実はいわゆる末期の養子であった。同9年,入国し,村田清風を登用して,天保の改革を行い,その後,村田と対抗する坪井九右衛門をも藩政改革に登用した。ペリーの来航した嘉永6(1853)年に相模を警衛し,安政5(1858)年兵庫警衛に転じた。同年,通商条約についての幕府の諮問に,坪井を退けて村田の薫陶を受けた周布政之助らを登用し幕府の外交方針に反する攘夷意見を提出,安政の大獄前,朝廷から密勅が渡されたが,密かに派遣された周布は一転,開国やむなしと説いた。以後は周布を重用し,藩是三大綱を立て,藩の自律を方針とし,洋式軍制を導入するなど改革に着手する。文久1(1861)年長井雅楽を用い,航海遠略策の開国策で幕府との協調策を執るが,周布や木戸孝允らの反対と,島津久光の率兵上京で破綻し,同2年,周布や木戸の主導による攘夷方針に大きく転換した。敬親は公平な性格と評される一面,また病弱で藩内抗争の行方を追認する傾向があった。藩庁を山口に移し,文久3年5月外国艦を砲撃し,藩勢飛躍したが,同年8月18日の政変で藩は京都を追われ,翌年,禁門の変にも敗れ,官位を剥奪された。第1次長州征討が始まると,旧政府員多数を処刑して,謹慎した。しかし,藩内での元治の内戦後,木戸を中心とする割拠体制をつくり,薩長同盟を結び,洋式軍制改革に成功し,慶応2(1866)年の幕長戦争に勝った。同3年,キング提督と会見するなど,イギリスとの関係を確保し,討幕の密勅を受け,薩摩藩らと共に藩兵を上京させ王制復古のクーデタを成功させる。明治2(1869)年,薩摩藩主,土佐藩主らと版籍奉還を建白したのち家督を元徳に譲り,隠居。諡は忠正。<参考文献>末松謙澄『修訂防長回天史』(井上勝生)」】

[参考]

一 同十九日、昨夜、真如寺橋(山内家の菩提寺・真如寺へ通じる橋)に書き付けがあった。翌十九日は代参(主に代わって墓参すること)が行われ、少将さま(第十二代藩主・豊資)の代参として村田仁右衛門が(真如寺橋を)通ったとき、右の書き付けを見ながらそのまま通り過ぎたとのこと。翌日は役人の勤務は休みとなり、御表(本丸の政庁)からの代参として(真如寺に行った)山内下総殿(注⑬。家老)が家来に右の書き付けを写し取らせて帰ったとのこと。(以下はその書き付けの概要)

恐れながら土佐の国の大君へ申し上げます。昨年以来、吉田元吉は大望を企て、大坂において御借金と称して莫大な金銀を借り受け、学才をもって、役人方はもとより小役人にまで取り入り、およそ四十人余りで徒党を組んで連判(同志が連名して誓約すること)しました。元吉は邪学者として公儀にコネを作り、金銀を山の如く賄賂とし、品川御隠居さま(容堂公)を再び太守の座に就かせ、(自ら)大老となって政治をつかさどり、従う者には禄を与え、古くからの忠臣を退けようと謀っており、すでに大変な事態が近づいています。私は及ばずながらこれを糺すため、元吉に諂って(近づき)、やっと連判してつぶさに(元吉の所業を)調べました。そして先月以来、山内下総殿へ訴えましたが、何らの御沙汰もありません。恐れながらお目通りを願いたいのですが、そのつてもなく、進退窮まって、ここに記し置くものです。[記録抄出]

【注⑬。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、山内下総こと酒井勝作(さかい-しょうさく。1819-1876)は「江戸時代後期の武士。文政2年5月生まれ。土佐高知藩家老。文久元年藩論が勤王と佐幕に二分するなか辞職。翌年吉田東洋の暗殺後,勤王派に支持されて復職,藩主山内豊範(とよのり)にしたがい京都で藩主名代をつとめる。戊辰(ぼしん)戦争では伊予(いよ)松山警衛総督。明治9年9月6日死去。58歳。名は佐成。旧称は山内下総」】

[参考]

一 十月二十六日、高知に届いた注進(急報)に曰く。現在、長府(長州藩主)・薩府(薩摩藩主)・品川大君(容堂)がもっぱら評判で、諸侯の有志の人はよほど頼りにしていて、「当時三傑国」(当代の傑出した三国主)と唱えているとのこと。

十一月

一 この月、和宮さまを乗せた御輿が(江戸城内の)清水邸に到着。

右につき、三条(実美)公(注⑭)の年譜に曰く。

はじめ幕府が(和宮)降嫁を願ったとき、朝廷・幕府の離間を防ぎ、武備の充実を待って、攘夷を成功させるということを口実にした。朝廷がその願いを聞き入れたとき、幕府に命じて攘夷実行の期限を定めさせ、さらに将軍の上洛を命じた。老中等は皆これを心配したが、信睦(老中・安藤信正。注⑮)曰く。これこそ降嫁を謀った理由だ。何の憂う必要がある。謹んでこれ(攘夷の実行期限を定めること)を承諾し、その期限が来たら延期するのみだ。そうしてついに(老中が)連署した誓約書をさしだした。ここにいたって、和宮は今にも東下(京都から関東方面に向かうこと)しようとし、まずこの月[十月]三日、祇園社に参詣し、これが旅立ちとなった。行列に権大納言中山忠能等が従い、警固の兵士たちの数ははなはだ多かった。華やかに飾り立てた玉車はいわゆる糸毛(牛車(ぎっしゃ)の車箱を色染めのより糸でおおって飾ったもの=精選版日本国語大辞典)にして、紫糸をかけ、金箔をはり、美を尽くし、華を極めた。二十日、和宮は東下を開始した。生母の観光院[故大納言橋本実久の娘]、典侍の局・庭田氏、および年賀使の前大納言・廣橋光成、中納言・坊城俊克等諸公卿がそれに従った。十一月十五日、江戸に至り、清水邸に滞在し云々。

【注⑭。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、三条実美(さんじょうさねとみ。1837―1891)は「幕末・明治前期の公卿(くぎょう)、太政(だじょう)大臣、政治家。幼名福麿。天保(てんぽう)8年2月7日、三条実万(さねつむ)の第4子として生まれる。家格は五摂家(ごせっけ)に次ぐ九清華(きゅうせいが)の一家。1854年(安政1)従(じゅ)五位上に叙せられ元服、侍従となり出仕。父実万は議奏(ぎそう)、内大臣などを歴任し朝廷政治の中枢にあり、攘夷派(じょういは)公卿として幕末政治に活躍した。実美も父の意を継ぎ、尊攘強硬派公卿として政治運動を展開、1862年(文久2)には千種有文(ちぐさありふみ)、岩倉具視(いわくらともみ)ら公武合体派の公卿を弾劾し排斥運動を姉小路公知(あねがこうじきんとも)らと行った。同年権中納言(ごんちゅうなごん)ついで議奏に昇進、10月には将軍徳川家茂(いえもち)に対する攘夷の朝旨伝達と督促のため、姉小路公知とともに勅使として江戸に赴き、かつ朝使の待遇改善などの要求もあわせて行った。12月新設の国事御用掛。1862年から1863年にかけて尊攘運動の最盛期に、尊攘派公卿の代表的立場を占め、長州藩尊攘派と結び、攘夷親征、大和行幸(やまとぎょうこう)などの画策にあたった。しかし1863年「文久三年八月十八日の政変」で朝議が一変し、攘夷派は参朝停止、官位剥奪(はくだつ)となり、実美ら7人の攘夷派は京都を追放され長州藩に逃れた(七卿落(しちきょうおち))。1865年(元治2)1月長州から大宰府(だざいふ)に移されたが、1867年(慶応3)12月9日の王政復古クーデターの結果、官位復旧、入京許可となり、12月27日入京、即日新政府の議定(ぎじょう)の要職についた。1869年(明治2)7月右大臣、71年7月から太政大臣となり明治政府の最高官となった。1885年内閣制度実施に伴い内大臣に転じ、1889年黒田清隆(くろだきよたか)内閣崩壊の際に一時期内閣総理大臣を兼任した。またこの間1883年には華族会館長となっている。廃藩前後から政治の実権が諸藩出身官僚に移ったあとも、公卿、諸侯層を代表し、種々の対立の調停者としての役割を果たした。しかし政治的決断力は弱く、1873年の征韓論争の際には、征韓派と反対派の対立の間に挟まり、処置に困って煩悶(はんもん)、心痛のあまり発熱して病床につく事態ともなった。明治24年2月18日没。公爵。墓所は東京都文京区の護国寺にある。[佐々木克]」】

【注⑮。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、安藤信正(あんどうのぶまさ)(1819―1871)は「幕末期の老中。陸奥(むつ)国磐城平(いわきたいら)(福島県)藩主。文政(ぶんせい)2年11月25日生まれ。名は初め信睦(のぶゆき)、ついで信行、信正と改める。対馬守(つしまのかみ)。1860年(万延1)正月、若年寄から老中に昇任、外国事務取扱となる。大老井伊直弼(なおすけ)のもとで、一橋(ひとつばし)派を押さえ、同年3月、井伊直弼の横死後、再任された久世広周(くぜひろちか)とともに、幕閣の中心となった。アメリカの通訳ヒュースケン暗殺事件、水戸浪士による東禅寺(とうぜんじ)イギリス公使館襲撃事件、ロシア船ポサドニック号の対馬滞泊事件など、次々に起こった外交の難事を処理、ロシアとの国境画定交渉も開始した。内政問題では、井伊の遺志を継いで公武合体を進め、孝明(こうめい)天皇の妹和宮親子(かずのみやちかこ)内親王を将軍家茂(いえもち)夫人として降嫁させ、1862年(文久2)2月の婚儀にこぎつけた。しかし、彼の開国策と、公武合体による幕府権力回復策は、尊攘(そんじょう)激派の反発を受け、婚儀直前の1月15日、水戸浪士らによって坂下門外に襲撃され負傷、4月に老中を辞任して退隠。1868年(明治1)7月、戊辰(ぼしん)戦争で平(たいら)城は新政府軍の攻撃を受けた。明治4年10月8日没。[河内八郎]】

一 大橋順蔵の妻卷子による慷慨の歌。

和宮の「此木の本」(大樹公=将軍を指す)に降嫁されたのをいたむ歌

声に出して言うのも畏れおおいけれど、国の隅々まで統治なさっている我が天皇の、空高く光り輝く姫さまがどのように思い遊ばして、九重の都(皇居のある都)を出て、空遠く離れる東国を常宮(永遠に変わることなく栄える宮殿)と定められたのか。そのあらましを聞くと心が痛み、その門出を思えば心惹かれる。ぬばたまの夜の間の夢か、それとも現実か、いや現実ではあるまい、いくらなんでもと、心の中であてにした甲斐もなかった。このごろ世の人々の語り継ぎ、言い継ぐのを聞けば、まことか、中国で鏡の影を恨みながら古い都を立ち去った人(注⑰)があったという。その古の出来事にも今さらのように思いを馳せるといっても、これは異国のことであって、我々の平和な国は天皇の統治する国であり、こんな例は神代からなかった。世は末なのだろうか。災いの神のしわざか、あるいは不吉な作り話なのかと、(和宮が)夜も昼も心を痛め、天空を仰いでひっきりなしに嘆くのを木曽の狭霧まで見た、ちょうどそのとき曇って日にかげが指した。

返歌

かしこしな雲井をよそに立出て、

木曽のあら山これまさんとは(畏れおおいことだ。宮中からよそに出て、木曽の荒山を越えられようとは)

畏くも今日九重の御門出を、

なげかざらめや萬民草(畏れおおくも今日のめでたい門出を、万民は嘆かぬだろうか、いやきっと嘆くにちがいない)

【注⑯。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、大橋訥庵(おおはしとつあん。1816―1862)は「江戸末期の儒学者。熱烈な尊攘(そんじょう)思想家。名は正順(まさより)、字(あざな)は周道、通称順蔵。兵学者清水赤城(しみずせきじょう)(1766―1848)の四男として文化(ぶんか)13年江戸に生まれ、日本橋の豪商大橋淡雅(たんが)(1789―1853)の婿養子となる。佐藤一斎に儒学を学び、思誠塾を開いて子弟を教授、詩文に優れた。1857年(安政4)『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』を著して尊王攘夷論を鼓吹した。安政(あんせい)の大獄に刑死した頼三樹三郎(らいみきさぶろう)の遺体を収めて小塚原(こづかっぱら)回向院(えこういん)に埋葬。公武合体論による皇女和宮(かずのみや)の降嫁反対運動にも参加した。坂下門外の変に際し、計画の中心人物と目されて、老中安藤信正(あんどうのぶまさ)襲撃に先だって捕らえられたが、病のため出獄、宇都宮藩に預けられたが文久(ぶんきゅう)2年7月12日没した。47歳。[山口宗之 2016年4月18日]】

【注⑰。伝説的な美女、王昭君を指す。王昭君(おうしょうくん)は日本大百科全書(ニッポニカ)によると、「生没年不詳。中国、前漢の元帝(在位前49~前33)の宮女。名は?(しょう)、昭君は字(あざな)。紀元前33年、和親政策のため匈奴(きょうど)の王に嫁がされたことで知られる。北方遊牧民の雄、匈奴は、宣帝時代(在位前74~前49)○(表記できない漢字。至るへんにおおざと)支単于(しっしぜんう)と呼韓邪(こかんや)単于の両勢力に内部分裂を起こし、呼韓邪は前漢に投降、自ら臣と称して来朝してきた。次の元帝時代には○支が漢軍の攻撃を受けて敗死する。このときふたたび来朝した呼韓邪は「漢氏の壻(むこ)(婿)となって自分が北辺の守りにあたりたい。後宮の女を下賜してほしい」と希望した。それにこたえて元帝が与えたのが王昭君である。『後漢書(ごかんじょ)』によれば、彼女は選ばれて後宮に入ったにもかかわらず元帝から何年も顧みられず、自ら匈奴に嫁すことを望んだという。話が決まってから王昭君を初めて見た元帝は、その美しさに大いに驚き手放すのを惜しんだ。呼韓邪の妻として寧胡閼氏(ねいこえんし)とよばれ、1男を生み、単于の死後は匈奴の風習に従って、本妻の子で次の単于の復株累(ふくしゅるい)の妻となり、2女を生んで匈奴の地で一生を終えた。この王昭君哀話は後世広く伝承され史実とは異なる虚像が文学作品につくられていった。なかでも元の馬致遠(ばちえん)の戯曲『漢宮秋(かんきゅうしゅう)』が最高の傑作といわれる。[春日井明]」】

(続。例によって訳出作業は難航しました。たった一つの言葉の意味をつきとめるのに丸二日かかったりします。不十分な点はどうかご容赦を)