わき道をゆく第206回 現代語訳・保古飛呂比 その㉚

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[参考]

一 (文久元年)十一月十七日、同日より太守さまが家督相続されたご祝儀として、家臣一同に御料理を下さる。(二十一日、二十三日、二十五日)

一 同二十日、同日より大病のため(自宅に)引き籠もり、時勢(の動きに関する情報)を聞かず。よって翌年の初秋まで世捨て人のようになった。引き籠もりの間、武市半平太が一度見舞いに来た。武市からの伝言かたがた島村衛吉(注①)がしばしば訪ねて来た。また小畑孫三郎(注②)はとりわけ懇意につき、密事があるたびに来た。岡本次郎(注③)も時々来た。しかしながら、家が狭い上に、我が身が大病なので十分な密事を聞けない。ただ看病人の隙をうかがって、大まかなことを聞くだけである。(注④)

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、島村衛吉(しまむら-えきち。1834-1865)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。天保(てんぽう)5年10月生まれ。島村真潮(ましお)の弟。土佐高知藩の郷士。千葉一胤(かずたね),桃井春蔵(しゅんぞう)のもとで剣術を修業。武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわり,吉田東洋暗殺にかかわる。文久3年の八月十八日の政変後,高知藩における勤王党弾圧で下獄し,元治(げんじ)2年3月23日拷問(ごうもん)死。32歳。名は重険(しげのり)。」】

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、小畑孫三郎(おばた-まごさぶろう。1837-1866)は「幕末の武士。天保(てんぽう)8年生まれ。小畑美稲(うましね)の弟。土佐高知藩士。奥宮慥斎(おくのみや-ぞうさい),若山勿堂(ふつどう)にまなぶ。文久2年監察使となり京都,大坂の政情をさぐった。武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわり,3年同志とともに終身禁固となるが,病気で釈放され慶応2年9月21日死去。30歳。名は正路。」】

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岡本次郎(おかもと-じろう。1831-1865)は「幕末の武士。天保(てんぽう)2年生まれ。土佐高知藩士。文久2年藩主にしたがい京都にいき,諸藩の尊攘派とまじわる。のち武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわる。岡田以蔵らとともに吉田東洋の寵臣井上佐一郎を殺害した罪で,慶応元年閏(うるう)5月11日処刑された。35歳。本姓は中島。名は正明,忠和。通称は別に八之助。」】

【注④。訳していて初めて気づいたのだが、ここに登場する四人はいずれも土佐勤王党のメンバーである。そのうち武市と島村は吉田東洋暗殺(翌文久二年四月)の直接関係者。岡本はのちに東洋の寵臣井上佐一郎を殺害した罪で処刑されている。こうしたことを考えると、文中の「密事」が東洋暗殺と何らかの関係があった可能性が否定できない。高行の立場や、彼の慎重な性格から言って、暗殺計画に加担したとは考えにくいが、当時の高行が微妙なポジションにいたことは間違いないのではないか。】

[参考]

一 同二十六日、二十七日、二十八日、(藩主・豊範の)御具足御肩入のお祝い式(注⑤)が行われた。

【注⑤。具足は鎧(よろい)のこと。御具足御肩入れというのは鎧を身にまとうことだろう。豊範の当時十六歳という年齢を併せ考えると、御具足御肩入れの祝い式というのは、豊範の元服祝いかそれに類したものではないか。あくまで推測で、あてにならないが。】

一 同二十七日、御嘉例(めでたい先例)により、(太守さまが鷹狩りで)捕獲された鶴の料理を頂戴するはずだったが、病気のため出勤せず。

なお、家臣一同は組ごとに分かれて、数日の間に頂戴。自分らの組は二十七日だった。

一 十一月ごろ、森四郎(注⑥)が家老の山内下総殿に面会したとき、現在の時勢を知るために探索人を他国に出すべきだと申し出たところ、(下総守が)答えて言う。「吉田(東洋)は承知しないだろう。何事も吉田が障害になっている。武市半平太らがそれほどに思い込んでいるのなら、いっそ吉田をやるがええ」(殺害せよとのことだ)。そのとき四郎が申すには、「あなた方のそのような不見識には驚く」。そう言って帰り、このことを平井善之丞(注⑦)に話し、ともに嘆息したという話を聞いた。(注⑧)

【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、森横谷(森横谷 もり-おうこく。通称森四郎。1805-1873)は「江戸時代後期の儒者。文化2年生まれ。土佐高知藩士。藩儒の松田思斎,箕浦耕雨,江戸で山口菅山,佐藤一斎にまなぶ。また平山子竜について兵学もおさめた。明治6年2月9日死去。69歳。名は正名。通称は四郎。著作に「土佐国人物志」「野中遺事」など。」】

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、平井善之丞(ひらい-ぜんのじょう。1803-1865)は「江戸時代後期の武士。享和3年生まれ。土佐高知藩士。13代藩主山内豊煕(とよてる)のもとで大目付となり藩政刷新にのりだしたが,保守派の反対で失脚した。尊王をとなえ,15代藩主山内豊信(とよしげ)の参政吉田東洋と対立。文久2年(1862)東洋の暗殺後,大監察となったが,豊信の勤王党弾圧により免職。慶応元年5月11日死去。63歳。名は政実。」】

【注⑧。この一節は、吉田東洋暗殺事件に下総守ら門閥勢力が関与していた可能性を示唆していて興味深い。ちなみに、高行が『佐佐木老侯昔日談』で東洋暗殺前夜の情勢と、彼自身が置かれた微妙な立場を語っているので、それを紹介しておく。

「武市の帰国の際は、吉田の全盛時代で、朝比奈泰平、市原八郎右衛門、由井猪内、野内太内等の連中が要路を占めて居る。文武館はドシドシ出来やうといふ時節で、中々傍へも寄付けぬ勢である。武市は平井(善之丞)を尋ねた翌日、即ち二十六日、大監察の市原に面会して、『薩長両藩侯には、不日参朝の企があり、天下の有志も悉く馳上り、尊攘の為に尽力する筈である。どうか我藩に於ても、両藩に後れず、第一に太守様には萬障を排して御入洛あらせらるる様に』と肺肝を砕いて陳述したが、元来吉田の政策は、尊皇とか、違勅などと云うて、幕府に突当ることを嫌うて、かの桜田の変のあつた際にも、『水戸は藤田(東湖)を失つてから無策に陥つた。東湖が生きて居れば、かかる暴挙は出来なかつたらうに、幕府は充分水戸を征伐する名義がある』と云うて居つた相ですべて武市等の見解とは大相違があつたから、又しても処士の横義(浪人の勝手気ままな議論)かといふ風に、市原も善い加減にあしらつて居る。其の後数回訪問して、御詮議振を尋ねても一向要領を得ない。又武市は樺山三円から小南へ宛てた手紙を持つて来て居る。小南から夫を執政深尾弘人の参考に供したけれども、これも頓と意に介しない。其の内、久坂(玄瑞)の旨を受けて、長嶺内蔵太、山縣範蔵[のち宍戸機]が金毘羅詣に託して国境迄来たので、武市は坂本龍馬に云ひ含め、また金毘羅詣と称して、之に会同せしめた。坂本は十月十一日、高知を出足して、国境外に到り、段々其の来意を聞いて見ると、愈々明春入京の件は運んで来たとの事、猶将来の所を打合わせて、数日を出でず帰国して、武市に報告すると、武市は気が気でない。

夫で自分等も、全く看過する訳にもいかぬから、所々同志と会合し、種々相談して、まづ藩論をまとめ、歩調を一にして運動することに尽力するも、夫が中々六かしい。右に論ぜんとすれば、左より信ぜず、甲に結ばんとすれば、乙疑ふ状態で、自分等の苦慮は実に一通りではなかつた。藩庁の方でも、到底武市の所説に同意すべくもなかつたが、其の儘放棄して置く訳にもいかず、参考の為め、福岡藤次[のち孝弟子爵]をして其の趣意を聞取らしめ、御隠居様の御首尾にも関してはならぬに依つて、人心を煽動せぬ様にと注意を与へた。吉田一派の幕府を恐るることは非常なもので、御隠居様云々を口実として、一時是等勤王家を抑へやうとしたのである。これも政略と云へば政略であるが、一体勤王家の方は、既に四方を探索して、徐に容堂公の再興を待つに反し、彼等は、之を好まず、有志の者を嘲弄し、皇上を軽蔑し、薩長人を国賊視するのみならず、中には老公の短を挙ぐるが如きことあつた。それ故、自分等は、彼等が真正に老公の御為筋から出て居るか否かさへ大に疑がつたのである。

武市は藩吏のいふ事が、要領を得なかつたので、一日、吉田に面会して、直接其の所説を申述べると吉田は『抑も御当家は、関ケ原役以来、幕府とは深い由緒もあること故、薩長の外様とは同一に心得られぬ。又左様な一大事の事なれば、薩長何れよりか申越さるべきに、その事もない。畢竟、浮浪剣客の徒が、事を誇大にし、天下動揺の端を啓かんとするものとしか思はれぬ。さう熱心に思ふなら、九州探索を申付けるから、彼地の様子を調べて来てはどうか』と云ふと、武市は、『其の事なら昨年探聞して居るから、今更視察する必要も御座らぬ。また此の儘何の顔を以てか、両藩士に見ゆる事が出来やうぞ』と、頗る決心の体で、之を辞したさうだ。

さういふ口から、吉田は、品川の藩邸を修築する計画を立てて、国許より良材をドシドシ伐り出して、之を運ぶ。これは幕府に安心を与へる政略も交つて居るものと見える。武市は之に対して大に不平で、『この国家危急の際に、無益の土木を起こすなどとは、以ての外だ。夫より之を大阪で売却して、軍備に充てるが好からう』と吉田に勧告したさうだが、吉田はまたしても入らざる世話をやくといふ様な調子で、更に取合はない。

当時天下の形勢にでも耳を傾けて、大に尽力せねばならぬといふ考を以て居るのは、概ね軽格で、武市の同志は悉くそれだ。上士中には、小南、平井、渡邊、山川、本山、自分等位で、どうも此儘には打捨て難い。何とか方法を廻らさんければならぬと、種々心配して居る。外にはトンと其人がない。けれども、軽格連中は、自分等とは違つて藩侯に対する関係が薄いものだから、突飛の事をやり出す。――さう拘束せらるる所の者もないから、夫等の者の所為でもあらうか、十月、眞如寺橋へ落書して、いたく吉田を非難して居る。

所で、是はあまり人の気付かぬ所であるが、上士中の頑固派とも云はうか、兎に角守旧一方の側が、吉田派に対する感情と、また下士勤王派が上士勤王派、即ち山川、自分等に対する感情とだ。吉田は前云うた様に権力を握つて居るものだから、是を倒さうといふ連中が大分居る。夫は士格の中でも、吉田が頻りと人物を抜擢したり、旧例格式を猥りに打破したりする處から、守旧一方の人は、甚だ是を悦ばない。其の中にも武藤小藤太、園村新作などは、大反対であつた。大身門閥家老の中にても、山内下総殿、柴田備後殿だのは、皆反対の側で、外の家老もあまり好かない。マー吉田側の者は、福岡宮内殿、深尾弘人殿といふ位なものである。御連枝方の山内大学様[追手邸]でも、民部様[名は豊誉、南邸容堂公の御三弟]でも、大抵忌み嫌うて居らるる。元来吉田とは、大分親密の小八木五平なども、此頃では吉田に反対で、盛に攻撃して居る。一口に吉田嫌ひと云ふけれども、中には、佐幕論に不同意の方面から来て居るものもあるが、今の小八木、武藤、園村抔は、吉田の議論よりは仕事が気に入らぬといふ感情論者で、武藤は艱危憤怨録を著して、吉田を攻撃し、また園村は、陰密の間に離間中傷して、吉田を倒さんとして居る。この両人の所為は頗る皮肉で、陰険を極めた遣り方だ。外の者も矢張り憎みはする。民部の侍読たる岩瀬馬之助なども、辨姦論を作り、吉田を王安石に比して論駁した。けれども、これは、先づ勤王から出て居るが、武藤等に至つては、ただ吉田が憎いといふので、『手を下すのが宜しい』位の事は内々云うて、他を煽動した様子であつた。当時自分等の同志の中で山川左一右衛門は、随分大身であるし、夫から本山只一郎[茂任]は、老公の御側小姓[嘉永六年]より幡多郡奉行[安政三年]安芸郡奉行[安政六年]等を経て、此の頃は豊範公の御側物頭をして居る。大分羽振の良い方だ。自分も追々文武館が出来たならば、其の役員になることに内定し、現に文武調役といふのを持つて居る。そこで、園村、武藤等は、武市派の下士勤王派抔に向つて、『佐々木は、山川だの本山だのと脈を引いて居るが、実は吉田に夤綠(つながっているという意味)して居るのだ。アノ方こそ却つて油断が出来ぬ』。といふ様なことを言触らして居る。自分は其の後間もなく病気で引込んで仕舞つたので、これ位で済んだが、山川は大身で、吉田の門下の人にも交際があり、本山は君側を勤めて居るものだから、自分よりも一層甚だしく中傷せられて、諸方より疑はれ、余程迷惑した様子だ。夫は山川にしても、本山にしても、自分にしても、藩侯に対しては、彼の過激の下士勤王派とは関係が違ふ。マア云うて見れば、我々は譜代で、彼等は外様である。それ故、さう無茶な事が出来るものではない。彼等が武藤の浮言を信じて疑を増したのも、其辺からなのだ。初め武市が小南を尋ねた時に、小南が『こんな大事は正面からは迚も仕遂げるこてゃ出来ぬ。窓口から行かぬといかぬ』というた相だが、これは老公の御舎弟[南邸]大学様[大手邸]あたりへウンと吹込んで、裏面から周旋せんければならぬと云ふのだけれども、山川等になるとさうではない。武市が急に窓口云々を山川に話すと、『正面も正面、玄関の真中から行かぬと大害があるぞ。』と云うたさうだ。同志の者でもさういふ様に論が違ふ處もあつたので、武市も一時は大に当惑した様子、而も其の辺から、種々の離間策も中傷も出てくる。自分は武市から信じられて居る。特に平井は、武市の最も信ずる處で、自分とは別懇の間柄であるから、疑ふ筈はない訳であるが、其の以下の者になると、事情がよく分らぬからして、疑惑を生ずるにも無理のない話である。處が、この勤王家を中傷し、吉田派を嫌忌する一種の徒輩即ち小八木五平の一派があつて、中々いたづらをする。十一月末から十二月にかけて、大手邸[大学様]の門前に落文をしたものがある。其の趣意は、御側御用役由比猪内、側物頭本山只一郎の両人が、毒薬を太守様に進め奉るとの事であつた。又眞如寺橋[天神橋]の上に同様の落書をして、是は山川左一右衛門の仕業だと流言するものがあつた。右の由比は、吉田派の人、本山、山川は、自分の親友である。同志である。決して左様な事をすべき筈がない。実に馬鹿気切つて居る。然るに右様に申触したといふものは、小八木の一派が、有志を退け、勤王家を中傷せんとする奸策に過ぎなかつたのだ。ツマリ名を勤王家にかつて、双方を離間中傷しやうとの悪戯であつたのだ。尤も自分は、当時大患にかかつて、之を知らなかつたが、後で聞いて、覚えず冷や汗を流したことである。所謂玉石共に砕けんとする状況は、実に此の際のことであつたのだ。何も其の事情を知つて居る者は、頭から信用せぬけれども、さなきだに奇を好む人心は、其處に疑念を挟み、夫から夫へと吹聴する。かくて次第に瀰漫(びまん)して行くのである。それ故、自分等の立場といふものは、甚だ六ケ敷(むずかし)いのだ。前にもいうた通り、激烈な下士輩よりは優柔不断の様に云はれる。又士格の頑固連中よりは、自分等が武市等と会同して、何かと相談する處から、軽格に左袒するかの如く排斥せらる。自分等は勤王を主張するの点に於ては、敢て下士一派の後に落ちぬと信じて居るけれども、藩侯との関係上、さう軽挙妄動は出来ぬ。一体自分等が勤王論を唱ふるのは、大義名分の上からやるので、決して軽格に雷同する訳ではないが、夫を感情の上より攻撃する。又武藤、園村などは、名を忠君に藉りて吉田を攻撃する傍、自分等同志の者をも反噬(はんぜい。恩ある者にかみつくこと)しやうとする。夫で自分等同志は、中間に板挟みとなつたから、其の苦心は一通りでなかつたのである。」】

十二月

一 この月四日、妹の於寅を宮崎竹五郎の妻にしてもらえないか頼んだところ、先方から承諾が得られ、本日、婚礼が首尾良く執り行われた。

宮崎は武市半平太と親族の間柄であり、しかも勤王家、すこぶる着実である。

[参考]

一 同八日、来年は御省略(注⑨)の年限明けになる。そのため、来年の戌(いぬ)年より実施される分格(※それぞれの身分に応じた規制)のお定めは左の通り。

一 御取初め(=朝廷および武家の年中行事の一つ。正月二日に、三方(さんぼう)に昆布、鮑(あわび)、勝栗などをのせて出し、杯事をしたこと=精選版 日本国語大辞典)のとき、中老・組頭・御物頭・嫡孫は乗馬(して登城)するかどうか自由、知行取は乗馬すること。

なお、さる弘化四年に仰せつけられた通り、来年正月の武者押し(=武者が隊列を組んで進むこと。この場合は十一日恒例の御馭初めのことか)は実施する。

一 中老・同嫡子・組頭・御物頭等が社参(神社に参詣すること)、もしくは代香(代理の焼香をすること)のため、(高知城下の周辺に位置する潮江、下知、江ノ口、小高坂の)四ケ村に行くとき、槍持ちを連れていくべきこと。

ただし、(社参・代香)以外でも、藩の御用のため四ケ村に行くときは槍持ちを同行すべきこと。平士(ひらざむらい)も右に準ずべきこと。

一 「中老押立候御奉公役」(※意味不明のため原文引用)の節も、若い従者二人より上は召し連れないこと。

なお中老の嫡子・組頭・物頭等は右に準ずべきこと。

一 馬廻り知行三百石以上の面々が奉公役をつとめる際には若い従者を召し連れること。

一 年頭・五節句、毎月一日の御礼登城ならびに(太守さまの御駕籠の)出発・到着時など、すべてお城に出仕するときは、小身の者でも僕(しもべ)一人を召し連れること。

ただし小身の者が日勤で登城する際は僕一人を召し連れなくても構わない。

一 (高知城の)追手御門・鉄御門の番所では、新年祝いの登城のとき、(太守さまの駕籠の)出発・到着の当日、御鷹の鶴(鷹狩りで捕らえられた鶴)が到着する当日、そのほか他国からの使者の到着当日、御統々さま(歴代藩主の意か)の法事のときなどは、幕を張って勤番するよう仰せつけられた。

なお右の際、当番の物頭に限り、鎗持ちの従者を伴って登城すべきこと。

一 平士(ひらざむらい)の知行取りであっても、私用の往来の際は無僕でも構わない。

【注⑨。御省略とは安政二年、藩財政の立て直しのために命じられた諸事の簡素化・経費削減策を指す。念のため、当時の通達文を再掲しておく。

一 右に関連して(藩行政トップの)御奉行職一同による添付文書は次の通り。

近年、藩の借財が増え、財政状況が悪化しているところ、一昨年の秋以来、異国船の動向が穏やかならず、海防対策の充実が看過できない問題となったので、先ごろの藩政改革により(太守さまの)身のまわりを始め諸事の簡素化・経費節減が命じられた。そうした折りに、昨年冬の大災害が起きたので、またまた出費がかさんで藩の借財は莫大となったため、(太守さまは)藩財政の行く末を案じて悩み苦しまれた。人びとの被災状況を見聞するにつけ、それは堪えがたいほどの苦しみではあるが、藩財政の建て直しを人任せにはできないと決意された。これにより、このたびあらかじめ年限を決め、今年から次の酉年までの七年間、公務をはじめすべてのことを従来に比べて半減するよう命じられた。太守さまは万事において不自由を厭わず、必ずや実行されるおつもりである。以上のような次第で(向こう七年の)年限中はなおまた分格差略(※それぞれの身分に応じた生活の規制を緩めることか?)を仰せつけられ、今後、郷居(さとい。家臣が城下に住まず、田舎住まいすること)も許される。先だっての御自筆の書き付けや、このたびのご命令の趣旨をよくわきまえて、いよいよ倹約質素に基づいて出費を償い、風俗を正しくし、文武の道を励んで、実用の武備を強化するよう心得るべきである。かつまた一昨年の秋に御趣意を述べられた際、それ以前のことについては咎め立てしないとおっしゃられた。ところが、それ以後のことについても(太守さまの)御趣意を貫くことが難しくなり、申し訳なさに心が痛む。このたびまたまた(一昨年の秋と同様の)お含みの筋があり、(太守さまの)御慈恵の思し召しを示していただいたうえは、これから必ず(その思し召しに報いるよう)心得るべきである。なお詳しいことはお目付役より通達する。以上。

二月二十五日

深尾弘人

福岡宮内

五藤主計

山内太郎左衛門】

一 十二月九日、(高行が)文武調役の辞任を認められる。これで大いに安心した。

一 同十一日、同日の辰ノ刻(午前七時から同九時ごろ)、和宮さまが(江戸城内の)清水邸から御車で大手通を通って、本丸の車寄せより大奥に入られた。この降嫁の一件は翌年の正月に拝承したが、大病中だったので詳細は拝承しなかった。昨冬ごろより風聞はあったが、虚実が分からず、追々実際のことになるに従って悪評が耳に届いた。所司代の酒井若狭守がずいぶん周旋して、京都のお公家衆にかなりの賄賂を渡したとか、恐れながら人質同様の降嫁であるとして、誰もが慷慨した。佐幕論者たちはこれで公武合体がなり、太平の世になると唱えたそうだ。嘆くべし、嘆くべし。

ただ、ご婚儀はまだ行われていないとのことだ。

一 十二月ごろ、側用役の由比猪内と側物頭の本山只一郎が毒薬を太守様へ云々とのことを書いた落とし文が大学さま[容堂公の叔父。追手屋敷]の門前にあった。また眞如寺橋の上にも匿名文書があった。これは山川左一郎の仕業だと取り沙汰された。

由比は吉田元吉派の人である。山川・本山は我が親友である。それなのに、そんな風なことを流布させるのは、吉田を憎み、勤王家の名を借りて私怨を漏らそうという、一種の徒輩の離間策であることは明らかだ。しかし、それでも、衆目は(由比らに対し)大いに疑念を抱いたそうだ。大病中だったので、これは後日に聞いた。(飛び交う情報が)玉石混交となる兆しがある。恐るべし、恐るべし。

[参考]

一 この年、(安政の大獄に絡んで幡多郡佐賀村に追放されていた)小南五郎右衛門が(高知城下への)帰住を許された。

[参考]

一 この年、清岡氏の筆記に曰く。

一昨夜、渡邊彌久馬より聞いたところでは、今度「シイボルト」(注⑩)が次の通り公儀に申し出た。「私は数十年間、日本に住んで(※シーボルトが日本にいたのは文政六年~十二年の六年間と安政六年~文久二年の三年間のみ)御恩沢を受け、妻子ともすでに御当国(日本)に置いています。私はこの通り老年に達し、かつ外夷・諸夷とは考えが違って、本国に帰っても何の望みもありません。もはや陳腐な存在で、老いの極み、いろんな人々に疎まれるのみです。それゆえ、いつまでも日本の為になりたいと念じ、妻子も長く日本に置いておきたい所存なので、日本の為になると思う事柄を申し上げます。(私に関しては)これまでもいろいろ御疑念(※かつてシーボルトが国外追放された一件を指すと思われる)がおありでしょうが、私の心底については「格(ママ)迠無之」(※原文引用。格は誤字とみられるが、その代わりに入るべき文字が現時点では分からない。文脈で判断すると、自分の心底に嘘偽りはないという意味か)。第一に、今の(幕府の開国政策が)一見日本の為になるように見え、また多くの人々の意見もそのようになっていますが(果たしてそれが正しいでしょうか)。外国人が大西洋を航海して日本に来るのにかかる費用は、なかなか一通りのことではありません。日本の貨物の品々を大金で買いつけ、それを積んで帰って諸国へ売ったとしても、(その利益は)所詮かかった大金を贖うほどにはなりません。しかし、それをも厭わず、諸国が思い思いに(日本に)やってくるのは、まったくそのような小さな利益を求めてのことではありません。最終的に大望を遂げる見込みがあるからこそであります。さらに言うと、外国が諸国との交易場を開く際は、一国につき一港か、大国の場合二港ぐらいで、それを上回ることはありません。日本は小国ですので、たとえどれほど富んでいたとしても、長崎一港で十分です。やむを得ずして箱館をそれに加えるとしても二カ所で十分です。にもかかわらず三カ所も許され、かつ近日中に兵庫の開港までお許しになるのはもってのほかです。何はさておき、日本は過去の政治体制を改革しなければ、国家の末永き繁栄は覚束ないと思います」と言ったそうです。さらにシーボルトは「アメリカは諸外国のなかでも、まず日本の為になることをするでしょうが、その他の国は一国も信用してはなりませぬ。中国や朝鮮との利交(利益のための交わり)は特に大事になさるように」などと言ったそうですが、諸外国の妬みを買って、横浜に流されたといいます。これらの情報の虚実は分かりませんが、聞いたままをお伝えします。[これは文久元年十二月の写しと書かれている]

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、シーボルト(没年:1866.10.18 生年:1796.2.17)は「江戸後期に来日したドイツ人の医師,生物学者。バイエルンのビュルツブルクの医師の家に生まれる。ビュルツブルク大学で医学,植物学,動物学,地理学などを学び,1820年学位を得る。1822年,オランダ領東インド会社付の医官となり,1823年にジャワに赴任,まもなく日本に任官することになり,文政6(1823)年8月に長崎出島に入った。はじめ商館の内部で,やがては市内の吉雄幸載の私塾などでも,診療と講義を行っていたが,翌年長崎奉行から許されて,郊外の鳴滝に学舎を造った。学生の宿舎や診療室,さらには薬草園まで備えたこの鳴滝塾に,週1回出張したシーボルトは,実地の診療や医学上の臨床講義のみならず,様々な分野の学問の講義を行い,小関三英,高野長英,伊東玄朴,美馬順三,二宮敬作らの蘭学の逸材を育てた。 文政9年オランダ商館長の江戸参府に随行して1カ月余り江戸に滞在。その間,高橋景保,大槻玄沢,宇田川榕庵ら,江戸の蘭学者とも親しくなった。そこにいわゆる「シーボルト事件」の種子が芽生える。長崎へ帰ったシーボルトと高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで,間宮が疑惑を持ったのをきっかけに,同11年に任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が嵐によって戻された際に,荷物が調べられて,国禁違反が発覚。高橋がシーボルトの『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』とオランダ領のアジア地図などと引き換えに,伊能忠敬の『日本沿海測量図』のコピーなどをシーボルトに渡していたこと,そのほかにも葵の紋服などをシーボルトが持ち出そうとしていたことが明らかになって,高橋は裁判の途中に獄中で死亡,シーボルトも国外追放となり,同12年12月に日本を去った。 ヨーロッパに戻ったシーボルトは,日本関係の書物を次々に発表して,日本学の権威としてヨーロッパで重要視されるようになった。またオランダ国王を動かして幕府に開国を勧める親書を起草し,この親書は弘化1(1844)年に幕府に伝えられたが,幕府はこれを拒否,さらに,日本が開国した際にヨーロッパ諸国と結ぶべき条約の私案を起草してオランダ政府に伝え,この条約案は嘉永5(1852)年にクルティウスに託されて幕府の手に届いている。開国後,クルティウスはシーボルトに対する追放の解除を幕府に要請,安政5(1858)年日蘭修好条約の締結とともに実現,同6年シーボルトは念願の再来日を果たした。しかし文久2(1862)年に維新の成立をみぬまま日本を去り,ミュンヘンで亡くなった。再来日に際して帯同していた長男のアレクサンダーは,そのまま日本に留まり,イギリス公使館通訳,明治3(1870)年以降は政府のお雇いとして,外交政策などの相談役となり,次男のハインリヒも同2年に来日,外交官として長年日本に滞在した。さらに長崎時代に日本の女性楠本其扇(お滝)との間に生まれた楠本イネは,のちに産科医として知られるようになった。 シーボルトの学問的業績は,医師として臨床面で日本の人々に大きな福音を残し,さらに多くの蘭医を育てたことは,高く評価されなければならないが,それにもまして重要なのは,ヨーロッパに彼によって紹介された日本の風物である。最も重要なのは,通称『日本』もしくは『日本誌』すなわち『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)についての記述集成』としてライデンで1832年から54年までかかって刊行されたもので,日本についての浩翰で巨大な総合的研究書である。このほか『日本動物誌』(1833~50),『日本植物誌』(1835~70)は学問的に貴重な業績である。<参考文献>呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』(東洋文庫),板沢武雄『シーボルト』(村上陽一郎)」】

附録

一 本山茂任(通称・只一郎。高行の親友)の安政二年より文久元年までの筆記抜粋。

高行による補注。本山茂任は嘉永六年、容堂公の御側小姓となり、安政三年、幡多郡奉行に進み、安政五年、安芸郡奉行となり、文久元年、太守さま[豊範公]が三条・姉小路二卿を警衛し、東下(江戸に下ること)の際、随従した。同年十二月、大監察に。慶応三年冬、上京し、同四年、高松・松山征討のため帰国した。

公[容堂公]が一日[安政二年の冬であろう]、余を召して密旨を伝え、ひそかに土居持ち家老(地方に自分の城郭を持つ家老)の風習を探り、そのかたわら海岸の要害に住む民の苦しみを観察させた。公の命を受けて(土佐の)西郡を巡歴した[別に日記あり]。容堂公は江戸より国許に帰るなり[安政二年春のことである]、国政多事にわたり、その中には吉田元吉を再起用することも含まれていたが、大老君景翁[豊資公]がいて、思うとおりにできなかった。ある日の夕方、容堂公は大老君の邸を訪ねて面会された後、お城に帰られたとき、余(本山のこと)はちょうど宿直だった。容堂公は酒気に乗じて余の襟をつかみ、藩政を思うようにできない苦しみを表現された。容堂公曰く。「茂任よ、これより政事を論ぜず、(灯りを)点(とも)して、私の側で勉学につとめよ」と命じられた。余は恭しく申し上げた。「志士は国政改革の日にあたり、事が行われないのを知って、甘んじて君側に職を買うようなことをするでしょうか。私はとるにたりない臣下ですが、しばらくお暇を願って、随意に勉学することをお許し願います」。それから日を経ずして、(本山は)解職された。容堂公はそれからしばらく凡俗の役人たちの間にあって詩文を修め、史学を学ばれた。その際、松岡七助が侍読を勤めた。中村十次郎・箕浦萬次郎等もまた輪番で侍読をつとめた。ようやくにして自宅謹慎中だった吉田元吉を参政に抜擢した。[高行言う。安政四年十二月下旬、小南五郎右衛門が容堂公の命を受け、江戸より帰国。安政五年正月、吉田元吉抜擢される]

[中略]そもそも高知に勤王の事が起こったのは、この前年[安政四年であろう]、薩摩藩の日下部某が江戸の土佐藩上屋敷に小南五郎右衛門を訪ね、深意を吐露したところから始まる。これより勤王家として小南の名が諸藩に広まった。水戸老公は小南を召して、密旨を伝えた。このとき老公が賜った和歌がある。前三条公[実萬公]に密旨を届けるために小納戸役の大脇興之進は姓名を変えて大橋渡之助と称し、木曽路を通ってひそかに上京した。このことを知る者は藩内外に少ない。[取役山川左一衛門が越前藩の某と面会したときこの件に関して少し言付けをしたと聞く]、年を越え、しばらくして、武市半平太が撃剣修業のため九州より江戸に遊び、薩摩藩の樺山三円(注⑫)の手紙を携えて帰国した。[文久元年九月下旬のことである]。半平太は郭中(城下の武家居住区)の有志の家に来てこのことを吐露した。同志等と謀って、山川左一右衛門の宅で半平太と会い、天下有志の動向を聞く者は佐々木三四郞・谷守部・林亀吉・林勝兵衛・小栗謙吉・服部與三郎等である。余を加えて数名に過ぎず、これより同志がしばしば会って、勤王の事を謀る。この際、国を脱する者が多かった。坂本龍馬・吉村寅太郎等である。

[中略](勤王の同志は)安芸郡に中岡光次・能勢達太郎・安岡金馬・清岡道之助・清岡半四郎・早川辰馬。幡多郡には樋口眞吉・安岡亮太郎・桑原助馬等がある。宿毛には、国老安東主馬家臣の岩村有助ならびに三男子がある。香我美郡には大石彌太郎・安岡覚之助・村田馬太郎。高知(城下の)郭中には我が輩の同志は数名に過ぎず、郭外では有志が多い。土佐・吾川・長岡三郡の有志は専ら半平太の門弟から出た。現在、名の聞こえる者は島村助四郎・平井周次郎・河野益彌・間崎哲馬・望月清平・島村壽郎・島本審次郎・小畑孫次郎・同孫三郎・川原塚茂太郎等である。[下略]

【注⑪。日下部某は日下部伊三次のことと思われる。朝日日本歴史人物事典によると、日下部伊三次(没年:安政5.12.17(1859.1.20)生年:文化11(1814))は「幕末尊攘派薩摩(鹿児島)藩士。諱は信政,翼。伊三次と称し九皐,実稼と号す。深谷佐吉,宮崎復太郎と変名。父は,元薩摩藩士で水戸太田学館幹事海江田(日下部)訥斎連。父の跡を襲って太田学館幹事。弘化1(1844)年,水戸藩主徳川斉昭の隠居謹慎に際して処罰解除運動に参加,安政2(1855)年,斉昭のとりなしで薩摩藩に復帰。5年,井伊直弼政権が日米修好通商条約を無断違勅調印するや水戸藩尊攘派と連絡,井伊政権批判の密勅降下を企図,上京して水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門らと三条実万らに入説し成功,木曾路経由で密勅(戊午の密勅)の写しを水戸藩江戸屋敷に伝えた。安政の大獄で獄死。拷問に抗し絶食したためという。」】

【注⑫。樺山資之(かばやま すけゆき。通称樺山三円)はデジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、「幕末の武士。薩摩(さつま)鹿児島藩士。嘉永(かえい)5年(1852)江戸詰となり,水戸藩の藤田東湖らとまじわる。井伊直弼(なおすけ)襲撃の計画にくわわったが,決行前に帰藩。長州の桂小五郎(木戸孝允(たかよし))らと連絡をとり,薩・長の尊攘派(そんじょうは)連合への気運をつくった。通称は三円(さんえん),瀬吉郎。】

保古飛呂比 巻七 文久二年より同年四月まで

文久二年(みずのえいぬ) 高行三十三歳

正月

一 この月元日、病気が次第に重くなり、本日ごろは差し迫った容体となり、親族たちが我が家に詰めたとのこと。(注⑬)

この日、江戸表では大雪、夜に入り一尺あまり積もったとのこと。

【注⑬。この病気のことは『佐佐木老候昔日談』で詳しく語られているので、それを引用しておく。

「其の中病気は段々重くなるし、咳は出てくる様になつて、余程の大患となつた。

医師は北奉公人町に居たものだから、隣家の高橋順吾といふものに罹つた。此の男は、漢方の上に蘭方を囓つて居たが、所謂筍医者である。毎々風邪にでも犯されると、すぐこの先生にかかつたが、何分書生風で、気の軽い男だ。今度は、先生も大に弱つて、匕を投げた様子。『平生なら格別、今度はチト御念が入つた様子、風ではありませぬ。藪医者の手には合ひませぬ。一ツ久米養教にでも診察して貰つた方が好う御座いませう。』と云ひ出した。久米は、当時蘭方で大分評判が好く、洋行迄もした男。そこで久米に診察をして貰うと、『熱がヒドくて、気管が頗る悪い。』といふので、大分アラビヤ護謨(ゴム)を呑まされた。其の時分の医者は、至つて幼稚で、体温器や懐中時計を持つては居らぬ。患者の脈を握つて、自己の呼吸と比較し、一呼吸に何度脈が打つたから熱があるとか無いとか云つたものだ。医者が急いで来るとか酒を飲むで来るとかすると、其の呼吸の度数も違ふ訳だ。けれどもそんな事には一向頓着せぬ。夫でも大概誤らなかつたのは、洵に不思議である。

翌れば文久二年正月元日、千里同風の賀儀――自分の病気は益々危篤となり、親族共も、枕辺に詰めて居るといふ有様。新玉の春立かへる今日を晴れと、女小供等、綺羅びやかに追ひ遊んで居るに引かへ、瀕死の病人を抱へて、家内中詰切で看護をして居り、小供等も鬱ぎ勝で垂籠めて居るといふ、実に悲惨な極であつたさうだ。處が段々少しづつ快くなつて来て、二十日頃には最早生命には別條ないとの事、夫でこの北奉公人町の家は何分手狭であり、万事につけて不便であるから、一層本宅へ帰つて養生しやうといふ事になり、駕籠に乗つて、静に杓田村の本宅へ帰つた。里程は一里半位であるが、路に高低があるので、駕籠の動揺がヒドイ。其の為か、急に発熱して。二月上旬には再び危篤となつた。久米の処方のアラビヤゴムも効能がないと見えて、埒が明かない。のみならず、衰弱が何分ヒドくて、ただ身体は骨と皮計りになつたので、是では生命があるやら無いやら分らぬといふので、その時、親族共が相談の上、水道の濱田玄良といふ漢方医へ転薬させた。この医者は、谷子爵の妻の伯父に当る人で、評判も至つて善く、また人物も出来て居た。濱田が云ふには、『余程疲れて居らるるから、竹瀝といふ者を飲まなければならぬ。――竹瀝といふと、竹の甘皮を削れば火縄にする様な黄い薄い皮が取れる。それを今ならソップといふ様に煎じる――水三合に生薑(なましょうが)を三分入れる。』――といふので早速夫を拵へて飲んだ。杓田の宅の近傍に小倉山といふのがある。其所に大分簸竹がある。眞竹よりは多量に取れると云ふので、家内などが毎日の様に取りに行く。取りに行っては竹瀝を拵へて呉れる。で、之を頻りに服用して居たが、後にはこの竹瀝で粥を炊いて食べるがよいといふので、夫をやつて見たが、其のマヅサ加減はお話にならぬ。

竹瀝が利いたのでもあらうか、十三四日頃には、少し快方に向つたので、一同も聊か悦んだ有様、處が藩政府より用召があつて、最早文武館も出来するに就て、文武調役に任命せらるるとの事、一体自分は昨年病気に罹つて一命も危うかつたので、十二月一旦辞職した位であるが、此度病気も多少怠るし、また右の事情があつたので、再び任命の沙汰に及んだ者と見える。勿論病中の事であるから出頭することは出来なかつた。

何分重患であつたものだから、食欲もスッパリない。少々快くなつてからは、鯛の酢ヌタが唯一の好物であつた。けれども此の頃の困窮はまた格別で、かうよく食べさせて呉れたと、自分も不思議に思ふ位、家内は大勢なり、子供は数人ある。ツイ近頃生れた赤児はある。其處へ自分は今の大病、何方へ向いても手の入る者ばかり、夫に養父が家事向なぞは、こんな場合でも一向に顧みない。のみならず屡々意表のことをする。知行は無役であるから、七十石の四ッ割二十八石、諸方へ仕払へば足りる筈がない。この間に於ける家内の苦心は一通ではなかつたさうだ。サァさうなると、人は薄情な者で、中々世話をして呉れぬ。イャ平素親しい者まで垣をする。親族なども多くは頼にならぬ。其の親族が世話もせず置いて、時の勢で貧富所を替へると、親族を笠に色々難題を云うて来る。自分は病中つくづくかう思ふた。是等生中の親類よりは、他人の深切にして呉れるが嬉しいと、夜須屋喜左衛門だの、徳増屋だのいふ者は、全くの他人ではるが、この困難中に随分面倒を見て呉れた。その親切は今に覚えて居る。夫から山川なども、自分との交情が親密で、単に時勢上の意見が投合したばかりでなく、中々親切にして呉れたものだ。山川の継母が怜悧な男勝りの人で、また思い遣りのある人で、自分の不自由なのを見て、彼是と世話をして呉れた。其の後山川が家事がうまく行かぬ。此方は多少自由になつたもので、屡々心許りの志を表してやつた。実に人間の感情は偽られないものである。」】

一 同十一日、御馭初めが行われたが、重病のため父子とも自宅に引き籠もり。

本年は御省略の年限明けにつき、知行高の多少にかかわらず、全員が馭初めに参加することになっていたが、やむを得ず、本文の如く引き籠もり。

一 正月十一日、和宮さまの婚礼が済んだとのこと。

右のことは二月二日着の飛脚で承った。そのとき、我々(勤王家)は和宮さまに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、佐幕家はこれで公武合体が実現したとして大いに満足している様子である。

一 同十二日、大橋順蔵(注⑭)が(坂下門外の変(注⑮)に絡んで)牢屋入りとなったとのこと。

自分は大橋の門下ではないが、江戸滞在中は時々質問等をするために小梅の邸を訪問し、すこぶる懇切にしてもらったので、右の知らせを聞いて大いに慨嘆した。昨年正月、毛利恭輔とともに(江戸を去るにあたっての)暇乞いのため大橋を訪ねたところ、「いよいよご帰国か」と、何か遺憾の口ぶりだった。帰途、毛利と互いに、「今日の大橋先生はふだんと様子が違って、何か心積もりがあるような口ぶりだった」と話したものだ。この頃から既に企てがあったのかも知れないと、入獄の知らせを聞いて思った。

大橋先生は慷慨家で、時勢談をするときは真の書生のように論談した。そのころ予の知り合いの山本恕平は同じ門人で、『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』(大橋の主著。幕末の代表的な勤王論)を預かり、先生に可愛がられた。それゆえ山本と毎度同伴にて(先生を)訪ね、(先生は)胸襟を開いて論じられた。

大橋先生曰く。幕府は今日のようなありさまではとても保つことはできない。異人に対しても頗る姑息なやり方をしている。たとえば、異人が大門より邸内に入ろうとすれば、まず門番がこれを堅く制する。しかし、異人が(邸内に入れろと)強情に申し込んだら、仕方なく玄関まで通す。また(異人が)玄関より書院に入ろうとすれば、玄関番がこれを制する。異人が声高に強く求めれば、書院に通し、それより学問所にても、居間にても、寝床にても、一、二度は制するものの、遂には意のままになり、異人は勝手自在に出入りするような有様になる。今日のような状況では、門はもちろん玄関にても快く案内し、差し支えない場所までは通すべし。国体を辱めぬ限りは、許容すべきは許容すべし。その上で我に守るべきことがあって、これより先は一歩も踏み入ることを禁じると言わなければならぬ。それなのにこのような姑息の有様では、到底国内を統御し、外国に対応することは望みなしと言った。この論には(高行は)至極同感だった。

余はまたある日、安井息軒先生(注⑯)を訪ねたとき、色々と談話の末に、予は言った。「今日は富国のことが最も肝要でしょう。よって諸侯の参勤交代の義務を緩やかにし、中国の周の時代のように三年に一度参勤というようにすれば、諸藩は大いに費用を減じ、人民も富むことになります。諸侯の参勤の費用はおびただしく、歳入の半ば以上にも至ることでしょう。云々」。安井先生はそれを聞いて一声を発して予を叱った。「まことに書生論である。徳川幕府が周の制度に倣うときは、天下はたちまち瓦解するだろう。あなた方は徳川幕府の成立を知らないから、よくよく注意すべし」。予はこのような議論を再び聞くのはいやだ。今度もしも来訪するようなことがあったら、囲碁を戦わせて楽しもうと、予ははなはだ不平に思い、先生に暇を告げて去った。

この安井に叱られたことをある日、大橋先生に話したところ、先生は笑って言った。「安井のような腐儒(腐った儒者)は天下の大勢を知らない。ただ今の時勢で、なぜ徳川幕府の維持に心を砕く必要があろうか。上に聖天子があり、わが国の国威をいよいよ輝かすべきときになぜ徳川幕府の心配をするのかと。まことに一書生のごとく快談された。われわれは大いに先生の説に感服したので再び安井を訪ねなかった。こんなことがあったので、先生に禍がふりかかったのもなるほどと思う。しかしながら、程朱学者(朱子学者)にして先生のように活発な人はいない。今にその徳を慕う。

安井も大家であるから必ず大計画があるのだろう。一書生とうかつに時事を談じるのは天下に益なきのみならず、かえって自分の身に害を受けることになりかねない。安井はそのような愚かな真似はしないだろう。しかしながら、予もまた不快だったので、再び膝を屈してその説を聞きたくなかった。これが安井を深く信用せぬ所以である。

【注⑭。大橋訥庵(おおはしとつあん。通称順蔵。1816―1862)は日本大百科全書(ニッポニカ)によると、「江戸末期の儒学者。熱烈な尊攘(そんじょう)思想家。名は正順(まさより)、字(あざな)は周道、通称順蔵。兵学者清水赤城(しみずせきじょう)(1766―1848)の四男として文化(ぶんか)13年江戸に生まれ、日本橋の豪商大橋淡雅(たんが)(1789―1853)の婿養子となる。佐藤一斎に儒学を学び、思誠塾を開いて子弟を教授、詩文に優れた。1857年(安政4)『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』を著して尊王攘夷論を鼓吹した。安政(あんせい)の大獄に刑死した頼三樹三郎(らいみきさぶろう)の遺体を収めて小塚原(こづかっぱら)回向院(えこういん)に埋葬。公武合体論による皇女和宮(かずのみや)の降嫁反対運動にも参加した。坂下門外の変に際し、計画の中心人物と目されて、老中安藤信正(あんどうのぶまさ)襲撃に先だって捕らえられたが、病のため出獄、宇都宮藩に預けられたが文久(ぶんきゅう)2年7月12日没した。47歳。[山口宗之]」】

【注⑮。百科事典マイペディアによると、坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)は「1861年公武合体推進のため孝明天皇の妹和宮(かずのみや)降嫁を実現した老中安藤信正が,翌年1月15日江戸城坂下門外で尊攘派の水戸浪士6名に襲われ負傷した事件。浪士は全員斬殺されたが,以後尊攘運動が盛んになった。」】

【注⑯。百科事典マイペディアによると、安井息軒(やすいそくけん)は「幕末明治初期の儒学(古学)者。名は衡,字は仲平(ちゅうへい)。日向(ひゅうが)飫肥(おび)藩儒安井滄洲(そうしゅう)の子。26歳で昌平黌(こう)に入り,松崎慊堂(こうどう)に学ぶ。一時飫肥藩校助教などを務めたが,のち昌平黌教授。漢・唐の古注を尊び,清の考証学を好んだ。1853年のペリーつづいてプチャーチンの来航に際し,《海防私議》を著し時事を説いた。注釈書に《左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)》《管子纂詁(かんしさんこ)》など,文集に《息軒文鈔》《息軒遺稿》など。」】

一 右(大橋入獄の件)について、小原氏の随筆には次のように書かれている。

一 大橋(順蔵)氏が召し捕られた件は、正月十日、彼の宅で同志の者が集まり、種々時勢の議論などをした(のがきっかけだった)。そのとき順蔵は「世上如斯年増ニ相迫リ候上ハ」(※原文引用。世上かくのごとく年増に相迫り候上は、と読むのだろうが、年増の意味が不明。まさか年増女のことではなかろう。ただ文脈から考えると、世の情勢がこれほど逼迫しているのだから、といった意味だと考えられる)、因循姑息なままでいたら、片時も無事ですまない。急いで事をおこそうと言って、その計略等をいろいろ相談していたところ、一橋(慶喜)さまお付きの近習頭・山本繁次郎と申す者が言うには、わが一橋家の上屋敷に火をかけ、主人が退出する折をうかがい、同志とともに(主人の身柄を)奪い奉り、それより日光山に立てこもり、義を唱え、旗を揚げれば、事がなるでしょうということだった。一同はその意見に同意した。(一橋公は)幕府の血すじを引く方ゆえ、まことにこの上ない計略だとして、十六日を決行の吉日と定め、その約束を取り交わして引きあげたそうだ。繁次郎は屋敷に帰り、かねてから昵懇の家老に同志たちと相談したことを打ち明けた。家老はその一件はもっともではあるけれど、主君(の身柄)を奪って日光で事を起こすのは一通りならぬことだと考え、いちおう主君の意向を伺っておこうと、即日主君へ伺いを立てた。すると、一橋公はもっての外だと怒りをあらわにされ、すぐさま家老一同に懸け合いなされて、事が露見したとのことである。しかしながら、そうした企てはごく最近に起きた話ではなく、昨年の冬より種々の風聞があり、それが正月十日ごろに至って、いよいよ露見してもおかしくないほど状況が切迫してきたのだと聞いた。

右は水戸浪人が所持していた文書ならびに風説書を松吉氏から借り受けで写した。

一 正月十五日、御軍船御乗初めがあった。省略期間中は形式だけだったが、今年は本式に行われ、太守さまが乗船されたので、見物人が夥しい数となった。

(続。息のあるうちに、私の故郷である「熊本から見た近代」をテーマにしたノンフィクションを書きたいと思っています。本のタイトルは「思想としての熊本」(私の信頼する編集者のネーミングです)にしてもいいかなと思っています。

熊本はとても興味深いところです。あまり出世した人はいませんが、とても個性的な人物をたくさん生んでいます。横井小楠、井上毅、徳富蘇峰・蘆花兄弟、神風連の生みの親である林桜園、肥後勤王党の宮部鼎蔵、河上彦斎、宮崎滔天、それからうんと時代を飛ばしてオウム真理教の麻原彰晃・・・。彼等の軌跡をたどっていけば、日本の近代の別の姿が浮かび上がってくるかもしれません。実は、保古飛呂比の現代語訳も「熊本から見た近代」の準備作業の一環です。訳がもう少し進めば、土佐と熊本のつながりが少しずつ明らかになっていくと思います。乞うご期待)