わき道をゆく第207回 現代語訳・保古飛呂比 その㉛

▼バックナンバー 一覧 2023 年 3 月 22 日 魚住 昭

一 (文久二年正月)十五日、御老中の安藤対馬守殿が登城の際、浪人二十八名が双方より駕籠に討ってかかり、お供の士と闘争になり、安藤侯は深手を負い、坂下門に逃げ入ったという。[これは二月二日、飛脚便により江戸表から知らせてきたとのこと。病中のため他より聞く]

 この事件につき、御坊主(注①)の村山長太より出された書き付けとして、平井善之丞が次の通り書き写している。

 正月十五日、五ツ時(午前八時ごろ)の太鼓が打たれ、安藤対馬守さま[岩城大平五万石]が登城のため(安藤邸の)門から十間ほど出たころ、鉄砲の音がして、刀を抜いた者十五、六人の切り合いとなった。まもなく二、三人が駕籠の後ろから刀を突き通し、脇より一カ所突いたので、前方の駕籠かき二人が駕籠を坂下門のほうへ引きずって行った。やがて駕籠の右の扉が開いて対馬守さまが飛び出し、刀を抜いて坂下門に駆け入っていかれた。四、五間遅れて(対馬守のお供の)侍二人が後を追ったが、敵方一人が追いかけて来たので、侍一人が引き返して討ち取った。対馬守さまは坂下門口から入って大御番所(江戸城本丸の最後の番所)に上がられたとのこと。この際、大和守さま(老中・久世広周。下総国関宿藩主)も急いで坂下口よりお入りになられた……。

一 侍姿の死骸が六人あったので見分したところ、いずれも敵方ばかりだった。それから内桜田門の門番や非番の者たちから、割り当ての人数を差し出したところ、御目付方から命じられたのは、対馬守殿は手疵を負われたため登城せずに退散されるので、(通り道の)往来を差し止めるようにとのことだった。(と言っても、対馬守の警固に当たったのは、我々だけではなく)安藤家からも多人数が出動して沿道を固めていた。四ツ時(午前十時ごろ)、対馬守さまは退散され、この際、関宿藩の者たちも警固した。なお、関宿は久世大和守さまの御領地である。

(対馬守の)お駕籠に切り掛かり討ち死にした浪人の名前は次の通り。

惣髪(注②)三島三郎三十歳位
豊原邦之助十八、九歳位
坊主細谷忠済三十二、三歳位
足軽風吉野政助二十二、三歳位
浅田儀助三十歳位
相見千之三十五、六歳位

              [ 坂下門  ]

       ―――――――| |―――――

←[安藤邸]     ○死骸

←[内藤邸]         ○死骸  ○死骸

        ○死骸・短銃一挺

        ○死骸・短銃一挺

          ○死骸      [  腰掛   ]

検使(注③)御徒目付(注④)富永市造
吉川勘三郎
御小人目付(注⑤)伊藤斧太郎
大森助次郎
別段煩代(?)松本金七
大谷新之丞

八つ時(午後二時)ごろ、(役人の)お指図を受け、(死骸を)戸板に乗せ、丸太を使って呉服橋外の左側(川原)に出しました。見分が済んで、夜四ツ時(午後十時ごろ)、南町奉行所に持ち込んで渡しました。九ツ時(午前零時)ごろ、それが済んだので、町送り(注➅)をするよう御目付方よりご指示がありました。鉄棒引き(注⑦)は出ませんでした。

西川岸町月行司の米蔵
五人組吉右衛門
名主徳右衛門

安藤家のお供の怪我人

深手を負った者(君主の刀を預かる)刀番小原源次郎
大小姓(注⑧)松本連之助
[股を鉄砲で撃たれながら二人を切り殺し、三人目を切りつけた。後ろから頭を割られたが、その敵を切り殺したという]
浅手を負った者大小姓齋藤平之助
薄手を負った者御徒士高津幸之助
深手を負った者警固お供の取締役平田荘兵衛
無傷で二人を斬り殺した者徒士目付伊藤東右衛門
駕籠後ろから突いた跡あり

(次に掲げるのは)小人目付の栗島彦八郎より出た書き付けの写しである。(現場で死んだ)六人の者が同様の書き付けを所持していたという。

山田萬之助

右は、長州藩邸に逃げ込んで自害した者であり、水戸浪人と名乗ったとのこと。もっとも(山田は)長州藩邸に懇意の人がいたので、訪ねてきたとのことである。

一 所持していた書面の大意は次の通り。

「幕府の諸役人はいずれも愚昧で、外国人を国内各地に逗留させているばかりでなく、最も大事な場所を「ミニストル」屋敷(外国公使の止宿所)にして、かつまた日本沿岸の測量を許した。これらのことは畢竟、安藤家の取り計らいが宜しくないために起きたことで、全国の諸侯一同は不服に思っている。もし、諸侯のなかに夷賊征伐の旗を揚げる者が一人でもあれば、諸侯一同はそれに付き従うだろう。そうなれば天下の一大事となり、東照宮(徳川家康)に対し申し訳が立たない。(安藤は)彦根(井伊直弼)以上の国賊である」などといった文意で、およそ五、六尋(一尋は長さ約1・8メートル)もある書面に記されているとのこと。

一 和宮さまの降嫁についても、(公儀が)貰い受けたのではなく、盗み取ったのと同様の処置だという記述も書面中にあったという。

【注①。精選版日本国語大辞典によると、御坊主は「江戸幕府の職名。同朋頭(どうぼうがしら)の支配に属し、剃髪(ていはつ)、法眼(ほうげん)で城内の雑役に従ったもの。茶室を管理し、将軍や毎日登城する大名・役人に茶をすすめる奥坊主と、登城する大名の世話をやき、大名や諸役人の給仕をする表坊主に分かれたが、他に数寄屋頭(すきやがしら)の支配に属し、茶礼・茶器を掌り、喫茶を取り扱う数寄屋坊主などもいた。」】

【注②。精選版日本国語大辞典によると、惣髪(そう‐はつ)は「男の結髪の一つ。額の上の月代(さかやき)を剃らず、全体の髪を伸ばし、頂で束ねて結ったもの。また、後ろへなでつけ垂れ下げただけで、束ねないものもいう。江戸時代、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った髪型。四方髪。なでつけ。そうがみ。そうごう。」】

【注③。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、検使(けんし)は「事実を按検するために派遣する使者。殺傷,変死などを検視する役人で,鎌倉時代には実検使と呼ばれ,室町時代から検使と称した。江戸時代には検使の制度が整い,大名領内の騒擾,城の明渡し,また大名,旗本の切腹などには,格式に応じて検使が選定され,検屍の役を果した。」】

【注④。精選版 日本国語大辞典によると、御徒目付(おかち‐めつけ)は「江戸幕府の職名。目付の支配に属す。組頭に統率され、文書の起案、旧規調査、探索、城内番所監督、玄関取締りや評定所、牢獄などへの出役、将軍出御の道触れなどに従う。」】

【注⑤。精選版 日本国語大辞典によると、小人目付(こびと‐めつけ)は「江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。」】

【注➅。精選版日本国語大辞典によると、町送(ちょう‐おくり )は「 江戸時代、江戸や大坂などの市中に町木戸(まちきど)を設け、木戸番を置き、町の警護に当たったが、ふつう、亥の刻(午後一〇時)には木戸を閉じ、医者や産婆など急用のある者を、拍子木を合図に町から町へ送ったこと。まちおくり。」】

【注⑦。精選版日本国語大辞典によると、金棒引・鉄棒引(かなぼう‐ひき)は「金棒を引き鳴らして、警固、夜番などをすること。また、その人。かなぼう。」】

【注⑧デジタル大辞泉によると、大小姓(おお‐ごしょう)は「小姓で、年配の者。使者役や主君への取り次ぎなどをした。元服した小姓」】

[参考]

一 同日、安藤さまのお届は次の通り。

今朝、登城途中に坂下門の下馬先手前で、狼藉者が鉄砲を放ち、七、八人が抜き身を持って左右から切り掛かってきた。そのため供の者たちが防戦し、狼藉者を六人斬り殺し、そのほかの者どもは逃げ去った。拙者も狼藉者の捕り押さえ方等を指揮するうち、少々怪我をしたので、坂下門の番所で手当てしたが、出血等もあったのでひとまず帰宅した。供の者たちをはじめ手負いの者もいるので、調べたうえ、追ってお届けをする。以上。

  正月十五日               安藤対馬守

[参考]

一 翌日、また安藤家からの届は次の通り。

昨日、届けたように家来の者を調べた結果は別紙の通り。以上。

  正月十六日

[別紙]

  対馬守の家来(の名簿)

深手を負った者平田荘兵衛
浅手を負った者友田立蔵
深手を負った者小原平次郎
松本練次郎
浅手を負った者上坂大五郎
村上秀二
深手を負った者齋藤勇之助
高沢幸之丞
浅手を負った者押方萬蔵
切り掛かった者の名前
水戸浪人
即死三島三郎
豊原邦之助
細谷忠齋
吉野波之助
浅田儀助
和田平之允
松平大膳大夫屋敷で切腹内田萬之丞

一 正月二十日、(高行自身の)病気が次第に快方に向かった。借用の旅宿がいたって狭く、ことに本宅と遠く隔たって不便なので、駕籠に乗って静かに杓田村本宅に帰る。

 この間、およそ一里あまりの里程である。田舎道のため駕籠が揺れた。それゆえ翌日からまたまた病気がぶり返して発熱し、医師も心配したという。

    二月

一 この月朔日、毎月恒例の御礼登城のはずだったが、病気につき自宅引き籠もり。

[参考]

一 同朔日、江戸上屋敷[梶橋内]の近隣で火事。

松平内蔵頭さま  松平三河守さま

松平能登守さま  本多美濃守さま

水野出羽守さま

 以上の御屋敷等が焼失した。

一 同七日、夜の戌の刻(午後八時ごろ)土佐郡杓田村字松本の本宅で男子出生、父上が先一郎と命名なされた。

 自分はこの前日より再び発熱、日増しに重くなった。男子出生でも愉快なく、また一見もできず。

一 同十日、病気が予断を許さなくなり、親族たちがまたまた本宅に詰め、一同相談のうえ、漢方医・濱田玄良の診察を受けさせることにした。

 これまでの経緯を補足しておくと、昨年十一月二十日に発熱、よって隣家の漢方兼蘭方医の高橋順吾に診てもらった。濱田はいわゆる書生流で、診察したうえで「一通りの風邪ではない。しかるべき老練の医師に頼まれるように」と申し出た。このため、いま流行の蘭方医・久米養敬(※『昔日談』では久米要教と記載)の療治を受けたが、前述の通り埒が明かず、病状がひどく悪くなったので、(親族一同が相談のうえ)濱田の治療を受けさせたという。

一 同十四日、このころより少々快方に向かったといって家内らが喜んだという。

 この日、出頭するよう藩庁から昨夜通知が届いたが、大病中につき、自宅引き籠もりの届けを出してくれるよう親類の本山誠作に頼む。

 ただし、藩から武館調べ役に任じるとの仰せ付けがあり、内密に承知した。

一 同十四日、先ごろから普請中の文武館があらかた出来上がり、棟上げがあった。

 太守さまが九ツ時、お供を引き連れて(文武館に)入られ、そのお姿をさまざまな人々が拝見した。(棟上げ式でまかれる)餅や銭等を拾いに行く者が数千人と夥しい数に上ったと病床で聞いた。

[参考]

一 二月二十五日、将軍家より、例によって奉書と鷹鶴(将軍が鷹狩りで捕らえた鶴)を太守さまに賜る旨の知らせが今日届いた。

   三月

一 この月朔日、節句御礼につき登城のはずのところ、病気につき引き籠もる。

ただし、(土佐藩では三月)三日は(御先祖の)命日にあたる(ため節句祝いが朔日に前倒しとなる)。

一 同八日、太守さまが(参勤のため)出発されるはずのところ、「御含ノ筋」(公に出来ない事情)があるため、表向き病気と称して出発を延期されるというお達しを承った。

(延期の背景事情としては)武市半平太等の申し立てで、京都周辺の諸国がこれから不穏になるという情報があった。そのうえさらに文武館開業に関して(何か)あるのだろう(という憶測があるが)病中でしかも辺境に住んでいるため詳しい事情を聞けない。

 しかし、後で聞いたところ、(藩内の)勤王派の申し立てが頻りのため、佐幕派の当路者(重要な地位にある人)が紛擾を恐れて、(延期の)お達しを出したのだろうという。

一 同十日、(藩の)御制服改革(※具体的な内容は不明)を命じられた。

一 同二十三日、(これまで世襲だった)諸芸家(=文武の師範役)制度が廃止され、人物本位で指南役・導引役に任命される。(文武館の)文館司業・武館調べ役に四人が任命される。旧来の芸家の人名は次の通り。

一 軍学知行百五十石馬廻り原 琢左衛門
知行百五十石馬廻り森本貞三郎
無足(=知行なし)馬廻り末子原田岩之介
無足馬廻り末子中山右衛門七
無足馬廻り末子尾池治平
一 弓術知行三百石馬廻り外池武左衛門
知行百五十石馬廻り前野源之助
無足小性格加藤三次
無足小性格横山彌太郎
無足馬廻り末子郷 半平
無足馬廻り末子前野半次
無足馬廻り末子酒井永馬
無足馬廻り末子瀬戸馬之介
無足馬廻り末子津田綱江
無足馬廻り末子川田五百馬
無足新小性乾式右衛門
無足馬廻り末子武藤紋左衛門
無足馬廻り末子川上三左衛門
一 鎗術知行百五十石馬廻り(高木流)岩崎甚左衛門
無足小性格(高木流)原 源八
無足小性格(杉川流)日比楠八
無足小性格(高木流)山田喜三之進
無足新小性郷 円之丞
無足留守居組(高木流)土方○○
無足留守居組(杉山流)後藤○○
無足留守居組(寶蔵院流)大町○○
一 剣術無足馬廻り(小栗流)足達武之介
無足小性格(無外流)手島市平
無足小性格(無外流)森下為衛
無足馬廻り末子(一刀流)麻田勘七
無足留守居組(眞影流)美濃部團四郎
無足留守居組(小栗流)高崎久吾
無足留守居組(小栗流)日根野辯吉
無足新小性組(無外流)角田贊左衛門
無足新小性末子(大石流)寺田忠次
一 居合術無足馬廻り末子山川○○
無足馬廻り末子谷村亀之丞
居合術・柔術無足新小姓末子下村茂市
一 馬術知行二百石小性格(大坪流)大山楠馬
知行二百石小性格(大坪流)山本官吉
知行百五十石小性格(大坪流)西川楠彌太
無足小性格(大坪流)濱田磯次
無足新小性格(大坪流)磯部○○
無足新小性末子(大坪流)磯部左右吉
知行二百石小性格(大坪流)澤田勇吉(断絶)
一 軍貝無足新小性格森岡彌源太
無足新小性格島田甚平
無足新小性末子瀬尾和介
一 軍太鼓無足留守居組山田直三
無足白札傍山○○
一 砲術無足新小性(西洋流)田所左右次
無足新小性(西洋流)能見久米之助
無足留守居組高村造酒之丞
無足留守居組(西洋流)徳弘幸蔵
白札野村亀三郎
白札(荻野流)伊藤俊吉
白札(荻野流)高橋○○
白札(西洋流)芳村○○
一 儒者知行百五十石馬廻り戸部廉平
知行二百石小性格谷 丹作
無足小性格大谷茂次郎
無足小性格大町利平
知行百五十石小性格岡 萬助
無足小性格馬詰寅二郎
無足留守居組中村禎輔
無足留守居組後藤臺六
無足留守居組細川潤次郎
一 医師
御相伴格知行三百石萩野春丈
知行二百石荒川玄門
知行二百石村田玄明
知行百五十石結城隆道
知行百五十石山田隆雲

 右の者たちは御相伴格で物頭の取り扱いである。このほか小性格より留守居組まで数十軒の医師がある。

 一 馬医七人扶持二十四石本山團造
五人扶持二十石山岡力蔵
一 庭方千屋○○

 右のほか、諸芸家が数十軒あったが、省略する。(注⑨)

【注⑨。文久二年三月、吉田東洋による藩政改革の一環として、芸家世襲制度の廃止と身分制度の改革が行われた。それについて高行が『佐佐木老侯昔日談』の中で語っているので次に引用する。「三月二十三日[文久二年]軍学、弓術、槍術、剣術、居合術、馬術、太鼓、砲術、儒者、医師、馬医等の諸芸家をすべて差免ぜらるる事になつて、別に家筋によらず、人物を以て指南、導役に採用することとなつた。即ち文武司業、文館調役が四人新に仰付けらるる事となつた。これは吉田の主意で旧来家格に泥んで其弊たるや、殆ど有名無実となつたからである。

 尋で二十八日に、文武を奨励し、階級を糺す様にといふ御触が出た。全体土佐は、一豊公御入城の時分は誠に階級も単純で、別に煩しいこともなかつたが後世段々複雑になつて、先ず家老、中老、物頭、相伴格[医師]、馬廻、新馬廻、御扈従格、新扈従、馬廻子、新扈従末子、御留守居組、新御留守居組、白札、郷士、徒士の十五に分れて居たが、これも吉田の考で、其の煩雑の弊を矯めやうとしたのだ。最初は馬廻なぞも所詮藩主旗本の士で、かう名付けたに相違ないが、其の下に新馬廻といふものが出来、夫から馬廻末子などいふものも出来る。また君側を勤むる者が扈従であるが、後には新扈従だの、新扈従末子だのいふ者迄出来て来て、次第に複雑になつて来る。勿論侍は、藩公参勤交代の御供をせねばならぬのであるが、貧窮であるとか、病人があるとか、何か事情があつて、留守居を願ふ、夫が一ッの階級となつて、御留守居組といふものが出来た。白札といふものも、矢張りさういふ部類に属するもので、事故があつて御供が出来ぬ時には、名前へ白札を貼つたものが、また一階級となつた訳である。この白札といふのは、妙な一種の階級で、郷士の上に位して、旅行の節には槍を持たすが、士分よりよりは呼捨にする。半ば士、半ば軽格といふやうなものである。侍は当主のみならず二男三男幾人でも、皆士の待遇を受けるが、白札の嗣子は、徒士の待遇で、目見えも出来ぬ。例へば、侍は皆、晴天に日傘をさす事が出来るばかりでなく、家族も皆出来るけれども、白札は当主ばかりで、其の妻子抔はいかない。さうかと思ふと、この御留守居組と白札には随分旧家があつた。夫でさういふ煩雑を一掃して、簡約の階級を立てんければならぬと吉田が着眼したのが、即ち此度改革の発端で、其の三十日には、平士を御馬廻、御扈従組、御留守居組の三等に分ち、新扈従、同末子、御馬廻末子といふものを皆御扈従組に、御留守居組末子を御留守居組に進め、尚旧家だといふので、御扈従組より御馬廻に進められたものが九軒あつた。自分の親しい小原與市だの、吉田派屈指の者といはれた野中太内だのも其の中だ。同時に、今の理由で、御留守居組より御扈従組に仰付けられた者が三軒もあつた。

 ツマリこの改革は、因習の久しき、其の断行も余程六ヶ敷かつたが、吉田がァーいふ風であるから、思ひ切つてやつたのである。それ故後までも随分議論があつた。」】

一 三月二十八日、このたび改正された定めは次の通り。

 先代の容堂公が定められた掟に基づいて文武を励み、身分制度を改正するよう(太守さまが)仰せ出られた。

 十六歳より二十九歳までの者は文武両道(に励み)、文武館に毎日出席すること。三十歳より四十歳までの者は、文武のうち一事(に励み)、毎日出席すること。

 「左右御小性組ノ御物頭・御扈従迄、右支配爾来ノ通ヲ以テ」(※意味が分からないので原文をそのまま引用)、御側組と名目を改める。

 御扈従・御兒扈従は今後、御側扈従・御側兒扈従と名目を改める。

 御扈従格は今後、御扈従組と名目を改める。

[参考]

一 同三十日、今日、お侍たちが奉行職宅に呼び立てられ、これまで新扈従・同末子・馬廻り末子等だったのが皆、御扈従組に改められた。

[参考]

一 同三十日、御新小性末子・御馬廻り末子・御留守居組末子等は差し止められ、皆、御 小性組・御留守居組と仰せ付けられ、平士(ひらざむらい)は御馬廻り・御扈従組・御留守居組の三つの身分に簡約化された。

 身分制度の改革で、旧家であるという理由から、御扈従組より御馬廻りに仰せ付けられた者の名前は次の通り。

小笠原彌八郎長谷川直之丞
松井源蔵野々村庄七
小原與一郎前川長太郎
川本梶介野中太内
高屋助八

 これと同じく、御留守居組より御扈従組に仰せ付けられた者の名前。

美濃部権三郎服部與右衛門
野崎傳太

   四月

一 この月朔日、本日、毎月恒例の御礼登城だったが、病気のため引き籠もり。

 去年、西大門前より川原町にかけて接収した屋敷の跡に文武館が建築された。

桜馬場の東上手を取り除き、河岸まで馬場を拡げ、砲術場兼用とした。ただし、外馬場ならびに番人小屋は除く。

円満寺橋を北方へ移し、文武館内から馬場・砲術場へ往来できるようにした。

川岸場の北門から桜馬場の南端に往来する橋が新たに架かった。

一 四月二日、文武館開館、自分は病気につき(御場所拝見の儀式に)出席せず。

文武館の構造は次の通り。

周囲九千百八十余坪、建築面積千三百九十余坪。洋館あり。家老以下の身分ごとに区切って席次を設ける。文武の文に属する課目は(四書五経などの)経書と史書に分かれ、武に属する課目は槍剣・居合・組打・馬術・兵学に分かれる。また天文・洋学等の室を置き、空き地に練兵及び射的場を設け、それによって諸士に文武両道を練習させ、童子に習字を学ばせる。別に藩士の武芸観覧所を建て、洋館より各所に廻廊を通じ、往来の便に供する。

 その規則の大略は次の通り。

一 十六歳より二十九歳まで、世取(よとり)総領(どちらも跡継ぎの意)どもは朝五ツ時(午前八時ごろ)から夕七ツ時(午後四時ごろ)まで、経書と史書のうちどれか、槍剣のうちどれか(一つずつ)、好きなものを選んで学んでいい。

一 三十歳から三十九歳まで、朝五ツ時より正午まで、経史・槍剣のうちどれかひとつ好きなものを選んでいい。

 以上は毎日出席すること。

一 四十歳以上は本人の勝手次第。

一 末子・養育人まで(※これ以上の記述なく意味不明)

 本日、新御場所(※新たにできた場所つまり文武館のことか)担当の御近習・小目付け役の二人が任命された。人名は次の通り。

御扈従組荒尾騰作
元白札・御徒目付役島村左吾平

 ただし島村は、御留守居組に仰せ付けられ、さらに小目付け役の在任中に限り(もう一段上の)御扈従組に仰せ付けられる。大変な抜擢である。

一 四月五日、文武館開業。自分は病気につき出席せず。

 右のことについて当時、その職にあった者の筆記に言う。

豊範公の御代の文久二[壬戌]年三月、江戸に向けての出発が延期された。それから間もない三月末、文武館がおおむね完成したので、家老をはじめとする諸士(=本藩直属の上士たち)および與力騎馬(=地方に本拠を置く土居付き家老の重臣たち)に至るまで、年齢十六歳から三十九歳までの者は、追々文武館に出てきて学ぶよう命じられた。と同時に年齢に応じた課程を定められた。現在のところ、朝は五ツ時から夕七ツ時まで、文武の両方に精励するよう、それぞれの組の組頭から配下に伝えられた。

 同四月二日、開館。お披露目があり、諸規則などを承った。

 同五日、開業。文学(経史書の学習のこと)・剣術・鎗戌・居合・竹内流組打ちが先ず開業した。弓馬組合、兵学はまだ道場が落成していない。その芸を学ぶ者は(いつになったらできるのか)疑念を持っているというが、建築にとりかかった時の縄張りが狭かったせいである。鎗術は(〇〇流、□□流といった)流名を立てず(鎗術一般として)、剣術は面・小手・竹具足の類を、鎗は現在流行の道具を用い、直鎗・十文字(注⑩)を使う。文学は(従来のような)師匠が門弟を教え導くやり方を廃し、「役懸リヲ以テ其好ニ応ズ」(※意味不明のため原文引用)。もっとも句読席(漢文の素読を行う席)は別に設けた。

 諸士(平士以上の家臣で、郷士・奉公人は除く)や世取総領(諸士の跡取り)たちは十六歳から二十九歳まで、経書・史書のうちどちらか好みに応じて選び、また鎗術・剣術もどちらかを選ぶ。三十歳から三十九歳までの者は経史・槍剣のうちからどれでも好み次第で選ぶ。練兵については後で全員まとめて仰せ付ける。(諸士の)末子・弟・養育人ももちろん(文武館で)学ぶが、(課目は)一芸で済む。末子以下は課程の決まりがないので、当分本文のようにする。

 文武館は後に致道館と改称される。役員は司業・調べ役がつとめ、館務を執り行う。別に総裁や頭取を置かず、奉行職・仕置き役・大目付が監督する。

 現在のところ、郷士以下に文武の道場を設けないのを不平に思う輩があったが、それは場所が狭いためであって、やがて建立される。

 豊範公が参勤のため出発される時期がすぎたが、文武館開業の四日目に仕置役の吉田元吉が横死した。下手人がわからず、藩内混乱、まことに只ならぬ事態となった。それに加えて京都・大阪方面には浪士の動揺があり、よって参勤を見合されたらしく、外出も控えられた。その後漸くにして六月某日、豊範公ははじめて致道館にお入りになった。諸士を謁見され、道場を巡覧され、それぞれに懇ろなお言葉をかけられた。中でも豊範公のお眼鏡にかなった者たちがあった。剣術では毛利恭助・茨木源四郎が豊範公から刀をいただき、槍術では岩崎甚八郎・小島官兵衛・千頭呑八が槍を拝領した。居合術は谷村彜吉が刀を、文学は中村十次郎・福岡精馬が鍔を拝領した。右の面々は豊範公の面前に召し寄せられ、直接(褒美の品を)受け取り、開業式は滞りなく行われた。豊範公は諸士の勉励、道場の壮観にひどく喜ばれ、ご機嫌麗しく帰城された。このとき御側家老の柴田備後、御側御用役の五藤忠三郎・高屋友右衛門、御近習目付の山川左一右衛門良水がお供をして、公のお志が厚いことをたしかに承った。

 思うに、致道館建設のことは容堂公のお志だとはいえ、当時は謹慎中で、江戸鮫洲の別邸に蟄居されていた。豊範公は若年ながら土佐守に任じられ、専ら文武の奨励に意を注がれた。文武館は藩政の中でも未曽有の大事業である。こうした(豊範公の)ご功績があったがゆえに、藩内に文武の士を生み、士気を奮い立たせ、兵を練り、砲術を学ぶ者を輩出させた。(のちの慶応四年の)戊辰の変で、外には兵を各所に出動させ、内には兵を調練するのに適した態勢を作り上げることができたのは、まことにこの館を設立したおかげである。であれば、(豊範公による)文武館設立の功業は、すなわち維新の聖政を助け、隠然「海南の鎮府」(四国の軍事拠点)を生んだと言っても、おそらく過言ではないだろう。

 およそ(日本各地で)砲台を築き、大砲を鋳造することは極めて多かったとはいえ、それは藩庫を開いて大金をなげうつに過ぎなかったが、この館のごときは真実に聖政を翼賛する精神を作り上げたものであるというべきだ。

  戊申七月記す

                       致道館係の某が謹んで記す

【注⑩。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、直槍(すやり)は「直鑓,素鎗,素槍とも書く。日本の槍の一種で,槍身に枝刃のないものを直槍,枝刃のある形のものを鎌槍という。片側にのみ枝のあるものを片鎌槍,両側にあるものを両鎌槍あるいは十文字槍という。また直槍のうち,特に槍身が長く剣のような形状のものを大身 (おおみ) 槍と呼んで区別する。」】

一 四月八日亥半刻(午後十一時ごろ)、城から帰宅中の参政・吉田元吉が帯屋町下一丁目の西四辻で暗殺された。下手人が何者なのかは分からない。翌九日、はじめて寝床でこれを聞く。下手人の風説はまちまちである。

 床の上で種々の風聞をきいて考えるに、なにぶん今度の事件は勤王家の激徒の仕業であろう。昨年秋、武市半平太が帰国して以来、激徒の主張を採用せず、(激徒が)ひどく軽蔑されたという。自分は半平太が帰国したころ面会したが、その後、十一月二十日より病気のため、今日まで彼らの秘密の相談に関わらなかった。しかしながら時々、島村衛吉・岡本次郎・小畑孫三郎等が見舞いに来てくれたけれども、家屋がいたって手狭で、わずかに四畳敷一間、隣に二畳敷の茶の間があるにすぎない。そこに家内はもちろん、親族たちが始終来合わせるありさまだ。その後、本宅に帰ったが、わずかに四畳半一間に、四畳敷の押し入れ、三畳の茶の間なので、以前と同じく秘密の相談は出来なかった。ただ、島村らの口ぶりには恐るべき模様があった。はたして(彼らが吉田暗殺を)実行したのなら、速やかに自首して、他の人々に代わって処罰を受くべきだろう。そうせず、姿をくらましたりしたら、上下の疑惑は甚だしくなり、勤王の正義にとって後々の禍が生じるだろう。だいいち容堂公はいまだ謹慎中であり、ことに吉田は寵臣であるから、どのような御疑念が起こるのか、どんな讒言が出てくるかもわからないと病床で大いに苦慮したが、他に相談すべき人もなし、嗚呼。

 この件につき追々耳に入った風聞は次の通り。

 吉田暗殺の下手人は佐川殿(土佐藩の重臣・深尾重先)の家来だとか、または身分の低い者の仕業だとか、または古流の剣術改革に対して不満を持つ者だ、あるいは以前、吉田が手討ちにした家来の子だとか、世間の風説は種々様々だと聞く。吉田が暗殺されたその場に通りかかったのは、平瀬保之進栄索で、平瀬は片町の岡某の邸からの帰途、ちょうど吉田が倒れ、誰も居合わさぬ場面に行きかかったという。最寄りの前野久米之介の長屋を呼び起こしたが、誰も起き出てこなかった。そのうちに東方から提灯がやってきたので、近寄って見れば、末松務左衛門だった。二人は互いに事件への対応を相談し、末松が「国法から言えば、死体はその場に置いて検視を受けるのが当然だが、吉田は参政の地位にあるので、路上に検視を受けさせるのもいかがなものか。国法に背き、いつか責めを受けることになっても、我々二人の責任で吉田の自宅へ運び込んだらどうか」と言うと、平瀬は早速同意した。そのうち吉田の家来も集まって来たので、ともに吉田の死体を自宅に運び込んだ。そのとき、死体を乗せる台がなかったので、仕方なく、手足などをつかんで持ち運んだ。

 吉田の首は口の辺りより上を切り取られてなくなっていた。平瀬によると、吉田の供をしていた家来の話では、帯屋町の吉田の自宅に近くに来たとき、一人が刀を抜き、声を上げながら切り掛かった。吉田はすぐに刀を抜いて応じ、不届き者と叫びながら、何度も畳みかけて切り込んだ。すると、狼藉者はかなり後ろへ退いたが、そのとき(吉田の)後ろから切り掛かる者がいて、吉田はついに倒れたようだった。そのとき家来は溝の中に落ちてはまっていたという。臆病者の話だから正確かどうかわからないが、聞いた通りを話すと(平瀬は)言った。

一 これに対し、瑞山会編纂の武市伝に曰く。

 このとき、山内豊範は江戸参勤の時期にあたり、四月十二日に出発しようとしていた。半平太は思った。「藩庁尊攘ノ説ヲ付ケテ、佐幕ノ党、幼主ヲ擁シテ発ス」(※藩庁が表向き尊皇攘夷を唱えながら、その実は佐幕派が年少の君主を擁して出発するという意味か)。途中、伏見を経て直に江戸を目指すのだろう。もし(豊範公の一行が)次郎等(尊攘派志士の平野国臣、通称次郎(注⑪)らのこと)の蜂起による騒擾に遭遇すれば、予測不能の事態になる。自分は昨秋、薩長の士と交わした約束がある。今、その約束のときに彼らと会うことができない。たとえ違約のそしりを受けても、自分は忍ばなければならぬ。もし(藩主一行が)途中で事変に遭遇したら、藩の名誉はどうなるかと。半平太の苦心はここに極まった。そこで島村壽之助・河野萬壽彌・弘瀬健太・川原塚茂太郎・島村衛吉等を集めてひそかに相談し、万々やむを得ず、「清側の策」(※君側の奸を除く策の意か)を断行すると決めた。そしてこれを(藩主の)一門・家老に謀った。皆は言った。吉田元吉さえいなくなれば、その他の連中を駆逐するのは、我が輩が誓ってその責任を果たすと。そこで(半平太は土佐勤王党の)同志たちに殺害の手筈を順次分担させ、四月朔日より元吉の挙動を監視させた。第一次の(刺客隊は)岡本猪之助・岡本作之助、第二次は島村衛吉・上田楠次・谷作七らがその任に当たることになったが、皆まだその機会を得なかった。六日、那須信吾を第三次(の刺客)とし、そしてさらに一人、二人を選ぼうとしたが、それにふさわしい人物が見つからなかった。七日夜、大石團蔵が同志たちのグズグズしているのを怒り、香美郡より来て、島村外内(衛吉の兄)を訪ね、自らその任に当たると申し入れた。外内はこの件を相談しようと半平太を訪ねた。(同志の一人の)山本喜惣之進は、團蔵が血気の勇にはやって、あるいは大事を誤るかもしれないのを心配し、半平太を訪ねて相談した。議論の行方は定まらず、そこにまた森愼太郎も来た。互いに議論し合って明け方に及んだ。愼太郎は他に考えるところがあって、八日早朝、その場を辞して家に帰った。そこに安岡嘉助が来て、刺客になりたいと申し入れた。そうして團蔵・嘉助の決意は固まった。ついに議は決して、信吾・團蔵・嘉助の三人が刺客となった。たまたまそこに大利鼎吉が来て、情報をもたらした。「今夜、元吉は君公の前で侍講する。必ず深夜に下城する機会があるはずだ」。三人は勇躍して出動し、城外にさまよって(時を)待った。この日、宮田賴吉はこのことを島村外内に聞いて、突然、(元吉殺害の)現場に臨み、四人遂に元吉の下城を待ち受けて殺した。その後、賴吉はすぐ安芸郡に帰り、信吾は元吉の首をとり、城西の雁切川の堤に捨て、嘉助・團蔵とともに亡命した。これを四月八日の変という。

一 四月九日、吉田(元吉)氏の親戚から出された届は次の通り。

吉田元吉

 右は昨日八日夜、(下城の)途中に狼藉者があり、刃物で斬りつけられて絶命しました。そのため早速狼藉者の行方を追いましたが、逃げ去られ、いまもって分かりません。死体はそのまま現場に置いておくのが藩の御作法ですが、源太郎は父子の情において屍を道にさらすのは忍びがたく、やむを得ず自宅に運び込みました。このことをお届けいたします。

  四月九日

百々幸彌

 先ほどお届けした死体を改めましたところ、三カ所の疵のうち、肩は(長さ)五寸、深さ二寸、(疵の)開きは一寸五分。右脇はかすり傷四寸ばかり。首は顎から放たれ、行方が分からなくなっていたところ、雁切川の堤で「封状」(注⑫)とともに見つかりましたので、取り寄せました。この「封状」はそのまま御目付に提出します。以上。

  四月九日

【注⑫。封状はふつう封書の意味だが、この場合は違うようだ。なぜなら次に紹介するように、吉田の罪状を記した罰文は幅八寸、たて一尺の板に墨で書かれていたからだ。とすると、この場合の封状とは何か。申し訳ないが、私にはわからない】

 吉田次郎左衛門

(罰文は)幅八寸、たて一尺の板に書き記され、首は雁切川の堤に油紙で包んであったとのこと。

[封状]

この元吉こと、重役でありながら、わがまま放題に振る舞い、天下不安の時節をも顧みなかった。一日でも気楽に暮らしたいとばかりに、御国の財政が次第に窮迫するのを知りながら、表では藩の余剰金があるかのように都合良く取り繕いつつ、すでに先年から蓄えられていた備蓄米を使い果たした。藩のお宝山(※土佐藩の林業育成のため特別な保護を加えられた山をお留山といい、その中でもさらに優れた山をお宝山といった)等を残らず切り剥がした。これだけでなく、他のいろんな事でも、下賤の者から金銭を夥しく取り上げたがために、お国の民が(身分の)上の者たちに親しむ心を引き剥がした。それだけでなく、自分のために賄賂を貪り、無数の驕りを極めた。そのうえ江戸表の軽薄な小役人に申しつけ、(太守さまの)名をかたって高価な銀の銚子をあつらえ、かつ自宅の普請や平常の衣食がいよいよ華美を極めた。そのままにしておくと、士や民の心はいよいよ離れ、藩のために働く者はひとりもいなくなる。ついにはお国の滅亡につながりかねない。不肖の我が輩どもはそれを堪え忍び難く、上は国を思い、下は万民の艱苦を救うため、己の罪を忘れてこのように実行し、(元吉の首を)晒しおくものである。

   四月

 右の吉田氏のことについて落首・謎かけなどがあった。

  料理した皿を

      見に行くや初鰹

  吉田元吉とかけて、

      腐りウルメととく

 心は

      焼くうち[役内]に首が落ちる

(続。何回やってもうまく訳せません。おそらく間違いだらけだと思いますが、どうかご勘弁を)