わき道をゆく第208回 現代語訳・保古飛呂比 その㉜

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[参考]
一 本間精一郎(注①)なる者が(土佐藩が大阪・住吉に設けた)住吉陣屋に来たとのこと。飯沼氏の筆記に曰く.
 (文久二年)四月八日、浪人・本間精一郎と土佐梼原村の庄屋・吉村寅太郎(注②)の二人が一緒に住吉陣屋に来て、門番に名を名乗った。そうして、「学問修業のため諸国を遊歴している者だが、この陣屋で文武修業を担当しておられる方にお目にかかりたい。福富健次殿・松下與膳殿は何年か前、長堀の(土佐藩)蔵屋敷で勤番をしておられるとき、ある儒者の家で同席した覚えがあるので、このお二方に申し入れていただけないか」と言った。よって門番がその旨を福富健次に伝えた。ふだん儒学を学ぶ者が来た場合、吉田文次・松下與膳の二人が出て、文校(陣屋内の学問所)で対応することになっているので、今日も同じように取り扱うはずだった。ところが文次は外出していて不在だったので、與膳一人が本間らを文校に迎えて話をすることになった。本間は文校の広間へ通され、上座についた。玉虫海気(たまむしかいき。縦横の糸の色を変えて織り、光の反射によってタマムシの羽のように色が変化して見える絹織物=デジタル大辞泉)の小袖に紫縮緬の羽織を着ていて、(月代を剃らず)総髪を頭のてっぺんで大きく結んだ、仰々しい格好だった。吉村寅太郎は次の間にいて談論に加わらなかった。[傍聴人は岩崎甚八郎・毛利恭輔・井上武右衛門・廣田貢次郎・宮川助五郎]。與膳は本間に向かって学問のことを訊ねた。本間は「目下の時勢は一方ならぬ大事が起ころうとしており、不急のことはお答えしかねる。今の時勢についてどうお考えか」と言って、容堂さまの日常の様子を聞いた。與膳はそれに対し「隠居のことゆえ、書画などを楽しんでおられる」と一通り答えた。本間はまた時勢の▢について「利にお就きになられるか、それとも義にお就きになられるか」と言った。與膳は「義と利の件は申すまでもありません。義にあらずして何事も出来ません」と答えた。これより本間は世の不正を嘆きながら、激しい言葉遣いで言った。「実はいま大変な事態になっているので、お心得のためにお話ししたい。ことし薩州侯(薩摩藩主・島津忠義(注③))は参勤されるはずだったが、(江戸の薩摩藩)屋敷が焼失したので、参勤ができなくなった。このため薩州侯の実父である島津和泉(島津久光(注④)のこと)という公子(=藩主の子。※久光は第十代藩主・島津斉興の子)が江戸へ出て、薩州侯がまたまた参勤出来なくなった件について幕府と折衝すると称し、十一日には大坂に到着される予定になっている。しかし、もとより和泉は江戸へは行かずに伏見に向かい、そこから直に京の都に上がって勤王の兵を挙げることに決定した。精兵二千人ばかりを引率して大船に乗って来るので十一日には必ず大坂に着く。よって私ども亡命者ら九十人余りがこの勤王の義挙に加わり、上京して姦臣を除き、天子の御心を安んじ奉るつもりである。長州侯(長州藩主・毛利敬親)・有馬侯(久留米藩主・有馬頼咸)もこれに同調され、すでに中川侯(豊後岡藩主・中川久昭)は三百人の兵を出されたはず。長州侯は江戸滞在中なので臣下の義勇の者数百人が上京し、そのうえで長州侯を江戸よりお迎えする手筈だ。長州侯が箱根を西へ越されるまで待ってくれるよう長州藩から薩摩藩に要請があったが、それまで待つことはできぬと島津より返答した。十五、六日ごろには事が起きるだろう。これは突然の話であるから、御陣屋の一同で意思統一することも難しいだろうから、銘々のお考えで、義に就かれる方は勤王の挙兵に加わればよい。後で悔やむようなことになったらつまらない」などと言った。やがて大谷茂次郎・福富健次もその場に出てきて、議論で時間が過ぎていった。聞く者は本間の弁舌(の才)を感じたという。
 與膳は「勅命もなしに事を起こしながら、勤王を名乗るのはおかしい。かつ、この陣屋は海岸警衛のために設置されたものなので、諸士ともにそういう心得で勤めに励むのは当然だ。それを差し置いて他のことに加担する者は一人もいない」と答えた。本間は與膳に向かい「お若いのに、感心なご議論」などと言って、何でもないふうに振る舞い、日暮れに帰っていったという。このとき、かの寅太郎は土佐藩の国境を破った亡命者であると名乗り出た。そのうえ寅太郎は、絹の着物を着て陣屋に来た不法者なので許しておけず、召し捕るはずだった。そのため下横目(下っ端の警察官役)を配置しておいたが、本間精一郎が帰るとき(寅太郎に)付き添って帰って行った。この後、(寅太郎を帰してよかったのかと)陣営で議論が沸き起こった。大谷茂次郎は「寅太郎を召し捕ったら彼の情状(※この場合は仲間の有無や背後関係を指すと思われる)を聞き出せない。わざと寅太郎を帰したほうが、彼の情実を探るのに都合がいい」と言った。その後、福富健次は馬で土佐藩の長堀屋敷に行って情勢を探索した。長州の模様を聞くと、長州藩としては挙兵のようなことは思いも寄らないということだった。薩摩の剣客・入江孫右衛門という者に尋ねたところ、入江が言うには「このたび島津和泉が士格五百人、総勢およそ千人ばかりで、来る十一日に大坂に到着する予定だったが、それが早まって十日に着くことになった。これは江戸へ行くと称して上京する手筈になっている。そのため浪人どもに蜂起の動きが見えたが、和泉の意中はどうなのかわからない。何か事情があるようだ」という。(注⑤)

【注①。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、本間精一郎(ほんませいいちろう。1834―1862)は「幕末の草莽(そうもう)志士。天保(てんぽう)5年正月24日越後(えちご)(新潟県)寺泊(てらどまり)(現長岡(ながおか)市)の商家に生まれる。幼名精兵衛(せいべえ)、名は正高、字(あざな)は至誠(しせい)、号は不自欺斎(ふじぎさい)。1853年(嘉永6)江戸に上り幕臣川路聖謨(としあきら)の中小姓(ちゅうごしょう)となり、昌平黌(しょうへいこう)の安積艮斎(あさかごんさい)に学んだ。59年(安政6)川路に随行して西上したころから勤王活動を深め、安政(あんせい)の大獄で伏見(ふしみ)に入獄。出獄後、京を中心に活動し、青蓮院(しょうれんいん)宮家に出入りして諸国浪士と交わり、長州、四国、九州に遊説した。好んで長刀を帯び、言説は雄弁過激で同志の反感と誤解を買うこともあった。そのため文久(ぶんきゅう)2年閏(うるう)8月20日斬殺(ざんさつ)され四条河原に梟首(きょうしゅ)された。犯人は土佐藩士ともいう。長岡市寺泊地区に生誕地の碑がある。[真水 淳]」】

【注②。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、吉村寅太郎(よしむらとらたろう。[生]天保8(1837).土佐[没]文久3(1863).9.26.大和、吉野)は「幕末の尊攘派志士。虎太郎とも書く。名は重郷。父太平の跡を継いで庄屋になったが,文久1 (1861) 年武市瑞山の勤王党に加盟,翌年脱藩して国事に奔走,寺田屋騒動で捕われて送還された。同3年さらに京都に出て藤本鉄石,松本奎堂らと天誅組を起して討幕攘夷の挙兵をしたが,鷲家口 (わしかぐち) の戦いに敗れて自刃】

【注③。朝日日本歴史人物事典によると、島津忠義(没年:明治30.12.26(1897)生年:天保11.4.21(1840.5.22))は「幕末維新期の薩摩(鹿児島)藩主。島津久光の長子。安政5(1858)年12月,前藩主斉彬の遺命により襲封,名を茂久とする。時に19歳。藩政の指導は実父久光あるいは西郷隆盛,大久保利通らの有力家臣に委ねた。慶応3(1867)年11月,討幕の密勅を得て率兵上洛,王政復古の政変で誕生の新政府では議定,この直後に忠義と改名。海陸軍務総督,鹿児島藩知事。西南戦争に当たり政府軍と西郷軍の休戦を図ったが失敗。保守化していく父久光によく従う。明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法発布の式典に列席,「ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津公を認めた。珍妙な光景だ!」とはベルツの日記の一節。まげは,すでに亡い久光への孝心に出ていたのかもしれない。(井上勲)」】

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、島津久光(没年:明治20.12.6(1887)生年:文化14.10.24(1817.12.2))は「幕末の薩摩藩指導者。父は藩主島津斉興,母は側室由羅。号は双松,大簡,玩古道人,無志翁など。斉興の継嗣をめぐり久光と異母兄斉彬のそれぞれを擁立する抗争(お由羅騒動,高崎崩れ,嘉永朋党事件などと称する)を生じたが,結局斉彬が嗣ぎ,次いで斉彬の遺命により久光の実子・忠義が藩主となる。久光は生後間もなく種子島領主の養子に出されたが,のちに本家に戻り,さらに一門の島津忠公の養子となり天保10(1839)年大隅国重富領1万4000石を相続した。弘化年間(1844~48)に外国軍艦の来航する事態を迎えて藩政に参与し始める。藩主に就任した忠義の要請で本家に復帰すると,国父と称され藩政の実権を掌握した。開国後の政治情勢の中で尊攘を唱える,いわゆる誠忠組の青年の中から大久保利通を抜擢し,中央政局への参加を図った。そして,文久2(1862)年西郷隆盛に先発を命じ(西郷はのち独断で京を目指したため遠島処分),率兵上京した。斉彬の遺志を継いで公武合体を構想し,寺田屋騒動(1862)で藩内尊攘激派を弾圧し,次いで勅使大原重徳を奉じて江戸に行き,一橋慶喜の将軍後見職就任などの幕政改革に寄与した。その帰途生麦事件を起こし,翌年薩英戦争(1863)を招いたが,薩摩軍の勇戦により朝廷から撃攘の功を賞されている。 薩英戦争後,8月18日の政変を主導し参予会議に加えられ公武合体を目指し続けたが,同会議の解消により行き詰まってしまった。難局打開のため大久保と赦免した西郷を用いたが,結局,両人により公武合体は次第に後退し,倒幕への道が開かれた。維新後,守旧的傾向を保持し続け新政府の開明政策を批判し,明治5(1872)年天皇巡幸の際に鹿児島でその趣意を建白している。西郷が下野したのち6年上京,内閣顧問,翌7年には左大臣にそれぞれ任命されたが,結局欧化政策や三条実美,岩倉具視らを批判する上奏を行い辞職,帰国した。西南戦争(1877)の際には,西郷軍に加担する気配を全くみせていない。17年公爵となり,晩年は修史事業を進めた。<参考文献>島津公爵家編輯所編『島津久光公実記』(長井純市)」】

【注⑤。吉田東洋暗殺後の土佐藩内外の情勢について平尾道雄著『土佐藩』に次のように書かれている。「東洋の死後、諸方面の策動によって吉田政権は崩潰した。四月十一日の夕刻から翌日にかけて東洋を支持した奉行職、すなわち執政の深尾弘人[蕃顕]と福岡宮内[孝茂]がまず罷免され、仕置役すなわち参政の朝比奈泰平[元辰]と真辺栄三郎[正心]、大目付の大崎健蔵[重樹]および福岡藤次・市原八郎左衛門、近習目付の後藤象二郎などは相次いでその職を逐われ、十三日には近習家老深尾丹波[成質]も退職になった。これに代って十二日には反吉田派の山内下総[佐成]と桐間蔵人[清卓]が執政に、柴田備後が近習家老に任命せられ、十五日になって五藤内蔵助[正身]を執政としてその陣営を強化した。(中略)東洋排斥の大きい推進力となった一門の山内大学は二十六日新設の文武館総宰の座を占め、ここに反吉田派の新政権は成立したが、その大部は保守勢力に属するものであって、勤王党を支持するものはわずかに監察府の平井善之丞と小南五郎右衛門があるに過ぎず、武市瑞山の希望する強力な藩論統一を実現するにはなお多くの困難が予想されたのである。土佐の藩情がこのような深刻な悩みを経過している間に、中央の政局はさらに新しい変化を見せていた。
 島津久光は一〇〇〇余の兵を率いて三月十六日鹿児島を出発、四月十日大坂に到着し、十六日京都にその兵を入れた。それだけでも徳川幕府の法度を無視した行動であったが、さらに朝廷にむかって皇威振興・公武合体・幕政改革の三策を進言し、その結果京都守衛・国事周旋の内勅を拝受した。藩士のうちにはこれに満足せず、諸国の浪士と結んで伏見において倒幕挙兵の計画を進めるものがあったが、久光は首謀者数人を斬ってその暴発を制圧したのである。(※魚住注。これが世に言う寺田屋騒動である)久光の公武合体策というのは将軍を上京させて国策を討議させることがその一、沿海五大藩の主を挙げて五大老に任じ国策に参与させることがその二、一橋慶喜を将軍の補佐とし松平春嶽を大老に任じて幕政を翼賛させることがその三であって、この三策を幕府に実行させることであった。朝廷はその建言を容れて大原重徳を勅使とし江戸へ特派する議を定め、島津久光は勅使護衛の命をうけて五月二十二日京都を立ち、六月三日江戸着府、同十日江戸城において勅旨を将軍に伝宣した。幕府はすでに安藤信正・久世広周の両老中が引退して水野忠清・板倉勝静および脇坂安宅が老中になっていたが、勅旨にしたがって政治改革のことが審議された。島津久光の案はそのまま受諾されなかったけれども、一橋慶喜は将軍後見職、松平春嶽は政治総裁として挙用され、幕府の政治改革は逐次勅旨にそうて実行されることになったのである。山内容堂が慶喜・春嶽に協力して幕府の政治改革に参与することになったのもこの結果であった。薩摩藩のこのような積極的な行動についで、長州藩では世子毛利定広が江戸から帰国の途中、四月二十七日に上京して朝廷に召され、島津氏と協力して京都を警衛し国事に周旋する内勅を受けた。水戸の点火によって燃えあがった新しい薩・長の勢力に土佐がどう伍して行くか。吉田政権崩潰後の勤王党の前途に、はたしてどんな運命が待ちうけていたか。】

[参考]
一 (土佐藩の)大坂屋敷詰めの留書(下級役人の一種。書記にあたる役)・寺田萬平が送ってよこした文書。今夜六ツ時(午後六時ごろ)、住吉の陣屋詰めの小目付・福富健次が早馬で(長堀の)大坂在役場に来た一件を次に記す。
 今日、江戸の浪人・本間精一郎ならびに吉村寅太郎(が陣屋に来た)。
 この吉村は(土佐の高岡郡)津野山郷芳生の庄屋で、ただいま出奔して諸国の浪人と付き合っているようだ。
 両人は福富を訪ねて来た。本間が言うには、近く薩州公の実父の和泉さまがお登りになられ、来る十一日には大坂に着かれるとのことだった。
 これはいよいよの事で、(大坂・長堀の)当屋敷にも通達があった。それによると、和泉さまは、修理大夫さま[今の太守さま]が(以前のように先代の)実弟の身分に戻され、島津本家に引き取られた。そのむね江戸において届けがあった。そういうわけで、和泉さまは江戸屋敷の監督を兼ね、よんどころない御用もあって江戸に出られる云々。
 また一昨日の通達に、
和泉さまはあさっての八日に大坂到着予定だったが、道中で二、三日、滞留される(ので大坂着が遅れる)と連絡があった云々。このように薩摩藩大坂屋敷の留守居役から通達があった。
 これは(本間が言うには)実は江戸へ登るのではなく、京都に登り、そのうえで所司代を追い払い、天帝を守護し奉り、義兵を挙げる。それに同志の士が▢より登って加勢するつもりとのことである。すでに長州の草間玄瑞(※久坂玄瑞(注➅)の誤記か)という▢▢同志の一人が大坂に登った。また、同国の士の周布正一郎(※周布政之助(注⑦)のことか)という▢▢が長州公をお迎えに、江戸に登った。「薩摩ノ旌(はた)ヲ揚、又先ニ御国ヘ御供申サント」(※意味がよくわからないので原文のまま引用)、関東へ急いでいるとのこと。前述の吉村氏はこれを聞いて、こうした情勢を久恩の国(土佐藩)に知らせたいと願い、本間に同道して来たのだという。
 よって、長州藩にそうした動きが実際にあるかどうか問い合わせたいと、福富から御在役(土佐藩大坂屋敷で家老に次ぐ地位。京都屋敷・江戸屋敷の留守居役に相当)に相談があった。それで萬平が問い合わせに行くよう(大坂在役から)命じられた。六ツ半ころから長州藩大坂屋敷に行き、まず草間という人が当地に来ているかどうか▢▢尋ねたところ、大坂に来ていないとのこと。それでも確かに来ているというなら、町家に泊まっていることになるが、▢▢も御屋敷へ届けを出すことになっていて、そういう届も出ていないとのこと。また周布という▢▢が江戸に行ったかどうか尋ねたら、国許から江戸へ登る人は大坂屋敷では把握できず、本当かどうかわからないという。長州藩では藩侯父子ともに江戸におられるので、是非お一方は国許に帰っていただきたいという詮議も以前からあるぐらいで、他には何事も分からないという返事だった。そこで萬平はこう言った。「実はこういう風説があるのでお尋ねするのです。万一これが本当ならば、他ならぬ間柄ゆえお知らせいただきたい。ことに今は警衛の備えの最中で、これまで何度となく腹蔵なく相談してきた間柄なので、包み隠さずお知らせ願いたい」と、なおまた内密の相談に及んだところ、すべて何事も聞いていないとのことだった。万一、留守居役が内々の噂ででも聞いていることがあるかもしれぬと、(萬平と同役の)留書が留守居役に尋ねてみたが、これもすべてそのような風説▢▢承り、ほかならぬ土佐藩のことだから、知っていることはお知らせするし、そちらの方でも承知していることは抜かりなく知らせてもらいたいと留書を通じて答え▢▢、本当に何もしらない口ぶりだった。それから備前岡山藩の屋敷に行き、留書に問い合わせたところ、これもすべて何らの風説も聞いてない様子だった。帰りがけに薩州の屋敷に行き、門の外から様子をうかがったが、夜も更けていて静かな様子なので(長堀の土佐藩屋敷に)引き揚げた。すると、(住吉の)陣屋詰めの下横目二人が、御在役の自室に▢▢、両人から話を聞いたら、事態は差し迫っているとのこと。その訳は、薩州の人▢▢家に泊まっていて、その人は芝山愛三郎という人とのこと。芝山は書生ということだが、本当のところは分からないという。下横目の二人はお国(薩摩藩のことか)の書生と偽り、芝山から詳しい事情を尋ねたところ、芝山が言うには、このたび和泉が大坂に着いたら二日ばかり滞留した後、伏見へ行き、五日ばかり逗留するとのこと。▢▢はまだ分からないが、(五摂家筆頭の)近衛さまは縁者なので上京するだろう▢▢、和泉の考えはどういうものかは判断が難しいが、きっと上京を進め、夷人打ち払いの件を朝廷から将軍家に命じてもらい、その命令に従わなければ兵端を開くつもりで、諸国の勇士が集まっているのだと芝山は語った。諸国とはまず豊後岡、長州、肥後、筑前、日向の佐土原等のうち、ただいま肥後などは十九人ばかり大坂に来ていて、後から三十人ばかり来る。そのほかも数十人ずつ来ると芝山が話したという。このため明朝、国許ならびに江戸に向け、住吉陣屋詰めの足軽が最速便の飛脚として差し向けられる。なお書き漏らしたことは後から申し上げるつもり。

一 今朝、町方の風説を聞いたところ、和泉さまの出府を幕府が咎め立てをして万一の事態が起きた場合に備え、長州から数十人が上京したとのこと。若殿も江戸を発たれ、ちょうど和泉さまが上京された直後に、若殿も京都に着く手筈になっているようだ。
 これはとりとめもないことだが、聞いたままを書いておく。
  文久二年四月九日早朝に記す。

【注➅朝日日本歴史人物事典によると、久坂玄瑞(没年:元治1.7.19(1864.8.20)生年:天保11(1840))は「幕末の長州(萩)藩士,尊攘派の志士。藩医久坂良迪の次男。兄玄機,父良迪の死に遭い,安政1(1854)年家督相続。同3年九州を遊学,月性,宮部鼎蔵から勧められ,5月吉田松陰の門下に入る。「久坂玄瑞,防長(長州藩)少年第一流人物」とは松陰の評。翌年松陰の妹文子と結婚。高杉晋作とならび松下村塾の双璧であった。翌5年学業修業のため江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)に蘭学を学び翌年2月帰藩,5月江戸へ護送される松陰を送る。10月松陰が処刑されたのち,松下村塾生の結束を図る。翌万延1(1860)年江戸に出て蕃書調所の堀達之助の塾に入り,8月高杉らと共に小塚原の刑場に松陰の霊を祭った。薩摩,水戸,土佐の志士と交流を深め,次いで藩政府に働きかけ和宮降嫁と長井雅楽の公武合体運動の阻止を図るが失敗,命ぜられて文久1(1861)年10月帰藩。「諸侯恃むに足らず,公卿恃むに足らず,草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し」とはこのときの感慨。翌2年3月兵庫警衛の藩兵に加わり上京,攘夷の挙兵計画を進めるが,薩摩の同志が島津久光に弾圧され(寺田屋事件)て中止。以来,周布政之助,前田孫右衛門ら藩庁首脳部に接近,藩論を尊王攘夷に転換させることに尽力し成功。このときに呈出した「回瀾条議」「解腕痴言」は,長州藩尊王攘夷運動の方針を定めた。次いで江戸へ,12月高杉晋作らと共に御殿山に新築中の英公使館を焼打ちにする。翌3年上洛,尊攘運動を指導,士格を上げられて大組となる。次いで下関に赴き,同5月アメリカ船砲撃を指揮,再び上洛して大和行幸を計画したが8月18日の政変により挫折。9月政務役に任命され藩政の要路に立ち,京と山口の間を往復。折から藩内には武力上洛論と割拠論との対立があり,前者に圧されるまま元治1(1864)年6月出動の長州藩兵を率いて洛南の山崎に布陣。武力入洛には慎重論を唱えたが,来島又兵衛,真木保臣(和泉)らの強硬論に屈し出撃,禁門の変に敗れ鷹司邸に自刃した。25歳。<参考文献>福本義亮『松下村塾偉人 久坂玄瑞』(のち『久坂玄瑞全集』と改題)(井上勲)」】

【注⑦。「朝日日本歴史人物事典によると、周布政之助(没年:元治1.9.26(1864.10.26)生年:文政6.3.23(1823.5.3))は「幕末の長州(萩)藩の指導者。古くは「すう」とも読む。名は兼翼,字は公輔,号は観山など。麻田公輔と改名。長州藩大組(68石余)の兼正の子,母は村田氏。天保改革の指導者,村田清風の薫陶を受けた。村田の政敵,椋梨藤太の罷免後,嘉永6(1853)年藩の実務役人の重鎮,右筆に就き,軍制改革,財政整理を行ったが,安政2(1855)年椋梨派に追われた。しかし,通商条約について諸藩に諮問されるというなかで,藩の自律を唱え,椋梨派を俗論と排斥して,再度,藩政の実権を執った。軍制改革・産物政策を重視する改革を開始し,安政5年の安政の大獄中,藩使として朝廷に密かに入り,開国の止むを得ないことを入説した。航海遠略策という開国策で幕府との協調策を進めたが,幕政改革に限界をみて,桂小五郎(木戸孝允)らと反対派に回り,処分される。文久2(1862)年島津久光の率兵上京の情勢に処分を解かれ,藩論を尊王攘夷に確定し,江戸藩邸の政府を廃止するなど藩制を集権化し,反対派を弾圧し,洋式軍制改革を開始した。攘夷の不可を知っていたが,対外的危機を思い切った改革の圧力に使うという考えであった。直言実行の性格から文久2年山内容堂に暴言を吐くという事件を起こし,麻田公輔と改名した。同3年の8月18日の政変で藩が京都を追われたのち,藩兵の上京に反対したが,ならず,禁門の変で藩は敗れ,第1次長州征討軍が到来。俗論派が興起するなかで,正義派の再起を待たずに自刃した。<参考文献>周布公平監修『周布政之助伝』(井上勝生)」】

 これとは別に届いた手紙の写し、
   ただし大坂詰め・寺田萬平の書面である。
一 (薩州藩)の和泉公の出府(=江戸に出ること)の一件も、その後、重大な情報はこれといって聞いていないが、「過日、長州ノ藩近藤眞一郎、雅用ニ付、伏見役人森本源太大坂ノ旅宿ヘ来リ」(※意味がよくわからないので原文引用。ただし以下の記述は土佐藩伏見藩邸の役人である森本源太が長州藩士の近藤眞一郎から聞いた話とみられる)、その際の話では、和泉公の出府の一件はまとまった確かな情報がなく、種々の風評ではあるが、先日、我が主人の長州侯が自分の思うところを申し出られたという。「近ごろ京都(朝廷)と江戸(幕府)の間の和平がならず、ただいま外には異人の憂いがあり、内にはまた不平の病がある。天下の大事とはこのことである。急いで両者の和平を実現されたい」と、武家伝奏を通じ内奏したところ、主上はいたく感じ入られた。また将軍家へも同様のことを申し上げたところ、ご感服やお歓びが一通りでなく、早速朝廷との和解を仲介するよう将軍家の上意が伝えられた。その際、主人が申し立てたのは、「この件はいささかの忠義心から申し上げただけで、仲介となると私のような者の及ぶところではありませぬ。別の者に仰せ付けられるように」。そう申し上げたのだが、毛利家は京都にも格別の伝手のある家柄ゆえ辞退は無用と再び命じられ、やむを得ずお受けした。このことが薩摩藩に漏れ聞こえ、先方で協議したところ「この期に及んでこんな寛大な取り計らいをして何の益があろうか。こうなったからには天朝を守護し奉り、まずもって将軍家の国体を乱す罪を糺し、そのうえで異人の誅戮(罪ある者の殺害)に着手しよう」という結論になり、和泉公が表向き出府と称して上京することになったという風説がある。この件について、江戸藩邸詰めの薩摩藩士何某[源太郎がその姓名を忘れた]が和泉公にお目通りを願い、議論を挑もうと大坂屋敷まで来たが、和泉公は憤怒に駆られて止めがたい勢いなので、強いて争おうとすると命を失うことにもなりかねない、ここはまずもって差し控えたほうがいいと役人どもから差し止められた。また長州の国許から家臣の宍戸備前(注⑧)が和泉公より先に上洛するつもりで国許を発足したところ、思いがけず和泉公の行列の後となり、行列を追い抜いて先に行くことも難しいため、ひとまず国許に引き返した。と源太は聞いており、萬平はそれを源太から聞いた。[これは芳樹(※誰のことを指すのか不明)の話だから本当にちがいない。このことは長州藩大坂屋敷に行き、書役の人に尋ねたら知らないと言われた。また江戸より来た者は一人もなし。もっとも京都屋敷に来た可能性が否定できないが、そういうことは大坂屋敷では聞いていない。ただいま中老の長井雅楽という者が京都へ来たことは聞いているが、これは和泉さまのご婚礼お歓びの使いだという。さてまた京都御留守居の森下又平殿より十一日来た手紙に、長州のお目付が九条殿下にお目通りを願い、先日ご対面のはずだったが、延期になったとのこと。その訳は聞いていないそうだ]。長州の京都屋敷では昼夜の建築工事が進んでおり、これから藩の兵士千人ばかりが上京するとの風説が現地で流れていると、京都から来た使いに聞いた。また、この使いは伏見で長州の人に会ったところ、その人は京都の長州藩屋敷への武器類運送を差配して、京都から帰りがけとのことだったという。大坂においても、長州藩からの注文といって、大急ぎで武器をこしらえている者があるという。これは(武器製造を)頼まれた人から(土佐藩大坂屋敷の)御在役が直に聞いたことだ。そういった事どもを萬平が長州藩の大坂屋敷で尋ねたところ、すべてそのようなことは聞いていないとのことだった。そこで長州大坂屋敷の御留守居役が先日上京したと聞いたので、このことを尋ねたところ、これは本当だと言うので、その上京の訳を聞いたら、このたびは内々の上京であって、屋敷内の誰もその訳を知らないが、「兼テ其御家ヲ始メ」(※意味不明のため原文引用)、諸方面よりこのたびの一件についてお尋ねがあるのに留守居役はじめ何事も聞いておらず、留守居役もこれでは済まないと言っているぐらいなので、様子を教えてもらうため上京されたのではないかという。[これも適当に言っているのだろう]
 和泉公が上京なされた際、長州公も上京されれば、どういう訳かは知らないが、ご都合がよろしいと長州藩内では評議がなされたとのこと。これは近藤眞一郎の話。長州大坂屋敷で萬平が聞いたところでは、今月十三日、若殿が江戸を出立されるとのこと。ただ、京都に立ち寄るかどうかはわからないとのこと。若殿は二十三歳ぐらいのお年だという。
一 長州公は先日、大坂で金三千貫お借り入れになり、ただいま五百貫を納めたとのこと。また、長州公は時々二千貫を借りられるとのことで、(借り入れの)お世話をしている者があるようだ。これは確かな話だと聞いている。もっともお大名のこうした借り入れはつねにあることだが、いまのところはまず軍用金かと推量される。
一 森本源太が言うには、薩摩藩が建てた伏見屋敷は、この二、三年来、地面を買い足しており、このあいだも御殿が新築された。大工の話では、木材に節があっても構わない、ただ丈夫にせよと言われたとのこと。こうしたことを考えれば、このたびの一件(和泉公の出府をめぐる事件)は今はじめて起きたのではなく、以前から下心があったものと考えられる。
一 水戸浪人数十人が当地(大坂)に来るとのこと。早追い(昼夜兼行で駕籠を飛ばした使者)が江戸を出発して三日目の一昨日到着した。これらの浪人たちは薩州公の屋敷に入り込んでいるようで、(大坂町奉行所の)与力衆がしきりに詮索している様子。
[中略]和泉公は昨日朝、当地を出発されたとのこと。京都町奉行は「五日ノ用意ヲ以テ御呼返ノ處」(※意味がよくわからないため原文引用)、ご病気とされたが、実は自殺だと京都の御留守居から言ってきた。詳細は不明。幡多郡の郷士・間崎琢一郎は住吉の陣屋詰めだが、長州屋敷に滞在中とされる浪人・本間精一郎、梼原村庄屋の倅で亡命者の吉村寅太郎と対面したところ、両人が言うには、和泉公のこのたびの出府には深い考えがあって、そのことには浪士たちも同意しているが、和泉公が緩々と事を謀る様子のため、浪人たちが憤った。そこで浪人組は申し合わせて急に事を起こし、和泉公の緩慢な策を打ち破ろう、そうすれば、和泉公は言うに及ばず、諸国の兵が一度に起こるだろうと考えた。これまで時節を見合わせていたが、適当な機会がなく過ぎていたところ、和泉公が上京される今度の機会を逃さず立ち上がるつもりだ。来る十四日に和泉公は当地を発足される予定だというので旗印などをつくっているという。長州屋敷内には本間ら二人のほか、浪士の数々が入り込んでいるらしい。長州の陣屋にも同志の者が入り込んでいるとのこと。こかから(出陣要員の)二番手を出すはずだという、以上。

【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、宍戸親基(ししど-ちかもと1827-1886)は「幕末-明治時代の武士,教育者。文政10年9月17日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩三丘(みつお)領主。家老として藩主毛利敬親(たかちか)を補佐。元治(げんじ)元年四国艦隊下関砲撃事件では,講和使節となる。慶応2年第2次幕長戦争では芸州口の指揮役として幕府軍をやぶる。晩年は郷校徳修館で教育につくした。明治19年7月14日死去。60歳。初名は徳基。通称は備前。」】

[参考]
一 四月九日、大坂より最速便の飛脚、五百人方足軽(注⑨)の喜代蔵が到着。概略は次の通り。
[上文略]
薩摩藩・柴山愛三郎の意見。
 このたび和泉が大坂へ登って来て二日ばかり滞在する。上京するかどうかはまだ分からないが、(五摂家筆頭の)近衛さまの縁者だから上京する可能性がある。和泉が心中で何を考えているかは測りがたいけれども、諸国の勇士たちは、この際是非上京を勧め、天子より夷人打ち払いの命が将軍家に下ったあかつきには兵端を開こうというので集まっている。諸国というのは豊後岡、長州、肥後、筑前、日向の佐土原等だ。ただいま肥後などは十九人ばかり大坂に来ていて、後から三十人ばかり来る。そのほかも数十人来るようだという柴山の説を聞き、最速便の飛脚を差し立てるべきだと(考えた)云々。[これまでに浪人・本間精一郎と脱藩者の梼原村庄屋・吉村寅太郎が住吉の陣屋に来て、種々の応答があったよし。今はこれを略す]

【注⑨。平尾道雄著『近世社会史考』によると、土佐藩では足軽身分がさらに細かく九階に分けられ、上から順に古支配・他支配組抜・下代類・小組抜・大筒打・五百人方足軽・新足軽・足軽類などと呼ばれていた。また、総じて足軽身分の者は名字を名乗ることを許されず、雨天の際の下駄の使用も禁じられた」】

(続。今回はとくに難解な記述が多く、あまり進みませんでした。申し訳ありません)