わき道をゆく第209回 現代語訳・保古飛呂比 その㉝
[参考]
一 (文久二年)四月九日、大坂より最速便の飛脚、五百人方足軽(注①)・喜代蔵が到着。概略は次の通り。
[上文略]
薩摩藩・柴山愛三郎の説。
このたび和泉(現薩摩藩主の実父・島津久光)が大坂へ来て二日ばかり滞在。上京するかどうかはまだ分からないが、(五摂家筆頭の)近衛さまの縁者だから上京する可能性がある。和泉が心中で何を考えているかは測りがたいけれども、(和泉に)是非上京を勧め、天子より夷人打ち払いの命が将軍家に下ったときに兵端を開くつもりで諸国の勇士が集まっている。諸国というのは豊後岡、長州、肥後、筑前、日向の佐土原等だとのこと。ただいま肥後などは十九人ばかり大坂に出ており、後から三十人ばかり来る。そのほかも数十人来るようだという柴山の説を聞き、最速便の飛脚を差し立てるべきだ(と考えた)云々。[これまでに浪人・本間精一郎と土佐の亡命者の梼原村庄屋・吉村寅太郎が住吉の陣屋に来て、種々の応答があったよし。今はこれを略す]
同十三日[実際は十七、八日だろうか]着の早追い(昼夜兼行で駕籠を飛ばした使者による知らせ)。
このたび薩州公のご実父(の一行)総勢およそ千余人が(上方に)登ってきた。同月十一日ごろ、大坂に到着。同所で二日、伏見で五日、滞留。近いうち近衛家のお勤めと称して上京されるということだが、実際の上京の目的はちがう。和泉さまは藩を挙げて先君(和泉の兄の斉彬公)の遺志を貫き、尊皇攘夷を先唱(人より先に言い出すこと)しようと謀をめぐらし、堀次郎(和泉の側近)らに(工作を)命じている。先君が生きておられた時分、関東・京都(幕府と朝廷)と天下の形勢、人心の動向が離れたため、いまが好機会と見ておられる。和泉さま自身が京都に滞在されて、朝廷に種々献策しようとされている。幕府がこれまで天子の意思に反し、神州の体面を汚すことがたびたびあった。これにより幕府を詰問し、それでも幕府が態度を改めなければ、義兵を起こすのが当然である。このため、堀次郎と同志の者が国許や関東より馳せ参じ、京都・大坂周辺に潜み、和泉さまの到着を待っているとのことである。
一 薩摩藩の有志の者どもが決心しているのはこういうことだ。和泉さまは京都で朝廷への政治工作をした上で関東に向かい、先君の遺志を継いで幕府に建白する考えだが、関東行きを引き留め、今は天朝のみに尽力されるときであるとお勧めしなければならない、と。諸国の有志の士は、あるいは君命により、あるいは亡命して京都・大坂間に潜んでおり[大坂およそ五百人、在京およそ八百人]、二三日以内に蟻のように群がり集まることだろう。これまた日々和泉さまの上京を待っているとのことである。
以上は柴山愛三郎の説である。
一 飛脚は十三日、伏見で和泉さま一行に行き逢った。大坂に二日、伏見に五日滞留される云々。水戸浪人五百人ばかりが京都に到着、薩摩の大輪船二艘で武器を運び、京都へ持ち運ぶという。筑前侯(黒田長溥。注②)が参勤途中、播州龍野より(国許に)引き帰す云々。京都町奉行自殺云々。[下略]
右の書状は平井善之丞(注③)より借りて写した。
【注①。平尾道雄著『近世社会史考』によると、土佐藩では足軽身分がさらに細かく九階に分けられ、上から順に古支配・他支配組抜・下代類・小組抜・大筒打・五百人方足軽・新足軽・足軽類などと呼ばれていた。また、総じて足軽身分の者は名字を名乗ることを許されず、雨天の際の下駄の使用も禁じられた」】
【注②。朝日日本歴史人物事典によると、黒田長溥(くろだ・ながひろ。没年:明治20.3.7(1887)生年:文化8.3.1(1811.4.23))は「幕末の筑前国福岡藩主。幼名桃次郎,通称美濃守。薩摩藩主島津重豪の第9子,母は牧野千佐子。黒田斉清の養子。天保5(1834)年に家督を相続した直後は,財政に無策な家老の頭を扇子で打つなど藩主親政の姿勢を示す一方,家臣を長崎に派遣し牛痘,写真,印刷,軍艦操練など西洋文明の導入を図った。嘉永5(1852)年ペリー来航の極秘情報に接し幕政参画を意図した激烈な建白書を提出するが,忌避される。来航後の建白書でも,徳富蘇峰をして「当時においては異常の卓見」といわしめるほどの開国論を唱えたが,万延1(1860)年の桜田門外の変前後には藩内勤王党との調整が困難となり,月形洗蔵,海津幸一らを弾圧。これにより福岡藩は,維新回天の業に大きく後れをとることとなった。<参考文献>岩下哲典「開国前夜・情報・九州」(『異国と九州』)(岩下哲典)」】
【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、平井善之丞(ひらい-ぜんのじょう1803-1865)は「江戸時代後期の武士。享和3年生まれ。土佐高知藩士。13代藩主山内豊煕(とよてる)のもとで大目付となり藩政刷新にのりだしたが,保守派の反対で失脚した。尊王をとなえ,15代藩主山内豊信(とよしげ)の参政吉田東洋と対立。文久2年(1862)東洋の暗殺後,大監察となったが,豊信の勤王党弾圧により免職。慶応元年5月11日死去。63歳。名は政実。」】
[参考]
一 大坂から届いた手紙の写し。
今月九日、突然、住吉陣屋から江戸表や国許へ最速便の飛脚が差し立てられた一件の経緯は次の通り。
今月八日の暮れ方、本間精一郎という人が陣屋に来た。この人は年ごろ四十近く、江戸生まれで旗本の末子とか言い、以前は京都にいて、その後、九州路に移り、このたび九州より大坂に来たという。(本間は)八日の暮れ方、土佐国を出奔した梼原村庄屋の吉村寅太郎――この者も九州へ行っていたという[ある文書には本間同伴とある]――を家来として連れてきて、陣屋で小目付と数刻談話した。本間らが帰った後、話の内容を聞いたところ、このたび薩長が兵を起こすので本間も一味に加わる。薩州侯は十一日に大坂に着き、それから京都に登って綸旨(天皇の意を受けて発せられた文書)を請い、征伐の権を握ることになる。今の時勢を憤る人々はわれわれの味方になり、すでに土佐出身の人も九州で二、三人組し、梼原村庄屋の吉村も味方に加わるという。これに対し(土佐藩側は)なにぶん同意しかねると答えたという。それから(本間の話は)諸説いろいろあり、やがて薩州の御隠居さまは江戸表に登られるとのことで、船もおびただしく押し寄せ、全体として薩人にかぎらず、浪人らしき者がだいぶ集まっているとのこと云々。また次に申し上げる。
四月十三日、望月清平(土佐藩士。土佐勤王党の一員)が下横目(下級の警察官吏)一人とともに、薩摩藩屋敷に情勢探索のため派遣されたが、薩摩藩屋敷には入らず、薩摩藩出入の場所が外部にあったので、そこに行って面会を申し入れた。ひどく取り込んでいるようで、面会を断られたが、強いて面会を申し入れたところ、一人がちょっとだけならと言って会ってくれた。(その者の話では)このたび薩摩から来られた御隠居というのは、和泉殿と言って、いまの太守さまの実父である。このたび将軍家の政治について相談のお願いがあって上京された。十三日に大阪を出て伏見に着き、上京して江戸に行かれるとのこと。このお方はすこぶる豪傑で、つまるところ時勢を憤り、天下のまつりごとを正そうと欲し、そのうえで自分の思うことが行われないときは必ず(非常の手段に訴える)覚悟があるはずだと言っていたとのことである。清平に対し、容堂さまについての質問があったので、現在は以前の通り(隠居の身分)だと答えたところ、まことに心配なことだ、再び以前のように前面に出て活躍されるような政治にならなくてはならないと言ったとのことだ。(清平が)本間精一郎のことを尋ねたら、その人には一度会ったことがある。同じような浪人風体の者はたくさん来るけれども、さして拒まず、そのままにしている。その(本間という)人は口が一通り上手で、相手を見下すような口をきく者だといって、ひどく軽蔑していた、云々。
一 さる八日夜、参政の吉田元吉が横死して以来、物議紛々となり、ついに本日、四月十一日より次々と(藩庁の)要路に人事異動あり。次の通り。
執政 深尾弘人蕃顕
同 福岡宮内孝成
右の両人は退役、[執政ではあったが、実権は吉田にあった]
参政 朝比奈泰平
同 眞邊栄三郎
御側御用役 由比猪内
同 神山左多衛
大目付 大崎健蔵
同 市原八郎左衛門
同 福岡藤次
御近習目付 後藤象次郞
右の者たちは役儀御免、いずれも吉田元吉の一党である。
小八木五兵衛
右は御馬廻り[組頭]の身分のまま、参政ならびに大目付兼務となる。
同人は平士(ひらざむらい)の首席で有力家であるが、時勢に暗く、奸智の評判あり。吉田元吉が権勢を振るうのに不平を抱いていたので、陰で武市氏の説を奇貨とし、吉田の倒れるのを希望していた。一時、小南氏ら勤王家に接近したとのことだ。といっても、佐幕家である。
[参考]
一 四月十一日、民部さま(山内豊誉(注④))が武市氏に与えた書翰、次の通り。
ただいま(武市方の)一同は必死になり、刃傷沙汰にもなりそうな勢いだとのこと。しかしながら、いま捕り手が来ても、まず心静かに縛について待っていれば、すぐに刑罰が定まるわけではないし、また我々が必ず力を尽くし、いっぺんに打ち潰すことに決めているので、まずそのように心得るのが忠義を尽くすことになると思う。(注⑤)
四月十一日 民部
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、山内豊誉(やまうち-とよたか。1841-1867)は「幕末の武士。天保(てんぽう)12年9月15日生まれ。山内豊信(とよしげ)(容堂)の弟。土佐高知藩家老。勤王派の武市瑞山(たけち-ずいざん)を支持し,吉田東洋の排除をはかる。東洋が暗殺されると保守門閥派の政権をたてるが,文久3年八月十八日の政変で藩論がかわり閑居した。慶応3年2月20日死去。27歳。通称は兵庫。」】
【注⑤。吉田暗殺後の土佐藩の政情について高行が『勤王秘史 佐佐木老候昔日談』で語っているので次に引用する。「吉田の死後、其の一派は、所謂領袖を失うて茫然自失の体、間もなく統一を失うて瓦解したが、其の当座は依然其の党派の者が勢力を占めて、安岡、大石、那須等が亡命した事も不審して居る。大抵下手人はドノ道この方面の者であると目星を着けて居る。そこで嫌疑が武市一派の者へ懸つて、今にも手入があるといふ様な風説も専で愈々人気が立つて来た。武市の方でも、徒に俗吏の手に死ぬるよりは、寧ろ相率ゐて亡命し、天下の為めに死ぬが宜からうと主張する者があり、まま吉田の残党を鏖殺(皆殺し)し潔よく自白し従容死に就くが宜しいといふ説もあり、衆議区々、道途相伝へて、人心恟々たる有様であつた相だ。
尤も吉田のやられた翌日、即ち九日の朝は、大老公[景翁公]が荒倉山で御猪狩のある日であつて、執政の福岡宮内殿抔は、既に同所へ出張して居たが、忽ち右の急変を聞いて引返した程で、藩庁も実は上を下への大狼狽である。サア手を付けて見やうとした處が、武市は一刀流の師範家で、弟子も多い。城下郷浦等の郷士、軽格等は、大抵探捕の任に当る横目、下横目抔は軽格の者で、自然武市の党類であるから、進んで犯人を縛さうとするものは、ただ佐一郎と章次といふ両人のみで、――この両人とも此の年六月頃大坂で岡田以蔵等の為めにアベコベに殺されて死屍は川中へ投込んであつたさうだ。――其の他は大抵勤王党であるから探索の実が挙らざるのみならず、却つて藩庁の機密がドシドシ武市派へ洩れるといふ様な次第。藩庁の形勢は今申した様であるから武市の方でも、血気の面々は、刀の目釘に唾して、今にも爆発しやうといふ危険な有様で、武市の道場の筋向の島村寿太郎の處へ陸續集合して、ポンペー砲を据ゑて、若愈々捕手が来たと見たらば、之を放つ。夫を合図に他の者も一緒に武市の家に集つて比島山迄逃げて、機を見て脱走することとし、若討手が来たならば力の限り切まくり潔く討死をしやうと覚悟して居る。一味の者、足を翹(つまだ)てて今にも砲声が轟くかと待つて居る。島村寿之介等の一隊は武市の家を護衛して、寿太郎の方に居るものと聲息を通じて、藩庁の動静を窺つて居る。武市はアア云ふ男であるから、夫等の軽挙を戒めて、鎮撫に力を尽して居るが、何分気の立つて居る際故、中々治らない。かういふ訳で、三日二夜といふ者は、殺気空に満つ光景。ここに岩崎馬之丞といふ者がある。号を秋溟名を維慊というて、年少の時分、細川潤次郎[男爵]、間崎哲馬と共に三神童を云はれた位で、漢学には余程精通して、南邸の民部公子[名は豊誉、容堂公の御三弟]の侍講をして居る。この男も、勤王家で、大変吉田嫌で、辯姦論などを作つて吉田を攻撃した事もある。其邊から武市と聲息を通じて居る。また民部様も、余程よく出来た御方で、まだ年は御若かつたが、大の勤王論の方で、吉田は嫌って御座る。大手邸即ち大学様[名は豊栄、容堂公の叔父]なども此度の一挙に就ては何もかも御承知であらせらるる。だからして武市も愈々制馭し難い。今迄は自分の手で押付けて来たが藩庁の出やうに依つては、如何なる大事に立至るかも知れぬといふので、前以て其事を申上げて呉れる様に岩崎迄書状を以て通じた。民部様も大に驚かれて、自ら密書を認められて、近臣に授けて、潜に半平太へ与えられた。
只今一統必死相極刃傷ニモ相成候勢之由然ルニ今取手参り候トモ先心静カニ縛ニ就相待候ハバ直ニ刑議定候譯ニモ有之間敷又我々急度力ヲ尽シ一時ニ打潰シ可申ニ相定候間先左様相心得候ガ至極忠義ニ当リ候乎ト存候
四月十一日 民部
武市は、始終この手紙を懐中して居た相であるが、何う云ふものか、今夫がその親類の島村外内の家にあるさうだ。さてこの晩は武市も大に力を得て、部下の者を訓戒鎮撫したが、民部様、大学様あたりの尽力の結果、藩庁が俄然転覆するに至つたので、翌朝に民部様から『取手も先暫く差向けないことになつた。其旨を少将様へ申上げたに依つて、精々気を付けて、部下の模様知らして呉れる様』との意の御書を下された。武市は其の後厚恩に感激し、之を部下に示し、猶心得違のなき様に諭して、同志の者共を一先解散したのだ。
一体藩庁更迭の内情はどうかといふに、吉田の没後も、依然其の党が要路に居つたが、何分首領を失ふと共に、勢力は次第に失墜して来る。のみならず、最初の中は如才なく立廻つて、大老公などへも取入つたが、上は吉田を御好みなされない。そこへ小八木等の一派は感情の上から吉田を攻撃する。勤王家に同情を寄せて居らるる民部、大学両公なども、彼の従前の失職を鳴らし一門連枝、家老大抵吉田を嫌うて居たものだから、終に一大更迭を見るに至つたのである。】
一 同十二日、山内下総祐成・桐間蔵人清卓、右の両人が執政となる。
山内氏は俗人で、無力だけども実着(まじめで落ち着いていること)の人である。桐間氏は腹黒い人である、との評判がある。両人とも古い流儀の人間だから、吉田元吉による活発な改革を忌み嫌うところから、一時武市派の説を許容したということだ。もっとも時勢に暗く、決して勤王家ではない。
また五藤忠二郎が御側御用役となった。
同人は太平の人であって、可もなく不可もない。
一 四月十三日、柏原内蔵馬が大目付となる。同人は公平な性格であるけれど、無学で時勢には迂遠である。今日の天下の形勢を知らない。もし一度、時勢に目を注いだら、正道を歩むだろう。また小八木五兵衛が参政の本役となる。人物は前に述べた。
[参考]
一 同十四日[十日と書いた本もある]、所司代・酒井若狭守(酒井忠義。注➅)より武家伝奏(注⑦)へ差し出した書面、次の通り。
このごろ世間の風説を聞くと、西国筋の浪人どもが多人数、兵庫・大阪辺に集まり、かれこれ容易ならざる暴論を唱えているようだ。もっとも自分が管轄する地域外のことだから詳しい事は分かりがたいのだが、すべてが虚説というわけではないだろう。ついては、官家(朝廷のこと)が諸藩士に直接談判する(のが禁じられている)ことは、かねて規則にある通り、ご承知と思うが、万一の行き違いということもある。安政五年八月の過ち(戊午の密勅(注⑧)を指すか)を繰り返すようなことがあってはもっての外と深く憂慮されるので、苦心に堪えず、内々申し上げる。すでにこのたびは格別のご縁組み(和宮降嫁のこと)も結ばれ、公武の関係は極めて円満になっているのに、そこへ少しでも異論が生まれるようなことがあったら、まことに公武のためによくないのはもちろん、東西の諸官にあっても深く恐れ入るべきことである。必ずや軽はずみな行動がないようにされたい。このたび浮浪の輩が暴戻(道理に外れた残虐非道なこと)の説を唱えたとのことであるが、天朝に対して干戈(たて・ほこ)を動かし奉るようなことは、天の下のどこだろうと、どれほど卑賤の者でも、人心本来のあり方として、決してあってはならないことである。絶対に驚き騒ぐことのないようにされたい。とはいえ、反逆野心の輩が万々が一、王城の地(京都)で干戈を動かして宸襟を悩ますようなことがあれば、私が所司代を勤めている限り、(自領の)若狭一国の力を尽くすのはもちろん、諸藩の警衛の者にも指図して誅伐するので安心され、決して軽率な取り計らいなきようされたい。これすべて公武のために微忠を尽くすものである。右の事は決して表立って申し上げるものではないけれど、すべて天朝のためと思い、武家伝奏のお二方に限り内々申し上げるものである。
四月十四日
廣橋一位殿
坊城大納言殿
【注➅。朝日日本歴史人物事典によると、酒井忠義(さかい・ただあき。没年:明治6.12.5(1873)生年:文化10.7.9(1813.8.4))は「幕末維新期の若狭小浜藩(福井県)藩主。忠進の子。天保5(1834)年藩主となる。奏者番,寺社奉行を経て同14年京都所司代。日米修好通商条約調印があり朝幕関係が悪化した安政5(1858)年6月,往年の経験をかわれ所司代に再任。老中間部詮勝を補佐し,穏便論を採りながらも大老井伊直弼による安政の大獄に協力。桜田門外の変で井伊が倒れたのち,公武合体を図って将軍徳川家茂と皇妹和宮の結婚を実現に導くが,尊攘派志士から非難を受け,京の治安を維持し得なかったこともあって,文久2(1862)年6月辞職。同年閠8月隠居,次いで蟄居の処分を受けた。明治1(1868)年12月,時の藩主忠氏が死去し再相続,翌2年版籍奉還により小浜藩知事,廃藩置県に伴い免官,居を東京に移した。」(井上勲)。】
【注⑦。精選版 日本国語大辞典によると、武家伝奏は「室町・江戸時代の朝廷の職名。訴訟や儀式そのほかの諸事にわたって、朝廷と幕府の間の連絡にあたった役職。また、その役の人。室町時代以後に制度化し、江戸時代には幕府が、納言・参議の中から学才・弁舌に優れた者二名を選んだ。二人いるので両伝奏ともいう。武伝。」】
【注⑧。日本大百科全書(ニッポニカ)によると戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は「幕末期の1858年(安政5)8月8日付けで幕府および水戸藩に下された勅諚(ちょくじょう)。戊午は安政(あんせい)5年の干支(えと)で、前例を破って朝廷から水戸藩に内密に伝えられたので「戊午の密勅」という。幕府の将軍継嗣(けいし)問題の決定や安政五か国条約の違勅調印を快く思わなかった孝明(こうめい)天皇は、幕府および水戸藩へ勅諚を下した。水戸藩へは8月7日深夜左大臣近衛忠煕(このえただひろ)から水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交され、諸藩へ伝達せよという添書が付されていた。この異例の勅諚には、条約調印をめぐる幕府の対処の仕方を批判し、水戸藩の攘夷(じょうい)の推進を促していたが、これを知った幕府は、水戸藩に諸藩伝達を禁じた。水戸藩ではこの勅諚伝達の可否をめぐって藩論が分かれ、翌年、朝廷が幕府の求めに応じて勅書返納を沙汰(さた)するに及んで政治問題化した。しかし、この「戊午の密勅」は、天皇の幕府・諸藩に対する政治的所信の最初の公的な表明であり、朝廷が積極的に政治干与の姿勢を示したものとして注目される。また、この勅諚は、大老井伊直弼(なおすけ)をして安政の大獄の弾圧を決意させる一因ともなった。[田中 彰]」】
一 四月十五日、寺田左右馬が参政となる。
同人は小才子で、小意地の悪い性格との評がある人だが、官吏としての職務に老練、(前出の小八木五兵衛ら同様)これまた吉田氏を忌み嫌う者だ。といっても佐幕家である。
また五藤内蔵之助正身が執政となる。
同人は吉田氏には反対で、家老の中では人望がある。しかしながら門地家であるから深く頼むに足りない。
[参考]
一 同十五日、和泉公(島津久光公)の改革建言は次の通り。[十五日、薩州の堀次郎持参。一紙を写す]
一 老中久世広周が早急に上京するようきつくお命じになられてはいかがでしょうか。
一 粟田宮(朝彦親王。注⑨)・鷹司太閤さま(鷹司政通。注⑩)・近衛左府公(近衛忠煕。注⑪)・鷹司右府公(注⑫)の御慎み(謹慎)を解除されてはいかがでしょうか。
一 幕府において一橋(慶喜)殿・尾州前中納言(徳川慶勝。注⑬)殿・越前中将(松平慶永。注⑭)殿・土佐御隠居(山内容堂)・宇和島御隠居(伊達宗城。注⑮)の御慎みを解除されてはいかがでしょうか。
一 九条(尚忠(注⑯))公ならびに所司代(酒井若狭守)の京都退去のご処置を命じられてはいかがでしょうか。
右は、罪の有無はまったく存じておりませんが、天下の風評や、最近大坂周辺に充満している浪士たちの説を聞くと、この御方たちを恨んでおり、世の怒りの集中するところなので、これらのご処置がなくては、暴発がすぐにも起こり、人心一和というところにはとても至らないと存じます。ただただ私の考えのほどを忌憚なく申し上げました。
一 幕府において、安藤対馬守(注⑰)の退役を速やかに命じられなければ、人心は潰れ、変乱の基ともなると存じます。
一 慎みの処分を解除した上で、一橋公を(将軍の)後見役に、越前の前中将殿(松平慶永公)を大老職に任じられてはいかがでしょうか。これは人心一和の基本であると、恐れながら存じます。
一 これらの諸件を命じられるについては、幕府要人たちが急速に登用されるので、一、二の大名に内勅を下され、結果を見届けるよう仰せ付けられてはいかがでしょうか。
一 越前公が大老になったら上京するよう仰せ付けられ、朝廷を遵奉する道を確立し、邪正の区別を明白にするよう仰せ聞かせていただきたく存じます。
一 公武合体、上下一致の上で、夷人に対する処置を天下の公論をもって永遠に貫徹する制度に定められ、皇威が諸外国に輝くようにしていただきたいと存じます。
以上述べたことは、はなはだ僭越の至り、もとより死罪を免れず、恐怖で身がすくむ思いです。しかし、最近の世情を観ると、国家の法は日に日に廃れ、人心不和で衰萎の極みとなり、変異四出(※奇妙な事件がたびたび起きるという意味か)、ついには夷人の支配に服するような事態になるかもしれず、恐れながら玉体も安泰ではないという話まで思いがけず聞きました。そういうことのないよう叡慮を補佐し、公武合体・人心一和の道を成就なされるよう願いながら、国民一般の意見を一、二交えて、内々に言上いたします。 恐惶再拝
文久二年四月
[右の一紙は十六日、陽明家(近衛家の別称)に島津が差し出したものの写しである]
【注⑨。朝日日本歴史人物事典によると、朝彦親王(あさひこしんのう。没年:明治24.10.29(1891)生年:文政7.1.28(1824.2.27))は「幕末維新期の宮廷政治家。伏見宮邦家親王の第4子に生まれる。天保7(1836)年仁孝天皇の養子となり奈良一条院門跡,同8年親王宣下,同9年得度を受け尊応入道親王と称す。嘉永5(1852)年京都粟田口の青蓮院門跡となり尊融と改称,同年12月より天台座主。広く英明をうたわれ,水戸藩士から今大塔宮(護良親王再来の意)と称された。安政5(1858)年2月条約調印の承認を求めて老中堀田正睦が上洛して以来,諸藩の京都手入れが活発化。水戸藩士,次いで越前藩士の働きかけを受け,条約調印反対の姿勢を示し,将軍継嗣を徳川慶喜に期待して活動。翌6年2月謹慎,12月には隠居・永蟄居に処せられた。文久2(1862)年4月処分を解除され,青蓮院門跡に復した。時に39歳。同年12月国事用掛。翌3年1月還俗の内勅を受け中川宮と称す。 公武合体論を唱えて尊王攘夷運動に対抗。孝明天皇の意を受け8月18日の政変を指導,長州藩・尊攘派勢力を京から追放。その直後に元服し,名を朝彦とした。尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ,皇位簒奪の異図を含み呪詛の密法を行っているとの讒誣を受け,以来この種の風評に悩まされる。当初は薩摩藩と協調していたが,元治1(1864)年より徳川慶喜と接近。以来関白二条斉敬と共に朝廷内から慶喜の政権を支持し続け,そのため慶喜に批判的な廷臣の反発を招く。慶応2(1866)年8月,大原重徳,中御門経之ら22廷臣の列参奏上で弾劾され辞意を表明したが却下された。翌3年12月9日の王政復古の政変に際して参朝停止の処分を受ける。翌明治1(1868)年8月徳川再興の陰謀を企てたとの嫌疑により親王の位を剥奪され,広島に幽閉された。同3年京都帰住を許される。同8年5月親王の位を回復し,一家を立てて久邇宮と称す。7月神宮祭主に任命される。神宮の旧典考証に没念,22年遷宮の儀式に従事した。著書に『朝彦親王日記』がある。(井上勲)」】
【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると鷹司政通(たかつかさ・まさみち。没年:明治1.10.16(1868.11.29)生年:寛政1.7.2(1789.8.22))は「幕末の公家(摂家)。鷹司政煕の子。文政6(1823)年関白・内覧となり,天保13(1842)年には太政大臣となる。安政3(1856)年関白を辞し,特旨をもって太閤と称された。同5年の条約勅許問題では,はじめ勅許を主張するが,鷹司家諸大夫小林良典らの入説により,まもなく態度を急変させ不許可の立場をとったため,安政の大獄(1858~59)によって落飾・慎を余儀なくされた。関白在職30年余におよび,博覧強記にして朝廷の故実に精通しており,後任の関白九条尚忠を小児のごとくあしらったという。(箱石大)」】
【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、近衛忠煕(このえ・ただひろ。没年:明治31.3.18(1898)生年:文化5.7.14(1808.9.4))は「幕末維新期の公家(摂家)。近衛基前の子。妻興子が薩摩藩主島津斉興の養女であったこともあり,政治的にも薩摩藩と緊密な関係を有した。安政4(1857)年左大臣となり,翌年,条約勅許問題を巡って,幕府寄りの関白九条尚忠と対立。右大臣鷹司輔煕,内大臣一条忠香,前内大臣三条実万らと共に,同年8月の「戊午の密勅」降下を推進した。翌月,尚忠に代わって内覧となるが,幕府側の圧力のため約1カ月で辞退。安政の大獄(1858~59)によって辞官・落飾・慎を余儀なくされた。文久2(1862)年赦免され,関白・内覧となり,まもなく国事御用掛も兼任。翌年,尊攘派に忌避され,関白・内覧を辞したが,国事御用掛にはとどまって朝政に関与し続けた。実万の人物評によれば,温厚にして権勢を執る心が少しもなく,純々たる君子であったらしい。<参考文献>勢多章之『近衛忠煕公』(少年読本第24編)(箱石大)」】。
【注⑫。朝日日本歴史人物事典によると、鷹司輔煕(たかつかさ・すけひろ。没年:明治11.7.9(1878)生年:文化4.11.7(1807.12.5))は「幕末維新期の公家(摂家)。鷹司政通の子。安政4(1857)年右大臣となり,翌年の条約勅許問題では,幕府寄りの関白九条尚忠と対立。同年8月の「戊午の密勅」降下に関与したため,安政の大獄(1858~59)によって辞官・落飾・慎を余儀なくされた。文久2(1862)年赦免され,国事御用掛に就任。翌年には関白・内覧となるが,尊攘派に利用されることが多く,同年8月18日の政変で失脚,まもなく辞職に追い込まれた。その後も国事御用掛にとどまり,朝政に関与するが,父政通ほどの器量,知略もなく,暴なる性質であったという。(箱石大)」】
【注⑬。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、徳川慶勝(とくがわよしかつ(1824―1883))は「幕末期の尾張(おわり)徳川藩主。公武合体の立場で活躍した。実父は美濃(みの)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建(よしたつ)。尾張徳川家の養子となり、1849年(嘉永2)封を継ぎ、51年から藩政改革に着手し、人事の刷新、財政整理、禄制(ろくせい)改革などを行い成果をあげた。鎖国攘夷(じょうい)の立場にたち、条約勅許問題では勅許必須(ひっす)論を強硬に主張したので、58年(安政5)幕府は慶勝に退隠を命じ、江戸・戸山(とやま)別邸に幽閉した。62年(文久2)赦免され、その後、朝幕間の斡旋(あっせん)に努めた。64年(元治1)征長総督を命ぜられ、征長の全権が委任され、長州藩の謝罪を受け入れた。67年(慶応3)10月には桑名藩主松平定敬(さだあき)を派して大政奉還を奏上せしめている。王政復古後、議定(ぎじょう)に任ぜられ、70年(明治3)には名古屋藩知事となった。[林 亮勝]」】
【注⑭。朝日日本歴史人物事典によると、松平慶永(まつだいら・よしなが。没年:明治23.6.2(1890)生年:文政11.9.2(1828.10.10))は「幕末の福井藩主。越前守,大蔵大輔,隠居後は春岳の号を通称に用いた。田安斉匡の8男。天保9(1838)年の藩主就任後,天方孫八,中根雪江ら側近に支えられつつ,窮迫していた藩財政再建に向け,倹約や藩札整理を中心とする天保改革を断行。その一方で,西洋列強の動きに危機感を強める徳川斉昭ら有志大名と交流を深め,ペリー来航時には,名門の家柄を利して,徳川慶喜を将軍継嗣に据えて幕政改革を推進せんとする運動の中心にあった。しかし,大老井伊直弼と意見が合わず,安政5(1858)年幕府から隠居・謹慎を命ぜられ,松平茂昭に家督を譲っていったんは政界を離れた。文久2(1862)年,政事総裁職として復帰,幕政の枢機に携わる。参勤交代制の緩和や将軍上洛など,幕政改革,公武合体の実現に力を尽くした。その目指すところは,朝廷をテコに,将軍・譜代大名中心の伝統的な幕政のありかたを相対化し,新たに親藩・外様の有力諸侯を包み込む形で将軍権力を再編することであった。しかし,尊王攘夷運動の台頭によってその構想はついえ,同3年政事総裁職を辞任した。 その後も,四賢侯のひとりとしてたびたび上洛し諸侯会議に加わるが,すでに政権構想実現の機なく,王政復古を迎える。この間藩政の指揮もとり続け,鈴木主税,橋本左内や熊本から招いた儒学者横井小楠らを次々に登用して,軍制や財政の変革に成果を収めた。明治政府のもとでは,徳川宗家の救解に努める一方,議定,内国事務総督,民部卿,大学別当などを歴任。明治3(1870)年一切の公職を退き,文筆生活に入る。性は誠実謹直で明敏とされ,名君のきこえが高いが,茂昭への書簡からは口うるさい隠居という一面を垣間見ることもできる。親交のあった諸侯はその顔立ちから「鋭鼻公」という愛称を用いた。<著作>『逸事史補』<参考文献>『松平春岳全集』全4巻,『松平春岳未公刊書簡集』(高木不二)」】
【注⑮。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、伊達宗城(だてむねなり。(1818―1892))は「幕末・明治時代初期の政治家。文政(ぶんせい)1年8月1日、旗本山口相模守(さがみのかみ)直勝の子として江戸に生まれる。1829年(文政12)伊予(いよ)国(愛媛県)宇和島(うわじま)藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となり、1844年(弘化1)襲封。藩政改革に努めて殖産興業に成績をあげ、また高野長英(たかのちょうえい)や大村益次郎(おおむらますじろう)を招いて洋式軍備の充実を図った。安政(あんせい)期(1854~1860)将軍継嗣(けいし)問題の際には、島津斉彬(しまづなりあきら)、松平慶永(まつだいらよしなが)らと一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の擁立を画策したが成功せず、安政の大獄を期に隠居し、封を嗣子(しし)宗徳(むねのり)に譲った。1862年(文久2)の島津久光(しまづひさみつ)の公武合体運動に呼応して中央政界に進出、1863年12月一橋慶喜、松平慶永、松平容保(まつだいらかたもり)、山内豊信(やまうちとよしげ)らと朝議参与に任命されたが、横浜鎖港問題で慶喜と衝突し反幕色を濃くした。1867年(慶応3)12月新政府の議定(ぎじょう)に就任、外国事務総督、外国官知事として政府発足当初の外交責任者を務めた。1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)兼大蔵卿、翌1870年7月の民蔵分離によって、大蔵卿専任。1871年4月欽差(きんさ)全権大臣に任命され清国(しんこく)差遣、7月29日大日本国大清国修好条規(日清修好条規)を締結した。帰国後、麝香間祗候(じゃこうのましこう)、外国貴賓の接遇にあたった。明治25年12月20日没。[毛利敏彦]『兵頭賢一著『伊達宗城公傳』(2005・創泉堂出版)』▽『楠精一郎著『列伝・日本近代史――伊達宗城から岸信介まで』(朝日選書)』」】
【注⑯。朝日日本歴史人物事典によると、九条尚忠(くじょう・ひさただ。没年:明治4.8.21(1871.10.5)生年:寛政10.7.25(1798.9.5))は「幕末の公家。二条治孝と信子の子に生まれ,九条輔嗣の嗣子となる。安政5(1858)年日米修好通商条約の締結が朝幕間で問題化するなか関白として幕府との協調路線をとり,攘夷派廷臣と疎隔。将軍継嗣問題では徳川慶福(家茂)擁立を図る南紀派につく。幕府擁護の態度が孝明天皇や廷臣の不信を買い,同年9月内覧を辞職。のち幕府の援助により復職。和宮降嫁に当たってはこれを積極的に進め,公武合体に尽力。ために尊攘派志士の糾弾激しく,文久2(1862)年6月には関白・内覧をともに辞し,久我建通,岩倉具視らと落飾・重慎に処せられ九条村に閉居。慶応3(1867)年1月謹慎・入洛禁止を免除され,12月8日還俗を許される。(保延有美)」】
【注⑰。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、安藤信正(あんどうのぶまさ。(1819―1871))は「幕末期の老中。陸奥(むつ)国磐城平(いわきたいら)(福島県)藩主。文政(ぶんせい)2年11月25日生まれ。名は初め信睦(のぶゆき)、ついで信行、信正と改める。対馬守(つしまのかみ)。1860年(万延1)正月、若年寄から老中に昇任、外国事務取扱となる。大老井伊直弼(なおすけ)のもとで、一橋(ひとつばし)派を押さえ、同年3月、井伊直弼の横死後、再任された久世広周(くぜひろちか)とともに、幕閣の中心となった。アメリカの通訳ヒュースケン暗殺事件、水戸浪士による東禅寺(とうぜんじ)イギリス公使館襲撃事件、ロシア船ポサドニック号の対馬滞泊事件など、次々に起こった外交の難事を処理、ロシアとの国境画定交渉も開始した。内政問題では、井伊の遺志を継いで公武合体を進め、孝明(こうめい)天皇の妹和宮親子(かずのみやちかこ)内親王を将軍家茂(いえもち)夫人として降嫁させ、1862年(文久2)2月の婚儀にこぎつけた。しかし、彼の開国策と、公武合体による幕府権力回復策は、尊攘(そんじょう)激派の反発を受け、婚儀直前の1月15日、水戸浪士らによって坂下門外に襲撃され負傷、4月に老中を辞任して退隠。1868年(明治1)7月、戊辰(ぼしん)戦争で平(たいら)城は新政府軍の攻撃を受けた。明治4年10月8日没。[河内八郎]」】
[参考]
一 京都より(土佐藩の)御目付方へ来た密事書
このたび島津和泉公が上京された件はきっと報告済みと思いますが、(島津公は薩摩の)藩士堀次郎を使って上方の政治工作を行い、朝廷のために力を尽くす意思を貫徹されているとのことです。今月十二、三日のころ、堀は急に大原さま(大原重徳。注⑱)に召されてこう述べたとのことです。幕府はこれまでしばしば勅命に背き、天朝を蔑ろにするようなことがありましたが、天朝は大変な仁恵をもって許され、なおこれからも公武合体、徳川家を助けられ、賞罰を明らかにして夷狄を打ち払うご意思を持っておられる。どんなことでも天子の命令は謹んでお受けする心積もりでおります。「否右達ニ和泉公ヘ申入」(※意味不明のため原文引用)。同十三日朝、和泉公が伏見より上京したところ、巳の刻(午前十時ごろ)、近衛さまに召され、皇居に参殿した。すると、中山さま(注⑲)・正親町さま(注⑳)・三条さま(注㉑)・岩倉さま(注㉒)がその場に同席され、「叡慮ノ達ニ被仰聞」(※天子の意思を伝えられたというような意味と思われるが、正確にはわからない)[事前に次郎に伝えられたとのこと]、和泉公の意見をお尋ねになったとのことである。和泉公が述べたのは、「叡慮ノ達ニ」謹んで承ります。しかしながら、攘夷は国内を整えないと実現することができないので、まず一橋刑部公(慶喜)を将軍家の後見とし、その後、尾越(徳川慶勝公と松平慶永公)をはじめ賢明な諸大名や、禁固あるいは退職になった勤王の志をもつ人々の罪を許すことにより彼らを元に戻す必要がある。さらに、暴虐な振る舞いで天朝に迫った奸賊を罰し、その罪の軽重に応じてことごとく処罰し、あるいは封地を削ってその地を天領とし、なるべくは畿内の地に親王さまを置いて天朝の補佐とし、逆徒がしばしば宮城に迫ることができないよう備えるべきだと存じます。そのうえで夷狄を打ち払う手筈を実行されたほうがよろしいと和泉公は答えたうえで、叡慮を御伺いしていただきたいと述べた。すると、正親町さまは尾越両侯の復職の件はなかなか難事だと聞いていると言われた。そのため和泉公は「これらのことは叡慮をもって行われなければ、所詮他のことも実現不可能なので、何とぞ英断をもって命じていただきたい。私は厳命を受けて関東に下り、それでも幕府が違勅をするならば、その際にはやむを得ず、天朝の命を奉じて追討します。私は国を出るときに志を勤王に決めましたので、いささかもご遠慮なされぬよう。かつ、我が藩は微弱といえども三ケ国(島津家は薩摩・大隅・日向の南九州三ケ国を領地とした)の軍勢をもって力を尽くします。ことの成否はあらかじめ断定できませんが、ひそかに今の世の人情を考えると、列藩の中にも勤王の志のある諸侯は数多くあり、いったん事が起これば、それらが天朝のもとに馳せ参じるでしょう。何分早々にご英断をお願いしたい」と言った。そのため中山さま・正親町さまがさっそく参殿され、奏上したところ、主上ははなはだ頼もしく思し召して、深く満足された様子で、そのことは両公より和泉さまに伝えられた。そうして、和泉さまに当分の間、(京都に)滞在するよう命じられたとのこと。もっとも表向きは、最近諸国の浪士たちが夥しく洛中に入り込んでいて、万一乱暴に及ぶ恐れもあるので、それを取り締まるためということになった。このほか和泉さまは有り難い仰せを数々お受けし、夜半すぎに退散され、そのまま伏見に引き取られた。翌十七日、(薩摩藩の)上下残らず伏見を引き払い、同七ツ時、京都に着かれた。和泉さまの建白の通り、天子は英断を下され、二、三日のうちには勅書が下される模様である。もとより、それでも幕府が勅命に背けば、必ず戈を動かす見込みなので、薩摩藩では用意を進めるはず。そういう次第で、いつでも薩摩本藩より大勢が上京してくる手筈になっているとのこと。かつまた勅書が下されたならば、修理太夫さま(薩摩藩主)も早々に上京されるらしい。以上。
三橋次郎右衛門より借りて、書き留める。
【注⑯。朝日日本歴史人物事典 によると、大原重徳(おおはら・しげとみ。没年:明治12.4.1(1879)生年:享和1.10.16(1801.11.21))は「幕末の公家,宮中政治家。父は重尹。老中堀田正睦が条約締結の勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,これに反対して88廷臣の列参奏上に参画,翌年慎を命ぜられた。大原家は源氏。ふるく12世紀,平氏打倒の兵を挙げた源頼政になぞらえて鵺卿と敬称された。文久2(1862)年,62歳の年の6月,勅使に任ぜられ,島津久光の護衛を受けて江戸に赴き,徳川慶喜,松平慶永の幕政参与を強要。折から,長州藩世子毛利定広の持参した勅諚に久光を批判する文字があり,薩長融和の意図からこれを削除。翌年2月,この罪を問われて辞官・落飾,元治1(1864)年1月赦免。慶応2(1866)年8月,中御門経之と共に列参奏上を断行,二条斉敬,朝彦親王ら親幕派の追放を計画し失敗,閉門となる。翌年3月,処分解除。王政復古で三職制が新設され参与,以後,刑法官知事,議定,上局議長,集議院長官。明治2(1869)年賞典禄1000石を永世下賜され,翌年麝香間祗候,79歳で没した。(井上勲)」】
【注⑰。朝日日本歴史人物事典によると、中山忠能(なかやま・ただやす。没年:明治21.6.12(1888)生年:文化6.11.11(1809.12.17)は「幕末の公家,宮中政治家。父は忠頼,母は綱子。明治天皇の生母,慶子の父。老中堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,正親町三条実愛らと共に反対の建議書を提出。次いで88廷臣の列参奏上に参画,同年5月議奏に就任して朝議決定の構成員となった。和宮御縁組御用掛に任命され,文久1(1861)年10月江戸に赴く。次いで島津久光および薩摩藩の公武合体運動を支持,尊王攘夷派の志士と攘夷派廷臣の攻撃にさらされ,同3年1月議奏を辞職した。翌元治1(1864)年7月,前年の8月18日の政変で失った勢力の回復を図って長州藩が武力上洛を敢行するが,その際支持の姿勢を示す。禁門の変で長州藩兵が敗北した直後,参朝・他人面会・他行の禁止に処せらる。慶応3(1867)年1月孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。同志の長老として岩倉具視,中御門経之らと共に王政復古の政変を画策,討幕の密勅作成に関与した。政変後,三職制が新設されて議定に就任。以来,輔弼,神祇官知事,神祇伯。明治2(1869)年9月王政復古の功により賞典禄1500石を永世下賜。同4年麝香間祗候,同7年華族会館の設立に尽力,御歌会式取調掛,柳原愛子(大正天皇生母)御産御用掛,明宮(大正天皇)御用掛などを務め,80歳で没した。<著作>『中山忠能日記』<参考文献>『中山忠能履歴資料』(井上勲)」】
【注⑱。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう-さねなる。1821*-1909)は「幕末-明治時代の公卿(くぎょう)。文政3年12月5日生まれ。権(ごんの)大納言となり議奏,国事御用掛を歴任。慶応2年辞任。翌年議奏に復し,討幕の密勅を鹿児島,萩(はぎ)両藩にわたす。4年内国事務総督,明治2年刑部卿となる。のち嵯峨(さが)と改姓。明治42年10月20日死去。90歳。日記に「嵯峨実愛日記」」】
【注⑲。朝日日本歴史人物事典によると、三条実美(さんじょう・さねとみ。没年:明治24.2.18(1891)生年:天保8.2.7(1837.3.13))は「幕末明治期の公卿,政治家。正一位右大臣三条実万と土佐(高知)藩主山内豊策の娘紀子の子。公卿では摂家に次ぐ名家清華家の出で,禄は約469石。梨堂と号す。家臣の尊攘志士富田織部の訓育を受け,漢学者志士池内大学に学んだ。安政6(1859)年,大老井伊直弼の弾圧を受けて父実万が辞官落飾となったことから政争に巻き込まれ,次第に尊攘思想を強めていく。文久2(1862)年従三位。権中納言。尊攘運動はこの年の後半から最盛期を迎えるが,実美は公家尊攘派の中心となって公武合体派の公家岩倉具視を弾劾,勅使となって江戸城に赴き幕府に攘夷の実行を督促するとともに勅使の待遇を改めさせ,朝幕の力関係の逆転を策した。翌年,薩摩藩等公武合体派の策謀による8月18日の政変で長州藩士ら尊攘派が追放されると,京都から長州に下った(七卿落ち)。慶応1(1865)年,幕長間の紛争に巻き込まれるのを避けて太宰府に移り,同3年12月,同地で王政復古を迎えた。 翌明治1(1868)年1月9日,岩倉と共に副総裁に就任。同年閏4月江戸に赴き,関東鎮撫の責任者となる。この年,王政復古の功績により永世禄5000石を下賜されている。同4年天皇を輔弼する政府の最高責任者,太政大臣となる。同6年には征韓論を巡って対立する西郷隆盛と大久保利通の間に入って悩み抜き,熱を出して右大臣の岩倉が職務を代行した。幕末の経歴と高い家柄から政府ナンバーワンの地位にあったが,元来決断力が弱く,政治的発言も比較的少ない人物で,この一件以後さらに控えめとなった。同18年内閣制度が成立し,新設の内大臣となったのちは政治の第一線から退くが,天皇輔弼の任は変わらず,華族最高ランクの公爵として皇室の藩屏たる華族社会のまとめ役となった。フレイザー英国公使夫人は当時の実美を「政治にはもう飽きあきした,上品な紳士」と評している。<参考文献>『三条実美公年譜』(佐々木克)」】
【注⑳。朝日日本歴史人物事典によると、岩倉具視(いわくら・ともみ。没年:明治16.7.20(1883)生年:文政8.9.15(1825.10.26))は「幕末の公家,明治初年の政治家。堀河康親の2子に生まれ,14歳で岩倉具慶の養子となる。岩倉家は村上源氏久我家の庶流。祖先に宝暦事件で処罰された尚具がいて「村上源氏の名声を汚すなかれ」の言を遺した。村上源氏には藤原氏と拮抗した栄光の過去があり,天皇親政への憧憬があった。 安政5(1858)年2月,老中堀田正睦が上洛し日米修好通商条約調印の承認を求めたとき,宗家久我建通と図り88廷臣列参奏上を行い,朝議を調印反対に導く。万延1(1860)年,大老井伊直弼の横死(桜田門外の変)に幕府衰亡の兆しをみて王政復古への策動を始めた。とはいえ下級公家のこと,これへの達成の手段は諸々の政治勢力を操作する「調和駕御」をおいてほかにない。操作し続け,限界に達して決断する,これが以降の行動様式となる。皇女和宮(静寛院宮)と将軍徳川家茂との婚姻に賛成,それを機に朝廷勢力の幕府内部への扶植を図ろうとした。文久1(1861)年和宮に随従し江戸に赴き帰京。翌年4月島津久光に面会,「三事策」を提示して公武合体運動を支持した。だが尊王攘夷派の志士,廷臣から和宮降嫁を進めたことを非難され,久我建通,千種有文,富小路敬直と共に辞官・落飾の処分を受け,ために僧形となり法名を友山とし洛北岩倉村に居を移した。時に38歳。 慶応1(1865)年春ごろ非蔵人松尾相永の訪問を受けてより,同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し,政界復帰への意欲を深める。翌2年8月,親幕派の関白二条斉敬,朝彦親王の追放を策謀,同志の大原重徳,中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗した。3年6月,坂本竜馬,中岡慎太郎,次いで大久保利通との交流が始まった。10月,中山忠能,正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す。両藩の協力を得て王政復古を構想,12月8日処分を解除され,翌9日政変を断行。新政府の参与,次いで議定。 翌明治1(1868)年1月三条実美と共に副総裁,次いで共に輔相に任命され新政府の最高位に上げられたが,翌年1月辞任。以来,第一人者の地位を避けた。同年8月,王政復古の功により永世禄5000石を与えられる。翌3年勅使として鹿児島,山口へ赴き,島津久光,毛利敬親に面会,新政府強化のため両藩の協力を要請。4年7月の廃藩置県に伴う官制改革で外務卿。10月右大臣,11月特命全権大使として渡航,米欧各国を歴訪して同6年9月帰国(岩倉遣外使節団)。折からの西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)を巡る対立に調停を企て成らず,大久保利通と共にこれを否決(明治6年の政変)。翌7年1月赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる。自由民権運動に対抗し,巨大な天皇大権を内容とする欽定憲法を構想。また皇室基盤の強化を図り,同9年4月華族会館長に就任,華族銀行(第十五国立銀行)の設立,華士族授産,皇室財産の確立,京都皇宮保存などに力を尽くす。食道癌により没。太政大臣が贈官され,国葬をもって送られた。<参考文献>『岩倉具視関係文書』,多田好問『岩倉公実記』,大久保利謙『岩倉具視』(井上勲)」】
(続。もう一年以上、現代語訳をやっていますが、ちっとも上達しません。今回も、とくに最後に登場する「密事書」の訳に苦労しました。もしかしたら大きな間違いを犯しているかもしれませんが、どうかご容赦を)