わき道をゆく第210回 現代語訳・保古飛呂比 その㉞

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一 (文久二年)四月十七日、高屋友右衛門が御側御用役となる。
 同人は兵学者流であって、いささか時勢に意を注ぐけれども、平士の中の大身家だから自然佐幕の傾向あり。もっとも、党派はない。
 青木忠蔵が大目付となる。
 同人は太平の役人であって、可もなく不可もなし。もっとも、党派なし。
 また金子平十郎が御近習目付となる。
 同人はいささか俗才あり。武人で、なかでも弓術に長ず。党派なし。

[参考]
一 四月十八日、朝廷より公家衆に発せられた勅(天皇の命令)は次の通り。
 和宮さまの(名前の)呼び方についてご指示があった。御所においては(※原文は「於御所向ハ」)これまでの通り、和宮と呼ばれる旨をお命じになった。

[参考]
一 小原氏の筆記に曰く。
 四月十一日と同二十日の二回、上方からの急ぎの檄文が到着。かつまた、(先日、一時脱藩して帰国した)村田馬太郎・弘光銘之助の報告など大同小異あるけれども、どれも不安の種である。薩長両邸に拠る者たちが挙兵を急ぐので、あるいは突然、事を起こすかも知れない情勢である。

一 四月二十三日、間又右衛門・小原與一郎が小目付となる。
 間は誠実家とのことだが、交際なく、人となりをよく知らず。
 小原は正義家で気骨あり、もっとも望みある人物だ。隣家だから、人となりはよく知っている。自分よりかなりの年長である。
 山川左一右衛門が御郡奉行となる。
 山川は同志であり、謹直である。平士の中では大身家だから、大いに活発に事をなす気力に乏しい。これは惜しむところである。郡奉行を勤めている間、御廻り役の島本審次郎をひそかに京都に遣わし、内密の勅命などの書類を素早く入手させた。そのあたりには最も注意していたので、佐幕家からは嫌疑を持たれた。[この一節は、後に聞いたところを加筆した]

一 四月二十四日、伏見の寺田屋というところに泊まっている薩摩人ならびに浪人らを鎮撫するため、島津和泉殿の指図で、同じ薩摩人を寺田屋に向かわせたところ、議論のうえ遂に討ち果たしたとのこと。(注①)
 この知らせが土佐に達するやいなや、勤王過激家は大いに疑い、戸惑ったとのこと。佐幕家は、薩摩藩も佐幕だと主張したとのこと。自分は病床にあったので後で聞いた。

【注①。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、寺田屋事件は「1862年(文久2)4月23日深夜、京都伏見(ふしみ)の、薩摩(さつま)藩船宿(ふなやど)寺田屋伊助方で、薩摩藩士有馬(ありま)新七以下尊攘(そんじょう)激派が、薩摩藩兵に殺害された事件。薩摩藩主茂久(もちひさ)の父島津久光(ひさみつ)は、坂下門外の変後、一橋慶喜(よしのぶ)、松平慶永(よしなが)を中心とする雄藩連合体制による幕政改革と公武合体の推進に乗り出した。一方、薩摩藩士有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮介らは、公卿(くぎょう)中山家家士田中河内介(かわちのすけ)、豊後(ぶんご)岡藩士小河一敏(おがわかずとし)、久留米(くるめ)の神官真木保臣(まきやすおみ)(和泉(いずみ))、庄内(しょうない)郷士清河(きよかわ)八郎ら激派と結んで、大坂、京都に集結、久光の入京を機に挙兵し、安藤信正(のぶまさ)の政権を倒し、安政(あんせい)の大獄で謹慎中の公卿や諸藩主の復権を図り、幕府の大改革を実現しようとした。水戸、長州、熊本など、さらに広い挙兵も呼びかけたが、各藩では藩士の動きを抑えた。久光は4月16日に入京し、近衛忠煕(このえただひろ)の関白就任をはじめ、志士たちの要求を先取りする内容の建議を示し、幕閣改造のために江戸に向かおうとしたが、志士たちの動きを「暴発」として抑えた。志士たちの間にも分裂があり、結局、有馬らの薩摩藩士十数名と、真木、田中らが、4月23日、関白九条尚忠(ひさただ)と京都所司代酒井忠義(ただよし)の殺害を決行するため伏見に集結。久光は、奈良原喜八郎(ならはらきはちろう)(繁)ら9名を伏見に送り、「上意討ち」を命じた。乱闘の結果、有馬、柴山、橋口ら6名が殺され、2名が重傷を負った。田中河内介も鹿児島へ護送中、播磨灘(はりまなだ)で殺された。久光の役割は朝廷から高く評価され、幕府に近かった関白九条尚忠は辞任した。さらに久光は、勅使大原重徳(しげとみ)を擁して江戸に下り、一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任を実現させた。[河内八郎]」】

[参考]
一 同二十四日、小原氏の筆記に曰く。
 先日亡命した者のうち郷士の弘光銘之助が帰国し、御目付役の柏原内蔵馬宅へ直訴した。突然のことなので「役場ヲ張ル」(※意味不明。ひょっとしたら業務に就いたとか、臨時の役場を設けたとか、そういった類いの言葉かも)、これは昨夜四ツ時(午後十時ごろ)の事である。この銘之助も、かの吉田元吉を殺害した疑いのある者である。直訴の内容は、京都の変事(島津久光の上京をめぐる騒動)だけであって、他に申すことはなかった。銘之助に亡命した理由を問うと、去年以来の御政体(土佐藩庁)は、他国での修行や入湯(温泉療養)等のためお暇を願っても、他国行きは評議にかけて検討するまでもなく差し止めにされた。しかしながら、先日、上方での大事を聞き、なおざりにして見過ごすべき時節ではないと思い、やむを得ず、三月四日、同伴者の村田馬太郎とともに上方に行き、島津和泉さまや長州等の件を調べた。詳しいことは村田馬太郎が帰ってから申し上げたいと述べた。また、藩の関所を犯した件については恐れ入りますと言った。八日夜の変(吉田東洋暗殺)に関係はない模様だ。(弘光の身柄は)当分、旅館において親類どもにお預けになる。
  四月二十四日

[参考]
一 四月二十五日、容堂公の謹慎が幕府により解かれ、諸事平常の通りにするよう命じられた。お達しの文面は次の通り。

 松平土佐守

 松平容堂こと、先だって謹慎処分の解除を言い渡された際、在所(国許)へ帰ることはならず、かつ、親族そのほかとの面会、または文書往復等は遠慮するようにとの内輪の沙汰をしておいたが、将軍家の思し召しもあって、(それらの制限が解き)平常通りと心得るようお命じになった。このことを容堂に申し聞かすようにされたい。
 またこの日、一橋前中納言(慶喜)が平常通りとなり、近々登城するよう命じられたとのこと。また尾張前中納言(徳川慶勝)・松平春嶽も平常通りと言い渡されたという。

【注②。容堂は万延元年九月に謹慎処分を解かれたが、国許への帰国や親族との面会などは引き続き禁じられていた。当時の『保古飛呂比』の記述を再掲しておく。

一 この月(万延元年九月のこと)四日、御隠居様(容堂公)が謹慎処分を解かれる。

 先だって、父容堂が謹慎を仰せつけられたが、(将軍の)破格の思し召しにより、このたび謹慎解除を仰せつけられた。
 幕府の命令は次の通り。
 松平容堂こと、謹慎処分は解除されたが、国許への帰国等は許可できない。また、親族その他との面会や文書のやりとり等については遠慮するようにとの(将軍の)内々の御沙汰である。もっとも、よんどころない事情がある場合はかねて申し聞かせた通りにするように。】

一 四月二十五日、大坂警衛の交代人員は次の通り。
 士大将(さむらいだいしょう)は中老の村田仁右衛門孝尊。

御馬廻り組頭郷 権之丞
仙石彌三郎
休左衛門の惣領荻野孫五郎
近藤 栄
落合儀八郎
神山久兵衛
前川恭兵衛
井上覚之進
関 男也
元之丞の惣領岡 良馬
左近吾の惣領渋谷佐之介
亀之進の惣領楠目保五郎
高階廣之丞
儀六の惣領前野傳七
萬次の惣領石川貞之介
細木明吉
貞之丞の惣領上島愛之介
山中彌吉
達四郎の惣領福見六彌
中村要介
高橋庄兵衛
高崎竹五郎

 御雇い三人扶持二十石、文武に出精するよう命じられる、

又右衛門の惣領間 舎人
小介の惣領清水小太郎
源之介の弟野本要六
又右衛門の惣領間 舎人
小介の惣領清水小太郎
源之介の弟野本要六
忠二郎の二男五藤理平次
元之丞の二男岡 長蔵
安之進の三男磯村利喜馬
團蔵の二男本山健兵衛
孫八の弟小南寅次郎
彌八郎の二男小笠原謙吉
和介の養育人馬淵五郎兵衛
源馬の二男馬場鉛子[ママ]
團四郎の惣領美濃部孫二郎
弾左衛門の惣領吉松清吉
藤山源七の養育人井家竹馬
文校司業小目付役宮地幸右衛門
文校教授谷 丹九郎
文校助校谷守部
武校導役土方鎌五郎
寺田忠次

一 四月二十五日、平井善之丞が、同二十六日、小南五郎左衛門が大目付となる。
 二人とも勤王家で、平井は人情に篤く誠実な君子である。海防には早くから注意し、(藩で)西洋の火術を採用した功績がある。二人とも武市半平太等が信頼を寄せている。前に書いた通り、吉田元吉が暗殺され、藩の要路の面々が交替したが、いずれも因循家または佐幕家で、吉田に反対した人々であり、時勢に意を注ぐ真の勤王家は平井、小南の二人だけである。かえって御徒目付以下の軽格の者には勤王家が多数ある。このあと藩はどんな状況に立ち至るだろうか。士格の者で勤王家はあれども武市半平太をはじめとする軽格の者に対しては快く思っていない人が多くいる。概して士格は、大身・小身ともに因循か、または軽格に対しては面白く思っていない。人情によって大別すれば士格は佐幕家、郷士以下の軽格は勤王論である。藩情ははなはだ危険である。わずかに我々の同志は山川佐一右衛門・本山只一郎・林勝兵衛・服部與三郎で、その他には林亀吉・前野源之助・谷守部等は勤王家であるけれども、武市らに対していささか隔意があった。

一 四月二十六日、大学さま[容堂公の叔父上さまである]が文武館の総宰に任じられた。
 従来、文武頭取役または教授館頭取役といっても文館のみの場合もあり、大学さまは以前にも文武総裁をお勤めなされていた。これまでとかく文武方と藩政府が別々となるありさまだったので、このたび設立になる致道館(※文武館は後に致道館に名称変更される)は政府の直轄となり、両役場[参政府・大監察]等が日勤する規則となったが、またまた旧に復し、致道館頭取目付(という役職)が先日できて、今日は総宰が任命された。自分らは吉田と勤王佐幕の点については反対の立場であるけれども、文武奨励の点には同意である。しかしながら吉田氏が倒れてから旧に引き戻したことは遺憾である。畢竟、吉田氏が倒れ、真の勤王家はわずかに平井・小南両氏であって、ほかはみな平々凡々の俗輩のみだから、何事の弁別なく、吉田氏の改革の善事も何もかもたたき壊してしまう状況が見え、嘆くべきことである。

[参考]
一 四月二十六日、この日、郷士の村田馬太郎が帰り、直訴に及んだ。このたびは(弘光銘之助の時とちがって)同役たちが直に言い分を聞いたところ、銘之助の言い分と符合した。間然なき忠情をもっての振る舞いが伺われた。しかしながら関所を犯したという小罪があるので、当分親族へお預けとなる。[小原氏の筆記による]

[参考]
一 四月二十六日、江戸詰の留守居役より、次の通り届け出。
 次の名前の者ども、土佐守の支配下にある郷士・庄屋・寺院家来等であるが、三月上旬より四月初旬までの間に行方知れずになったと言ってきたので、なおその筋にて取り調べたところ、いずれも土佐守の領分から出奔したようだと国許から言ってきた。この時節柄であるので、ご内聞にして置かれるように私から申し上げる。以上。
 四月二十六日

松平土佐守内
若尾直馬

  名前は次の通り。

吉村寅太郎大石團蔵
弘光銘之助宮地儀藏
坂本龍馬澤村惣馬

[参考]
一 四月二十六日、島津和泉への(朝廷からの)お沙汰、次の通り。
 浪人どもに不穏の企てがあるのを島津和泉が鎮圧したこと(寺田屋事件のこと)について、天子は深く感心しておられる。ことに天子のお膝元での蜂起は容易ならざることであり、天子はまことに胸を痛めておられるので、和泉は当地(京都)に滞在して鎮静させるようにとおっしゃっておられる。

一 四月二十七日、太守さま[豊範公]が国許を出発されるはずのところ、またまたご病気ということで延期された。
 これはさる十一日、大坂から最速便の飛脚が到着した(ところから始まる)。薩摩の公子・島津和泉という人が多人数を引き連れて大坂に到着、それから伏見に移り、その後からも次々多数が上洛の模様。かつ、長州の家老も同様に伏見着。そのほか浪人どもが諸方より馳せ集まる。 
 禁裏を守護し奉り、幕府に勅命下り、大改革をなし、外夷を追い払うという風聞、事態は切迫しているとのこと。そのうえ(土佐の)お国も吉田等の変事があり、内外不穏の折からである。また、去る二十日に早追いの飛脚が到着。浪士どもは人数を増やしながら京都・伏見周辺に集まり、暴挙に出そうな勢いだが、薩長の屋敷の重役が制止してまだ事は起きていない、云々。
 こうした上方の形勢のため、太守さまの出発は延期、さる二十五日に発表された。先発組として浦戸・甲浦まで行っていた面々は呼び戻されたとのこと。
 このような風聞等は病床にあってだんだんと聞いた。

一 同三十日、文武頭取お目付役に尾崎要が仰せつけられていたが、今日、(同じ役職が)宍戸勘作にも仰せつけられた。また文武司業小目付役に千頭槇之進・森四郎・馬詰彦右衛門・馬場源馬四人が仰せつけられる。
 尾崎・宍戸は太平の好役人である。馬場は西洋砲術家で海防等には見識がある。森は慷慨家で、時勢には注目している。千頭は尋常一様の人である。馬詰は漢学者、すこぶる固陋にして、勤王の志のようなものは夢にもない人である。

[参考]
一 この月、(安政の大獄で蟄居処分となっていた)粟田宮さま以下の(処遇)、次の通り。
   粟田青蓮院宮(朝彦親王。注③)
 前々の通り、日々参内するよう(天子が)お命じになった。粟田宮はそれまで相国寺の塔頭に蟄居されていたが、この命令により、即日ご実家の伏見宮さまから御供の者が遣わされ、粟田御殿に帰殿された。

   近衛入道前左大臣殿(忠煕。注④)
   鷹司入道前右大臣殿(輔煕。注⑤)
 右の二人は前々の通り日々参内するよう命じられた。

   三条入道前右大臣殿(実万)
 先だって物故したので、今の三条殿(実美)に(実万の処分解除を)伝えられた。即刻菩提所である二尊院墓所へ、勅使を派遣して(その旨を)伝えられた。
[右の件は後に病床で聞いた。便宜上、ここに記す]

【注③。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、朝彦親王(あさひこしんのう。[生]文政7(1824).1.28. 京都[没]1891.10.29)は「伊勢伏見宮邦家親王第4王子。幼名富宮。親王宣下,名は成憲。一乗院入室,法諱は尊応。嘉永5 (1852) 年,青蓮院 (しょうれんいん) に移り尊融と改名,天台座主となり粟田宮といわれた。宮廷内議に参与。安政の大獄により永蟄居。文久2 (62) 年青蓮院に還住,翌年還俗して中川宮朝彦親王と称した。長州藩を中心とする尊攘運動の紛糾抑制のため,文久三年八月十八日の政変に指導的役割を果した。元治1 (64) 年賀陽宮 (かやのみや) と改称,大政奉還の翌日辞職。明治新政府にうとまれ広島に遷された。のち久邇宮 (くにのみや) と改称。神宮祭主となり,17年間奉仕,伊勢神宮の古儀復興に努めた。陵墓は京都市東山区泉涌寺 (せんにゅうじ) 山内町にある」】

【注④。近衛忠煕(このえ・ただひろ)は朝日日本歴史人物事典によると、「没年:明治31.3.18(1898)生年:文化5.7.14(1808.9.4)。幕末維新期の公家(摂家)。近衛基前の子。妻興子が薩摩藩主島津斉興の養女であったこともあり,政治的にも薩摩藩と緊密な関係を有した。安政4(1857)年左大臣となり,翌年,条約勅許問題を巡って,幕府寄りの関白九条尚忠と対立。右大臣鷹司輔煕,内大臣一条忠香,前内大臣三条実万らと共に,同年8月の「戊午の密勅」降下を推進した。翌月,尚忠に代わって内覧となるが,幕府側の圧力のため約1カ月で辞退。安政の大獄(1858~59)によって辞官・落飾・慎を余儀なくされた。文久2(1862)年赦免され,関白・内覧となり,まもなく国事御用掛も兼任。翌年,尊攘派に忌避され,関白・内覧を辞したが,国事御用掛にはとどまって朝政に関与し続けた。実万の人物評によれば,温厚にして権勢を執る心が少しもなく,純々たる君子であったらしい。<参考文献>勢多章之『近衛忠煕公』(少年読本第24編)(箱石大)」】

【注⑤。鷹司輔煕(たかつかさ・すけひろ)は朝日日本歴史人物事典 によると、「没年:明治11.7.9(1878)生年:文化4.11.7(1807.12.5)。幕末維新期の公家(摂家)。鷹司政通の子。安政4(1857)年右大臣となり,翌年の条約勅許問題では,幕府寄りの関白九条尚忠と対立。同年8月の「戊午の密勅」降下に関与したため,安政の大獄(1858~59)によって辞官・落飾・慎を余儀なくされた。文久2(1862)年赦免され,国事御用掛に就任。翌年には関白・内覧となるが,尊攘派に利用されることが多く,同年8月18日の政変で失脚,まもなく辞職に追い込まれた。その後も国事御用掛にとどまり,朝政に関与するが,父政通ほどの器量,知略もなく,暴なる性質であったという。(箱石大)」】

一 同下旬、吉田元吉暗殺の下手人がまったくわからず、役目を果たすことができないとして、下横目から小目付までそろって辞表提出を申し出たとのこと。これは、御徒目付をはじめとする下横目等には、武市氏の同志が多く、また吉田氏の人望がないため、下手人が分かっていても、手を下す者がいないという事情からである。

  保古飛呂比 巻八     文久二年五月より同年閏八月まで

  文久二年壬戌       佐佐木高行 三十三歳

五月

一 この月二日、以前出奔した村田馬太郎が帰宅し、大目付の柏原内蔵馬へ自訴した。もっとも、弘光銘之助が同道したとのこと。格別の罪状が見当たらず、関所を犯した罪科のみという。
 また文武調べ役で小目付兼任の下許武兵衛が中国筋と上方等の探索のため、下横目二人を召し連れて出発したという。下許は自分と竹馬の朋友であるけれど、軽格の勤王家を忌み憎んでいる。他藩の有志たちとわれわれ軽格等の勤王家とは、気脈を通じているので、下許などが探索に出ても、ただただ佐幕家の説の他は聞けないにちがいない。自分も最近は軽格勤王家の仲間と見なされているゆえ、病中にあって一度も下許から見舞い等に預かったことがないほど疎遠になった。

[参考]
一 同月三日、藩において次の通り。
 先だって以来、藩士が文武修行のため「地邦」(※これが土佐藩内の郡部のことなのか、藩外を指すのか判断がつかない)へ行くのが差し止められていたが、このたび解禁されたので、もしその志のある面々は御目付役場に願い出るよう命じられた。

一 五月四日、水野和泉守殿(老中・水野忠精のこと)による申し渡し
   松平肥後守(会津藩主・松平容保のこと。注➅)
 今後、(幕政参与として)御用向きのことを相談するので、折々登城いたすべき旨を命じられた。

   松平肥後守
 容易ならざる時節につき年寄ども(幕府の重臣。大老、老中、若年寄を指す)と万端腹蔵なく相談するように。右の通り、公方さまの御前で言い聞かせられた。

一 同四日
   松平肥後守
 今後、折々登城の際、用談したり、御用筋の書類を見たりするときは西湖間(さいこのま。江戸城で有力大名と将軍が対面する黒書院の一室)におられるよう。もっとも、御数寄屋(茶室)へ行って休息するのは勝手にされて構わない。

(高行の感想)これは幕府も追々人物を用いる端緒になるであろうか、後で承知したのでここに記しておく。

【注➅。松平容保(まつだいらかたもり。1835―1893)は日本大百科全書(ニッポニカ)によると、「幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守(わかさのかみ)、肥後守となる。美濃国(みののくに)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建の六男に生まれ、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり、1852年(嘉永5)襲封した。公武合体論を唱え、1862年(文久2)の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、尊王攘夷(じょうい)運動が熾烈(しれつ)になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとった。1863年の八月十八日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩(さつま)藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図ったが、内部対立のために失敗した。1864年(元治1)、これを好機として禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)を起こした長州藩を、薩摩・桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と協力して条約勅許問題などで活躍したが、1867年(慶応3)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(ちゅうりく)の宣旨(せんじ)が出され、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり、東北・北越に兵を展開し、籠城(ろうじょう)のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預(ながあず)けの処分を受けた。1872年(明治5)許され、1880年には東照宮宮司となった。明治26年12月5日没。[井上勝生]『手代木勝任・柴太一朗述『松平容保公伝』(『会津藩庁記録』所収・1926・日本史籍協会/復刻版・1982・東京大学出版会)』▽『山川浩著、遠山茂樹校注『京都守護職始末』全2巻(平凡社・東洋文庫)』」】

一 五月五日、この日は端午の節句の御礼(の儀式がある日)だが、太守さまがご病気のため、(藩士からの)御礼を受けられないとのお触れがあった。自分も病気なので例の通り、登城はできず。
 さる四月八日に吉田元吉が暗殺され、京都・大坂周辺の情勢も不穏となった。国許でも郷士以下の者で武市の同志の過激家は次々と脱走し、人心が騒々しくなった。そのため江戸参勤を見合わせられ、ご病気と称されたので、(藩士からの)御礼受けもできなくなったとのこと。病中につき伝聞のみ、詳細は聞かず。

一 同七日、尾張の前中納言さま・一橋さま・越前春嶽さま・容堂侯が(江戸城に)登城され、将軍と対面された。この日、会津(松平容保)が将軍の御前に召され、現今のことを老中どもと相談し、将軍から万事頼もしく思うとの言葉を賜ったとのこと。
 これは後で承知したことだ。幕府も大改造があるにちがいない、同志たちが大いに張り切っていると言って来た。

一 同九日、御城書(※江戸城の文書というような意味か)の写し
   田安大納言殿(田安徳川家の当主・田安慶頼(注⑦)。将軍家茂の後見職を務めた)
 公方さまはお年頃にもなられたので、(慶頼の)内々の願い通り、(これまで務めていた)後見職を解かれる。今後、政事向きのご相談も受けるだろうから、折々登城されたい。(公方さまは)格別の御精勤を満足に思っておられるので、特例で(慶頼の官位は)正二位とされる。また同じく特段の思し召しで、一生の間、年に金千両ずつ下される。

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、田安慶頼(たやす-よしより1828-1876)は「江戸時代後期,三卿(さんきょう)田安家の5代。文政11年10月13日生まれ。3代田安斉匡(なりまさ)の9男。天保(てんぽう)10年5代となり,のち8代を再承。将軍徳川家茂(いえもち)の後見職となり,戊辰(ぼしん)戦争では江戸開城の際,謹慎中の徳川慶喜(よしのぶ)にかわり市中の秩序維持につとめた。明治9年9月21日死去。49歳。」】

一 江戸より(土佐藩に)飛脚が着いた。(小目付の)小原與一郎翁がその内容を書き留めた。次の通り。
 江戸より飛脚が到着。大坂・住吉の陣屋が、先日修行のため出国していた郷士・重松縁太郎を捕らえた。この者を糾明したところ、囚人の吉村寅太郎(注⑧。寺田屋騒動で薩摩藩に捕らえられ、その後土佐に移送された)に対面のため、かつ、長州の日下玄瑞(久坂玄瑞。注⑨)ならびに(土佐藩出身の)大石團蔵(注⑩)・奈須慎吾(那須信吾。注⑪)
・安岡加介(安岡嘉助。注⑫)等の手紙を頼まれ、持参したとのこと。なお糾明したところ、吉田元吉を討ち果たしたのは、大石・奈須・安岡の三人で、長州藩に在留していると申しているとのこと。大坂小目付の福留健次・大谷茂次郎が談判を持ちかけてきた。これは今月九日のことである。
 十日に下許武兵衛が大坂に着くので、十二日に足軽を召し連れ、右の三人を召し捕りに行きたいという談判である。場合によっては浪人らが三人に加担し、かつ日下玄瑞の仲間が邪魔をすることも考えられるので、足軽たちを用意のため差し向けることについて「御目付ノ示談ニ及ブ」(※正確な意味が不明なので原文引用)、云々。
 (高行が)思うに、小原氏は正義家であるけれども、参政吉田を暗殺した下手人を捕縛することは役目柄当然だから、やむ得ないという気持ちだろう。福留のような者は、最も軽格を憎む人間だからよほど尽力したにちがいない。大谷氏は老練家であるけれども、これまた軽格の跋扈を忌み嫌うのは疑いない。下許も同じ種類の人物である。もちろん国法を犯し、重役を暗殺する者を厳刑に処することには異論がないはずだ。それを好悪によって行うのは憂うべきことだ。自分たちといえども、国法に従って糾明するのは無論であるが、彼の(暗殺犯の)徒は私怨によって暗殺したのではない。大は皇国、小は我が藩のためと、一途に迫っていった心情は、十分に察してやるべきだろう。しかしながら、一方的に国賊と言って罵り、そうした事情に頓着しないありさま、はなはだ不平である。

【注⑧。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、吉村寅太郎(よしむらとらたろう。[生]天保8(1837).土佐[没]文久3(1863).9.26)は「幕末の尊攘派志士。虎太郎とも書く。名は重郷。父太平の跡を継いで庄屋になったが,文久1 (1861) 年武市瑞山の勤王党に加盟,翌年脱藩して国事に奔走,寺田屋騒動で捕われて送還された。同3年さらに京都に出て藤本鉄石,松本奎堂らと天誅組を起して討幕攘夷の挙兵をしたが,鷲家口 (わしかぐち) の戦いに敗れて自刃」】

【注⑨。朝日日本歴史人物事典によると、久坂玄瑞(没年:元治1.7.19(1864.8.20)生年:天保11(1840))は「幕末の長州(萩)藩士,尊攘派の志士。藩医久坂良迪の次男。兄玄機,父良迪の死に遭い,安政1(1854)年家督相続。同3年九州を遊学,月性,宮部鼎蔵から勧められ,5月吉田松陰の門下に入る。「久坂玄瑞,防長(長州藩)少年第一流人物」とは松陰の評。翌年松陰の妹文子と結婚。高杉晋作とならび松下村塾の双璧であった。翌5年学業修業のため江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)に蘭学を学び翌年2月帰藩,5月江戸へ護送される松陰を送る。10月松陰が処刑されたのち,松下村塾生の結束を図る。翌万延1(1860)年江戸に出て蕃書調所の堀達之助の塾に入り,8月高杉らと共に小塚原の刑場に松陰の霊を祭った。薩摩,水戸,土佐の志士と交流を深め,次いで藩政府に働きかけ和宮降嫁と長井雅楽の公武合体運動の阻止を図るが失敗,命ぜられて文久1(1861)年10月帰藩。「諸侯恃むに足らず,公卿恃むに足らず,草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し」とはこのときの感慨。翌2年3月兵庫警衛の藩兵に加わり上京,攘夷の挙兵計画を進めるが,薩摩の同志が島津久光に弾圧され(寺田屋事件)て中止。以来,周布政之助,前田孫右衛門ら藩庁首脳部に接近,藩論を尊王攘夷に転換させることに尽力し成功。このときに呈出した「回瀾条議」「解腕痴言」は,長州藩尊王攘夷運動の方針を定めた。次いで江戸へ,12月高杉晋作らと共に御殿山に新築中の英公使館を焼打ちにする。翌3年上洛,尊攘運動を指導,士格を上げられて大組となる。次いで下関に赴き,同5月アメリカ船砲撃を指揮,再び上洛して大和行幸を計画したが8月18日の政変により挫折。9月政務役に任命され藩政の要路に立ち,京と山口の間を往復。折から藩内には武力上洛論と割拠論との対立があり,前者に圧されるまま元治1(1864)年6月出動の長州藩兵を率いて洛南の山崎に布陣。武力入洛には慎重論を唱えたが,来島又兵衛,真木保臣(和泉)らの強硬論に屈し出撃,禁門の変に敗れ鷹司邸に自刃した。25歳。<参考文献>福本義亮『松下村塾偉人 久坂玄瑞』(のち『久坂玄瑞全集』と改題)(井上勲)】

【注⑩。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大石団蔵(おおいし-だんぞう。1833-1896)は「幕末-明治時代の武士。天保(てんぽう)4年生まれ。土佐高知藩の郷士。京都で春日潜庵(せんあん)にまなぶ。土佐勤王党にくわわり,文久2年那須信吾らとともに藩参政の吉田東洋を殺害。のち鹿児島藩士奈良原繁の養子となり,高見弥一郎と改名。イギリス留学後,鹿児島の造士館などでおしえた。明治29年2月28日死去。64歳。名は祐之。変名は安藤勇之助。」】

【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、那須信吾(なす・しんご。没年:文久3.9.24(1863.11.5)生年:文政12(1829))は「幕末の土佐(高知)藩の郷士,勤王運動家。土佐藩家老深尾氏家臣浜田光章の次男,高岡郡檮原村の郷士那須俊平の養子。本名重民,通称信吾。体格雄偉,体力衆に抜きん出て武芸に秀でた。土佐勤王党に参画。文久2(1862)年,武市瑞山ら勤王党は一藩勤王論を主張して京都に押し出そうと参政吉田東洋に盛んに進言したが遮られ,その抹殺を謀った。信吾は,安岡嘉助,大石団蔵と4月8日に吉田を暗殺し,長州に脱出,京坂の間に転じ,国事に奔走,3年8月,大和五条代官所襲撃に始まる天誅組の乱に幹部となり奮戦,9月24日吉野の鷲家口で戦死した。宮内大臣を勤めた田中光顕は甥。<参考文献>田中光顕『維新風雲回顧録』」「那須信吾(読み)なす・しんご朝日日本歴史人物事典 「那須信吾」の解説那須信吾没年:文久3.9.24(1863.11.5)生年:文政12(1829)幕末の土佐(高知)藩の郷士,勤王運動家。土佐藩家老深尾氏家臣浜田光章の次男,高岡郡檮原村の郷士那須俊平の養子。本名重民,通称信吾。体格雄偉,体力衆に抜きん出て武芸に秀でた。土佐勤王党に参画。文久2(1862)年,武市瑞山ら勤王党は一藩勤王論を主張して京都に押し出そうと参政吉田東洋に盛んに進言したが遮られ,その抹殺を謀った。信吾は,安岡嘉助,大石団蔵と4月8日に吉田を暗殺し,長州に脱出,京坂の間に転じ,国事に奔走,3年8月,大和五条代官所襲撃に始まる天誅組の乱に幹部となり奮戦,9月24日吉野の鷲家口で戦死した。宮内大臣を勤めた田中光顕は甥。<参考文献>田中光顕『維新風雲回顧録』(福地惇)」】

【注⑫。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、安岡嘉助(やすおか-かすけ1836-1864)は「幕末の武士。天保(てんぽう)7年生まれ。安岡覚之助の弟。土佐高知藩郷士。武市瑞山(たけち-ずいざん)らの土佐勤王党に属し,那須信吾らと藩の参政吉田東洋をきって長州に脱走した。文久3年天誅(てんちゅう)組の挙兵にくわわって捕らえられ,4年2月16日処刑された。29歳。名は正定。」】

一 五月十二日、急ぎの檄文が土佐に着いた。次の通り。
 先月二十三日、京都や伏見あたりの浪士どもが四月二十三日を期して所司代ならびに二条城を襲い、かつ皇居を守る井伊の部隊を討つという計画があった。長州と薩摩が制止して(計画は)止んだ。しかしながら、薩摩藩の八人組と称する士(さむらい)の憤激が甚だしく、その頭領格の士四、五人[柴田愛三郎・橋口荘助・田中健助・有間新七・その他三、四人]を和泉君の命令により討ち果たし、ようやく右の企てが止まったとのこと。やむを得ず、その後両藩は静かになっているが、浪人どもの暴発はいつ起きるかわからないという。[梼原庄屋の吉村寅太郎・澤野山郷士養育人宮地宣蔵は先日亡命して薩摩藩邸にあり、御当家(土佐藩)へ引き渡された]

[参考]
一 同十六日、凌雲院さま(第十四代藩主・豊惇の子・豊廉。文久元年死去)の一回忌の法事。

[参考]
一 同十七日、文武館の課程が立て替えられた。次の通り。
 一 十六歳より二十二歳まで、(出席日数)月に二十日。
 一 二十三歳より二十九歳まで、(出席日数)月に二十五日。
 一 三十歳より三十九歳まで、(出席日数)月に二十日。
 以上、五ツ時(午前八時ごろ)より八ツ時(午後二時ごろ)まで。
 一 四十歳以上、本人の意思次第で出席すべきこと。
 一 役勤めの者たちも右に同じ。

[参考]
一 同二十日、深尾弘人以下の罰文、次の通り。

    深尾弘人
 右の者は勤役中、確かに太守さまの意に反する事があった。これにより屹度(きっと)遠慮(注⑬)を仰せつけられる。

     福岡宮内
 この者は右と同じ理由により、慎みを仰せつけられる。

     朝比奈泰平
 この者は、勤役中のさまざまなことで確かに太守さまの意に反することがあり、太守さまはご不快に思っておられる。これにより「屹度」(※きつい処分、あるいは屹度叱り=叱責だけの軽い罰の意か)を仰せつけられるはずのところ、「今般云々」(※意味不明)家格・禄高を取り上げ、仁淀川より東を禁足とする。
     朝比奈泰平の総領 吉郎
 この者は泰平と同じだが、このような事態になったので、太守さまのご慈恵により、父が持っていた家格・禄高をそのまま下し置かれる。

     大崎健蔵
     福岡藤次
 この者たちは、勤役中の「罰行」(※正確な意味はわからないが、刑罰の行使といったところではないか)の取り扱いに関して不正の筋があり、そのほかふしぶしで太守さまの意に反することがあり、ご不快に思われた。これにより、屹度遠慮を仰せつけられる。

     市原八郎左衛門
     麻田楠馬
     由比猪内
 この者たちは勤役中に太守さまの意に反することがあり、右と同じく(屹度遠慮を)仰せつけられる。

     百々(どど)茂猪
 この者は吉田源太郎の養育人である。源太郎の父である元吉は生前の勤役中、権威を専らにし、政事向きのことを恣に取り計らい、ふしぶしで不正の筋があった。太守さまはそれをご不快に思われ、(元吉が)存命ならば屹度科(とが)を仰せつけられるはずのところ、死後であるがゆえに、格別のご沙汰に及ばなかった。そのことを(養育人の)源太郎に申し聞かせるように。以上。
    亥(いのしし。文久二年)五月二十日

【注⑬。藩士の自宅謹慎処分は重い順に「蟄居」「閉門」「逼塞」「慎」「遠慮」「差扣」があった。「慎」は「遠慮」より重く、「逼塞」より軽い。また精選版日本国語大辞典によると、遠慮とは「江戸時代、武士や僧侶に科した軽い謹慎刑。居宅での蟄居(ちっきょ)を命ぜられるもので、門は閉じなければならないが、くぐり戸は引き寄せておけばよく、夜中の目立たない時の出入は許された」】

一 五月二十二日、勅使として大原左衛門督(大原重徳。注⑭)さまが(江戸に向け)ご出発の際、(天子さまが)特別に同卿にお命じになった。
   叡慮の写し
 朕、国家のために日夜憂いに堪えず、休もうとしても、幕吏が朕の安寧を盗む。このため、汝を関東に遣わして、朕自身の志を国内全体に知らしめようと思う。願わくは、汝が朕の腹心となって怠ることがないようにせよ。将軍の前で議論するとき、幕吏が正邪の判断を誤り、島津(久光)と争論に及ぶことも万一あるかもしれない。そういうときは汝が大道をもって是非を諭し、天下の一大事を誤らせることがないようにせよ。今日のことは朕はすべて汝に委ねる。汝はつとめて祖神の震怒(激しい怒り)を招かぬようにせよ。

【注⑭。朝日日本歴史人物事典によると大原重徳(おおはらしげのり。没年:明治12.4.1(1879)生年:享和1.10.16(1801.11.21))は「幕末の公家,宮中政治家。父は重尹。老中堀田正睦が条約締結の勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,これに反対して88廷臣の列参奏上に参画,翌年慎を命ぜられた。大原家は源氏。ふるく12世紀,平氏打倒の兵を挙げた源頼政になぞらえて鵺卿と敬称された。文久2(1862)年,62歳の年の6月,勅使に任ぜられ,島津久光の護衛を受けて江戸に赴き,徳川慶喜,松平慶永の幕政参与を強要。折から,長州藩世子毛利定広の持参した勅諚に久光を批判する文字があり,薩長融和の意図からこれを削除。翌年2月,この罪を問われて辞官・落飾,元治1(1864)年1月赦免。慶応2(1866)年8月,中御門経之と共に列参奏上を断行,二条斉敬,朝彦親王ら親幕派の追放を計画し失敗,閉門となる。翌年3月,処分解除。王政復古で三職制が新設され参与,以後,刑法官知事,議定,上局議長,集議院長官。明治2(1869)年賞典禄1000石を永世下賜され,翌年麝香間祗候,79歳で没した。(井上勲)」】

一 深尾弘人殿「御開キ」(※よく分からないのだが、ひょっとしたら申し開き、つまり釈明のことかも)、二百石を減じられる。

一 同二十七日、桐間蔵人清卓、御奉行職[執政のこと]を免じられる。

一 同二十八日、柴田備後勝守が御奉行職に、桐間将監守卓[蔵人の嫡子]が御近習御用にそれぞれ仰せつけられる。これらの人のうち、桐間蔵人は腹黒いという評判のある人である。吉田元吉が権勢を振るうのを見て、大いにそれを忌み嫌い、自然のなりゆきとして武市氏らの説を受け入れたという。それゆえ下士たちが望みを託したとはいえ決して正義家ではない。嫡子の将監は愚物である。柴田備後も可不可のない人物ではあるが、その重臣の土橋彌五之丞という人は、かのおこぜ組(注⑮)の一員と称されただけあって人物である。土橋は武市の説を受け入れ、いろいろと周旋したとのこと。よって柴田も自然に勤王家に入れられたけれども、何の用にも立たず。

【注⑮。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、おこぜ組とは「1843年(天保14)第13代土佐藩主となった山内豊煕(とよてる)が、ただちに着手した藩政改革で登用したグループ。その人材群の中心は下級武士馬淵嘉平(まぶちかへい)で、党与は50名にも及び、大勢力となった。土佐には「おこぜ」という貝の一種を懐中していれば猟漁に恵まれるという迷信があり、馬淵一派の登用をねたむ者は彼らをおこぜ組とよんだ。嘉平らは財政緊縮・商業抑制による藩体制の立て直しを目ざしていたが、上層守旧派の反対は強く、嘉平らを禁制の心学修法を行っていると訴えた。嘉平らはそれを否認したが、暮夜ひそかに行っていた会合への疑惑を解くことができず、11月嘉平は投獄、党与10余名も処分されて、改革は挫折(ざせつ)した。[関田英里]」】

一 同二十九日、太守さまが御自筆(の文書)により次の通り仰せつけられた。
 このごろ内外ともに不穏な時勢になり、我ら若年は深く心を痛めている。言路(上の者に対して、臣下が意見を述べるためのみち=精選版日本国語大辞典)に関しては、御先代さまの時代からお開きになっているが、このうえさらに人心一致、上下親睦のため、何事によらず意見のある面々は申し出るように。

以上。

 この御書拝見の際、病気のため出勤せず、親類から伝えられた。

一 同二十九日、福岡宮内殿、「無異儀御開」(※申し開きの際、藩の処分に異議を唱えなかったという意味かも)

一 五月二十九日、同夜、高輪東禅寺の英国公使館に狼藉者が討ち入り、「マトロス」(※マドロス=船員の意か)を突き殺し、「外国方役手」(※幕府の外国奉行配下の公使館警備兵)を負傷させて逃げ去ったとのこと。
 その後の風評では、公使館の警衛にあたる松平丹波守家来の伊東軍兵衛という人が自ら割腹したとのこと。これに感慨を抱いた士は少なくない。注意すべきことである。(注⑯)

【注⑯。百科事典マイペディアによると、東禅寺事件(とうぜんじじけん)は「1861年有賀半弥ら攘夷派の水戸浪士14名が,江戸高輪(たかなわ)東禅寺の英国仮公使館を襲撃,双方に多数の死傷者を出した事件。幕府が償金1万ドルを支払い,各国公使館の建設を約して解決(第1次東禅寺事件)。しかし翌1862年にも公使館警備役の信濃(しなの)松本藩士伊藤軍兵衛が館内に侵入,水兵を2人殺害し,自分も自刃する事件が起こった。引き続いた生麦事件とからんで賠償交渉は難航,翌年幕府が1万ポンド(約4万ドル)を支払って解決(第2次東禅寺事件)。」】

一 同月、文武館への馬廻り組頭・留守居組頭の出勤を差し止められる。
 致道館の開業から交替で出勤していたのに差し止められるとはどういう主義によるものかわからない。何事もとかく因循(古い習慣にとらわれて改めようとしないこと)になっている。

六月

一 この月朔日、将軍家が近年のうちに上洛(京都に入ること)する旨、命令を発せられた。
 これは後で承った。将軍の上洛はかねてから渇望していたことだが、近年のうちというのであれば、その因循(ぐずぐずしていること)を想像すべきである。とてもはかばかしいことはありえず、実に太平の末、どうにもならず、嘆息々々。

一 同二日、藩にて次の通り。
 藩財政は積年の窮迫を余儀なくされ、さる卯年(安政二年)に年限を立て(節減策を実施し)、今年正月から年限満了により平常通りに戻すと命じられた。しかしながら、現在のご時勢もある一方で臨時の物入りも少なくない。よってこのたび期限を延長して五カ年の年限を新たに立て、その間は諸事を省略するよう仰せつけられた。

 この文書は支配頭の乾治左衛門殿の宅に行って拝見するはずだったが、父子ともに病気のため、親類を名代に遣わして拝承した。ついでに言っておくと、吉田元吉は倹約等は好まず、そのうえ本年は御省略期限が明けたので、正月より藩士の分格(※それぞれの身分に応じた生活規制)を復活させることになった。しかしながら天下の形勢は容易ならず、大いに節倹して軍備を拡充しなければならぬ。吉田が太平を装ったのに対しては我ら不同意であり、このたびの御倹約は当然のことであるが、最近の要路の面々は俗物家が多く、真の倹約を知らない。あるいは、急務の軍備のことまでも御省略を口実にして疎略に流れる弊害がありはしないか。ひそかに憂慮している。

[参考]
一 六月四日、黒田甲斐守さま(黒田 長義。筑前国秋月藩の第11代藩主)が御死去。

一 同五日、[別の本では六日]、先月七日、(将軍が)松平春嶽に対し、折々登城するようお命じになった件について、この日、(将軍は)その手当てとして(春嶽に)年に一万両ずつ与えるという命令を発せられた。
 (以下は高行の感想)このように春嶽公らを優待されるのは、幕府も勤王の実を挙げ、天下の人心を喜んで従わせようということなのか。大いに喜び祝うべし、祝うべし。

一 同七日、勅使・大原(重徳)卿が江戸に到着。
 その守衛として島津和泉が一日遅れて江戸着。供回りは大人数、金紋先箱(注⑰)・貳本道具(注⑱)を持って盛大な行列である、云々と。
 ちなみに、金紋先箱は国持ち大名でも(使用に)制限があるくらいだから、ことさらに人目を驚かしたことであろう。

【注⑰。精選版 日本国語大辞典によると、先箱(さきばこ)は「さきはさみばこ(先挟箱)」の略。江戸時代、将軍家や諸大名などの行列で、正服を入れて、その先頭にかついで行かせた挟箱(はさみばこ)。一対で、家格により箱の覆革(おおいかわ)に金の定紋をつけたので、俗に金紋先箱ともいう」】

【注⑱。精選版日本国語大辞典によると、二本道具は「江戸時代、国持大名の行列の供先などに立てた二本一対の槍」】

一 同八日、病気快気届を支配頭の乾治左衛門殿へ出す。
 昨年十一月二十日より大患にかかり、内外騒々しい時節であった。何事もわけの分からないでいたところ、だいぶ快方に向かったが、まだ全快していない。保養のため歩いてみたく、足馴らしとして快気届を出しに行った。

一 六月十日、山川左一右衛門が御近習目付に仰せつけられた。
 我らの同志が主君側近の要路に登用された。最も喜ぶべきことである。

一 同十一日、坂井孫九郎が小目付役に任じられたとのこと。時勢に不似合いな俗物がどういうわけで選ばれたのかと思う。坂井は老人で、勤王家を忌み嫌う人である。小監察(=小目付)は微官であるけれども、機密に預かる肝要な地位だ。現在は勤王と佐幕とが雅俗混交している。これは結局、要路に二派があるということだ。もっとも門地家は佐幕家が多く、吉田の権力を妬んだ連中が一時勤王家を利用し、吉田派の残党を倒した後、地金を次第に出していくということか。憂うべし、憂うべし。

[参考]
一 同十一日、中山忠能公(注⑲)が三条公(三条実美のこと。実美の父・実万の養女が容堂の妻になっていて、三条家と山内家は縁戚関係にある)に送った書簡、次の通り。
 ますますのご健勝をお喜び申し上げます。さて内々にお尋ねしたいことがあります。土佐藩の当主(現藩主・豊範のこと)が今年、出府(江戸参勤)の年であるのに、病気のため出府延期を願ったのではないかとの説があります。これは本当の事でしょうか。内実を申し上げれば、(豊範一行が)伏見を通行することになるので、そこから京都に立ち寄ることも考えていただきたい、というのが天子さまの内々の意向です。もっとも、兵などを動かすような必要は一切ありませんが、最近の世の中の形勢にはどうにも深く心を痛めておられます。ついては、薩長両藩の周旋の次第はだいたいご承知の通りですが、土佐藩に対しても内々ご依頼されたいこともおありですので、通行の便や、藩侯のお考えをおっしゃっていただければ至極結構とお思いになっていたところ、前述の参勤延期のことを聞かれ、深く残念に思っておられます。およそいつごろ出府通行されるのか、内々にお聞きしたいというご意向です。よってこの件をひそかに貴公にお尋ねします。内々にお調べのうえお答えいただけませんでしょうか。
   六月十一日
             忠能
     三条羽林公
          内用(=内々の用事)

【注⑲。中山忠能(なかやま・ただやす)は朝日日本歴史人物事典によると、「没年:明治21.6.12(1888)生年:文化6.11.11(1809.12.17) 幕末の公家,宮中政治家。父は忠頼,母は綱子。明治天皇の生母,慶子の父。老中堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,正親町三条実愛らと共に反対の建議書を提出。次いで88廷臣の列参奏上に参画,同年5月議奏に就任して朝議決定の構成員となった。和宮御縁組御用掛に任命され,文久1(1861)年10月江戸に赴く。次いで島津久光および薩摩藩の公武合体運動を支持,尊王攘夷派の志士と攘夷派廷臣の攻撃にさらされ,同3年1月議奏を辞職した。翌元治1(1864)年7月,前年の8月18日の政変で失った勢力の回復を図って長州藩が武力上洛を敢行するが,その際支持の姿勢を示す。禁門の変で長州藩兵が敗北した直後,参朝・他人面会・他行の禁止に処せらる。慶応3(1867)年1月孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。同志の長老として岩倉具視,中御門経之らと共に王政復古の政変を画策,討幕の密勅作成に関与した。政変後,三職制が新設されて議定に就任。以来,輔弼,神祇官知事,神祇伯。明治2(1869)年9月王政復古の功により賞典禄1500石を永世下賜。同4年麝香間祗候,同7年華族会館の設立に尽力,御歌会式取調掛,柳原愛子(大正天皇生母)御産御用掛,明宮(大正天皇)御用掛などを務め,80歳で没した。<著作>『中山忠能日記』<参考文献>『中山忠能履歴資料』(井上勲)」】

一 六月十三日、勅使・大原重徳卿が(江戸城に)登城したとのこと。

一 同十四日、昨夜、大坂住吉陣屋詰めの当分小目付役・福富健次が(土佐に)着いたとのこと。
 同人は長い間の友人で、親しく交際してきたが、近年は吉田派に加わり、次男であるけれども御雇い等により役儀を仰せつけられた。軽格の勤王家を忌み憎むというので、自然疎遠になった。よって、何の御用で(土佐に帰ってきたのかを)聞けない。(福富は)このごろ吉田暗殺の下手人の件で、しきりに尽力しているということは他より聞き込んでいるので、定めしその辺のことであろうか。

一 六月十八日、大坂住吉陣屋詰めの小目付役・下許武兵衛が早追い駕籠で(土佐に)着いた。何の御用かは聞いていない。武兵衛は友人だったが、自分は武市派の嫌疑をもたれているので疎遠になった。

一 同日、江戸からの早追い使者・野本喜久馬が到着。
 将軍家が政事改革(に取り組む)、「寛政前の處」(※寛政は松平定信による寛政の改革を指すとみられる)へ立ち戻り、諸事を改革し、近年のうちに上洛するとのこと。
(以下は高行の感想)ちなみに記す。幕府の改革は喜ぶべきことだ。しかしながら三百年の太平により士気が衰えており、実行は果たしてどうなるか。我が藩の上層部のありさまから推測すると、なかなか難しいのではないか。

[参考]
一 同二十日、太守さま[豊範公]より三条公に贈られた御書、次の通り。
 貴翰をいただき、忝く拝読いしました。酷暑の季節ながら、まずもって皆様がますますご勇健であられ、恭賀の至りと存じ奉ります。ところで、ただいまの都の情勢、内密にお知らせいただいた事ども、まことに容易ならざる時勢と存じます。それと関連して、中山大納言殿より極秘で、江戸参勤途中、京都に滞在し、薩長同様の皇都警衛を若年不肖の私に依頼したいという叡慮、内々の御沙汰の子細を貴方様に示されたということを拝読しまして、身に余るほど有り難く、恐れ入ります。ただいまの情勢は弊藩においても傍観しがたく、私自身の非才未熟を顧みず、及ばずながら公武合体のことをかねて関東に建白したいと考えておりました。そのため早々に江戸に行く心積もりでしたが、今春以来体調が優れず江戸行きを延期していました。ようやく最近になって快復に向かいましたので、このたび国許を発ち、ひとまず関東へ向かい、前記の意味を父・容堂へも伝えたうえで、取り計らいをしたいと思いますので、京都滞在の件はいましばらくお許しください。ご都合により、召し連れた人数を私の名代として差し分け、相応の手配をして、京都の守衛として差し置きたいと存じますので、あらかじめ貴方様の了解を得たうえでその旨を大納言殿へご都合よろしくお伝えください。なお詳しいことは近々上京して直接お話をしたいと思っています。それまでは貴殿からのお手紙に任せ、こちらからも家来の者を一人、貴殿のところに伺わせます。その者には前もってかれこれ摺り合わせをさせますので、その際には私どもの内情をお聞き取りいただき、悪しからず御取り扱いいただけるよう伏してお願いします。他ならぬご親戚の間柄なれば、なおこのうえ返す返すもよろしくお取り持ちいただけるよう、なるだけ忌諱に触れぬようひとえに御配慮お願いします。右、お知らせかたがた愚札(自分の手紙をへりくだって言う語)を差し上げました。恐惶謹言。
   六月二十日

土佐侍従

  三条少将殿
    貴報御直披(貴報は返信、直披は親展を意味する脇付)

一 六月二十日、大目付の小南五郎右衛門が(太守さまの御供をして江戸に行き、その後すぐ帰国する)立ち帰り御供を仰せつけられる。

一 同二十一日、大目付の平井善之丞が当分御仕置き役兼任を解かれる。

一 同日、齋藤(内蔵太)叔父上が馬廻り組頭のまま、当分大目付を兼任し、立ち帰り御供を仰せつけられていたが、お目付役兼任を解かれ、馬廻り組頭(専任)で立ち帰り御供をそのまま仰せつけられたということを知らせてきた。よって早速お歓びに参上するよう言って来た。それで早速お歓びに行くはずなのだが、いまだ十分に往来できず、(代わりに)父上がお勤めになった。(続)