わき道をゆく第211回 現代語訳・保古飛呂比 その㉟
[参考]
一 (文久二年)六月二十一日[歟(=だろうか)]、藩にて次の通り。(注①)
このたびの評議を踏まえ、文武それぞれの師弟関係のあり方をかつての通りにするよう仰せつけられた。もちろん、以前、師弟だった者は元通りになる。「以来猶師家無之輩、文武入門之上、白札以下、▢御家老中家臣、中老物頭并平御士家来、騎馬免許之者、且譜代帯刀之家来ニ至迄、文武館中修行方之次第、別紙式書之通被仰付之」(※それでもなお師匠のない者は、文武それぞれ入門のうえ、白札(上士と下士の中間身分)以下、家老の家臣、中老・物頭・平士(ひらざむらい)の家来、騎馬を許された者、かつ代々帯刀の家来に至るまで、文武館で修行するよう、そのやり方を別紙式書のとおり仰せつけられる、と読めるが、正しいかどうかわからない)。もっとも、遠く離れた場所に住む者たちは前年通り、(その地の)学問武術の教導者のもとで修行し、勤怠をそれぞれの師家で取りまとめ、三カ月に一度文武館へ差し出すよう。また、白札以下、文武館で文武両道を修行する者たちは、評議の結果、勤め方の課程は定めず、当人の志次第で出勤するよう仰せつけられた。もっとも、修行施設が完全にできておらず、かつまた現在、各階級の後先が混じり合っていたりして(注②)、席順等が詳らかになっていない事情もあるので、それぞれが謙譲の精神をもって修行第一に勤めるようにと御惣宰さま(山内豊栄のこと)は仰っておられる。
ただし武道を主修しない者でも、なお(出勤は)当人の志次第であるのは本文の通り。かつ、先だって用人(下士の一身分。郷士の下、徒士の上)以下は砲術を心がけるよう命じられたが、小銃等を貸し出すことが現在難しい状態で、これから追々でき次第、希望者に貸し出すことにする。それまではお互いに融通して修行すべし。もっとも、あり合わせのうち差し支えない分は拝借することができる。
[別紙]
文武館大條目(文武館の最重要規則)
一 文武は車の両輪のごとし。偏廃(一方的にものの一面を無視したり捨てたりすること=精選版日本国語大辞典)すべからざることはかねて告知していたが、なおまた必ず志を励まし、太守さまの御趣意を一心に守るべきこと。
一 学問は第一に五倫(注③)の道に背かず、
皇朝の国体を服膺(しっかりと心に留めて忘れないこと)し、聖賢の教えにしたがい、身を修めて家を整える工夫をするのが肝要である。武道は士の職分であって、治(世の中が治まること)に忘るべからず、乱(世の中が乱れること)はもちろんのこと、常に心がけて武技を研究すべきである。
一 文武とも師弟の道を厚く守り、信義をもって授受すべし。また、両道とも名利に走らず、真実の修行をすることが最も重要である。
一 喧嘩口論等は言うに及ばず、猥りの挙動がないよう、相互に心を配り、起居進退において士の作法を正しくし、礼譲を守るよう努めるべきこと。
文久二年六月 山内大学
【注①。これは吉田東洋が主導した藩政改革と関係している。東洋は文久二年三月、藩政改革の一環として、それまで世襲だった諸芸家(=文武の師範役)制度をやめ、人物本位で指南役・導引役を任命することにした。つまり軍学、弓術、槍術、剣術、居合術、馬術、太鼓、砲術、儒者、医師、馬医等の諸芸家をすべて解任し、家筋とは関係なく、人物力量本位で文武の師範役を採用することとした。しかし、この改革策も同年四月の東洋暗殺で水泡に帰し、同年六月、芸家世襲の制度が復活することになった】
【注②。これも東洋による身分制度改革が影響している。東洋は複雑化した土佐藩の身分階級制を簡約化しようとした。「古来の変遷と分化によって複雑きわまりないものとなった士格の身分を統合廃止して家老・中老・馬廻・小姓組・留守居組の五等に定めようとした」(平尾道雄著『土佐藩』)のである。文久二年六月はその身分階級制度の移行時期にあたるため混乱していた】
【注③。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、五倫(ごりん)とは「儒教において、5種類に整理された人間関係、すなわち父子、君臣、夫婦、長幼、朋友(ほうゆう)。またそれぞれの関係の間でもっとも重要とされる徳、すなわち親、義、別、序、信を含めていう。五教、五典、五常ともよばれる。古く『書経』舜典(しゅんてん)に「五教」の語があり、聖王の権威に託して道徳の普遍性を求め、これを体系化する試みがみえるが、孟子(もうし)(孟軻(もうか))が「(舜(しゅん))契(せつ)をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以(もっ)てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り」(滕文公(とうぶんこう)上篇)と述べるに至り、「五倫の教え」として確定した。『中庸(ちゅうよう)』ではこれを五達道(ごたつどう)とよび、君臣関係を第一に数える。仁義礼智(ち)信の五常とともに儒教倫理説の根本である。[廣常人世]『赤塚忠他編『中国文化叢書2 思想概論』(1968・大修館書店)』▽『宇野精一著『儒教思想』(1984・講談社学術文庫)』」】
一 六月二十二日、小目付の小原與一郎が立ち帰り御供を仰せつけられたとのこと。
小原氏は正義家である。自分は年若いころから懇意にし、以前しばらく同役だったことがある。このたびの御供は適任と大いに喜ぶ。しかしながら、自分は病気でしかも田舎住まいなので(小原氏を)訪ねることができず、遺憾である。
一 同二十三日、(高行が)柴田備後殿宅で文武司業及び小目付役兼任を仰せつかった。これにより格式は馬廻りに仰せつけられた。ただ、病気は全快せず、押して出勤したが、ただちに(自宅に)引き籠もった。
[参考]
一 六月二十三日、朝廷より次の通り。
九条関白殿
御落飾(「 髪を剃りおとして仏門にはいること。身分の高い人についていう=精選版 日本国語大辞典)して永蟄居を(天子から)命じられた。
中山大納言殿
和宮さまのご縁組みの件で永蟄居を(天子から)命じられた。
(高行の所感)右についての風評に、中山殿は(天子に)忠義ひとすじのお方であるけれども、九条殿と同様の処分をお命じになったのは、内実は苦肉の策との事である。
[参考]
一 六月二十四日、幕府が九条公以下の家禄を加増しようとしたが、朝廷許さず。次の通り。
九条関白殿
(天子の)思し召しにより、先だって遣わした当職中五百俵(現在の職務に就いている間の五百俵)へ、なお五百俵を加増、都合千俵を生涯にわたって遣わす。
久我内大臣
(天子の)思し召しにより、三百俵を加増する。
廣橋一位
現在の役に就いて以来、多端の御用向きを勤め、かつまた武家伝奏を代々勤めたので百石加増する。
正親町三条大納言
(天子の)思し召しにより、百五十石加増する。
飛鳥井中納言
久世三位
御多用につき、(天子の)思し召しで五十石ずつ加増する。
橋本宰相中将(実麗。姪の和宮が将軍家に降嫁した)
御由緒柄(将軍家の縁戚になったので、という意味か)特段の思し召しにより三百石加増する。
千種少将
思し召しにより、二百石加増する。
岩倉中将(具視)
富小路中務大輔(敬直)
思し召しにより、(禄高を)百石にする。「家督之節、父ノ高ニ結被下之」(※将来、父から家督を相続する際、父の禄高にこの百石を加える、という意味か。ちなみに千種、岩倉、富小路は和宮降嫁に貢献しており、その褒賞と思われる)
大典侍局
新大典局
長橋局
思し召しにより、勤務中、百石ずつ加増する旨をお命じになった。
少将内侍
右衛門内侍
勤務中、年々銀二貫ずつ下される。
右の内大臣をはじめとした家禄の加増の件について、幕府から大久保土佐守(忠董。京都東町奉行)に達しがあり、叡慮(天子の意向)を伺ったところ、思し召しもあらせられるので、見合わせるよう早々に幕府に申し入れよと御沙汰があった。
橋本宰相中将
「御由緒柄ノ儀思召不被為在候旨御沙汰ノ處、一身拝領ノ儀共恐入、不心済候間、内府始メ、以下同様ノ御沙汰懇願ニ付、願ノ通被聞食候事、
御書付令反進候。」(※幕府による加増を断ったということはおぼろげに見当がつくのだが、それ以上のことは正確にはわからない)
六月二十四日
(高行の追記)右の賞典は、和宮さまご降嫁に関して幕府より与えられたとのこと、世間から大いに非難された。
中山大納言
思し召しにより、百五十石を加増される。
坊城大納言
武家伝奏の役に就いていまだ間もないが、御多用の時節を勤めたので、思し召しにより、百五十石を加増する。右の通りお命じになった。
右の家禄加増のこと、そのまま不快につき、大久保土佐守へ(幕府からの)お達しが届いてすぐ叡慮を伺ったところ、思し召しがあらせられるので、見合わせるよう早々に幕府に申し入れよと御沙汰があった。
「御達書令反進候也」(※お達し書を差し戻すという意味か)。
六月二十四日
一 六月二十七日、(高行が)急に本山誠殿の部屋を借用した。
なにぶん病気のため(遠方の)本宅から(勤務場所に)歩いて通うのは難しいからである。借りた部屋は一間四畳敷で、長い間、人が住んでいなかった。相応の借家を手に入れるまで、当分の間、引き移る。
一 同二十八日、太守さまの一行が出発したが、病気のため出勤せず。
一行は北山・中国筋の道を通り、大坂に着く予定。
一行の御供は次の通り。
執政 | 山内下総(祐成) |
御近習家老 | 桐間将監 |
参政 | 小八木五兵衛 |
大目付 | 小南五郎右衛門 |
御側御用役・近習目付兼任 | 高屋友右衛門 |
御側御用役 | 五藤忠次郎 |
御馬廻組頭 | 齋藤内蔵太 |
御側物頭 | 本山只一郎 |
松田宗之丞 |
小原與一郎そのほか馬廻り・小姓組等、諸士の二男、三男を御雇いにしておよそ九十人ばかり、郷士・徒士等数十人である。
一行出発の際まで近習目付は山川左一右衛門だったが、嫌疑があって、病に托して辞表を出した。よって御側御用役の高屋友右衛門が急遽(近習目付)兼任を命じられた。
これらの御供のうち勤王家は小南五郎右衛門・本山只一郎・小原與一郎である。郷士・徒士等の勤王家の棟梁は武市半平太で、権力あり。
一 次は、御側物頭の本山只一郎茂任氏(注④)の筆記抜き書きを参考とした。[本山氏は高行の同士である]。
文久二年六月下旬、
太守さま[豊範公]のお駕籠が高知を出発してからのことを記す。(注⑤)
本年、太守さまの江戸参勤に際し、例によってお駕籠が高知を出発した。[これより前、同志山川左一右衛門良水が近習目付だったが、事情あって辞す]。時勢不穏のため、壮年にしてお駕籠に従おうとする者が多かった。そのうち有志数名がお駕籠につき従った。
公(太守さま)は浪華(大坂)において病にかかり、数日、大坂に滞在された。[麻疹大流行、主従多く病む]
公はこれより天子の御機嫌伺いに参上すべきだという論議が盛んに起こる。
小八木五兵衛等はそれに反対した。幕府の成規(成分化された規則)を破るのを恐れたからである。
公は年がまだ若い。決をとることができず、小南(五郎右衛門)を江戸に向かわせ、容堂公の意向を聞かせた。小南は早駆けで江戸に着き、帰ってきた。
公は病が癒え、京都に入った。
(公は)天子に御機嫌伺いをして、妙心寺内の大通院に駐在した。三藩(薩長と土佐)の名声がここにおいて高まった。自分(本山のこと)は寺町四条下ルの長寺にあって、外交に専念した。小南はその時の成り行きで三條(実美)公の顧問になった。小南の名は大いに高まり、諸藩から面会に来る者が多かった。浪士の動きがまた輻輳して、島田左近(注➅)を殺し、首を鴨川にさらした。これをきっかけに暗殺して首をさらすことが大いに流行し、ついに足利の木偶の首をさらす(注⑦)に至った。[足利の事件は翌文久三年]。軽挙と言うべし。このころ長州の前田孫右衛門(注⑧)・宍戸某・佐々木男也(注⑨)・久坂玄瑞等と数回会った。とりわけ、久坂玄瑞等は長州藩の永井雅楽を伏見で刺そうとして果たさず。我が藩の武市半平太・平井周次郎(収二郎の間違いか。注⑩)・大石彌太郎等が専ら奔走尽力した。
朝議は三条・姉小路二卿を勅使として関東に遣わすことを決定し、我が公(太守さま)が二卿護衛の勅命を受ける。余はそれに先だって江戸に行った。容堂公に京都の実況をご説明するという命を受けてのことである。実は三條公の内命があった。駕籠を飛ばして江戸に着いた。君側の役員(容堂の周囲の幹部たちのこと)は慎重派の佐幕論だから、容堂公の耳に何か吹き込んだのだろうか、二、三日の間、(公の)謁見は許されなかった。ある夜、乾退助(板垣退助のこと。注⑪)・小笠原唯八(注⑫)が訪ねてきた。余は京都の動揺、勤王有志の輻輳から長薩の景況、これから天下で大いに事が起こると話した。幸いなことにこの二人は時勢に通暁しており、勤王のために努力すると約束した。余が孤立して死地に入るとき[御側小姓の山地忠七は余を刺すことを謀ったという]、板垣、小笠原の二名を味方につけることができて、気分爽快だった。[以下は欄外に注として書き込まれた文。「○本山は、武市派と見なされ、乾等にはいたく憎まれたので、容堂公への謁見を許されなかった。山地も当時血気盛んの者だから、本山を憎むあまり刺殺しようとした」]
翌日、公[容堂公]は余を呼んだ。平素のように余を膝下に呼んで、京都の実況を質問された。余は京都の動揺、浪士の輻輳、長薩の状態から、朝議の結果、ついに二卿が勅使として関東に下ることになり、豊範公が護衛の勅命を受けるまでのことをつぶさにご説明し
、天下のために大いに貢献すべき時であることを申し上げた。公は首を傾げられた。ならば、お側に控える重臣一名を選んで京都に同行したいと、これは重役等に実情を知らせられるのでいいと余が申し上げたことである。それから重役とともに駕籠を飛ばして京都に帰った。このころ物情はますます穏やかではなくなった。次いで寺村[寺村左膳、御側御用人、のち日野春草]が江戸に帰って、京都の実況を(公に)ご報告した。これにより老公は(京都の)状態を了解されたのである。しばらくして二卿が関東に下られた。豊範公は勅使を護衛して江戸に下られた。余もまたこれに付き従った。桑名駅において、長州藩の桂小五郎[木戸孝允]が余の宿所に来た。長話が数刻に及び、帰る。藤沢駅において長州の重役周布政之助が来て、公(太守さま)に謁見し、小南と話して帰る。
勅使が江戸に着いた。しばらくして長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞等の一党が品川[横浜だろう]の外国館の焼き払いを企てた。これを鎮定しようと欲した。そのかたわらで周布政之助が、我が老公[容堂公]を非難する失言があった、[大森梅屋敷という]、側小姓の山地忠七・林亀吉等はこのとき使者として派遣されていて、直ちにこれを聞いて憤怒、邸に帰ってこの(周布の)言葉のことを話した。このため、この発言を責めようということになり、小笠原唯八・乾退助等と相談して、小南が先導して長州上屋敷に行った。そこで顔を合わせたのは周布政之助・来島又兵衛・高杉晋作・久坂玄瑞ほか二、三名に過ぎなかった。はじめ双方とも刀を膝下に携え、ほんの一言で均衡が破れるような緊迫した空気だったが、小南・周布の老練によって暴挙を食い止め、失言を謝罪し、最後は仲直りして帰った。しばらくして余は江戸で大監察に任じられ、早駆けで土佐に帰り、藩政に関し、天下の形勢の変化に応じて制度を改良することが多かった。
(高行の所感)右の本山氏の筆記は、月日の前後が乱れ、かつ後年のことまで記されている。しかしながらその事実は他人の知らないところで、容堂公と豊範公の間柄で疑念が解けたのは本山氏の力によるものだ。よって便宜のため、ここに書き記して他日の参考とする。
【注④。朝日日本歴史人物事典によると、本山只一郎(没年:明治20.8.28(1887)生年:文政9(1826))は「土佐藩(高知県)藩士,地方官,宮司。諱は茂任。文武に優れ,嘉永6(1853)年,藩主山内豊信の側小姓,安政年間,郡奉行に任じ,外圧高揚の折から,海防のための練兵や砲台構築に尽力。文久1(1861)年,藩主豊範の御側物頭役。同2年,参政吉田東洋暗殺事件を契機に藩情は一変。藩主豊範を擁して上京し,天皇から土佐藩主に国事周旋の勅諚あり,御側物頭の役職柄,別勅使三条実美らの江戸下向に斡旋尽力して功績があった。慶応2(1866)年大目付,同4年1月鳥羽・伏見の戦を機に土佐藩軍への錦旗伝達者となった。新政府に仕えたが明治8(1875)年退官,以後春日社,賀茂社などの宮司を勤めた。」】
【注⑤。豊範の江戸参勤について高行が『佐佐木老候昔日談』で語っているので引用する。「吉田の横死後一藩の形勢は紛糾錯綜益々危態に瀕し、前途は如何に成りゆく事であらうか、頗る寒心に堪へなかつた。君侯豊範公も、今年丁度参勤交代の歳に當つて、三月には、モウ上府の途に就かなければならなかつたのであるが、容堂公は江戸に居らるゝし、御二方とも御留守にして、この難境を成行に放任するといふ譯にはいかない。のみならず、京攝間には過激勤王家が跋扈して居るので、佐幕家はヒドク之を懼れて、若し御上京になつて、その渦中に捲込まるゝ様な事があつては一大事と、種々防止の策を講じた。かういふ事情で、表面御病気と称して参府を御延引になつたが、内訌は依然として絶えない。けれども、これは内輪の事だ。内輪の事でさう何時迄も延期するといふ事は出来ぬ。且つ武市一派の勤王家は、この際一日も上府の速ならん事を渇望し、長薩の勤王家と気脈を通じて、京都に於て運動した結果、朝廷よりは當藩を御依頼になるといふ密旨が下り、三條公からもまた御上京の御催促があつたので、愈々六月二十八日高知を御出発になつた。この時、自分はまだ病気が全快しなかつたから、御見送申し上げなかつたが、いよいよかう運んで来ると、勤王家は何事か期待する處あるが如く、喜色満面に溢れ、之に反して、佐幕家は何となう失望の様子であつた。併しながら自分は、一般勤王家とは見解を異にし、さうあ楽観することが出来なかつた。と云ふのは、御供の中にも、小南や、本山などは居るけれども、要路の大部分は佐幕家であるから、ヒヨツとすれば、大義に戻る事でも仕出かしはせぬかと、唯その一点が心配であつたのだ。御供の人々といふのは、執政山内下総、御近習家老桐間将監、参政小八木五兵衛、大目付小南五郎右衛門、御側御用役御近習目付兼帯高屋友右衛門、御側御用役五藤忠次郎、御馬廻組頭齋藤内蔵太、御側物頭本山只一郎、松田宗之丞、小目付小原與一郎、以下百四五十人である。小南、本山、小原は勿論勤王家で齋藤は自分の叔父上である。武市は郷士以下の棟梁であるが、地位が低い。一体武市派、剣術の達人で、郷士以下に門弟が多い。従つてその階級には非常の勢力を持つて居る。格式は白札、この白札といふのは頗る曖昧の格式で、士格のやうで士格でなく、また徒士のやうで徒士でない。つまり間の子の格式である。当主は士格の待遇を受けては居るが、士格から呼捨にされる。旅行の際には槍持をする。家内も矢張士格の扱ではあるが、嗣子になると、モウ徒士の待遇で、目見えも出来ない。そこが士格と違ふ處だ。もと他国へ出役の際、病気であるとか、幼年であるとか、何か事故があるといふと、その名前に白い札を張付けた。夫が自然格式になつたのだ。八月になつて新留守居組に編入されて、全く士分となつた。武市は勢力があつても、さういふ風に格式が低いから、佐幕家は軽視して居る。殊に小八木は有力家で、無二の佐幕家だ。
七月十二日、君侯は大坂に御着になつた。その時分大坂では麻疹が流行して、侯もこれにかゝられて、暫く御滞在になつた。武市等は、君侯が御上京になれば、朝廷より御引止めになる計画を廻らして居つたから、前の勅旨の事もあり、旁々是非とも御入京にならなければならぬと、小南や本山等と相談して、山内下総を推立てゝ、速に入京して天機を窺はれむ事を申立てた。けれども諸侯が猥に朝廷に接近するといふ事は幕府の厳禁する處で、実に一大問題である。小八木等はもとより大反対。医師なども因循であるから、寛々御保養になつた方が宜いと主張する。君侯は御若年であつたので、種々御心配になつて、小南を御使として東下せしめ、容堂侯に事情を具陳して進退の決を請はれた。處が、さういふ事なら入京して勤王の為に尽すが宜からうとの事で、漸く御病気も快方に向はれたから、八月二十五日、愈々御入京になつて、九月五日に天顔に咫尺して天盃を賜はり、薩長二藩と共に闕下警衛の命を蒙つた。この参内の時、長州侯は甚だ不出来であつたが、侯は挙止端然として実に立派のもので、京の評判も頗る宜かつた。侯は景翁老公の御仕込で、礼式などの事には最もよく注意されて居つたからだらうと思ふ。サァかうなると、勤王家は大得意だ。小南は恰も三條公の顧問のやうになつて、大に人望もあり、本山は外交の衝に当つて、頻繁に他藩人と往来し、武市は薩長其の他勤王家に尊重されて居る。凡そて藩の事はこの三人で切廻して居るといふ有様。之に反して小八木等の佐幕家は、失意の淵に沈んで居る。小八木は平士の大身家で、格式も善く、一派の首領であるから、随分勢力もある。此度も自称天狗でやつて来て見ると、予期に相違して、来る人も来る人も皆小南や本山の方へばかり行つて誰も相手にして呉れぬ。折角意見を述べても更に通らない。サア腹が立つて堪らぬ。小南等のモテルのが尚更悪い。そこで嫉妬心を起して、盛に不平を唱へ出した。此度の事は、勤王過激の輩が長州と連合して、公卿に迫り、わが藩侯を滞在させんと巧み、つまりは武市等から起つた事で、真の叡慮より出たのではない。最早京都は過激勤王家の左右する處である。御若年の君侯にかく迄御心配を懸けるは、全く武市等の所為で悪みても余りある輩であると、大に非難した。その余の佐幕家も、かういふ疑念を懐いて、衷心ただ穏かでない。夫からといふものは佐幕勤王両派の感情は、益々隔離して、其の首領の小八木は、不平に堪へずして、十月四日突然帰国した。」】
【注➅。朝日日本歴史人物事典 によると、島田左近(没年:文久2.7.20(1862.8.15)生年:生年不詳)は「幕末の九条家家士。美濃(岐阜県)の神職,あるいは山伏の子ともいわれ,出自は未詳。上洛し,つてを求めて九条家の家士となる。安政5(1858)年,関白九条尚忠の側近にあり,井伊直弼の謀臣長野主膳(義言)と協力して尊攘派の浪士,公家侍の捕縛を指揮した。のち幕臣の身分を望み主膳と反目。文久2(1862)年,尊王攘夷運動が高揚し始めた7月20日,田中新兵衛,鵜木孫兵衛,志々目献吉により殺害,年38ばかりであったという。首は四条河原にさらされた。天誅という名の,尊攘派による暗殺事件の初めである。(井上勲)」】
【注⑦。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、足利氏木像梟首事件とは「幕末の尊攘(そんじょう)運動のなかで、徳川将軍に天誅(てんちゅう)を加える意を示すため、足利将軍3代の木像の首をさらした事件。1863年(文久3)2月22日、京都等持院(とうじいん)に安置されていた尊氏(たかうじ)、義詮(よしあきら)、義満(よしみつ)の木像の首を引き抜き、三条河原にさらし、幕府に対し有志の挙兵を訴えた。主謀者は、三輪田綱一郎(元綱)、師岡正胤(もろおかまさたね)(節斎)ら平田派の国学者のほか、長尾郁三郎、小室利喜蔵(こむろりきぞう)(信夫(しのぶ))、西川善六など商人や豪農、浪人が多く、尊攘激派の先駆けであった。[池田敬正]」】
【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、前田孫右衛門(まえだ-まごえもん1818-1865*)は「幕末の武士。文政元年7月28日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。用談役などの要職をつとめる。吉田松陰と親交があり,高杉晋作(しんさく)ら尊攘(そんじょう)派のために尽力。第1次幕長戦争に際して恭順派に捕らえられ,元治(げんじ)元年12月19日野山獄で処刑された。47歳。名は利済。字(あざな)は致遠。号は陸山。」】
【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、佐々木男也(ささき-おとや。1836-1893)は「幕末-明治時代の武士,経営者。天保(てんぽう)7年5月26日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。右筆(ゆうひつ)役をへて京都で周旋役をつとめる。幕長戦争では南園隊総管。維新後は百十国立銀行,日本郵船の支配人をつとめた。明治26年11月25日死去。58歳。名は一貫。」】
【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、平井収二郎(没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保7(1836))は「幕末の土佐(高知)藩士,勤王運動家。幼名幾馬,通称収二郎,本名義比。文武を修め,特に史書に通じた。文久1(1861)年,土佐勤王党結成に参画し幹部となる。2年,藩論は尊王攘夷に傾き,藩主山内豊範を擁して京都に押し出した。時に諸藩の勤王運動家が続々上洛,薩長土3藩の運動が群を抜いた。収二郎は,小南五郎衛門,武市瑞山らと他藩応接役を勤め,別勅使三条実美東下の際は京都にとどまり,薩長両藩の軋轢緩和などに奔走。しかし,勤王党が構想する藩政運営方針を藩庁が容れないのを憂慮,間崎滄浪,弘瀬健太らと中川宮朝彦親王の令旨を獲得,大隠居豊資を擁立する改革推進を工作した。これが隠居山内容堂(豊信)の逆鱗に触れ,3年6月,切腹の刑に処せられた。(福地惇)」】
【注⑪。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、板垣退助(いたがきたいすけ(1837―1919))は、「明治の政治家。天保(てんぽう)8年4月17日、土佐藩馬廻役(うままわりやく)乾栄六正成(いぬいえいろくまさなり)の長男として城下中島町に生まれる。幼名猪之助(いのすけ)、のち退助と改める。諱(いみな)は正形(まさかた)、無形と号す。1854年(安政1)12月江戸勤番を命じられたが、1856年帰藩。1860年3月父病没のため家督を相続、220石馬廻役となる。1861年(文久1)10月御納戸方(おなんどかた)となり江戸留守ならびに御内用役(おそばようやく)を命じられる。1862年には山内容堂の御側用役となる。このころから攘夷(じょうい)論を唱え始めたが、武市瑞山(たけちずいざん)らの急進的な勤王党とは対立し、1865年(慶応1)には後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らとともに藩庁の大監察として武市ら勤王党員のおもだった者を糾問し処刑した。1867年5月、江戸からの帰藩の途中に京都で、中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見して薩土(さつど)討幕同盟を確約し、帰藩後挙兵の準備にとりかかった。1868年(慶応4)1月戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まるや、板垣は大隊司令として軍夫まで含めると1045人の土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)を率いて13日に高知を出発し、川之江、丸亀、高松諸藩を追討し、28日に京都に到着した。そしてただちに東山道先鋒(せんぽう)総督府参謀となり、600の藩兵を率いて出陣した。板垣退助と名のったのはこのときからである。大垣、信州、甲府、八王子、宇都宮、若松、会津を追討して11月に帰藩。1869年(明治2)藩の大参事として藩政改革を行い、1871年新政府の参議に任ぜられる。1873年10月に西郷らと征韓論を主張して敗れて参議を辞した。1874年1月には後藤象二郎らと愛国公党を組織して民撰(みんせん)議院設立建白書を政府に提出し、自由民権運動に乗り出した。1875年3月ふたたび政府参議となったが、議あわず10月には辞職した。その後は自由民権運動に挺身(ていしん)し、1881年10月結党の自由党総理に推され、1882年4月には遊説中の岐阜で凶変にあった。この年11月から翌1883年6月まで欧州を視察。帰国前後から自由党解散の意向をもち始め、1884年10月には自由党幹部と合議のうえ、ついに自由党解散を行った。1887年5月伯爵に叙せられ、再三固辞したが許されず、7月に叙爵。同年8月には国会開設、言論自由、民力休養、海軍拡張、条約改正などに関する意見書を天皇に上奏し、高知に引きこもった。大同団結運動の首唱者後藤象二郎が1889年(明治22)3月に突如黒田清隆(くろだきよたか)内閣に入閣するに及んで、入閣賛成派と反対派が激しく対立して大同団結運動が分裂状態に陥ったとき、板垣は後藤や河野広中(こうのひろなか)に説得されて上京し、1890年5月に愛国公党を組織して大同派の団結を図った。同年9月には板垣らの努力で愛国公党、自由党、大同倶楽部(くらぶ)は合同し、立憲自由党を結党して民力休養、政費節減を掲げて政府攻撃に乗り出したが、板垣は第一議会開会中の1891年2月、土佐派議員が政府に買収された責任を感じて離党した。3月には復党して党総理となり、1895年には伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣との協力関係を進めて1896年4月内務大臣となる。9月に内相を辞して党活動に専念し、1898年憲政党内閣のもとでふたたび内務大臣となったが10月に辞職した。その後政治活動から身を引いて社会問題に専心して風俗改良会を組織し、機関誌『友愛』を創刊した。1907年(明治40)には『一代華族論』を公表したりしたが、大正8年7月16日死去。享年83歳。従(じゅ)一位に叙せられる。[後藤 靖]」】
【注⑫。小笠原唯八(おがさわら・ただはち。没年:明治1.8.25(1868.10.10)生年:文政12(1829))は朝日日本歴史人物事典によると、「幕末の土佐(高知)藩士。高知城下大川筋の生まれ。諱は茂卿,茂敬。晩年に牧野群馬と改名。文久1(1861)年前藩主山内容堂(豊信)の扈従となり江戸勤務。2年江戸・梅屋敷事件の善後処置に奔走,抜擢され側物頭役,大監察兼軍備用役に昇任,容堂の上洛に随従し公武周旋に当たる。帰藩後,元治1(1864)年に武市瑞山助命嘆願で野根山に屯集した清岡道之助ら23士を処刑した。慶応2(1866)年,容堂の命で土薩融和の使者として後藤象二郎と鹿児島に赴き島津久光と会見,3年5月,乾(板垣)退助,中岡慎太郎らが進めた薩土討幕密約に関与,いったん解任されたが大監察に復職,4年1月,鳥羽・伏見の戦を契機に藩論は討幕に転じ,只八は藩兵を率いて上京,三条実美の抜擢をうけ大総督府御用掛。江戸の彰義隊戦争,東北戦争に功あったが,会津攻城戦で奮闘中敵弾を受けて戦死。弟謙吉茂連もこの日の戦闘で戦死した。<参考文献>寺石正路『土佐偉人伝』(福地惇)」】
【注⑬。朝日日本歴史人物事典によると、周布政之助(すふまさのすけ。没年:元治1.9.26(1864.10.26)生年:文政6.3.23(1823.5.3))は「幕末の長州(萩)藩の指導者。古くは「すう」とも読む。名は兼翼,字は公輔,号は観山など。麻田公輔と改名。長州藩大組(68石余)の兼正の子,母は村田氏。天保改革の指導者,村田清風の薫陶を受けた。村田の政敵,椋梨藤太の罷免後,嘉永6(1853)年藩の実務役人の重鎮,右筆に就き,軍制改革,財政整理を行ったが,安政2(1855)年椋梨派に追われた。しかし,通商条約について諸藩に諮問されるというなかで,藩の自律を唱え,椋梨派を俗論と排斥して,再度,藩政の実権を執った。軍制改革・産物政策を重視する改革を開始し,安政5年の安政の大獄中,藩使として朝廷に密かに入り,開国の止むを得ないことを入説した。航海遠略策という開国策で幕府との協調策を進めたが,幕政改革に限界をみて,桂小五郎(木戸孝允)らと反対派に回り,処分される。文久2(1862)年島津久光の率兵上京の情勢に処分を解かれ,藩論を尊王攘夷に確定し,江戸藩邸の政府を廃止するなど藩制を集権化し,反対派を弾圧し,洋式軍制改革を開始した。攘夷の不可を知っていたが,対外的危機を思い切った改革の圧力に使うという考えであった。直言実行の性格から文久2年山内容堂に暴言を吐くという事件を起こし,麻田公輔と改名した。同3年の8月18日の政変で藩が京都を追われたのち,藩兵の上京に反対したが,ならず,禁門の変で藩は敗れ,第1次長州征討軍が到来。俗論派が興起するなかで,正義派の再起を待たずに自刃した。<参考文献>周布公平監修『周布政之助伝』(井上勝生)」】
【注⑭。この事件は梅屋敷事件として伝えられる出来事だ。これについて佐佐木自身が『佐佐木老侯昔日談』で詳しく語っているので、少し長くなるが、次に引用する。「(前略)また一事件が出来した。夫は長州の久坂玄瑞や、高杉晋作等が、外国公使襲撃の挙に関連し、一寸の行違からして、長土の確執を生ぜんとしたことで、一時は中々の騒動であつた。長州の久坂や高杉等は、極の攘夷論者で、幕府を反省せしめ、攘夷を実行せんとするには、どうしても非常手段を用ゐなければいかぬ。そこでまづ攘夷の先鞭として、外人襲撃問題を引起さんとし、十一月十二日、彼等の根拠地たる品川の妓楼を出発し、十三日外国公使が金沢に遊覧するを迎へて、之を刺殺さんとした。武市には、久坂から相談があつたけれども武市はアゝいふ着実の男であつたから、血気の勇の大事を成すべからざる所以を論じて、中止を勧告した。が下士勤王家の弘瀬健太等は、大に之を壮快の事として、双手を挙げて賛成した。武市は事の容易ならざるを見て、小南に告げると、小南も驚いて容堂公に言上した。高杉等は外人刺殺が目的であるが、この間段々誤伝して、外館焼打となつて、世間でもさい云ふ様になつたのであらう。公は直に一方幕府に通じて、警戒あらん事を申立て、他方小南を使として、長門守元徳若殿に、自身出馬して鎮撫せん事を勧めた。元徳侯も驚いて、即時単騎久坂等を追うて、蒲田の梅屋敷迄行かれた。山縣半蔵等もまた其の跡を追うて、神奈川の駅端れで高杉等に追付いて若殿の命によつて連戻した。若侯から懇々と其不心得を諭し、一同も恐入って、この挙を思止つた。土佐からも、元徳侯の安否を窺ひ、且つ土佐人もその中に這入つて居る處からして、林亀吉、諏訪助左衛門、小笠原只八、山地忠七、又別に間崎哲馬、門田為之助等に、内旨を授けて遣はされた。丁度この時分、五十人組の過激家が、この邊に着く頃であるから、或は之を聞いて一緒になりはせぬかと、夫を余程懸念したのだ。林等の着いた時には、既に事件が落着して居つた。此方が這入つて行くと、中の方から周布政之助が、酔眼朦朧として、馬に乗つて出て来た。すると、周布は、林等をジロリと見て、『容堂公は幕府に参しながら、攘夷を決行し得ない。この一挙も、つまりは夫が原因だ。のみならず、公は大に狡猾で、ゆくゆくは天下を取る野心がある』と罵つた。山地等は、皆暴虎馮河の勇者だ。烈火の如く憤つて、『何とおつやる』と馬上の提灯を後に廻して詰寄つた。腰間の秋水将に鞘を脱せんとし、危機は一髪の間に迫つた。この時傍に居た高杉は、『斯様な不埒な奴は、他藩の手を煩はすに及ばぬ、拙者成敗致す』と刃をかざして周布を切つたが、切先が漸く馬の尻に達した位、馬は驚いて懸出した。周布は之を機会に、一目散に逃出したが、酔うた酒も、さすがに醒めたであらう。林等は切歯して藩邸に帰り、前後の状況を復命し、『君辱めらるれば即ち臣死す』といふ本文がある。どうしても周布の首を貰はなければならぬ』と翌十四日の早朝、四人は死を決して外桜田の長州邸にゆき、本山只一郎等も之に加はつた。小南は重役でもあり、又老練である。林等よりは前に来て、長州の重役と熟談して居た。乾も重役であるから林等の後を追うて来て、小南と共に談判の衝に当つた。元徳若殿が、一同を召して、懇の御挨拶をされたから一同も左様で御座らばといふので、藩邸に引取ると、若殿は鍛冶橋邸に来て、君侯に周布の失言を謝し、其の処分は、父大膳太夫が留守であるから、暫く猶予して呉れる様にと云ふんもで、公も一命にかゝはらぬ様にと、御会釈を成される。藩邸の連中は、今日こそ若殿が周布の首を持つて来ると予期して居たが、さうでなかつたものだから、大に失望したといふ事だ。十六日に、老公は更に長州の重臣を召して、この国家志士を要する際、周布の処分は、寛大にする様にとの御沙汰があつた。そこで長土の間に事あらむとせし問題も、円満に解決されて、周布も切腹せずに済んだ。後周布は麻田公輔と変名し、何かで切腹したが、土佐では、この事件に関係して居るやうに云うて居た。明治維新になつてから、老公が両国へ舟遊びに行かれた時など『ドウも周布がねらつていかぬ』と語られた事があつた。周布とは、今の神奈川県の知事の周布男爵で、政之助の弟だ。】
七月
一 この月朔日、小畑孫三郎の弟宅を借用して移転した。
小畑は兄弟が四人ある。皆々勤王家である。格式は組外[組外は、御徒士格より下級である]、孫三郎は次男で、志願して新規足軽となった。少々学問もあり、ここ数年、すこぶる懇意にしている。それなのに藩の中は階級論がやかましい風習なので、足軽で、しかも武市派の勤王家から家宅を借用することについて、士格の者たちから大いに非難されたが、(借用した宅は)便利な場所にあり、そのうえ同志者のことだから心安く、他人の意見を顧みず移住した。(それまで借りていた)本山の部屋はひどく手狭で、間に合わないためである。祖母上[御実母]・貞衛(妻)・千勢(長女)・於馬(次女)・先一郎(長男)が同居する。
[参考]
一 七月三日、太守さま[豊範公]から三条さま(三条実美)への返書[前掲]の余白に、中山大納言(忠能)が朱で書いた付記あり。次の通り。
七三来、即日入 叡覧(七月三日に届いた。即日、天子に見ていただいた)
また、この返書に三条少将さま[実美公]の添え書きあり、次の通り。
暑さがとんでもなく酷く、堪えがたいこの頃ですが、貴方様はますます御清佳で、雀躍の至りです。さてただ今、土佐より返事が届きましたので、直ちにご覧に入れます。今日明日のうちにも(土佐藩の)中老がまず到着するものと存じます。なおその上で先方の言うことを聞くことになると思います。とりあえず返書をご覧に入れます。もっとも、(私自身が)持参申し上げるべきものですが、風邪で臥しておりまして、失敬ながら、僕(しもべ)に届けさせます。一両日のうちにお目にかかりまして、お伺いすべきことがありますので、よろしくお願い申し上げます。取り急ぎ、まずは要用のみ。
七月三日
実美
中山亞相公
密展
[参考]
一 松井新助の筆記に曰く。
京都から届いた手紙の略。
勅使の大原(重徳)さま、ならびに(島津)和泉さまはまだ帰京されていません。この二十日よりの「非常荒増」(※緊急事態の概略といった意味か)を左に記します。将軍さまが上洛することを言明されても、今秋までに実行されなくては、世論も静まらないだろうとの風説です。
七月六日に認むと書いてある。
[参考]
一 七月六日、左の通り。
徳川刑部卿(慶喜)が、思し召しにより、一橋家の再相続(※慶喜は安政の大獄で隠居謹慎させられていた)を命じられる。一橋領十万石を遣わせられる。「今度、叡慮ヲ以テ被仰進候ニ付、御後見被仰出」(※天子の意向に基づき将軍後見職に任じるという意味と思われる)。
右の趣旨をそのように心得られたい。今後は中納言を名乗るように。
一 同七日、大橋順蔵(注⑮)が戸田侯(宇都宮藩)にお預かり中、病死したとのこと。
【注⑮。大橋順蔵こと大橋訥庵(おおはしとつあん。1816―1862)は日本大百科全書(ニッポニカ) によると、「江戸末期の儒学者。熱烈な尊攘(そんじょう)思想家。名は正順(まさより)、字(あざな)は周道、通称順蔵。兵学者清水赤城(しみずせきじょう)(1766―1848)の四男として文化(ぶんか)13年江戸に生まれ、日本橋の豪商大橋淡雅(たんが)(1789―1853)の婿養子となる。佐藤一斎に儒学を学び、思誠塾を開いて子弟を教授、詩文に優れた。1857年(安政4)『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』を著して尊王攘夷論を鼓吹した。安政(あんせい)の大獄に刑死した頼三樹三郎(らいみきさぶろう)の遺体を収めて小塚原(こづかっぱら)回向院(えこういん)に埋葬。公武合体論による皇女和宮(かずのみや)の降嫁反対運動にも参加した。坂下門外の変に際し、計画の中心人物と目されて、老中安藤信正(あんどうのぶまさ)襲撃に先だって捕らえられたが、病のため出獄、宇都宮藩に預けられたが文久(ぶんきゅう)2年7月12日没した。47歳。[山口宗之 2016年4月18日]『平泉澄・寺田剛編『大橋訥庵先生全集』全3巻(1938~1943・至文堂/改訂版・2006・慧文社)』▽『寺田剛著『大橋訥庵先生伝』(1936・至文堂)』」】
[参考]
一 同九日、越前の春嶽が政事総裁に任じられた。
一 同、同日より(高行の長男)先一郎が麻疹にかかり、引き続き貞衛・お馬・お千勢と次々感染した。祖母上と自分は無事である。召使いの者がおらず、祖母上と自分とがかわるがわる薬を煎じたりした。困却した。
このたびの麻疹は悪性で、命を失う者が多かった。このとき可笑(おか)しな事があった。お馬の(症状が)早く経過したのを内訌(※内攻のことか。内攻とは、病気が身体の表面に出ないで、内部にひろがり悪化すること。特に、皮膚の腫れものなどにいう=精選版日本国語大辞典)だと思い、一同驚いた。このため、急に小畑孫三郎の父に頼んで、医師を呼び迎えたら、内訌ではなく、最早平癒に向かっているとのこと。一同安心、後は大笑いとなった。
一 七月十二日、太守さまが大坂にお着きになった。このとき麻疹が大流行。
太守さまも同病にかかられ、御供の者たちにも同病人が多かった。よってしばらくは大坂に滞在されるとのことである。
一 妹のお政の聟である宮崎竹五郎が病気だという知らせが来た。
宮崎は武市半平太の親類続きで、勤王家である。すこぶる実直な人である。とりわけ心配した。後ほど死去の報があった。
[参考]
一 同十七日、夜、流星がまるで雨のように降り注いだ。流言飛説が紛々とした。
一 七月二十三日、同夜、三条下ル加茂川原にさらし首、次のような立て札があったという。(立て札の図があるが、略する)
この島田左兵衛大尉(島田左近)は、
大悪逆の永野主膳(長野主膳。注⑯)とつるみ、
いわれなき悪巧みを行った、
天地が容れざる大逆賊である。
よって誅戮を加え、首を晒すものである。
文久二年七月 日
島田左兵衛は九条家の家司(親王家・内親王家・摂関家および三位以上の家に置かれ、家政をつかさどった職。いえづかさ)=デジタル大辞泉より)で、和宮さまが降嫁されるなどのとき、かれこれ尽力したので、諸藩の脱藩浪士に憎まれ、ついにこのようなことになったという。
一 七月二十五日、左の勅書は、七月二十五日、三條公より内々に村田仁左衛門・小南五郎右衛門へお渡しになった。同日、小南は(京都から)大坂に戻り、この勅書を太守さまに差し上げた。
勅命
野蛮人どもが渡来してから皇国の人心は不和を生じている。すでに去年の夏以来、帝都もかれこれ不穏な情勢になり、暴論もあった。薩州取り鎮め(寺田屋事件のこと)後、まず静謐にはなっているものの、万一京都で騒擾が起これば、次々と国が乱れることにもなりかねず、彼の夷賊の計略にはまるのではないかと(天子は)深く宸襟を悩ませておられる。松平土佐守は、関東(幕府)よりかねて大坂御警衛を申しつけられている。幸いこのたび(京都を)通行するとのことを(天子が)お聞きになったので、非常臨時の特殊事情によりしばらく京都に滞在して御警衛に当たり、叡慮を安んじるようにとの内々の沙汰があった。
(高行の所感)この御沙汰は後で承った。これにより勤王家はますます激論を唱えたが、佐幕家はこの御沙汰も本当の叡慮ではなく、武市半平太等の者どもが拵えたものだろうと疑念が生じ、(武市派に対する)感情はいよいよ悪化した。そのあたりについてはお互いに良くないところがある。正当な手順を踏んで事態を心配している人はわずかだから、大いに苦慮したと、後で本山只一郎より聞く。
【注⑯。百科事典マイペディアによると、長野主膳(ながのしゅぜん)は「国学者。名は義言(よしとき)。幕末の政局で近江(おうみ)彦根(ひこね)藩主井伊直弼(なおすけ)の懐刀(ふところがたな)として活躍した。1842年直弼と初めて会い,和歌,国学の師となり,1852年彦根藩に召し抱えられる。直弼が大老になると,日米修好通商条約の勅許問題,将軍継嗣問題などにつき,おもに京都にあって奔走,安政の大獄の機密にも加わった。直弼暗殺後も和宮(かずのみや)降嫁実現などでひそかに活動を続けたが,彦根藩内の形勢が一変し,斬刑に処せられた。」】
[参考]
一 七月二十七日、容堂公より三條公への書面、次の通り。
先日、貴方様の手紙を受け取りました。いかがお過ごしでしょうか。内勅(内密の勅命)の有無には日々関心があります。僕の愚忠(愚かな忠義立て)は左の通りです。
一 現在の時勢が宸襟(天子の心)を悩ましていることは拝承しました。臣下の情として、まことに申し訳なく存じます。しかしながら、その事情を承らないと、われらとしては宸襟を安んじる策も考えることができません。なにとぞ条理明白の事情を承りたいと存じます。
一 僕が何度も繰り返し愚考するところ、宸襟を安んじる策のことですが、京都のみを警衛したところで、恐れながら今上(天皇)の思し召しに叶いません。そもそも日本は皇国ですので、六十余州の民に至るまで、ことごとく安堵し、外国へは往古以来の武威を示すのが第一と存じます。基本は幕府の政事にありますので、なにぶん朝廷と幕府の間の心の隔たりをなくし、今上(天皇)の思し召しは速やかに幕府に伝わり、幕府より諸大名に命じられて政令一途に出るようにするのが、至当だと思います。
一 豚児(自分の子。豊範のこと)が上京の折、御懸念を抱いておられることがありましたら、命がけで警衛をいたします。これは武臣のつとめであり、平生の偽らざる心であります。もしまたさしたる形勢でなければ東下(関東に下ること)を仰せつけください。江戸に着きましたら、及ばずながら皇国のため、幕府へ建白するつもりです。なお(この手紙は)ご一覧の後、よろしく処分してくださるよう伏してお願い申し上げます。
頓首再拝
七月二十七日
(以下は容堂が追記した文章と思われる)また寺村左膳・本山只一郎の二人を京都に遣わし、豊範に自分の考えを伝えさせた。自分の手で書いた、以下の文章を二人に授けた。その文に曰く。
このたび(容堂自身が)万一上京を命じられたときは、勅命のことゆえ上洛するのは勿論のことです。しかしながら、ただ今の(容堂自身の)病症で無理して旅行すれば、必ず病症が悪化して、上京してからの御用も果たすのが難しくなるのではと万々恐れ入っております。それより、この地(江戸)にあって、病症不発のときは登城し、公武の間(の周旋)は言うに及ばず、あれこれ容赦なく建白した方が皇国のためかと存じます。幕府にも尊皇の志は十分ありますので、(建白を受け入れて政令を)追々発令することと存じます。気づいたことを隠しているのはかえって不忠の至りです。何とぞ私の赤心が朝廷へも貫き通るよう望んでいます。なお(詳しいことは)左膳・只一郎よりお聞き下さい。
すでにして朝命は下っていたが、再び朝命があって(容堂自身の)上京を猶予する[後に上京したが]とのこと。おそらく(容堂からの手紙を受けて)三条氏が工作したのだろう。
[参考]
一 七月二十八日、容堂公は登城するよう(将軍から)言われていたが、御病気につき引き籠もりをされた。越前春嶽公より将軍の命だとして、しばらく江戸に滞在するようにという通知が(容堂公に)あった。[記録を抄出]
八月
一 この月朔日(ついたち)、(高行が)本日より灸治(灸をすえて療治すること)を始める。
大患にかかった後、大いに衰弱し、十分出勤もできなかった。よって大奮発して、毎早朝よりおよそ三千ばかりずつ十万までの目的をもって、日々怠らず、祖母上は明け方より先一郎(長男)を守し、他に手助けなく、貞衛(妻)一人で(高行の体に)灸治をする。お千勢が手伝いをし、お馬は一人で遊ぶ。大困窮中で難儀を極めた。灸治中に思うに、このような痛みを耐えて療治し、全快すれば、直ちに死地に望まざるを得ない時勢である。そうした感慨が胸に迫った。
一 八月三日、大坂表より小南五郎右衛門が江戸に使者として発ち、勅命の御内意について容堂公へお伺いしようとのことだという。
[参考]
一 同月四日、中務殿(老中・脇坂安宅。注⑰)へ家来・西筑右衛門(薩摩藩江戸留守居役)が呼び出され、渡された書き付けの写しは次の通り。
松平修理大夫(薩摩藩主・島津忠義)の家来
京都留守居兼任
堀小太郎(伊地知貞馨のこと。注⑱)
右の者、京都で浪人どもが騒ぎを起こしたほか公儀に対して不届きの所業があり、厳しく(処罰の)御沙汰が下るところだが、格別の訳があって、修理大夫による手当て(=処分)を厳しく取り計らうよう申し付ける旨が(将軍より)命じられた。
【注⑰。朝日日本歴史人物事典によると、脇坂安宅(わきさか・やすおり。没年:明治7.1.10(1874)生年:文化6.2.15(1809.3.30))は「幕末の幕府閣僚,竜野藩(兵庫県)藩主。父は脇坂安董。天保12(1841)年襲封,弘化2(1845)年寺社奉行,嘉永4(1851)年京都所司代となる。安政1(1854)年,内裏炎上の善後処理に当たり朝廷より賞賜を受く。この間,ペリー来航,日米和親条約調印の事情を奏聞。安政4年老中,同6年外国事務主管となり井伊直弼の幕政を支えた。万延1(1860)年辞任,文久2(1862)年4月家督を養嗣子安斐に譲り隠居。同年5月老中に再任,勅使大原重徳と折衝,9月病を理由に辞職した。同年11月,井伊の横死を病死と偽って報告したことが咎められ,謹慎を命ぜられた。(井上勲)」】
【注⑱。朝日日本歴史人物事典によると、伊地知貞馨(いぢち・さだか。没年:明治20.4.15(1887)生年:文政9(1826))は「幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官吏。堀右衛門の3子,仲左衛門を称した。安政6(1859)年,江戸にいて西郷隆盛,有馬新七と共に水戸浪士と謀り井伊幕政の打倒を画策し挫折,帰国。翌年11月,薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加。文久1(1861)年命により江戸に赴き,藩主参勤の延期を求めるが容れられず,口実を作るため藩邸を焼く。これが幕府に知られ,藩政府から嫌疑を避けるため伊地知への改姓を命じられた。翌2年,有馬新七らの挙兵計画鎮圧を主張し西郷隆盛から批判を受ける。維新後の官歴は華やかではなく,明治1(1868)年鹿児島藩参政,同4年外務省出仕琉球藩在勤,同14年より修史局にあって編修に従事。『紹述編年』他の著作がある。(井上勲)」】
[参考]
一 同七日、刑部卿(徳川慶喜)・松平春嶽侯等より武家伝奏(朝廷で武家との連絡にあたる役)に贈った書翰、次の通り。
一筆啓上いたします。残暑厳しき折、どなた様もいよいよご勇健でおられ、お喜び申し上げます。さて、これまで関東(幕府)において(朝廷に対し)不都合な事どもがあり、まことに申し訳ありません。よって、此の度勅書によりお命じになった通り、今後の事に関してはひたすら勅意(天子の意向)を推し戴き、力を尽くし、真心をこめて励み、ひとえに公武の一和一致をもって万民を安堵いたすよう取り計らい、何とぞ叡慮を安んじられるようにしたいと、刑部卿をはじめ一同心を痛めております。いまだ実行に移したものがありませんので宸襟を安んじかねるところもあるかと存じます。
幕府の新体制による政治は容易ならざる事態でありまして、あれこれと考えをめぐらし、評議を尽くした末のことですので、こうした事情をお酌み取りいただきたいと存じます。さてまた、春嶽の上京をお命じになりましたが、前に差し上げた手紙の通り、(状況を)とくと見据えたうえでなければ上京しても叡慮を安んじることも出来ませんので、この件はしばらくご猶予をお願いします。これまで深く宸襟を悩ましたことも、畢竟(前の老中だった)久世大和守・安藤対馬守の不束の取り扱いがあったためで、大樹公(将軍)も深く、申し訳なく思っておられます。私ども一同におきましても、恐懼の至りと存じておりますので、これからはひとえに公武合体のために真心をもって粉骨努力します。なお、天子のご意向があれば、どなたさまも私ども一同にお伝えください。天子のご意向はなにがあっても遵奉するつもりであります。万一、現在の時勢では実行が難しい場合は、恐れながら、こちらからお断り申し上げることもあるかもしれませんので、このことはそちらさまでも重々お酌み取りいただきますよう。
以上。
八月七日
板倉周防守
水野和泉守
松平豊前守
脇坂中務大輔
松平春嶽
徳川刑部卿
廣橋一位殿
坊城大納言殿
文久二年八月二十五日 野宮殿(野宮定功(注⑲)のことか)よりお下げ渡しになった。
【注⑲。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、野宮定功(ののみや-さだいさ。1815-1881)は「幕末-明治時代の公卿(くぎょう)。文化12年7月26日生まれ。安政5年外交措置を幕府に委任する決定に反対し,万延元年和宮降嫁の御縁組御用掛をつとめる。文久2年武家伝奏(てんそう)となり,公武間の折衝にあたった。元治(げんじ)元年権(ごんの)中納言,慶応元年正二位。維新後,皇后宮大夫。明治14年1月10日死去。67歳。著作に「野宮定功公武御用記」など。」】
[参考]
一 八月七日、辰の刻(午前八時ごろ)、島津三郎(和泉)殿が(江戸から)京都に到着。(五摂家筆頭で、親類にあたる)近衛さまへ参殿、戌の刻(午後八時ごろ)退出。薩州屋敷に逗留とのこと。
島津三郎殿、同九日参内、御太刀を拝領したとのこと。
一 同八日、小南五郎右衛門が江戸に着いたとのこと。
一 同十日、(現在の高知市長浜にある)若宮八幡宮の祭礼。
一 同十一日、御側物頭の本山只一郎が京都より江戸表へ出発したとのこと。
同人は、(高行の)親友で、国事に関することを共にしている。(この江戸行きについては)同人の筆記等を見て、さらに事実関係を調べる必要がある。
一 同十三日、大隅さま(山内豊道。東邸山内家の初代当主)が亡くなられた。
一 同十五日、容堂公が次のように(幕府から)命令をお受けになったとのこと。
この日、(容堂公が)登城。
最初、白書院(注⑳)で(将軍に)御目見え。ふたたび御座の間(注㉑)に召し出され、現在の時勢につき、思うところを遠慮なく十分に申し上げるようにという将軍の意向が伝えられた。かつ、このたび折々登城するよう命じられることになるので、気づいた事柄は上書(主君へ意見を述べた書面)を提出するか、あるいは春嶽や老中まで申し上げるようにとの将軍の意向である。つづいて白書院において春嶽や老中が並んで面会し、天下の形勢についてやりとりがあった。以上のようなことを(容堂公の)御自筆の(書き付けにして土佐藩江戸屋敷の?)役場にお渡しになった。また、しばらく江戸表に詰めるよう、老中列座の席で春嶽さまより指示があった。
寺村左膳
坂井與次右衛門
[右の書面は閏八月四日(土佐に)着いた]
【注⑳。精選版 日本国語大辞典によると、白書院(しろ‐しょいん。しろじょいんとも)は「 近世、武家住宅内の建物の一つ。柱は白木(しらき)で、漆などを塗っていない書院。江戸城本丸御殿では一番主要な大広間の次にあり、表向きの部屋として儀式を行なったり、来客と対面したりするのに用いた。対面所とも。黒書院はこの奥にある。」】
【注㉑。精選版 日本国語大辞典によると、御座の間(ござのま)は「天皇、摂関、将軍などの出御(しゅつぎょ)の座席を設けた部屋。また、摂関、将軍などの平常の居室。御座所(ござしょ)。」】
(続。文久二年の記述はまだ延々とつづきます。こうして訳してみて初めて分かったのですが、文久二年という年は幕末史の転換点だったんですね。この時、生きて、活躍している志士たちの多くは明治維新を見ることなく死んでいます。維新を生きのびた西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允も維新後十年ほどで亡くなっています。革命というのは、それだけの犠牲なくしては達成されないということでしょうか)