わき道をゆく連載第212回 現代語訳・保古飛呂比 その㊱

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[参考]
一 (文久二年)八月十六日、(元老中の)安藤対馬守・久世大和守が罰せられる。次の通り。
        申し渡し覚え
               安藤対馬守の名代
                      小野次郎右衛門
 勤役中に不正の取り計らいがあったことが(将軍の)お耳に入ったので、厳しい処罰を受けるべきところだが、(将軍の)破格の思し召しにより、先だって村替え(領地内の村を他領の村と取り替えること)を命じておいた地所をそのまま召し上げ、替え地については後で交付することにする。そしてまた(安藤対馬守は)隠居を仰せつけられ、急度慎み(厳重な謹慎)をするよう命じられた。

                     対馬守の妾腹男子
                             安藤鏻之助
                     名代
                             小倉新左衛門
 父親の対馬守は右同文にて、家督はその方(鏻之助)へ下され、雁之間(注①)詰めを仰せつけられる。

                     久世大和守の名代
                             小野次郎右衛門
 勤役中に不正の取り計らいがあったことが(将軍の)お耳に入ったので、厳しい処罰を受けるべきところだが、(将軍の)破格の思し召しをもって、先だって加増した土地一万石を召し上げられ、隠居を仰せつけられ、急度慎みを命じられる。

                     大和守嫡子の名代
                              小倉新左衛門
  父親の大和守は右同文にて、家督はその方へ五万八千石下し置かれ、雁之間詰めを仰せつけられる。
 右は大和守宅において、豊前守(注②)が列座し、同人が申し渡した。大目付の浅野伊賀守とお目付の松平勘太郎が(その場に)行った。
    八月十六日
(※魚住注。表記の通りならば安藤対馬守と久世大和守の名代が同一人物で、それぞれの嫡子の名代もまた同一人物ということになるが、そういうことが実際あるのか、私にはわからない。あるいは表記の間違いなのかも知れない)

【注①。精選版 日本国語大辞典によると、雁の間は「(襖絵(ふすまえ)に雁が書かれていたところから) 江戸城中の一室。譜代三万石以上、一〇万石以下の大名の詰所にあてられた広間。雁(がん)の間(ま)。」】

【注②。豊前守は新見正興のことか。朝日日本歴史人物事典によると、新見正興(没年:明治2.10.18(1869.11.21)生年:文政5.5(1822))は「幕末の幕府官僚。旗本三浦義韶の子に生まれ,新見家の養子となる。嘉永1(1848)年家督相続,安政6(1859)年外国奉行となり神奈川奉行を兼ねる。9月日米修好通商条約批准交換のアメリカ派遣正使に任命され,翌万延1(1860)年1月,副使村垣範正,目付小栗忠順と共に品川を出港。太平洋を横断,パナマ地峡を汽車で抜け,海路ワシントンに赴き批准交換を行う。大西洋・インド洋を航海して同年9月帰国。文久2(1862)年側衆となるが,長州藩急進派による禁門の変ののち反動化した幕閣とあわず辞職。慶応2(1866)年隠居。幕府倒壊ののちは上総に帰農した」】

一 同十七日、(土佐藩の)白札百三十余人が新留守居組入りを仰せつけられた。
 ただし、白札とは、すこぶる曖昧な格式で、士分のようであって士分ではない。階級は郷士の上に位置して、旅行などの際には槍を持つ。しかしながら、士分よりは呼び捨てにされ、嗣子(跡継ぎ)も徒士の扱いを受け、(藩主への)お目見えを許されない。士分は、次男・三男など何人であっても皆士分の扱いだから大いに違う。(自分は白札の)由来を知らない。もとはお留守居組であったが、他国へ出張の際、病気あるいは幼年であることなどの事情があって出張できず、名前に白札を貼り付けたことにより始まったとも言われているが、あるいはそうかもしれない。お留守居組も、もとは小身等のためもっぱらお留守を勤めたことにより、それが格式となったとのことだ。それゆえか、お留守居組や白札には旧家もあった。右のような曖昧な格式なので、(白札)一同が新留守居組を仰せつけられ、完全な士分となった。

[参考]
一 八月十九日、勅使に対し幕府より次の通り。
      勅使・大原左衛門督殿(=大原重徳。島津久光とともに江戸に赴き対幕折衝を成功に導いた)
  銀  二百枚
  錦  百把(たば)
 帰路のお暇を下され、拝領物をいただく。

                     大原左衛門督殿の家老
                             堀内典膳
                             喜多川大膳
  銀    十枚
  時服(=朝廷や将軍などから、毎年春、秋または夏、冬の二季に臣下に賜わった衣服=精選版日本国語大辞典)   二
お暇につき、これをいただく。
 大原殿は来る二十二日、江戸出発の旨、高家(注③)の土岐出羽守が申し聞かせる。

【注③。デジタル大辞泉によると、高家にはいろいろな意味があるが、この場合は「江戸幕府の職名」を指すと思われる。高家は「伊勢・日光への代参、勅使の接待、朝廷への使い、幕府の儀式・典礼関係などをつかさどった。足利氏以来の名家の吉良・武田・畠山・織田・六角家などが世襲。禄高は少なかったが、官位は大名に準じて高かった」という】。

[参考]
一 八月二十日より二十三日の間、岩倉公以下が左の通り罰せられる。
        宣辞(※天子のお言葉という意味か)

左近衛権中将岩倉具視朝臣
左近衛権少将千種有文朝臣(注④)
中務大輔富小路敬直朝臣(注⑤)

 右の者たちは天子の思し召しがあって、蟄居・辞官・落飾。二十日に言い渡された

            富小路三位(※敬直との関係は不明)
 右は中務大夫お咎めにより差し控え(謹慎)。

            岩倉大夫(具視の次男・具定)
 右の者は父の中将(具視)と同じ。

            中山大納言
            正親町三条大納言
 右は差し控えを二十一日に言い渡された。

            久世宰相
 右は差し控えを二十三日に言い渡された。

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、千種有文(ちぐさ-ありふみ。1815-1869)は「江戸時代後期の公卿(くぎょう)。文化12年7月16日生まれ。千種有功(ありこと)の次男。和宮(かずのみや)降嫁問題で久我建通(こが-たけみち),岩倉具視(ともみ)らとともに尊攘(そんじょう)派から排斥され,文久2年辞官,落飾。王政復古で還俗(げんぞく),宮内大丞などをつとめた。従三位。明治2年11月3日死去。55歳。法号は自観。」】

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plus によると、富小路敬直(とみのこうじ ひろなお。1842-1892)は「幕末-明治時代の公家,華族。天保(てんぽう)13年5月12日生まれ。文久元年和宮(かずのみや)(静寛院宮)の降嫁にしたがい江戸へいく。公武合体を画策する者として尊攘(そんじょう)派から弾劾され,2年蟄居(ちっきょ)を命じられ落飾,さらに謹慎処分をうける。のちゆるされて明治天皇の侍従をつとめた。子爵。明治25年10月28日死去。51歳。」】

一 八月二十三日、太守さまが大坂を出発されたとのこと。

一 同二十四日、小南五郎右衛門が江戸より伏見まで帰着とのこと。

[参考]
一 同二十五日、六ツ半時(午前七時ごろ)、お供の行列とともに、太守さまが伏見を発たれた。四ツ半ごろ(午前十一時ごろ)、河原町の土佐藩邸へ到着。下総殿(注➅)が名代として坊城殿のもとへ参上し、夕方、太守さまは藩邸で麻のかみしもを着て、勅命の書き付けを頂戴された。
 ただ、河原町の屋敷は手狭で、(お供の)人数を収容するのに差し支えるため、洛西の妙心寺内の大通院宿坊を旅館とすることになった。大通院は由緒あり、そのうえ(各所との往き来に)都合がいいためである。

         御届書は次の通り
 私こと、参勤のため六月二十八日に国許を発足し、七月十二日、大坂へ到着しましたところ、発熱して体調がすぐれず、次第に麻疹の症状になりました。旅行が難しくなり、療養のため大坂に滞在しましたことは、先だってお知らせしましたとおりですが、その後快方して、今月二十三日に大阪を発ち、同二十四日、伏見に着きました。かねて伺い済みの通り、公方さま(将軍)の御機嫌を京都所司代にお伺いするため、京都に行ってすぐ帰ろうとしたところ、坊城大納言殿から家来を一人差し向けるようにと言ってこられたので、家老の山内下総を差し出したところ、叡慮の趣を書翰をもって別紙写し[(七月二十五日の項に)前掲]の通りお命じになったので、お受け申し上げ、これにより、京都より御届けいたします。

以上。

     八月二十五日

松平土佐守[記録から抄出]

【注➅。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、山内下総こと酒井勝作(さかい-しょうさく。1819-1876)は「江戸時代後期の武士。文政2年5月生まれ。土佐高知藩家老。文久元年藩論が勤王と佐幕に二分するなか辞職。翌年吉田東洋の暗殺後,勤王派に支持されて復職,藩主山内豊範(とよのり)にしたがい京都で藩主名代をつとめる。戊辰(ぼしん)戦争では伊予(いよ)松山警衛総督。明治9年9月6日死去。58歳。名は佐成。旧称は山内下総。」】

一 八月ごろ、京都の相撲頭取(=相撲で、力士を統轄して興行に参加する者=精選版日本国語大辞典)の草摺末吉の弟子七十人、同頭取の勇山源右衛門の弟子三十人、そのほか朝日山市五郎・錦島八五郎・錣方岩右衛門等が非常の際に我が藩の御用向きを務めたいと願い出て、お聞き届けになった。これより以前、大坂で伊奈川の弟子七十人が右と同様の願い出をしてお聞き届けになった。非常の際に着る服もこしらえてやったとのこと。
 このとき薩長土の三藩は有名で、世の人々は我が藩を慕っていたためか。

  閏八月

[参考]
一 この月二日、松平肥後守(容保)が京都守護職に任命され、正四位下に叙せられたとのこと。

一 会津藩は熱心に武事を研究し、三百諸侯中稀に見るところ。先年、自分は長沼流兵学修行のため、同藩で同流の師範[当時は隠居]黒小路松齋先生の講義を拝聴したことがある。その際、(江戸の)芝綱坂の会津藩邸で長沼流の調練を見物した。なかなか見事だった。その際、軍事奉行の海老名郡治より懇切に話があった。年々、会津表では大調練があり、その時分、原傳平[自分の従兄]・乾作七の両人が見物のため会津に派遣され、帰邸の際、模様を聞いたところ、とても盛大だったとのこと。同藩は太平武事の世の中であっても、昔から調練を怠らなかったという。かつ、現在の藩侯も人物だといわれている。浦賀等の警固の際、彦根藩の赤備え(=武具を赤一色にして戦に備えること)も色がさめ、しまりがなく、警固場所の床几に座ったまま物頭が居眠りをしていたといってひそかに微笑したことがあった。このたびの京都守護職は親藩・譜代のうちから精選したものだろう。

[参考]
一 閏八月四日、朝廷が太守さまに左の通り。
     勅諭
 蛮夷(=野蛮な外国人)が渡来して以後、皇国人民に不和が生じ、いま容易ならざる形勢にいたり、(天子は)深く宸襟を悩ませておられる。皇国のためはもちろん、公武がなお久しく栄えるよう、さる五月、関東へ勅使を差し向ける意向がおありのところ、将軍家においてはこの七月一日、叡旨(天子の意向)をお受け申し上げたので(天子は)ご満足であらせられる。そうであれば、早速実行されなくては意味がなく、せっかく勅使が派遣され、幕府がそれをお受けした甲斐がなくなる。(天子は)叡慮がいよいよ速やかに実行に移されるよう(望んでおられる。)薩摩藩と長州藩が周旋に専念したことに(天子は)満足しておられるが、土佐藩も同様に国家のために真心をこめて周旋するよう内々ご依頼したいというご意向である。よって早々に内々のお達しがあるであろう。

二条さまより筑前さまへ
一条さまより細川侯へ
三条さまより土州侯へ

 当時、太守さまは在京だったので、このころ(勅命を)受けられた模様。そのほか公家衆の中で、縁戚関係にある大名方ヘそれぞれ達しがあったとのこと。[記録抄出による]

[参考]
一 閏八月五日、水戸源烈公(徳川斉昭。二年前に死去)に従二位大納言の贈位官(生前功績のあった者に死後、位階や官職を贈ること)を京都より仰せつけられたとのこと。

         覚え

水戸中納言殿(徳川慶篤(注⑦))

 源の烈公は国家のために並み優れて忠節を尽くしたので天子が感動され、従二位大納言が贈られる。その旨をこのほど京都よりお使いをもってお知らせがあった。

水戸中納言殿

 源の烈公は国家のために並み優れて忠節を尽くしたので天子が深く感動され、従二位大納言を贈られた。なおまたその遺志を継ぎ、皇国のために丹誠されるよう京都より告知があった。叡慮の趣旨を厚く心得られ、なおこのうえ誠忠を尽くされるよう。

文久二年閏八月

【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると徳川慶篤(とくがわよしあつ。没年:明治1.4.5(1868.4.27)生年:天保3.6.3(1832.6.30))は「幕末,藩内抗争が激烈を極めたときの第10代水戸藩主。諱は慶篤,字は子有,幼名は鶴千代。南山と称す。諡は順公。父徳川斉昭の長男,母は正室吉子。弘化1(1844)年5月に父斉昭が幕命によって隠居謹慎になり代わって藩主となったが,藩政の実権は後見の高松藩主松平頼胤や藩内結城派が掌握した。嘉永6(1853)年,父が藩政復帰し実権を再び掌握した。安政5(1858)年,父と共に日米修好通商条約の無断違勅調印に抗議して江戸城に不時登城して登城停止の処分を受けた。文久3(1863)年,朝命により横浜鎖港に当たった。性格は優柔不断で,天狗党と諸生党との藩内対立,流血を結果的に放任した。(吉田昌彦)」】

一 閏八月五日に江戸を発った使者・渡邊又四郎がこの二十六日に到着した。
 ご隠居様(容堂公)が同月五日、御奉書(注⑧)により登城、(将軍に)お目見えあそばされたところ、懇ろのお言葉をかけていただいた。かつ、先年以来の真心のこもった忠義ぶりについての天子さまからの感状が京都より届いた。(容堂公は)その書状を拝見され、ありがたく思し召された。(容堂公の)廻勤(注⑨)等は万事首尾良くお済みになったとのこと。

【注⑧。デジタル大辞泉によると、奉書(ほう‐しょ)は「古文書の形式の一。主人の意を受けて従者が下達する文書。天皇・上皇・公卿の意を受けた場合はそれぞれ綸旨・院宣・御教書(みぎょうしょ)とよばれた。」】

【注⑨。精選版 日本国語大辞典によると、回勤・廻勤は「任官、就職した時など、関係の人びとに礼を述べ、また、挨拶をして回ること。回礼。」】

一 同日、江戸表において容堂公がこの五日、登城された。京都よりもご通知があったので、国家のため気づいたことは遠慮なく申し上げるようにという上意(将軍の命令)をお受けになり、その後、次のような書面を老中・板倉伊賀守より渡されたとのこと。

松平容堂

 先年以来、国家のために真心のこもった忠義を尽くしたことに天子さまは感動されており、直々の叡念(天子のお考え)をしっかりと心に刻むように。引き続き立ち働いて、皇国のために尽力するようにという天子の思し召しを伝えるよう京都よりご通知があったので、右の叡慮の趣旨を心得、国家のため誠忠を尽くすようにとのお沙汰である。
     文久二年閏八月五日

一 同日、深尾氏、左の通り。
 このたびの時勢、かつ「御含ミ筋被為在」(※表立っては言いにくい種々の事情があって、というような意味だと思うが、自信がないので原文引用)、先だって減じられた千石を遣わし、鼎[重惇]の蟄居処分解除を仰せつける。
 深尾は禄高一万石で家老である。先年、千石減らされたが、本文の通り仰せつけられた。

[参考]
一 閏八月六日、勅使大原卿が帰京したとのこと。

一 同二十日、庄内藩の本間精一郎が四条河原に首をさらされ、左の立て札があったという。

本間精一郎

 この者の罪状は今さら申し上げるまでもなく、第一に虚喝(虚勢を張って他人を惑わすこと)をもって衆人を惑わし、そのうえ高貴のお方のところに出入りいたし、佞辯(心がねじけていて口先巧みな弁舌)をもって薩長土の三藩をさまざまに讒訴し、有志の間を離間させ、姦謀をたくらみ、あるいは不当に財貨を貪り取り、そのほかの悪巧みの数々は筆舌に尽くしがたく、このまま放置していれば、その災禍は限りなく生じるので、このようにさらし首にするものなり。
   閏八月
 右の者、さる二十日夜、往来で殺害され、四条河原にさらし首にされた。何者の仕業であるかはまだわからない。一説では桜田門外の変の残党の仕業だといい、また一説では薩長両藩の人間の仕業だといわれ、真相はまだわからない。
 本間精一郎が京都で殺害されたという知らせが土佐に届いた後、勤王家の若者どもが「本間の首を見よ」と路上で夜歌う。

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、本間精一郎(没年:文久2.閏8.20(1862.10.13)生年:天保5(1834))は「幕末の尊攘派志士。越後国(新潟県)三島郡寺泊町の商人本間辻右衛門の長子。名は正高,字は至誠,号は不自欺斎を称した。安政初年には幕臣川路聖謨 に仕えていたが,安政5(1858)年の安政の大獄を契機に志士となって活動を開始した。京坂で志士と交わり,また青蓮院宮など公家の間にも出入りし,急進的な活動を展開した。しかし藩に属さない活動は薩摩や土佐の志士から反感を買い,さらにその酒色に溺れた生活に悪評が立ったのち,文久2(1862)年閏8月20日島原遊廓からの帰途を薩摩の田中新兵衛,土佐の岡田以蔵らに斬られ,梟首された。<参考文献>太田仁一郎編『贈従五位本間精一郎君事蹟』」】

[参考]
一 閏八月二十一日、同夜、九条様諸大夫・宇郷玄蕃が殺害され、これも首は京都・松原通り四条五条の間の河原に首をさらされ、その下に罪文があった。これも何者の仕業であるかわからず、薩摩藩の人間だという風説がもっぱらだ。精一郎を殺した者と同一だろう。そうならば桜田門外の変の残党の仕業ではなく、「勤王家隨一」(※言葉通りだと勤王家の第一人者という意味になるが、よくわからない)の仕業にちがいないという説が聞こえてくる。宇郷の罪文は、次の通り。

宇郷玄蕃

  この者は島田左近とつるんで主家(九条家)を不義に陥らせ、その罪はまことに彼(島田)よりも重く、これにより天誅を加えるものである

     閏八月

【注⑪。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、宇郷玄蕃(うごう・げんば。1824*-1862)は「幕末の九条家諸大夫(しょだいぶ)。文政6年12月16日生まれ。主人の関白九条尚忠の意向をうけて,同僚の島田左近とともに佐幕派として安政の大獄や和宮降嫁問題などで活躍。そのため文久2年閏(うるう)8月22日尊攘(そんじょう)派によって暗殺された。40歳。名は重国(しげくに)。」】

一 閏八月二十一日、幕府が大変革御新政を発令された。外様大名の参勤交代を四季に分かち、(これまで一年おきだったのを)三カ年に一度、三カ月間、江戸に滞在することになった。
 太守さまは来年七月、(江戸に)出府し、十月朔日にお暇(国許に帰る)の御規定。
 (これまで江戸に人質として置かれていた)諸侯の嫡子や妻女が国許に住むのを許可されるとのこと。

[参考]
            [閣老松平(原文のママ)]
一 同二十一日、(島津)和泉さまに渡された書面の写し
 参勤(江戸に赴くこと)・お暇(国許に帰ること)の期間の割り振りを別紙の通り猶予してくださったことについて、「万一武備心調ノ義モ有之、且参勤ノ期限御達ニ不及様可相心得候」(※正確な意味が分からないので原文引用)。今度(新たに)お命じになったこともあるので、参勤の順割りは別紙の通りにすると言い渡された。ついては在府中(江戸滞在中)は時々登城して、政務筋の理非得失をはじめ、気づいたことがあれば、十分に申し立てられるよう。かつ、領国の政治の可否、海陸の防禦等の計画を立てたり、あるいは知らせたり、または諸大名が互いに話し合うようにされたい。もっとも右の諸案件について将軍から直々にお尋ねすることもあるだろう。
一 在府する諸侯の顔ぶれは別紙の割合の通りに命じられたが、諸侯はお暇中であっても、前条の事柄、あるいはやむを得ぬことなど所用あるとき出府するのは構わない。
一 (諸侯の)嫡子は在府・在国・在邑(※邑は嫡子個人の領地を指すのかも)ともに自分の思い通りにしてよろしい。
一 定府(老中・若年寄・諸奉行などの現職にある者が参勤交代をしないで、江戸に常住すること=精選版日本国語大辞典)の面々が領地に行くのは、願い出れば許される。もっとも、それぞれの役の割り当ては別紙在府の割合にしたがって仰せつけられる。
一 江戸表に置いていた妻子については、(自分の思い通りに)国邑に引き取って構わない。子弟たちを情勢見学のために江戸に滞在させるのは、これまた自由にして構わない。
一 江戸表の屋敷については、留守中、家来どもを多人数置いておくに及ばず、(諸侯の)参府中の旅宿・陣屋等のつもりで、なるだけ手軽にするように。また、軍備以外のすべて無用の調度は省き、家来どもについてはお供の者、使者要員ともに旅装束のままでいて構わない。
一 国許や領地よりかけ離れた場所の警衛については「遣而被仰出候品モ可有之事」(※意味がわからないので原文引用)
一 年始・八朔(八月一日)の(諸大名から将軍への)太刀馬代の献上、参勤・家督相続そのほか御礼事については、献上品はこれまでの通りにすること。しかしながら、手数がかかる品は、品替えを願うことは苦しくない。
一 右の他の献上物はすべて取りやめる。もっとも、格別の由緒があって献上してきた分は(献上していいかどうか)お伺いするようにされたい。

 別紙
        参勤の割り振り
<今年>

春中在府松平兵部大輔
佐竹右京大夫
島津淡路守
夏中在府加賀中納言
細川越前守
秋中在府松平大膳大夫
松平相模守
冬中在府松平阿波守
松平出羽守
溝口主膳正

<来年>

春中在府松平美濃守
松平安芸守
津軽越中守
夏中在府松平修理大夫
立花飛騨守
亀井隠岐守
秋中在府藤堂和泉守
松平越前守
松平土佐守
冬中在府松平内蔵守
南部美濃守

<再来年>

春中在府松平陸奥守
松平三河守
宗 対馬守
夏中在府松平右近将監
松平三河守
松平飛騨守
秋中在府伊達遠江守
丹羽左京大夫
松平富之丞
冬中在府上杉弾正大弼
有馬中務大輔
南部遠江守

 右の割り振りでの在府は、三年目ごとにおおよそ百日を限度とする。松平美濃守・宗対馬守・松平肥前守はおおよそ一カ月を限度に(在府を)申しつける。

一 春中在府する面々は、前年十二月中に参府(江戸に参勤すること)し、四月朔日にお暇を下される。夏中在府の面々は三月中に参府し、七月朔日にお暇を下される。秋中在府の面々は六月中に参府し、十月朔日にお暇を下される。冬中在府の面々は九月中に参府し、十二月二十八日にお暇を下されるものと心得られたし。もっとも上使(幕府から上意を伝えるために派遣された使者)をもってお暇を下された面々は、右の日限より前にお暇を言い渡されることもあり得る。

一 本年に関しては、松平阿波守・松平出羽守・溝口主膳正はそのまま十二月中在府すること。そのほか現在在府の面々には追々お暇を言い渡されることになる。

   参勤の割り振り
<今年>

春中在府秋元但馬守
内藤駿河守
三浦備後守
夏中在府稲葉長門守
黒田伊勢守
米倉下野守
米沢伊勢守
秋中在府牧野遠江守
松平恭三郎
永井肥前守
森川出羽守
冬中在府戸田越前守
板倉主計頭
酒井陸次郎

<来年>

春中在府青山因幡守
松平能登守
阿部因幡守
渡邊丹後守
夏中在府青山大蔵大輔
久世▢▢
増山河内守
水野肥前守
山口長次郎
秋中在府阿部播磨守
松平織部正
有馬兵庫頭
板倉摂津守
井上伊予守
冬中在府間部下総守
本多伯耆守
永井飛騨守
大井大隅守
酒井下総守

<再来年>

春中在府土屋采女正
松木近江守
石川若狭守
井上筑後守
夏中在府土井大炊頭
牧野淡路守
板倉内膳正
平田七之助
秋中在府太田綱次郎
大久保佐渡守
阿部摂津守
冬中在府安藤隣之助
大井能登守
大岡兵庫頭

 右の割り振りをもって参府するのは、三年目ごとにおおよそ百日を限度とすること。

一 春中在府する面々は、前年十二月に参府し、四月朔日にお暇を下される。夏中在府の面々は三月中に参府し、七月朔日にお暇を下される。秋中在府の面々は六月中に参府し、十月朔日にお暇を下される。冬中在府の面々は九月中に参府し、十二月二十八日にお暇を下されるものと心得られたし。

一 今年に関しては戸田越前守・板倉主計頭・内藤志摩守・酒井陸次郎はそのまま十二月中まで在府するよう。そのほか現在在府の面々は追々お暇を言い渡されることになる。
        閏八月二十一日
(魚住注。この参勤交代の緩和策は幕府の政事総裁に就任した松平春嶽と、そのブレーンの横井小楠が主導して行われたものである)

一 閏八月二十五日、谷守部(谷干城のこと⑫)が探索役として京都にいたところ、右の御用で西国筋へ遣わされたとのこと。[樋口氏の筆記を見るべし]

【注⑫。朝日日本歴史人物事典によると、谷干城(たに・たてき。没年:明治44.5.13(1911)生年:天保8.2.12(1837.3.18))は「明治期の陸軍軍人,政治家。土佐(高知)藩士谷万七の子。家系は土佐の著名な神道家で国粋派。安政6(1859)年江戸で2年間安井息軒の三計塾に学ぶ。帰郷して文武館の史学助教。桜田門外の変(1860)に触発され,また武市瑞山に啓発を受け尊王攘夷運動に参加。慶応1(1865)年藩命で長崎,上海視察,翌年西郷隆盛らと会談し薩土討幕密盟に加わった。戊辰戦争では大軍監として東北に転戦。明治4(1871)年兵部省に登用され,6~8年熊本鎮台司令長官。7年佐賀の乱の鎮定に当たり,台湾出兵の際は台湾蕃地事務参軍として西郷従道を補佐した。9年神風連の乱後熊本鎮台司令長官に再任,西南戦争(1877)で籠城2カ月,薩軍の攻撃に耐え熊本城を死守した。11年中将,東部監軍部長,その後陸軍士官学校長兼戸山学校長,中部監軍部長を歴任,14年長崎墓地移転問題で辞表を提出したが明治天皇は許さなかった。 同年開拓使官有物払下げ事件が起こると,鳥尾小弥太,三浦梧楼,曾我祐準らと払下げの再議,国憲創立議会の開設を建白,薩長専制を批判するとともに陸軍反主流派としての立場を強めた。このとき佐々木高行らと中正党を結成。17年学習院院長となる。18年第1次伊藤博文内閣の農商務大臣となって,19~20年に欧州視察をし,帰国後すぐに「時弊救匡策」を草して政府の情実,皮相な欧化政策をはげしく批判し,折から進行中の外相井上馨による条約改正にも反対して,農商務大臣を辞職。天皇は学習院御用掛,枢密顧問官などへの就任を希望したが,固辞した。また新聞『日本』(社長陸実)を主宰して「日本主義」を提唱,在野国権派の結集をはかろうとした。22年8月杉浦重剛,三浦らと日本倶楽部を結成して外相大隈重信による条約改正に反対,このとき民間の反対集会に参加したため予備役に編入された。議会開設(1890)以降は貴族院議員,懇話会のリーダーとして有力な反政府勢力を築いた。日清戦争(1894~95)後の過大な領土的要求を戒めたり,31年地租増徴問題で反対し,日露開戦にも反対した。<参考文献>平尾道雄『子爵谷干城』,島内登志衛編『谷干城遺稿』(田浦雅徳)」】

[参考]
一 小原氏の随筆二十五日の項に、
 彦根藩家老の岡本半助と有志数十人が三条(実美)さまへ訴え。今般の時勢は、元はといえば、(桜田門外の変で暗殺された)前掃部頭(井伊直弼)がしかじかと罪科を数えたて、この上はどのようにでもとりなしをして、朝廷に宜しくご周旋をお願いしたいと、森寺長門(三条側近の森寺常安のこと。注⑬)方ヘ内密に申し出た。いまだ三条公にはお目見えしていない。「立リ[ママ]ヲ以」(※ママとあるので誤植だろうが、何を言おうとしたのかわからない)内々の相談があったので、(当時、三条の顧問と言われた土佐藩幹部の)小南(五郎右衛門)は、亡くなった主人の旧悪を暴くという不忠のやり方には得心できないと答えたという話を聞いた。彦根藩は有志と称する者すらこのようなていたらくだ。情けない限りである。

【注⑬。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、森寺常安(もりでら-つねやす。1792*-1868)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。寛政3年12月13日生まれ。三条家の諸大夫。因幡守(いなばのかみ)。安政5年(1858)条約勅許・将軍継嗣問題についての橋本左内の建言を三条実万(さねつむ)に斡旋(あっせん)。安政の大獄に連座して永押込めとなり,文久2年(1862)ゆるされた。明治元年9月22日死去。78歳。京都出身。字(あざな)は遜卿。」】

[参考]
一 同二十六日、このほど京都の警衛を勅命で仰せつけられたので、大人数を(国許から)召し寄せることになるかもしれない。(太守さまが国許を)発たれる前に訓示された点について(留意するのはもちろん)、なおまた一同油断なく心得るようにと(太守さまが)仰せつけられた。

[参考]
一 周防守殿(老中・板倉勝清のことと思われる。注⑭)から大目付へ渡された(文書)
 このたび諸大名の参勤割合の猶予を命じられたが、これまでの割合をもって今年の参府をすべきところ、病気等で延引したり、または(参勤の)旅中の面々はそのまま在国・帰国しても苦しくない。
 右の趣旨を一万石以上の大名諸侯に通知すること。
   閏八月

【注⑭。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、板倉勝静(いたくらかつきよ。[生]文政6(1823).1.4.[没]1889.4.6.)は「江戸時代末期の老中。周防守,伊賀守。桑名藩主の8男。天保 13 (1842) 年松山藩主の養嗣子となり,嘉永2 (49) 年同藩主となる。寺社奉行を経て,文久2 (62) 年老中となり,外国事務を主管。難局に苦慮して元治1 (64) 年辞職。この間,第1次長州征伐では先鋒隊となった。慶応1 (65) 年 10月,再び老中に就任。会計総裁を兼ねた。大政奉還には賛成の態度をとり,その実現に努力したが,鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に帰る慶喜に従って帰東後まもなく辞職。戊辰戦争では官軍に抗して箱館まで走った。帰順後処罰されたが明治5 (72) 年釈放され,1877年東照宮祠官となった。」】

[参考]
一 このころ、(山内)大学さまが文武館の諸士に下さった書き付けは左の通り。
 このたび(太守さまは)上京され、京都に滞在されると承っている。ところで、昨今の京都情勢を探索された結果を追々聞くところでは、はなはだ窮迫の時勢にいたり、いつ天下の一大事が起きてもおかしくない模様である。ことに君上(太守さま)がそうした難儀の土地へ立ち向かわれたので、まことに家臣としては片時も安心できない状況である。よって姑息の風習を一掃し、(文武館での)指導においては、第一に武士の精神を磨き、死生存亡の場において、一念邪欲の入り込む余地のないようされたい。義を見たら直ちにそれに帰するよう、至当の道理を固く守り、万一京都より警衛の要員を多数呼び寄せられた際には(太守さまの)馬前での働きをしっかり励むよう指導するのは急務と考える。もしもすでに定め置かれた課程等にとらわれ、拙劣の心得のままでいる面々等があれば、現在の時勢を詳しく申し聞かせ、きっと志を改めて勉強するよう指導すべきである。このことは、それぞれに対し直接話すべきことであるが、それも煩瑣にすぎると思うので、書き付けをもって思うところを申し聞かせる。指南導役の者たちよ、励めよ。

[参考]
一 同月、左の武市家に伝わる建白書は、武市同志の草案であって、藩論ではない。武市より谷森某を経て、内々に粟田宮(朝彦親王)へご覧に入れたようで、容易ならざることであるから、取り消しの取り計らいをしたものだ。[小原與一郎の筆記にそう書かれている]。

        献白書案

 このたび勅諚(天子の命令)をもって京都の警衛をうけたまわり、若年不肖の身分としては恐れ入る次第です。天下の安危のかかわるところ、深く宸襟を悩まし、容易ならざる時勢でありますので、粉骨砕身、藩の力を尽くし、敬して遵奉つかまつるべしと苦心配慮しております。そもそも外夷が跋扈し、手に余るようになった根元は、太平が永く続き、因習を改めようとせず目先の安楽にとらわれたためです。それに伴って君臣の大義を忘れ、幕吏が恐怖を抱き、姑息な処置をして赫々たる神州の国体を汚し、往古未曾有の大恥辱を招き、ついには智者があっても善を行うことができず、その後の大害を招きました。これは言語道断、不安を募らせるしかありません。このため忠憤義烈の士たちは激しく憤って切歯に堪えず、たびたび暴発したこともありました。しかし、幕吏は自らの処置が招くことになる事態を察知せず、かえって彼らに対する懲罰が残酷を極め、ますます醜夷(醜い野蛮人)の飽くなき求めに応じ、皇国の疲弊、万民の苦しみを顧みず、ほんの少しの愛国心もないため、諸藩有志の士はいよいよ憤怒し、天下の情勢がどうなるか予断を許さぬところまで立ち至りました。このため薩長においては天子の意を受けて周旋に尽力し、種々の建議も行いました。とにかく帰着するところは、攘夷の一策であります。その策にいたっては最も一大事であり、実行は容易ではありません。結局のところは根本を整えなくては実現できません。その根本を整えるための愚策は次に申し上げます。

一 今日、諸侯を見渡すと、それぞれ相互に士卒を養い、自ら危急の際に役立てようとしていますが、皇国で最も大事な京都においては、かえって防禦の役に立つ者がございません。もとより諸藩が京都の警衛にあたるのは当然のことで、かねてからそのための手当てをされておられますが、外敵の侵攻が差し迫った時にいたっては、諸侯がそれぞれの領国を捨てて遠く京都を警衛するのは、非常に難しいことです。だとすれば、その根本が甚だ危険なので、五畿(京都の周囲の山城・大和・河内・和泉・摂津の五カ国)一円を朝廷の領地に組み入れ、親王以下の貴族らに分与なされ、万一不慮の事態があっても、畿内だけの力で十分防禦できるようにしていただきたい。この際、河内・和泉の二カ国を近江一国と取り替えなさるようにされたらいかがかと考えます。摂津・山城・大和・近江の四国を朝廷の領地に組み入れることは、根本を整えるにあたっての大眼目と存じます。それまで右の四国を領地にしていた諸侯は、幕府の領地を割き与えて、残らずその地に移し、右の四国には天子のご判断で親王以下を配置し、また諸国の忠勇の浪士を召し抱えるようにしていただきたい。なお大坂のあたりの富豪に仰せつけ、器械(※大砲などの武器のことか)・戒具(※夷狄を拘束する道具のことか)を十分に手当てし、あらかじめ防禦の手配を整えたうえで、断固として攘夷の勅命を下すようにしていただきたい。右の策が行われた時には、恐れながら万民が天子さまの意を恐察し、たとえその意を示さずとも、その真意に基づき必死の覚悟を極めるでしょう。これはいま最も急務のことと考えます。

(続。献白書案は長文のため、今回だけでは訳しきれませんでした。続きは次号に載せます。いつものことながら、私の無知のせいで誤訳がたくさんあると思いますが、どうかお許し下さい)