わき道をゆく第213回 現代語訳・保古飛呂比 その㊲

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(「武市同志」による「献白書」草案のつづき。作成時期は文久二年閏八月)

一 幕府の従来の規則では、諸侯の妻子を江戸に置き、年ごとに(諸侯が)参府することになっており、各藩財政欠乏の理由は国柄だけではありません。これはまったく徳川氏が諸侯を弱くするための権道(便宜的な手段)でありましょう。今のように外夷が隙をうかがうときには、諸侯参勤の規則は、国(藩)の遠近、路程の難易を測り、五年あるいは三年に一度ずつ参府するようにし、妻子は国許に置くようにべきです。そうすれば粉黛(おしろいやまゆずみ。化粧のこと)の手当てや、奔命(主君の意を受けて奔走すること)の費用もなくなり、江戸においても「輻輳の喙」(輻輳は一カ所に集中すること。喙にはくちばし、ことば、くるしむなどの意味がある)を減らし、無益の食糧をついやすことはありません。そうすれば自然に国を富ませることができると思います。

一 政令は、(本来)朝廷より施行されるべきものです。大昔は、天子自身が訴訟に臨み、自ら当事者の話を聞いて是非を判断しました。しかし、鎌倉に幕府が置かれて以来、(法の施行を)ひとえに権門に委任され、だんだん君臣の区別が不分明になり、(そうした)習俗が長くつづいたため、今に至っては幕府を尊奉のあまり、畏れおおくも天子をあなどるようになり、まことに長大息せざるをえません。このたびきちんと名分をただされ、政令一切が朝廷より施行されるようにし、諸侯もまた直に朝廷に参勤するようにして下さるようにお願いします。

右の三点、現在の急務と存じますので、早々にご英断を下し、実行されますようお願いします。といっても、たとえ今日、一、二の諸侯に言い聞かせて関東に差し向け、江戸で会う人ごとに説諭周旋したとしても、(その者たちは)これまでいい加減で一時しのぎの人情に浸りきっているので、決して(天子の命を)遵奉しようとはせず、かえって幕吏の侮りを受けることになりましょう。結局、幕吏が遵奉しないという徴(しるし)は、先だっての勅旨を受けながら、その実、今もって実行していないこと、そしてまた、このたび一橋(慶喜)・越前(春嶽)連署で差し出した書面上に、時勢行われがたしとあるところでもはっきりしています。しかしながら、いまこれらのこと(前述の三点)が行われないと、攘夷のはかりごとも実現が難しくなります。早急に朝廷内で議論した上で、かねて勅書を内願いたしました肥後ならびに因備二州(因幡=鳥取、備前=岡山の二藩)、阿波(=徳島藩)をはじめ九州諸藩に上洛して警衛するよう勅命を下し、七、八の大藩が天子のもとに馳せ参じるようにして、赫々の武威を示していただきたい。その後で勅使を江戸に遣わし、仁恕(情け深いこと)正義をもって幕吏の傲慢の心を諭し、権力と威勢をもって幕吏の虚唱(虚しく唱えること)の意を挫いたならば、寛猛(寛大と厳格)のご処置に恐縮して、勅旨を遵奉するでありましょう。なにぶん現在の憂いは人心の因循(古い習慣を改めようとしないこと)であります。とかく古(いにしえ)より俗吏の因循を統御する術は権威によらずしては行われないと存じています。ただちに神州英武(武勇にすぐれていること)の気を挽回し、王室を恢復する絶好の機会でありますので、早々にご断行されるよう願い奉ります。臣土佐守は辺境の微弱な国柄にすぎませんが、ただ天子の意向のままに進退する覚悟です。取るに足りない忠義の思いを、万一にもご採用いただけたらありがたく存じ奉ります。以上。

文久二年閏八月

[参考]

一 いまの世評に曰く。

一 九州 乱の兆しあって「乱形ナシ」(※まだはっきりとした乱の形にはなっていないという意味か)。まさに乱れようとする殺気が盛んである。

一 中国 無事。

一 四国 九州に類す。

一 東国 交易を喜ぶ諸侯多し。

一 北国 慷慨の気いささか含む。

一 肥前 ただ一ケの利を勧む。

一 久留米 質朴あって文武盛ん。

一 柳川 君臣よし、ただし困窮の悪評あり。

一 肥後 現在の君主は英雄、藩士は文弱、慷慨の士よって起こる。

一 薩摩 上下一等よし。無事を計る。世評と異なる。乱を醸さず。

一 小倉 文武とも「世話出来ル。内ニ文弱々々」。(※意味がよくわからない)

一 姫路 文武ともになし。世評に文国という口伝(があるが、実態はちがうという意味か)。

一 因州 君公、大いによし、家中よし。

一 備前 因州に真似するばかりで政事よろしからず。

一 廣島 怠惰。

一 長州 「家二派ニ成、但和洋砲之論アリ」(※家中が二派に分かれ、和洋どちらの砲を採用するか意見が分かれているという意味だろうか)。

一 雲州(松江藩) 「家藩」(※正確な意味はわからないが、君主一族や家臣団を含む藩全体という意味か)、文もなく武もなく、茶のみを愛す。

一 阿州(徳島藩) 君臣和す。ただし君公は少し奢を好む。藩士は慷慨。

一 土州(土佐藩) 武事盛ん。ただし「聚斂の臣」(重税を厳しく取り立てる役人)多し。

一 宇和島 君臣良し。ただし君臣合体。

一 伊予松山 君公質朴。

一 高松 家藩、惰弱。

一 水戸 文あって武なき者なし。武あって文なき者なし。郷士五千人同じ。

一 仙台 君公英雄、藩士怠惰。

一 会津 文武盛んなり。

一 秋田 慷慨。

一 米沢 君公は上手者。藩士、慷慨。

一 庄内 一藩挙げて水戸を信仰。

一 土浦 水戸信仰。

一 川越 君臣の間は大いに良し。政事よし。

一 加賀 可もなく不可もなし

一 越前 武備が完全に備わっている。

一 尾張 現在の君公は贅沢好き。家中は怠惰。遊興にふける。

一 津 君公は短気という。「藩士ヲ事トス」(※意味不明)。

一 紀州 藩士は威張り散らすことと、用金(商人らから臨時に取り立てる金)を取ることを務めとす。

一 彦根 家藩、文武もなく、茶事・猿楽を能くす。

一 弘前 君公よし。

[以上は、重胤という和学者が書いたとのこと]

また落首に曰く。

身は堅し腹は大きく武は強く

        是三徳の会津らふそく(※三徳には燭台という意味のほか、人または君主として守るべき三つの徳目という意味もある。ろうそくは会津の特産品。質実堅固で度量が大きく、武も強いとして、京都守護職となった松平容保および会津藩士たちを褒め称えている)

よごれたる浮名も今は洗ひけり

        清き水野の和泉川には(※文久二年二月に老中となった水野和泉守忠精(ただきよ)のこと。忠精の父・忠邦は天保の改革の失敗により失脚している)。

悪人の根を田安とは名のみにて

        今はとう正二位て引込(※田安徳川家の第五代・八代当主の徳川慶頼のこと。慶頼は文久二年五月に将軍後見職を解任されたが、それまでの功績により正二位に昇進した。「今はとう」は今は早くもという意味か)。

大かたのもえる萌黄のかたはみも

        いつか顔さへ青さめぬらん(※萌黄のかたはみが誰を指すのかわからない)

都にはいかに大きなさつまいも

        九条てさへもあきれはてけり(※さつまいもはいうまでもなく薩摩藩のこと。九条とは公武合体派の公家・九条尚忠のこと。尊攘派の糾弾を受けて文久二年六月、岩倉具視らとともに落飾・重慎に処せられた)

泡盛を年の若狭に飲みすごし

        途方にくれて御所司千萬(※泡盛が薩摩藩、若狭が京都守護職の松平若狭守容保だと見当がつくが、御所司千萬が意味不明)

下々の難儀を知らぬ久世ものは

        京へとりはしびれきらさん(※久世は安藤信正とともに老中を罷免された久世広周のこと。久世もの=くせ者。下段は意味不明)。

何を九条/\川ばたやなぎ

        水戸の流れを見てくらす(※九条/\=くよくよ。公武合体派の公家にとって水戸藩の存在感はそれだけ大きかったということか)

保古飛呂比 巻九 文久二年九月から同年十二月まで

文久二年壬戌 高行 三十三歳

 九月

[参考]

一 この月三日、米ロ英仏の「四州盟約書」と称するものの和訳、左の通り。(※魚住注。一読すればわかるが、これは攘夷派が作ったニセ文書だろう)

我ら各国は昔から日本国を属国にしようと企んできたが、日本は我らの紀元(国の歴史のはじまり)より諸国から独立して他と交わらなかった。そのうえ日本は勇壮さにおいて世界で右に出る国がないといわれたので、心底に恐怖の心がなかったわけでない。ところが近年、米国が先駆けとなって文書で和親を求め、威圧して交易を謀(たばか)ったところ、日本は恐れおののいて交易を許諾した。このことから察すると、日本の柔弱さは清国よりはるかに劣り、何年も交易交渉を遅らせたのが悔やまれるほどだ。日本の知恵のなさも明らかで、赤児をだますようなものだった。こうしたことから、遠望が成就する日は近いと思う。日本が八港に商館を開けば、国法で国民が外国人に近づけないよう厳しく規制するだろう。(外国人が商館の外に)出歩く範囲も数里以内に限るにちがいない。八港のほかは漂流滞船(漂流船の一時滞在)を許すことになる。その場合、日本は費用を惜しまぬと誓約しているので、滞船が数日に及んでも、愚昧な役人は見過ごすにちがいない。

これは我らが大いに幸いとするところだ。商館に滞在したなら、近辺の商家に法外な利潤を得させ、農民にはしばしば(諸国の)租税が薄いことを説き、愚民には我が教法(キリスト教)を説諭すべきだ。さらには、風波にまかせ、漂流と称して、数船が八港に集港し、臨機応変、兵庫より軍勢が出発して京都に入れば、王都を掌握するのは手のひらを握るよりたやすい。同時に神奈川より蜂起して江戸を襲えば、東西が逃げ惑って、戦の主導権を握るに至るだろう。このとき下田・浦賀の(米ロ英仏の)兵は東西の遊軍たるべし。新潟の商館は、北越の運送を妨げ、箱館もまたこれに同じく、奥羽両国の食糧を動かせないようにすべきである。こうなれば必勝間違いなし。つらつら、こうなった理由を考えるに、これは米国の知恵によるものと言うべきだろう。はじめに(日本側に)書をわたし、次に交易を求めるのに信義をもって交渉し、(交易を)許諾させたのは、諸国中の功労第一とすべきだ。書翰のやりとりの早い遅いによって(相手国の)強弱を知るのは絶妙のやり口である。返事の手紙の拙い文章で言行の不一致や、愚劣さを察することもできる。速やかに計画が実現したら、「入貢米穀」(※字義通りなら貢ぎ物として米穀を受け入れることを指すはずだが、この場合はどう解釈したらいいのかよくわからない)を第一とすべきである。下田より東は米国が支配下に置くべし。下田以西は兵庫に限ってロシア領とし、兵庫以西は仏英両国の領地たるべし。この点については間違いがあってはいけない。盟約の文書は右の通りである。

[参考]

一 九月四日、豊範公(太守さま)の上京記に曰く。

今日、坊城大納言殿より家来一人をよこすよう言ってきたので、すぐに(家老の)山内下総が参上したところ、左の通り、勅命を受けた。

松平土佐守(豊範)こと、先だって急に京都滞在を命じられたのをお受けしたことについて(天子は)満足されている。しかし、(豊範が)若年であることを考慮しない命令であったため、(豊範が)深く心を痛めていることをお聞きになり、どうにも仕方のないことだと思し召された。そこで、土佐守は江戸に行ってさらに(公武の)周旋に励み、父親の容堂は年配で、天子直近の警衛に格別ふさわしいとお考えなので、早々に上京し、父子が交替するようにしてもらいたいと考えておられる。そのように天子が仰った。

九月

右の通り言い渡され、すぐ山内下総が帰ってきた。我らは拝承のうえ、この勅命に対する御礼、そして勅命をお受けするという返事を伝えるため、伝奏衆(注①)・議奏衆(注②)のところへ下総が参上した。京都留守居の森下又平が案内した。すなわち左の通り。

今日、私へ言い渡された勅命の趣旨は、土佐守に伝え、土佐守はありがたく謹み承りました。容堂へも拝承させるつもりですが、まず御礼とお受けのご返事を伝えるため、恐れながら私が参殿いたしました。以上。

九月四日 松平土佐守家来

山内下総

江戸表へ「取次物頭場ヲ以」(※取次物頭場がどういう職務だかわからない)、朝比奈吉郎を使者として(差し向ける)。道中四日かかる見込みで派遣する。

ご隠居さま(容堂)へ勅命の写しを差し上げる。そして、自翰(自分が書いた手紙)を出して、勅命を受けたことをご吹聴申し上げる。

(江戸屋敷の)▢▢役留守居どもへ書状を出してこのことを告げ知らせる。

幕府への届けを抜かりなく手配するよう申しつける。

取次物頭場

朝比奈吉郎

このたび勅命を受けたため、右の者を使者として江戸表に派遣するに際し、居間へ召し出し、近習家老が(太守さまに)紹介した。それへと申し聞かせると(朝比奈は)座を進めた。近習家老は、今般勅命を受けたのでご隠居様へご報告申し上げる口上等を遺漏なく行うようにと言って、朝比奈を太守さまに取り次いだ。すると、太守さまは道中息災に行くようにと仰り、その後、近習家老が取り次いで(朝比奈を)退室させた。

朝比奈吉郎を(使者として)派遣するに際して一筆申し入れます。先ずもって「其御地御平均」(※意味がよくわからない)。「ご隠居様、ますますご機嫌良くあそばされ、そのほかどなたさまにもご安全であられ、国許においても少将さま(第十二代藩主・豊資のこと)はじめますますご機嫌良くあられ、そのほかどなたも無事であられるようで、欣然の至りでございます。[八月十三日参照]

【注①。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、伝奏(てんそう)は「親王家,摂家,寺社,武家などの奏請を院,天皇に伝え奏する職。院の伝奏は白河天皇の院政とともに,天皇の伝奏は建武中興の際に始ったといわれる。寺社伝奏,神宮伝奏もあったが,武家伝奏は特に重要で,室町幕府の創立のとき始り,江戸幕府では慶長8 (1603) 年以来公家2人が任じられて朝幕間の連絡にあたり,慶応3 (1867) 年廃止された。」】

【注②。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、議奏(ぎそう)は「鎌倉,江戸時代の朝廷における官職。両時代を通じていずれも鎌倉,江戸幕府が,それぞれ朝廷の意向を間接に統御するため設置したもので,常に天皇に近侍して勅宣を公卿に伝達し,または上奏を天皇に取次ぎ,また重要政務を合議した。幕府の奏請によって設置され,親幕的な公卿が任じられている。鎌倉時代には右大臣藤原兼実など,江戸時代には大納言転法輪実通などがある」】

一 九月五日、深尾鼎[重惇]が奉行職を仰せつけられる。

右の深尾氏は、家老中の上席であって、勤王家から将来を嘱望されたが、事情があって蟄居を命じられていた。その人がこんど執政に登用された。大いに期待できるとひそかに喜ぶ。

一 同六日、小原與一郎が京都より帰着した。

[参考]

一 同八日、豊範公上京記に曰く。

同日、国許へ注進のため歩行使(書状などを運ぶ徒歩の飛脚)を遣わす。

ただし、道中四日がかりで行くよう申しつける。

少将さまにお手紙を出して(勅命のことを)吹聴する。

勅命の写しを(少将さまに)差し上げる。そのほか一門(藩主一族)中には側用役どもより書状をだして吹聴するよう言いつける。

右につき、奉行どもへ書状をだして告げ知らせる。そして藤並大明神ならびに眞如寺に祀られた歴代藩主さまに代拝するよう申しつける。

歩行使によって一筆申し入れます。先ずもって「其地静穏」(※国許や江戸藩邸の無事平穏を意味する言葉か)、少将さまはじめますますご機嫌よくあそばされ、そのほかの方も揃って無事のことと存じます。江戸においてもご隠居様ますますご機嫌よくあそばされ、かつ、どなた様もご安全であられ、欣然の至りでございます。[四月十三日参照]

一 九月九日、平井善之丞(注③)を訪ねる

(平井)翁の内々の話に、なにぶん要路の人間に時勢に目を注ぐ者がおらず、まことに遺憾である。京都の情勢もなかなか難しく、苦心万々である。とかく門地家は因循で太平の夢がさめず、また郷士以下は過激派が多くて色々申し立てをする。藩庁の中でも猜疑が甚だしく、前途がどうなるか見通しがつかぬと、すこぶる憂色あり。その談話中、小原與一郎が京都より帰国したといって訪ねてきたので、そのまま暇乞いして帰る。

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、平井善之丞( ひらい-ぜんのじょう1803-1865)は「江戸時代後期の武士。享和3年生まれ。土佐高知藩士。13代藩主山内豊煕(とよてる)のもとで大目付となり藩政刷新にのりだしたが,保守派の反対で失脚した。尊王をとなえ,15代藩主山内豊信(とよしげ)の参政吉田東洋と対立。文久2年(1862)東洋の暗殺後,大監察となったが,豊信の勤王党弾圧により免職。慶応元年5月11日死去。63歳。名は政実。」】

[参考]

一 九月十三日、豊範公上京記に曰く。

江戸表において九月十三日、御用番の老中・松平豊前守殿(松平信義(注④))へ(土佐藩)留守居の小泉務左衛門が左の届書を持参し、(豊前守の)用人を介して差し出したところ、ひとまず預かり置くとのことだった。届書の内容は次の通り。

先だってお届けしましたように、私は叡慮により京都滞在しておりましたところ、坊城大納言殿より家来をよこすようにと言って来られました。本日、家老の山内下総を差し向けたところ、別紙写しの通り書面で叡慮を伝えられたのでお受けし、かつ、容堂へ早々にお伝えする旨を申し上げておきました。そのことをとりあえずお届けします。以上。

九月四日 松平土佐守

[別紙は省略した]

右についてご隠居様より出された届け書は左の通り。

松平土佐守より委細をお届けしたように、このたび叡慮の趣を拝承しましたので、そのことをお届けします。

以上。

九月十三日 松平容堂

右につき、御用番の松平豊前守殿へ、左の伺い書を(小泉)務左衛門が持参し、用人と面会した上で差し出す。

別紙のように土佐守よりこのたびお届けした叡慮についてですが、ご当地(江戸)において、特別に隠居容堂に対しお命じになることもおありでしょうか。このこと、是が非でも(幕府の)お考えを内々で伺わせていただきたく存じます。以上。

九月十三日 松平土佐守内

小泉務左衛門

[四月八日参照]

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、松平信義(まつだいら-のぶよし。1822-1866)は「幕末の大名。文政5年2月8日生まれ。松平庸煕の長男。松平信豪(のぶひで)の養子となり,天保(てんぽう)14年丹波亀山藩(京都府)藩主松平(形原(かたのはら))家7代。奏者番,寺社奉行,大坂城代をへて,万延元年老中となり,外国御用取扱として生麦(なまむぎ)事件などの処理にあたった。慶応2年1月29日死去。45歳。初名は信篤。通称は友三郎。豊前守(ぶぜんのかみ)」】

一 九月十三日、(高行が)文武調べ役および小目付兼任に役号替えを仰せつけられる。

ただし文武頭取は尾崎要、自分と同役は馬場源馬[辰猪の祖父]、千頭槇之進[千頭は清臣の父である]、飯沼権之進、森四郎。

一 同十四日、俊貞院さまが亡くなられた。

[参考]

一 同十五日、朝廷が大原左衛門督(大原重徳のこと。(注⑤))を賞す。

直衣(のうし。注➅)を聴(ゆる)す。 大原左衛門督

今度、天子の意向を受け、幕府との対話が再三繰り返され、幕府が天子のみことのりを遵奉したことについて(大原は)忠勤抜群、その功は少なくなかった。これを褒賞して直衣の着用をゆるし、直衣で朝廷に参上するよう命じられた。もっともこれを後例とすべからず。

【注⑤。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、大原重徳(おおはらしげとみ。[生]享和1(1801).10.16. 京都[没]1879.4.1. 東京)は「幕末の攘夷派公家。日米修好通商条約調印 (→安政五ヵ国条約 ) の勅許を得ようとする江戸幕府に対抗し,新進公家とともに調印不許可を朝廷に強く進言 (→安政の大獄 ) 。文久2 (1862) 年,幕府に政治改革を要求する勅使となって薩摩藩兵守護のもとに江戸へおもむいた。翌3年2月,罰を受けて辞官,髪を落し,蟄居。元治1 (64) 年罪を許され,慶応3 (67) 年参議となり,明治新政府が樹立されると参与,刑法官知事,集議院長官を歴任。」】

【注➅。世界大百科事典 第2版によると、直衣(のうし)は「公家の衣服の一種。天皇,皇太子,親王,公卿が日常着として用いた。袍(ほう)の一種にあたる縫腋袍(ほうえきのほう)であるが,位階によって色が決められた位袍ではないため雑袍(ざつぽう)といわれた。直衣を着る装束の構成は衣冠とほぼ同じで,烏帽子(えぼし)に直衣,衵(あこめ),単(ひとえ),指貫(さしぬき)で,冬に檜扇(ひおうぎ),夏に蝙蝠(かわほり)扇を手にした。平安時代後期になると雑袍の勅許といって,直衣宣下を受け天皇の許可を得て公卿とその子息も直衣で参朝できるようになり,そのときは烏帽子の代りに冠をかぶった。」】

一 同十五日、公方さまの御事、来年二月中に上洛すると仰せられた。

[参考]

一 同十六日、容堂公が(江戸城に)登城した。老中が将軍の命令を(容堂公に)伝えた。左の通り。

松平容堂

(将軍は)来年二月、上洛されるので、来早春、(将軍より)先に上京し、お待ち受け申し上げるようお命じになった。

同日、別に幕府の命令があった。左の通り。

松平容堂

来早春に上京するよう仰せつけられたが、(政事総裁の松平)春嶽も早春に上京するよう仰せつけられたので、同時に京都着の心積もりでいるように。春嶽は蒸気船で行くため、その方には大船を貸与するのでそのつもりでいるように。

[参考]

一 九月十七日、ご隠居様が朝廷より左の通り命じられた。

松平容堂、(朝廷から)上京を仰せつけられたが、勅使下向(江戸派遣)の件がもちあがったので、(容堂の江戸)出発はしばらく見合わせ、勅使が下向した後、(朝廷が)指図したら早々に上京いたすべきこと。

右につき、二十九日、江戸表において御用番の老中に受諾書を出した。

一 同二十五日、大監察の横山覚馬、小監察の手島八助、同乾作七が上京。

横山は国学者であるが、やはり佐幕家である。手島は少し漢学(の教養)があるけれども迂闊な人である。乾は兵学者であるけれども俗気あり。もっとも手島・乾は佐幕ではなく、因循な勤王家である。[横山は親類。手島、乾の両人は友人である]。しかしながら、いずれも望みは乏しい方である。

[参考]

一 九月二十八日、京都にて、武家伝奏の坊城卿より、在京の重役の者を呼んで、次のようなご指示があった。

このたび関東(幕府のこと)へ勅使を下されるので、松平土佐守においては同様に出府(江戸に行くこと)し、なおまた叡旨(天子の意向)を貫徹するため周旋するようにされたいとの思し召しであることを通知する。

この件で大目付の小南五郎右衛門が参上し、夜に入って帰ってきた。その翌日、御礼を申し上げるため、坊城家ならびに議奏衆へ五郎右衛門が廻勤した。そのときの御礼書は次の通り。

昨日、私へお言いつけになった勅命の趣旨を土佐守へ伝えましたところ、ありがたく、謹んで承りました。そのことの御礼と、お受けしたことのご報告のため、恐れながら私が参殿しました。以上。

九月二十九日 小南五郎右衛門

十月

一 この月朔日、小監察の小原與一郎が上京。同人は先だって帰国し、再び上京した。

小原は正義家である。土佐藩の幹部たちは因循で猜疑心が強く、国許・京都ともに時勢を知らず、もっぱら軽格(の者たち)の跋扈を憎んでいる。一方、武市派は頻りに暴論を唱えている。(小原は)その中間に立って大いに苦心しているという。平井善之丞より聞く。

一 同四日、参政の小八木五兵衛が帰国。

小八木は佐幕家の巨魁である。今夏以来、太守さまのお供をし、小南氏らには反対なので、勤王家よりは攻撃され、大不平とのことである。それで、このたび帰国したので、佐幕家は力を得、勤王家の正義連はますます困難な地位に立つだろう。

一 同五日、太守さまが参内され、龍顔(天子のお顔)を拝まれた。天杯を頂戴し、(その一方で太守さまが)品々を献上した。

この参内の際、長州(の藩主)は立ち居振る舞いが不出来で、此方さま(太守さまのこと)は首尾がよかったとの評判だったという。太守さまは景翁さま(第十二代藩主・豊資のこと)のお仕込みだから、ご礼式等は定めしご都合がよろしかったのだろう。

この件について松井氏の筆記に曰く。

先だって以来、京都滞在とご警衛を仰せつけられ、ことに今度は(江戸)出府をも申しつけられ、格別のご配慮で来たる五日に参内を仰せつけられた。

十月五日、巳の刻(午前十時ごろ)にご参内、(太守さまは)御衣冠(注⑦)

禁裏御所へ 御太刀御馬代(として)黄金十枚

親王さまへ 御太刀御馬代 黄金五枚

准后さま(注⑧)へ 白銀百枚、鯣(するめ)一箱

敏宮さま(注⑨)へ 白銀五十枚、鯣一箱

関白さまへ 御馬代 黄金一枚

紗錂(注⑩)十巻代 銀三十枚

議奏方へ 御馬代 銀二十枚

出役雑掌へ 金五百疋ずつ

御申付 銀三枚

御手長(注⑪) 銀三枚

別段銀二枚

禁中の女中(注⑫)へ

大典侍お局へ 銀十五枚

新大典侍お局へ 同断

長橋お局へ 銀三十枚

大御乳人へ 銀十五枚

駿河へ 同七枚

右京大夫

江坂 同五枚ずつ

磯浦

親王さまの女中へ

高松お局 銀七枚

御乳人 同断

准后さまの女中へ

於八百御方 銀七枚

於五百御方 同断

於喜久御方 同断

御乳人 同断

藤坂 同五枚

御世話非蔵人(宮中の雑用人)

両人へ 銀七枚ずつ

出向非蔵人

両人へ 金二百疋ずつ

そのほか非蔵人がいれば銀三枚ずつ

御用掛執次

禁裏御所 銀三枚

准后さま 同一枚

敏宮さま 同一枚

親王さま 同一枚

同取次中 同二枚

禁裏御所四人へ 七百疋

下役七人へ 五百疋

親王さま 五百疋

下役へ 三百疋

准后さま 五百疋

下役へ 三百疋

関白さまの諸大夫へはお心持ち次第。

ただし「定御番組與力以下、六門以下」。(※意味不明)

右の通り、(太守さまが朝廷に)ご献上になった。

御所での儀式の経緯は次の通り。

一 松平土佐守が参内し、鶴の間(注⑬)に着座。

一 伝奏と会い、土佐守が自ら口上を述べる。伝奏は退出を告げ(いったん出た後)、再び入室して、(天子との)ご対面があるのを告げる。

一 小御所(注⑭)

天子がお出ましになった後、伝奏は鶴の間に行き、(土佐守を)小御所に誘導、(土佐守は)取合廊下(建物と建物をつなぐ連絡廊下)の北方に着座。

一 土佐守が自ら御礼を述べ、貫主(注⑮)が取り次ぎ、太刀折り紙を持参して中段に置く。(土佐守は)廂で竜顔(天子の顔)を拝す。

一 土佐守が中段において天杯(注⑯)を頂戴する。

一 (土佐守が)関白殿に麝香の間(注⑰)で拝する。

一 (土佐守が)鶴の間で御礼を述べ、退出。

以上。

諸事ご都合よくとり行われた。

右につき、手島氏の筆記に曰く。

十月五日、太守さまが参内された。当然ながら、甚だご満悦にあそばされ、関白はじめ(朝廷の主だったところに)廻礼を済まされ、三条さまの邸でお湯漬けを所望された。装束が窮屈ではあったが、お召し替えはせず、一里ばかり離れた大通院に帰館された。すぐに大通院さまはじめ先代のご位牌を拝まれ、お召し替えされた。これはご自身の思し召しで、近習の者よりお指図申し上げたことではない。恐悦の御事である。

右につき、諸家の筆記に曰く。

十月五日午前六時ごろ、お供の行列を引き連れて(太守さまが)参内。ひとまず三条さま(の邸)まで平常のお供ぞろいで行かれ、それより束帯に召し替えられ、重大儀式のときのお供ぞろいで午後二時ごろ参内された。午後四時ごろ、宮中を出て、それより御礼のため関白・野々宮さま・中山さま・飛鳥井さま・坊城さま・正親町さまへ廻勤を済まされた。それから三条さま(の邸)に再び入られ、夜に入って束帯のままお帰りになった。午後八時すぎ、装束姿のまま大通院で代々のご先祖さまに拝礼された。それより側近のお侍たちと酒を頂戴され、午前二時ごろ休まれた。

一 土州

君公(太守さま)当月▢日、参内、始終長州のごとし(※このころ朝廷に大きな影響力を持っていた長州の藩公のように堂々としていた、という意味か)。家老の山内下総が御縁(座敷の外部に面した側にある板敷き)まで伺候(側近くで仕えること)したとのこと。

在京家老 山内下総

応接方 小南五郎右衛門

武市半平太

平井牧次郎(※平井収二郎(注⑱)の誤記か)

【注⑦。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、衣冠(いかん)は「平安時代後期に始った男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。もと,昼装束 (ひのしょうぞく) たる束帯に対して,衣冠は宿直装束 (とのいしょうぞく) として用いられたが,のち,皇族,公家,上位の武家が参内の際に用いるようになった。冠に束帯の縫腋の袍 (ほうえきのほう) を着,指貫 (さしぬき) をはく。また石帯の代りに腰帯を締め,笏を扇に代えて下襲 (したがさね) や大口を省くので裾 (きょ) はない。近世以降は指貫の代りに指袴 (さしこ) も用いられ,神官などが神拝や儀式のとき着用する単衣冠は単を着て笏を持った。」】

【注⑧。旺文社日本史事典 三訂版によると、准后(じゅごう)は「親王・諸王・摂政・大臣・女御などを特に優遇するために与えた称号「准三后」の略。871年清和天皇が藤原良房に与えたのを初めとする。三后に準ずるの意で,最初は年官・年爵も与えられたが,のちには名のみの優遇となる。」】

【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、淑子内親王(すみこないしんのう。1829-1881)は「江戸後期-明治時代,仁孝天皇の第3皇女。文政12年1月19日生まれ。母は甘露寺妍子(きよこ)。孝明天皇の姉。天保(てんぽう)13年内親王となる。婚約者の閑院宮愛仁(かんいんのみや-なるひと)親王が死去したため,生涯独身ですごす。文久2年桂宮家11代を相続。明治14年10月3日死去。53歳。柱宮家は彼女の代でたえた。幼称は敏宮(ときのみや)。」】

【注⑩。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、紗綾(さや)は「「さあや」の約で、絹織物の一種。日本では近世から織られ、『工芸志料』によると、天正(てんしょう)年間(1573~92)京都で中国製に倣って織り出したという。組織は四枚綾(あや)からなり、菱垣(ひしがき)、稲妻、卍(まんじ)つなぎの文様を織り出した飛(とび)紗綾と、文様のない滑(なめ)紗綾とがある。綸子(りんず)とほとんど同じような糸使いであるが、地合いはこれより薄い。とくに織り出された卍つなぎの文様は紗綾形として、江戸時代には広く染織品に用いられた。[角山幸洋]」】

【注⑪。精選版 日本国語大辞典によると、御手長(お‐てなが)は「禁中などで、膳を次の間まで持って行き、給仕する人に取りついで渡すことをつかさどった者。」】

【注⑫。宮中の女官については、imidas時代劇用語指南「天皇の側室(てんのうのそくしつ)」(山本博文著)が参考になる。それによれば「天皇には多くの女官が付属しており、この女官の中に天皇の側室(正室[正妻]以外の妻)もいた。側室となれる女官の位は、典侍(すけ)、掌侍(ないし)、命婦(みょうぶ)である。典侍は7人で、羽林家(うりんけ)・名家(めいけ)の中で上の部の公家の娘である。典侍の頭が大典侍(おおすけ)で、新大典侍、権中納言典侍(ごんちゅうなごんのすけ)、宰相典侍(さいしょうのすけ)と続く。掌侍は4人で、筆頭は勾当内侍(こうとうのないし)で、長橋局(ながはしのつぼね)とも呼ばれる。長橋局は、女官の取り締まりや、外との交渉の事務一切を取り仕切り、女房奉書(にょうぼうほうしょ)も作成した。関白ですら天皇に何か奏上するときは長橋局を介するので、この地位にのぼれば、1年で1000両もの役得があったという。そのほかの掌侍は、小式部内侍(こしきぶのないし)、中将内侍(ちゅうじょうのないし)、右衛門内侍(うえもんのないし)などの名前をもらった。命婦は7人で、筆頭が伊予(いよ)、2番目が大御乳人(おおおちのひと)、以下は尾張などの国名を名前とした。命婦までは天皇の手が付くことがあり、皇子や皇女が誕生することがあった。しかし、命婦の身分では天皇から何か言われても、直接返答はできず、典侍や掌侍を介して返答したという。これら女官は、朝廷の役職でもあり、天皇の側室でもあった。いうなれば、「役目」として天皇の側室を勤めたともいえる。」】

【注⑬。鶴の間は、正式の用で参内した者の控えの間の一つ。身分に応じて三つの部屋があり、諸大夫の間=桜の間、殿上人の間=鶴の間、公卿の間=虎の間となっている】

【注⑭。精選版日本国語大辞典によると、小御所(こごしょ)は「清涼殿の東北にあり、母屋は上中下段につくられた書院造り。幕府の使者や所司代との対面などに用いられた。前面に庭園があった。その創始は未詳。近年の御殿は昭和二九年(一九五四)焼失した。」】

【注⑮。貫主は蔵人頭(くろうどのとう)のことか。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、蔵人頭は蔵人所の長官。この上に別当がおかれたが,大臣の兼任であったので,蔵人頭が常に天皇の側近にはべり,勅命の伝達,上奏の取次ぎを行い,殿上人の指揮監督にあたった。定員は2名で,四位の殿上人から選ばれた。弁官から1人 (頭弁) ,近衛中将から1人 (頭中将) が補任されるのが例であった。」】

【注⑯。天盃(てんぱい)は精選版 日本国語大辞典によると「天皇から賜わる酒杯。恩賜の杯。天皇に代わって内侍が酌をして、その杯から別の土器に酒を移して飲むのが礼であった」】

【注⑰。精選版 日本国語大辞典によると、麝香の間(じゃこうのま)は「京都御所内の部屋の一つ。小御所の廊下の左にあり、将軍入朝の際、ここに祗候するのを例とした。」】

【注⑱。朝日日本歴史人物事典によると、平井収二郎(没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保7(1836))は「幕末の土佐(高知)藩士,勤王運動家。幼名幾馬,通称収二郎,本名義比。文武を修め,特に史書に通じた。文久1(1861)年,土佐勤王党結成に参画し幹部となる。2年,藩論は尊王攘夷に傾き,藩主山内豊範を擁して京都に押し出した。時に諸藩の勤王運動家が続々上洛,薩長土3藩の運動が群を抜いた。収二郎は,小南五郎衛門,武市瑞山らと他藩応接役を勤め,別勅使三条実美東下の際は京都にとどまり,薩長両藩の軋轢緩和などに奔走。しかし,勤王党が構想する藩政運営方針を藩庁が容れないのを憂慮,間崎滄浪,弘瀬健太らと中川宮朝彦親王の令旨を獲得,大隠居豊資を擁立する改革推進を工作した。これが隠居山内容堂(豊信)の逆鱗に触れ,3年6月,切腹の刑に処せられた。(福地惇)」】

(続。今回も難渋しました。とくに朝廷や藩邸での儀式についてはわからないことが多く、とんでもない間違いをしているかもしれません。ご容赦ください)