わき道をゆく第214回 現代語訳・保古飛呂比 その㊳

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一 (文久二年)十月九日、小南五郎右衛門が東行(太守さまの江戸行き)の先払いとして京都を発足したとのこと。

[参考]

一 同十日、太守さまの東行に関して宿問屋に贈った文書は左の通り。

一 馬五十九匹

一 人足百二十人ばかり

松平土佐守殿が禁裏の御用を命じられて関東へ下向するため、明十一日、京都を発駕(駕籠に乗って出発すること)される。伊勢路・東海道を通られるので、沿道の宿々に差し支えがないよう、手配してもらいたい。以上。

戌年(文久二年)十月十日 土佐 大谷幸七

武市元之丞

大津より品川宿まで

宿々の問屋御役人中。

一 十月十一日、太守さまが京都発駕。

このたび勅使三条・姉小路両卿が関東に下向されるが、その警衛のためである。もっとも、勅使は明十二日に出発され、(太守さま一行は)それに先発するとのこと。

また明十二日、攘夷決定の勅使が関東に向かうため、御当家さま(太守さま)が同十一日、発駕された。その当日、坊城家より次の叡旨(天子の意向)が伝えられた。

勅使が下向するので、関東において父容堂に相談のうえ、叡旨が実現するよう、さらに周旋してもらいたい。その旨のご指示があった。

[参考]

一 同十二日、朝廷より容堂公に命じたことは左の通り。

松平容堂はいったん上京を仰せつけられたものの、勅使が下向することになったので、出立の予定を見合わせ、勅使下向の後、指図があり次第、早々に上京するよう、さる九月にご指示があった。いよいよ今月十二日に勅使が出発するので、容堂はなお江戸にあって叡旨を貫徹するため周旋してもらいたいという思し召しである。以上を沙汰する。

一 十月十二日、三条・姉小路両卿が勅使として江戸に向かう。そのときの勅書の写し。

攘夷の念で先年から今日に至るまで日夜絶えず胸を痛めている。柳営(幕府のこと)においては追々改革が行われて新政を施し、我が心を慰めようとしていることに満足している。しかしながら、天下は攘夷でまとまっておらず、人心一致に至るのが難しい状況のようだ。人心の不一致が内乱につながるのを恐れる。早く攘夷を決めて大小名に布告するよう。そうした策略を実行するのは武臣の職掌である。速やかに衆議を尽くし、良策を定め、醜夷(野蛮な外国人)を拒絶すべし。これは朕の意である。

またこれとは別に、

攘夷について(天子が)先年来示された叡慮は今も変わっていない。柳営では追々改革が行われ、新政を施行し、叡旨を遵奉するようになったので(天子は)喜んでおられる。しかしながら、天下の人民の意思が攘夷で統一されていなければ、人心一致にも至りがたく、かつ、内乱の恐れもあるのではと叡慮を悩ませておられる。それゆえ柳営においてもいよいよ攘夷に決定し、速やかに諸大名に布告してもらいたい。もっとも、具体的な策略をたてるのは武将の職掌であるから、早速衆議を尽くし、至当の公論に決定し、醜夷拒絶の期限も議論して奏聞(天子に申し上げること)するように。以上を沙汰する。

またこれとは別に、

このたび攘夷の方針が決定され、天下へ布告されたが、外夷がいつ海岸を劫掠(脅して奪い取ること)し、畿内に侵入してくるかもわからないので、皇居の守りを厳重に命じようと思し召された。しかし、海に面した藩はそれぞれの防禦があり、海岸から離れた諸藩は救援の手当て等をしなければならぬ。そのため、辺鄙なところから畿内に警衛要員を差し出したりすると自然不行き届きなことも出てくるであろう。かつ、自藩の兵備が手薄になり、国力の疲弊にもつながるので、京都守護の件については、御親兵とも称すべき警衛の部隊を置かないと、まことに宸襟を安んじることはできない。このため、諸藩より身体能力に優れ、忠勇の気にあふれた者たちを選りすぐり、時勢に従って旧典(古い制度)を参考にしながら、御親兵とされたいとの思し召しである。この御親兵を置くについては武器・食料等もこれに準じるので、これまた諸藩へ命じられ、石高相応の貢献をするようにされたい。

ただし、これらの件は制度にもかかわることなので、幕府で取り調べたうえで諸藩へ伝達するようにというご指示があった。

もっとも、目下の急務なので、早速評定にとりかかるようにという御沙汰である。

[参考]

一 小原氏の随筆に左の通り。

十三日、彦根藩の神崎・蒲生の二郡が(幕府に)召し上げられるというので世の中が騒然としている。このため長州が現地情勢を探索し、報告した文書あり。まずしばらくは変わったことはなかろうと横山氏等は話しているが、下横目を現地に派遣するはず。

十四日、(下横目の)良作・民五郎の両人が彦根に向けて出立した。長州の片山官一郎が、彦根のこちら側の八幡村に住む西川善六という正義のひとを頼って潜伏しているので、その人のところに行くはず。仏光寺の従者の中島栄七という人の書状をもってそこへ行くのである。この栄七の名前は誰にも他言しないでくれと良作に頼まれたので、横山・牛島等にも言っていない。このたびの様子を聞くと、彦根城下は他藩の人間を寄せ付けないとのことで二人とも心配だ。現地の模様を伝える報告が求められているので、どのようなことにも耐えて事情を探るべし。もし警戒が厳しくて探るのが難しければ、ひとまず帰ってこいとよくよく言い聞かせておいた。

【注①。彦根藩は文久二年、井伊直弼(元大老で彦根藩主。安政六年の桜田門外の変で暗殺された)の政治責任を問われ、幕府から十万石の減封処分を受けている。おそらく神崎・蒲生の二郡領地召し上げはそのことを指しているものと思われる。

彦根藩と土佐藩の関係について高行が『佐佐木老侯昔日談』で語っているので、それを引用しておく。「彦根藩は、井伊大老が遣り過ぎた為に、各藩の怨嗟を招いて居る。我が藩でも、容堂公が戊午の獄に罰せられて以来、藩内一般に感情を害して居る。處が時勢一転して、其の敵とせし一橋侯、越前侯、容堂公などが、最早幕政の権を握り、また京都に於ては、勤王家が全盛を極める様になつたから、彦根藩は、四面楚歌、逆境に沈淪して居る。勿論朝幕よりは不信任である。三家老は蟄居、例の長野義言は屠腹させられ、京都の守衛は解かれる。藩内は随分モメて居る様だ。何ういふ都合か知らぬが、彦根藩でも、朝廷に対し奉りては、殊更に心配したものと見え、閏八月家老岡本半助外数十名の有志者が入京して、三條家に行つて、家臣森寺長門に『時勢とは云へ、前掃部頭はしかじかの罪科があるが、最早致方がない。如何様とも御取成を以て朝廷向宜敷御周旋を御願ひ申す。』と嘆願した。小南は殆ど三條家の顧問であるから、森寺から相談すると、小南は大に憤つて、故主の旧悪を摘発する不忠の仕方、其の意を得ずと、一言の下に郤けた。成程家老等のやり方も宜しくないが、小南も矢張戊午の事が腹に在つたから、一層激しくやつたのであらう。其の中十月になつて、愈々同藩が減石されるといふ報が伝はつて、藩内の人士激昂して、大に沸騰して来た。此度の事は、幕府よりの命とはいへ、三藩殊に土佐あたりからやつた事に違ひない。この仇を報ぜずには置かぬと、大騒ぎであるといふ事を長州の探索役から、在京の藩中へ報じて来た。其の時大鑑察横山覚馬、小鑑察手島八助、小原與一郎が居合せたが、さういふ譯なら、兎も角事情偵察の必要があるといふので、小原は両人に相談せずに、独断で以て、下横目の良作、民五郎を彦根に遣はした。八幡の西川善六の處に長州の片山官一郎が潜伏して居るので、佛光寺の中島栄七の紹介で其處へ行く筈なのだ。横山は自分の曾祖母の実家で、鹿持の高弟であるけれども、小八木と同種の佐幕家であるから、始の中こそ、自分も親しく交際したが、此頃は殆ど往来も杜絶し居る位、夫やこれやで、小原も別に相談しなかつたのでもあらうか。いや夫は、藩の歩調が一致して居らないで、自分々々に勝手に仕事をして居つたからだ。尤も佐幕は佐幕、勤王家は勤王家で、同類相依つたのは勿論である。當時薩長土と称して、土佐も立派に勤王に見ゆるが、事実はさうではない。種々に分裂して、上士の多数や、留守居役などいふ者は、全くの俗論家だ。

さて良作等は八幡迄行つたけれども、八幡は天領である。更に彦根迄行かうとするにも、他藩人は一人も城下に寄せ付けぬといふ意気込で、厳重に警戒して居るので、致方なく善六の家に居る同志数輩に依頼して、彦根の事情を探索して貰つて、同二十二日に帰京した。何でも意外に猛烈であつたさうだ。處が翌十一月、同藩士が老中井上正直の屋敷で自殺したといふ事で、我藩でも一層警戒を加へた。且つ同藩の亡命者多く益々不穏となつたので、藩からは谷守部[干城子爵]と林亀吉を更に偵察にやつた。この事については、谷子爵が能く知つて居らるゝ。何でも君侯が近江を通過された時は、殊更に警固を厳重にしたといふ事だ。其の後幸に両藩の間に行違もなかつたが、我藩では、同藩と云へば何となく蔑視するといふ傾はあるものゝ、常に注視して、永く其の間は融和されなかつた」。】

一 十月十五日、早朝、小畑兄弟[孫二郎、三弟の川田乙四郎、四弟の小畑五郎馬]が(高行の自宅に)来て、今日、藩庁の許可を得て江戸表に行くので、急ぎお暇乞いに参りましたと言った。[(彼らが)かねてより武市半平太の連中と申し合わせ、時勢切迫のため、太守さまとご隠居様の警衛要員として出府する話があるというのを(高行は)ひそかに聞いてはいたが、今日出発するということまでは知らなかった]。このため同行の面々を尋ねたところ、同志がおよそ五、六十名という。立ったままで餞別を渡し、送り出した。

一 同夜、平井善之丞宅を訪ねた。

右の小畑兄弟の件について尋ねたところ、平井氏もことのほか心配の様子だった。(小原たちは)藩庁にいちおう願いは出しても、許可を得ないまま出発する計画だったが、それだと後で問題になるだろうから、ようやく(藩庁の許可を得て)願い済みになるよう取り計らったとのこと。今日の藩の情勢はまことに難しく、砲声が一発起きれば、門地も崩れ、俗論も挫けてしまうけれども、なかなかそういう訳にはいかないと、今後の事をいろいろ相談して帰った。平井の苦心ももっとものことで、いまの藩の要路を占めるのはおよそ次の人々である。

参政 小八木五兵衛 同 若尾直馬

同 寺田左右馬

大目付 平井善之丞 同 柏原内蔵馬

同 板坂市右衛門

右のうち、勤王家は平井ひとり。もっとも柏原は正直な人物だから正論には同意するだろうが、なにぶん勤王家は粗暴過激のきらいがいろいろある。第一に、吉田(東洋)参政を暗殺し、自首せず脱走し、吉田を倒した勢いに乗じて藩政府に迫り、吉田派は失脚した。しかしながら、その後釜の要路に登った人たちのなかで正義家は小南・平井の両人で、その他は、吉田の専横を忌み憎んでいた面々で、すなわち小八木・寺田・若尾・板坂等である。そのほか君主側近の幹部も同様だ。先ごろ太守さまにお供した面々を見ても、武市半平太の人望が大きく、他藩の人間にも人望があり、また郷士以下の多数はみな武市の同志者である。(君主側近の)要路ではひとり小南の威勢が盛んなため、お供の要路の面々も嫉妬したらしい。そのうえ吉田(東洋)は老公(容堂)の御愛臣で、それゆえ特に要路に重用されていたのに、武市派に暗殺された。また京都においても武市派の軽格どもによる身分不相応の振る舞いがあったりした。また、この頃、願い捨て同様に、大勢が同盟してにわかに江戸表に行くなど佐幕の門地家に十分の口実を与えている。それなのに(太守さまの)お供先では小南、国許では平井の二人だけで、はなはだ恐るべき形勢ゆえ、平井も大いに憂慮している。そもそもこのように勤王家[郷士・徒士・足軽・庄屋等で、少し気力ある者は、いずれも武市派でない者はいない。士格にはごくわずかである]が過激になったのは、武市が江戸より帰国して頻りに勤王論を唱え、吉田をはじめとした要路にも意見を陳述したけれども容れられなかっただけでなく、かえって愚視され、京都(朝廷)は頼りにならぬとして問題にされなかった。士格のなかには吉田派のほかは、吉田を忌み嫌う人は多くいたけれども、その人たちは軽格を軽蔑してあえて意に留めなかった。しかし郷士以下はこれまで長年にわたって士格から圧迫された。それでも太平無事なときは屈服して頭を上げることができなかったが、癸丑(安政六年)の「メリケン」船渡来より、時勢が一変した。そういうときでも、とかく士格は因循姑息に流れたが、軽格・足軽等は文武を勉強し、士格に対して自然、昔と違い、抵抗の兆しがあった。すでに去る文久元年、井口村で山田廣衛の事件(前出)のようなことがあった。そのほかにも小事件があって士格が軽格から軽蔑される勢いがあった。そのため士格よりも、昔日の如く圧迫しようとして、相互に威勢を張ろうとした。かの飛ぶ鳥を落とす勢いの吉田を暗殺してから、(軽格には)ますます跋扈の勢いがあったが、武市は謹直の人物であるから、よく暴発を防いでいるように見えた。しかし(太守さまの)上京にお供する面々、また国許に残る面々も、とかく末流は過激で、藩政府を脅迫する動きがあった。このたびの五、六十名の者たちが願い捨て同様に江戸出府したことなどは佐幕家など古格を守る輩よりは大いに嫌悪したものである。ひとり平井氏がその間にあってほどよく周旋しているように見える。

右の五十人組(が藩庁に出した)願い書は左の通り。

恐れながらこのたび、叡慮による関東(幕府)の御規律一新の折から、畏れおおくも容堂さまが重き勅命を受けて諸事の周旋をなされること、御当家の面目は申し上げるに及ばず、国家の大幸、これに過ぎるものはなく、私ども一同ありがたく感激しております。さりながら、大名(大きな名誉)の下に長く身を置くのは難しく、大功(大きな功績)のあるところは衆怨(多くの人々の怨み)の帰すところであって、古今にその例は少なくありません。すでにこのたび諸大名の参勤「格別御▢」(※欠字のためそのまま引用。文久二年の参勤交代制度緩和を指す)により、万端が簡約化の方向に向かったことは、まことに希代の英断であり、富国強兵の基礎はここに築かれるものと、心ある者はみな小躍りして喜んでおりますが、これまで江戸におります町人どもの中で無頼の輩はかえってこの処置を怨んでいるようです。つまるところ江戸は、言うまでもなく海外にも稀な繁華なところであって、とりわけ上下なく軽重なく、四方から入り込んだ人が十のうち七、八ですので、市井の無頼の者どもは、この賑わいによって日々の暮らしを送っています。ところが今日にいたって、次第に人出が少なくなり、諸事が簡素になれば、ふだん無為徒食の輩は必ず食うに困るようになって、自然種々の不義を企むようになるのは明らかです。そうであれば、平常御家の無事安泰ばかりはかっている藩では何の恐るべきこともないでしょうが、正義の藩で、わずかでも天下のことに関係されているところは覚悟しないわけにはいきません。すでに先だって「此方様」(※容堂のことか)が登城の途中で無頼の者どもが集まって、見るに堪えないような事態もあったかに聞いています。こうした動きが次第に高じれば、以後どのようなあぶれ者が出てくるか予想できず、一日も早く(警固の)部隊を江戸に遣わし、(太守さま、容堂さまが)外出される際のお供廻りそのほか遊軍の兵などを配置しなくてはならないと存じます。先だっての桜田門・坂下門の浪人どもはいずれも正邪利義(正義と邪悪。利得と道義)の分別がある者たちでしたので、覚えのある藩の者は恐れるのも当然ですが、正義の藩においてはまったく恐れることはありません。市井の無頼の輩に至っては、邪正義理は差し置き、争うところは飢寒死生(飢えと寒さと死と生。つまり生命にかかわること)の間のみなのでまことに恐るべきであります。千金の子は盗賊に死せず(=金持ちの子は盗賊と争って死ぬようなことはしない)と申しますが、どれほど用心されても決して臆病と言われることはありません。今申し上げたことは万が一にもあり得ないことではありますが、不慮の禍はいつ起きないともかぎりません。その期に及んで後悔しても詮ないことと思い、これまで身の程を顧みず同志の者たちがよくよく言上してきましたが、いまだに何らのご処置もありません。どういうことか、我々一同疑問に思っております。さりながら、微賤の身が何代にもわたる恩義をいただいたので、この期に至って片時も寝食を安んじることができず、一日も早く彼の地(江戸)へ行き、九牛の一毛でもお役に立ちたいと思っています。やむを得ず一同が申し合わせ、またまた言上しましたので、お聞き届け下さるようお願いします。

私どもの過半は小身者でありまして、ふだん食うに困る者も少なくなく、かつ、老年の父母を抱えて捨て置きがたい者もおりますが、とにかく主君の安危(安全と危険)、国家の大事にはかえがたいものと一途に思い込み、右のような次第になりましたので、「全ク衷心犯気[元ノママ]之御取扱ニ不日不被仰付候者ハ」(※誤字があって判読不能のため原文そのまま引用)、このうえありがたき幸せに存じ奉ります。以上。

文久二年十月十四日

新四郎の嫡孫(家督を継ぐ孫) 山本三治

清右衛門の倅 島地磯吉

清平の弟 望月亀彌太

森藤太夫殿

寺村義平殿

右のほかは大同小異の願い文とのことである。

五十人組の姓名は次の通り。

新四郎の嫡孫 山本三治

清右衛門の倅 島地磯吉

清平の弟 望月亀彌太

一瀬源兵衛

田内衛吉

池田卯三郎

田所庄之助

雄助の養育人 権吉

下代類(下士の身分の一種) 傳左衛門

貞五郎の倅 北代忠吉

三蔵の倅 仲 彦太郎

良庵の倅 野村良選

岩三郎の倅 川久保健次

喜三郎の倅 河野萬壽彌

孫次郎の弟 小畑五郎馬

儀之助の弟 鎌田精次郎

片岡盛蔵

庄七の倅 高橋俊助

磯衛の倅 谷脇清馬

市川次平

儀平の次男 岡田敬吉

大石利左衛門

片岡左太郎

左仲次の養育人 島村壽太郎

御足軽繁蔵の倅 喜久馬

來次の倅 今橋権助

清右衛門の倅 檜垣清治

松山鶴助

公文藤蔵

新十郎の弟 村田角吾

新十郎の二男 村田忠三郎

江口亀太郎

森本七之進の養育人 森下幾馬

五百人方足軽の繁吾の養育人 鼎吉

三瀬深蔵

しめて三十六人、ほかの姓名は不明。

[参考]

一 十月十八日、京都より早追い使者の近藤達吾ならびに飛脚が到着。

先月二十八日、このたび関東へ勅使を遣わされる件につき、太守さまが同時出府されるととともに、叡旨(天子の意向)貫徹のため周旋されるよう勅命をお受けになった。それに対する御礼は首尾良く済まされた。太守さまは今月十一日、京都を発駕される予定である。また、今月一日、先だって以来の京都滞在や警衛、周旋のほか、特に今回の出府の件について格別の思し召しをもって、同五日巳の刻に参内するようお命じになった。同日参内されたところ、龍顔(天子のお顔)を拝み、かつ天杯を頂戴された。以上の吉報を届ける。

[参考]

一 小原氏随筆の二十二日の日付のところに次の通り。

今夕、民五郎・良作が彦根より帰る。彼らが言うには、江州の八幡魚屋町の西川善六宅に寄る。長州の片山官一郎が先に行って、西川宅にいた。ここは天領で、彦根藩の領地ではない。彦根藩の検問は厳しくて潜入できない。善六は正義の人で、同志の数人が変装して彦根に行って探った事情を一枚の紙に記している。云々。

[参考]

一 十月二十五日、尾州藩士の筆記に曰く。

曇り、午後雨。尾張大納言殿と土州侯(山内豊範)が島田・藤枝の両宿の間で行き会う。その翌日、勅使の御輿が通るので、(道を除けて)御使者をお通しする。

[参考]

一 同二十六日、幕府のお達しは左の通り。

勅使三條中納言・副使姉小路少将の参向(この場合、上位者である将軍のもとに出向くことを意味する)につき、例の通り伝奏屋敷(注②)が旅館になるべきところ、今回は清水家(注③)の屋敷を旅館とするようご指示があった。同所の修復等が出来次第、(勅使一行が)引き移ることになるので、そのつもりでいるよう。

【注②。精選版 日本国語大辞典によると、伝奏屋敷(てんそう‐やしき)は「江戸時代、武家伝奏や朝廷の使者の江戸での宿所として和田倉門外の辰の口に設けられた屋敷。伝奏所。」】

【注③。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、清水家(しみずけ)は「江戸時代,徳川将軍家の一門。御三卿の一つ。9代将軍徳川家重の次男重好が,江戸城の清水門内に屋敷を与えられ,家を興したのが始り。田安家,一橋家とともに御三卿といわれ,御三家に次ぐ家格となり,徳川を称した。所領 10万石。明治維新後,伯爵。」】

一 同二十七日、太守さまが江戸表に到着されたとのこと。

ただし、勅使より一日早く先着された。

一 同二十七日、幕府より左の通り。

土佐守隠居 松平容堂へ

右の者がいろいろ意見を申し立てたことに(将軍は)満足しておられる。これから用向きの話があるときは、(江戸城の)御用談所へ参られるよう(将軍の)ご指示があった。この御用談所とは、黒書院(=将軍が老中などと日常的な対面をするのに使われた場所で、囲爐之間、西湖之間など四室あった)の「囲爐之間」の縁頬(注④)である。「西湖之間」の縁頬より御用部屋へつながる通路になっていて、

刑部卿殿(将軍後見職) 春嶽殿(政事総裁職) 会津殿(京都守護職)

阿州殿(阿波徳島藩主・蜂須賀斉裕(注⑤)) 容堂殿(幕政参与) 御老中方

が列席して、役人衆と用談される場所のことを言う。

【注④。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、縁頬(えんづら)は「江戸城,二条城,大名屋敷などで,おもだった座敷と廊下の間にある畳敷きの控えの間。襖の立て方で,廊下の一部分とも部屋の一部分ともなる。」】

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、蜂須賀斉裕(はちすか・なりひろ。没年:明治1.1.6(1868.1.30)生年:文政4.9.19(1821.10.14))は「幕末維新期の阿波(徳島県)藩蜂須賀家第13代当主。幼名松菊,通称は阿波守。11代将軍徳川家斉の第22子として江戸城に生まれ,文政10(1827)年閏6月に阿波藩主蜂須賀斉昌の養子に迎えられた。天保14(1843)年の襲封とともに幕末の多難な情勢に対応すべく藩財政を充実して軍制改革に取り組み,淡路の由良と岩屋に砲台を設けるなど藩領沿岸部の海防に力を注いだ。嘉永6(1853)年のペリー来航に際して,阿波藩には江戸湾の大森,羽田の警備が幕府から割り当てられた。幕末の政局にあっては公武合体路線をとり,文久2(1862)年に幕府の陸軍総裁に就任し,海軍総裁をも兼ねた。慶応1(1865)年には徳島城下に洋学校を設けて人材の育成に努め,また英公使パークスとアーネスト・サトウを徳島に招いて国際情勢についての説明を求めるなど開明的藩主として活動した。徳島城内で死去。<参考文献>小出植男『蜂須賀斉裕』(笠谷和比古)」】

一 十月二十八日、勅使三條中納言さま・副使姉小路少将さまが江戸に着かれたとのこと。 ただし、両卿到着後、まだ清水家屋敷に引き移りなさる前、「春嶽殿・会津殿・御老中方御退出ヨリ、夜六ツ時迄御出之由」。(※春嶽らが江戸城を出て、勅使の滞在する旅館に行き、そこに午後六時ごろまでいた、という意味かもしれないが、よくわからない)。

[参考]

一 薩摩藩吉井孝助(吉井友実(注➅のこと。)の手紙の写し[松井氏の筆記]

みなさまお揃いで御奉職、謹んでお喜び申し上げます。(薩摩藩の)お姫様方は今日いよいよ江戸を立たれ、とんと安心、ご同慶の至りです。(※これはおそらく参勤交代制度の緩和により、それまで江戸にいた藩主の妻子が国許に帰ったのだろう)。高崎(※高崎五六(注⑦)のこととと思われる)は二十六日に(江戸)到着。御地(京都)の情勢を詳しく承りました。まことにお盛んな働きぶり、一言もございません。ただちに「越土」(※春嶽と容堂の二人を指すと思われる)に拝謁、成り行きを申し上げたところ、特にお喜びのよし。勅使は本日ご着館(※和田倉門外の伝奏屋敷に着いたという意味か)、昨夜、品川の旅館にご機嫌うかがいに参上して拝謁したところ、閣老豊前守(老中の松平信義(注⑧)が将軍の使いとして同所までお出迎えし、将軍よりのお菓子を進上したとのこと。春嶽公も同所までお出迎えされ、天下のために大慶の至りでございます。幕府の中ではこの間より議論紛々として大混雑しております。一橋(慶喜)公をはじめ閣老以下が愚論を唱えるので、越(春嶽)はわざと引き籠もり、容堂公一人が必死の覚悟で論破された。一旦はいよいよ(朝廷の攘夷要求を)お請けしない路線に決まりかけましたが、(容堂公が)このうえは自分の力に及ばず、自分は徳川家の厚志を二百余年にわたって受けてきたが、(朝廷との間の)君臣の大義には替えがたいので、(将軍家の支配下から)去るつもりであると言って、大目付の岡部駿河守(注⑨)と申す者をさんざん論破された。岡部は苦しい目にあって退出し、そのまま引き籠もった。一橋も三日ばかり引き籠もり、すでに廟堂が両立するような勢い(※つまり国家の意思決定機関が二つに割れるという意味か)だったが、二十六日に至って、ついに愚論の徒が屈服し、春嶽公もその日の七ツ(午後四時ごろ)時分からにわかに登城された。一橋公も登城され、これまでのことをとても後悔しておられ、今は(幕府内での)談判も行われていないように思われます。しかしながら内情はどうにもはかりがたく、この競り合いで徹底的に論破しておかないと、また盛り返されないとも限りません。幸い因州(因幡鳥取藩主・池田慶徳(注⑩)のこと)も江戸に向かう途中とのことですので、途中まで出懸けて行って、「越土合体寸功具気[元ノママ]相抜候様」(※意味不明なので原文そのまま引用)申し込み、談合します。(勅使の)奉迎もひとえに土侯(容堂)の尽力で行われたもので、まことに気味の良い次第であります。将軍は麻疹にかかられたとのこと。しばらくは勅使も対面することは難しいでしょう。まず近日の情勢はこのようなものです。ずいぶん良き眺めです。なお追々申し上げるつもりです。恐々謹言。

十月二十九日 吉井孝助

本田孫右衛門さま

高崎佐太郎さま(注⑪)

北條右門さま

(右の手紙の文面は薩摩藩より平井牧次郎が持ち出してきたものである。)(注⑫)

【注➅。朝日日本歴史人物事典によると、吉井友実(よしい・ともざね。没年:明治24.4.22(1891)生年:文政11.2.26(1828.4.10))は「幕末の薩摩藩士,明治政府高官。通称は幸輔。鹿児島城下に藩士吉井友昌の長男として生まれる。早くから西郷隆盛,大久保利通と親しく交わる。安政3(1856)年大坂薩摩藩邸の留守居となり,諸藩の有志と交流。同6年9月,鹿児島で同志有馬新七,大久保利通らと脱藩して京都で尊攘運動に挺身する計画を立てたが,藩主に慰留され断念。精忠組の幹部となり,文久1(1861)年には大目付に抜擢された。翌年,藩兵1000人を率いた島津久光に随従して上洛,勅使大原重徳の護衛隊の員に列して江戸下向。元治1(1864)年2月,沖永良部島に流されていた西郷が赦免されるに当たり,召還使として同島に赴いた。次いで上京,御小納戸頭として京都の守衛に任じ,同年7月,禁門の変では,西郷,伊地知正治らと藩軍を督励して長州軍を撃退した。慶応3(1867)年,土佐藩勤王派との連携工作に当たり,5月,乾(板垣)退助,中岡慎太郎らを小松帯刀,西郷らと京都薩摩藩邸に迎え薩土討幕密約を締結。鳥羽・伏見の戦に,薩摩藩軍を指揮。維新政府の徴士,参与,軍防事務局判事に任じ,戊辰戦争では越後方面に転戦して功績あり,永世禄1000石を下賜された。以後,弾正大忠,同少弼,民部少輔,同大丞,明治4(1871)年宮内大丞,同少輔を歴任。8~10年元老院議官,10年8月1等侍補,11~14年元老院議官兼1等侍補。12年兼工部少輔,13年6月工部大輔。15年には日本鉄道会社の創立に際して社長も務めた。17年7月宮内大輔,このとき,伯爵を授けられた。19年から24年3月まで,宮内次官,21~24年枢密顧問官。昭和時代の歌人吉井勇は孫である。(福地惇)」】

【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、高崎五六(たかさき・ごろく。没年:明治29.5.6(1896)生年:天保7.2.19(1836.4.4))は「幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官僚。父は善兵衛。大獄最中の安政6(1859)年,岩下方平らと井伊幕政の打倒を画策,江戸,水戸,京を奔走するが挫折,帰藩。同年11月,薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加。文久年間(1861~64)島津久光の命を受け江戸,京に活動。第1次長州征討下,西郷隆盛の指示を受け長州(萩)藩との折衝に当たる。慶応3(1867)年土佐藩の大政奉還論に同調し,武力討幕方針の藩政府主流から隔たり,ために維新後の官歴は必ずしも華やかではなかった。明治4(1871)年置賜県参事,教部省御用掛,岡山県令,参事院議官,元老院議官,東京府知事を歴任。(井上勲)」】

【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、松平信義(まつだいら-のぶよし。1822-1866)は「幕末の大名。文政5年2月8日生まれ。松平庸煕の長男。松平信豪(のぶひで)の養子となり,天保(てんぽう)14年丹波亀山藩(京都府)藩主松平(形原(かたのはら))家7代。奏者番,寺社奉行,大坂城代をへて,万延元年老中となり,外国御用取扱として生麦(なまむぎ)事件などの処理にあたった。慶応2年1月29日死去。45歳。初名は信篤。通称は友三郎。豊前守(ぶぜんのかみ)。」】

【注⑨。朝日日本歴史人物事典によると、岡部長常(おかべ・ながつね。没年:慶応2.12.1(1867.1.6)生年:文政8(1825))は「幕末の幕臣。太田運八郎の子,岡部氏の養嗣。将軍徳川家慶・家定の小姓を務め,嘉永6(1813)年使番。安政1(1854)年西丸目付となり,翌年目付に就く。安政大地震のとき,江戸城内を冷静に指揮し混乱を最小限に抑えたという。同3年海防掛として長崎に赴任。赴任に際し,はじめて妻子随伴が認められる。帰府後長崎奉行に累進。5年,日蘭通商条約交渉のほか,飽之浦製鉄所建設,英語伝習所設立などに努力。またオランダ人医師ポンペと松本良順の意見を容れ,長崎養生所開設,死体解剖,コレラ防疫など医学の普及に深い理解を示す。文久1(1861)年外国奉行,同2年大目付,道中奉行,翌3年幕政の改革気運のなかで将軍徳川家茂上洛御用を務めて供奉,のち作事奉行。元治1(1864)年神奈川奉行,次いで鎗奉行,さらに慶応1(1865)年軍艦奉行となる。ポンペは長常を「日本人の中における文明人」と評した。<参考文献>「幕府名士小伝」(『旧幕府』1巻2号),『長崎県人物史』(岩壁義光)」】

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、池田慶徳(いけだ・よしのり。没年:明治10.8.2(1877)生年:天保8.7.13(1837.8.13))は「幕末の鳥取藩主。父は水戸藩主徳川斉昭,母は松波春子。江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は弟。幼名は五郎麿,雅号は竹の舎,省山。嘉永3(1850)年池田慶栄の死後,幕命によりあとを嗣ぐ。安政年間(1854~60),側用人田村貞彦らを中心に人材を登用し,藩校尚徳館の拡張,農政,軍制など多方面にわたる藩政改革を推進した。しかし,藩内の尊攘派と保守派の軋轢に苦心した。攘夷論に賛成はしたが,攘夷親征には猶予を奏請している。第1次長州征討には出兵したものの,それ以後長州を弁護しつつ,幕府に恭順の態度を示し大政奉還論を唱えた。朝幕間の板挟みとなったが,戊辰戦争では朝廷側に立つ。明治5(1872)年隠居した。<参考文献>『鳥取県史3 近世政治』(長井純市)」】

【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、高崎正風(たかさき・まさかぜ。没年:明治45.2.28(1912)生年:天保7.7.28(1836.9.8))は「幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官僚,歌人。島津斉彬襲封の早期実現を図り,俗にいうお由羅騒動で切腹を命じられた高崎五郎右衛門の子。事件に連座し,嘉永3(1850)年奄美大島に流罪。同6年許され帰藩。文久2(1862)年島津久光に随従して上洛。翌3年8月,会津藩(福島県)藩士秋月悌二郎と中川宮朝彦親王を訪い尊攘派排撃を要請,8月18日の政変を実現に導き,京都留守居役となる。慶応3(1867)年武力討幕方針に反対し,藩政府の主流から隔たった。ために維新後の官歴は必ずしも華やかでなく,左院少議官,侍補,宮中顧問官,枢密顧問官。また八田知紀に学び桂園派の歌人。明治21(1888)年御歌所長を兼ね,終世その職にあった。(井上勲)」】

【注⑫。勅使第二弾下向前後の状況については『佐佐木老候昔日談』で高行自身が語っているのでその個所を引用しておく。「同二十三日に勅使は江戸に着し、一橋、春嶽両侯、老中等は之を品川に迎へ、清水邸を旅館とした。幕府の方でもこの勅命に就ては議論が二つに分かれて、妥協しない。始め一橋侯は奉名の見込がないと唱へ、春嶽侯は之と反対の意見を持して、堅く取つて動かない。春嶽侯はトウトウ辞職すると迄云ひ出した。容堂公はその間に立つて奔走されたので、遂に奉勅に決したが、中々六ケ敷議論を出すので、老中なども余程困却した様だ。将軍家が勅使を迎へないのは臣子の礼ではない。容堂は祖先以来徳川家に恩義があるから、及ばずながら微力を致して居るのであるが、君臣の分を顧みないとならば、最早尽力の甲斐なきのみならず、徳川家を去るより外はないと迄極論した。その辺からして、勅使を遇することは大原卿の比でなく、優遇歓待を尽し、攘夷の御請も、その奉文にも明に臣家茂と署したといふ事である。公が長州の周布政之助に、方今天下の三傑は、一橋の純良と春嶽の確実と、かく申す容堂だ。一人を欠いたならば大事を成す事は出来ないと言はれたさうだが、実際公は当時の大立物であると同時に、勅使一件に関する骨折は一通りでなかつたのだ」】

[参考]

一 左の紙面を借り受け、写し置く。

文久二年十月ごろの京都の模様を左に記す。前後の事情は概ねこのようなものと知るべし。

一 十月十四日、久留米侯(有馬頼咸(注⑬)のこと)が関東より上京。

【注⑬。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、有馬頼咸(ありま-よりしげ。1828-1881)は「幕末-明治時代の大名。文政11年7月17日生まれ。有馬頼徳(よりのり)の子。弘化(こうか)3年兄頼永(よりとお)の跡をつぎ,筑後(ちくご)(福岡県)久留米(くるめ)藩主有馬家11代となる。殖産興業の奨励や近代的軍備の導入などをおこなう。明治4年大楽源太郎らの藩内隠匿(いんとく)に関し,新政府より謹慎処分をうけた。明治14年5月21日死去。54歳。初名は慶頼(よしより)。号は対鴎。」】

一 同十五日、因州侯(鳥取藩主・池田慶徳)が国許より上京。

一 薩州より(朝廷への)献上米一万石、連日車で運ぶ。

この献上米は車上で軽く、(運搬人への)賃金は思いのほか多く支払われている。それもこれも、(薩摩藩が)人心をつかむための策であろうか。

一 同十八日、筑前侯(黒田長溥(注⑭)のこと)が京都に到着、お供廻りの大勢はみな股引きである。大徳寺に止宿。

【注⑭。朝日日本歴史人物事典によると、黒田長溥(くろだ・ながひろ。没年:明治20.3.7(1887)生年:文化8.3.1(1811.4.23))は「幕末の筑前国福岡藩主。幼名桃次郎,通称美濃守。薩摩藩主島津重豪の第9子,母は牧野千佐子。黒田斉清の養子。天保5(1834)年に家督を相続した直後は,財政に無策な家老の頭を扇子で打つなど藩主親政の姿勢を示す一方,家臣を長崎に派遣し牛痘,写真,印刷,軍艦操練など西洋文明の導入を図った。嘉永5(1852)年ペリー来航の極秘情報に接し幕政参画を意図した激烈な建白書を提出するが,忌避される。来航後の建白書でも,徳富蘇峰をして「当時においては異常の卓見」といわしめるほどの開国論を唱えたが,万延1(1860)年の桜田門外の変前後には藩内勤王党との調整が困難となり,月形洗蔵,海津幸一らを弾圧。これにより福岡藩は,維新回天の業に大きく後れをとることとなった」。<参考文献>岩下哲典「開国前夜・情報・九州」(『異国と九州』)(岩下哲典)】

一 国事について諸藩より申し出があるときは学習院(注⑮)で、議奏(注⑯)と武家伝奏(注⑰)の両役が聞き取りをする。もっとも、事の緩急もあるだろうから、今後は(学習院で)決まった会合の日だけ対応するのを止め、どの日でも対応するので、その前日に武家伝奏の月番に申し出られたい。

【注⑮。百科事典マイペディアによると、学習院は「学習院大学の前身。皇族・華族のための教育機関。もとは,1847年,京都の宮廷内に創立された公家の学校である学習所を1849年改称したもの。経書を主とし国書も講じた。文久年間には尊王攘夷派(尊王攘夷運動)の集会所となった。明治初年改組されたが,1870年閉鎖。1877年東京に華族の子弟教育を目的とした,華族会館運営の学習院として再建。1884年宮内省直轄に移行。初等,普通,高等の3科を置き,皇室の特別の保護を受けた。第2次大戦後,1947年私立学校となり一般に公開された。幼稚園,初等科,中等科,女子中等科,高等科,女子高等科,女子大学,大学からなる。大学は,旧高等科を母体に1949年発足し,法,経済,文,理の各学部を置く。」】

【注⑯。デジタル大辞泉によると、議奏(ぎそう)は「江戸時代、朝廷に置かれた職。天皇の側近として口勅を伝え、上奏を取り次いだ。清華・羽林の両家から四、五人が選ばれた。」】

【注⑰。精選版 日本国語大辞典によると、武家伝奏(ぶけ‐てんそう)は「室町・江戸時代の朝廷の職名。訴訟や儀式そのほかの諸事にわたって、朝廷と幕府の間の連絡にあたった役職。また、その役の人。室町時代以後に制度化し、江戸時代には幕府が、納言・参議の中から学才・弁舌に優れた者二名を選んだ。二人いるので両伝奏ともいう。武伝。」】

一 差し迫った火急の事があった場合、関白家へ申し出よ。そうすれば、両役が参集して対応する。

右の連絡は坊城家(注⑱)より廻ることになる。

【注⑱。世界大百科事典 第2版によると、坊城家(ぼうじょうけ)は「藤原氏北家高藤の流れ,勧修寺(かじゆうじ)庶流。勧修寺定資の男権中納言従二位俊実(1296‐1350)を始祖とし,その子俊房より居所にちなんで坊城(小川坊城)と号した。しかし1540年(天文9)俊名の没後断絶し,94年(文禄3)贈内大臣勧修寺晴豊の三男俊昌が再興。家格は名家。大納言を極官とした。江戸時代,いわゆる宝暦事件に連座して辞官・落飾した俊逸は有名。その孫俊明および曾孫俊克はともに幕末に至って武家伝奏を務め,条約勅許,将軍継嗣問題や水戸降勅事件,さらに和宮降嫁など朝幕関係に奔走し,俊克の弟俊政およびその子俊章は維新政府の要職にあり,1884年華族令の施行により俊章は伯爵を授けられた。」】

一 阿州(阿波徳島藩)家老の蜂須賀駿河という人が上京した。この人が国許においてであろうか、君公に次のように申し出た。「時勢の急務である攘夷の遵奉を掲げて、早々に上京され、周旋なさるべきだ。もし、そういう志がないなら、自分は己一人の忠義に励むつもりだ」(※つまり君主との縁を切って、朝廷方につくという意味だろう)と申し出たという風聞がある。阿州(阿波徳島藩)の世子(蜂須賀茂韶)にも近々上京の風聞がある。

一 このごろ長州の桂小五郎が江戸より帰京。(桂が)江戸で春嶽さまにお目通りして内々に話を伺ったところ、もはや春嶽公は攘夷を決心されたという。また、長門守さま(長州藩世子毛利元徳(注⑲)のことか)は切にご隠居様(容堂のことか)に対面しようとして動いているとのこと。小五郎等は江戸・京都の間を往復して、その時々のことをよくわかっており、長藩・薩藩辺りは絶えず事情に通じている、というのは長藩の佐々木男也の話である。

【注⑲。朝日日本歴史人物事典によると、毛利元徳(もうり・もとのり。没年:明治29.12.23(1896)生年:天保10.9.22(1839.10.28))は「明治維新期の長州(萩)藩の世子。名は定広,広封,元徳。通称は,驥尉,長門守。支藩徳山藩主毛利広鎮の10男として生まれ,安政1(1854)年本藩の世子となり,定広と改名。文久2(1862)年尊攘の藩是によって京都で活動し,同3年下関の外国艦を砲撃した。元治1(1864)年上京中,禁門の変での藩の敗報を聞いた。慶応3(1867)年討幕のために島津忠義と会見,王政復古後,議定に任じた。明治2(1869)年家督を相続,版籍奉還により,山口藩知事となる。のち第十五国立銀行の頭取,取締役,また貴族院議員になる。諡は忠愛。(井上勝生)」】

一 薩州の高崎猪太郎(前出の高崎五六のこと)が江戸より帰着。一橋卿にもこのごろ攘夷をご決心の模様。このうえはひたすら叡慮遵奉をも祈るばかりである。

一 十九日、因州侯(前出の鳥取藩主・池田慶徳)が参内、来る二十二日に京都を発ち、江戸に向かわれるはずで、一橋卿へ「御解得[ママ]有之思召之由」(※意味不明なので原文引用)、本田彌右衛門がお目通りしたとき、そう仰ったとのこと。

一 有馬侯(前出の久留米藩主・有馬頼咸)がこのたび上京され、わずか一日、京都に滞在しただけで出発されるとのこと、訳がわからないので、長藩薩藩の応接人と相談のうえ、ご当人のところへ行ったら、ちょうど出発間際だったので話せなかった。まず有馬侯についてはただ(朝廷からの)差しとめがあっただけで、御依頼はなかったということだろう。[以上、三條、薩州の村山齋助の話である]

一 二十二日、戸田越前守さま(宇都宮藩主・戸田忠恕(注⑳))の建白により、山陵(天皇皇后などの墓)が荒れ果てているのを嘆息され、このたびことごとく修復されることになった。京都の国学者・谷森外記(注㉑)へ詮議があり、だいたいの調べがあった。来る二十八日ごろ、戸田和三郎[家老]「外江木[ママ]」(※ママとあるので誤字のようだが意味不明)が大和・河内辺りへ旅立つ予定。外記より直接聞いた話。

【注⑳。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、戸田忠恕(とだ-ただゆき1847-1868)は「 幕末の大名。弘化(こうか)4年5月23日生まれ。戸田忠温(ただよし)の子。兄戸田忠明(ただあき)の跡をつぎ,安政3年下野(しもつけ)宇都宮藩主戸田家第2次6代。文久2年幕府から畿内(きない)各地の山陵の調査・修復の許可を得,百余ヵ所を修理。元治(げんじ)2年天狗(てんぐ)党の乱への出兵の遅れをとがめられ,謹慎を命じられるが,のち山陵修理の功でゆるされる。慶応4年5月28日死去。22歳。」】

【注㉑。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、谷森善臣(たにもり-よしおみ1818*-1911)は「幕末-明治時代の国学者。文化14年12月28日生まれ。京都の人。三条西家の臣。伴信友(ばん-のぶとも)にまなぶ。文久年間,大和,河内(かわち)などの陵墓を調査し,修復にも尽力。明治2年大学中博士,8年修史館修撰。南朝史や皇室系譜などの研究にあたった。明治44年11月16日死去。95歳。初名は種松,松彦。通称は二郎,外記。号は菫壺,靖斎。著作に「山陵考」など。」】

一 二十三日、薩州の高崎伊太郎(前出の高崎五六のこと)が先日、江戸のご隠居様(容堂)に拝謁したところ、(勅使問題での)周旋のご苦心を語られた模様。さてその後、帰京のうえ因州侯へ拝謁したところ、再び江戸に行ったら、容堂へこれを差し出してくれよと御依頼があった。扇面に御歌が書かれていた。

玉の緒はよし絶ぬとも一筋に

我大君のみことさゝけん

因州侯は以前、ご帰国の際、(京都で)内勅が下るのを待って、伏見・枚方・大坂とゆるゆる止宿していたら、(朝廷からの)お沙汰がないので、そのまま帰国された。ところがこの際、実は内勅が下っていたのに、奸臣の田村図書という男がそれを握りつぶして上に知らせなかったということが近頃になって露見し、厳罰に処されたとのこと。

一 二十四日、宇和島侯(注㉒)が今日、江戸よりご帰国。伏見に止宿された。その折、清水眞一ならびに僧晦厳(注㉓)が情勢探索のため上京していたので、(宇和島侯に)お目通りして急迫の形勢について申し述べた。(その際の話で)、内勅が下らないのにこのまま京都に滞在するのもどうかと言って、直に近衛殿下にお伺いしたところ、朝議のうえ大原卿より内勅のお沙汰があったので、にわかに町跡の学問所を借用して京都に滞在することになった。

このごろ(将軍家などの)ご上洛に備えて、諸寺院・町家等の新たな借り入れが差し止められているので、ようやく右の町跡のところを借用することになったようだ。[大洲藩士の竹田亀五へ清水眞一よりごく内々の話らしい。竹田の話である]

【注㉒。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、伊達宗城(だて・むねなり。1818―1892)は「幕末・明治時代初期の政治家。文政(ぶんせい)1年8月1日、旗本山口相模守(さがみのかみ)直勝の子として江戸に生まれる。1829年(文政12)伊予(いよ)国(愛媛県)宇和島(うわじま)藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となり、1844年(弘化1)襲封。藩政改革に努めて殖産興業に成績をあげ、また高野長英(たかのちょうえい)や大村益次郎(おおむらますじろう)を招いて洋式軍備の充実を図った。安政(あんせい)期(1854~1860)将軍継嗣(けいし)問題の際には、島津斉彬(しまづなりあきら)、松平慶永(まつだいらよしなが)らと一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の擁立を画策したが成功せず、安政の大獄を期に隠居し、封を嗣子(しし)宗徳(むねのり)に譲った。1862年(文久2)の島津久光(しまづひさみつ)の公武合体運動に呼応して中央政界に進出、1863年12月一橋慶喜、松平慶永、松平容保(まつだいらかたもり)、山内豊信(やまうちとよしげ)らと朝議参与に任命されたが、横浜鎖港問題で慶喜と衝突し反幕色を濃くした。1867年(慶応3)12月新政府の議定(ぎじょう)に就任、外国事務総督、外国官知事として政府発足当初の外交責任者を務めた。1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)兼大蔵卿、翌1870年7月の民蔵分離によって、大蔵卿専任。1871年4月欽差(きんさ)全権大臣に任命され清国(しんこく)差遣、7月29日大日本国大清国修好条規(日清修好条規)を締結した。帰国後、麝香間祗候(じゃこうのましこう)、外国貴賓の接遇にあたった。明治25年12月20日没。[毛利敏彦]」】

【注㉓。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、晦巌道廓(まいがん-どうかく。1798-1872)は「江戸後期-明治時代の僧。寛政10年生まれ。臨済(りんざい)宗の淡海昌敬の法をつぐ。伊予(いよ)(愛媛県)大隆寺の住職となり,宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)・宗城(むねなり)の帰依(きえ)をうける。藩主をたすけ,諸公卿(くぎょう),諸大名との間を往来した。明治5年8月23日死去。75歳。俗姓は田中。別号に万休。」】

一 対州(対馬藩)も混雑している。以前、夷虜(野蛮人)乱暴(注㉔)の折、幕府から大人数が出動したが、孤島のため持ちこたえるのが難しく、安藤侯(老中・安藤信正)の指図で引き払い、追々(対馬藩には)九州に替え地を手当てするので、まずロシアに割地(土地を割き与えること)せよとの内命があった。これにより議論のすえ、堀綾部正(注㉕)が割腹した。このころ朝廷の威光が奮い立ち、対州が奮い起こり、家老で切腹した人がいた。藩士百人あまりが出奔し、そのうち五十人ばかりが縁続きの長州に身を寄せたとのこと。

【注㉔百科事典マイペディアによると、ロシア軍艦対馬占領事件は「対馬事件とも。1861年2月からロシア軍艦ポサドニック号が対馬占領を企て滞泊した事件。英国の対馬占領の野心を牽制(けんせい)するため船体修理を口実に対馬浅茅(あそう)湾に停泊したポサドニック号は3月芋崎(いもざき)に兵舎を建設,付近の永久租借権を要求。対馬藩や島民は激烈に抵抗し,幕府も外国奉行小栗忠順を派遣して撤退を求めたがロシア艦は動かず,英公使オールコックの協力申し出により英艦2隻が派遣され威嚇,8月ようやく退去した。」】

【注㉕。朝日日本歴史人物事典によると、堀利煕(ほり・としひろ。没年:万延1.11.6(1860.12.17)生年:文政1.6.19(1818.7.21))は「幕末の幕臣。幕臣利堅の子。母は林述斎の娘。織部,織部正と称す。老中阿部正弘に登用され,嘉永6(1853)年目付,ペリー来航の直前に海防掛。このとき,国交拒絶を主張,大船製造掛に就いたが,翌安政1(1854)年北蝦夷地視察に赴き,蝦夷地防備の必要と,外国との国力差を痛感。同年箱館奉行に就任し,同3年幕府の諮問に対し通商互市の緊急性を答申。同5年,英仏露使節の応接準備,応接掛を命ぜられ,各通商条約締結の際は全権のひとりとして調印。また5年外国奉行,6年には神奈川奉行も兼務し,横浜開港に尽力。この間,一橋派として14代将軍継嗣問題にもかかわる。万延1(1860)年プロシア使節オイレンブルク一行を全権として応接,交渉を主導したが,プロシアとの条約締結直前に謎の自刃を遂げた。忠憤時事を嘆じた結果ともいわれる。<参考文献>「幕府名士小伝」(『旧幕府』1巻2号),『維新史』2巻(岩壁義光)」】

一 先だって大原卿が江戸に下向したとき、牢獄に入っていた者たちは当局の忌諱により苦しめられた。これは大いに天下の有志の者に関係がある。大橋順蔵(注㉖)等が出牢を命じられ、順蔵・同人の妻の弟等が出牢、三日ばかりして亡くなったとのこと。猛毒を盛られたのは明らか。[右の事跡は筆記すべきことが多い。しかし事情あって今は略す]

【注㉖。百科事典マイペディアによると、大橋訥庵(おおはしとつあん)は「幕末の朱子学者。尊王攘夷思想家。名は正順(まさより),字は周道(しゅうどう)。江戸の人。日本橋の豪商大橋淡雅の養子となる。佐藤一斎に学び,朱子学を強調し,洋学を排撃,和宮降家問題では反対運動に加わる。坂下門外の変を画策して投獄され,獄中で罹病(りびょう),下野(しもつけ)宇都宮藩に預けられたが間もなく死亡。毒殺ともいう。著書《闢邪小言(へきじゃしょうげん)》《元寇紀略》《訥庵文詩鈔》等。」】

(続。いつもながら難解なところが多く、正確に訳せたかどうか自信がありません。いずれは専門家のお知恵を借りて、正しい訳をお届けするつもりです)