わき道をゆく第215回 現代語訳・保古飛呂比 その㊴

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[参考]

一 左の書面は、現在京都の周旋係をつとめる手島八助・乾作七より(国許の)土佐に送ったものである。

十月二十七日朝、長州藩の桂小五郎(注①)・佐々木男也(注②)が粟田宮さま(朝彦親王。注③)へ参殿。法親王(出家した皇族。朝彦親王のこと)が仰るには、中川修理大夫(豊後岡藩主・中川久昭のこと。注④)が家来の小河彌右衛門(岡藩士の小河一敏のこと。注⑤)に厳罰を申し付け、幽閉した。彌右衛門の仲間の中川土佐らにも厳罰を申し付けており、もっての外のことである。彌右衛門は先だって勤王正義を唱え、速やかに上京し、危急の場合を周旋していて、まことに勤王の巨魁と言うべきである。事態が少し平穏になったとき、天子が(彌右衛門の行いを)感心され、お褒めの言葉を本国(岡藩)に遣わされた。さぞかし修理大夫も褒めるに違いないと思っていたら、右のような次第になり言語道断のことである。つまるところ(修理大夫が)天子のご意向を軽んじているということだ。皇国の精神を奮い起こすかどうかの瀬戸際に一藩の諸侯がこのような振る舞いをするとはどういうことか、心穏やかでいられない。ことに、このたびは勅使が下向して重大な勅命を幕府が遵奉するかどうか天子の御心を煩わしている時節である。かつまた、ほかへも大いに関係することもあり、いずれにしても決してそのままにしておくこともできない。その旨を主上(天子)へ申し上げ、(薩長土の)三藩で申し合わせて、このたび修理大夫が出府するので、その途中の道筋のどこかに行って、幾重にも説得を重ね、万々一承服しなければ、違勅(天子の命令に背くこと)の罰を下すようにしたい。もっとも薩摩と土佐は主人が在京していないのでどうするだろうか。何といっても薩藩は警衛のため大勢が(京都周辺に)在住しており、土佐はさいわい大坂警衛のため大人数を(住吉陣屋に)派遣しているので、その部隊を出動させるのは当然のことかと(朝彦親王は)仰った。

【注①。朝日日本歴史人物事典によると、木戸孝允(きど・たかよし。桂小五郎のこと。没年:明治10.5.26(1877)生年:天保4.6.26(1833.8.11))は「幕末維新期の志士,政治家。通称小五郎,号は松菊,竿鈴(干令)。長州(萩)藩医和田昌景の次男。天保11(1840)年桂九郎兵衛の養子となる。嘉永2(1849)年吉田松陰に入門。同5年江戸に遊学,剣客斎藤弥九郎の道場に入り塾頭となる。万延1(1860)年水戸藩の尊攘派と盟約を結び,次第に高杉晋作,久坂玄瑞らと並んで尊攘派のリーダーとなっていったが,その一方で勝海舟,坂本竜馬,横井小楠ら開明派とも親交を持った。文久3(1863)年の8月18日の政変後も京都にとどまって藩の信頼回復に努め,翌年の新選組による池田屋襲撃を逃れたのちも京都に潜み,真木和泉ら激派の突出を抑えようとしたが,禁門の変を未然に防ぐことはできなかった。幕吏の追及も厳しくなり,ついに但馬出石に潜居。身なりをやつして二条大橋の下に潜む桂のもとに,芸妓幾松(木戸松子)が握り飯を運んだという有名なエピソードはこのときのものである。慶応1(1865)年木戸貫治と改名,竜馬の斡旋で薩摩藩と接触し,翌年1月,京都の薩摩邸で西郷隆盛らと薩長連合密約を結ぶ。さらに同3年秋,長州藩を訪問した大久保利通,西郷らと討幕挙兵について協議した。 明治1(1868)年1月,新政府で参与となり,「五箇条の誓文」の起草に当たった。また秋には大久保に封建領主制の改革について説き,この構想は翌2年の版籍奉還となって実現した。同3年6月参議に就任,同4年7月の廃藩置県の断行にも大きく関与した。この間,開明急進派のリーダーとして,漸進派の大久保としばしば意見の対立をみた。同年11月より岩倉遣外使節団副使として欧米を回覧して6年7月に帰国。明治6年の政変では内治派として大久保を支持したが,翌7年,台湾出兵に反対して参議を辞した。8年の大阪会議で将来の立憲制採用を協議して政府に復帰するが,大久保主導体制に不満を漏らすことが多く孤立しがちであった。10年,西南戦争のさなか「西郷よ,いいかげんにしないか」といい残して,京都で病死した。<参考文献>『松菊木戸公伝』(佐々木克)」】

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、佐々木男也(ささき-おとや。1836-1893)は「幕末-明治時代の武士,経営者。天保(てんぽう)7年5月26日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。右筆(ゆうひつ)役をへて京都で周旋役をつとめる。幕長戦争では南園隊総管。維新後は百十国立銀行,日本郵船の支配人をつとめた。明治26年11月25日死去。58歳。名は一貫。」】

【注③。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、朝彦親王(あさひこしんのう。1824―1891)は「幕末期、公武合体派の中心人物の一人。伏見宮(ふしみのみや)邦家(くにいえ)親王第4王子で、1836年(天保7)仁孝(にんこう)天皇の養子。名は成憲(なりのり)、のち朝彦。粟田口(あわたぐち)の青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)となり、尊融(そんゆう)と称し、天台座主(ざす)に補せられた。青蓮院宮、粟田宮、中川宮、尹(いん)宮、賀陽(かや)宮などともいい、1875年(明治8)久邇(くに)宮と称した。安政(あんせい)の大獄では一橋(ひとつばし)派を支持して処罰され、文久(ぶんきゅう)期(1861~1864)には国事御用掛となり、公武合体派の重鎮として「文久三年八月十八日の政変」を推進、孝明(こうめい)天皇の信任が厚かった。しかし、天皇の急死、「王政復古」で政治生命は断たれた。1868年(明治1)には嫌疑を受けて広島へ謫居(たっきょ)、1870年京都帰住、1875年から神宮祭主となり、以後伊勢(いせ)神宮の古儀、旧典の調査、考証に努めた。『日本史籍協会叢書(そうしょ) 朝彦親王日記』2巻(復刻・1969・東京大学出版会)は、幕末活躍期の日記である。[田中 彰]」】

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中川久昭(なかがわ-ひさあき。1820-1889)は「幕末の大名。文政3年4月4日生まれ。伊勢(いせ)津藩主藤堂高兌(たかさわ)の次男。中川久教(ひさのり)の養子となり,天保(てんぽう)11年豊後(ぶんご)(大分県)岡藩主中川家12代。12年藩内の勤王派柳井藻次郎,小河一敏(おごう-かずとし)らをとおざけたが,文久3年勤王をあきらかにした。明治22年11月30日死去。70歳。幼名は茂丸。初名は高亮。通称は大蔵。」】

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、小河一敏(おごう・かずとし。没年:明治19.1.31(1886)生年:文化10.1.21(1813.2.21))は「幕末の豊後岡藩(大分県)藩士,尊攘派志士。通称弥右衛門。儒・仏・国学に通じ,槍剣,詩歌も巧みだった。かねて京都の田中河内介と尊王を談じ,嘉永6(1853)年のペリー来航におよび北九州方面に遊説,真木和泉,平野国臣ら九州有志と結ぶ。文久2(1862)年「武士の八十宇治川の清き瀬のつきぬ流に名をやながさん」の歌を残し上坂,島津久光の上洛を機に挙兵を図るが,寺田屋の変で挫折。京都・摂津にあって,岩倉具視,大原重徳より時局を問われ書を呈している。維新後は内国事務局権判事,堺県知事,宮内省御用掛などを歴任。<著作>『王政復古義挙録』『鶏肋詩稿』『千引草百首』<参考文献>小河忠夫『小河一敏』(三井美恵子)」】

一 二十八日、朝、薩藩の村山齊(注⑥)が関白さまへ参殿。殿下が仰られるには、三藩が申し合わせをして、中川修理大夫が承服して遵奉するよう説得すべきであるということだった。もしもの事態に備えて伏見に大人数を配置することも内々に沙汰があったとのことで、薩州より遊兵百五十人ばかり出動、長州よりは五十人ばかり、土佐藩は住吉警衛にあたる人員の中から相応の人数が出ることになるはず。

【注⑥。村山松根のことか。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、村山松根(むらやま-まつね。1822-1882)は「江戸後期-明治時代の武士,歌人。文政5年9月生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士木村家をつぐ。嘉永2年(1849)お由羅(ゆら)騒動で福岡藩にのがれた。のち召還されて村山と改姓,京都留守居副役となる。維新後は神職,華族の歌道師範。明治15年1月4日死去。61歳。本姓は樺山。名は時澄。通称ははじめ仲之丞,斉助。」】

一 大坂入りした薩藩の両士[村山齊助・鴉木孫兵衛]より薩藩の京都詰めの人へ「懸合」の手紙。(※懸合には、互いに関係し合う、かかわり合う、また、要求などを話し合う、談判、交渉といったさまざまな意味があるが、どれもぴんと来ないのでそのまま引用)。

二十九日の宵の口ごろに大阪に到着し、すぐさま長州の両士[桂小五郎・佐々木男也]に「引合」(※引合にはひきあうこと、互いにひっぱりあうこと、まきぞえ、かかわり合い、紹介するなどの意味があるが、どれもぴんと来ないのでそのまま引用)、三藩が同意して豊後岡藩の屋敷へ出かけた。熊田萬八が応対に出たので、「重大な御内沙汰(内々のお沙汰)があって参ったので君公(藩主)にご面会を願いたい」と申し述べたところ、「君公は『所労彼是及夜陰』(※病気とかいろいろあって夜になったのでという意味なのか、正確にわからないので原文引用)、なにぶん面会はお断りする。詳しいことは重役に話してくれるように」ということだった。しかし、こちらは承知せずいろいろ説得したところ、君公はやむを得ず出てくることになった。一同で君公に面会し、「小河彌右衛門らに対する処置が宜しくない。朝廷を軽んじられるように見え、殿下ならびに宮様、議奏方は憤懣のご様子だ」と、委細を申し述べたところ、いろいろ言い訳があって、詰まるところ言い逃れだが、すぐに上京すると言い出した。そこでこのまま上京するのは決してよろしくないと、不都合な理由をよくよく申し上げたところ、これからとくと考えたうえで、追って返答するつもりだと君公は言った。それで別室に控えて待っていたところ、熊田要助・小原隼太そのほか重役衆らが出てきて、ひどく恐れ入った様子でさまざまに陳謝し、いずれにしても明日は大坂に滞在するので、重役より京都に使者を差し立ててお詫び申し上げ、(朝彦親王らの)お指図のとおりに対処しますという趣旨の話を承った。それでまず今日のところは三藩一同引き取った。しかしながら、修理大夫殿をはじめ重役はいずれもその実、俗吏俗論の取るに足りない人物で、なかなか勤王のことなどは夢にも存ぜぬ輩ばかりと見え、ただただ恐怖したまでのことであります。もっとも小原(小河の誤植か)たちの赦免のことはだいたい要職にある者たちが承知した模様ですが、今夕までは決定の返答はありません。[土佐藩の周旋係は乾作七・手島八助の両人]

右の手紙の文面は薩藩より廻ってきたようだ。土佐藩の取り扱いの委細はこれを略す。しかしながら、小河彌右衛門たちはもともと脱藩した者たちであり、たとえ勤王の志といえども、主家に対しては無礼な行いであり、純粋な忠義の士とは言いがたい。天子が感心されたとの内命も、恐れながらいかがわしい。この叡慮は島津三郎さま(久光)より彌右衛門に伝えられ、 その旨を記した文書を渡されたようだ。これまたどういう経緯だろうか。実は薩州より叡旨(天子の言葉)を願い出て、(彌右衛門との間を)取り持ったとか。しかしながら、右のような叡感(天子のお褒め)をいただき、朝廷のために人並み外れた忠勤に励んだとされる者をみだりに幽閉するよう命じた中川侯のご処置は最もあるまじきことであり、朝廷を軽蔑したようなものだ。しかしながら、小河の同志の者が匿名の文書で長藩へ願い出、彌右衛門たちのお咎めの一件は結局奸臣どもの仕組んだこととして、お国の恥を暴き立てたうえ、なにとぞ彌右衛門たちを許し、奸邪の輩を排除するようになどとごたごた書き連ねて周旋を頼むのはこれまたあるまじきことだ。「右等之事迹ヨリ相起、粟田宮様御下知ニ相成候趣」(※意味がよく分からないので原文引用)。

[参考]

一 手島八助よりある人に送った書簡の中に、左の記述がある。

(上略)長藩屋敷で対馬藩の多田荘蔵・大島友之允・樋口謙之亮とふと出会い、対馬に英国船が入港したことや、去年[酉年]、ロシア船が狼藉に及んだことを直接、彼らの口から聞いた。その際、幕府の御役人の小栗豊後守殿がまことに手ぬるい対応をしたので、以来ますます醜夷(野蛮人)がつけあがったとのこと。対馬藩内でも奸党と正義(党)とに分かれ、なにぶん因循(古い習慣などを改めようとしないこと)強く、すでに家老の佐須伊織[三千石]は江戸にあって幕府役人となれ合い、事を取り計らっている。そのため先日、対馬藩の正義の徒五十人が江戸へ出府、伊織を別の建物に呼び出し、詰問した。そうしたところ伊織は屈服し、割腹しようとするところを(彼らが)左右より十二回も斬りつけた。その後の取り調べでは、(彼らは伊織が)切腹したと主張した。取り調べに当たった者が「介錯はしなかったのか」と訊くと、「十人ばかりが介錯した」と申したとのこと。今日、長藩屋敷で出会ったのはその当事者らしい。薩長がこれまでやってきたことの意味は大きい。実に志を天下に立て、皇国の運勢を打開する大機会となった。それゆえ勤王の志を持つ者であれば、少々の過失や亡命あるいは願い書の出し捨てくらいは不問にされる。何にせよ三百年の太平が打ち続き、この因循の病を治すのに劇薬を用いなくては、到底行われないというので、自藩のことはまことに些事で、志を天下に立て、王朝の威光を海内(世界)に振るうように諸事志を立てるようになった。「御国之論抔を持参候ては張合不申」(※天下のことよりも自藩のことを優先させる論を持ち出してもその甲斐がないというような意味だと思うが、違うかも知れない)。ことに薩摩は(この傾向が)ひどいと聞いている。また(藩外への)施しも夥しく、一昨日、村山齊助に「貴藩の献上米は一万石だった。このごろそれが五万石になったという話があるが、いかが」と尋ねたところ、齊助が言うには「決してそうではない。一万石はようやくこの間、京都に運び込み終えた。しかしありがたいことに、至尊(天子)のお食事に使われ、それより日本大社(?)はじめ宮様や公家衆への配米を仰せつけられ、「百石を高にし貳十石止りと承り申候」(※配米は百石を限度とし、実際には二十石止まりだったと聞いているという意味かも知れないが、よくわからない)。これで世間の評判の高さも合点されるだろう。村山齊助はなかなか柔軟な頭の持ち主で、「薩と悍気無之」(※悍気無之は気の荒いところがないという意味だが、「薩と」の意味が分からない。誤植かも)、ずいぶん柔和な方だ。現在、京都はこの者と本田彌右衛門(注⑦)・藤井良節(注⑧)が枢要を握っているように見受けられる。村山齊助はもとは北條右門と名乗り、藤井良節は工藤左門と名乗り、薩州の先年の御国乱(お由羅騒動のこと。注⑨)のとき藩を出て、筑前に十三年隠れ、筑前侯(福岡藩主・黒田長溥)が匿った。先日、島津久光さまが上京の際、二人を呼び出され、すぐさま抜擢、名を改めたということを長藩の佐々木男也から聞いた。桂小五郎はなかなかの人物で、有能かつ柔軟な才力の持ち主だ。そのうえ豪邁達弁(気性が強く、弁舌さわやか)。諸藩の有志が小五郎のもとに尋ね來る。当年二十九才といい、追々天下にその名が聞こえるだろう。しかしながら少し「気象に無事に終り候得はとの気遣御座候」(※本人の気性に何かしら難点があって、無事に人生を全うするかどうかが気遣われるという意味であろうか。そうだとしたら、木戸孝允の最期を予見するような、意味深な言葉だ)。さりながら(小五郎は)節義を第一とし、策略は後回し、正義の志が深いように見受ける。云々。

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、本田親雄(ほんだ-ちかお。1829-1909)は「幕末-明治時代の武士,官僚。文政12年9月6日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。京都留守居役兼横目をつとめ,文久2年寺田屋事件のときには負傷者を救護した。戊辰(ぼしん)戦争では海・陸軍参謀。のち元老院大書記官,元老院議官,枢密顧問官を歴任する。貴族院議員。明治42年3月1日死去。81歳。通称は弥右衛門。」】

【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、藤井良節(ふじい-りょうせつ。1817-1876)は「幕末の武士。文化14年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。お由羅騒動で福岡藩にのがれる。文久2年ゆるされ,京都で弟の井上石見(いわみ)とともに岩倉具視(ともみ)ら討幕派の公家(くげ)と藩との連絡にあたった。維新後は帰郷して神職となる。明治9年2月2日死去。60歳。本名は井上経徳。通称は別に良蔵,出雲」】

【注⑨。百科事典マイペディアによると、お由羅騒動【おゆらそうどう】は「幕末に起きた鹿児島藩の御家騒動。嘉永朋党(かえいほうとう)事件・高崎崩れとも。側用人調所広郷を抜擢して藩財政を立て直した鹿児島藩は,1844年には50万両を備蓄するまでに至った。この頃藩主島津斉興の後継に世子島津斉彬を擁立する一派と,斉彬が藩主となれば再び藩財政は悪化すると危惧する調所広郷一派が対立。調所派は斉彬の異母弟島津久光(側室お由羅の子)の擁立を図り,お由羅と結んだ。斉彬擁立派は調所広郷を密貿易露顕一件で自殺させたが,藩実権は依然として調所派が握っていた。斉彬擁立派はさらに久光とお由羅の暗殺を画策,これが藩主斉興に露顕,首謀者の高崎五郎右衛門温恭らは切腹,ほか四十数名も死罪・遠島などに処せられた。この嘉永2年?3年(1849年?1850年)の事件で,斉興は隠居,幕府老中阿部正弘らの画策で翌嘉永4年(1851年)島津斉彬が藩主となった。」】

一 十月下旬、(高行一家が)越前町の竹村與之次宅を借用、移住した。

これまで小畑孫三郎宅に住まい、文武館へ出勤していたが、いまだ病気が全快しない。なるだけ役場に近いほうが都合がいいので引っ越した。

一 同下旬、[日は不明]、(大監察の)平井善之丞が仕置き役兼任を仰せつけられる。

一 手島氏の筆記に曰く。

小原與一郎・乾作七・手島八助が小監察(大監察の配下。小目付ともいう)として西京に詰めていた同年[文久二年]十月二十七日夜半、平井収二郎が来て、言った。このたび豊後岡藩の小河彌右衛門以下の十七士(十七人の藩士)が先日上京して周旋したことに対し叡感(天子の満足の意)を記した文書を薩州三郎君(島津久光のこと)へ渡され、それを彌右衛門以下が拝承して、八月帰国した。すると岡侯(豊後岡藩主・中川久昭のこと)は小河らを禁固処分にし、親戚との書信のやりとりを厳しく禁じた。たまたまこの処分を免れた小河の仲間の一人がひそかに薩藩に訴えた。この処分は朝議(朝廷の評議)の不興を買い、中川宮(朝彦親王)はことのほかお怒りで、三藩打ち合わせのうえ、出府途中の中川侯(岡藩主・中川久昭のこと)を説得して江戸行きを差しとめ、もしも彼の不敬が甚だしいときは征討すべしと言われた。中川侯は幕府の用命で呼び出され、老中職か寺社奉行に任命されると言われている。(平井収二郎が来た)その夜、與一郎・作七・八助が同道して(上司の)大監察の横山覚馬方に行き、そこに収二郎も来て、長時間話し込んだ。翌二十八日未明、覚馬・與一郎・作七・八助が一緒に長藩の前田孫右衛門の寓居(仮住まい)へ行き、同藩士桂小五郎・佐々木男也もそこに来た。薩藩の村山富助も来た。富助が言う。「今朝、関白殿下のところに行ったら、殿下は『中川修理大夫(久昭のこと)が朝廷の不興を買っているので、説得しなければならぬ。万が一にも承服しない恐れもあるので、三藩よりあらかじめ伏見に人数を差し出しておくべきだ』と言われた」。それに対し、我々は異議はないと言って、孫右衛門方より帰った。そして覚馬から「作七・八助の両人は浪花(大坂)へ行き、薩長と示し合わせて中川侯の旅館を訪ねて朝議の御旨によって説得せよ」と申し付けられた。

覚馬は摂州陣屋(=住吉陣屋)の総督村田仁右衛門と大監察郷権之丞に対し、兵員の伏見出張の手配をするよう早追いの使者を仕立てた。乾・手島の両人は七ツ時(午後四時ごろ)前、京都を出発、翌二十九日に大阪に到着。長州邸へ行き、桂小五郎・佐々木男也と会い、そこに薩藩の村山富助・鵜木孫兵衛も来て、同道して夜四ツ時(午後十時ごろ)、中川侯の旅館に行った。そこでは留守居の熊田権八が応対に出た。(中川)修理大夫さまにお目通りをしたいと申し入れたら、萬八が主人は病気につき重役の者に話していただきたいと言った。つづいて用人の草刈敬助が出て来て、「主人はすでに出立間際に病気でしたが、押して(大坂まで)やってきたところ、寒気に障られ、今夜はとくに不快で寝所に入られた。明朝は病を押して出発し、上京するつもりです。なので家老の者に話していただきたい」と言った。それに対して申したのは「明朝ご出発なさるのであれば、なおさらその間際の今夜に申し上げなくては叶いませぬ。たとえ上京の思し召しであろうとも、それは難しいと申し上げます。というのも重大な事件があって、なにぶん取り次ぎでは申し上げがたく、ご病気ならば御寝所に直接行って申し上げたい。恐れながら御家の浮沈にもかかわることですので、そのことをお伝えくださるように」と申し上げたところ、草刈敬助は仰天した様子で部屋を出て行き、やや時間がたってから再び来て「いまお伺いしたことを伝えましたところ、主人は当家の浮沈にかかわるほどの問題で皆様方がお出でいただいたのを特にかたじけなく思い、病中ながら押して面会いたしますのでお通り下さいとのことです」と言った。そこで一同がまかり出て、侯の膝下で申し上げた。宮様や関白殿下の内命の趣旨は、御家来の小河彌右衛門に厳罰を命じられた一件等についてであり、それについて朝廷が不審に思われていることの数々を申し上げた。すると、侯はいちいちそれらについて申し訳をなされたが、条理が不明瞭だった。(それらの申し訳のうち)彌右衛門については「叡感(天子が感心して褒めること)を賜ったことは、われらにおいてもありがたく思っています。しかしながら、右の者はことごとに国法に反して、仕方のないところもあり、そのまま放置しておくと家中の者も心服しない。我らはもとより勤王の志については代々の家風であるが、家来どもが心服しなければ、かえって勤王の本意を立てることも難しくなるわけで、このことはわかってもらいたい。しかし、そうはいっても、朝議に背いたことはまことに恐れ入るので、このことについてはこれから上京のうえお詫びを申し上げるつもりだ」と侯が言われたので、それを押し返して当方は申し上げた。「御意のご趣旨はいちおうもっともに思いますが、私どもは殿下の内意を聞いています。それによると、いまの天下の弊習を一変すべく天子が心を砕いておられる折から、彌右衛門のような者が上京して周旋につとめたのは天子の御心に叶い、(彌右衛門が)お褒めの言葉をいただいたのは「朝廷ニモ御美目ニ被為有」(※朝廷にとっても喜ばしいことという意味と思うが、自信がないので原文引用)。このため、御当家さま(※豊後岡藩あるいは中川家全体を指すと思われる)も(彌右衛門を)褒め称えるはずのところが、かえって御一家(豊後岡藩)の法令によってこのような(禁固処分を)命じられた。これは叡慮を遵奉する誠心とは思えません。ご一家の法令によって天子のご意向を塞ぐとなると、それは他の諸侯へ大いに関係します。ことに、今の幕府は重大なことどもを勅諚として(天子から)命じられると、必ず遵奉するような状況です。さらにまた戊申の年(1848年。嘉永元年)以来、たとえ幕府の御制度に背いても、報国尽忠のために(国法を)犯した者は追々赦免を受けることもあり得るというご沙汰もあったようです。ご当家が(こうした流れに)齟齬を来すようになっては、天威(天子の威光)も立たなくなり、まことに畏れおおいことです。だいいち天下の政治革新の妨げにもなります。彌右衛門の件はそのまま放置しがたい事案なので、関白殿下にお伺いを立てて、処置なさるべきです。(今回の侯のご処置は)それが欠落していると存じます。しかしながら、彌右衛門の件はまだ主上の耳に届いておらず、「立リヲ(ママ)以」(※ママとルビが振ってあるので誤植と思われるが、何を言おうとしたのか不明)、朝議による内命の段階ですので、私どもが申し上げた線ですぐさま悔悟されれば、御当家のためになり、朝議の趣意にもかなって都合がよろしいかと、畏れおおくも申し上げます。わけても粟田親王さまはお怒りで、(中川侯が出府する)途中を遮ってしまえという考えをお持ちです。なおよくお考えになって、なにぶんにも明朝の発駕は延期されてしかるべきかと存じ上げ奉ります」。と、いろいろ申し上げたところ、中川侯は大いに恐怖の模様で「そなたらが申すように朝議の御不興を買えば、恐れ入り奉ることなので、このうえはとくと考慮したい。一同がここまで参ったのはご苦労千万で、非常にかたじけなく思う。これからさらに家来どもに論議させ、そのうえでそなたらに頼むこともあるだろう」と言われたので、一同ご挨拶し、お体の不調も顧みず押しかけ、重々恐れ入りますと申し上げて、退出した。

なお、中川侯との面会の際、重役の面々は肩衣(かたぎぬ。袖なしの胴着)を着て、八、九人が列座した。侯がお一人で応答され、こちらからはとりわけ村山・桂の両人が申し上げた。殿下の内命については齊助が申し上げ。天下重大の政治革新については(桂)小五郎が申し上げ。宮様の御不興のところは男也が申し上げ。叡慮にもとること、国法を立てること、そして軽重大小の区別をつけてお考えになるようにということは八助が申し上げ。明日の発駕を延期なさるようにというのは作七が申し上げた。

しばらくして別館に引き入れられ、重臣七、八人同席のうえ、主人(中川侯)よりねんごろな挨拶があり「このうえはとにかく三藩を頼みにして、明日の出立は取りやめる。これから(彌右衛門らの処分など)藩内のことを改めて検討してお答えするつもりなので、返す返すもあしからずご配慮に預かりたい」ということになった。(われわれ一同は)七ツ半(午前五時)ごろ旅館を出て、それから分かれて下宿へ帰った。村田仁右衛門が下宿に来たので概略を話した。すでに住吉陣屋の者どもは伏見へ出兵したということだった。翌十一月一日、中川侯の家臣の用人熊田用助・留守居熊田権八が訪ねて来て、「主人はとくと考え、皆さま方が言われた通りに納得し、彌右衛門一党の赦免を申し付けました。それを知らせる飛脚を国許に送ります。私どもは今夕上京し、正親町大納言さまとは縁続きなので、お詫びを申し上げ、議奏方に取り計らいをお頼みしますが、それでいかがでしょうか」と言うので、「ごもっともの処置です」と答えた。その後、中川侯は(朝廷に)嘆願書を出し、それに対し、「憐れみと寛大な心をもって特別に不問に付す。これから懸命に心がけ、国家の安危を左右するこのときに、純な忠義の心で尽力いたすように」というお答えがあった。

十一月

一 この月二日、勅使の旅館へ容堂公がお出でになったとのこと。

一 同夜、下横目の(広田)章次が暗殺され、裸体にして伏見の川の中にあったという。章次は吉田元吉暗殺の下手人探索に熱心だったからだという。(注⑩)

【注⑩。このころ大阪や伏見で吉田東洋暗殺の下手人を追っていた土佐藩の下横目二人が殺されている。一人が広田章次、もう一人が井上佐一郎。井上は朝日日本歴史人物事典 によると、「没年:文久2.8.2(1862.8.26)生年:生年不詳」で「幕末の土佐(高知)藩士。吉田東洋の庇護を受ける。下横目の職務からも東洋を殺害した尊攘派の犯人の探索を続けた。藩主山内豊範に従って大坂に滞在中,岡田以蔵ら土佐藩尊攘派の手にかかって殺害された。(井上勲)」という。

(続。今回は講談社の本田靖春ノンフィクション賞の選考会があったため、そちらのほうに時間をとられて、現代語訳作業がはかどりませんでした。申し訳ありません。いつものことながら誤訳だらけかもしれませんが、ご容赦ください)