わき道をゆく第216回 現代語訳・保古飛呂比 その㊵

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一 同(文久二年十一月)二日、谷守部・樋口眞吉が九州より上京[別に樋口の日記あり。参照すべし]

[参考]
  一 十一月五日、朝廷から容堂侯へのお沙汰は次の通り。
 一橋刑部卿(慶喜)・松平春嶽がこのところ所労(=患い、病気あるいは疲れ)のため引き籠っているという風聞である。これについては、このまま日にちが経過して、朝命(朝廷の命令)の実行も延期されるようなことになると、有志の輩が我慢できずに暴発してしまう恐れもある。これでは国内の混乱が夷族(外国勢)の思うつぼになり、実に容易ならざる事態だと天子は胸を痛めておられる。なので精々穏便にし、国益を心がけ、もっぱら(幕府内の意見対立を)収めるようにされたしとのご意向である。

 この文書は五日夜、(武家傳奏の)坊城(俊克)さまから(土佐藩の)重役に呼び出しがあったため横山覚馬が参殿し、(坊城)大納言さまより受け取ったものだ。その際、(坊城さまは)口頭で「容堂が(慶喜・春嶽と)話し合い、本文の趣旨に沿って国事を周旋するように」と仰り、「至急(容堂がいる)江戸へ伝えよ」とお命じになった。[記録抄出]

[参考](※魚住注。以下の文章は誰のものか明記されていないが、内容からして土佐藩の江戸藩邸詰め幹部によるものと思われる。意味のわかりにくいところがあるが、ご勘弁を)

一 十一月五日、同夜、御徒目付(小目付の配下の下級役人)が己屋(藩邸内の自宅)より呼びに来たので会った。詳しいことは今夜、京都より早追いの使者として到着した羽山郷の千屋金作(注①。注②)と、下代類(足軽身分の一種)の傳左衛門が話したのだが、彼らが言うには、先月十五日、御国(土佐のこと)より有志の者が出発し、二十五日に京都着、中一日おいて二十七日に(江戸に向けて)京都を発った。このとき京都に届いたのは、豊後岡藩の小河彌右衛門とその同志十人が先日、勅諚をいただいて帰国したのに、かえって牢獄に閉じ込められたという知らせだった。そのことが青蓮院宮さま(朝彦親王)の逆鱗に触れ、薩長土の三藩へ「違勅ノ初可討取旨被命候處」(※文脈から判断して、天子の命令に背いたので討ち取れと命じられたためという意味だが、正確にはわからない)、三藩の者どもが評議して、彼の国(豊後岡藩)に行き、「解悟(ママ)シ」(※ママとルビが振ってあるので誤植だろう。おそらく説得してとか、条理を言い聞かせてとかいった意味だろう)、それでも勅諚に違背するなら、討ち果たすべきだと一決し、すでに三藩の英士二人ずつを選んで出発させた。ところが途中で(豊後岡藩主の)中川侯が(江戸に向け)出発したとの知らせを受けたので引き返した。そして、(中川侯に)事情を話して京都・伏見あたりで(江戸に行くのを)食い止め、返答によっては討ち取る支度をしたうえで、先日国許より出て来た五十人の勇士が大津に泊まっているのを京都に呼び返すことにした。その五十人の中から千屋金作・傳左衛門の二人が今夜、早駕籠で到着したので、御目付方が同席のうえ役頭たちに指示した。(自分は己屋に)帰って恒之助を呼び、内々で御徒使い(おかちづかい。伝令役のこと)に出されるかもしれないので準備しておくように申しおいた。その後また小南五郎右衛門殿のところに出かけて、帰ってから寝た。七ツ時(午前四時ごろ)のことである。[諸家筆記]

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、千屋金策(ちや-きんさく。1843-1865)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。天保(てんぽう)14年6月15日生まれ。千屋菊次郎の弟。土佐(高知県)の人。大坂で緒方研堂に医学をまなぶ。文久元年土佐勤王党にくわわる。元治(げんじ)元年長門(ながと)にいき,京都禁門の変で敗れる。井原応輔らと遊説中,美作(みまさか)(岡山県)英田郡土居で賊と誤解されて包囲され,元治2年2月22日自刃(じじん)。23歳。名は孝成」】

【注②。ちなみに千屋金策の兄菊次郎も尊攘運動家として知られているので、ここで紹介しておく。やはりデジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、千屋菊次郎(ちや-きくじろう。1837-1864)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。天保(てんぽう)8年8月生まれ。千屋金策の兄。土佐(高知県)の人。武市瑞山(たけち-ずいざん)にしたがい土佐勤王党にくわわる。文久3年松山正夫と周防(すおう)(山口県)三田尻にいき三条実美(さねとみ)ら七卿を護衛。禁門の変では萩藩忠勇隊に属し,敗れて元治(げんじ)元年7月21日山城(京都府)天王山で自刃(じじん)した。28歳。名は孝健,のち栄」】

[参考]
一 十一月六日、東海道の宿々の惣代が我が藩に提出した届けは次の通り。

      口上覚え
 先般、お公家衆が江戸へ下られるとき、ご当家(土佐藩)のご家中が警衛のため通行されました。例年、私どもが(東海道を通る)お公家衆のお世話をする際、(お公家衆の中で)身分の低い方々が「天内入魂」(偉い役人に金銭を差し上げるという意味)と称して金銭をとることがなくならず、宿々や助郷(注③)の村々は難儀しておりました。ところが、このたび(の土佐藩家中の通行では)お供の者を厳格に取り締まっておられたので、(天内入魂のような)諸費がいささかもかからず、まことにもってありがたき幸せと存じます。このむねを宿々や助郷村の惣代が申し上げます。以上。
    戊(文久二年)十一月

東海道宿々助郷村役人惣代

品川宿問屋 安之助
神奈川宿同 伊兵衛
品川宿助郷同 岩村名主 周蔵
川崎宿同 堀内村同 次郎兵衛
神奈川宿同 篠原村同 権右衛門
程ケ谷宿同 俣野村同 又十郎
藤澤宿同 關村同 清右衛門
平塚宿同 豊田村同 善兵衛

 土州さま
    御役人の皆さま

【注③。精選版 日本国語大辞典によると、助郷(すけ‐ごう)は「江戸時代、宿駅常備の人馬が不足で支障をきたす場合に、幕府または諸藩が、その補充のため人馬を提供させた宿駅近傍の郷村。また、その課役や制度。最初は臨時的なものであったが、参勤交代などによる交通需要の増大に伴って恒常化し、宿駅には集会所、事務所として助郷会所が設けられ、交替で駐在する助郷惣代が置かれるようになった。助郷村。〔民間省要(1721)〕」】

[参考]
一 現在、他藩での風説は左のごとしという。
 一 これまで京都住まいの公家衆には(江戸への)道中または江戸滞留中、とかく賄賂や音物(いんもつ。贈り物・進物のこと)など卑劣な行いがあったが、昨今の政治情勢ではそうしたことがあってはよくないので、先日、大原左衛門督殿の(関東)下向の際には薩州侯(島津久光)が付き添い、今度の両卿下向については土州侯(山内豊範)が万事受け持ち、道中のさまざまな出費にかかわる雑掌(公家の雑務を行う者)・青士(公家の家臣)の末端にいたるまで、それぞれに変名した藩士を付き添わせ、すべてのことにおいて厳重に管理した。このため道中は他の行列よりも威張っていて、手荒といわれるようなふるまいもあったとのこと。(注④)
 一 土州侯は道中筋でいつになくとても威張っていて、宿において馬子、人足、往来の者等へ手荒なふるまいが多くあったとのこと。
 こうした世の風説は、佐幕家がとかく勤王家の不利になることを針小棒大にしゃべり散らした結果だろう。
 一 京都で評判よろしく、このごろ市中で次のように唱えているとのこと。
 薩州・長州・土州の三藩へ何事でも願い出よ。理非明白、すぐさま埒が明くと。
 一 (土佐の)お国で佐幕家の説は次の通り。
 姉小路卿の下向の際、武市半平太は本棒駕籠(身分の高い者を乗せる駕籠か)に乗り、平井収二郎(注⑤)は在京中、物頭の槍印(注⑥。平井の家格は物頭より低い新留守居組だった)を付けた。いずれも僭上だという誹謗が甚だしい。

 一 東海道の問屋たちの話に、
 本年四月より東海道を通る早追い駕籠は土州・因州が多かった。そのほか京都・大坂間を上下する状箱(注⑦)の早追いはたくさんとの風説があるという。

【注④。三條・姉小路勅使下向の警衛については佐佐木高行が『佐佐木老候昔日談』で語っているのでそれを引用する。「さて京都に於ては、勅使大原卿の齎らした結果が甚だ不充分であるといふ處からして、此度は更に勤王家の巨魁とせる三条実美、姉小路公知両卿を勅使として、関東に下向せしめ、攘夷の事に就て厳命を下す事になつて、君侯はその警衛を仰付つて、勅使より一日前、則ち十月十一日京都を御出発になつた。両卿随従の費用は、小南等の計ひで一切土佐で辯ずることとし、正使に十六人、副使に十一人の御供を付け、夫には皆在京の勤王家を以て充てた。武市は姉小路卿の雑掌となつて柳川左門と変名し、本棒駕籠に乗つて、威張つて随行し、また平井は三条家の事を一切処理した。武市が本棒籠に乗るのは当り前であるが、何にも知らぬ佐幕家連中が八釜敷言立て、後に土佐で一問題となつて、孰も僭越であると誹謗した。これは別に大した事でもないが、すべて公卿や諸侯などが東海道を往復する時には、大津から品川まで、宿々に差支なき様人馬を出せといふ先触をする。處が是迄公卿の関東下向の際などは中々大ギョウで実際必要の二倍の懸値をする。人足十人馬五頭必要の時には、人足二十人馬十頭といふ先触を出して、その不要の分は、費用に見積つて、夫丈の金を取る。つまり半分は実物で、他の半分は金だ。宿の方でも夫が習慣になつて居るから、何時も少く準備して居る。然るに愈々君侯が御下向になると、例の通り半分しか用意してない。無理はない、他は金で用意してあるのだ。けれども苟も勅使といふ以上は、正々堂々とやらなければならぬ。決して左様な陋劣の事のあるべき筈はないと、毫も仮借する處なく、其の弊を矯め、賄賂音物等の如きも厳かに禁じたから、問屋どもも予想がはづれて、大に狼狽した。武張つた土佐人であるから、少しでも後暗い事でもあると、大に力んで、果は乱暴にも及んだので、問屋も恐怖したさうだが何分是迄の費用の半分もかからぬといふので、内々喜んで、藩へその礼状を寄した。」】    

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、平井収二郎(ひらい・しゅうじろう 。没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保7(1836))は「幕末の土佐(高知)藩士,勤王運動家。幼名幾馬,通称収二郎,本名義比。文武を修め,特に史書に通じた。文久1(1861)年,土佐勤王党結成に参画し幹部となる。2年,藩論は尊王攘夷に傾き,藩主山内豊範を擁して京都に押し出した。時に諸藩の勤王運動家が続々上洛,薩長土3藩の運動が群を抜いた。収二郎は,小南五郎衛門,武市瑞山らと他藩応接役を勤め,別勅使三条実美東下の際は京都にとどまり,薩長両藩の軋轢緩和などに奔走。しかし,勤王党が構想する藩政運営方針を藩庁が容れないのを憂慮,間崎滄浪,弘瀬健太らと中川宮朝彦親王の令旨を獲得,大隠居豊資を擁立する改革推進を工作した。これが隠居山内容堂(豊信)の逆鱗に触れ,3年6月,切腹の刑に処せられた。(福地惇)」】

【注⑥。精選版 日本国語大辞典によると、槍印・槍幟(やりじるし)は「外出または戦陣のとき、存在を明示するために、槍の印付(しるしづけ)の環につける小切れ・白熊(はぐま)などの標識。」】

【注⑦。精選版 日本国語大辞典によると、状箱(じょう‐ばこ)は「 書状を入れ、使者に持たせてやる小箱。江戸時代には男子用と女子用の二種あり、男子用のものは遠距離用の白木製のものと、市内近距離用の欅材製のものがあり、女子用のものは文箱(ふばこ)といった。」】

一 十一月十一日、彦根藩の人が老中の井上(正直邸)で自害したとのこと。これについては我が藩でもそれぞれ(調査の)手配したという。(自害の動機は)知行召し上げのことで、幕府のお沙汰だとはいえ、老中[一説には三藩]などが決めたことにちがいないとして、その恨みを晴らそうとして亡命(脱藩)する者が多く、まことに不穏な情勢になったので、(土佐藩でも)谷守部・林亀吉両氏を彦根に遣わして、探索させたという。

一 同十三日、大森梅屋敷事件があったという。(注⑧)

【注⑧。この事件についての『佐佐木老侯昔日談』の記述を既に紹介したが、お忘れの方もあるだろうから再録する。「(前略)また一事件が出来した。夫は長州の久坂玄瑞や、高杉晋作等が、外国公使襲撃の挙に関連し、一寸の行違からして、長土の確執を生ぜんとしたことで、一時は中々の騒動であつた。長州の久坂や高杉等は、極の攘夷論者で、幕府を反省せしめ、攘夷を実行せんとするには、どうしても非常手段を用ゐなければいかぬ。そこでまづ攘夷の先鞭として、外人襲撃問題を引起さんとし、十一月十二日、彼等の根拠地たる品川の妓楼を出発し、十三日外国公使が金沢に遊覧するを迎へて、之を刺殺さんとした。武市には、久坂から相談があつたけれども武市はアゝいふ着実の男であつたから、血気の勇の大事を成すべからざる所以を論じて、中止を勧告した。が下士勤王家の弘瀬健太等は、大に之を壮快の事として、双手を挙げて賛成した。武市は事の容易ならざるを見て、小南に告げると、小南も驚いて容堂公に言上した。高杉等は外人刺殺が目的であるが、この間段々誤伝して、外館焼打となつて、世間でもさい云ふ様になつたのであらう。公は直に一方幕府に通じて、警戒あらん事を申立て、他方小南を使として、長門守元徳若殿に、自身出馬して鎮撫せん事を勧めた。元徳侯も驚いて、即時単騎久坂等を追うて、蒲田の梅屋敷迄行かれた。山縣半蔵等もまた其の跡を追うて、神奈川の駅端れで高杉等に追付いて若殿の命によつて連戻した。若侯から懇々と其不心得を諭し、一同も恐入って、この挙を思止つた。土佐からも、元徳侯の安否を窺ひ、且つ土佐人もその中に這入つて居る處からして、林亀吉、諏訪助左衛門、小笠原只八、山地忠七、又別に間崎哲馬、門田為之助等に、内旨を授けて遣はされた。丁度この時分、五十人組の過激家が、この邊に着く頃であるから、或は之を聞いて一緒になりはせぬかと、夫を余程懸念したのだ。林等の着いた時には、既に事件が落着して居つた。此方が這入つて行くと、中の方から周布政之助が、酔眼朦朧として、馬に乗つて出て来た。すると、周布は、林等をジロリと見て、『容堂公は幕府に参しながら、攘夷を決行し得ない。この一挙も、つまりは夫が原因だ。のみならず、公は大に狡猾で、ゆくゆくは天下を取る野心がある』と罵つた。山地等は、皆暴虎馮河の勇者だ。烈火の如く憤つて、『何とおつやる』と馬上の提灯を後に廻して詰寄つた。腰間の秋水将に鞘を脱せんとし、危機は一髪の間に迫つた。この時傍に居た高杉は、『斯様な不埒な奴は、他藩の手を煩はすに及ばぬ、拙者成敗致す』と刃をかざして周布を切つたが、切先が漸く馬の尻に達した位、馬は驚いて懸出した。周布は之を機会に、一目散に逃出したが、酔うた酒も、さすがに醒めたであらう。林等は切歯して藩邸に帰り、前後の状況を復命し、『君辱めらるれば即ち臣死す』といふ本文がある。どうしても周布の首を貰はなければならぬ』と翌十四日の早朝、四人は死を決して外桜田の長州邸にゆき、本山只一郎等も之に加はつた。小南は重役でもあり、又老練である。林等よりは前に来て、長州の重役と熟談して居た。乾も重役であるから林等の後を追うて来て、小南と共に談判の衝に当つた。元徳若殿が、一同を召して、懇の御挨拶をされたから一同も左様で御座らばといふので、藩邸に引取ると、若殿は鍛冶橋邸に来て、君侯に周布の失言を謝し、其の処分は、父大膳太夫が留守であるから、暫く猶予して呉れる様にと云ふので、公も一命にかゝはらぬ様にと、御会釈を成される。藩邸の連中は、今日こそ若殿が周布の首を持つて来ると予期して居たが、さうでなかつたものだから、大に失望したといふ事だ。十六日に、老公は更に長州の重臣を召して、この国家志士を要する際、周布の処分は、寛大にする様にとの御沙汰があつた。そこで長土の間に事あらむとせし問題も、円満に解決されて、周布も切腹せずに済んだ。後周布は麻田公輔と変名し、何かで切腹したが、土佐では、この事件に関係して居るやうに云うて居た。明治維新になつてから、老公が両国へ舟遊びに行かれた時など『ドウも周布がねらつていかぬ』と語られた事があつた。周布とは、今の神奈川県の知事の周布男爵で、政之助の弟だ。】

 [参考]
  一 小原氏の随筆に曰く。
    同十五日、(京の)河原に女の面縛(両手を後ろ手に縛り、顔を前にさし出しさらすこと=精選版 日本国語大辞典)あり。村田かずへ(村山たかのこと。注⑨)と言う。多田離縁の後、永野主膳(長野主膳のこと。注⑩)の妻となった者である。翌日、また河原に梟首(さらし首)あり。多田帯刀といって、かずへの子である。

【注⑨。朝日日本歴史人物事典によると、村山たか(没年:明治9(1876)生年:文化6?(1809))は「安政の大獄にかかわった井伊直弼の侍女。近江多賀社尊勝院主の娘。母は同社般若院住職の妹。同社寺侍村山氏の養女となり,伯父に育てられる。美貌と才気の持ち主で,京都に出て芸妓となり可寿江と称した。金閣寺住職に請われて隠し妻となり25歳で一子帯刀をもうけたのち,同寺寺侍多田一郎時員の妻となるが2年で離縁。彦根に帰り,部屋住み時代の井伊直弼の寵を受ける。やがて直弼の側近,長野主膳(義言)と親しくなり,主膳と共に直弼の政敵を探索した。文久2(1862)年11月,幕府権威の失墜を狙う尊攘派によって京都三条大橋に生き晒しになるが,助けられて尼となり,名を妙寿と改めて洛北金福寺に入った。(大谷泰子)」】

【注⑩。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、長野主膳(ながのしゅぜん。1815―1862)は「江戸後期の彦根(ひこね)藩士、国学者。初め主馬(しゅめ)、諱(いみな)は義言(よしとき)、号は桃廼舎(もものや)。250石。伊勢(いせ)生まれというが、その出自は不明。国学を講じながら妻多紀(たき)とともに諸国を遊歴し、1841年(天保12)近江(おうみ)国坂田郡志賀谷(しがや)村(滋賀県米原(まいばら)市志賀谷)に高尚(こうしょう)館を開く。翌年その名声を聞いた当時埋木舎(うもれぎのや)住まいの井伊直弼(なおすけ)が入門し、50年(嘉永3)彦根藩主となるに及んで、52年4月弘道館(こうどうかん)国学方二十人扶持(ぶち)で召し抱えられた。国学、歌学に長じていたのみならず、直弼が大老に就任するやその懐刀的存在として敏腕を振るい、安政(あんせい)の大獄に関与した。62年(文久2)の政変で8月27日斬罪(ざんざい)に処せられた。著書に『古学答問録』『沢之根世利(さわのねせり)』『桃廼舎歌集』など多数がある。[藤田恒春]『東京大学史料編纂所編『井伊家史料』既刊25冊(1959~ ・東京大学出版会)』▽『吉田常吉著『井伊直弼』(1963・吉川弘文館)』」】

一 同二十日夜、井伊掃部頭以下が追罰(ついばつ。あとから罰せられること)された。次の通り。
     申し渡しの覚え
 その方の父掃部頭(直弼)は生前、お上の役を勤め、幼い将軍を補佐して万事委任されていた。その際、京都(の天子)の宸襟を悩ますように取り計らったので、公武の合体にも悪影響を与え、天下の人心の軋轢の原因をつくり、かつまた賞罰や、部下の昇任・降格の判断を身勝手に行い、賄賂や私謁(個人的な頼みごと)も少なくなく、天子の御明徳を汚した。不慮の死を遂げた後、天子の御心を欺いていたことが追々天子の耳に入ったので、重々不束に思し召された。このため厳しく処罰すべきところ、死後のことでもあるので、破格のお許しをもって、その方の禄高のうち十万石を召し上げる。
 内藤紀伊守(信親。文久二年に老中免職) 先年村替えになった一万石を旧地に戻すことを仰せつけられる。
 間部下総守(詮勝。安政六年末、老中免職) このたび慎みを仰せつけられ、隠居。
 酒井若狭守(忠義。文久二年六月、京都所司代を辞職) 蟄居を仰せつけられる。
 堀田備中守(正睦。安政五年、老中罷免) 蟄居を仰せつけられる。
 久世大和守(広周。文久二年六月、老中免職) 一万石を召し上げられ、永蟄居を仰せつけられる。
 安藤対馬守(信正。文久二年四月、老中免職) 二万石を召し上げられ、永蟄居。
 右のほか、旗本役人がお咎めを仰せつけられたとのこと。

 一 十一月二十三日、幕府の御書付(将軍・老中の命令を伝える公文書)は次の通り。
 御台(みだい)さまについて、御所の方では和宮さまと称し、当地では御台さまと称し奉っているが、当地においても和宮さまと称し奉るようにとお命じになった。

 右は、恐れながら将軍家へ御降嫁の例もなかったのでいろいろ議論がやかましく、結局のところ前記のように称し奉ることに落ち着いたという。有り難く、恐れ多いことである。

一 同日、松平讃岐守の養父・玄蕃守は蟄居。松平伯耆守は差し控え(自宅謹慎)。松平和泉守[先年、村替えを仰せつけられた一万石を旧地に戻し、隠居]、松平主水正の養父・和泉守[同文言]、脇坂淡路守の養父・揖水は屹度慎み、水野出羽守の養父・左京大夫は差し控え、その他の旗本の分は略す。

[参考]
一 野呂氏の書簡は次の通り。
 寸楮(短い手紙。自分の手紙をへりくだっていう語)をもって啓上します。元弘帝(後醍醐天皇のこと)の御陵で怪しい鳴動があり、御陵周辺も破損したとのこと。戸田和三郎(忠至。注⑪)殿の御届書(山陵修補の建白書)の通りです。最近、有志の人があって、江戸より彼の御陵に参拝し、せめてお掃除なりともと申し、その辺に仮の草庵を建てて、しばし宮仕えしているのですが、何かで聞いたその人の話に、(後醍醐天皇の霊が)深夜にお出ましになり、供奉の人を催促されておられる様子を彷彿とさせるそうです。このことを考えると、このたびは天子自らが征討の軍を率いよという叡慮とも、恐れながら愚考します。貴方さまのお考えはいかがでしょうか。
  霜月(十一月)二十五日    同  善六より
   野呂久左衛門さま(野呂直貞のことか。注⑫)
       御取次の方々

【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、戸田忠至(とだ・ただゆき。没年:明治16.3.30(1883)生年:文化6.8.11(1809.9.20))は「幕末の宇都宮藩(栃木県)家老,高徳藩(同県)藩主。宇都宮藩主戸田氏の一族に生まれ,天保13(1842)年家老間瀬家を継ぐ。文久2(1862)年,同藩士大橋訥庵らが坂下門外での安藤信正襲撃事件関係者として逮捕され,藩に害がおよぶのを避ける目的もあって天皇陵修補の建白書を幕府に提出,藩主名代として山陵御締向御普請御用に命ぜらる。この間姓を戸田に改め,上洛して朝廷に建言,容れられて山陵奉行となる。修補工事は同3年末に終了。翌元治1(1864)年1月大名格を許され,慶応2(1866)年3月立藩。同3年7月若年寄,同12月新政府参与。その後は権弁事,内弁事,宮内大丞などを歴任。山陵修補という正義をいい立て,幕末の動乱にあって見事に保身を果たした。(井上勲)」】

【注⑫。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、野呂直貞(のろ-なおさだ。1829-1883)は「幕末の武士。文政12年生まれ。備前岡山藩士土肥(どひ)典膳の家臣。平田銕胤(かねたね)に国学をまなび,京都で尊攘(そんじょう)運動家と交流。文久3年足利氏木像梟首(きょうしゅ)事件に連座し,越前(えちぜん)(福井県)勝山に幽閉された。明治16年11月死去。55歳。通称は久左衛門。」】

[参考]
一 十一月二十七日、勅使が将軍にご対面。江戸城の玄関までお出迎え、御徒番所(将軍の警護役が詰める番所)の前の板縁の所である。一橋(慶喜・将軍後見役)は玄関上の舞良戸(注⑬)を左に見て着座、総裁(政事総裁の松平春嶽)・老中は敷台(玄関を上がってすぐの部屋)に着座。直ちに(勅使を)大広間上段にお通しし、将軍がご対面。勅書を受け取り、ただちに元のところまでお送りして、退散。

【注⑬。デジタル大辞泉によると、舞良戸(まいら‐ど)は「書院造りの建具の一。框(かまち)の間に板を張り、その表側に舞良子(まいらこ)とよぶ桟(さん)を横に細かい間隔で入れた引き違い戸。」】

[参考]
一 同二十七日、使者の仙石寅治が江戸より(高知に)到着。その要旨は次の通り。
 御両殿様(太守の豊範と、隠居の容堂のこと)は公武合体の周旋に尽力され、かれこれご都合宜しく、このたび勅使が関東へ下向し、近々叡慮(天子の意向)遵奉の勅答(天子への返答)をもなされる模様である。やがて勅使が帰京の節には太守さまも同時に上京のうえ帰国されるであろう。かつまたご隠居さまも(朝廷からの)御沙汰があり次第上京の予定で、御女儀さま(豊範の正室か?)も来年早春に帰国すると仰っている。江戸表の事情は平穏に推移しており、いささかも気遣う必要がないので、国許においては御士以下すべての者たちまで人心が一つに定まるようにと思し召しておられる。しかしながら、このことが徹底していないために上下が互いに猜疑心を抱き、不穏な空気があるらしいと御両殿様は聞いておられ、深く心配されておられる。そのためこうした(御両殿様の)ご都合を末端に至るまですべての者たちが拝承し、十分に心得るようにとの仰せである。(注⑭)

【注⑭。このころの土佐藩は上士下士間の軋轢が凄まじく、国許から江戸に向かった下士五十人組も上士相手に相当手荒なことをしたらしい。『佐佐木老候昔日談』に次のような記述がある。「この一行(※魚住注。江戸に向かった五十人組のこと)の中に、坂本瀬平といふ者があつた。この男が藩庁の間諜であるといふので、半平太の実弟田内衛吉、及び今橋権助[のち巌]檜垣清治の三人が、小田原の町端で喧嘩を仕懸けてとうとう斬殺して終つた。何分過激であるからして江戸へ着しても、容堂侯も一向に御喜びにならない。小南等も手の付け様がないので、不問に付して居る。一行は益々跋扈して、絶えず士格と壓轣し、折角の上府もサツパリ効能がなかつた。イヤ江戸迄わざわざ喧嘩しに行つた様なものだ。彼等の粗暴と、上下士両派の壓轣は、日を追うて益々度を高めた。翌年容堂侯が上京されて、公武合体に周旋されて居る時分、軽格連中は、佐幕家の首を切つて御旅館の門になげこむなど、頗る暴状を極めた。上士の乾も、之に対する為め、同盟を組織して、同志中一人でも殺されたならば、速に彼等の首領たる武市を殺さうと約した。また五十人組が、公の公武合体論を因循とし、極力諫争して、若し御聞入がなければ、挙つて脱走せんとした。小笠原や乾等は之を聞いて大に激昂し、藩邸の狭いのを口実として、一人一人公が御召になつて、小門より彼等を呼び入れ、君側の者が其の側に控へて、その這入る處を待受けて、残らず首を切つて終はうとしたが、夫程過激ではいかぬと云うので止め、五十人組もまた之を聞いて思ひ止つたさうだ。かういふ様に、その壓轣は如何にも予想外であつたのだ。」。国許の状況も推して知るべし。】

一 十一月二十七日、藩において銀一匁につき銅銭四十五文、鉄銭九十文、平通用銅銭(市中で使われる銅銭)は四十文、「遣鉄銭爾来之通八十文遣之筈」(※市中で使われる鉄銭は従来通り銀一匁が八十文に相当するはず、という意味だと思うが、自信がない)、このたび藩の詮議のうえお定めになった。

一 同日、藩よりの指示。中老・物頭・平士の家来で騎馬を許された者、ならびに代々帯刀を許された者どもが文武修行のため文武館に通う際、最初にその者の名を紙面に記し、それぞれの主人より役場に届け出るようにと文武館頭取より演説があった。

一 十一月晦日、幕府の御書付は次の通り。
 今度、京都(朝廷)より厚い思し召しをもって大赦をお命じになられたが、銘々の領分などにおいて皇国の御為(おんため)と信じ込んで、法に触れる行いをし、死罪・流罪・幽囚等になった者がいれば、その詳細を調べ、名前を書いて出すようにされたし。
 右のことを一万石以上、あるいは以下の諸侯へ周知するよう。

[参考]
一 十一月、我が藩にて次の通り。
 藩ではすでに、用人(郷士、用人、徒士、足軽、武家奉公人に分かれた下士身分の一種)以下民兵に至るまで、総じて文武館への入学を許可しているが、このたび詮議の結果、その者たちが希望すれば諸武芸一切を修行することを許す、ただし馬術については従来通りとすると御惣宰さま(文武館総裁の山内豊栄)が仰った。[記録抄出]

[参考]
一 このころ[十一月より十二月の初旬に至る]、松井氏の筆記に曰く。
 このたびの勅使下向のねらいは、身分の卑しいわれらのような凡人には伺い知ることができませんが、ある人から聞いた風説をそのまま記します。
 このたびの勅使下向のねらいは、攘夷を速やかに行えという御沙汰について、その趣旨を貫徹させようとするものです。なおまた、それについて太守さまは国事周旋を(朝廷から)命じられ、勅使と同時に関東へ参府されました。こうした朝廷の内意が事前に伝わっていたのでしょうか。幕府の重臣や、政事総裁・春嶽侯をはじめとした方々による衆議がありました。その結果、このたびの勅諚の趣旨をお請けしても速やかに実行するのは難しいということになりました。その理由は未だ攘夷の備えができておらず、かつまた、異国と交易を開始しながら、今の事情を納得させないまま打ち払いということになっては、名分の立たない兵端を開くことになり、かえって異国に義戦の名分を譲ることになります。いずれにしろ、このたびの勅使のご趣意をいちどきにお請けするのは難しいので、その事情をつぶさに天子に申し上げ、お断りするほかないとの幕議があらかじめ決していたところ、そこに異論が起こり、ついに宰相春嶽侯が病気といって引き籠もりになられました。折から、我がご隠居様(容堂公)に深慮があらせられ、一通りでない周旋をされた結果、春嶽公が出仕を始められたことは前述のとおりです。今の状況で勅命の趣旨を幕府が請けないと、違勅ということになり、今よりさらに人心が離れていくのみならず、今般の旧政一新、来年早春には将軍家上洛もされる予定で、これらは尊皇第一、攘夷の計略も献じられる予定であるのに、それらのことも空しくなり、かつ、征夷大将軍の職掌も立たなくなるので、何分にもお請けなさるようにと(容堂公が)春嶽公ヘも示談され、ようやくお請けになると決まったとのことです。それ以来、老公(容堂公)は日々登城され、夜に入って藩邸に帰り、それからさらに越前邸に行かれ、深更に及んで藩邸に帰られ、または春嶽公が(土佐藩の)藩邸に時々お出でになられ、いつも深更に帰られるところを察すると、いわゆる国家の大事が朝に夕に詰まっているので議論が数々おありになるとのこと。すでに今夜も(土佐藩の)品川藩邸に行かれ、さまざまな雄名の士を招いて終夜議論され、その翌日の明け方には薩州様の御屋敷で鷹狩りをされる予定とか。(容堂公は)まことに功なり、名を遂げられたので、この上は早々に帰国なさるという知らせが待ち遠しいものだと、ある人の話を承りました。

    十二月

一 この月朔日、太守さまが長州侯の姫君と婚礼されたとうかがった。
  これはかねて約束されていたもので、本文の通り、やがてお触れが出た。

[参考]
一 同月四日、(朝廷の)武家伝奏よりご隠居さまへ次の通り、お沙汰があった。
 松平容堂の上京について、先だってのお沙汰でも触れられていたが、今しばらく江戸に滞在して(公武の間を)周旋し、明春、大樹(将軍)が上京の際、ともに上京するよう(天子が)思し召されている。土佐守は勅使に随従して上京するようにとのお沙汰である。
      戌(文久二年)十二月四日

一 十二月四日、未下刻(午後二時ごろ)、将軍が(江戸城内の)白書院(注⑮)にお出ましになり、[自分御礼=独礼(単独で将軍に謁見すること)]、三條中納言が太刀目録(将軍への献上物の目録)と紗綾(絹織物)五巻を差し出し、姉小路少将も同じものを差し出し、将軍とご対面。高家(注⑯)による(二人の)披露が済んで、その次に、三條中納言の家老の森寺大和守・丹羽筑後守、姉小路少将の雑掌である西本近江・柳川左衛門、武市半平太が扇子を差し上げ御目見えし、大番頭(注⑰)が(三人を)披露した。それが終わって「詰合布衣」(※布衣とは、精選版日本国語大辞典によると、大紋につぐ武家の礼服、絹地無文で裏のない狩衣、また、それを着用した、御目見得以上の者を指すが、それ以上詳しいことはわからない)以上の面々が御目見え、それが済んで将軍が内裏にお入りになった。
 勅使・副使ならびに家来に対し、席で饗応がなされ、お料理が下された。将軍の使いの高家である今川刑部少輔が三條中納言へ銀二百枚、錦百把を、姉小路少将へ銀百枚、錦百把をお与えになった。

 右の文面等は勅使に対し、私見では不敬に聞こえるが、幕府の権力がいまだに先例を維持しているのに注目すべきである。尊幕家の夢が覚めない理由の一端がここにある。もっとも、今度は武市等の尽力で、将軍家より朝廷に対し奉り、臣子の礼儀を重んじ、被仰進等の文例は廃止されたとのこと。愉快。

【注⑮。精選版 日本国語大辞典によると、白書院(しろ‐しょいん。しろじょいん」とも)は「 近世、武家住宅内の建物の一つ。柱は白木(しらき)で、漆などを塗っていない書院。江戸城本丸御殿では一番主要な大広間の次にあり、表向きの部屋として儀式を行なったり、来客と対面したりするのに用いた。対面所とも。黒書院はこの奥にある。」】

【注⑯。旺文社日本史事典 三訂版によると、高家(こうけ)は「江戸幕府の職名。幕府の儀式・典礼,朝廷に対する儀式・使者・接待などにあたり,伊勢・日光の代参などをつとめた。高家とは,元来家柄のよい家のことで,1万石以下であるが,官位は大名に準じた。吉良・今川・織田氏など室町時代以来の名門の子孫で,一時は26家にも及んだ。」】

【注⑰。旺文社日本史事典 三訂版によると、大番頭(おおばんがしら)は「江戸幕府の職名。江戸城警護および江戸市中の警備にあたる大番12組が1632年までに編成された。その各組の長が大番頭で,老中の支配に属した。最初は譜代大名から任じられ,のちに上級の旗本から選ばれた。」】

[参考]
一 十二月五日、将軍の勅答は次の通り。
  勅書つつしんで拝見いたしました。勅諚の趣、畏れ奉りました。(攘夷実行のための具体的な)策略等については御委任くださるよう。衆議を尽くし、上京の上、委細を申し上げ奉ります。誠惶謹言。
    文久二戌年十二月五日

臣 家茂

 また、
 今度お命じになりました攘夷の叡慮を天下へ布告するについては、御親兵の件をお沙汰される意向だと拝承いたしました。それについては家茂が征夷の重大任務にあたっていて、かつまた近衛大将(宮中の警固にあたる長官)をも兼任しており、朝廷のご守衛は職掌でありますので、不肖ながら堅固にご守衛等の手配をいたします。なお不足にも思し召されるならば、諸藩より呼び集めるつもりですが、いったいに外夷を追い払うには皇国全域の警衛が肝要ですので、列藩については国力を養うため、九州は誰々、奥羽は誰々というように、藩鎭(地域の駐屯軍)の任務を専らにつとめさせたらよいと存じます。願わくは、この旨を聞き届けていただきたいと存じ奉ります。なお明春早々に上京のうえ、攘夷の方略をつぶさにお耳に入れさせていただくつもりです。恐惶謹言。
    十二月五日               臣 家茂

(続。今回は前回よりも少しは進みましたが、相変わらず判断に迷うような難しいところばかりです。訳が間違っていたら申し訳ありません)