わき道をゆく第217回 現代語訳・保古飛呂比 その㊶

▼バックナンバー 一覧 2023 年 8 月 22 日 魚住 昭

一 (文久二年)十二月六日、太守さまが江戸表を発たれた。勅使警衛(の任務は同年十一月、京都から江戸に)東下された時の通りだとのこと。

[参考]

一 同日、小原氏の随筆にいわく。

「勘定奉行新ニ出来ル」(注①)

大脇興之進[御山より転ず]、中島参平[国産より転ず]、池田歓蔵[御納戸より転ず]

【注①。この文は素直に読むと、勘定奉行(という役職)が新たに出来て、大脇ら三人が勘定奉行に任命されたという意味になると思う。しかし、勘定奉行という役職はこれよりはるか以前からあるはずで、文久二年になって初めて出来たとは考えにくい。となると、「新ニ出来ル」を「新たに任命された」と解するほかなくなるわけだが、それも腑に落ちない。単なる勘定奉行人事をここでわざわざ書く理由が見当たらないからだ。いろいろ調べたが、結局、何が正解なのかわからず、原文を引用せざるを得なかった。なお「御山」は山奉行のことで、山林の管理監督役、「国産」は国産方のことで、領内で生産される国産品の統制を行う役、「御納戸」は納戸役のことで、主君の衣服や調度を管理する役と思われる】

一 同月十二日、[水野痴雲の筆記には十三日夜]夜、品川台のイギリス人旅館を、何者とも知れず焼き討ちしたという。(注②)

【注②。百科事典マイペディアによると、イギリス公使館焼打事件は「幕末の対英攘夷事件。1862年(文久2年)幕府は攘夷を促す勅諚(ちょくじょう)受け入れを江戸下向中の勅使三条実美らに伝えた。一方で東禅寺事件(第1次)後の諸外国の要求を容れ,各国公使館を品川御殿山(ごてんやま)(現東京都品川区)に移す工事を進めていた。横浜外人居留地襲撃を止められて江戸桜田藩邸に謹慎中だった萩藩の高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔(伊藤博文)・志道聞多(井上馨)ら尊王攘夷派は,勅使が江戸を離れた直後の文久2年12月12日(1863年1月31日)最も工事の進んでいたイギリス公使館を襲い焼打ち,攘夷の気勢をあげた。生麦事件・東禅寺事件(第2次)に続いたこの事件にイギリスは態度を硬化。」】

一 同月二十一日、太守さまが勅使より一日先に京都へ帰り着かれたとのこと。

一 同日、五藤内蔵助殿のお宅で(高行が)小目付役を仰せつけられた。役領知(家禄とは別にその役職に与えられる知行高)は三十石。

一 同二十二日、塙次郎(塙忠宝のこと。注③)が昨夜、斬り殺されたという。

塙次郎

この者、昨年、逆賊の安藤対馬守に同調して、かねて御国体をも論じながら、前田謙助と二人で、恐れおおくも「不謂舊記」(※いわれざる旧記。廃帝の先例のことを指すと思われる)を取り調べたのは大逆のいたり、これにより、昨夜三番町において天誅を加えた。

戌十二月二十二日

この塙を斬り殺したのは、尊皇攘夷家だと誰もが考えたのだが、明治二十八年、(高行が)両宮に供奉して日光滞在中に聞いた林昇[最終の大学頭](林学斎のこと。注④)の談話によると、意外な人の指揮によるものだという。その人は河津伊豆守(河津祐邦のことか。注⑤)だとのこと。どういう訳かというに、右のようなまさしく悪説があっては、幕府がいよいよもって天朝に対して相済まぬという趣旨で、殺害させたとのことだ。

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、塙忠宝(はなわ-ただとみ。1808*-1863)は「江戸時代後期の国学者。文化4年12月8日生まれ。塙保己一(ほきいち)の4男。文政5年(1822)和学講談所御用掛となり,編修事業につくす。老中安藤信正の依頼による外国人待遇の式例調査を,廃帝の前例をしらべたと誤伝され,暗殺された。犯人は伊藤俊輔(博文),山尾庸三とされる。文久2年12月22日死去。56歳。江戸出身。名は別に瑶。通称は次郎。号は温古堂。」】

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、林学斎(はやし-がくさい1833-1906)は「幕末-明治時代の儒者。天保(てんぽう)4年生まれ。林復斎の子。林家12代となり,安政6年(1859)大学頭(だいがくのかみ)をつぎ,のち寺社奉行をかねる。維新後は司法省明法権大属(みょうぼうごんのだいぞく),日光東照宮主典・禰宜(ねぎ)などをつとめた。明治39年7月14日死去。74歳。江戸出身。名は昇。字(あざな)は平仲。著作に「学斎遺稿」。」】

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、河津祐邦(かわづ-すけくに?-1868)は「幕末の武士。幕臣。新徴組組頭から文久3年外国奉行となり,横浜鎖港交渉副使として正使池田長発(ながおき)とヨーロッパにわたる。帰国後,鎖港の不可能を報告して免職となるが,のちゆるされて長崎奉行となり,慶応4年外国事務総裁などを歴任。慶応4年3月死去。江戸出身。通称は三郎太郎。」】

一 十二月二十四日、ご隠居様(容堂公)に左の通り幕府のご指示があった。

土佐守 隠居 松平容堂

右は頻繁に登城し、御用談所へ出仕したゆえ、格別の思し召しにより、金一万両の拝借を仰せつける。

一 同二十五日、江戸発の飛脚が(高知に)到着。太守さまが、当日(十二月一日)の婚礼を首尾良く済まされた。お相手は長州侯の姫君・於俊さまである。

於俊さまは輿入れされたので御奥さまとお呼びし、これまでの御奥さま[容堂さまの御奥さま]は正君さまとお呼びするようにというご指示があった。

一 同日、山川左一右衛門(土佐藩で数少ない上士勤王派。高行の盟友)が香我美郡の郡奉行(注⑥)に任じられた。

ただし、郷廻審次郎を内密に上京させ、勅書の写しを入手させたのは、山川の香我美郡奉行在職中と思っていたのに、小原氏の筆記の(文久二年)八月十日の項に記された廣瀬堅太の談話に、「叡慮ノ御極意一冊」(勅書写しのこと)は先日、郷廻審次郎がお国(土佐)に持ち帰ったとあり(時期が合わない)、どうしてだろうか。審次郎は島本仲道(注⑦)のことである。

【注⑥。旺文社日本史事典 三訂版によると、郡奉行(こおりぶぎょう)は「江戸時代,諸藩において農村の行政にあたった役職。百姓の支配,徴税・訴訟などの事務をつかさどった。家老に属し,配下に代官・手代などがおり,城下にある役所で執務した。」】

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、島本仲道(しまもと-なかみち1833-1893)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)4年4月18日生まれ。土佐高知藩士。土佐勤王党弾圧で終身禁固となる。維新後,司法大丞となり大検事,警保頭をかね,江藤新平の腹心として司法制度改正などにつくす。明治6年江藤とともに下野。自由民権運動をすすめた。明治26年1月2日死去。61歳。通称は審次郎。号は北洲。」】

一 十二月二十六日、勅諚(天子の命令)が容堂侯に下った。次の通り。

松平容堂に対しては、明春大樹(将軍)が上洛の際、随従するよう命じていたが、勅使が最早帰京したので、早く上京するよう、さらに命じる。

一 同二十七日、太守さまの御前様の於俊さま、容堂さまの御前様の正君さま、光姫さま[容堂侯の長女]が江戸表を発って、帰国された。

[参考]

一 同二十八日、ご隠居様へ次の通り。

土佐守 隠居 松平容堂

(将軍の)手ずから羽織を下さる。

右は来年早春、京都へ参るので、将軍の御前でこれを拝領。

一 十二月下旬[日は不詳]小原與一郎が京都より帰国したので京都の景況を聞く。よほどむずかしいとのことである。歎息々々。

附録(※以下は文久二年当時、京都で他藩応接役をつとめた土佐藩士・手島八助の備忘録の抄)

一 手島氏の履歴書を参考のため、左に掲げる。[主として文久二年のことを記しているので、ここに入れた]

手島季隆[前名は八助]

文化十一[甲戌]年十月十六日、誕生。[当年(明治二十五年)、八十歳]

安政三[丙辰]年三月九日、(藩庁の)お雇い身分で、臨時御用として江戸表に派遣される。

 ただし、そのほうは、とりわけ西洋流の兵学はじめ諸流を学び、かつまた、当世の情状、外夷の形勢について、諸大家と交際し、聞いたまま監督官へ報告すべきこと。

同十一月十五日、当分操練御用を仰せつけられる。

ただし勤め方については佐佐木三四郞[高行のこと]と相談し合うこと。

同四[丁巳]年二月五日、蝦夷の箱館に派遣される。

このとき容堂公のご指示により、函館港は外夷が入船するので、外夷の情況を探り、かつ、箱館の行き帰りに、列侯の政治の長所短所、土地の形勢、物産の多寡など詳しいことを見聞し、復命せよと命じられた。

同月二十三日、江戸表を出発、同閏五月二日、江戸に帰着。

このとき(道中の)報告文を(容堂)公に提出した。探箱録と題名をつけ、和文・漢文とも四冊にまとめた。

萬延元未年三月八日、大坂表の警衛御用を仰せつけられる。

このとき容堂公は旧幕府より大坂警衛を命じられ、そのため警衛要員多数を(大坂に)差し向けられた。

文久二[壬戌]年三月二十一日、組み打ち(戦場で相手ととっ組み合って討ち取る術)の指導役を命じられる。

このとき文武館が落成し、諸士を教導した。

同年九月十五日、小監察を仰せつけられ、上方筋の情勢探索を命じられる。同十月朔日、京都着。

同年十月十日、他藩応接役を命じられ、列藩有志と交際し、薩長両藩の「當器ノ人物」(※正確にはわからないが、有能な人物という意味か)と出会う。

長州の応接役

 前田孫右衛門

 宍戸九郎右衛門

 桂小五郎[木戸孝允のこと]

 佐々木男也

薩州の応接役

 本田彌右衛門

 村山清助

 高崎左太郎

 藤井良節

我が藩の応接役

 小原與一郎

 乾作七

 手島八助

同十八日、留守居役の武山吉平へ坊城家より届いた書付は左の通り。

一 国事について諸藩より申し出があるときは学習院で議奏と武家伝奏の両役が聞き取りをする。もっとも、事の緩急もあるだろうから、今後は(学習院で)決まった会合の日だけ対応するのを止め、どの日でも対応するので、その前日に武家伝奏の月番に申し出られたい。

一 差し迫った火急の事があった場合、関白家へ申しれば、両役が参集して対応する。

  ただしこれは、周旋掛り(前記の応接役のことか)が心得ておくべきことである。

一 このごろ京都周辺では浪人体の者の往来がなくなってきた。というのも、薩州の島津三郎君(島津久光のこと)による(浪人の)鎮圧以来、誰もが帰国したからだ。すでに中川修理大夫君(豊後岡藩主・中川久昭のこと)の家来・小川彌右衛門らも同志を引き連れて帰ったとのこと。

 朝議でも内々のお褒めがあり、三郎君にもお言葉が添えられたとのこと。

同十月二十七日、長藩の前田孫右衛門の仮住まいを横山覚馬・乾作七・八助(本人)等が訪ねた。桂小五郎・佐々木男也も同席。小五郎・男也が言うには、今朝、青蓮院宮[久邇宮さまのこと]殿下に参拝したところ、法親王(青蓮院宮)がおっしゃるには、中川修理大夫がその家来・小川彌右衛門らに対し厳罰を言いつけ、禁固処分にしたとのこと。もってのほかである。彌右衛門は先だって京都・大坂方面に現れて勤王正義を唱え、「諸有志之大ニ引立ニモ相成」(※有志の者たちを大いに奮起させたというような意味だと思うが、いまひとつ自信が持てないので原文そのまま引用)、至尊(天子)のお褒めの言葉をいただいて本国へ帰った。修理大夫も(彌右衛門らに)必ず賞誉を与えるべきはずなのに、右のような次第となった。結局のところ、(修理大夫は)天威(天皇の権威)を軽蔑しているということだ。このたび勅使が下向して、重大な勅諚を幕府がどれほど遵奉するか御心を悩ませておられる時節であるのに、その際、修理大夫が違勅に相当するような振る舞いをしては、そのまま放置しておけない。だいたいのことは(青蓮院宮が)が天子に奏上して、三藩が申し合わせをし、このたび修理大夫は幕府の命令[老中職内命とのこと]で江戸へ下るとのことなので、どこかその途中の道筋へ行き、(修理大夫を)説得し、教え諭し、万一承服せぬ場合は違勅の罰を加えるため、三藩より兵員たちを伏水へ出動させ、しかるべき処置をとると宮さま(青蓮院宮)はおっしゃった。また、薩州は御所警衛のため非常に多くの人数が(京都に)出張している。土州はさいわい大阪陣屋に多人数の兵卒を置いているので、それを出動させればいいとおっしゃった。八助らはそれに対し、この件はまことに重大な事件なので、とくと考え抜いたうえで、明日打ち合わせの会合を持とうと言い置き、ひとまず前田の仮住まいを出た。翌日早朝、同人宅に集まり、小五郎が言うには、昨日再び宮さまのところに参殿したら、法親王の考えは少し穏健になり、修理大夫が万一説得に応じなかったら、伏見で三藩が(修理大夫の)江戸行きを差し止め、将軍の命令で討ち取ってしかるべしと述べられたという(※魚住注。前日の話では青蓮院宮は「違勅の罰」、つまり天子の命令で討ち取れと言っていたが、それが「将軍の命令」に変わっている)。八助ら弊藩の者は、両君(ご隠居さまと太守さま)とも江戸におられるので、私どもが取り決めをするのは難しい、「孰レ表ニテ屹度朝命無之而ハ如何敷」(※いずれにしろ朝命がなくては信用できない、といったような意味と思われるが、はっきりしないので原文引用)と言っているところへ薩藩の村山齊助が来てこう言った。「某(それがし)が今朝早々、関白殿下のもとに参上したところ、殿下は『三藩が申し合わせをして、修理大夫が朝議の不興を買っている点を(撤回するよう)説得せよ。万一彼が承服しないときに備え、三藩より伏見に相応の兵員を出動させておくよう』と言われた」。こうなったからには朝命なので、異議なしと決し、早く関係方面に働きかけ、議奏に対して(朝命を)お受けしたと申し出ることになった。これは齋助がすぐさま参殿すると言った。それから、八助らは孫右衛門方を退出し、ただちに(土佐藩の)留守居役方に集まった。そこで、作七・八助の両人はすぐさま大坂に向かい、薩長両藩と打ち合わせのうえ中川侯の旅館に行き、朝議の趣旨を説諭するよう申し付けられた。また、即刻、住吉陣屋の総督・村上仁右衛門、監察・郷権之丞に、伏見へ兵卒を出張させる手配をするよう大至急で通達した。(作七と八助は)同日七ツ時(午後四時ごろ)大坂に向けて出発し、翌日七ツ半(午前五時ごろ)到着した。すぐさま長州藩邸に行った。やがて薩藩の村山齊助・鴉木孫兵衛が来た。齋助より中川侯の留守居役へ手紙を送り、夜の四ツ時(午後十時ごろ)ごろ中川侯の旅館に行った。玄関で取り次ぎに申し入れたところ、留守居役の熊田萬八が出て来た。一同より(中川侯に)直接申し上げたいことがあるのでお目通りを願いたいと言ったところ、萬八が申すには、主人は病気につき、重役の者に話してもらいたいとのこと。内用人の草刈敬助も出て来て、主人は今夜、とりわけ体調が良くないので、何とぞ家老の者に用件を伝えてくださいと言った。「今夜、是非直接に申し上げなくてはならない。ご病気であればご寝所へうかがいたい。恐れながら御家の浮沈にもかかわる問題なので、なおまたお取り次ぎいただけないか」と申したところ、「それならば主人が面会いたします」と言うやいなや、中川侯が出てこられた。侯の目の前で一同が、今回、宮さま・関白殿下の内命があったのは、御家来の小河彌右衛門が厳罰に処せられた一件につき、朝廷が不審に思われているからだと申し述べたところ、種々の釈明があったので、なおまた縷々(るる)説明したら、侯も「朝議に違背することになってはまことにもって恐れ入ることだ」とおっしゃり、ようやく悔悟の様子になられた。「このうえはよく考え、お答えしたい。ここまで参られたご苦労については千万忝く思う。このうえは各方にお頼みすることもあるだろう」との挨拶もあり、一同退出した。

同十一月朔日、長州屋敷に行ったところ、中川侯の用人の熊田陽助・留守居役の熊田萬八が来て、昨夜の挨拶があった。「主人はよく考えたうえで、まことに各方が言われた通り納得しました。このたび彌右衛門とその一党に赦免を申し付け、追々賞誉も与えることにしたので、急ぎの飛脚を本国に遣わしました。私どもは今夕上京し、正親町大納言様が縁戚関係にあるので、取次をお願いし、お詫びを申し上げるとともに、議奏にも取り計らいをお願いするつもりです」と言った。もちろん「(中川侯は)江戸行きを断念し、いずれご赦免になったら京都に参上したいと思っているので、そのことを内々でお願いします」と言った。

同七日、本日、中川侯が嘆願書を(朝廷に)差し出した。その文面。

一 (上略)何とぞ広大の御仁恵をもって、このたびの罪状を格別にお許しいただければ、重ね重ね有り難き仕合わせと存じ奉ります。このことをひとえによろしくおとりなしのほどを願い奉ります。以上。

   中川修理大夫

同十三日、中川藩の例の三人が来て「昨日、(議奏の)中山(忠能権大納言)殿から格別の憐憫をもってお許しをいただき、まことにありがたき仕合わせです。右、お知らせします」と言った。御赦免書の写しは次の通り。

一 (上略)このたびの一件は、憐れみと寛大な許しをもって特別に不問とする。右の書面にもある通り、これからは十分に心がけ、国家の安危は現在このときにかかっているのであるから、混じりけのない忠義で尽力すべきこと。

 この事件は重大なので、前後の事情を書き取った一冊があり、そこに大略を記している。八助(筆者本人のこと)ら愚昧の者が心配したのは、藩士でありながら勅命を奉じて諸侯へ使いしたことで、過去にこういう例はなく、人はみな異数のことだと言っている。

同十二月三日、京都町奉行より周旋係の者一人、夕方出頭するよう留守居役に連絡があり、八助が行った。永井主水正殿(京都町奉行の永井尚志のこと。注⑧)の御用屋敷である。取次の者が居間に通るよう手引きした。同じ京都町奉行の瀧川播磨守(滝川具挙のこと。注⑨)と、同席した主水正殿が申されるには、「今日お呼び出ししたのは破格の相談をするためで、もちろん表立った公務のためではありません。お互いのためになることをするためにお呼び立てしたのです。それは特別なことではなく、先ごろから京都では盗賊が横行しています。三藩の名を借りて盗みなどをはたらく者がいて、その取り締まりのため、三藩より書付を出してもらい、その書付が役場に廻り、「薩長土ニハ夜分廻番被致候趣、夜分場所ヨリ差出候者ト行逢候節、不束之儀無之様御互ニ致度」(※薩長土三藩では夜分の見回り番を出していると聞いているが、その見回り番の者たちが町奉行所の者たちと行き逢った際に不束な振る舞いがないようお互いに致したく、という風に私は解釈したのだが「場所ヨリ差出候者」の「場所」の意味がよくわからない。解釈に自信がもてないので、原文のまま引用した)、そのことの心構えのために(書付を出してもらいたいと)申し上げているのです」。八助はこうお答えした。「弊藩は土佐守が江戸に出ているため、現在(京都詰めの)人員が少なく、おっしゃるような回番をしておりません。追々土佐守が帰京すれば、回番等を申し付けることもあるでしょうから、その際、いまおっしゃったことを注意するようにします」。それから他の話もあったが、すこぶる平穏であった。丁寧に酒肴の饗応もあって、退出した。(土佐藩京都屋敷に)帰ってから(上司の横山)覚馬らと(この日のことについて)話し合ったのだが、(町奉行所の対応の穏やかさが)意外で、そのうえ馳走にあずかったのに皆が驚き、かつ笑った。その馳走も変な物だから、消毒丸(毒消しの薬か)を飲んだほうがいいと戯れ言を言い合ったりした。

この消毒丸云々の話について(一言いっておくと)、このときの形勢は、幕徒(幕府の手先)であることと勤王家であることが相容れず、敵味方に分かれてせめぎ合っていた。ただし、表面では勤王を立派に申しても、内心は暴欲の徒もいるだろうし、幕徒だからといって皆々が姦佞(心がひねくれ、悪賢い)ではない。実に玉石混交、正邪を見分けがたく、危険な情勢で、暗殺暴殺が日夜発生して、今日生命があっても明日の生命は分からない。戦争では敵味方がはっきり分かるので困難はないけれど、このときは俗に言う「盲ラ八町」、暗夜に杖を失って行くようなもので、ただ正義を守り、倒れて已むの覚悟よりほかにないと思った。

【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると、永井尚志(ながい・なおむね。没年:明治24.7.1(1891)生年:文化13.11.3(1816.12.21))は「幕末の幕府官僚。三河奥殿藩(愛知県)藩主松平乗尹の2子に生まれ,3歳で父母と死別。25歳の年旗本永井家に養子に入り,弘化4(1847)年番士となる。ペリー来航後の嘉永6(1853)年10月目付に登用され,安政1(1854)年7月,長崎海軍伝習所総監理を命ぜられ任地に赴く。同4年3月伝習修業生を率いて海路江戸に帰り,12月勘定奉行。岩瀬忠震らと共に新設の外国奉行に任命され,露・英・仏との間に通商条約を調印した。同6年2月軍艦奉行に転じたが,同年8月徳川慶喜擁立を図ったとして罷職・差控に処せられた。不遇のうちに岩瀬の死を見送る。 文久2(1862)年8月京都町奉行として復帰,翌元治1(1864)年2月大目付に昇進。この間,姉小路公知暗殺事件,8月18日の政変,禁門の変にかかわり,第1次長州征討では征長総督徳川慶勝に随行して広島に出張し,長州藩庁との応接に当たる。慶応1(1865)年5月長州処分方針について老中と意見が合わず辞職,10月復職し上洛。広島に出張し長州藩使節を訊問して幕府にこれを報じる。同3年2月若年寄。大名が補任される慣行のこの職に旗本が任命されるのはほかに例をみない,それほどの抜擢であった。慶喜の側近にあり,土佐藩の運動に注目。大政奉還を実現に導き諸侯会議,公議政体の創出を図る。王政復古の政変ののち,新政府との妥協交渉に当たるが失敗。明治1(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦ののち,敗北した徳川軍を収拾し江戸に帰る。同年2月,恭順謝罪を決意した慶喜により免職・登城禁止に処せられる。8月榎本武揚の艦隊により北海道箱館に赴き,いわば蝦夷地方政権の箱館奉行に推された。翌年5月本営の五稜郭が落城し降伏,東京に送られ拘留。同5年1月赦免され開拓使用掛,左院少議官を経て同8年7月元老院権大書記官,翌年10月辞職し墨東向島に隠棲。同24年4月墨田河畔に旧幕臣を招き岩瀬追懐の宴を開き,程なく病没。(井上勲)」】

【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、滝川具挙(たきがわ-ともたか)は「幕末の武士。幕臣。外国奉行,京都町奉行などをへて元治(げんじ)元年(1864)大目付となる。大政奉還に反対。慶応4年徳川慶喜(よしのぶ)の「討薩の表」をたずさえて京都にむかうが,鹿児島藩兵の砲撃にあい,これが鳥羽・伏見の戦いの発端となる。敗戦後責任をとわれ免職。通称は三郎四郎。別名に具知。」】

十二月十日、正親町三條さまへ参殿、同日青蓮院宮さまへ参殿、拝謁を仰せつけられる。青蓮院宮さまのお話では、「先日、そなたの藩の本山只一郎(注⑩)が来た。その際、小原與一郎・手島八助は「政府ニモ預リ候話シ有之」(※政府が土佐藩庁か幕府かよくわからず、預リ候話も何を指すのかわからないので原文引用)、そこもとは機密にも関わっていると思う。これから呼びに遣わすので遠慮なく申し出でよ」と懇ろなお話もあった。それから退出し、御膳を頂戴した。

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、本山只一郎(もとやま・ただいちろう。没年:明治20.8.28(1887)生年:文政9(1826))は「土佐藩(高知県)藩士,地方官,宮司。諱は茂任。文武に優れ,嘉永6(1853)年,藩主山内豊信の側小姓,安政年間,郡奉行に任じ,外圧高揚の折から,海防のための練兵や砲台構築に尽力。文久1(1861)年,藩主豊範の御側物頭役。同2年,参政吉田東洋暗殺事件を契機に藩情は一変。藩主豊範を擁して上京し,天皇から土佐藩主に国事周旋の勅諚あり,御側物頭の役職柄,別勅使三条実美らの江戸下向に斡旋尽力して功績があった。慶応2(1866)年大目付,同4年1月鳥羽・伏見の戦を機に土佐藩軍への錦旗伝達者となった。新政府に仕えたが明治8(1875)年退官,以後春日社,賀茂社などの宮司を勤めた。(福地惇)」】

同十一日、今朝、薩藩の藤井良節方で会合があるということで、当藩より覚馬・八助、長藩より前田孫右衛門・村田次郎三郎・武田正蔵が参加した。このたび外夷が攝海(大阪湾)に入ってくるという風説があり、(対処方針を)朝議で早く決定しないといけない。その件について、それぞれの議論は大同小異だったが、ついに結論が出て、近衛関白殿下に覚え書きを差し出した。次の通り。

 このごろ英船が攝海に侵入するとの風聞があります。御所周辺をはじめ八幡・山崎・浪花港口等の防禦を固めるのが肝要ですので、京都に詰めている諸侯ならびに近隣の諸大名に対策を命じていただきたい。かつまた、(外国との)応接については、幕吏ならびに諸藩より人物を選んで差し出されるように。また応接の方針は、浪花は開港の場所ではないので、横浜・長崎のどちらかに行くよう説得し、外国がそれを聞き入れず、どうしてもここでの応接を願う場合は、そのことを関東(幕府)へも伝えて諸役人を召し寄せて談判するよう命じていただきたい。もっとも、その間に相手が不作法をするような時は、断然打ち払いを命じていただきたいと存じます。なおまた闕下滞在(※諸侯が天子の命令を待ちながら京都に滞在することか)について各藩の意向をお尋ねになり、最適の処置を朝議でお決めになり、早速仰せつけられたいと存じます。以上。

同十二日、坊城さま(武家伝奏)より左の通り連絡があった。

手紙で申し上げます。ところで、明日十三日、ご相談したことがあるので、しかるべき人を二人ずつ学習院へ、正午に遅滞なくお出でくださいと申し入れするよう言いつけられました。以上です。

  浅野主膳(坊城家の雑掌)

  山科筑前守(同)

  土州屋敷

  御留守居中

同十三日、右の刻限に小原與一郎・手島八助が礼服で出頭した。

このとき他藩あわせて十一藩。長州より家老の益田弾正[衛門介こと](注⑪)ほか二人出頭。

議奏・伝奏そのほか公卿方二十二人お揃いで、中山大納言が書付をお渡しになった。内容は次の通り。

 攝海(大阪湾)の防禦はかねてから(天子に仕える者の)課題だが、(朝廷と幕府の方針が)攘夷に一決したのに対し、蛮夷がやってくるという風聞がしきりにある。いよいよ帝都の守りが行き届き、気遣う必要がないかどうか天子のお尋ねがあった。さらにまた万一、(蛮夷が)小船に乗って淀川筋を渡って来た場合、防禦の最終地点の手当て(をどうするか)について、文書で早々に詳しく言上されたい。

 京都の口々・淀川の口々・神崎川の末の口々、

右、今日出頭の者へ、各藩の考えをもって早々に申し出ること。

同十四日、早朝、議奏の中山大納言さまのもとに参殿し、文書を差し出した。書面は次の通り。

 このごろ夷船が攝海に侵入し、帝都を窺っているという風聞があります。天子さまがそれを不安に思し召されていることについて、各藩が防禦の策を献じるようお命じになりました。弊藩においては、土佐守がいまだ関東より上京しておりませんが、いつ外寇(外敵の侵攻)の禍が起きるかわからないので、(京都藩邸に)詰めております私どもが愚考しましたところでは、八幡・山崎あたりが防禦の要地なので、ここに多人数を配置すれば食い止めることができるかと存じます。しかしながら京都の警衛がしばらく空いて、無人数となるので、摂州陣屋(土佐藩の住吉陣屋)にいる人員の過半を京都に移し、山崎に交替で番にあたらせ、不意の事態が起こったときは、迅速に京都から人員を押し出し、時宜によっては摂州陣屋に残しておいた人員を出動させて挟み撃ちにすれば、勝算があり、叡慮を安んじると思います。もっとも、あらかじめその筋を動かして山崎に屯所を設置しておき、そのうえで近日、土佐守が上京した折には、なおまたしかるべき策を立てるつもりですが、一日たりともぐずぐずしてはおられぬ時勢なので急速に文書を差し出しました。朝命に対して、現在京都に詰めている者たちが考えたことですが、右の通り認めてお伺いします。以上。

 横山覚馬

 小原與一郎

 手島八助

 平井周次郎

粟田宮さまのもとに参殿、右の文書を内々で差し出した。

同二十一日、豊範公が京都に着かれた。

[追記]

同文久三亥年正月三日、豊範公が参内、天顔を拝まれ、御盃・御古衣を拝領。

同五日、今度の豊範公の参内に関して(太守さまが)拝領物を仰せつけられた。(国許にその)吉報を届ける使者を(八助が)命じられた。最速の早追いを申し付けられ、帰国した。

慶応元丑年正月、教授役として摂州陣屋詰めを命じられ、同十四日に陣屋着。日々、兵卒を教授した。

同七月七日、従来の役はそのままに、時勢探索御用を仰せつけられる。京都・大阪の間を往来し、諸藩の有志と交際して情勢を探索した。明治元戊辰年正月十五日、小監察を命じられ、軍務を兼任した。

 ただしこのとき、戊辰の役といって、国家すこぶる多事、伏見戦争以来、我が藩は勅命を受けて予州松山、讃州高松を征討。それより奥羽および北越に幾多の兵卒を出し、八助もそのことを管轄してわずかのひまなく、激務繁忙を極めた。あるとき執政の某に頼んだ。八助も出兵する一行の御用を仰せつけてほしいと。執政の某曰く。年齢が五十歳前後の者の出兵は許さない。内にいて勤労するのも、皇室のために立ち働くという意味では同じことだ。なんで内外の差別があろうかと。八助、五十歳を越えたのを生涯の遺憾とした。

明治二己巳年二月、維新以来の尽力功労に対して金十五円を下賜される。

同五月五日、刑法局幹事を仰せつけられる。格式は馬廻り、祿は百五十石。

同十二月、第四等官権少参事刑法参務となり、月俸九石。

 これは旧藩官の大目付格物頭、祿蔵米二百五十石に相当する。

同三午年八月十六日、兵学教授を仰せつけられる。官祿三十石。

 ただし兵の長官は必ず出校し、教授を受ける規則である。そのほかは希望者に教授する。

同年十月五日、士族長を仰せつけられる。上街より井口福井村の士族を支配するものである。

明治四未年、廃藩となり、

同十二卯年五月、山内家海南分校の教員となり、同十七年七月、足痛により辞職し、慰労金をいただいた。

同二十一子年九月七日、宮内省より豊景公に、嘉永六年より明治四年まで、土佐藩で皇室のために尽力した者の明細を編集するよう命じられ、季隆(八助のこと。注⑫)がその編集を仰せつけられた。

同二十五辰年四月三十日、右の編集が済み、五月一日、山内一豊公以来豊範公までの履歴の編纂を仰せつけられ、いまもってその職にある。

【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、益田右衛門介(ますだ・うえもんすけ。没年:元治1.11.11(1864.12.9)生年:天保4.9.2(1833.10.14))は「幕末の長州(萩)藩の家老。名は兼施,のち親施。通称,幾三郎,弾正,のち越中,右衛門介。号,霜台。阿武宰判(萩藩の郷村支配の中間組織)益田の永代家老家,元宣の次男で,嘉永2(1849)年1万2063石余の家督をつぐ。相州警衛総奉行として外警に当たる。安政3(1856)年に当職(国家老)に任じ,通商条約締結の際に,周布政之助らと藩の自律を唱え,当役になる。文久2(1862)年の尊攘の藩是決定に参画した。翌年の8月18日の政変で藩は京都を追われる。元治1(1864)年,上京するが,禁門の変に敗れ,第1次長州征討に際し,幕府への謝罪のために三家老のひとりとして切腹を命ぜられた。(井上勝生)」】

【注⑫。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、手島季隆(てしま-すえたか1814-1897)は「江戸後期-明治時代の武士,神職。文化11年10月16日生まれ。土佐高知藩士。弘化(こうか)元年おこぜ組の事件に連座し,文武調役を免職。安政4年藩主山内豊信(とよしげ)の命で箱館を調査,「探箱録」をあらわす。明治5年鳴無(おとなし)神社祠官となる。明治30年9月4日死去。84歳。通称は八助。号は約軒。」】

[附録]

一 幕臣山本宗節の書き付け

このたびの勅書は、攘夷の期限のこと、ならびに御親兵を新設する云々のことに相違ないとのこと。ただし、もともと(幕府が)京都を崇敬していないこと、そのほか平常の振る舞いについて、いろいろ含むところがある。(勅書とは別に)口上で伝えられたことも数件あるとのこと。井伊家をはじめこのたびお叱りの面々は、いずれも京都(朝廷)の内意であるとのこと。また島津三郎を京都守護職になされたいとの内命があったよし。また井伊家より召し上げた十万石は、もともと京都守護職のために下された土地ゆえ、今度からは朝廷が直に処置したいという意向も伝えられたとのこと。また諸侯がその分限に応じて国役銀(注⑬)を(朝廷に)捧げ出すようにとのこともあったようだ。一橋(慶喜)卿は先日、(江戸城に出仕せず)引き籠もりをなされた。これは、一橋卿が上京され、天子に直接上奏して説得なされると、公武合体の形になり、薩長のはかりごとがうまくいかなくなるので、薩長が春嶽・容堂らと通じ合い、京都に告げ知らせ、一橋卿・板倉侯らを因循姑息のように悪く言い触らし、当地(江戸)では春嶽・容堂らが(一橋卿の)上京を妨げるようあれこれと取り計らい、「終ニ御引廻ニ相成候由」(※ついに(一橋卿を)引き廻しに相成そうろうよし、と読めるが、正確な意味がわからないので原文引用)。ところが、一橋卿の悪評が天子の耳にも届いたころ、因州侯(鳥取藩主・池田慶徳のこと。注⑭)が上京されたので、公家のお偉方が(因州侯に)こう言い含めた。「元来、一橋は英明だという評判があったので、天子の内命によって将軍後見職に任じられた。しかし、その甲斐もなく、やはり姑息な政事を行うようなので、朝廷のひどい眼鏡違いということで、(天子は一橋卿に)辞職してほしいとの意向を持っておられる。そなたが上京して、幸い(一橋卿と)兄弟の縁もあることゆえ、とくと言い聞かせ、速やかに攘夷を決定するよう周旋せよ」。因州侯は江戸に行き、その旨を一橋卿に申されたのか。一橋卿は元来英明のお方ゆえ、将来を見通す力を持っておられる。ただいま攘夷を実行すると、皇国のためによくないという判断もあって、攘夷に及ばずということで、決して姑息な策ではないのだが、朝廷の意向を聞いて、大いに歎息され、皇国のため、幕府のためを思えばこそ辛苦を忘れて勤めてきたのに、かえってそれがために公武の不和のもとになっては詮ないことなので、退役すべしといって、引き籠もりをなされたとのこと。ところがただいま一橋卿に引き籠もりをされては、まことに重大事ゆえ、老中・若年寄りをはじめ役人方が罷り出て、いろいろお勧めしたが、聞き入れられなかった。かえって(一橋卿の)お言葉がごもっともなので、誰もが感涙を流して退出するはめになったとのこと。そのうち勅使とのご対面の際、一橋卿が(将軍の)名代を勤めることになり、是非出勤しなくてはならぬ事態に至り、老中方が罷り出ていろいろお勧めしたが、とてもご承知にならないので、やむなくその旨を(将軍に)申し上げたところ、将軍家が直接お出になって頼もうとおっしゃられたので、そのことをひとまず一橋卿に申し上げた。すると、(一橋卿は)それだと他のこととは違って恐れ入るので、是非出勤しないわけにはいかないが、出勤については頼みたいことがある。というのは、拙者はこれまで心より皇国のためを思い、万事取り計らってきたけれども、その気持ちが京都に通じず、かえって京都の不興を買うことになった。これは実に嘆かわしいことなので、勅使に対面したとき自分の思いを直接ぶつけてみたい。しかし、伝奏屋敷に自分が罷り越すのはいかがだろうか。老中はそのことを承知しないだろうが、それがかなわないことにはとても出勤できないので、この件をしかるべく取り計らうようにと言われたとのこと。このため、伝奏屋敷にお出でになっても構わないと申し上げたところ、ようよう(出勤を)ご承知になり、先月二十六日、ご出勤になられたとのこと。ところが、伝奏屋敷では、土佐藩の家来が多数詰めかけていて、万一一橋卿が来て、現在攘夷は実行不能という方向に(勅使を)説得し、勅使もごもっともと承知するようなことになっては皇国の為にならないということを理由に、一橋卿をその場で殺害しようとしているという情報が耳に入った。このため老中が申し合わせをしたうえで、(幕府側の)誰もが勅使に対面し、京都のご意向を十分にお引き受けし、そのうえで一橋卿が(勅使と)対面し、思うところをぶつけられたら、薩長土の神経にも触れず、よろしいだろうということになり、二十七日、公方さまが(勅使と)ご対面、二十八日、清水御殿で一橋卿がご対面ということに決まったとのこと。ところが、一橋卿はまたまた熟考され、現在薩長土をはじめ攘夷を主張し、京都ではもっぱらこのことを問題している。すでに無位無冠の島津三郎を守護職にしたいという朝廷の内命があったほどである。また関東(幕府)に対しては、これまでの政事不行き届きに関して、位階の位一等を「辞退ノ義被仰立候ト申御場合」(※位階の位一等を辞退するよう朝廷側が求めたというような意味だと思うが、正確にはわからないので原文引用)。ことに(一橋卿)ご自身も京都の評判はよくなく、不興を買っている折柄ゆえ、まず少し(攘夷の是非についての)議論等は控え、いったん京都の命にしたがわねばならぬ時節ゆえ、このたびはあれこれいわず攘夷の事をお受けすると申し上げたほうがいい。そのうえは一つ考えていることもあるというので、清水御殿でご対面の件は延期なされたとのこと。考えていることというのは、江戸で勅使の方々に胸中を打ち明けて相談し、ごもっともとわかっていただいたとしても、またまた薩長の徒が京都に誹謗中傷を吹き込めば、とても自分の思いが実現する道理はなく、かえって害を生じる恐れもある。そのため、まずいったんは京都の思し召しにしたがい、味方となって攘夷を決定し、ついては京都の警衛、大坂海岸の見分かたがたという口実で大坂表に行く。「其内ニハ因州侯御先ヘ御上京ニ於テハ、尤ノ事故、当地ニ相招キ候様ニト御沙汰有之處ニテ」(※そのころには因州侯が先に上京しているので、因州侯の仲介で一橋卿を当地(京都)へ招くようにとのお沙汰があるだろうから、といった意味だろうが、いまひとつ自信がもてないので原文引用)、京都に行く。そのうちフランス船が兵庫に到着すれば、一橋卿自身が応接をし、その模様を天子に報告するのをきっかけに、(一橋卿が)自分の思いを十分に直接申し上げて、(攘夷の)是非を説得し、天子もごもっともと思われるようにする。「御上方ノ中ニ有之故」(※意味がわからないので原文引用)、そうであるならば、すなわち関東の威厳も立ち行くようになると(一橋卿は)見込んでおられるようだ。その見込み通りになれば、関東のご運もいまだ地に落ちないということになるが、薩長の誹謗中傷があり、一方で春嶽・容堂の邪悪あり、なかなか無事に生きて帰れるとは思えないと仰ったとのこと。感涙に堪えざる次第で、聞く者はみな恐縮したとのこと。一橋卿は十五日に江戸を発たれるとのこと。

【注⑬。旺文社日本史事典 三訂版によると、国役(くにやく。貢租の一種でこくやくとも読む。)は「平安末期・鎌倉時代には国司が国内の公領・私領に課した夫役をさす。室町時代には守護が国内に賦課した諸役をいう。江戸時代には国役金・国役銀といって,天領・大名領・旗本領の中のある地域に限って幕府が課した臨時の賦課をさす。また江戸の職人に課せられた租税の名称をもさし,労役から銀納にかわった。」】

【注⑭。朝日日本歴史人物事典によると、池田慶徳(いけだ・よしのり。没年:明治10.8.2(1877)生年:天保8.7.13(1837.8.13))は「幕末の鳥取藩主。父は水戸藩主徳川斉昭,母は松波春子。江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は弟。幼名は五郎麿,雅号は竹の舎,省山。嘉永3(1850)年池田慶栄の死後,幕命によりあとを嗣ぐ。安政年間(1854~60),側用人田村貞彦らを中心に人材を登用し,藩校尚徳館の拡張,農政,軍制など多方面にわたる藩政改革を推進した。しかし,藩内の尊攘派と保守派の軋轢に苦心した。攘夷論に賛成はしたが,攘夷親征には猶予を奏請している。第1次長州征討には出兵したものの,それ以後長州を弁護しつつ,幕府に恭順の態度を示し大政奉還論を唱えた。朝幕間の板挟みとなったが,戊辰戦争では朝廷側に立つ。明治5(1872)年隠居した。<参考文献>『鳥取県史3 近世政治』」】

一 会津侯(松平容保のこと。注⑮)が京都守護職に任命されたが、京都と(幕府の)折り合いがよくないので、是非(幕府が)攘夷を決定しなければ、上京は難しく、ただいままで見合わせていた。そうしたところこのたびの意義深い(攘夷の)決定があり、それをきっかけにいよいよ上京するとのこと。

【注⑮。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、松平容保(まつだいらかたもり。1835―1893)は「幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守(わかさのかみ)、肥後守となる。美濃国(みののくに)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建の六男に生まれ、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり、1852年(嘉永5)襲封した。公武合体論を唱え、1862年(文久2)の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、尊王攘夷(じょうい)運動が熾烈(しれつ)になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとった。1863年の八月十八日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩(さつま)藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図ったが、内部対立のために失敗した。1864年(元治1)、これを好機として禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)を起こした長州藩を、薩摩・桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と協力して条約勅許問題などで活躍したが、1867年(慶応3)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(ちゅうりく)の宣旨(せんじ)が出され、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり、東北・北越に兵を展開し、籠城(ろうじょう)のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預(ながあず)けの処分を受けた。1872年(明治5)許され、1880年には東照宮宮司となった。明治26年12月5日没。[井上勝生]『手代木勝任・柴太一朗述『松平容保公伝』(『会津藩庁記録』所収・1926・日本史籍協会/復刻版・1982・東京大学出版会)』▽『山川浩著、遠山茂樹校注『京都守護職始末』全2巻(平凡社・東洋文庫)』」】

一 将軍家が位階一等を辞退するというのは、元来関東のやり方が天子の意向に叶わず、関東が京都を軽蔑していることと深く関係している。すでに将軍職をも返上させようかというほどの情勢にもなっているので、こちらから(位階一等辞退を)お願いすれば、かえって天子のお怒りも解け、万事よろしいだろうということだ。そのうち一橋卿の見込み通りになれば、(失った位階を)また取り直す機会もあるという趣意により、決定された。そのため、土岐出羽守(高家=朝廷への使者をつとめる幕臣)殿が上京したとのこと。

一 現在、政府(幕府)の威権(威力と権力)が衰え、指揮できない事態になっているので、京都へ直奏(天子に直接申し上げること)するため、フランス船が兵庫へ行くというのは、最初オランダ国より申し上げたとのこと。しかしながら、取り合ってもらえなかった。そうしたところ、外国使として国外に行った者からの手紙に、「拙者どもが初めフランスへ行ったときとは大いに違って、甚だぞんざいな扱いを受けたので事情を探ったところ、『関東の威厳はなく、京都に交渉しないといけなくなったので、関東を重んずるに及ばず』とのことだった」という。そのため捨て置くことができず、銘々の私状(私的な書簡)の中に、今度の出来事と符合することもあるのではないかと、引き合いのため、私状を残らず回収して吟味したところ、先方の通訳官から当方の通訳官への手紙の中に「京都の威勢が強く、関東の指揮ができなくなっているので、フランス国は軍艦で大坂へまわり、京都に談判する」という記述があった。また現在横浜にいるフランス人が言うにも、支那(中国)に配置していた軍艦がこのたび大坂へ来るはず、やがて来ることになるという。かれこれ符合するので、その対策として小笠原図書頭(小笠原長行のこと。注⑯)をはじめ、外国奉行・お目付らが急速に大坂へ遣わされるとのこと。

【注⑯。朝日日本歴史人物事典によると、小笠原長行(おがさわら・ながみち。没年:明治24.1.22(1891)生年:文政5.5.11(1822.6.29))は、「幕末の老中。唐津藩(佐賀県)藩主小笠原長昌の長子に生まれる。2歳で父を失い,他家から入った藩主のもとで部屋住となる。安政4(1857)年藩主長国の世子となり藩政指導に当たる。学識はつとに高名で,文久2(1862)年7月,徳川慶喜,松平慶永の幕政のもと世子の身分のまま奏者番,若年寄を経て老中格。翌年上洛,将軍徳川家茂のもと朝幕間の融和を図るが尊攘派の攻撃にあい失敗,江戸に帰る。5月決断してイギリスに生麦事件の償金を支払い,向山一履(黄村),水野忠徳らと兵約1500を率いて大坂に上陸,尊攘運動の抑圧を図るが朝廷の反発を招き,免職された。慶応1(1865)年9月老中格,次いで老中。翌2年長州処分執行のため広島に出張,小倉に渡り九州方面の征長軍指揮に当たるが,戦局は不利に進行,家茂死去の報を得て小倉を脱す。10月免職・謹慎。翌11月老中に復職。鳥羽・伏見の戦の後の明治1(1868)年2月,老中を辞職し世子の地位も放棄。江戸を脱走,奥羽越列藩同盟に加わり板倉勝静と共に参謀役。同盟崩壊後,箱館五稜郭に入る。翌2年4月戊辰戦争の最終段階,箱館戦争の最中,アメリカ船により帰京,潜伏。同5年姿を公にするが,その後も世間を絶って余生を送る。「俺の墓石には,声もなし香もなし色もあやもなしさらば此の世にのこす名もなし,とだけ刻んで,俗名も戒名もなしにして貰いたいなあ」と冗談を交えて遺言。子の長生は世間並みの墓石を作った。<参考文献>『小笠原壱岐守長行』(井上勲)」】

(続。今回で文久二年の分がようやく終わりました。明快な訳ができなかったところも多々ありますが、お許し下さい。翌文久三年からは、佐々木高行自身が歴史の表舞台に進出していきます。乞うご期待)