わき道をゆく第218回 現代語訳・保古飛呂比 その㊷

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保古飛呂比 巻十 文久三年

文久三年癸亥 (佐佐木高行) 三十四歳

正月

一 この月元日、太守さまが(京都滞在中で)お留守のため、(高知城)三ノ丸に罷り出て、御祝詞帳(祝詞を述べに来た家臣の名前を記す帳面)に姓名を記し、下城。それから近類(血縁の近い親類)に挨拶回りをした。

もともと元日・二日は、平年は終日、私の年賀のため挨拶回りするのだが、昨年の太守さまの上京以来、京都の情勢が不穏なので、御国中(藩内)もやかましく、年賀などは近類のほかは自然とりやめる形になり、自分らは早い時間から同役または親友などと会合し、時勢談をするのみである。

[参考]

一記録抄出に曰く。

正月二日、太守さまが今朝六ツ半時(午前七時ごろ)、お供の行列を組んで学習院に行き、「年始御祝詞被為請」(※学習院での年始の儀式がどういうものだかわからず、正確な訳ができない。年始の御祝詞を請けさせられ、と読み、年始のご祝詞をお受けになりという意味にとれるのだが……)、九ツ時(正午ごろ)に(宿舎に)お戻りになった。

また、巳の下刻(午前十一時ごろ。※魚住注。これだと時刻が合わないが、原文ではそうなっている)再びお供の行列を組んで、近衛関白殿・坊城殿・野々宮殿へ、右の御礼のため挨拶に回った。その際の口上は左の通り。

今日、学習院において「年始御祝詞被為請」、ありがたき仕合わせに存じ奉ります。その御礼のため参殿致しました。以上。

正月二日 御名

また別段に、

いよいよご機嫌良く年をお越しになされ、めでたいことと存じ奉ります。年始の御祝詞のため参殿いたしました。以上。

正月二日 御名

一 同三日、太守さまが参内し、竜顔を拝して、天盃を頂戴し、御衣御古(天子がいったん袖を通した衣服)を拝領された。攘夷の勅諚について、いろいろと忠義を尽くしたことに、天子は深く満足され、なおまた国家のため尽力することを頼みにしておられる。このため、特段の叡慮をもって御衣御古を下さった。もしも蛮夷との戦などで出陣する際には直垂・陣羽織の類を着用するようにとのことである。

右は、さる五日に京都を発った使者の小目付・手島八助が早追いで同十三日、(高知に)知らせをもたらした。便宜のためにここに記す。右について、少将さま(第十二代藩主・山内豊資のこと)には(太守さまの)直筆の手紙でお知らせした。そのほか(山内家)一門の方々へも側用役(藩主の側近くに仕える役)どもよりお知らせするよう、祐筆(書記官)どもより申し聞かせた。

右について家老全員への書状は次の通り。

新年の限りない御喜びを申し上げる。そちら(国許)は平安で、少将さまはますますご機嫌良く新年を迎えられ、大学さま(山内豊栄。第十代藩主・豊策の八男)はご安全に療養され、 そのほか誰もが障りなく越年したことと思う。江戸においてはご隠居様はじめ皆がご機嫌良く年を越したことと思う。当方も無事に新年を迎え、麻布(分家の麻布山内家)はじめ山内家一門も別條なく越年なされたと思われ、あれこれと欣然の至りである。

それがしは昨日三日の巳ノ刻に参内し、竜顔を拝し、天盃を頂戴した。かつ、御衣御古の拝領を仰せつけられ、かえがえすもありがたく仕合わせなことである。右の御礼と挨拶回りも滞りなく済んで安堵している。以上のことを伝えるため、使者の手島八助を差し遣わしたので、諸士へも申し聞かせてほしい。なお、このことはいずれゆっくり話すつもりである。以上。

正月四日

深尾鼎

五藤蔵之助

柴田備後

このたび参内し、拝領物等を仰せつけられたので、その旨を(国許の)藤並大明神ならびに代々の先祖の霊前に代拝し、「各之内可並相勤候」(※前記三人の家老が代拝するようにせよ、という意味だと思うが、自信がないので原文引用)。「為其如此候」(そのためかくのごとくにそうろうと読むが、慣用句でこれといった意味はない)以上。

正月四日

右につき、江戸表へ最速便の飛脚を走らせた。(以下略)

深尾丹波・桐間将監(の両家老)は江戸にいるので手紙を送り、かつ側用役・留守居役どもへも手紙を送った[文面はほとんど前と同じなので略す]。

一 雅楽助さまが兵之助と名前を変えられた。[兵之助さまは、容堂公の実弟である]。

[参考]

一 同日、太守さまが今日五ツ時(午前八時ごろ)、お供の行列を組んで京都所司代の牧野備前守(牧野忠恭のこと。注①)殿のもとへ行き、公方さま(将軍)のご機嫌を伺い、かつ、それに加えて年始の御祝詞も申し上げた。それより大通院(山内家の菩提寺)に行き、御廟御霊前に参拝を済ませ、それより諸家へ祝詞のため行かれた。[記録抄出]

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、牧野忠恭(まきの-ただゆき1824-1878)は「幕末の大名。文政7年9月1日生まれ。三河(愛知県)西尾藩主松平乗寛(のりひろ)の3男。牧野忠雅(ただまさ)の養子となり,安政5年越後(えちご)(新潟県)長岡藩主牧野家11代。奏者番,寺社奉行をへて,文久2年京都所司代。3年老中となり外交事務を担当した。明治11年9月1日死去。55歳。通称は壮之助。号は雪堂。備前守(びぜんのかみ)。」】

[参考]

一 八日、景翁さま[豊資公(第十二代藩主)]が左の通り、言明された。

天下の時勢は日々差し迫り、土佐守・容堂が対応を迫られていることは、老衰の我らにとっても心配でたまらぬ。土佐守が帰国の上はきっと考えもあるだろうが、御殿山が焼き討ち(注②)され、異人が引き払ったという風説が聞こえてきて心が休まらない。我らも無益の出費を省くので、皆の者にも覚悟があるだろうけれども、なおまた非常の心得が肝要であると思う。以上。

正月八日

【注②。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、イギリス公使館焼打事件(1863年1月31日(文久2年12月12日))は「萩藩士高杉晋作らが品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ち全焼させた事件。攘夷断行を幕府に促す勅使一行が江戸滞在中の11月13日,高杉ら10余人は横浜襲撃を計画。同藩世子毛利定広(元徳)の説得で中止したが,その後御楯(おんたて)組を組織し,勅使らが江戸を離れた後,実行した。久坂玄瑞・志道聞多(しじもんた)(井上馨)・伊藤俊輔(博文)らが参加。その後攘夷運動は激化の一途をたどった。」】

[参考]

一 同十日、太守さまが左の通り朝命を拝承された。

松平土佐守

勅使とともに江戸を出て、かれこれ尽力し、苦労されたことと思う。近日中に帰国を許されるべきところだが、当今の時勢なので、容堂が上京してくるまで京都に滞在し、(皇居の)守衛にあたるよう、仰せつけられた。容堂が上京すれば、お暇をくださるので、(容堂の)到着次第、随意帰国するように。

右につき、左の通りお受けした。

今日、(朝廷から)私へ次のようなご指示がありました。松平土佐守は、勅使とともに出府し、いろいろ尽力し、苦労をした。近日中に帰国の命令があるところだったが、昨今の時勢により、容堂が上京するまで京都に滞在し、皇居を守衛するよう仰せつけられた。容堂が上京すれば、お暇を下さるので、(容堂の)到着次第、随意帰国するように。以上のことを早速伝えたところ、(土佐守は)ありがたき仕合わせと謹んで承りました。右の御礼と、お請けしたことをお伝えするため、恐れながら私が参殿いたしました。以上。

松平土佐守家来

武山吉平

右は正月十八日、江戸を先月二十七日に発った飛脚が京都経由で(国許に)到着、知らせが届いた。[以上二件、記録抄出]

一 正月十日、ご隠居様[容堂公]が筑前藩の蒸気船で品川を発たれたとのこと。

[参考]

一 同日、藩において左の通り指示が出された。

一 平常の衣服着用で、かつ「近外出勤」(※よくわからないのだが、仕事で近場に出かけるという意味ではなかろうか)の面々は、鞭裂羽織(注③)・高襠袴(注④)小袴等を取り交わし着用して構わない。(※原文は取交着用となっているが、意味がいまひとつはっきりしない)

一 御前御殿廻り(※主君の前に出るときや御殿に入るとき、といった意味と思われる)で合口・脇差し・染め足袋を用いて構わない。

一 総じて肩衣(注⑤)の着用を(義務づけた)諸規定は以後廃止する。

一 このような今の時勢なので、医師・出家・支配地下人(土地の住民)にいたるまで武芸を許可する。もっとも馬術は不可である。本人の希望で兵籍に入ることができる。

一 兵籍入りした面々は訓練のため大洋に乗り出したければ、その旨を分一役(注⑥)

に届け出ることにより出船を許される。

ただしあらかじめ定められた期限以外乗り回すことはできない。

一 (地方に本拠を置く)土居付家老をはじめ各地の郡奉行以下の浦詰めの面々(漁村を管轄支配する者たちの意)は高知との往来に海路を通ることを許す。

【注③。打裂羽織(ぶっさきばおり)のことと思われる。精選版 日本国語大辞典によると、打裂羽織とは「武士が乗馬・旅行などのおり用いた羽織。背縫いの下半分を縫い合わせないでおくもの。打裂半纏。背裂羽織。背割羽織。引裂羽織。ぶっさばき。ぶっさき。」】

【注④。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、襠(まち)は「裁縫用語で,三角形,台形などの裁断上の差込み布。腕のつけ根など,人体の複雑な部分を立体的におおったり,手足の運動に必要なゆとりをあらかじめつくるために用いる。和裁では羽織の脇,袴やももひきの内股,洋裁ではドルマンスリーブやキモノスリーブの袖付け,また手袋の親指のつけ根などの部分に使われる。裾広がりのスカートを構成する三角布,傘の三角布なども襠の一種である。」。また、襠高袴(まちだかばかま)は、精選版 日本国語大辞典によると、「袴腰の中央から内股までの襠(まち)が高く、踏み込みの深い袴。多く乗馬用とする。うまのりばかま。まちだか。」】

【注⑤。デジタル大辞泉によると、肩衣(かたぎぬ)は「室町末期から素襖(すおう)の略装として用いた武士の公服。素襖の袖を取り除いたもので、小袖の上から着る。袴はかまと合わせて用い、上下が同地質同色の場合は裃(かみしも)といい、江戸時代には礼装とされ、相違するときは継ぎ裃とよんで略儀とした。」】

【注⑥。宿毛市史【近世編‐漁村の組織と生活‐浦奉行と分一役】によると、「分一役人は藩より各浦分に配属されたもので加俸として二人扶持を加えられていた。職掌は積出揚荷物、船舶、漁業の取締りと口銀の取立てが主たる任務であった。分一金とは漁猟など取上高の何分一を分一として出すものもあり、材木の分一などもあったが、分一金は郷帳にはのせなかった。」】

一 正月十一日、御馭初(おのりぞめ。土佐藩の伝統行事)の武者押しが行われた。

一 同十六日、(高行が)従来の役職はそのままで、当分御軍備御用兼任を仰せつけられた。

一 同二十一日、ご隠居様が大坂に到着、二十五日に京都に入られた。京都では智積院を旅館にされたとのこと。

ただし、(大坂までの)海上はしばしば風波が起こり、下田港へ再度戻られ、さらに風波のため鳥羽港にも上陸し、常安寺でお休みになった。それゆえ御延着になり、京都では大いにご案じ申し上げ、大坂よりお迎え船を仕立てたとのことである。

乗船のお供をした者たちは次の通り。

御近習御家老 深尾丹波

御側御用役 寺村左膳

大目付 小南五郎右衛門

御内用 乾退助

御側物頭 小笠原只八

御侍読 吉田文次

御侍読 細川潤次郎(注⑦)

御小納戸 衣斐小平

御側小姓 山地忠七

その他は姓名がはっきりしない。

船上では大風波のため、十人中七、八人は船酔いが甚だしかったが、ご隠居様は平気でおられたとのこと。普段のように御用をつとめた者は、御道具取締の石本権七・御供押(従者の意か)の濱田鎌之助(御料理人)のみだったという。

船長は筑前人の小野某、天気を見ないで出船したとして、下田港で勝安房守にいたく叱られた(注⑧)という。船が後戻りをしたとき、吉田文次[自分の従兄で文学家]が言った。「我が日本船ならばこのように風波で戻ることはなかった」と。小南がこの発言を詰ったため議論となり、そのとき吉田が筆をとって、義経の八島の古事を文章にしてご隠居様に差し上げ、大いにお笑いになったとのこと。

風波で船が動揺して人々が大酔したとき、衣斐小平は平気で、羽織を頭に覆って飛び回ったとのこと。軽格の医師・萩原清庵[萩原三圭(注⑨)の父]が風波がおさまったとき、和歌を詠進してご隠居様のご褒美に預かった。また風波のなか、桓武天皇九代の後胤で船幽霊の知盛(注⑩)を謡って、船中の元気を回復したという。

【注⑦。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、細川潤次郎(ほそかわじゅんじろう(1834―1923))は「明治時代の洋学者、法務官僚。名は元(はじめ)、十州と号した。土佐藩の儒者延平の子として生まれ、藩黌(はんこう)に学んだのち、長崎で蘭学(らんがく)および高島流砲術を、さらに江戸幕府の海軍操練所で航海術を修めた。土佐藩致道館藩書教授となり、藩の子弟を教育、また蒸気船の重要性を説き、軍艦取調御用掛に任ぜられ、その購入にもあたった。中浜万次郎に英語を学び、英文の世界地図を翻訳している。明治維新後は開成学校権判事(ごんのはんじ)に任ぜられ、新聞紙条例や出版条例の起草にもあたった。民部省から工務省に転じアメリカに留学。帰国後、文部省、左院、正院、元老院などの要職についた。陸海軍の刑法審査総裁、日本薬局方編纂(へんさん)総裁など法制面で活躍し、司法大輔(たいふ)兼議官ともなった。枢密顧問官、貴族院議員、同副議長、また女子高等師範学校長、華族女学校長などを歴任。著書に『山内一豊(やまうちかずとよ)夫人伝』『明治年中行事』などがある。また『古事類苑(るいえん)』の編纂総裁。文学博士。[菊池俊彦]」】

【注⑧。容堂が下田で勝海舟と会ったことについて『佐佐木老候昔日談』に次のような記述がある。有名な話なので引用しておく。「(容堂侯は)十五日漸く伊豆の下田港に着し、寶福寺に御滞在になつた。すると丁度勝安房守が寄港して、老公に面謁して、酒間坂本龍馬以下八九名脱走の徒の罪を宥さんことを請ひ、老公は彼等の事を一切勝に委任した。勝は酔中のことであるから、證據に公の愛玩する酒瓢を頂戴したいと云ふと、公は笑つて扇面を出し瓢形を画かれ、歳酔三百六十回の七字を書してやつた。船長肥田濱五郎は天候を見定めずして出帆したといふので、勝にひどく叱られたさうだ。」】

【注⑨。日本人名大辞典+Plusによると、萩原三圭(はぎわら-さんけい1840-1894)は「幕末-明治時代の医学者。天保(てんぽう)11年生まれ。土佐高知藩の細川潤次郎に蘭学を,大坂の緒方洪庵(こうあん)にオランダ医学をまなぶ。のち長崎で医学校に入学。明治2年ドイツに留学。7年東京医学校(現東大)教授。21年宮中侍医局の侍医。かたわら小児科を開業した。明治27年1月14日死去。55歳。土佐出身。名は守教。号は衆堂。」】

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、平知盛(たいらのとももり。没年:文治1.3.24(1185.4.25)生年:仁平2(1152))は「平安末期の武将。清盛の4男で,母は平時子。宗盛の同母弟で,武勇に優れ,源平の争乱での平氏を代表する人物。永暦1(1160)年以来,武蔵国を知行して東国にも勢力を伸ばしてゆき,安元1(1175)年に山門の強訴にあって内裏を守る。清盛の「最愛の息子」として2年には蔵人頭の噂もあったが,院近臣の藤原光能が任じられ,このころから平氏と後白河法皇との間の対立が表面化してくる。翌年に従三位になり,やがて中納言にまで至るが,政治の面ではめぼしい活動はみられない。その分,治承4(1180)年に起きた以仁王の乱や近江・美濃源氏の反乱などの追討活動に戦績を残し,寿永2(1183)年の都落ちののちは長門(山口県)の彦島に水軍の根拠地を置いて平氏最後の砦とした。元暦1(1184)年2月の一の谷の戦では源範頼の不意の攻撃により子の知章を失い,やがて文治1(1185)年3月の壇の浦の戦に臨む。唐船に雑兵を,和船によき人を乗せるなど源氏の目をあざむく策を用いたが,ついに敗北。「世の中はいまはかうと見えて候」と述べ,「見るべきほどのものは見つ,いまは自害せん」といい放ち入水したという。その武勇から多くの文芸が素材としている。(五味文彦)」】

一 正月二十六日、左の通り仰せつけられた。

三六の総領

佐々木三四郞

右は、(執政の)深尾鼎の用務で京都行きを命じる。道中は七日、北山道・中国路を経由。用意が整い次第、当地を出立するので、小目付の役職はそのまま。(深尾が京都に行って帰ってくるので、それに)随行する要員として遣わされるので、その旨を申しつける。以上。

文久三亥年正月二六日

執政 五藤内蔵助

同 柴田備後

同 深尾鼎

大黒金太郎殿(※大黒は佐佐木の直属の上司か)

別紙の通り。

大黒金太郎

佐佐木三四郞殿

[参考]

一 正月二十八日、朝廷が豊範公(土佐藩主)に暇(帰国許可)を下さった。この日、豊範公は京都を発って国に帰る。

二月

一 この月三日、左の通り仰せつけられる。

(佐佐木)三六の総領

佐佐木三四郞

右の者、深尾鼎の随行要員として京都に遣わされる予定だったが、その任務を取り消す。

右の通り仰せつけられたので、その旨を申し付ける。以上。

二月三日 五藤内蔵助

柴田備後

深尾鼎

百々礼三郎殿(※百々は佐佐木が属する組の組頭)

別紙の通り。

百々礼三郎

佐佐木三四郞殿

この京都行きを免じられた事情を説明しておくと、過激勤王家が京都で甚だしく跋扈する情勢下で、自分は武市らの同志だという嫌疑を受け、突然免じられたのだと内密に漏れ聞いた。笑うべきことだ。(注⑪)

【注⑪。この件については佐佐木が『佐佐木老候昔日談』で詳しく語っているので、それを引用しておく。「自分は、正月十六日、更に御軍備御用兼任を命ぜられた。この軍備に伴うて、偵察と云ふことが、尤も必要の事柄で、この急激の社界に処して、偵察を疎かにしたならば、忽ち時勢後れとなつて終ふ。のみならず、一歩を誤れば臍を噛むとも取返の付かぬ事になる。それ故藩に於ても、絶えず人を京摂の間に派して、この時勢偵察といふ事を怠らなかつた。ーこれは単に偵察といふ譯ではなかつたが、正月二十六日執政深尾鼎が京都御用筋を以て京都出張を命ぜられ、自分は其の随行を命ぜられた。それも準備整ひ次第出発せよといふ急命であつたが、自分は武市の同志と目傚されて居たので、佐幕家から異論が出て『今京都は過激勤王家が跋扈して居る。然るにさういふ處へ佐々木をやるのは、頗る危険で、火に油を灑ぐやうな者である』といふ説を主張して、逐々夫が為に二月三日京都行を免ぜられた。成程京都は過激勤王家の横行する處となつて、竟には足利将軍の木像を三條河原に梟首して、夫を徳川将軍に擬するに至つた。併しながら自分は、是等勤王家とは考へが違つて居る。二月二十二日其の報が藩に達するや、激派の勤王家は大に悦んだが、自分は一体かういふ粗暴なことは賛成が出来ぬ。一時は愉快でも将来の長計でない。否これは勤王家の大失策で、徒に佐幕家に口実を與ふるのみで、大事を成す妨害であると、真の同志と憂慮した位。もとより勤王と云ふ主義に於ては一致して居るが、彼等の仕方即ち方法に於ては、大分経庭がある。けれども藩政府の方では、そんな区別はなく、全く同穴の者と認めて居る。要路の佐幕家は益々自分を排斥して、三月五日、海防御用取扱に転任を命じた。小目付は機密に参與する事があるので、この役に写されたので、マア遷された様なものだ。」】

一 二月四日、(越前藩の松平)春嶽侯が上京。この夜、英船が兵庫に来たという説あり。探索のため下許金八・平瀬安之進が(現地に)派遣される。

[参考]

一 同九日、鷹司関白が一橋中納言(慶喜)に(天子の)命を伝えて、攘夷実行の期限を定めさせる。一橋中納言、松平肥後守(容保)・ご隠居様等と松平春嶽の旅館で会う。[藩政録による]

一 同十日、[月日は自分は十二月と覚えて居るが、いまは福岡鎌蔵の日記による]卯ノ刻(午前六時ごろ)、文武館から出火。御玄関通西鎗刀場は火災を免れた。御稽古場そのほかの建物が焼失した。(注⑫)

この火事で、同館係をつとめているので、早速駆け付けようとしたが、困窮のため火事羽織(注⑬)を阿波屋へ質入れしているので暫時見合わせた。未明ごろ、質屋より受け出しし、出勤した。いまだ消火せず、大学様が文武館総裁で御出馬されていたので、ただちにお側に罷り出た。そうするうちだんだん火が消えてきた。焼け残った場所があるので、今日は(文武館を)休業しない旨を命じていただきたいと申し上げたら、御聞き届けになったので、すぐさま大きな板に大文字で「文武休業せず」と書いて張り出した。勉強家たちは大いに張り切ったが、不勉強組は四、五日は休業と思っていたのに、と不平で、ぐずぐず小言を言い、(高行が余計なことをしたといって)目を付けられた。笑うべし、笑うべし。

このような火事の場合、一日でも休業ということになれば、現在のような時節柄、有志のやる気をくじき、怠け者は好機をつかんでいろいろ故障を言い立てたりするので、幾日も休業ということになりかねない。どうしたらいいのかと考えたところ、ふと江戸在勤中に火事のあった場所に立ち寄ると、質屋に「品物一切焼き申さず」と札を立てていたのを見たことがあった。また、ある年、松平能登守のお屋敷内から出火があり、同屋敷内にある若山壮吉先生の自宅に早速駆け付けたところ、玄関の方では他家からの使者等を受け付けている。いかにも行き届き、各自の受け持ちを守っていて、さすが大名屋敷だと感じたことがあった。これらのことを思い出したので、前述のような対処をしたのである。

一 二月十一日(注⑭)夜、一橋公より急用の連絡があり、容堂公が参邸された。越前春嶽公・会津容保公等も(そこに呼ばれた)。この席に三条実美・野々宮定功・河野公誠・橋本実麗・豊岡隨資・滋野井実在・正親町公董・姉小路公知の諸卿が来て、攘夷期限を定めることを議論した。非常に激烈だった。こうなったのは本日、鷹司関白殿に対し、長州藩の久坂義助(久坂玄瑞)・寺島忠三郎、肥後藩の轟武兵衛が攘夷期限の件を建言して退かず、[これは武市の策であることが武市傳に詳しく書かれている]つづいて三条実美公・姉小路公知公ら十二卿も鷹司関白邸に集まり、同じ件について切迫した議論を繰り広げたからである。鷹司関白殿も(攘夷期限を早く定めろという)建言に同意され、建策書を携えて(皇居に)参内した。つづいて三条・姉小路両卿らをはじめ(諸卿が)参内。(天子の)裁可を得て、三条・姉小路両卿らを一橋邸に遣わされた。このため前述の通り、春嶽公・容保公・容堂公が呼ばれた。容堂公は今日(直ちに)攘夷を実行できないという論だったが、すでに御裁可があった以上、仕方がないとして承服されたという。もっとも、議論もなかなか激烈で、徹夜して、遂に、将軍が江戸に帰った上で攘夷の期限を定め、発表することに決まったという。

一 二月十二日、太守さまが今日、着城された。よって例の道筋へ出て、お出迎え。それより三ノ丸で祝詞を申し上げる。

ところで、昨年来、朝廷と幕府の間を周旋されたのは、容堂公も同じなのだが、容堂公はこのたび江戸表より上京された。父子そろって東西に奔走されたので費用がかさみ、それに加えて(土佐の)百里の海岸防禦等についての苦心のさまなどを(太守さまが朝廷に)申し立てたところ、お暇となり、ようやく帰国されたということである。

一 同十五日、[藩政録では十四日]、容堂公が二条城へ出頭されたとのこと。

ところで、諸藩士および浪人等の暴論者の処置が議論となった。一橋公・春嶽公は厳重にすべしと言い、それに対して会津侯は、今日の形勢になったのは幕府の失政もあるから基本が立つまでは(逮捕を)控えるべきだと主張された。一橋・春嶽の二公はなかなか厳重論だったが、容堂公は会津侯に同意されたという。ことに会津侯は守護職なので、ついに会津侯の主張通りに決まったという。

一 同十六日[藩政録には竜顔を拝したのは十八日とある]、容堂公が参内、竜顔を拝し、天盃を頂戴した。

この日、容堂公は一橋公・春嶽公・会津侯と連署で、攘夷の期限を上奏されたという。

【注⑫。文武館焼失については『佐佐木老候昔日談』にも回顧談がある。内容は重複するが、よりわかりやすい部分もあるので、念のため引用しておく。「この焼失の年月に就ては、ドウも確きりせぬ。福岡鎌蔵の日記には、文久三年二月十日としてある。自分は前年の十二月と覚えて居るが、その年月の相違位は別に大した事でもないから、暫く夫にして置くが、何でも卯刻頃文武館が火事だと云ふ警報。板木が鳴る、拍子木が乱打される。自分は同館の掛りで気が気でないけれども、何分困窮で火事羽織を質入して置いたから、暫く見合せ、未明になつて、夫を受出して出勤した。火勢はなほ熾である。御総裁大学様が御出馬になられたから、其の御側に御附を申して居る中に、火も段々消えて、稽古場其外数棟の建物は焼失したが御玄関通西鎗刀場は幸に其の災を免れた。そこで自分は、大学様に今日休業せぬ様仰付られ度旨申上げたら、早速御聞届があつたので、大きな板に、墨黒々と『文武休業せず』と記して掲示した。平素勉強家は之を見て、大に喜んだけれども、怠惰の連中は四五日は必ず休業と予期して居つたので、グズグズ大不平。自然自分に目を付けたが、自分は心中可笑しくもあるし、また何となく愉快を感じた。若し此際一日にても休業したならば、當時勢有志の士気を挫折し、怠惰連中は時を得て、種々の故障を申立てる形勢であるから、今後幾日休業となるかも知れぬ。さてどうしたら宜からうと考へて居る中、先年江戸在勤の時、火事場に行つた處が、質屋に『品物一切焼き不申』と建札したのを見た事があり、また松平能登守様の屋敷内に火事があつたから、同屋敷若山先生の宅に馳付けた。處が、玄関の方では他家よりの見舞に来た人などに応接して居る。各々受持を守つて、万事克く行届いて居る。さすがに大名屋敷であるワイと感じた事があつたが、フト夫を思出して、実は上の如く取計つたのだ」】

【注⑬。デジタル大辞泉によると、火事羽織(かじ‐ばおり)は「江戸時代、火事装束に用いた羽織。武家のは革・羅紗ラシャ製の身丈が短めの打裂ぶっさき羽織で、前後5か所に定紋をつけた。火消しのは普通の羽織と同じ形で、紺無地の木綿を刺し子の袷あわせ仕立てにし、背や襟に所属の組印や組名を染め抜いた。」】

【注⑭。容堂が上京した文久三年正月から二月、三月にかけての京都の情勢については『佐佐木老候昔日談』に詳しい記述があるので、それを引用しておく。「當時京攝の過激勤王家は益々猖獗を極め、(正月)二十一日公を訪ねし池内大学の帰途を擁して暗殺し、事情を聞く用に供するといふ意を寓して、両耳を中山忠能、正親町三條実愛両卿に呈し、二十九日には千種家家臣賀川肇を殺して両手を岩倉具視、千種有任に投じて、補助の用に供すといひ、一橋侯に首を投じて攘夷の前祝に充つるといふ如き、暴挙脅喝を恣にして、遂には足利の木像を三條河原に梟して、これを以て暗に當時将軍家に擬した。かういふ報知が土佐に達する毎に、思慮なき激派は大喜びであるが、自分等はこれは却つて勤王家の失策で、徒に佐幕家に口実を與へ、大事を成す妨害となる事と大に憂慮した位であるから、目前これを見、また公の持論からいふと、随分御憤慨に堪えなかつたことであらうと思はれる。公は嘗て船中御酒宴の節云はれた様に、公武合体の御趣意である。朝幕の▢離を除いて、事を円満に解決せんとする者である。けれども當時の朝議は、実をいへば長州と浪士の説である。長州の久坂や、藩の武市などは、其の首領で、公卿を巧にあやつつて、夫を朝議にしたのであるから、円満に事を解決するのは、畢竟六ケ敷いのだ。初め老公は、一橋、越前、会津侯等と熟議して攘夷期限は将軍入朝の後と鷹司関白に通じて居つた處が、浪士は速に決定せんことを希望して、盛に運動した結果、その期限といふ事が即ち先決問題となつた。武市は即ち一策を案出して、二月十一日久坂玄瑞、轟武兵衛、寺島忠三郎を薦めて、鷹司関白邸にいつて、死を期してその期限を迫らせ、一方は、姉小路卿に説いて、同志の公卿十三卿と共に之を迫らせた。夫で関白も意を決して参内し、勅許を得て、三條、姉小路、野々宮等八卿を一橋卿の旅館に遣はして、其の期限を定めしめた。一橋侯は驚いて、春嶽侯、会津侯、及び老公を召された。八卿の議論は痛切である。老公は、今日になつて攘夷実行は出来ぬ議論で、反覆弁論し、一時なかなか激烈であつたが、既に御裁可があつた以上は致方がないと云ふので、竟に御承服になつて、将軍東帰の後、二十日間猶予するといふことになつた。夫とてももとより外国と戦端を開く考はなく、鎖港の談判を開いて見るといふ位に過ぎなかつたらしい。この以後公は、昼夜単騎にて中川宮や、高臺寺の春嶽侯や、二条城や、一橋侯や、三条家等に往来して、席温まる暇はない。十四日関白邸の会議に列席すると、久坂玄瑞が弁舌流るるが如く攘夷を論じたが、公の一喝に遇うて、唖然として沈黙した。また或る時三条卿を訪ねた處が実美卿は公にやられるのを懼れて、留守を使つた。公は夫と悟つて、さういふ事なら御待ち申さうと、腰から瓢を取出して飲んで居る。酒が無くなると詰かへさせる。夜分になつても平気で、……其中に酔うて来ると、数奇な事をする。さすがの卿も閉口して、裏門からコツソリ出て、表門に廻り行列を立てて帰館を装うた。三条卿が公に会釈すると、公は廻り路の儀近頃御苦労というて嗤て居られたといふ事だ。さういふ風であるから、勤攘家は公を目の上の瘤としたのだ。幕府の方でも浪士の横行して朝議に迄も關渉するを放任しては、その威権に關するといふので、十五日二条城に会合して、浪士の処置に就て相談された。一橋、春嶽侯は厳重論である。会津侯は寛大論で、今日の形勢になつたのは幕府の失政もあるから基本の立つ迄逮捕を寛めやうと論じ、老公も其の論に賛成され、会津侯が守護職である處から、トウトウ夫に一決したとの事で。 三月四日に至つて家茂将軍が上洛した。公等の尽力で、翌日政事は関東へ御委任といふ事になつたが、長藩や浪士の徒は、攘夷期限はもとより、天皇親征を唱へて滔天の勢である。島津久光侯は、浪士の憤激に触れ、また生麦一件もあつたので、滞京数日にして帰国し、越前侯は総裁職を辞し、二十二日窮余檀に帰国した。公は一橋公を佐けて尽力したが、時勢日に日に非なるを見て、十三日海岸防禦の急務を口実として暇を請ひ、二十五日御実弟兵之助様の御着京の翌日、河原町の藩邸を出発して、御帰国になつたのだ。寺村左膳、乾退助、小笠原只八、毛利恭助等が随従した。自分はこの切迫の時勢に、何故に御帰りになつたのであらうか、どの道勤王家の失策からの事であらうと思つた。この前勤王家の小畑が京都から帰国したので、其の模様を聞くと、激派が頻りに堂上方に迫り、攘夷論が全盛であるというて得意さうであるから、自分は小畑に向つて『一体有志輩の志は感ずるに余りある。余りあるけれども、将軍も勅命を遵奉して、上洛の途にあるといふ事であるから、有志家は鋒を収めて上京後の処置を待ち、其の時若し朝命に違反すれば、正々堂々と違勅を以て責むべきだ。未だその処置をも見ざるに、草莽の陪臣が尊貴の間に出入し、激論を以て天下を動かさんとするは、甚だ危険である。或は彼等佐幕家に便宜を与へる様な不策に至るかも知れぬ。曾て太平記を読むに、大塔宮の御事に至つて常に歎息した。宮の御聡明にして、アノ御挙動は太だ遺憾である。北條氏は誅に伏し天子は御帰洛遊ばされた。この時尊氏の反応あるを看破された上は、再び元の天台座主に復り給ひ、尊氏の反応発露の機を逸せず、僧衣を脱し、大義を鳴らし給うたならば、天子の叡明、イカデ御疑念があらうぞ。准后の讒訴も入るるに余地があらうぞ。惜しいかな其の機を見ずして、朝野挙つて太平を賀する時、剣を研き矢を矧きて、為に讒を来し、天子の疑を起さしめた。皇子にして而も中興の元勲にして、尚かういふ風である。況んや今日の時勢に當りては、有志の徒の大に顧みる時ではないか』と、小畑は自分の考を因循として、強て論ぜず、不満の色を現はして帰つた。容堂公の御帰国も、つまりは朝廷は激徒の左右する處となつて、最早成すべからずとしてであつたらしい。後にて聞けば、果して其の通りで、自分等は、大に心配した。】

[参考]

一 二月十八日、容堂公が参内。ただしこの日、在京諸侯一同が参内、勅書二通を下さった。

その一に曰く。

醜夷が猖獗を極め、皇国を侵そうとうかがっている。万一国体を汚すようなことがあれば、速やかに掃蕩せよ。

その二に曰く。

攘夷の期限が確定したならば、全国の人民は力を合わせて誠忠を励むべし。先年以来、有志の輩で誠忠周旋する者に対し天子は満足しておられる。よって上の者に対して意見を述べる道を開き、草莽微賤といえども、学習院に於いて執事に言上すべし。

[参考]

一 同十九日、太守さまが奉行・近習・家老どもを居間へ呼び、ご自身の思うところを記した文書を渡された。次の通り。

去年上京して以来の我らの苦心を察すべし。とにかく上下一致しなければ万一の用に立ちがたい。かつ軍備等も十分手当てしなければならないが、勝手向きが困難なため、諸事思うままに実行できないことがあって心を痛めている。ゆえに手許においてもなおまた節倹するので、いずれの者もこの趣意を必ず守るようにせよ。以上。

一 同二十日、小原與一郎が京都留守居を仰せ付けられる。

一 同二十二日、足利三代将軍の木像を三条河原にさらし首にしたという。[同月最終を参照]

この知らせが(高知に)達すると、思慮なき激派の勤王家は大いに喜んだ。このため(自分は)ひそかに思った。このような粗暴な事を勤王家の側がしたのはひどい失策だ。大事をなすことができない。佐幕家に口実を与えるだけだ。害あって功なしと、真の同志と憂慮した。

(続。ようやく文久三年に入り、『保古飛呂比』第十巻目となりました。相変わらずの拙い訳ですが、どうかご容赦ください)