わき道をゆく第219回 現代語訳・保古飛呂比 その㊸
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一 (文久三年二月)二十三日、藩において左の通り。
京都の情勢はますます入り組み、かつ外国勢力の動向(夷情)も計りがたいので、(藩としての対応を)考慮中である。なおまた、今後勝手な振る舞いをせず、藩の指示通り進退すべきこと。以上。
一 同二十五日、御前様(太守さまの正室)の俊姫さま・正君さま・光姫さまが江戸表から帰国され、いつもの道筋へお迎えに出た。御前さまは二の丸へ、あとのお二方は東屋敷に入られた。東屋敷にお住まいだった民部さま(容堂の実弟)は字丑之助(?)別邸に前もって移り住まれた。
俊姫さまは長州より(嫁いで来られ)、正君さまは三条家より(嫁いできた形になっているが)、実は烏丸家から来られた。光姫さまは容堂公の長女である。
一 同二十六日、智鏡院さま(第十三代藩主・山内豊熈の正室)が江戸表を発たれたとのこと。
なお、智鏡院さまは俊常侯さまとお呼びする。薩州よりお輿入れされた方である。
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一 同二十八日、江戸よりの知らせ。英仏軍艦が横浜入港。三カ条の難問[島津泉州(久光のこと)を渡すか、また薩州へ向かう軍艦を差し出すべきか、または五万斤の金を出して償うべきか]を申し出る。(注①)
【注①。これは生麦事件をめぐる英国側の賠償要求のこと。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、生麦事件(なまむぎじけん)は「幕末、薩摩(さつま)藩士がイギリス人を殺傷した事件。1862年(文久2)8月21日、幕政改革を実現させた島津久光(ひさみつ)は、江戸をたち帰洛(きらく)の途にあった。東海道神奈川宿の東、武蔵(むさし)国生麦村(横浜市鶴見(つるみ)区)に差しかかったところ、行列の前に騎乗のままのリチャードソンらイギリス人4人が現れた。4人の行為を無礼とみた供の奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)ら数名が斬(き)りかかり、リチャードソンは絶命、2人が重傷を負った。激高した横浜在留外国人は実力報復を主張したが、イギリス代理公使ニールは外交交渉による事件解決を図った。しかし、幕府を通じての犯人引き渡し要求に対して、薩摩藩は浪人岡野新助が犯人だが行方不明との届けで押し通した。そこで同公使は、翌年2月、幕府に対して正式謝罪状の提出と償金10万ポンドの支払い、薩摩藩に2万5000ポンドの支払いと犯人処罰を要求した。5月幕府はこれに応じたが、薩摩藩があくまで拒否したため、7月薩英戦争の開戦となった。[原口 泉]」】
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一 同二十九日、軍艦買い入れのため、阿部喜藤治が江戸に向かう。
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一 入江らが足利氏木像をさらし首にした者たちの処分について嘆願した文面は、左の通り。[二十二日の記述を参照]
恐れながら嘆願いたします。
先日、等持院の足利市木像をさらし首にした浪士の者どもが召し捕られ、入牢したと聞きました。もともとこの者たちは御国に身を捧げるために京都に滞在し、攘夷の期限を待ちかね、一時も気を休めることができないので勇憤のあまり、逆賊の足利氏を憎み、名分も明らかにしたいという思いから起こったことであって、いささかも私心を抱いてのことではないと考えます。なにとぞ大赦を命じて下さるよう伏してお願いします。もし位官の者を斬首したことが、朝廷を軽蔑したことにあたり、大赦するのが難しいということになれば、すでに昨年、大赦を受けた者のうちに井伊掃部頭を打ち取った者がいます。位官を受けた掃部守を打ち取った者には朝廷を軽蔑する心は毛頭なく、みんな誠忠の者で、すべて掃部守の大逆を憎み、国家のために行動に及んだので、朝廷においては深く高大の仁恕をもって大赦を行われたと存じます。このたびの浪士の者はひたすら足利氏の大逆を正したいと思う気持ちから行動を起こしたもので、掃部守打ち取りも同様と存じます。私たちが考えますに、名分明らかな時節なので、どのような位官を戴く者でも罪悪を犯したものは処罰され、無官の者でも忠勤を尽くす者に対しては褒賞が行われるようにしたいと存じます。そうでなくては、位官を戴く者で忠勤を尽くす者が悪事をしがちになり、無官の者で忠勤を尽くす者も、位官を戴いて罪悪を犯す者に劣るという成り行きになると存じます。楠中将(正成のこと)の忠義は日月を貫き、その遺徳は今日に至っても仰ぎ慕わぬ者はいないのであって、万世の亀鑑(手本)となっています。嘉永年間に和気清麻呂公(注②)が護王大明神の神号を贈られた例にならって「出等ノ」(?)の贈官(官位を贈ること)をお命じになられるようお願いします。足利義満殿(注③)は恐れ多くも太上天皇と僭称し、鹿苑寺に位牌が厳然とあります。まことに大逆無道、一日もこの天地に容認できないものです。僭称位牌をお引き上げになり、与えた官爵を削り、乱臣賊子を懲らしめ、忠臣孝子を褒賞し、聖明高大の導きをされたならば、天下有志の者は感激に堪えず、発憤するでしょう。いよいよ神州のご威光は海外に輝くことでしょう。すでに外国の軍艦は横浜に闖入し、大阪湾に迫る恐れもあり、一日も早く打ち払わなければならぬ時にあたり、入牢して月日を過ごすのは、報国の志も空しくなります。それは彼らのために幾重にも嘆かわしいことであります。なにとぞ高大の仁恕をもって、早く大赦をお命じになるよう伏して願い上げます。恐惶頓首。
長州書生 入江九一(注④)
山縣小輔(山県有朋のこと。注⑤)
土州書生 吉村寅太郎(注⑥)
【注②。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、和気清麻呂(わけのきよまろ(733―799))は「奈良末から平安初期の公卿(くぎょう)。父は乎麻呂(おまろ)、姉は広虫(ひろむし)(法均(ほうきん))。長子広世(ひろよ)、5子真綱(まつな)、6子仲世(なかよ)らの父。備前(びぜん)国藤野郡(岡山県和気郡)の人。本姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)。淳仁(じゅんにん)朝に仕えたが、恵美押勝(えみのおしかつ)追討の功により765年(天平神護1)勲六等を授けられた。時に右兵衛少尉(うひょうえのしょうじょう)、従(じゅ)六位上。ついで藤野別真人(ふじののわけのまひと)を改めて吉備(きび)藤野和気(わけ)真人を賜った。翌年従五位下。769年(神護景雲3)輔治能(ふじの)真人。同年大宰主神習宜阿曽麻呂(だざいのかんづかさすげのあそまろ)は道鏡(どうきょう)に媚(こ)び宇佐八幡(うさはちまん)の神教と偽って道鏡を皇位に即(つ)ければ天下太平ならんと奏上した。称徳(しょうとく)女帝は大いに迷い、清麻呂を召し姉法均(ほうきん)にかわって神教を確かめるよう命じた。その出発にあたり道鏡は清麻呂に威嚇(厳罰)と懐柔(大臣)の二策を試み、道鏡の儒学の師路豊永(みちのとよなが)は、道鏡即位せば我は今日の伯夷(はくい)たらん(隠棲(いんせい)する)と哀訴した。意を決した清麻呂は宇佐から帰るとただちに「天(あま)つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇儲(こうちょ)(皇統に連なる人)を立てよ。無道の人は宜(よろ)しく早(すみやか)に掃(はら)い除くべし」との神教を奏上した。激怒した道鏡は清麻呂の官爵を削り名も別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改めて大隅(おおすみ)(鹿児島県)に配流した。翌年女帝が崩じ光仁(こうにん)天皇が即位するとただちに召還され、ついで本位従五位下に復し、和気公(わけのきみ)、和気宿禰(すくね)を経て774年(宝亀5)和気朝臣(あそん)を賜った。784年(延暦3)長岡造京の功により従四位上、796年平安京造営の功により従三位(じゅさんみ)に昇る。この間平安遷都を建議し、摂津大夫(せっつのだいぶ)としては大和(やまと)川を西に通じて難波(なにわ)の洪水を除かんとした。799年に没して正三位を贈られたが、降って1851年(嘉永4)正一位護王(ごおう)大明神の神階神号を授けられ、86年(明治19)京都市上京(かみぎょう)区の護王神社に祀(まつ)られた。[黛 弘道]」】
【注③。精選版 日本国語大辞典によると、足利義満(あしかが‐よしみつ)は「室町幕府第三代将軍。義詮(よしあきら)の子。応安元年(一三六八)将軍となる。有力守護大名や朝廷を抑え、室町幕府権力を確立。応永元年(一三九四)一二月、将軍職を義持に譲る。同二年出家。京都の北山に山荘を造営し金閣寺(鹿苑寺)を建て、同五年ここに移り、北山殿と称された。延文三=正平一三~応永一五年(一三五八‐一四〇八)」】
【注④。朝日日本歴史人物事典によると、入江九一(いりえ・くいち。没年:元治1.7.19(1864.8.20)生年:天保8.4.5(1837.5.9))は「幕末の長州(萩)藩の尊王攘夷運動の志士。運動の幹部,激派。名は弘毅,字は子遠,通称杉蔵,九一。足軽の家に生まれ,吉田松陰の門下生となり,尊王攘夷の運動に参画した。安政6(1859)年,松陰が門下生から孤立したのちも志を継いで活動し,弟和作と共に藩によって投獄された。文久3(1863)年,尊王攘夷に転じた藩によって終身士雇に登用された。同年,高杉晋作らの下関での奇兵隊設立に加わり,元治1(1864)年,京都禁門の変に上京藩士の幹部として活動,鷹司邸内で戦い,飛弾により重傷を負い,切腹した。(井上勝生)」】
【注⑤。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、山県有朋(やまがたありとも。[生]天保9(1838).4.22. 長門,萩[没]1922.2.1.)は「伊藤博文と並ぶ長州閥の代表的な政治家の一人。長州藩の下級武士の家に生れた。安政5 (1858) 年頃から尊王攘夷運動に参加,松下村塾に学び,のちに奇兵隊軍監となった。明治新政府のもとでヨーロッパ視察に派遣され,帰国後兵部少輔に任ぜられて軍制確立に尽力。明治5 (72) 年陸軍大輔,1873年陸軍卿になり,この間徴兵令の制定,士族,農民反乱の鎮圧,軍人勅諭の発布などに指導的役割を果し,日清,日露両戦争では陸軍の最高指導者として活躍。一方,政界では,内閣総理大臣として 89年第1次山県有朋内閣を組閣し,教育勅語の発布を進め,96年には全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結。 98年の第2次内閣組閣後は,藩閥政治の維持のため政党勢力を抑圧,軍部大臣現役武官制の公布,文官任用令改正などで,軍部,官僚の指導権確立に努めた。第2次山県有朋内閣の崩壊後も元老として内閣の人事,行政に干渉し,権力をふるったが,1921年皇太子妃選定問題で政治的失策をおかし,政治生命を失った。」】
【注⑥。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、吉村寅太郎(よしむらとらたろう。1837.4.18~63.9.27。虎太郎とも)は「幕末期の尊攘派志士。土佐国高岡郡津野山郷芳生野村の庄屋吉村太平の長男。12歳で庄屋となり各地の庄屋を歴任。その間志士と交わり,武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に参加し,1862年(文久2)脱藩。寺田屋騒動で捕らえられて土佐へ送還されたが,出獄すると翌年再び上洛し,天誅組総裁の1人となり大和国で挙兵。諸藩軍の追討をうけて苦戦し,吉野の鷲家口(わしかぐち)で戦死。」】
三月
一 この月四日、将軍が上洛、さる二月二十三日、江戸城を出発したという。
[参考]
一 同五日、京都の警衛のため、精選された士を出すようにとの命令があり、(それに対して)我が藩が提出した請願書は次の通り。
帝都を護衛する人数の多寡に応じて精選の士を備え置くようにとの命令が、先日、学習院で言い渡されました。しかしながら、近ごろ守衛を命じられ、住吉表に土地を渡されたので陣営を新築し、守備兵を交替で詰めさせております。木津川口を第一の要港とし、わずかの人員を広大な海岸に配置しても手強い防禦の態勢は所詮整いません。かねがね申し立てていますように、領国(土佐藩)は神州に二つとない海国で、東西がほとんど百里に及び、たとえ国中の人間をすべて動員したとしても兵勢充実というわけにはいかず、そのうえ京都・大坂の両所へ相当の兵を出しているため、隊伍を編成する戦士たちが(少なくて)それぞれに割り振られた持ち場に行き届いていません。せめて最初の一戦で相手に痛打を浴びせ、堅固に持ちこたえるだけの人員・器械まで手当てしなくては、守護の実をあげることができかねると、深く心痛しておりますので、十分な御評議のうえ、(土佐藩が守衛を受け持つ場所を)しかるべきところ一個所に定めてお命じになるよう願い奉ります。
三月三日 松平土佐守
一 三月五日、(高行が)海防御用取り扱いに任じられる。
小目付は微官だが、機密に関わることがある。よって海防掛かりに異動させたのだが、それは最近になって佐幕家が(高行を)忌むようになったからだと聞く。
さて海防御用を仰せ付けられたが、さしあたり手をつけるところがない。まずもって浦戸にかねて備えてある台場を改築し、香我美郡赤岡村の平井山に台場を建築するという案を(藩庁に)提出した。しかしながら、かかる費用が問題になって、(計画は)順調に運ばず、(高行が台場整備の必要性を)たびたび切迫した勢いでまくし立てた。
ちなみに言う。浦戸ならびに赤岡台場を築いたのは、文久三年より同四年春までと記憶している。もっとも改築であって、嘉永年間より安政にかけ、急に新築されたものだと思う。
一 同五日、山川左一右衛門がお側用役に任じられる。
[参考]
一 同七日、将軍が参内。その際、容堂公は病気で参内しなかった。
一 同八日、少将さま[豊資公]の七十歳のお祝い式があった。大赦を言い渡された。
一 同八日、太守さま[豊範公]の直筆で次の通り。
諸外国との和親を一度取り結んだ以上、今日の勢い(つまり攘夷の勅令が出る事態になったことを指すか)に至るといえども、我より兵端を開くことはできない。信義を失わず、言葉をもって応接の上、拒絶し、醜夷(野蛮な外国人)がもし聞かなかったら、断然戦いのほかあるまいと思う。[上下略す]
右のことは少将さまも同様に考えておられる。
[参考]
一 三月八日、高屋氏ほか一名より寺村氏に送った書翰。
ご隠居様[容堂公]のお考えも伺ってほしいということを拙者どもがお伝えするよう(太守さまから)命じられました。そのため、(建白)本文は(太守さまの)祐筆よりそちら(ご隠居さまの)の祐筆にまわしました。もしまたご隠居様の思し召しに叶わないところがあれば、それを承ったうえで削除し、「御建白之御首尾被成度」(※建白を完成させていただきたいという意味だと思うが、違うかも知れないので原文引用)。「高[ルビ・元のまま]ノ處ハ、御帰国否御廻ニ相成」(※誤植があって、よくわからないので原文をそのまま引用)、(太守さまが)考えておられることは高大の事柄なので、評議する必要もあって(建白書の完成が)遅滞いたしました。これをもってご隠居様へよろしく申し上げるよう、拙者どもよりお伝えせよと仰せ付けられました。
文久三亥年三月八日
高屋友右衛門
山川左一右衛門
寺村左膳殿
乾 退助殿
右の御建白は、たぶんお取り消しになったものであろう。
一 三月十一日、天皇が加茂社へ行幸。容堂公は病気のため供奉をお断りになったとのこと。
一 容堂公が天朝および幕府に暇を乞う。その文面は左の通り。
時勢が切迫しているのに、国許の海岸防禦の手当てなどが行き届かず、そのうえ土佐守が若年なので、ひどく心を痛めているようだと毎々家来どもより言って来ています。なにとぞ(そうした事情を)お汲み取りくださって、早々のお暇をくださるよう願い奉ります。
三月十三日
松平容堂
一 同十五日、兵之助さま(容堂の実弟)が京都へ出発された。
右は、容堂公がお暇願いを出されたので、太守さまの名代として警衛にあたるためである。
容堂公が京都の情勢切迫のときに帰国されたのは如何なものだろうか。結局は佐幕派が権力を得て、過激勤王派の失態に乗じ、急に御帰国の願いを出したか。なにぶん勤王家の過激の失策より起こったことだろう。
先日、京都より帰国した勤王家の小畑氏が来訪。京都の情勢を聞くと、しきりに(勤王派が)堂上方に迫り、攘夷の論が盛んである、云々。自分はこう言った。「有志の輩のその志には心を動かされる。しかしながら将軍も勅命を遵奉して、すでに上京の途にある。ならば有志の輩は剣を収めて、上京の上の処置を待つべきだ。果たして将軍が勅命に違反すれば、そのとき正々堂々と違勅をもって責めるべきだ。いまだ将軍の処置も見ずに、草莽の陪臣が高貴の方々へ、激論をもって天下を動かそうとしている。これははなはだ危うい。あるいは彼ら佐幕家に便宜を与えるような不策に至るかも知れぬ。かつて太平記を読み、大塔宮(護良親王。注⑦)のところに至って常に歎息した。大塔宮はあれほど聡明であられるのに、あの挙動は惜しむべし。北條氏は降伏し、天子は京都に帰られた。このとき足利尊氏に謀反の心があるのを看破された上は、やはり比叡山に帰られて、元の天台座主の座に復され、尊氏の反心発露の機を失わず、大義を鳴らし、僧服を脱げば、聡明な天子が疑念を抱かれるようなことはなかっただろう。また准后の讒訴を容れる余地はなかっただろう。惜しいことに大塔宮はその機を見ず、朝野こぞって天下太平を祝うときに剣を研ぎ、矢を矧(は)ぐなどして、讒訴の原因をつくり、天子の疑いを招いた。皇子であって、しかも中興の勲功無類の方にしてなおこういう始末である。まことに今日の時勢にあって、有志の徒は大いに顧みるべき時ではないか」。客(小畑)は自分(高行)を因循として強いて論ぜず、不満の色をあらわして帰った。今日の容堂公の御帰国は、あるいは激徒のために朝廷が動揺するので、どうにもならないとお考えになったのかも知れず、憂うべきことである。
【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、護良親王(もりよししんのう。没年:建武2.7.23(1335.8.12)生年:延慶1(1308))は「鎌倉末・南北朝期の皇族。後醍醐天皇の皇子。母は源師親の娘親子。文保2(1318)年2月,三千院(梶井門跡)に入室したと伝える。嘉暦1(1326)年9月,落飾して尊雲法親王と号した。翌年天台座主に補任された。元徳1(1329)年延暦寺大講堂を修理した。天台座主への就任は,延暦寺の勢力を討幕運動に組み込むための布石であった。後醍醐天皇の第2次討幕運動(元弘の変)に際し,弟尊澄法親王(宗良親王)と共に八王子に布陣したが,六波羅軍との合戦に敗れ,楠木正成の籠もる赤坂城へと逃れた。しかし,赤坂城も落ちたため,十津川,熊野へと逃れ,再起を期して,畿内各地の野伏,地侍に呼びかけ反幕府軍を組織した。正慶1/元弘2(1332)年11月,還俗して護良と改名,吉野で挙兵し討幕の令旨を各地の反幕府勢力に送った。この令旨に応じて,楠木正成が千早城で,赤松則村が播磨苔縄城(兵庫県上郡町)で挙兵した。千早城が鎌倉幕府軍に包囲されたとき,護良親王は吉野,十津川,宇多,内(宇智)郡の野伏に,兵糧米が包囲軍の手に渡らないように,往来の路を塞ぐことを命じている。のち,親王は河内信貴山に兵を進めて,赤松則村による京都侵入,六波羅攻撃を援助した。正慶2/元弘3年6月,後醍醐天皇が帰京して新政府を樹立した際,征夷大将軍の任官をめぐって足利尊氏と対立した。翌年10月,尊氏と阿野廉子の讒言を信じた天皇の命を受けた結城親光,名和長年らによって,清涼殿の和歌の席において捕縛された。翌月,鎌倉に護送され足利直義によって鎌倉二階堂の東光寺に幽閉された。建武2(1335)年7月,北条時行が鎌倉へ侵攻した際(中先代の乱),直義の家人淵辺義博によって殺害された。墓所は二階堂理智光寺谷にある。護良親王を祭る鎌倉宮は明治2(1869)年に創建されたものである。<参考文献>佐藤和彦『太平記を読む』(佐藤和彦)」】
一 三月十五日、兵之助さまのお供で小原輿一郎が上京した。
一 同十五日、江戸より無刻(最速の意)の早追い飛脚が到着、英船渡来の知らせが届く。 大目付へ
このたび神奈川表に英国軍艦数艘が渡来した。重大事件だ。(英国側は)書簡で「八日までに確答がなければ、船長の職掌を尽くす」と申し立てた。これは容易ならざる事態であり、応接の模様によっては、兵端を開くことにもなりかねないので、指示があり次第出動できるよう人数などを手当てせよ。守備の場所などについては、これからさらに指示することがあるので、猥りに動揺することのないよう、末端までよくよく言っておくように。
三月
右の通り、関八州の一万石以上の面々に通知する。以上。
…………………………
一 左は七日、横浜表の者が言って来た風聞の内容。
今度の事件について、英国より申し出の趣旨を和訳したところ、百五十万ドルを(生麦事件の賠償金として)渡すよう要求してきた。オランダをはじめ外国としては、和親(友好的な状態)が破れ、交易ができなくなると、国益を失って迷惑だとのことで、協議の上、外国商人たちが五十万ドルを持ち寄り、英国に渡そうということになり、(その意思を)和訳した文書が(幕府に)届いたので、(幕府が残りの百万ドルを払う)決意をした。このため横浜の英国商人たちが商館を店仕舞いして(荷物を)船積みしていたのをやめ、次々と立ち戻り、元のように商館を開いたとのこと。この件で横浜市中はいったん騒動になったが、(英国商館再開の)知らせを聞いて、まず平穏になったようだ。
以上のことは(土佐藩江戸藩邸の)お留守居方より言ってきた。
一 三月十六日、お暇願いを(朝廷が)聞き届けられたので、同日、容堂公が参内されたとのこと。
一 同十七日、容堂公が二条城に登城され、お暇の御挨拶、将軍に拝謁して、昨年来の尽力の慰労として、鞍(くら)鐙(あぶみ)一対を拝領。
鞍 梨地に牡丹・菊・水仙・梅・萩の高蒔絵(たかまきえ)、裏に元亀二年三月と記し、書判一字あり。
鐙 右に同じ。
一 同二十日、天皇が容堂公を賞され、御劔(つるぎ)を下賜されたとのこと。
昨年来、関東において尽力し、その後上京、滞在して周旋したことを(天皇は)満足しておられる。よって御剱を賜う。
三月二十日
一 御太刀一振り
中身銘 陸奥守藤原歳長
縁頭(ふちがしら) 赤銅七々子地に金にて菊桐御紋十二附き
目貫(めぬき) 金菊御紋に赤銅の葉添え
柄(つか) 黒色糸
鍔(つば) 赤銅七々子地に、金の菊桐御紋表裏とも二十四附き、「惣分金縁共」(?)
鞘(さや) 梨地塗り、菊桐御紋表裏とも十六附き、胴(どう)鐺(こじり)鉤(かぎ)「且共総テ」(?)赤銅七々地に菊桐御紋所々附き
切羽(せっぱ) 三つ重ね、上下無垢金、中赤銅
一 同日、[土州]太守さまが致道館において左の通り命じられた。
天下の形勢不穏により、(皆が)国許の士気をいよいよ奮い起こす様子に我らは満足し、頼もしく思っている。これからさらに上下一致し、人心協和に基づき、国の基礎を確立し、激発せぬよう心得よ。所詮、我らは若年であり、不行き届きなことがあるので、今日からしっかりと奮発し、政事を一新すべし。また、手許をはじめ財政の徹底的な出費削減を申し付けたので、その趣意を引き受け、誠忠の心がけが肝要である。以上。
御奉行 桐間蔵人
同 柴田備後
同 山田下総
[参考]
一 同二十一日、(越前福井藩の前藩主)松平春嶽公が朝廷・幕府に(お暇を)請わず、勝手に京都を発って、国へ帰った。一説によると、島津三郎(久光)が江戸にいるとき、春嶽・容堂公にこう言った。「現在の状況に直面して、開国のほかになすべきことがないのは多くの人々が知るところだ」云々。このとき和戦の論議が朝野に喧しく、甲論乙駁、止むところを知らなかった。聖旨(天皇の意思)は攘夷に決し、朝議は急に攘夷の期日決定を促すに至った。幕府の窮迫は実に言うべからざるものがあった。ゆえに春嶽公は挨拶をせずに京都を去ったと言う。
[参考]
一 三月、朝廷が次のように諸藩に布告した。
外夷拒絶の期限は五月十日に決定した。ますます軍政を整え、醜夷(野蛮な外国人)を打ち払うようにと(天子は)命じられた。[藩政録による]
[参考]
一 三月二十一日、幕府が外夷拒絶の命令を発した。
攘夷の詔(みことのり。天皇の命令)をいただいたので、早々に拒絶の応接に及び、外夷が承服せぬときは、速やかに打ち払うよう命じられた。その旨を一同しっかり心得、国辱にならぬよう忠勤を尽くすべし。
一 同二十三日、(高行が)土州政庁において南会所御山奉行御材木方兼御作事奉行を命じられた。
なお従来の格式・役領地はともにそのまま。(御山奉行は)損益を計り、諸事厳重に取り扱い、かつまた作事奉行は広大な場所のあちこちに目を配って勤めるよう(上司から言われた)。(高行は)先日、海防取り扱いを命じられたばかりだが、「本場所ノ同役等」(?)密接の御用もあって、幾分か機密を聞かざるを得ない場合もあるので、このたび佐幕家の勢いが元に戻ってきて、遂に右の通り転役を命じられた。同役は坂井孫九郎で、同人は年長者だが、勤王などは夢にも見ない俗人だから(勤王派の)小南五郎右衛門を忌み嫌っている。もっとも尊皇・佐幕の論点が違うからというより、(小南に)いささか私怨があるとのこと。(自分は)このような職場にいて面白くないのだが、時節柄忍耐した。下役に都築門次郎という者がある。時勢家で、種々聞き込んだ風説等を内通してくる。その他の下役らはいずれも太平の刀筆の小吏(太平の世に記録の仕事をする小役人)である。かえって(山奉行配下の)仕成役等の若手には甲藤[為吉、後に為直に改名]、吉井某などの有志者がいて、折々は時勢の談もした。
[参考]
一 三月二十三日、幕府が列藩に次のように告示した。
攘夷について、五月十日に拒絶に及ぶべきことをお達しになったので、銘々その心積もりをもって自国の海岸を防禦し、より一層厳重に備え、(外夷が)襲来したときは打ち払うようにされたい。[藩政録による]
一 同二十五日、山内兵ノ助さまが京都に到着。
朝廷から次の通りお沙汰があったという。
山内兵ノ助
このほど御守衛の兵士を諸藩より差し出すよう(天子が)命じられたことに関して、その御用を周旋するよう(天子の)命令があったので、沙汰する。
ただし松平余四丸(松平昭訓(注⑧))・長岡良之助(長岡護美。注⑨)へも同じお沙汰があったので、(彼らと)相談して勤めること。
【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、松平昭訓(まつだいら-あきくに)は「幕末の武士。嘉永(かえい)元年12月29日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の14男。兄の慶篤(よしあつ)にしたがって京都にゆき,勅命で京の守衛にあたった。文久3年11月23日京都で病死。16歳。字(あざな)は子乂。号は環山。」】
【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、長岡護美(ながおか-もりよし1842-1906)は「幕末-明治時代の武士,外交官。天保(てんぽう)13年9月7日生まれ。肥後熊本藩主細川斉護(なりもり)の6男。分家して長岡姓を名のる。明治新政府の参与や熊本藩大参事をつとめたあと米英に留学。明治13年オランダ公使となった。のち元老院議官,貴族院議員。子爵。明治39年4月8日死去。65歳。通称は良之助,左京亮。号は雲海。」】
一 同二十六日、容堂公が京都を発ったとのこと。(注⑩)
【注⑩。容堂の帰国は土佐藩に重大な変化をもたらす。『佐佐木老候昔日談』に高行自身の回想があるので、ここで紹介しておきたい。「藩の勤王家は、極端に走せて居る。容堂公は之を憎んで居らるるからして、御帰国の上は、藩の事情も一変せざるを得ない。果然吉田派の市原八郎右衛門、由比猪内は登用せられ、さうして其序幕は、吉田暗殺一件から開かれた。四月下旬、公は大目付役平井善之丞、横山覚馬、山川良水を召して、その事件について下問された。平井が未だ加害者の踪跡を探り得ざる旨を申上げると、公は怒つて、『汝等は何故加害者を追縛しないか、斯様に緩漫に附して居つては藩の規律が立たない』。また汝等の職掌も立つまいぞ。』と、そこで山川が言上するには、『この事件は最初捕縛の機会を逸してから、今日に至つては蜚語流言最も甚だしく、図らずも御連枝方にも之に與り給ふといふ悪評もあつて、この際捕縛を急いだならば、却つて為にする輩の術中に陥り、御徳儀に関するやうなことになるかも知れぬ。暫く権道を以て御待ちなさらば、天道は必ず不正を照らすことは御座りません。若しさうでなくして、厳重に着手せよと仰せらるるならば、高貴を厭はず、端々から吟味して、黒白を分つより外はない。臣等も暴徒の仲間であるといふ悪評がある。急ぎ給はば無辜の人をも捕縛しなければならぬ。伏して御賢慮を願ひ奉る。』と御諫言申上げると、公は御不興の體で、奥に御這入りになつたさうだ。実にこの事件は何邊迄関係して居るか分らぬ。既に公の御実弟民部公子も御関係があり、景翁公[豊資]も御存じであるらしい。若し之を厳重に着手したならば、一大疑獄を生ずるであらう。山川はその邊を心配して、遠慮なく申上げたのだ。
當時、寺村左膳、乾退助(板垣退助)、小笠原只八は、容堂公附で、専ら藩風を正し、下士の僭越跋扈を抑へて、藩内を齊一にせんとした。従来下士を軽蔑して蛇蝎の如く嫌つて居る連中が、機に乗じ、之に雷同して、玉石混合、すべての正義家を極力排除して、俗論家が漸く頭角を現はして来た。かうなると、勤王家、又は之に関係して居る者は、俗論紛々の裏に安ずることは出来ない。四月二十五日、小南五郎右衛門は大目付を、同二十八日、深尾鼎は奉行を、五月五日五藤内蔵之助もまた奉行を罷めた。同月平井、山川は共に大目付を辞し、本山只一郎や林亀吉等も前後挂冠して、藩庁は全く佐幕家の跳梁する處となつた。さういふ風であるから、武市半平太は、京都で薩長と結托した手前もあるので、藩論を勤王に一定せんとして、辯論に建白に非常に尽力したけれども、総て失敗に了つた。」】
四月
一 吉村(寅太郎)氏が両親に送った書簡
[前略]私こと、先日紀州へ行き、さる二十五日帰京、それからまたまた大坂に下り、昨日帰京しました。無事にいろいろと奔走していますので、憚りながらそのようにお考え下さい。ところで、弘田兄さまより手紙が来て、拝見しました。どうやら先月中頃には出獄されたようですが、どこへ落ち着かれたのか、そのうちお教えください。さて、諸大名がたもだんだんと帰国され、このごろは京都も大いに静かになりました。容堂さまも帰国され、大樹公(将軍)はいまも京都に滞在され、天下のことは埒が明かないと申しましても、少しずつは(事態が)進捗し、(朝廷直属の)御親兵の件がこのごろ通達されました。御国(土佐藩)よりも追々二十人を差し出すようです。まだ取り決めにはなっていませんが。また間崎哲馬・弘瀬健太・平井収次郞の三人ともお咎めを蒙り、(土佐へ)送還され、気の毒千万です。このことは諸藩へこのごろ伝わり、(土佐藩の)国辱にもなるにちがいないと心を痛めております。間崎は江戸在勤中や先日の謹慎中に料理屋へ毎度行ったほか、金十五両を役所から引き出していて、そのやり方が無分別だとして、揚屋(注⑪)入りになって、とても気の毒千万に思っております。
四月朔日 吉村寅太郎
父上さま
母上さま
【注⑪。世界大百科事典 第2版によると、揚屋(あがりや)とは「江戸時代の牢屋における特別の部屋。幕府の小伝馬町牢屋では収監者を身分によって分隔拘禁したが,武士を収容するのが揚座敷(あがりざしき)と揚屋である。500石未満の御目見(おめみえ)以上直参(じきさん)の武士は揚座敷,御目見以下の直参,陪臣は揚屋に入れ,僧侶,神職も格式により揚座敷,揚屋に分けた。いずれも雑居拘禁であるが,揚座敷に比べると揚屋は食事をはじめとする処遇,牢名主の支配など,実情は庶民の牢とそれほど差異はない。」】
(続。ようやく文久三年の四月にたどり着きました。徳川幕府の瓦解はもう目の前です。佐佐木高行は幕府崩壊の混乱のなかで頭角を現わし、歴史の表舞台に進出していきます)