わき道をゆく第220回 現代語訳・保古飛呂比 その㊹

▼バックナンバー 一覧 2023 年 10 月 7 日 魚住 昭

一 (文久三年)四月五日、初夜(現在の午後八時から九時ごろ)ごろ、(義弟の)本山誠作殿から使いが来て、こう言った。「(誠作の長男の)貫之助が先ほど、小高坂村西町に住む徒士(=かち。土佐藩の下士身分。郷士の下で、足軽の上に位置する)の黒岩與三郎方で、水道町に住む徒士・野村彦造の次男の健次と口論の末、刃傷に及んだので、すぐに来てもらいたい」。よって、すぐさま支度し、黒岩方に駆け付けて事情を聞くと、貫之助が健次を切りつけたすぐ後、数人で双方へ引き分けたとのことだった。貫之助は十六歳、健次は二十歳で、血気の者たちであるが、大勢に押し分けられて仕方なくそのまま物別れになり、互いにその場に控えて親類の指図を待っていた。こちら側は貫之助の父の誠作、同姓の本山竹三郎、親類の北村長兵衛・久徳德馬、隣家の早崎鶴馬である。早崎は自分(高行のこと)より年長だが、他は本山竹之助(※竹三郎の誤記か)が同い年くらいで、あとは皆年若い。

相手方の親類は、健次の伯父野村才吉[徒士の中の人物で、故吉田元吉が最もかわいがった者だ]、池田宇太郎・倉地才八・田崎為吉ほか二、三名、友人数名のようだったが、折からのひどい雨で、いわゆる真の闇夜だったので、誰が誰かは見分けられなかった。こちらは玄関の方に控え、相手方は奥座敷に詰めて評議している様子だった。

さてこれからどう処置したものか。父親の誠作はことのほか心配して、自分(高行)は貫之助の叔父だから自分の決断にすべてをまかせるとの意向だった。よって、誰もまだ発言していないので、自分の考えを述べた。「そもそも御士(上士身分のこと)が軽格(下士身分のこと)を手討ちにするのは(国法に照らして)しかるべきことである。しかしながら靖徳院さま(第九代土佐藩主・山内 豊雍)の御代に馬廻りの某が郷士の某を殺害したが、そのやり方が良くなかったため、郷士たちが騒ぎ出した。その処分について君公がことのほか心配され、結局、未だご考慮中ということで、そのままになったと聞く。今日はその時と時勢が違っている。一昨年、井口村で山田廣衛と軽格の中平某が刃傷に及んだとき、中平側に関与した軽格を山田宅に呼び寄せて手討ちにしようと、(呼び出しの)使いを何度も送ったが、応じず、そのため山田の親類友人らが家に押し寄せようとしたところ、相手方はついに割腹して事が済んだ。もし、このとき速やかに割腹せず、時刻が過ぎて、押し込み手討ちにするようなことになっていたら、どんな騒動を引き起こしていたかわからない。ことに昨年来、天下の形勢が容易でないのに乗じて吉田元吉を暗殺したのは、郷士・徒士の類いである。近ごろは郷士以下の殺気が甚だしく、士格は生来因循と見なして軽蔑する状況なので、今日、(相手方の軽格を)力尽くで押さえ込んで手討ちにしたら、どのような事態になるかわからない。もっとも、たとえ大騒動を引き起こしても、武道を汚す事ならば、決して容赦すべきではないが、ただこちらの処置次第で士の強みを示すこともできる。もともと一時の喧嘩であって、ことに若年の事であるから、寛大な取り扱いにしたいのだが、士たる者は一度抜刀し、相手を傷つけたならば最早致し方ない。とすればどうしたらいいかというと、相手方も帯刀する身分であるから、尋常に勝負をさせたほうがいい。貫之助はまだ若年だから、危なくなったら助太刀したらいい。こちらが助太刀すれば、相手方も助太刀するだろう。そうやって互いに勝負を一時に決めたら、力尽くで押さえ込んで手討ちにするより、武士の意気地が立ち、相手方も憾みを残さず、その場限りで済んで、その後の騒動も起こるまい。相手方も相応の身分であるから、その地位を与えたことは本懐だろう。諸君、いかがか。

一同異議なく、我々も場合によっては助太刀すべしと決議した。よって、速やかに立ち会いをさせるよう相手方の親族へ申し入れたところ、先方はどうにか穏やかに取り扱い、内輪の話で済ませたい意向だったが、この期に及んでそれもできず、すぐに勝負させましょうと言いながら、何やかやとぐずぐずしている。そこでやむを得ず、自分が「ただ今勝負させるからその覚悟をせよ」と大声を発した。貫之助はそのまま地上より内庭のほうに進み、それに親族が三人ばかり付き添った。自分(高行)は玄関から唐紙を押し開け、奥座敷に進んだ。後からも一同続いてくる。貫之助は自分より一足早く、相手の健次に向かい、「立ち合え」と声をかけ、すぐ二太刀を畳みかけて切りつけると、健次はそのまま倒れた。このため(貫之助は健次の体に)接近してとどめを刺した。このとき健次の親族や友だちとは一人も出会わなかった。何ぶん、こちらが大声で突き進んだとき、みな逃げ去ったらしい。それならばということで、健次の死体には番人を付けておき、貫之助を連れて自宅に引き取り、定法のとおりそれぞれ届け出た。その夜は深更に及んだので翌六日、徒士目付の土居彌之助、ほかに下横目二人が出張し、健次の死体を検視した。そのあと本山の宅に行き、殺害の次第を審問し、貫之助より詳細を申し立てた。徒士目付はその順序を聞き糾し、下横目に筆記させて引き取った。そのあと本山誠作・貫之助父子ともに、ご詮議中謹慎するようにとのお達しがあった。

二人を立ち合わさせて決着を付けさせるという処置は、士格をはじめ郷士・徒士・足軽等に至るまで異論なく賞賛されたという。果たしてそうか(自分にはわからないが)、ともかく(身分の)上下を問わず、議論はなかった。

ところで健次がろくろく戦わなかったのはどうしてかと、あとで議論になったが、最初貫之助が股を突いた疵が痛んで、縁側に腰掛けていたところ、貫之助が声を発して突進してきたので、刀を抜いたままで十分抵抗せず、倒れたという。

ついでに言っておくと、徒士目付より後日処置を下すとき、野村の親族がその場を逃げ去ったのは、腰を抜かしたわけであるからお咎めを仰せ付けられたいと申し出たが、[このことは他日、當時の大目付金子平十郎より直接聞く]大目付においては、軽格は元来士格とは違い、武士道には関係なく、右のような場所で逃げ去っても差し支えないということで(徒士目付の)申し出を退けたとのことだ。結局、軽格どもはこの時節につけこみ、士格同様に品格を上げようという目論見だったのだろうという。

一 四月八日、智鏡院さまのお駕籠が到着した。追手筋の旧教授館跡を改修してあったので、そこに入られた。

(高行は自分の作事奉行という)役目でその事を取り扱った。

智鏡院さまは養徳院さま(第十三代土佐藩主・山内 豊熈)の未亡人で、薩摩藩の斉彬公の妹である。

一 四月十二日、ご隠居様(容堂)の駕籠が到着、東屋敷にお住まい。

東屋敷は手狭のため、追って新殿を建築の予定。(高行は)現在作事奉行を兼務しているので、およそのところを伺った。

一 同十五日、大学さま(山内豊栄)が亡くなられた。大恭院殿大居士。称名寺山に葬り奉った。

大学さまは容堂公の叔父上。篤実で、程朱学(朱子学と同義)を修められ、学名が高かった。しばしば教授館または文武館の総裁を勤められ、徳望があった。自分も文武館調べ役として勤務中にねんごろな心遣いをたまわった。一昨年秋、武市半平太が帰国し、裏面から勤王論を大学さまのお耳に入れようとしたら、勤王家ではない、ただ吉田元吉に不平を持つ連中がその機に乗じて周旋したため、武市氏の説を容れられたとのことだ。ふつうは(大学のような)公子といえども藩政の事には関与しない。国家(この場合は土佐藩のこと)の大事があれば、表面(※原文は「裏面」だが、誤植の可能性大)でその事に関与することはもちろんであるけれども、(たとえ武市の説が)正義論であっても裏面よりするのはよろしくない。いわんや、不平の徒が武市の勤王論を借りて工作するのは論外である。将来、どのような悪弊を生じるかと、山川氏らとひそかに憂えたものである。そうしたところが、追々武市派の連中が吉田参政を暗殺し、京都において過激な行動を繰り返すようになった。このため佐幕派は勤王家を暴論とみなし、このころは佐幕家の勢力が回復の兆しがあった。大学さまは大いに憂慮され、遂に病になり、結局立つことができなくなったという風説があった。あるいはそうかもしれぬ。慨嘆にたえない。嗚呼。

[参考]

一 四月二十日、幕府が外夷拒絶の期限を(天皇に)奏上した。

攘夷の期限の件、来る五月十日に相違なく拒絶決定しましたので奏上いたします。なおこのことは列藩の者へも布告します。

一 四月二十三日、小南五郎右衛門がさる三月に帰国、この日、大目付の任を解かれる。

一 同二十八日、深尾鼎殿が奉行職を免じられる。

これは、勤王家の関係で、同氏の家臣に武市氏の同志が数多くいるためだという。

一 同月下旬ごろ、容堂公の御前へ大目付の平井善之丞・横山覚馬・山川左一右衛門が呼ばれ、吉田元吉暗殺の下手人の件について厳重なお尋ねがあり、その際、山川より急速に着手することができない事情を言上した。そのとき(容堂公は)すこぶる不機嫌で奥へ入られたとのこと。

ただ、この事件の関係するところはどこまで及ぶか知れない。すでに容堂公の実弟の民部公子も関係されており、景翁さま[豊資公]もその辺の事はご存じかも知れない。それゆえに山川氏はいろいろと事情を含んで申し上げたことであろう。時機を見ないで厳重な処分に踏み切ると、騒擾におよぶ憂いがあるためである。(注①)

【注①。このころの藩内情勢については『佐佐木老候昔日談』により詳しい記述があるので、それを引用しておく。「藩の勤王家は、極端に走せて居る。容堂公は之を憎んで居らるるからして、御帰国の上は、藩の事情も一変せざるを得ない。果然吉田派の市原八郎右衛門、由比猪内は登用せられ、さうして其序幕は、吉田暗殺一件から開かれた。四月下旬、公は大目付役平井善之丞、横山覚馬、山川良水を召して、その事件について下問された。平井が未だ加害者の踪跡を探り得ざる旨を申上げると、公は怒って、『汝等は何故加害者を追縛しないか、斯様に緩漫に附して居つては藩の規律が立たない。また汝等の職掌も立つまいぞ。』と、そこで山川が言上するには、『この事件は最初捕縛の機会を逸してから、今日に至つては蜚語流言最も甚だしく、図らずも御連枝方にも之に與り給ふといふ悪評もあつて、この際捕縛を急いだならば、却つて為にする輩の術中に陥り、御徳義に関するやうなことになるかも知れぬ。暫く権道を以て御待ちなさらば、天道は必ず不正を照らすことは御座りません。若しさうでなくして、厳重に着手せよと仰せらるるならば、高貴を厭はず、端々から吟味して、黒白を分つより外はない。臣等も暴徒の仲間であるといふ悪評がある。急ぎ給はば無辜の人をも捕縛しなければならぬ。伏して御賢慮を願ひ奉る。』と御諫言申上げると、公は御不興の体で、奥に御這入りになつたさうだ。実にこの事件は何処迄関係して居るか分らぬ。既に公の御実弟民部公子も御関係があり、景翁公[豊資]も御存知であるらしい。若し之を厳重に着手したならば、一大疑獄を生ずるであらう。山川はその辺を心配して、遠慮なく申上げたのだ。

當時、寺村左膳、乾退助、小笠原只八は、容堂公附で、専ら藩風を正し、下士の僭越跋扈を抑へて、藩内を斉一にせんとした。従来下士を軽蔑して蛇蝎の如く嫌つて居る連中が、機に乗じ、之に雷同して、玉石混合、すべての正義家を極力排斥して、俗論家が漸く頭角を現はして来た。かうなると、勤王家、又は之に関係して居る者は、俗論紛々の裏に安んずることは出来ない。四月二十五日、小南五郎右衛門は大目付を、同二十八日、深尾鼎は奉行を、五月五日五藤内蔵之助もまた奉行を罷めた。同月平井、山川は共に大目付を辞し、本山只一郎や林亀吉等も前後挂冠して、藩庁は全く佐幕家の跳梁する處となつた。」】

一 四月某日、山川左一右衛門が致道館(注②)取扱を仰せ付けられる。

ただし、取扱を仰せ付けられたのは、「文武頭取同様ニテ、都テ地盤ノ本役ニハ関セズ」(※文武頭取と同様、本来の職分と関係なく、つまり名目だけの役職というような意味だと思うが、よくわからないので原文引用)、つまるところ山川氏に嫌疑があるためだろう。

【注②。致道館の前身は教授館(こうじゅかん)で、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、教授館は「土佐藩の藩校。宝暦 10 (1760)年,藩主山内豊敷により設立。当初は各師家の共同利用施設として用いられ,各自期日を定め,当番の日にそれぞれの弟子がここに参集して自分の師家の講義を聴講する方式がとられた。ここでの学問は朱子学が中心で,初めは医学も含まれていた。文久2 (1862) 年,文武教場を合併して致道館と改称,のち医学校が分離独立し,慶応2 (66) 年には洋学中心の開成館が設置され,致道館は明治5 (72) 年,閉鎖された。」】

五月

一 この月五日、深尾丹波殿が奉行職を仰せ付けられ、五藤内蔵之助が奉行職を免じられる。

右の五藤氏はいささか勤王家に関係したという、未詳。

[参考]

一 同月十日、大坂において老中板倉周防守殿より、幕府の命として、次の通り伝えられた。

松平土佐守

大坂表の警衛を仰せ付けられた件につき、糧米として現米(※現在手もとにある米の意か)五千俵を下される。もっとも、時の相場に換算して代金で渡すので、詳しいことは勘定奉行から話を聞くように。

五月

(高行の所感)右につき、佐幕家は得意、勤王家は不快の色があった。

一 五月十三日、桐間蔵人殿が当分の間、奉行職を仰せ付けられ、深尾丹波殿が奉行職を免じられる。

一 同十七日、大坂警衛のため、柴田備後殿の組に属する馬廻りの藩士そのほか御雇い(この任務のため藩庁に雇われた者の意か)等が派遣された。士大将は中老の西野丹下である。

一 この月、山川左一右衛門が御目付を免じられる。

六月

一 この月五日、下関を通る異国船[仏国軍艦]に対し、長州砲台より発砲したところ、長州が大いに敗北したという。攘夷家、はなはだ心を痛める。

ついでに言っておくと、幡多郡の樋口甚内が九州より帰国したのでいろいろ模様を聞いた。また御山方仕成役の笹村源右衛門が樟脳売払いのため、毎度長崎へ往来しているので、馬関(下関のこと)辺りの風説等を聞き、およその有様を聞き、およその有様を承知した。はなはだ憂うべき事が多い。

一 六月六日、藩にて次の通り。

覚え

このたび自らの寸志として銅器を(藩に)差し出す者があるときは、その品書きを添えて提出するならば、特別の配慮により文武館内で受け取ることにしたので、毎日四ツ時(午前十時ごろ)より八ツ時(午後二時ごろ)までの間に差し出すように。

文久三亥年六月六日

(高行の所感)右の銅器等を献納する件は、嘉永年間に大砲鋳造のため、藩士らをはじめ農工商に至るまで競って差し出したのだが、自分は大困窮で差し出す品物がなく、行灯に付属する油差しならびに台皿一つ、すこぶる粗末な物を差し出した。このように粗末な品を出した者は一人もなく、今となっては笑い話である。

[参考]

一 同月九日、高岡奉行の注進の内容は次の通り。

注進

一 イギリス船六十人乗り、うち二人は江戸者、虎吉・勝助。

右の者、今月五日、横浜を出帆し長崎に向かう。公儀の御用のためと申し出る。右は今月九日、七ツ時(正午ごろ)すぎ、沖合いに姿を見せた。まもなく港に入り、下分川尻まで小舟で川筋を上がる者と出会ったところ、右の通り申し出て、すぐさま南東の方角へ向かった。もちろん軍艦ではないように見えた。とりあえず、このことをお知らせします。

同日申の刻(午後四時ごろ)須崎を出る。 高岡奉行

高知御奉行

御中

一 六月十六日、将軍が大坂より突然江戸に向かったという。

これについては風説がいろいろある。一説には外夷が江戸に迫ったためだと。あるいはこう言う。攘夷をお受けになったのは偽で、その実、(外夷と)和親ますます密であると。よって朝廷のお叱りがあり、有志の輩たちから攘夷実行を迫られた。ここに至って海防の事件に関わることなので下坂するという口実をつけ、大坂より蒸気船で、天皇に断りもなく逃げ帰ったのだ(という説もある)。または、攘夷の命を奉じて、急遽江戸に向かったのだと。国許では事実がわからず、佐幕家は朝廷の失策をひそかに唱え、一方の勤王家は幕府の不忠を責めるなど紛々として人心はいよいよ不穏である。建武・延元の昔、道理を過った人もあったのだろうなと思い遣られた。自分らはもちろん尊攘論なので、長州を正義と信じたけれども、今日に至っては、いささか疑いがないわけではない。このうえは我が藩が正義を遂行するよう心配りをするが、武市派は過激であって、藩政を因循だとして脱藩する者がいる。佐幕家は勤王家の失策を取り上げて倒そうとする状況だ。門地家は、武市派が郷士・徒士以下の者たちであるとして大いに忌み、憎むことが甚だしい。ここに至って、山川左一右衛門・本山只一郎等のほか三、四人の人々と苦慮するが、その手段に窮した。

[参考]

一 六月十六日、朝廷が我が藩に勅(みことのり)を下し、鹿児島・熊本・広島・小倉の四藩と同じく、萩藩(長州藩)を助けるよう命じた。

[参考]

一 六月某日、お沙汰、次の通り。

長州表へ御援兵として勅使・正親町さまがこの十六日、京都をお発ちになるので、諸藩は人員の随従を命じられたい。人員はいずれも御殿に参集するよう。一人につき二十両ずつ禁中(宮中)より下される。

水戸 十人 長州 十人 肥後 十人

土佐 十人 有馬 五人 明石 五人

「平生御殿ヘ御附人五人、小銃十四挺、

銘々持切」(※意味不明のため原文そのまま引用)

[参考]

一 安岡実之丞(※土佐勤王党の一員か)がある人に送った書簡は次の通り。

六月十九日、「用居口」(※どういう場所だか不明。手紙の内容から推測すると、京都のどこかかもしれない)で長州藩の時山直八郎(注③)・佐々木次郎四郎に会いました。両人が言うには、今月一日、米国軍艦が来襲して、ただちに戦争となった。(両人は)翌二日、山口に行き[近ごろ大膳大夫さま・長門守さまは山口に在館しておられる]、それから上京して、貴藩へお伺いした長州藩の役人どもに報告した。このたびここに来たのも、次の四カ条のことを言うためだ。追々(長州藩の)重役の者より、貴藩の要路の方々へ相談するはずだが、まずもって我々がかねて知り合いの人々と話し合い、先方の意見を聞くようにと役人どもが言ったので、話しに来た。

まず第一に、幕府が(天子から要請された)攘夷に期限を設定したこと、それ自体が因循姑息だった。そして幕府はついに五月十日を期限とすることを天子に奏上したが、これまた因循姑息のやり方だった。その罪を正さなければならない。

第二に、五月二十日に姉小路(公知)さま(注④)が狼藉にあったと聞いて、主上(天皇)が慟哭されたと聞いている。これらの罪人はどこまでも追及して、処置しなくてはならない。

第三に、五月十日の期限に至り、弊藩において攘夷の実行に着手し、以来三日おきごとに戦争したが、近隣の小倉はじめ呼応する藩はなかった。やむを得ず小倉では、こちらが戦闘を始めてから異国船が退散するまでの経過について、時々急報を長崎奉行へ送ったとのこと。或いはそのやりとりの中で(長崎奉行から)「長州は朝廷の命令を受けたのか」と聞かれたこともあったとか。目下の情勢では(日本の)五十八州を敵とし、これは六十州のうち貴藩と我が藩を除くという意味だが、ことごとくすべてが敵国であると思っている。もちろん主公御父子さま(長州藩主の毛利敬親(注⑤)と、その世子の元徳(注➅)を指すと思われる)は、最初から勤王のためには防長二国がどうなろうとも構わないという決心をしておられる。しかしながら、近日中に(異国船が)攻め入ってくれば、一年半は国力も支えることができようが、ついには洋夷(西洋の野蛮人)のために掠奪されることになる。そうなれば、まことに神州の大恥である。

第四に、益田弾正(長州藩家老。注⑦)が上洛する予定について。この京都行きはまったく尋常のことではない。だからこそ御一門衆(藩主一族)が山口で会議された。重役の者も(その会議での)決議の内容を承知しているので、たぶん(益田は)七日ごろ(京都に向け)出発すると思う。正々堂々の勅意(天皇の意思)を貫徹することと確信している。

右の四点について議論してもらい、道理にかなった結論を得るようにしたい。一昨年来、(貴藩などが)神州のために尽力・周旋されてより、天下はその功績をたたえて「三藩」(※ふつうは薩長土を指すが、この場合は薩摩・土佐・肥後かも)と呼んだ。日本全国の津々浦々の婦女子に至るまでもこのことを知らない者はいないが、薩摩は京都での事の次第があって(評判を落とした?)。とすれば残るは貴藩と肥後の二藩だ。これらが力を合わせてどこまでも天意(天皇の意思)を徹底するようにしたい。よって前にも言ったように、まずもって貴藩の一線の方々の議論を承知し、そのうえで重役の者から貴藩の重役の面々へご相談したいと、長州の両人は言った。それを受けて、私どもは返事できぬため、すぐさま帰って藩に報告したい、きっと重役相当の者が対応するはずだと答えた。

以上の公的な話を終えて、私的な話に移った。その内容は次の通り。

一 細川家(肥後)の「正義者」が五十人、(朝廷の)御親兵として上京、藩全体が奮い立ったとのこと。

一 有馬家(久留米藩)は「牧和」(※真木和泉(注⑧)のことか)初め二十人が御親兵として上京、和泉は大変な人物だとのこと。

一 中山侍従公(中山忠光。注⑨)は長州より乗船され、京都にお送りした。長州滞在中は、台場の造成に使う土砂運びをして、士卒の働きまでされた。

一 長州は官有物はもちろん国中一円で銅器を取り集め、大砲を鋳造しようとしたところ、菩提寺の和尚が仏器を出すことに抵抗したので、その和尚を引き出して首をはねたら、それから仏器を滞りなく差し出すようになった。小倉城下の北にある島に台場をつくり、大砲五十挺を設置したとのこと。

一 さる一日には、海岸へ出動する人員のほとんどが山口へ行き、会議に参加していたところ、海岸で砲声が聞こえ、早速駆けつけたが、もともと不意のことゆえ、十分な働きが出来ず、庚申丸・発亥丸(いずれも長州藩保有の洋式軍艦)の二隻とも夷砲(外国砲)に敗れ、十万両の損害を受けた。すべて夷砲は八十ポンドより百五十ポンド、長州は八十ポンドより二十ポンドまでの砲なので、外国船を打っても効果がなく、かえって夷砲に打ち破られた。そのため今度は八十ポンド以上の大砲を鋳造する。台場は低く、丈夫に築き、水面を平射(注⑩)するようでなくては弾が当たらない。このたびの戦闘で亀山の台場が打ち破られ、その後、弾は八幡宮の外輪堀下げを打ち抜き、その弾は左右へ開き、本殿へは当たらなかった。これはまったく神力のおかげだと思う。すべて出動人員は銘々守り札を懐に入れ、神の守護を得たせいか、これまで人員の一人も死んでいない。もっとも船の水夫三人が即死したが。二十五間ぐらい離れて相互にゲベール銃(注⑪)で打ち合いをしたけれども、双方ともに当たらなかった。心気逆上して[文章が欠落]・・・(長州藩は)文武の才能ある者を用い、まことに人材を用いることにおいて列国に比類がないようだ。結局、先年から文武館を備え、人材を教育した効力と思われる。以上のほか聞いた事柄は多くあったが、執筆の労を厭うて省略する。

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、時山直八(ときやま-なおはち1838-1868)は「幕末の武士。天保(てんぽう)9年1月1日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。吉田松陰,安井息軒らにまなぶ。京都藩邸で諸藩応接掛(がかり)などをつとめるが,元治(げんじ)元年禁門の変に敗れて帰郷。戊辰(ぼしん)戦争では奇兵隊をひきいて各地を転戦し,慶応4年5月13日越後(えちご)(新潟県)長岡藩兵との戦いで戦死。31歳。名は養直。変名に玉江三平。」】

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、姉小路公知(あねこうじ・きんとも。没年:文久3.5.20(1863.7.5)生年:天保10.12.5(1840.1.9))は「幕末の公家,宮廷政治家。老中堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,これに反対して88廷臣の列参奏上に参加。桜田門外の変を経て,文久2(1862)年8月同志の廷臣と共に,和宮降嫁の責任を問うて久我建通,岩倉具視らを弾劾。以来,長州藩・尊攘派志士の支持を受け,三条実美と共に攘夷派廷臣の指導者となる。同年11月,勅使三条実美のもと副使として江戸に赴き,攘夷の督促と親兵設置の勅書を伝達した。翌文久3年2月,国事参政が新設されるとこれに就任,朝議決定に直接参加できる地位を得た。攘夷期日の設定を主張し,将軍上洛ののち賀茂社行幸,石清水行幸に随従,次いで大坂湾を巡検し海防について勝海舟に意見を求めた。5月20日深夜,御所からの帰宅途中,朔平門外で暗殺。年24歳。現場に残された太刀から薩摩藩士田中新兵衛に容疑がかけられた。京都町奉行所に監禁された新兵衛は,一言の釈明もなく自刃,暗殺者は今なお不明のままである。<参考文献>関博直編『姉小路公知伝』」】

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、毛利敬親(もうり・たかちか。没年:明治4.3.28(1871.5.17)生年:文政2.2.10(1819.3.5))は「幕末維新期の長州(萩)藩主。名は教明,敬親,慶親。猷之進,大膳大夫と称す。前藩主斉元の長子に生まれ,天保8(1837)年藩主斉広の養子となり,家督を継いだ。実はいわゆる末期の養子であった。同9年,入国し,村田清風を登用して,天保の改革を行い,その後,村田と対抗する坪井九右衛門をも藩政改革に登用した。ペリーの来航した嘉永6(1853)年に相模を警衛し,安政5(1858)年兵庫警衛に転じた。同年,通商条約についての幕府の諮問に,坪井を退けて村田の薫陶を受けた周布政之助らを登用し幕府の外交方針に反する攘夷意見を提出,安政の大獄前,朝廷から密勅が渡されたが,密かに派遣された周布は一転,開国やむなしと説いた。以後は周布を重用し,藩是三大綱を立て,藩の自律を方針とし,洋式軍制を導入するなど改革に着手する。文久1(1861)年長井雅楽を用い,航海遠略策の開国策で幕府との協調策を執るが,周布や木戸孝允らの反対と,島津久光の率兵上京で破綻し,同2年,周布や木戸の主導による攘夷方針に大きく転換した。敬親は公平な性格と評される一面,また病弱で藩内抗争の行方を追認する傾向があった。藩庁を山口に移し,文久3年5月外国艦を砲撃し,藩勢飛躍したが,同年8月18日の政変で藩は京都を追われ,翌年,禁門の変にも敗れ,官位を剥奪された。第1次長州征討が始まると,旧政府員多数を処刑して,謹慎した。しかし,藩内での元治の内戦後,木戸を中心とする割拠体制をつくり,薩長同盟を結び,洋式軍制改革に成功し,慶応2(1866)年の幕長戦争に勝った。同3年,キング提督と会見するなど,イギリスとの関係を確保し,討幕の密勅を受け,薩摩藩らと共に藩兵を上京させ王制復古のクーデタを成功させる。明治2(1869)年,薩摩藩主,土佐藩主らと版籍奉還を建白したのち家督を元徳に譲り,隠居。諡は忠正。<参考文献>末松謙澄『修訂防長回天史』(井上勝生)」】

【注➅。朝日日本歴史人物事典によると、毛利元徳(もうり・もとのり。没年:明治29.12.23(1896)生年:天保10.9.22(1839.10.28))は「明治維新期の長州(萩)藩の世子。名は定広,広封,元徳。通称は,驥尉,長門守。支藩徳山藩主毛利広鎮の10男として生まれ,安政1(1854)年本藩の世子となり,定広と改名。文久2(1862)年尊攘の藩是によって京都で活動し,同3年下関の外国艦を砲撃した。元治1(1864)年上京中,禁門の変での藩の敗報を聞いた。慶応3(1867)年討幕のために島津忠義と会見,王政復古後,議定に任じた。明治2(1869)年家督を相続,版籍奉還により,山口藩知事となる。のち第十五国立銀行の頭取,取締役,また貴族院議員になる。諡は忠愛。(井上勝生)」】

【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、益田右衛門介(ますだ・うえもんすけ。没年:元治1.11.11(1864.12.9)生年:天保4.9.2(1833.10.14))は「幕末の長州(萩)藩の家老。名は兼施,のち親施。通称,幾三郎,弾正,のち越中,右衛門介。号,霜台。阿武宰判(萩藩の郷村支配の中間組織)益田の永代家老家,元宣の次男で,嘉永2(1849)年1万2063石余の家督をつぐ。相州警衛総奉行として外警に当たる。安政3(1856)年に当職(国家老)に任じ,通商条約締結の際に,周布政之助らと藩の自律を唱え,当役になる。文久2(1862)年の尊攘の藩是決定に参画した。翌年の8月18日の政変で藩は京都を追われる。元治1(1864)年,上京するが,禁門の変に敗れ,第1次長州征討に際し,幕府への謝罪のために三家老のひとりとして切腹を命ぜられた。(井上勝生)」】

【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると真木和泉(没年:元治1.7.21(1864.8.22)生年:文化10.3.7(1813.4.7))は「幕末の尊王攘夷運動の指導的志士。諱は保臣,字は興公,定民。幼名は湊。久寿,鶴臣と称す。号は紫灘。従五位下,和泉守。浜忠太郎と変名。父は水天宮祀官真木旋臣,筑後国(福岡県)久留米で生まれる。文政6(1823)年,家督相続,久留米藩中小姓格,水天宮祀官。天保3(1832)年従五位下に叙され朝臣意識を持つ。尊攘を唱える後期水戸学に心酔,弘化1(1844)年,同学の大成者会沢安(正志斎)に面会,国元で水戸学(天保学)の影響下にある天保学連の中心となり改革を企てるが,保守派により嘉永5(1852)年の嘉永の獄で弟の家に幽閉される。開国の進展に応じて諸国の尊攘志士と交流し公家に建策,文久1(1861)年,『義挙三策』を著し王政復古を説く。翌年,脱藩して薩摩を経て上京しようとして寺田屋の変に遭遇,国元で謹慎,同3年1月,朝命により赦免。保守佐幕派の反撃により「和泉捕り」により同4月に拘禁,中山忠光,長州藩の圧力などにより5月に釈放,上京。6月,学習院御用掛。攘夷親征,大和行幸計画を中心的存在として推進。8月18日の政変により七卿に従って長州に落ちる。10月,『出師三策』を著して軍事力による朝廷奪回を主張,元治1(1864)年7月の禁門の変では浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加,7月19日,堺町御門を目指して進軍したが,福井藩兵などに阻まれて敗北,天王山に退却,長州へ落ち延びることを拒否し同21日,同志16名とともに自刃。辞世「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」。(吉田昌彦)」】

【注⑨。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、中山忠光(なかやまただみつ(1845―1864))は{幕末期尊攘(そんじょう)派の公家(くげ)。弘化(こうか)2年4月13日生まれ。父は中山忠能(ただやす)。1858年(安政5)侍従となり、60年(万延1)睦仁親王(むつひとしんのう)(明治天皇)祗候(しこう)を命ぜられた。武市瑞山(たけちずいざん)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、真木和泉(まきいずみ)ら尊攘激派と交遊して彼らの影響を受け、公家尊攘激派として台頭した。63年(文久3)2月国事寄人(こくじよりゅうど)となったが、3月初め無断で京都を脱し長州藩に入り、官位を返上、名も森俊斎(または秀斎)と改め、5月10日には下関(しものせき)で長州藩軍艦に同乗しアメリカ商船の砲撃に加わった。6月京都に帰り、吉村虎太郎(とらたろう)らとともに京都を脱出、8月大和(やまと)五條(ごじょう)代官を襲撃し討幕の兵をあげたが、この天誅(てんちゅう)組挙兵は失敗に終わった。その後長州藩に逃れたが、翌元治(げんじ)元年11月15日藩の刺客により暗殺された。[佐々木克]」】

【注⑩。精選版 日本国語大辞典によると、平射(へい‐しゃ)は「火砲の射撃法の一つ。四五度以下の低い仰角で直線的に砲弾を発射するもので、直接照準を行ない目標と砲との間に障害となるものがない場合に行なう。高初速で平らな弾道を描くので、曲射に対していう。」】

【注⑪。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、ゲベール銃は「江戸時代末期に海外から輸入された歩兵銃の一種。ゲベールGewerはオランダ語やドイツ語で軍用小銃を意味するが、日本では銃の固有名詞となっている。火打石式の点火装置をもつ先込め式小銃で、1670年フランスが制式軍用銃としたのをはじめとして、ヨーロッパ各国軍隊が採用した。日本では長崎の町役高島秋帆(たかしましゅうはん)が1831年(天保2)に私費を投じ、輸入して紹介したのをはじめとし、以来もっとも多く輸入されて、幕末の内乱に使用されたことでよく知られている。全長149.9センチメートル、口径17.5ミリ、重量約4キログラムで、銃身は鍛鉄(たんてつ)製の白磨(しろみがき)丸型銃筒で、銃口部に着剣用の突起があり、銃身と銃床とは上中下3個の帯金で結合されているため「三つバンド」ともよばれた。照準器は初期型は照星だけであったが、のち国産倣製されるようになり、照門もつけられた。なお初期型は火打石式であったが、1845年(弘化2)以後は雷管点火式となり、初期型の大部分は雷管式に改造されている。短銃身のカーバイ型もあった。[小橋良夫]」】

(続。前回はサイトアップの過程で故障が生じ、一週間遅れになりました。ご迷惑をおかけしました。また、例によって意味のあやふやな訳文があると思いますが、ご容赦下さい)