わき道をゆく第221回 現代語訳・保古飛呂比 その㊺

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[参考]

一 (文久三年)六月二十四日、藩にて次の通り。

口上覚え

このたび長州において兵端が開いた件につき、応援して(敵を)打ち払うよう京都より御沙汰があったが、彼(相手国側)は拒絶の命があったことをまだ知らない。そうであるならば、突然、これを討つのは(どうかと太守さまは)皇国のため深慮され、京都ならびに江戸表にお伺い中である。このため、(夷船への対応について太守さまから)下知がないうちに、もし夷船が渡来して乱暴を仕掛けた場合は言うまでもないが、そういうことがないうちは猥りの挙動がないようきつく命じられたので、そのお気持ちをとりわけ各組の者たちに示して聞かせ、配下を持つ者は配下へも示して聞かせるよう。次いで一人ひとりが太守さまのご意思を承り、組頭たちから配下の面々ヘ伝えられたい。以上。

文久三年六月二十四日

執政 山内下総

同 柴田備後

同 桐間蔵人

一 同二十五日、執政より次の通り。

三六(高行の養父のこと)の総領

佐々木三四郞(高行の別名)

右の者、山奉行材木方と作事奉行の兼務を命じる。従来の格式・役領知はそのまま。(就任の)御礼は、進物なしで、来月七日に(太守さまが)お受けなさるので、四ツ時に三ノ丸へ参上するよう。もし故障等があって出勤できないときは、早速届けるよう。以上。

六月二十五日

柴田備後

山内下総

 百々礼三郎殿

[参考]

一 六月二十九日、藩にて次の通り。

口上覚え

近年、臨時の出費がかさんで財政事情が悪化した折から、去年以来、天下騒擾の雲行きになった。そのため、御両殿様(容堂と豊範のこと)が勅命(天子の命令)・台命(将軍の命令)を受けて東奔西走、京都に長期間滞在された。それに加えてご女儀さま(藩主の妻女などのこと)が江戸表から順次帰国されたこともあり、莫大な散財を余儀なくされた。海防軍備にしても充実とまではいかないが、こういう時勢なので捨て置かれず、大小の大砲や銃を鋳造して器械・人員の不足を補い、数万両を費やして蒸気船をお買い上げになった。このため軍備にかかる費用が膨大になり、蓄えも乏しく、大坂や国許での借金がかさみ、どうにも融通がつかなくなった。そして時勢はますます切迫して不安になる一方なので、種々評議を尽くしたが、特に解決の手段もないので、今年の亥の年に「歩立出米」(※出米は農民から取り立てる税の一種か)を命じることになった。長年勝手向きが不如意な者もあるだろうから、武器修復料等も支給すべき時節なのだが、かえって御侍以下にまで俸禄の借り上げをすることになった。太守さまはまことにもって不本意、幾重にも気の毒に思っておられるが、他に方法もなく、やむを得ず、右の通り命じられた。いずれもこのやむを得ぬご処置に服し、諸事倹約することで凌ぐようにとの思し召しである。もっとも詳しいことは御仕置役より通達するので、そう伝えよとお命じなった。右の内容を組の者一同に伝え、配下がある面々はその者たちにも伝えるよう。次いでそれぞれが太守さまのご意向を承り、組頭たちから配下の面々に伝えるよう。以上。

亥六月二十九日

山内下総

柴田備後

桐間蔵人

右は七月一日の惣触れ(注①)だが、当分日付に従ってここに入れておく。

【注①。世界大百科事典によると、「江戸では,老中から出された御触を〈惣触(そうぶれ)〉,町奉行が管轄内の事項について発した御触を〈町触〉といった」。これから類推すると、土佐藩では行政トップの執政が出した御触を惣触れと言ったのではないか】

[参考]

一 板坂氏の「大封箱」(※大型の封をした箱の意か)の底にあった諸控え

廣瀬健太(注②)

平井収次郞(注③)

間崎哲馬(注④)

右の三人の者が京都で(青蓮院宮から先々代藩主の山内豊資にあてた)令旨を拝戴した行為は、上下を欺き奉って不届き至極である。ご隠居様は青蓮院宮さまから直接その詳細を聞かれた。御三殿さま(※容堂、豊範、豊資の三人のことか)はご不快に思し召され、厳しい処分を仰せつけられるべきはずのところ、お含みの筋があって御慈慮により、牢屋で切腹を申し付けよとのご意向なので、その旨を指図するよう。以上。

山内下総

柴田備後

桐間蔵人

大目付あて

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、弘瀬健太(没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保7(1836))は「幕末の土佐(高知)藩士。文久1(1861)年土佐勤王党に参加。藩主山内豊範に従って上洛。藩論を尊王攘夷に導くため,平井収二郎,間崎滄浪らと謀り朝彦親王の令旨を受く。山内豊信に秩序紊乱とみなされ,切腹を命ぜられた。(井上勲)」】

【注③。朝日日本歴史人物事典 によると、平井収二郎(ひらい・しゅうじろう。没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保7(1836))は「幕末の土佐(高知)藩士,勤王運動家。幼名幾馬,通称収二郎,本名義比。文武を修め,特に史書に通じた。文久1(1861)年,土佐勤王党結成に参画し幹部となる。2年,藩論は尊王攘夷に傾き,藩主山内豊範を擁して京都に押し出した。時に諸藩の勤王運動家が続々上洛,薩長土3藩の運動が群を抜いた。収二郎は,小南五郎衛門,武市瑞山らと他藩応接役を勤め,別勅使三条実美東下の際は京都にとどまり,薩長両藩の軋轢緩和などに奔走。しかし,勤王党が構想する藩政運営方針を藩庁が容れないのを憂慮,間崎滄浪,弘瀬健太らと中川宮朝彦親王の令旨を獲得,大隠居豊資を擁立する改革推進を工作した。これが隠居山内容堂(豊信)の逆鱗に触れ,3年6月,切腹の刑に処せられた。(福地惇)」】

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、間崎滄浪(まざき・そうろう。没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保5(1834))は「幕末の土佐(高知)藩郷士。本名則弘,通称哲馬。滄浪は号。早くより才覚を表し土佐の三奇童のひとりと称された。嘉永2(1849)年16歳にして江戸に遊学,安積艮斎に入門,塾頭に抜擢された。遊学3年にして帰郷,城下に学塾を営み子弟を訓育し評判が高かった。また吉田東洋の少林塾にも学んだ。徒士になり浦役人や文武下役に任じたが上役と衝突して罷免された。文久1(1861)年再び江戸に上り安積の塾に投じ同門の幕臣山岡鉄太郎と親交,また武市瑞山と意気投合し,土佐勤王党に加盟。2年に上洛,在京の勤王党幹部平井収二郎らと勤王運動に適合する藩政改革を計画,中川宮朝彦親王の令旨を得たが,隠居山内容堂(豊信)の激怒を招き,平井,弘瀬健太らと切腹の刑に処せられた。<著作>詩集『滄浪亭存稿』<参考文献>平尾道雄『間崎滄浪』(福地惇)」】


[参考]

一 御国(土佐)の年代略記

一 亥年(文久三年)三月、異国船が渡来した場合、浦々からの注進があり次第、お城で早鐘をつき、この合図によって諸士が大頭の宅に駆けつけること。(注⑤)

一 この一番早鐘で、浦戸(軍事上の要衝である浦戸湾の湾口左岸)・種崎(同じく浦戸湾の湾口右岸)に集結する御士(士格身分)の末子以下の面々は(まず)中老の宅に駆けつけ、そこから持ち場へ集結すること。なお、菜園場(さえんば。藩の菜園があったところ)において船の手配があるはず。

一 この一番早鐘で留守居組が追手・御屋敷・北ノ口の三門へ集まり、(各門の)番所を受け取り、守りを固めること。

一 この一番早鐘で御近習衆が全員出動し、外輪諸役もまた会所(政庁)に集まること。(注➅)

一 二番早鐘をついたときは「近海持切之御家老中押出シ可申事」(※近海での防禦担当の家老たちを前面に立て、というような意味かと思われるが、違うかもしれないので原文そのまま引用)なお、仁井田(種崎の北側。浦戸湾の右岸)・種崎の辺りに出動する組へは菜園場で船の手配があるはず。

【注⑤。平尾道雄著『近世社会史考』によると、「山内家の場合は家老以下中老、馬廻、小姓組、留守居組などの家中武士によって十二組の兵団が組織せられ、これに郷士、徒士、足軽などの軽格が分属して動員のことが用意されていた。」大頭はその兵団の長で、だいたいの場合、家老がその任に当たった。】

【注➅。平尾道雄著『土佐藩』によれば、土佐藩の「行政機関は近習(きんじゅ)と外輪(とがわ)にわかれ、前者は内政官として藩主の江戸参勤に側近するものに近習家老があり、側用役や内用役・納戸役がこれに付属し、その勤務を監察するものに近習目付がある。(中略)後者は外政官として執政の任に奉行職二人または三人が家老のうちから選任せられ、月番をもって政務を担当するのである。」】


[参考]

一 次の記述の日付は元治元年六月とあるが、文久三年であろう。よってここに収める。

○異国船渡来のときの定め

一 浦からの注進があり次第、お城で早鐘と発砲を交えて合図すること。

一 この合図で「近外蒐ケ著面々」(?)は持ち場へ出動すべし。もっとも、浦戸・種崎集結の郷士以下の面々は(まず)中老の宅へ駆けつけ、(そこから)持ち場へ集結のこと。ただし菜園場で船の手配がされるはず。最寄りの郷士・足軽等は直接持ち場へ集結すること。

一 この合図があったときの兵卒たちの詰め場所は次の通り。

寄合組(?)

右は月番(=一カ月交代の勤番)の宅

御持弓筒(注⑦)支配

右は二ノ丸

ただし御持弓筒の者の当番以外は(高知城内の)獅子ノ段の射場(に集結のこと)

郷士隊長ならびに付属の徒

槍奉行(注⑧)ならびに付属の徒

御旗本諸足軽大将ならびに付属の徒

右は文武館に

ただし「右頭ニ交番を以」(?)二ノ丸へ詰めること。

御小姓組

新御小姓組

御側組の面々の嫡子

右は三ノ丸に

近外役掛(?)の面々

右は全員で役場に▢(欠字)詰めること。

なお文武館教授のほか文役掛の面々は側につき従うこと。

外輪足軽(注⑨)大将

右は小頭ならびに足軽ともに自宅へ詰め、自宅を守り、時宜により大頭の宅へ詰めること。

組頭

旗奉行(注⑩)

御馬廻り

組付きの物頭の嫡子

右は大頭の宅に、

ただし一二明組(注⑪)は文武館。

御留守居組

右は追手御門・御屋敷御門・北ノ口御門へ集結、それぞれの番所を受け取り、守りを固めること。

白札

右は西ノ口御門に当番が全員出動。

御旗付き郷士(注⑫)

右は文武館に。

御用人類無役者(?)[軽格元雇人だったが、いつごろよりか、用人の字を用いるようになったとの説がある]

一 「名代勤願済候輩」(?)と諸役人の父は出動に及ばず、時宜により三ノ丸に詰めること。

一 形勢により諸組の援軍を差し向けること。もっとその時に至って命令が出るはず。

一 士大将をはじめ諸兵卒に至るまで、働くのに便不便もあるだろうから、甲冑を着けても素肌でもよろしい。

一 馬に乗っても、徒歩で行ってもどちらでも構わない。

一 中老以下組頭以上が、馬印(注⑬)を(従者に)持たせるがどうかは勝手次第。そのほか物頭が自分の馬印を持たせることは禁止する。ただし指物(注⑭)で馬印を兼ねようとするのはよろしい。

一 末子・養育人等を従者として召し連れることは勝手次第。

一 出陣の当日、「不時之養物」(※非常食か)を用意すること。

一 袖印(注⑮)は古来の定めの通り。もっとも「近外」(?)足軽大将・大砲頭に付属する小頭ならびに足軽は「頭ニヨリ自分印相渡候筈」(?)。

一 諸士が戦で使う指物のことは御先代さま(歴代藩主のこと)の定めもあるので、容易に改革を命じることはできないが、時勢の変遷により不便なこともあるので、さしあたり次の通り定める。

幟(のぼり)[縦四尺以下、幅一尺五寸以下、布や絹の類いを用いる。具足・素肌等で出陣の際はこの幟を腰指物(腰に差す指物)にして、用いること]

幟の色柄の定め(を次に列記する)

一 中は白で、上下は好みの色を用い、文字紋(文字を紋章化したもの)染め付けること。

これは中老以下物頭格(の場合)

ただし母衣の使用を許された面々は、各自の考えで母衣を用いるのは勝手次第。

一 上下が花色、中は白、無紋。

右は使母衣(戦時に主君の指示を前線に伝えたり、現場の情報を主君に伝えたりする役目のこと)、なお左御使武者を母衣武者と呼ぶ。

一 白札切裂(※よくわからないのだが、ひょっとしたら短冊のようなものか)、無紋、柄弦(※えづる。これもよくわからないが、大きな矢羽根のような形をした指物の一種か)は枝模様に製造。

右は柄弦御指物[ただし右の御使い武者を柄弦御指物と言う]

ただし左右の御使い武者は、古来の通り母衣・柄弦等をお渡しになるはずだが、便利を図り、幟または腰指物を用いる際は、右の通り製造すること。

一 上下は黒、中は白、文字紋等を染め付ける。

右は小頭のほかの諸士。

一 上下は浅黄色、中は白、文字紋等を染め付ける。

右は与力騎馬。

一 上下は浅黄色、中は白、無紋、

右は白札郷士。

以上。

子六月

【注⑦。平尾道雄著『近世社会史考』によると、「足軽層のうちから御持筒とか御持弓とよばれるものが選抜された。抜群の技術を認められたもので定員はないが、およそ十人内外にとどまり藩主親衛の役を勤めたものである。」】

【注⑧。デジタル大辞泉によると、槍奉行は「武家時代、槍を持つ一隊を率いる人。長柄(ながえ)奉行。」】

【注⑨。平尾道雄著『近世社会史考』によると、「足軽は、その勤務別によって定供足軽と外輪足軽の二派があった。定供足軽は藩主往来に従行するもので近習方支配におかれたものでその数約百名。これに対して外輪物頭支配下におかれ雑務に任ずるのが外輪足軽である。」】

【注⑩。精選版 日本国語大辞典によると、旗奉行(はた‐ぶぎょう)は「中・近世、主将の旗をあずかる役目の侍大将。旗大将。幟(のぼり)奉行。」】

【注⑪。土佐藩の軍勢配置の基本単位について佐佐木の『佐佐木老候昔日談』の談話がある。「もと土佐には何組、何組といふて、すべて十二組ある。之を御馬廻組と称して、家老がその組頭となる。尤も一明組と二明組は、家が断絶した為に組頭も家老ではなかつた。」】

【注⑫。平尾道雄著『土佐藩』に次の記述がある。「(大隊、小隊のほかに)旗付郷士五〇人が選ばれて本陣に属し、軍旗一〇本に五人ずつ配せられて旗奉行の支配をうける。旗付郷士を一定期間勤続すると留守居組に昇格、上士に列する途が開かれていた。」】

【注⑬。デジタル大辞泉によると、馬印(うま‐じるし)は「戦陣で用いた標識の一。大将の乗馬の側に立てて、その所在を示す目印としたもの。」】

【注⑭。デジタル大辞泉によると、指物(さし‐もの)は「戦国時代以降、戦場で武士が自分や自分の隊の目印として、鎧よろいの受筒うけづつに立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗。」】

【注⑮。精選版 日本国語大辞典によると、袖標・袖印(そで‐じるし)は「戦場で敵味方を識別するために、鎧(よろい)の袖につけた標識。小さな旗状のしるしで、多く布帛を裁ち切って用いるが、小旗や木枝なども用いた。袖の笠標。」】

【注⑯。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、母衣(ほろ)は「甲冑(かっちゅう)の背につけた幅の広い布で、風にはためかせたり、風をはらませるようにして、矢などを防ぐ具とした。五幅(いつの)(約1.5メートル)ないし三幅(みの)(約0.9メートル)程度の細長い布である(後略)」】

七月

一 七月二日、鹿児島で英船を砲撃、大勝利という。

右の説を近族(血縁の近い親族)中島参平に聞く。中島は勘定奉行の一人、これから外夷と大戦争になると、大いに奮発している。

一 七月五日、執政より次の通り。

三六の総領

佐々木三四郞

右の者、進挙の御礼を来たる七月にお受けになるはずだったが、「此度ハ御立リ[ママ]ニ被仰付旨被仰出候」(※意味不明のため原文そのまま引用)もっとも右は当日の四ツ時、三ノ丸へ参上し、御奏者番(城中での礼式を管理する役)の宅まで御礼を申し上げ、退くよう。以上。

七月五日

[参考]

一 七月五日、伝奏衆(朝廷の取次役)へ薩州が出した届。

さる(六月)二十八日、英船七艘が城下の海へ渡来、生麦の一件(注⑰)について妻子養育料を渡せという書簡を差し出したので、この件についてはどこまでも曲直を明らかにするという姿勢で応接していたところ、さる二日明け方、(英国側の)水夫らが乗船して城下辺に繋がれていた薩摩の蒸気船三艘を非法に引き出し、いまにも出帆しそうに見受けたので、堪らず憤激し、即時に打ち砕けと厳命を下しました。あちこちの砲台より発砲に及んだところ、相手方からも同じように頻りに発砲してきて終日戦争となりました。(英国側は)翌三日昼過ぎ、退帆を始め、孤島台場前を通過中にまた互に打ち合いになりました。その夜、城下より四里ばかり沖合いへ七艘とも碇泊しました。四日に退帆しましたが、うち一艘は洋中に碇泊したため、相応の傷があるように見え、この船はようやく引き船を使って退帆しました。追々死体ならびに器械などが流れ寄っていますが、何人を討ち取ったかはわかりません。当方の負傷者や死人は別紙[略す]の通り。ならびに蒸気船三艘を焼失し、そのうえ市中の寺院があちこち焼失しました。とりあえず事の経過をお届けします。以上。

亥七月五日

【注⑰。精選版 日本国語大辞典によると、生麦事件(なまむぎ‐じけん)は「文久二年(一八六二)八月、薩摩藩主の父である島津久光が江戸から帰国の途中、武蔵国橘樹(たちばな)郡生麦村(横浜市鶴見区生麦)にさしかかった際、騎馬のイギリス人四名が行列を乱したとして、同藩士に殺傷された事件。翌年の薩英戦争の原因となった。」】

一 七月七日、御山奉行・御作事奉行を仰せ付けられる。進挙の御礼を申し上げる。

[参考]

一 五月十日の攘夷の期限に至り、長州が戦端を開いたが、これに呼応する諸藩はなかった。ゆえに我が藩は次の通り、京都の朝廷に建白した。

外夷拒絶[別の本では拒絶ではなく掃攘]についてこのたびのお沙汰のご趣旨を伏して遵奉いたします。謹んで思いますに、昨冬以来、勅命をもって幕府に命ぜられたのは、公武合体、皇国一致の上、攘夷をすべく、その具体的方策は幕府に委任するということでしたが、幕府においてもその方針を遵奉なされ、このうえは皇国の信義を外国に対して失わぬよう、談判をし、先方が承服して、異議なく退帆したならば、永らく太平の治世に戻り、皇室を盤石の安泰にすることができるでしょう。しかし、もし相手側が命に逆らい承服しないときは、非は向こうにあり、すでに非難されるべき立場にある以上、幕府は朝命を奉じて命令を列藩に伝え、断固として相手の罪を問いただし、勤王敵愾(敵と戦おうとする意欲)の気を奮い立たせ、列藩が奮然として決闘し、醜夷(野蛮な外国人)を打ち払い、国体を辱めぬよう力を尽くし、そうして盤石の土台を築き、永く宸襟(天子の御心)を安んじるようにしたいと存じます。この拒絶談判の期限は五月十日であると幕府が奏上しましたので、それ以来、相手が命に背くのか応じるのか、その様子だけをうかがっていましたが、今に至るまで東西両港の交易は以前のままの形のようです。これはどういうことでしょうか。もちろん拒絶談判等は皇国の安危にかかわることなので、難渋することはありましょうが、時日の期限をお受けになった以上、相当のご処置もあるべきだと存じます。ところがそういうことも聞えてこず、各藩は少なからず戸惑っております。折から長州においては、幕府の表と裏の相反する処置によって、相手側が背くのか応じるのかわからないまま、(馬関海峡を)往来する外国船等に発砲しました。それを応援せよというお沙汰の趣旨だったので、これまた列藩は覚悟を決めることができなかったのだと思います。このごろの情勢は、昨年以来の事態の推移とちがい、衆人の意外に出たので列藩の疑惑が相次いだのだと思います。私たち父子(容堂と豊範)は未熟ながら、(天子の)御依頼を受け、この年、周旋尽力しましたのに、今日になって黙ってしまうのは、かえって(天子の)恩情に背くことになるので、私どもの愚かな考えを建白した次第です。すべてこのたびの拒絶は地球中を敵にすることなので、全国一致の力でなければ、決して打ち払うことは困難です。前文の通り、幕府と長州の処置は相反しているので、その他の者はみな猜疑心を持つようになり、まことに心が痛みます。いったい軍制に関することは、最高指揮官の指揮が厳重でないと混乱するのは明らかで、あらかじめ委任された以上、速やかに幕府に命令を下していただきたいと存じます。拒絶談判が遅れたのは幕府の罪であって、夷狄のあずかり知らないことです。いわんや清国とオランダの二国のようなものは、二百年来通商を許されてきたので、それ以外の蛮夷(野蛮な外国人)とちがった取り扱いもあるべきではないでしょうか。すべて敵国外域に対しては、第一に彼らの曲直を正し、信義を失わぬことが肝要だと思います。にもかかわらずいまだ相手の諾否を聞かず、往来する運航船を砲撃し、こちらから戦端を開いては、いわゆる曲直がひっくり返って、世界の無辜の生き霊をいたずらに死なせ、皇国無窮の外患を生むことになり、いかがなものでありましょうか。古の言葉にも、「師直(なお)きを壮(さか)んとなし、曲を老たるとなす」(大義名分が明確でないと士気や戦力が保てないという意味か)と言います。であるならば、皇国一和で指揮命令系統が一貫しないと、列藩が応援するといった約束は成立しません。しかし、すでに兵端を開いたからには、いつか向こうが退去して攻め入ってきた場合には、防禦の件は各藩が手当てすることになります。よって軍制の指揮は幕府の任なので、伏して願わくは、早々に段取りが立つよう願い奉ります。誠恐誠惶、頓首謹言。

文久三亥年七月

松平土佐守

右と同時に幕府に提出した建白書は次の通り。

 外夷拒絶の勅旨について、五月十日を期限として列藩へ布告された以上、右の期限までに(外国との)応接談判を遂げられると思っていたところ、廟議はどのようになりましたのでしょうか。期限がすでに過ぎたのに、東西両港においては通商交易がもとのままの形になっているため、各国に疑惑が生じています。そうした折から、このたび長州が兵端を開いたため、再度の勅命がじきじきに下されました。しかしながら皇国の将来の安危にかかわる、容易ならざることなので熟考しますところ、いったん開港和親をお許しになられた以上は、皇国より諸夷諸蛮と呼ぶ相手ではあっても、彼らもまた人類でありますので、あれこれ正邪の道理を正し、信義が立つように応接することが肝要だと存じます。ところが事を急いで仲違いをするのは、かえって皇国長久の良策ではないと思います。そのため勅命に答える建白書を別紙[前掲の建白と同文]の通り差し出しました。重大な勅諭なので、そのまま謹んで承るべきところ、まことにもって至重至大の事柄につき、妄語の罪を顧みず言上いたしました。幕府においてこの建白を採用され、上は天朝に忠節が立ち、下は列藩へ信義を失わず、諸夷を屈服させ、武威を外域に照らすよう、ご処置をなされるよう存じ奉ります。以上。

七月 松平土佐守

(続。土佐藩の兵制やこまかな身分関係の記述が多く、無学な私にはてんで歯が立ちませんでした。意味不明なところばかりで申し訳ありません。いずれは専門家の知恵を借りて修正していきたいと思います。)