わき道をゆく第222回 現代語訳・保古飛呂比 その㊻
(文久三年)七月
一 七月二十日、太守さまが三ノ丸で諸士に言い渡された御意の内容
去年以来、公武の関係が穏やかでないため、我らは弱年の身をもって朝命(天子の命令)を受け、勅使に従って東下西上(京都から江戸に下り、さらに江戸から京都に上ること)した。ことにご隠居様は勅命・台命を受けて(公武の間を)周旋され、ついに幕府が攘夷の勅命を遵奉するようになされた。そのあと、将軍が上洛し、外国を拒絶するにあたっての策略については幕府へ委任されたので、このうえは皇国の信義を失わぬよう、幕府が外国に対する応接を一任されることになった。外国が異議なく承服して退帆すれば、永く太平がつづき、王室の安泰が盤石になる。もし外国が正義に逆らい、道理に外れて、命令に従わず、兵端を開いたならば、不正は向こうにある。相手はすでに不正の名を負っているので、将軍が列藩に命令をくだし、断固として相手の罪を問いただし、勤王敵愾(敵と戦おうとする意欲)を奮い立たせ、公平無私な精神で不正を討てば、国体を辱めず、兵や民の勇気を倍増させ、皇国一致、宸襟(天子の心)を安らかにすることができる。ところが先日、攘夷の期限を過ぎたためか、長州で兵端が開かれ、応援等の件で京都よりご指示があった。これについてはもとより遵奉するつもりではあるが、年々御依頼の恩顧にあずかり、今[別本には今の字はない]の皇国の危機に臨んで、黙ったままでいては、(私どもの)取るに足りない忠義の心を述べることができず、不本意の至りである。それで無礼の罪を顧みず、先日朝廷と幕府に建白をした。そもそも前勅(前の勅命)のごとく、拒絶の策略等についてはすでに幕府に委任されているので、かれこれと手順を踏んだ後での戦争はやむを得ない時である。しかしながら「幕府容易ノ御請有之」(※幕府が安易に攘夷をお請けして、という意味だと思うが、自信がないので原文引用)、外国に対する拒絶が遅れたことの罪は幕府にある。朝廷が(幕府を)しきりに督責されたことは、外夷のあずかり知るところではない。なのに長州は、やむを得ない事情もあるのかもしれないが、往来の船に対していきなり砲撃したようであり、そうだとしたら、相手側とこちら側の正邪の順逆がひっくり返り、各藩に猜疑心が生じ、応援の約束をすることも難しくなる。天下の無数の罪なき生き霊をいたずらに砲火に死なせ、皇国に限りないわざわいを生じさせるに至るだろうと不安である。我らの皇国の社稷を憂える赤心はかくの如くである。(諸士は)いずれも臣下なのだから、腹蔵なく(本心を)吐露し、銘々が我らの憂苦の心を体得し、妄言や軽挙を深く慎み、何事も下知を待ち、ほんの少しでも我らの趣意に背かぬよう、厳重に心得るべきこと、以上。
七月
(高行の所感)この書き付けを拝承したものの、勤王過激家は長州の暴発とせず、畢竟幕府の因循であって、表面は攘夷の(勅命を)お受けしながら、その実は種々の奸策をほどこし、勅命を遵奉しないのだと、内々は不満の色がある。自分らは、なるほど過激家の説のとおりだろうが、しかしながらこの場合は、書き付けの通り、(朝廷が)幕府を十分に督責して、いよいよ遵奉しないときは、一藩を挙げて勤王を励むべし、今日は謹んで時機を待つべきだと論じた。
一 七月二十日、五藤内蔵殿が奉行職になり、桐間蔵人殿が奉行職を解任された。
一 同二十二日、雲峯院さま(容堂の父・豊著のこと)の末女・於利恵が亡くなった。御年五歳。
一 七月、長州より応援を乞うため、使者が来たとのこと。
[参考]
一 門田為之助・土方楠左衛門(注①)の両人は、先だって朝廷の御用向きを命じるお沙汰を受けたのだが、(京都藩邸の)お留守居役よりお断り申し上げた。為之助は先日国許へ急の御用があって派遣された。楠左衛門は何かと御用向きがあるということで、今日国許へ派遣される予定になっていたが、朝廷より直に御親兵に指名された。特別な御用向きを仰せつけるとのことである。[記録抄出]
【注①。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、土方久元(ひじかたひさもと[生]天保4(1833).10.6. 土佐[没]1918.11.4.)は「東京明治期の政治家。伯爵。土佐藩士土方久用の子で通称楠左衛門。号は泰山。文久1 (1861) 年武市瑞山の誓書盟約に加わって尊皇攘夷運動を行ない,同3年8月18日の政変以後,七卿に随行して西下し,三条実美の信を得た。さらに倒幕運動にも参加し,中岡慎太郎とともに薩長連合実現へ大きく貢献した。明治維新以後,江戸府判事,東京府判事を経て,明治4 (1871) 年には太政官になり,1877年には一等侍補,さらに内務大輔,内閣書記官長,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣,宮内大臣,枢密顧問官を歴任。その後,帝室制度取調局総裁,臨時帝室編修局総裁として修史事業に尽力,また國學院大學学長,東京女学館館長をも兼ねた。」】(
一 七月、幕府より次の通り。
触れ
大目付へ
古金(注②)を引き替えに差し出す方法について、このたび小判・一歩判(注③)の歩合を増して通用させるよう通達が出た。これから引き替えに差し出す者へ、道のりの遠近にかかわらず、お手当を増やす割合は次の通り。
一 慶長金武蔵判百両につき代金 二百五十八両
一 元禄金百両につき代金 百七十八両
一 乾字金百両についき代金 百三十五両
一 享保金百両につき代金 百六十六両
一 元文金百両につき 百五十両
一 直字二歩判文政金百両につき 百三十両
一 草字二歩判百両につき 百二十三両
一 五両判’(注④)百両につき 百五両
右の通り歩合を増やしたお手当を下さる。引き替え人のお手当については、これまでの通り、すべて百両につき金二歩ずつ下さるのでいささかも貯め置かず、江戸・京・大坂そのほか諸国の引き替え御用を勤める者どもへ差し出し、早々に引き替えるよう。もし、このうえ貯め置く者があれば、糾問のうえきつく処置するので、天領においては御代官、私領においては領主・地頭がその旨を心得、入念に申し付けるよう。
右の内容を諸方面に漏らさず通知されたい。
【注②。精選版 日本国語大辞典によると、古金(こ‐きん)は「江戸中期以後、それまでに流通していた金貨幣をさしていった語。」】
【注③。精選版 日本国語大辞典によると、一分金・一歩金(いちぶ‐きん)は「江戸時代、一両の四分の一に当たる金貨。慶長、元祿、宝永、正徳、元文、文政、天保、安政、万延の各時代に、品位および、重量の異なるものが発行された。一両通用の小判の補助的なもので、必ず同時代の小判とともに通用し始めている。一分。分判。一分判。一歩小判。一分判金。小粒。」】
【注④。精選版 日本国語大辞典によると、天保五両判(てんぽう‐ごりょうばん)は「 江戸時代、天保八年(一八三七)一一月から安政二年(一八五五)まで通用した長円形の五両金貨。重量九匁(三三・七グラム)、規定の品位は千分中八四二・九。大判と小判の中間価値を持つところから俗に「中判」と呼ばれた。五両判は江戸時代これが唯一のものであるが、一両通用の小判五枚(五両)よりも実質価値が低いため不評であった。」】
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大目付へ
外国人が歩行の際、その途中で不作法がないよう各地の長官の者へ通達しておいたが、日本の国法についてのわきまえもない者であるから、いきおい途中行き逢って不都合なことも起こりうる。そうしたことが起きたら、なるべく穏便に取り扱い、外国奉行へ届け出るよう。また、その旨を家来どもへもあらかじめ申し付けておかれたい。
往来または橋上で投石しないよう前々からお触れをだしているが、外国人が町中を歩いているとき、投石する者があるやに聞く。どういうことか。今後は末々の者までもこのような心得違いがないよう取り締まりをきつくし、もしそうした者を見受けた際には辻番所の役人らが全力で制馭するように。
右の通り、通達されたい。
七月
八月
[参考]
一 同十三日、(朝廷の武家)伝奏より次の通り。
今度、攘夷のご祈願のため大和国へ(天子が)行幸され、神武帝陵・春日社等を参拝して、しばし逗留される。そして御親征の軍議を開かれ、そのうえで伊勢神宮に行幸される。
八月十三日 飛鳥井家より。
一 行幸ならびに御親征軍議の御用途金十万両は加州・長州・肥後・薩州・御名(土州のことか)・久留米等で相談し、調達するように。
八月十六日 伝奏よりお達し
一 同十八日、長州藩による堺御門の警衛任務が解かれた。これについて大いに議論があり、三条卿をはじめ七卿が京都から脱走したという。(文久三年八月十八日の政変。注⑤)
この知らせが土佐に達すると、佐幕家が大いに勢いを得て、勤王家は痛く失望した。
【注⑤。百科事典マイペディアによると、文久3年8月18日の政変は「文久3年(1863年)8月18日公武合体派が,それまで優勢であった尊攘派を京都から追放,実権を掌握した事件。長州勢を中心とする尊攘派は孝明天皇大和行幸を機に天皇を擁して討幕軍を起こす計画を立てていた。これを知った薩摩(さつま)鹿児島藩の島津久光らは陸奥(むつ)会津藩および中川宮(朝彦親王)ら朝廷内公武合体派と結び,突如御所を軍勢で囲んで行幸を中止させ尊攘派公卿志士らを追放した。この事件で尊攘運動の中核としての長州勢の優位はくつがえり,また大和行幸に呼応して決起したはずの天誅(てんちゅう)組は孤立壊滅。」】
一 同十八日、兵之助さま(容堂の弟)へ朝廷より次の通り。
山内兵之助
今朝の夜明け方以来、(兵之助は)非常の情勢混雑により召され、参上して(長州勢を)鎮撫した。このことに天子はご満足に思召され、今後も忠勤するようにと仰せられた。
八月
山内兵之助
その方の藩の者どもがいずれも懸命に力を尽くしたことを、(天子は)大儀に思召されている。今後もなお諸藩が互いに申し合わせ、よろしく鎮静に尽力するように。
ただ、諸藩が(すべて皇居に)詰め切っていると、兵卒たちが疲労するであろうから、申し合わせて、交代で警衛するように。
八月
松平相模守
大州 加藤出羽守
因州末家 松平伊勢守
一柳包五郎
しめて千四百八十人
松平備前守
丸亀 京極佐渡守
豫洲新谷 加藤山城守
しめて千三百五十人
松平淡路守
大垣 戸田采女正
しめて千五百人
上杉弾正大弼
山内兵之助
江州大溝 分部若狭守
平戸 松浦豊後守
膳所 本多主膳正
しめて千五百人
[参考]
一 金子(平十郎)よりの書簡は次の通り。
(上略)さて、今早朝、清和院御門当番の寺田典膳より、皇居の中がすこぶる物騒な様子で、中川宮様・有栖川宮が参内された、宮中で何か異変があったのだろうかと言ってきました。やがて(土佐藩京都藩邸の)お留守居役よりも連絡があり、兵之助さまが出馬されたほうがよいと言ってきましたので、早速準備をしていたところ、会津侯より至急参内されるようにと知らせがありました。すぐさま兵卒たちに出動を命じるべきだということになり、お供の面々は火事羽織・陣笠を着用し、馬印を真っ先に押し立て、四ツ(午前十時)ごろ参内しました。そうしたところ中川宮さま・有栖川宮さま・近衛前関白・会津侯が参内されていて、皇居の門(九門)の往来はみだりにできず、三条(実美)さまに対しては、参内を差し控えるようにとの命令が出ていました。もちろん長州の兵卒たちは皇居の中に入ることはできず、門は会津藩が大人数で固め、みな火縄を切り、士分は槍を持ち、必死の形相でした。因州侯・備前侯・米沢侯・阿州世子侯・所司代・会津侯・兵之助さまのほかは御門内に入ることを差し止められました。兵之助さまは一番に参内され、「是天下反正之至」(※意味不明のため原文引用)、三条さまはお役御免の内々の沙汰を受けられたということです。詳しいことは今もってわかりません。(兵之助さまの)お供の面々は御用役・御目付・御内用御留守居・御附小目附の一同が御所に控え、そのほかのお供は清和院御門を固めています。まことに人員がないとどうにもなりませんので、即刻大阪へ掛け合い、お侍十四人・足軽六十人ばかり上京させるよう言いました。このような大珍事に至った以上、至急、御両殿様(容堂と豊範)に上京していただきたいと一同思っております。神州のために苦心なされる時は、このときだと思います。御家老・中老ならびにお侍たちにも即刻出立を命じていただきたく存じます。詳しいことは清右衛門が報告すると思います。最早一刻を争って、戦がはじまりますので速やかにご決断していただきたい。御所の御門の中は火縄の臭いが充満しております。このことで現在の情勢をご推察願いたい。もちろん兵之助さまがいつになったら(現場から)引き上げるのかわからないため、お供の者たちは宿舎に帰るのを諦めました。急激な情勢変化についての報告はとりあえず以上の通りです。
八月十八日 [土州藩参政] 金子兵十郎
[土州藩側用人] 寺村左膳様
「追テ只今被仰出候兵ノ助様・水戸様・備前様御三所東西六門固監察警衛被仰蒙、右ノ通相成候」(※兵之助さま・水戸さま・備前さまのお三方が皇居の東西六門を固め、取り調べと警衛にあたるよう命じられました、という意味だと思うが、正確さに自信が持てないの原文引用)。早速人員を差し出さないと、国辱このうえなきことになります。「是ヨリ内ノ御堅メトハ、趣向違ニ相至申候」(※これからは今までのような内部の守備固めとは様相が違うと言いたいのだと思うが、原文引用)。返す返すも国辱にならぬよう、ご決断なされたく存じ奉ります。
[参考]
一 八月十八日、朝廷より次の通りご指示があった。
攘夷親征については、未だその機会にあらずというのが天子のお考えだが、「矯宸衷御沙汰之趣施行ニ相成段段、全思召ニ不在候」(※その考えを改めて、攘夷親征をすることになったというのは、まったく天子のお考えではない、と私は訳したが、自信がない)。いずれ御親征は行われるであろうけれども、まずはこのこと(当面の攘夷親征の中止)を天子がお命じなった。攘夷を実行するという叡慮は少しもかわらないけれども、行幸はしばらく延期するということである。
八月十八日
今般、行幸の延期をお命じになったが、攘夷を成功させることは積年の叡慮である。このため、勤王の諸藩は幕府の命令を待たず、速やかに(攘夷を)行うようにと天子さまは仰った。
八月
[参考]
一 同日、在京の列侯を(皇居に)召し、十八日以前に出された勅命は、みな朕の意ではない。十八日以後のものをもって真の勅命と心得えられたいと諭した。
一 八月二十二日、深尾弘人殿が御奉行職に。
故吉田元吉を信用したことにより、罰を受けたが、もともと着実老練で、家老の中では人望ある人物である。
一 同日[日付は幸代記等に見えないが、この日と思われる]深尾丹波殿が御近習御用に任じられ、桐間将監殿が御近習御用を解任された。
昨年は一時勤王家が勢いを得たようだったが、(それでも)要路には平井善之丞・小南五郎右衛門の両人がいた(だけだった)。やはり佐幕でも勤王佐幕でもない俗輩も(要路に)混じっているので、藩としての国是が一定せず、要路の進退がしばしばあった。もっとも、御奉行または御近習家老は十一軒の家柄に限られ、門地家でみな愚物だから、定見はさらにない。しかしながら自然の動揺のために進退があって、実に乱雑を極めた。
一 同二十三日、山内下総殿のお宅で、(高行が)幡多郡奉行・御普請奉行加役を命ぜられ、(幡多郡の中心地)中村に常駐することと、付属の役場(の監督?)をも仰せつけられた。これにより役料五十石をいただくことになった。御城下を離れた遠境の地なので万事注意するようにと言いつけられた。ただし従来の役料は差し除かれた。
この昇進はどういう事情によるものか。京都の十八日の事件が起きてからいよいよ佐幕家が勢いを得た状況なのに、(昇進が決まったのは)ちょうど十八日の事件の知らせが届いたころで、まだ大きく情勢の変わらぬ時だった。こうなった以上は必ずお役御免になると考えたが、藩政府も名分なくしては免職できまい。郡奉行は機密に関係はないものの、自分等の家格では抜擢だから、一度も赴任しないで免職になるのも、あまり藩政府の処置ともいえず、いかがなものかと思い、わざと赴任を急ぐ旨を申し出た。
[参考]
一 八月二十六日、兵之助さまが参内され、龍顔(天子の顔)を拝んだ。そうして、さる十八日、お召しにより早速参内して皇居の警固に尽力したことについて、天子さまが厚く感心されたという言葉を賜った。この功績により、天子さまの使い古しの扇子・絹等を拝領した。また末端の兵士たちまでその苦労をねぎらうため、賜り物をそれぞれに配分せよということで、一同へ分賜されたとのことだ。[記録抄出]
一 同二十七日、福岡宮内殿の組の御馬廻り(の士たち)を京都に派遣した。
[参考]
一 同二十八日、朝廷の内勅(内密の勅命)が土佐に達した。次の通り。
松平前侍従(容堂のこと)
だんだん不穏の時勢になってきて、急な御用があるので、迅速に上京せよという天子のご命令である。
右と同時に次の通りお沙汰があった。
松平土佐守(豊範のこと)
(土佐守は)堺表の警衛の任務に従事しているが、最近京都が不穏なので、人員を早々に上京させ、警衛にあたるべし。堺表には急遽国許から交替人員を繰り出して警衛するようにというお沙汰である。
[参考]
一 八月、三条(実美)さまへ内々のお尋ね、その答えは次の通り。
中納言さま(三条のこと)はかねて皇居守護の御用掛を命じられていますので、非常の際には、早速守衛要員を引き連れて参内する手筈になっていましたが、十八日朝は参内と外出を禁じられたため、(自邸で)謹慎していました。そこへ例の事変が起き、かねてのお指図もあったので、隊長(三条の指揮下にある長州藩などの部隊の隊長か)以下が御所に駆けつけたところ、皇居の九門は封鎖され、守衛要員といえども入ることができなかったので、部隊は各自の御当家(長州藩の京都藩邸が主と思われる)へ行きました。そして(三条の)指図を待ちましたが、前述の謹慎命令のため指揮ができないとお答えになったため、一同が大いに沸騰し、皇居の内外で戦争を始めようという勢いになり、あれこれと混乱しだしました。やむを得ず一同の興奮を鎮めるため、「一時ノ推計ヲ以」(※よくわからないが、その場の判断で、といった意味か)関白殿の邸宅まで諸藩の隊長以下を強いて引き下がらせました。(中納言さまは朝廷の)お指図をお伺いした上、なおまた恐れ入って自身の進退についてもお伺いする覚悟でおりましたところ、中納言さま以下それぞれが退散せよというお沙汰がありましたので、仕方なくなくいったん「大拂」(※大仏の誤記で、方向寺の大仏のことか)まで退かれました。その時勢は押しとどめることができず長州表にお下りになられました。
[参考]
一 八月、朝廷より次の通り。
最近の無名の投書は、元来「国忠正義」(※国に対する忠義と正義の意か)の心底より発するものであるが、かえって人心を騒擾している。ことに五月二十四日夜、関白殿・青蓮院宮・前関白殿そのほか両役(伝奏と議奏)たちに投書があった。昨年十一月、薩長土三藩による申し立ての件もあるので、諸藩士にこのようなことがあってはならない。何者の仕業か取り調べるよう(天子さまが)関白殿に命じられた。ただし、言路を塞ぐつもりはなく、これから告訴したいことがあるならば、姓名を書き、その筋へ申し出られよ。そのうえでご採用になるかどうかは、朝廷のご処置による。
文久三癸亥年八月
九月
[参考]
一 この月朔日、兵之助さまお呼び立てのうえ、伝奏衆より別紙お渡し。
異国船渡来の際の取り扱い
一 異国船が港内に乗り入れるか、あるいは近海に碇泊した時は、すぐさま番船(見張りや警護の船)を出動させ、入港に至る経緯を問いただし、どこの国の船か、かつまた軍艦か商船か漁船かを糺し、言っていることの虚実を見て、その持ち場の▢▢(欠字)「可報事」(※職務を果たせという意味か)。
ただし糺問する者は、海防小頭あるいは地下役の類で、応接の心得のある者を選ぶべきこと。
一 番船により、速やかに退帆すべき旨を申し聞かせること。
一 上陸・測量等は堅く許さず、かつ薪水食などを求めても一切拒絶すべきこと。
一 相手が承服して退帆したときはそのまま帰るべきこと。
一 相手が承服せず、不審なことを申し出て、退帆しない場合は、たとえ乱暴しなくとも打ち払って当然であること。
一 暴風に遭い、帆柱や舵を折られ、飢えや渇きに苦しんでいて、陸地の者の手助けで命をながらえようと欲する者は、状況に応じて取り扱うこと。
九月
(続。言葉の意味を一つ一つ調べるのに時間をとられ、作業がなかなか前に進みません。せめて年内には文久三年分を終わりたいと思っているのですが・・・・)