わき道をゆく第223回 現代語訳・保古飛呂比 その㊼
[参考](文久三年九月の項のつづき)
一 上杉さま(米沢藩12代藩主・上杉斉憲のこと)より(山内)兵之助さま(容堂の弟)へ、次の通り。
一筆啓達いたします。今日、松平相模守が当番のため参内したところ、別紙の通り、伝奏より言い渡されました。天下へ布告するため、この一件を私より廻達します。以上。
九月 上杉弾正大弼
山内兵之助さま
[別紙]
鎖港の件は近々実行に移される。攝海(大阪湾)は京都に近いため(天子は)ご心配なさっている。かつまた京都・大坂近辺の警衛指揮を尾張大納言に命じられたので、(それに必要な)兵卒について追々ご指示があるはず。前大納言殿はとりあえず早々に大坂へ行き、ご入城になるよう命じられた。以上。
八月二十七日 御所司代
御奉行
[参考]
一 このたびの「禁裏御所擾動起本書」(=文久三年八月十八日政変の顛末記という意味か)[記録抄出]
最初、長州侯が七月に上京。それから夥しい数の兵卒が次々と上京し、長州侯は三条(実美)中納言殿へ参内した。そのときの長州の考えは以下のようなものだった。今度、天子が大和に行幸し、その際にしばらく(大和に)滞留される間に御所に放火して焼き払う。そして京都の要路に御所を城郭のように建立する。その際に幕府に普請費用を数多申し立て、(その請求に応えないで)違勅したなら、大和国で挙兵して幕府を討ち取り、中川宮を鎮守府将軍に担ぎ上げ、天子に御親征を実行してもらう、と。(こういう計画を)何度も三条殿に申し出たところ、三条殿をはじめ勤王の公家たちがいよいよその気になり、天子に奏上し、八月二十六日に(大和)行幸されるということを諸藩はじめ市中までもお沙汰になった。このことを会津や幕府方の諸藩が聞き込み、そんなことになったらたちまち幕府が朝敵になってしまうので、二条殿(右大臣二条斉敬)・中川宮・伝奏衆・関白殿(前関白近衛忠熙)に対し、このたび越前侯の上京で旅宿がなく、「右ノ願出候御役官御方様御取調ニ仍テ、西本願寺御借渡被仰付、今般ノ御用相達候ニ付、右御礼トナゾラヘ、会津取持ヲ以、関白殿ヘ黄金九十八枚其餘進物夥敷有之趣ニ付、夫ヨリ事反覆イタシ」(※前関白らのおかげで旅宿不足が解決した、その御礼として渡す進物がたくさんあると称して前関白らが御所に呼び出されたというような意味と思われるが、正確でないので原文をそのまま引用した)、八月十七日夜、会津・薩州の兵卒たちを引き連れて中川宮さまが参内した。同夜、二条殿・関白殿が参内した。右の四方(二条殿・中川宮・伝奏衆・関白殿の意か)が相談のうえ、ただいまこのような挙動に出たら、幕府が恐れ多くも(朝廷と)一戦に及び、宸襟を悩まし奉ることになりかねないので、すぐに右の徒党(長州勢)の参内を差し止め、そのほかは皆退去させようと一決した。そうして、その夜皇居警衛の諸藩のうち会津侯に対し、禁裏で取り調べがあって非常事態なので、皇居の九門を厳しく固め、公卿・堂上であっても一人も通さぬよう命じられた。このことを九門やその他の警衛にあたる諸藩へ徹底するようお沙汰になった。それより九門が締め切られ、次々と諸藩が駆けつけ、学習院そのほかそれぞれ「御取場ヘ打寄リ、御参内ニモ相成候候[ママ]事、兼テ於長州ハ右餘党ノ義ニ付」(※原文引用)、堺町の警固の任務を解かれたので、仲間の公家の方を護衛して、十八日夕方、大佛妙法院の宮に引き下がり、翌日の明け方、京都を発ち、中国路を通って長州へ引き取ったとのこと。「尤中国路義ハ脇々ヨリ申出ニ付」(※原文引用)、これまでのところを口上書にして提出した。以上
九月三日
一 九月五日、(高行が)三郡御奉行(長岡・土佐・吾川の三郡を所管する奉行)を仰せつけられた。
この進挙は意外だった。幡多郡へ赴任するのはしばらく差し控えるようにということだったので、たぶん免官になると思っていたら、こうなった。だいたい幡多郡奉行は奉行初任の者がなる地位で、同郡で長く奉行を勤めたうえで三郡奉行に転じるのが順序だ。まだ(幡多郡奉行に)赴任していないのに三郡奉行に転じるのはおかしい。三郡は御郡奉行のなかで上席であって、今日自分ども(のような身分の者が)その任にあったことがないから、いろいろ手を回して内幕をきいたところ、幡多郡は(城下から)遠隔の場所であり、自然独立の形があり、それにくわえて同郡には樋口眞吉(注①)なる者がいて、最も有力な名望家である。郷士の多くは彼の門下である。樋口は武市半平太と同志で、西郡の旗頭の地位を占め、自分は樋口兄弟とは最も懇意にしており、そのため特に自分も武市と同論と見做されたので、幡多郡の主宰とするのが懸念された。さりとて今日これといった過失も罪跡もなく、ゆえなく解任もできず、ついに三郡に転任させたとのことだ。自分は武市配下の過激論ではなく、かつ吉田元吉暗殺には無関係だが、幾分か嫌疑があったようだ。
ついでに記しておく。明治二十六年ごろになって、友人より、吉田元吉暗殺の際、鑑察局が作成した鑑札書の写しを手に入れた。そのなかに「武市と出会い云々」の記述があった。であるならば今日までもある部分の人には、吉田事件に自分どもも幾分か関係の疑いがあって、それはいまだ氷解していないということだ。三十年を経て初めて、まことに嫌疑があったのを知った。よって鑑察書は文久二年吉田元吉暗殺の項に附した。
【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、樋口真吉(ひぐち-しんきち1815-1870)は「幕末の武士。文化12年11月8日生まれ。土佐高知藩士。郷士の子。遠近鶴鳴にまなび,諸国を遊歴して剣術や砲術をおさめる。帰郷して中村に家塾をひらき,土佐西部勤王党の首領格となる。戊辰(ぼしん)戦争に従軍,その功で留守居組にすすんだ。明治3年6月14日死去。56歳。名は武。字(あざな)は士文,子文。号は彬斎(ひんさい),南溟(なんめい)。」】
[参考]
一 九月五日、(住吉の)陣屋詰め要員が上下(の身分)ともに、京都警衛のため上京しようと、夕方準備にかかり、大砲は車に乗せて行き、心斎筋通りの(土佐)藩邸へ引き込み、「六丁目近辺ヘ休足所相攝居候處」(※意味がよくわからないので原文引用)、その夜は淀船(淀川水系を往き来する川船)の調達ができなかったので、翌六日朝、一同が乗船した。もっとも五日の藩邸の面々も一時も眠れず、ただ騒がしいばかりで、お侍たちは槍の鞘を外し、お侍より下の身分の者たちは剣のついた鉄砲を背負って出陣の体、いやまことに出陣そのものだった。
これは、大坂詰めの者から土佐に言ってきたことだ。
[参考]
一 同十三日、兵之助さまの願い書は次の通り。[記録抄出]
昨日、賊徒対策のため河州表(住吉陣屋を指すと思われる)の私の手勢を(京都に)差し向けよとのご指示はありがたく謹んで承りました。しかしながら、容堂がこのたび上京するよう命じられましたので、私は即刻当地を発って帰国し、容堂をすぐに上京させたいと思っております。ついては、(京都に)派遣する人数が不足するため、恐れ多いことながら、右の(京都派遣の)手当ての件はしばらくお許しを願いたく、伏してお願いいたします。以上。
九月十三日
一 同二十一日、武市氏以下が次の通り仰せつけられる。(注②)
同日揚屋(牢屋のこと)入り 武市半平太
右は、京都(朝廷)に対し、そのまま等閑に付し難いことそのほか不審の廉があり、藤岡勇吉・南清兵衛・関源十郎・島村団六・仙石勇吉・町市郎左衛門・岡本金馬の七人へお預かりを仰せつけられる。このことは半平太に申し聞かせ、かつ守方(監視・監督のことか)について油断なく心得るように。以上。
九月二十一日
勤事控え(職務停止) 小南五郎右衛門
揚屋入り 河野萬壽彌
小畑孫次郎
小畑の弟で下横目の孫三郎
島村衛吉
下代新次郎
類族御預かり 島村壽之助
安岡覚之助
出奔 中岡光治
上岡膽治
一 右について郷浦にお触れ
このたびお侍以下六、七人が勤事控え・揚げ屋入り・お預かりを仰せつけられた。万一同類の者があって、暴挙に出る恐れがないとも限らぬので、次の通り命じる。
一 海防掛かりの郷士・地下・浪人・民兵・地下役(注③)が揃い、村々へ見回りすることを申し付ける。
一 万一同類の者があり、陰謀の企てがあったら、右の者たちを繰り出し、自分たちの管轄外であっても召し捕るように。手に余るなら、打ち取っても構わない。
一 郷浦の宿屋等で止宿する者があれば、姓名と、そこへ来た事情を糺し、庄屋に届けること。
九月
【注②。武市半平太らの摘発前後の事情については『佐佐木老候昔日談』で高行自身が述べているので、少し長くなるが、それを引用する。「京の政変(=文久三年八月十八日の政変)とともに彼等(=佐幕派)は大に意を強うし、日頃嫌悪せる勤王家に一撃を與へるのは、この時機を措いて他にあらずとなし、藩士並に浪士取締取扱の朝旨を奉じて、九月二十一日その領袖武市半平太、及び安岡覚之助、島村衛吉、小畑孫三郎、河野萬壽彌(後に敏謙子爵)、島本審次郎、田内衛吉、島村壽之助の八人を逮捕して、獄に投じ、また小南五郎右衛門に勤方控を命じた。之はツマリ嘗て滞京中、僭越にも高貴の門に出入して、猥に朝議に関せし等の典刑に糺され、また藩政の所謂見通を以て、下士暴動一切を武市が發縦したと判定されたのだ。主として其の衝に當つたのは吉田派の市原八郎右衛門である。何を云うても武市門下の激派は、非常に多い。藩庁でも、さすがに之を逮捕するに就ては、余程心配したと見え、藩士中特に武技に長ずる者を選んで、南清兵衛等を一隊とし、毛利恭助等一隊をして応援せしめ、其の家に向はせた。生憎武市は留守、妻の富子が南等を家に待たせて置くと、其の中に帰つて来た。南が君命を伝へると、武市は謹んで之を拝し、自分はまだ朝飯を食はぬから、暫く猶予して貰ひたいと、富子に其の準備を命じ、南等と話しながら食し了つて、出懸けたとの事だ。武市はドコ迄も真面目の男で、上京中門下の激徒数百人は、長州に脱走を薦め、久坂玄瑞等も之を諷したが、応じない。『諸君は水長二藩に投じて、大に為さんとするなら夫でも宜しい。予は国に帰つて、鞠躬尽力、老公を諫め、藩庁を説いて、斃れて後止む決心である。何の面目あつて他藩の食客とならうぞ。』と、何れも其の精神に感動したさうだ。帰国後も、門下の激徒を慰撫しつつ藩論を尊攘に定めんと死力を尽したが、時勢日に非にして、囹圄に苦しむ身となつたのだ。容堂公も武市一派の粗暴は悪まれて居るが、武市の精神と其の人物は見て居らるるから、この事ももとその本意であるまいが、朝命もあり、また藩政上已むを得なかつたのであらうと思ふ。併しながら、これが為に一藩耳を側て、道路目を以てした。門下の激派は、ドンな突飛な事を仕出かすかも知れぬ。藩庁も人心動揺位は予期して居たから、十分に警戒し、まづ中士多人数を御手許臨時御用と称し、藩侯直卒の下に専ら下士の暴動を戒めて居る。夫から翌日君侯は藩士一統を、二十三日白札以下を城内に召されて諭告された。其の大意は『京都の御沙汰を蒙り、朝廷に対して等閑に付し難き嫌疑者を処置するけれども、縦令連座の者でも、罪状の軽い者は一切宥恕する、宜しく安堵して、進退吾が命に従ふ様に。』と、
その頃例の馬場源馬の狂歌に、
金王(勤王)の頭を香(京)で押へられ
モウ高飛のならぬ桂角(軽格)サアかうなると、佐幕は大得意である。勤王家は大打撃を受けて、殆ど閉息の有様である。外面閉息した様であるけれども、何分人数が多い、其の潜勢力は依然として居る。藩の因循を憤り、且つ領袖を失ひたる激派は、ボツボツ脱走を企てる、上岡政敏は慷慨の詩を遺して脱走する。続いて田所真之助、柳瀬新之助、田所嶼太郎、尾崎幸之進、谷島太郎等も、前後して脱走する。脱走しない連中も、憤慨の余何時如何なる計画ををするかも分らぬ。藩庁は一寸でも気が許せない。京都騒動の際、大坂の兵士は鳳闕守衛の為めに上京させたので、九月末朝廷から更に大阪守衛の兵を出す様にと御沙汰があつたが、費用の点もあるけれども、第一藩の形勢が許さない為に御断をし、また春嶽公や、島津三郎侯からも老公の御上京を促し、島津侯は高崎猪太郎を使によこす、朝廷からも度々御沙汰があつたが、これも段々延期されて、歳末になつて、やうやう御上京になる有様であつた。」】
【注③。平尾道雄著『土佐藩』に以下の記述がある。「(土佐藩の)民政は町および郷・浦の三支配に区分された。町は町奉行、郷は郡奉行、浦は浦奉行が管掌するのであるが、その下部はそれぞれの地域において自治組織をもち、庄屋がこれを支配した。これを地下支配と称し、地下支配に対して仕置役場の直接支配するものを直支配と称し、地下人のうちでも直支配に入る機会をもつことをその栄誉としたのである。」】
一 九月二十二日、兵之助さまがこの日、参内されたところ、龍顔を拝した。(天子は)長々の京都滞在を労われ、(本当はもっといてほしいのだが)よんどころない事情でお暇を賜るとのお言葉をかけていただいたということを拝承した。
一 同二十二日、(高知城の)三ノ丸で諸士が拝承し、同二十三日、白札以下が同所で拝承した書き付けは次の通り。
京都のお沙汰につき、天朝に対し奉り等閑に付し難く、不審の者の取り締まりを申し付けた。よって、これまで心得を誤っていた者どもは速やかに改心し、誠忠を尽くすように。以前にも、すでに済んでしまった小さな過ちは深く糺明しない旨を申し聞かせた通り、連座した者でも罪状の軽い者は一切を許すので、いずれも安堵して、猥りに動揺せず、進退を我らの指揮に従うように。
[参考]
一 同日、佐川(土佐藩筆頭家老の深尾氏が治めた地域)の勤事控えとなった面々。
岩神主一郎 鳥羽鎌三郎
井原應助 土方左平
古澤八郎右衛門 同 迂郎
濱田辰彌 中山次保次
橋本鐵猪
〆九人
[参考]
一 上岡膽治(注④)の書き置き、次の通り。
我らは子細があって亡命する。申すまでもないことだが、学文に出精するよう、願わくは祖先の家名を引き起こし、祭祀が絶えぬようにすること、それのみを祈る。たぶんこれからは国が乱れることになるので、武芸等もよくよく心がけ、皇国のためには身体を塵芥のごとく投げ捨てるのは勿論のこと、未練の挙動はゆめゆめなきよう。そうして第一に母への孝行肝要、弟妹らを憐れむことが肝要である。不義の富貴はまったく無用である。詳しく申したいが、筆紙に尽くしがたく、そうそうに筆を擱く。
九月二十四日未刻(午後二時ごろ) 政敏
上岡談[淡]齊老[ママ]へ(※膽治の長男と思われる)
尚々(なおなお)、八百屋町の先生に何事もすがるように。先日、「憤餘管録」(※上岡膽治は『憤餘管見録』と題した一書を遺している)の末に一通の書簡を書き残したので読むように。
(さらに)書き添える。
もはや学を志す年齢なので、これまでのように子供の遊びのみでは生涯迷惑となることを幾重にも心がけるように。亡命のわけは成人してから察せられるであろう。
○
大勢の子供を残し置き、さぞさぞ迷惑難儀するのは分かっているが、即ちこれも因縁と諦め、天朝の御為と思って、ひとしおの世話を頼む。相応の者になったら、どこへなりとも差し遣わすよう。談[淡]齊一人は是非是非人に仕立てたいので、万事八百屋町(の先生)に頼んでもらいたい。言いたいことは筆紙に尽くしがたい。そうそうかしこ。
九月二十四日未刻 正敏
於光どのへ
諸書にあるケン(賢)女レツ(烈)婦のことを、「ヨミアキラメシルベク候。」(※原文引用)
忽抛済民業 早結勤王盟
非有攘夷策 欲殫報国誠
豈思子孫盛 悪汚祖先名
腰下三尺剱 独行指帝城
武士の矢竝揃へて待詫ぶと
夷々告げよ天都雁金
正敏の作と言い伝えられる
文久三年四月帰京、九月某日長門に走る。元治元年甲子の年に京都で戦い、鷹司氏の邸で戦死。
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、上岡胆治(かみおか-たんじ1823-1864)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。文政6年10月16日生まれ。土佐(高知県)高岡郡の医師。土佐勤王党に参加し,文久2年(1862)京都にいき他藩の尊攘派とまじわる。翌年脱藩して長門(ながと)(山口県)におもむく。元治(げんじ)元年7月19日禁門の変に従軍し,負傷して自害。42歳。名は正敏。字(あざな)は尚賢。変名は楠岡八郎。」】
[参考]
一 板坂市右衛門の書状、次の通り。
[前略]ところで今朝、薩州藩の高崎猪太郎に出会ったところ、(島津久光こと)三郎君が当月十二日に国許(薩摩)へ出立するとのことでした。伊太郎(高崎猪太郎のことと思われる)は当月十一日に(土佐に向けて)出立するので、三郎君よりご隠居(容堂)への使者を命じられ、御国(土佐)へ行くはずのところ、もはやご隠居様は上京なされていることと察し、御当地(京都のことか)まで参ったとのこと。しかしながら(ご隠居は)まだ上京されないので、これから御国許(土佐)へ参るにつき、「中川宮様ヨリモ御内意有之、兵之助様ヨリ御内通奉願候、直様御逢被遊、御都合宜罷帰リ候」(※意味がわかりにくいので原文引用)。一通りの話は承りました。三郎君にも大いに奮発され、皇国のためになるよう上京されたとのこと。まことに恐悦至極であります。ご隠居様も是非とも上京されなくてならず、必ず即刻ご発駕を命じられるべきだと存じます。ご病気が格別のことがなければ、無理を押してでも上京されるときだと、当地詰め(京都詰め)の面々は思っております。伊太郎が(土佐に)参ったならば、申すまでもなく、(土佐藩の)国論一致のところがはっきり分かるようにしなくてはならず、もしや暴論などが出て、藩内の意見が騒々しくなっていることを見透かされるのではと不安で、(そうなったら)国辱だと思います。ここのところはお覚悟が肝要のことと存じます。こういうことを申し述べても、いかがわしく思われるのではと懸念しますが、はなはだ気遣う心情より出たことですので、よろしくお聞きとりくださいますよう。まことに(ご隠居様の)ご上京の機会と存じますので、このことのみそうそう申し留めます。以上。
九月二十五日 市右衛門
両御役場諸君
一 九月二十八日、兵之助さまが京都を発たれたとのこと。
一 同二十八日、ご隠居さまが上京されるようにとの勅命をお受けになったが、ご病気のため、全快されるまでお断りを申し上げたとのこと。
一 同二十八日、太守さまが京都警衛の件で幕府に次の通り書面を差し出されたとのこと。
今般鳳闕(皇居)の騒擾につき、厄介(注⑤)の兵之助がかたじけなくも勅命を受け、禁門の御守衛をしましたところ、従卒が少なくて手薄に思われたのか、同月末日、松平肥後守(会津藩主で京都守護職の松平容保)より、浪花表の警衛要員を引きあげ、京都をさらに厳重に守衛するよう、かつまた浪花表には替わりの兵員を新たに国許から補充するようにとの御沙汰を仰せつけられ、謹んで承りました。もちろん今の時勢の急変、ことに天下に正邪を糺す機会でありますので、よりいっそう禁門を厳重に守衛しなければ、いつ浮浪の輩が前のような議論を唱え、またまた跋扈するやもしれず、急きょ浪花より兵員を呼び寄せました。しかしながら大阪湾の警衛について、かねて当惑しておりましたことどもを今年三月、父容堂が京都滞在中に、詳しい内情を書面をもって申し上げましたが、今もってご採用の有無についての御沙汰もなく、書面が留め置かれていて、いよいよ切迫の時機になりましたので、恐れ顧みずまたまた言上いたします。私の領国は海岸が広大であることは毎々申し上げているとおりですが、兵卒・銃砲器械などすべての力を尽くしても、十分に備えることが難しく、いわんや京都・大阪両所の守衛を厳重にすることはなおもって難渋しております。しかもお許しのお沙汰をいただけないうちはやむを得ず相応の人数を配置しております。昨年来、私ども父子は勅命・台命を受けて東西に奔走し、わずかながら手柄を挙げましたことについてはその費用も少なくなく、ことに父容堂がこのたび急な御用で上京するよう勅命を受けましたことについては、これまた今の時勢では相応の人数を召し連れなくてはならず、ますます当惑しております。その折から、前述の通り、京都・大阪の兵卒をすべて京都に配置し、それにくわえて大阪湾には新たに国許より兵員を派遣するよう命じられると、たちまち領国内は空虚になり、人員・国力はいや増して乏しくなり、やがて外夷が襲来の際には防禦の術策を整えることができなくなり、悲嘆の至りに存じます。願わくは私どもの苦しい胸の内を察していただき、何とぞ大阪湾警衛の件はお許しいただき、そうすれば一方の守衛に集中して精々粉骨砕身いたしますので、よろしくご処置いただきたく歎願いたします。以上。
【注⑤。精選版日本国語大辞典によると、厄介は「江戸時代、一家の当主の傍系親でその扶助を受ける者。生家に寄食して相続者に養われる次男、三男など。」】
[参考]
一 九月、皇居警衛の藩士に暇を与え、賞金を下賜すること、次の通り。[藩政録]
先だって上京して守衛し、ことに十八日には精勤いたしたことに(太守さまは)満足しておられる。これにより隊長へ金千疋(※百科事典マイペディアによると、「1疋=10文,のち25文となる。」)、伍長へ八百疋、平士へ六百疋を与える。過日、当屋敷(京都藩邸のことか)に控えて警衛の任務にあたるよう命じておいたが、このたびお暇を仰せつけられたので、勝手に帰国するように。
[参考]
一 同月、朝廷の命令は次の通り。
御国へ
大和一揆(天誅組の変。注➅)は追々召し捕りになり、残党は逃散したとのこと。賊徒の巨魁と目される者は大阪表の長州蔵屋敷へ駆け込んだとのことで、別紙の通り、飛鳥井中納言殿より松平大膳大夫の家来に言い渡された。時宜により変事が出来するやも知れないので、警衛を厳重に心得るようにと申し聞かすよう伝奏衆より言われたので、心得として申し述べる。
別紙。
今般和州(大和)の賊徒の追討を諸藩へ仰せつけられたところ、長州の宰相の家来が昨二十七日、藤堂家の追っ手に追われて八、九人ばかり浪花表に逃げ去り、その後屋敷へ入り込んだとの情報があったが、この浪士どもを召し捕り、藤堂家の追っ手の者へ早々に引き渡すようにとご指示があった。
【注➅。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)は「大和(やまと)(奈良県)における尊王攘夷(そんのうじょうい)激派の挙兵事件。1863年(文久3)は攘夷の実行をめぐって、尊王攘夷派がもっとも強力に動いて政局に影響を与えた年であった。こうしたなかで久留米(くるめ)出身の真木和泉(まきいずみ)らのたてた攘夷親征計画を受けて、朝議は8月13日に大和行幸を決定した。これを機に土佐出身の吉村虎太郎(とらたろう)と土佐、因幡(いなば)、久留米などの脱藩士が中心となり、元侍従中山忠光(ただみつ)を擁して天誅組(天忠組ともいう)を結成し、大和挙兵を謀った。一行は8月14日に京都を出発し、大坂、堺(さかい)、河内(かわち)を経て大和に向かい、17日に五条代官所を襲い、代官鈴木源内以下5名を殺害して首を梟(きょう)した。翌18日には主将中山忠光、総裁藤本鉄石(てっせき)(備前(びぜん))・松本奎堂(けいどう)(三河)・吉村虎太郎などの諸役を定め、近在の村役人を集めて代官所支配地の朝廷直領化と祝儀として今年分の年貢半減を布告した。また農民には苗字(みょうじ)帯刀御免、五石二人扶持(ぶち)給与を唱えて参加を求めた。しかし18日の京都政変の情報が伝えられたので、急いで十津川郷士(とつかわごうし)の糾合に努め、26日には募ったほぼ1000人の郷士を率いて高取(たかとり)城を攻撃したが、敗れて十津川郷へと引き返した。こののち追討諸藩兵と戦闘を繰り返すが、9月16日には頼みとした十津川郷士の離反にあって総崩れとなり、退却の途中吉野山中鷲家口(わしかぐち)において諸藩兵に敗れて壊滅した。尊王攘夷激派の挙兵のうちで1か月以上も戦闘体制を維持した点がとくに注目される。[高木俊輔]」】
(続。訳出に難渋するのは毎度のことですが、今回はとくに難解な文章が多くて困りました。わからないところはできるだけ原文引用するようにしていますが、その他のところでもいろいろ誤訳をしていると思います。どうかお許しを)