わき道をゆく第224回 現代語訳・保古飛呂比 その㊽

▼バックナンバー 一覧 2023 年 12 月 1 日 魚住 昭

(文久三年)十月

一 この月朔日、山内下総殿が奉行職を御免になった。深尾丹波殿が近習(御用)を御免になった。柴田備後殿が当分近習御用となった。

[参考]

一 朝廷より我が藩へ渡された書き付け、次の通り。

別紙写し一通の通り、松平大膳大夫(毛利敬親のこと。注①)の家来に対するお沙汰の思し召しがあった。ついては、同人の家来で京都に出てきて潜伏した者は、きつく取り締まるよう、警固の面々へも通達するよう伝奏を通じて命じられたので、このことを申し伝える。十津川郷(注②)は先日の浪士一揆(天誅組の変のこと)の後、郷中の人心が混乱しているといわれるので、鎮静巡行のため、使者の渡邊相模守・東辻圖書権之助[ママ]が派遣される。このため土州藩士二人を人選して差し出し、随従するように。

[別紙]

先だって留守居役と添え役の二人以外は京都に滞在せぬようお沙汰があったが、その通りに心得、その(留守居役と添え役の)姓名を従僕に至るまで事前に届けおくように。もし、届けをせずに出京して潜伏したら、きつく取り締まるよう警固の面々にも伝えてあるので、この旨を心得違いのいないように申しおく。

十月

【注①。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、毛利敬親(もうりたかちか。1819―1871)は「幕末維新期の大名。長州藩13代藩主。幼名猷之進(みちのしん)、名は初め慶親(よしちか)。11代藩主斉元(なりもと)の嫡子として出生。12代藩主斉広(なりとお)(10代斉煕(なりひろ)の子)が若年で死去したため、1837年(天保8)藩主となる。敬親は村田清風(せいふう)を抜擢(ばってき)し、38年から天保(てんぽう)の改革を実施する。これは31年の防長大一揆(いっき)の後を受け、藩政全般にわたる改革を実施し、富国強兵策を実現しようとするものであった。この改革は成果をあげ、藩財政は立ち直り、藩府要員のなかにも周布政之助(すふまさのすけ)などの人材が育った。63年(文久3)他藩に先駆けて攘夷(じょうい)を決行し、下関(しものせき)で外国船を砲撃する。しかし、64年(元治1)京都禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で敗退し、幕府の征長令を受け、官位・称号を奪われる。そこで諸隊を解散し、家老を処罰して恭順の意を表す。しかしながら藩内では討幕派が主導権を握り、65年(慶応1)には幕府軍を藩の四境(しきょう)で打ち破り、討幕派の先鋒(せんぽう)となる。69年(明治2)山口藩知事となるが、71年病死。[広田暢久」】

【注②。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、十津川郷士(とつかわごうし)は大和(やまと)国十津川郷(奈良県吉野郡十津川村)の山村に居住した在郷武士。神武(じんむ)天皇や飛鳥(あすか)朝に関連する伝承はともかく、南北朝時代には郷民が南朝方に属して活躍した確証があり、以来勤皇の郷を誇るに至った。1587年(天正15)の検地は、実測はほとんど行われず、郷中概算1000石が赦免地とされた。江戸時代もこの特権は継承され、年貢赦免の代務として御料林の材木運送(筏下(いかだおろ)し役)を負担した。1614年(慶長19)の大坂冬の陣および北山一揆(きたやまいっき)制圧などの功により郷士45人が鑓役(やりやく)とされ扶持米(ふちまい)78石を給されている。1853年(嘉永6)米艦来航以来、郷民一致して国事への奉仕を申し出て許され、皇居守衛に交代出仕している。1863年(文久3)の天誅組(てんちゅうぐみ)の変には郷士1000余名が参加したが、「八月十八日の政変」による朝議変更が明らかになったため離反した。明治初年の神仏分離令により、郷民はことごとく神道(しんとう)に帰している。[平井良朋]」】

[参考]

一 会津さま(京都守護職・松平容保のこと)より別紙の通り、書き付けが渡されたので、それぞれがその趣旨を心得るよう。「尤差引并下役支配有之方ハ」(※要するに人の上に立つ者は、という意味だと思うのだが、自信はない)それぞれ漏らさぬよう、末々まで拝承するように手配されたい。以上。

十月四日

[別紙]

市中に時々怪しい風体の者がいたり、または変事が起こった際には、そこの役人たちや、警固場所の藩の屯所へもすぐに知らせるように。このことは洛中洛外へもかねてお沙汰になったことである。

一 十月四日、国澤氏らが大和へ差し向けられたとのこと。

小目付役 国澤四郎右衛門

探索役 福岡健次

右の面々は朝廷よりのお沙汰で和州表へ差し向けられる。同日、礼服で参内した。

大和への勅使 東辻圖書権之[ママ]助

渡邊相模守

大和一揆(天誅組の変)が離散し、その残党や土地の者たちを教え諭すためだという。それに随従する者が薩藩・土藩、ほかに二、三藩あるという。

一 同五日、この日、薩州の使者・高崎猪太郎(高崎五六のこと。注③)が高知着。若党を一人連れていた。同列(同じ身分の藩士という意味か)の総領とかいうことだ。宿は浅井藤十郎宅だ。御使者の御書(中川宮もしくは島津久光の書簡と思われる)が届けられ、八日、(高崎は)東屋敷に行ってご隠居様(容堂)に拝謁し、琉球の上布一疋を献上した。また「上ヨリ正宗ノ御短刀壱腰御指料、御陣笠拝領ニ相成」(※容堂公から、同公の指料である正宗の短刀一振りと陣笠を拝領したという意味だと思うが、よくわからない)、御酒頂戴もあったとのこと。「此度ノ御使者ハ、世間長州ノ是迄ノ取計ヲ暴ト申シフラシ候モ、全ク左ニ非ス、誠忠也、先達而京都ヘ入朝ノ義御差留ニ相成候處、右之正義ナル事ヲ天朝ヘ委細奏聞申上、程能取計ハン談ノ趣ナリト、窃ニ聞ケリ」(※このたびの御使者は、世間は長州のこれまでの処置を暴と言い触らしているが、まったくそうではなく、誠忠である、先だって長州は京都への入朝を差し止められたところ、右の正義であることを天朝に詳しく上奏し、ほどよく取り計らおうということの相談らしいとひそかに聞いた、というふうに読めるが意味が通じないので原文を引用しておく)もしそれが事実であれば、薩藩の大欺瞞の策略、これまでの「惣分ノ仕道」(※意味不明)と同じやり口であり、憎むべし。このうち何日のことかわからないが、御使者より乾退助・小笠原只八・毛利恭助に会いたいとの連絡があり、三人は藩庁の許可を得て対面した。三人より酒三樽に鴨二羽を贈った。日暮れより九ツ半(午前一時ごろ)まで談話したとのこと。三樽を飲み尽くして、ほかに一升を加えたとのこと。その際の話の中に、京都よりの勅諚を関東は遵奉するかのように言われているが、まったく攘夷の件は遵奉しないにちがいない。こうなっては終いには関東を成敗しなければならないと(高崎が)言ったので、(乾ら)一同は返事をすることができなかったという。薩藩の姦計がやや見えた。(高崎は)九日、帰途についた。

なお、容堂公は上京を約束されたという風聞である。

【注③。朝日日本歴史人物事典によると、高崎五六(たかさき・ごろく。没年:明治29.5.6(1896)生年:天保7.2.19(1836.4.4))は「幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官僚。父は善兵衛。大獄最中の安政6(1859)年,岩下方平らと井伊幕政の打倒を画策,江戸,水戸,京を奔走するが挫折,帰藩。同年11月,薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加。文久年間(1861~64)島津久光の命を受け江戸,京に活動。第1次長州征討下,西郷隆盛の指示を受け長州(萩)藩との折衝に当たる。慶応3(1867)年土佐藩の大政奉還論に同調し,武力討幕方針の藩政府主流から隔たり,ために維新後の官歴は必ずしも華やかではなかった。明治4(1871)年置賜県参事,教部省御用掛,岡山県令,参事院議官,元老院議官,東京府知事を歴任。(井上勲)」】

[参考]

一 十月六日、朝廷より次のお沙汰があった。

今春より、公家衆がしばしば叡慮(天皇の考え)をねじ曲げるに至ったのも、畢竟、藩臣や浮浪の者どもが公家衆に立ち入り、悪辣な入説をしたからであるので、そうした者どもは各藩においてきつく取り調べを致すべきこと。

このたび藩臣・浮浪の輩の取り調べを命じられた件については、各藩において、家来どもの上京在留で行き違いがあってはいけないので、各屋敷・本陣は言うまでもなく、そのほか寺院・町家に滞留する者の人員・姓名等を、その主人たちから月番の町奉行所に届け出ること。

別紙の通り、伝奏衆を通じて命じられた件につき、その写しと通達書の計二通を至急送達するよう松平肥後守より言ってきたので、その旨を心得、同席へ(※同僚らへという意味か)、知らせるように。

[参考]

一 十月九日、

口上覚え

浪士たちの取り締まりの件で、宮門跡(注④)方の敷地内でも潜伏することのないよう、それぞれに対して通達があったが、万一調べ洩れがあって潜伏する者があれば、武家が召し捕っても構わない。ただしみだりに踏み込む無礼がないよう、いちおうその宮へ届をして、条理を立てて処置されたい。

右の通り、皆様に伝達されるよう、このことを申し入れることを両卿から申し付けられました。

両伝奏 雑掌

【注④。精選版 日本国語大辞典によると、宮門跡(みや‐もんぜき)は「門跡の一つ。法親王、または入道親王が住職として居住する寺院。仁和寺・青蓮院・知恩院・輪王寺・大覚寺または一乗寺・妙法院・聖護院・照高院・勧修寺・三千院(円融院)・曼珠院・毘沙門堂・円満院の一三か寺を称するが、実際には親王家に限って入寺するのは輪王寺・仁和寺・大覚寺の三門跡で、その他は摂家からも入寺できた。」】

一 同十四日、兵之助さまが今日、甲浦通りに着駕(駕籠に乗って到着すること)された。

[参考]

一 十月二十一日、大脇氏がお咎めを受けること、次の通り。

大脇興之進(大脇順若のこと。注⑤)

右の者、先だって市中において銀銭を取り扱った件につき、士に不似合いの所業があった。その際、勤役の身分を必ず思慮せしむべきはずのところ、それがなく、そのような振る舞いをしたのは不埒の至りである。右の事跡について思い当たる子細があり、(太守さまは)ご不快に思し召されている。このためきつい処分を仰せつけられるべきはずのところ、太守さま・ご隠居様が参内を首尾良く済まされ、少将さまが古希の年賀お祝い式を迎えられることを考慮に入れ、格禄を取り上げて、物部川以東に追放を命じられる。

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大脇順若(脇順若 おおわき-まさより)は「幕末-明治時代の武士,実業家。文政8年12月3日生まれ。土佐高知藩士。納戸役をつとめたのち,安政年間山内豊信(とよしげ)の密命をうけ,大橋渡之助と称して京都で活躍した。以後,軍備御用,中老格などを歴任。維新後第七国立銀行の設立とともに取締役になる。明治38年2月20日死去。81歳。通称は興之進。」】

[参考]

一 島津三郎さまよりご隠居さまに送られた密書、次の通り。

[前略]ところで高崎猪太郎が尊藩へ推参したところ、種々懇切丁寧に仰せつけられたとのこと、さる十六日に逐一承知しました。ご厚情に対し、まことにかたじけなく拝謝いたします。ことにご卓見のご議論、ことごとく承知し、無学の小生は心耳が醒め、感服のほかありません。しかし、(足痛で)少し日常生活に支障があると聞き、どのような御容体だろうかと、神州の御為に格別懸念しております。少しでも快方に向かわれたら、迅速に上京してご尽力されるようしきりに渇望しています。いまのご時勢においては貴方様の動きが遅緩しては皇国挽回の機会もなく、ついに戦乱のちまたとなるのではないかと大いに心配しております。[後略]

孟冬念一(十月二十一日のこと)

再伸、ご自愛になられるよう、専一に存じ奉ります。尹前殿下(中川宮のこと)もしきりにお待ちとのこと、昨日参殿してお聞きしました。春嶽兄もさる十八日に上京され、貴兄の上京をお待ちの模様ですので、何とぞ延引なく出発されることを願っております。以上。

三郎拝

容堂賢兄

[参考]

一 松平春嶽公より容堂公に送った書簡、次の通り。

[前略]さて小生こと、今般勅命により十三日に国許を発ち、十八日に京都着、以後は変わりなく日を過ごしています。憚りながらご心配なきよう。さて、また十九日、三郎(島津久光)と数刻にわたって内談し、一昨日の夕には海鏻(勝海舟のこと)とまた数刻にわたって話しました。どうかこのたびは都合よさそうに存じられます。剛情公(一橋慶喜)も今月二十六日に江戸を発って上京することが決定したと、昨日、石曼子(島津久光のことか)より内々の連絡がありました。そのうえまた先般、高崎太郎(猪太郎のこと)が貴国へ罷り出て御上京を促した(注➅)とのこと。足下は足痛により(上京を)延引のよし。貴命(※誰の命かわからない)があって、かつ足下が上京して「快ヲ被求候為メ」(※意味がよくわからないので原文引用)月代とかをお剃りなされたとのこと。僕の愚案では、足下の足痛はとるにたらず、「実ハ病維摩之症カシテ」(注⑦)、「望洋ノ歎」(注⑧)を発せられ、張良(注⑨)は「石松之遊」(※意味不明)に托し、足下は足痛に託されたのだと察せられます。僕の愚案は恐らくは的中でしょう。足下はいかがか。しかしながら知己の交わりなので、足下の足痛が虚偽である(注⑩)ということは決して外に漏らしませんので、このことはご安心ください。なにぶん橋公(一橋慶喜)が上京し、足下と長面(伊達宗城のこと)ともに西上され、僕はすでに京都におりますので、京兆守護(松平容保のこと)を合わせて五名となり、これと三郎が議論して、必ず公武の親和、鎖港の朝議を「弛メントスル意ナルベシ」(※正確な訳が見つからないので、原文引用)。そのうえ大樹公(将軍家茂)が上洛されようともなくとも、何とぞ近々上京されるよう。そのうえで早速面会して、心中を申し上げるつもりです。ただいま足下の家来が来ましたので、一筆啓上、乱筆雲煙かくのごとし。云々。

十月二十二日 六条客舎に於いて [松平春嶽公]九十九橋主人(春嶽の号)花押

[容堂公]九十九洋外史(容堂の号)明公

【注➅。容堂と高崎猪太郎との会談について『酔鯨 山内容堂の奇跡 土佐から見た幕末史』(家近良樹著・講談社現代新書)に詳しく記されているので、それを引用させてもらう。「容堂が十月十三日付で伊達宗城に宛てて発した書簡(『山内』第三編下)によると、高崎は容堂に対し、中川宮と久光の考えを詳しく申し伝え、容堂の至急上洛を求めたという。この時の容堂の反応は、十月二十二日に高崎が春嶽に発した言葉(『続再夢』二)がすべてを語っている。当時、容堂は「最早世を遁れ天下の事には関係せざる決心にて惣髪」となったこと、だが「其方(=高崎)が天下のため尽力苦心するを見聞すれば実に感慨に堪へず、やはり御案思(あんじ)申し上るなり、此節足痛にて直ちに出京はなしがたけれど、おいおい平癒に至らば必ず出京すべし、いまその決心を示すべしとて、忽ち月代(さかやき)を剃らせ」たという。体調不良下、サービス精神もあってか、容堂流のパフォーマンスが、お気に入りの高崎の前で突如展開されたのである」。】

【注⑦。維摩の病について臨済宗大本山 円覚寺のサイトに説明があるので、それを紹介させてもらう。「維摩(ゆいま)居士のことを、禅の語録では「癡愛老」と呼ばれています。これは、維摩居士が病の床に伏していて、文殊菩薩がお見舞いをした時に、病気の原因は何かを問われて答えた言葉に基づいています。維摩は、病の原因を「癡より愛有り、すなわち我が病生ず」と述べています。癡とは、愚かさです。正しい道理が分からない愚かな心の状態であるために、外の世界のものに愛着を起こして、それが病となってしまうのです。愛着は、苦しみや病の原因であります。そのように病の原因を知っていながら、維摩は病を治そうとはせずに、病んでいるのです。それはなぜか、「一切衆生の病むをもって、この故に我病む」と維摩は述べています。世間の人々が、愚かさの故に愛着を起こし、病となって迷いの世界で苦しんでいるのを見ながら、自分一人だけ悟って知らぬ顔はできないというのです。維摩の病は、世間の人達が苦しんでいるのを見て、共に苦しみ、痛みを共にしようという病でありました。すなわち大慈悲の心であったのです。私達禅の修行をする者も、この維摩の病を忘れてはなりません。我一人の解脱を求める為の修行ではないのです。(平成31年1月 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)」】

【注⑧。精選版 日本国語大辞典によると、望洋の嘆(ぼうようたん)は「あまりに広くて目当てがつかないというなげき。偉大なものや深遠な学問に対して、自分の力が及ばないことをなげくこと。」】

【注⑨。精選版 日本国語大辞典によると、張良(ちょう‐りょう)は「中国、漢初の功臣。字(あざな)は子房。高祖の作戦の中枢となり、蕭何(しょうか)、韓信とともに漢創業の三傑といわれた。秦の始皇帝の暗殺に失敗して逃亡中、橋の上で黄石(こうせき)老人に太公望の兵法の書を授かったという話は著名。前一六八年没。」】

【注⑩。春嶽はこう言っているが、実際のところ容堂の体調不良は深刻だったらしい。『酔鯨 山内容堂の奇跡 土佐から見た幕末史』(家近良樹著・講談社現代新書)には次のように書かれている。「しかし、この段階の容堂の体調は相当酷かったらしく、右の宗城宛の書簡中にも、「病床に臥し、終日無聊(=たいくつ)」「腰脚意のごとくならず」「病夫ただ涙有り」とあった。また、この頃に作られた容堂の漢詩には、「残軀なおいまだ南山に葬らず。……気力衰え……才また尽きんとす」といった、心身ともに衰弱の極みにあることを嘆くものが多い(『遺稿』)。したがって、深刻な体調不良自体は、まぎれもない事実であった。(中略)ついで、ようやくにして容堂が土佐を出国し京都入りするのは、文久三年(一八六三)十二月末のことになる。】

一 稲毛吉太が京都よりある人に送った書状、次の通り。

昨夜発の予定だった(国許への)飛脚が今日出発となったので、ちょっと申し上げます。(土佐藩が)六波羅蜜寺の警固を命じられていて、これまでは足軽六人で事足りていたのですが、昨夜、清和院(※清和院は以前から土佐藩の持ち場だった)と同様の人数にするよう指示が出て、「惣人数晝夜五度宛ノ支度喰捨ニテ」(※総員昼夜五交代制になったというような意味かと思われるが、確かではない)実際にかかる費用がまたまた莫大になりました。さてまた薩州の使者・高崎猪太郎が先日帰京して、老君(容堂のこと)の上京を当邸(土佐藩京都屋敷と思われる)に知らせてきました。老君が猪太郎に対し、ご近所に旅舎を構えておいてくれと頼まれたとのことで、(猪太郎は)京都に着くとすぐ、「中川宮様ヘ解入リ」(※解には上申するという意味がある)、中川宮の御殿を(容堂公の旅舎にあてるという)相談が済んだとのことですが、どういうわけか、このごろその約束を返上するにいたり、そのため「御当館、其手ヨリ」(※土佐藩京都屋敷の方面から、という意味に解したが、ちがうかもしれない)御所の近くの相応の場所をいろいろ物色しましたけれども難航しました。そこで、近衛さまの別荘を薩摩藩士が拝借して引き移っていたところを、容堂君が上京されるのであれば、その別荘から引き退かせようと言ってきました。もとよりその別荘にお供の人員すべてを収容するわけにはいかないので、「近邊ヘ己屋新仕成候様、御詮議振ヲ以」(※近辺に自前の建物を新たに設けよという上層部の方針により、と解したが自信がないので原文引用)、その土地の見分を善之進・吉太の両人が命じられました。今日、現地に行って見分してきました。こういうわけで、(容堂公が )近々上京されるとなると、実に難渋千万。また上京が遅延すると薩藩がことのほか周旋しているので、甚だ都合がよろしくないと苦心しております。云々。

十月二十二日夜、認む。

[参考]

一 下村氏より戸塚氏への書き付け、次の通り。

このたび新たに警衛場所を命じられた。兵員不足のため、いたって多忙になるが、「差掛リ候義ニ付」(※意味がわからないので原文引用)、今の勤務をやりくりするよう命じられた。しかしながら、只今の人員では勤めがたいので、近々(対応策を)評議するよう命じられた。当面の勤め方は次の通り仰せつけられた。

以上のことを役場からお触れをするよう御奉行がおっしゃったので、そのつもりで仲間内に告げ知らせるよう。以上。

下村銈太郎

戸塚六右衛門殿

十月二十三日 東野佐次馬組 清和院 日比市郎組

十月二十四日 新お固め場 清和院 青木左近衛組

同二十五日 同日比市郎組 清和院 東野佐次馬組

同二十六日 青木佐近衛組 清和院 福岡宮内組

以後、これに準ず。

一 十月二十九日、(高行が)いまの役そのままで、軍備御用取扱を仰せつけられた。

[参考]

一 十月二十九日、朝廷より次の御沙汰があった。

このたび関東(幕府のこと)が(外国と)鎖港の談判をすると言ってきたので、攘夷の件はすべて幕府の指揮にしたがい、軽挙暴発する輩が出ぬよう、諸藩の家来の末端まで徹底させる事。

[参考]

一 同三十日、兵之助さまが八月十八日、京都が不穏の形勢になったとき、御所の守衛に行き届き、骨折りしたことが(将軍の)お耳に入り、鎧を拝領された。摂津守さまが名代をつとめられた。[記録抄出]

これは江戸表のことだ。摂津守さまは御末家麻布さま(分家・麻布山内家の当主のこと)である。

一 この月、山内主馬殿が奉行職に任じられた。

十一月

一 この月朔日、民部さまが兵庫さまと改名された。民部さまは賢明のお方で、武市半平太の説を、陰に大いにお助けになったとのことである。

[参考]

一 田所氏の書き置き、次の通り。

[前略]私こと、子細があって、同じ考えの人々二、三人と申し合わせて亡命いたします。もちろん一言も相談申し上げず、第一、莫大なご恩を捨て置いて他国へ行きますのは一朝一夕のことではございません。近ごろは公卿方さへ亡命されるのであれば、草莽の者などはそうしなければならぬのだと思い込み、決心したことでございます。かつて源之丞が脱走したとき、両親の辛苦を見ておりますので、なかなか不安でしかたなく、恐れ入ることでございます。金はよそから融通を付けましたので、以後決して飢えや寒さに悩まされることはありません。お気遣いなさらぬようにお願いします。そのうえ、このたびの一件は、大和一揆(鎮圧された天誅組の変のこと)のような暴発では決してありません。「又彼是時々ノ左右ニヨリ、被仰聞候節モ有之」(※いろいろな人たちからその都度聞かされていることもあって、というような意味かと思うが原文引用)、私の心中の思いはまた他にあります。これまたご心配なさらぬよう。ただ、今さら申し上げるのも愚かなことですが、一昨年に大病を患い、しかも他人がこのような病状ではたぶん死んでしまい、生きる者ははなはだ少ないような状態になりながら、それを凌げたのは、ひとえに手厚い養生を加えてくだされ、ご辛苦されたからだと、ひたすら感謝しております。もし、あのとき死んでいれば、今頃は黄泉に朽ち果てて、いわゆる「いまだ土中に於いて朽ちず 名が先んじて世上に於いて滅ぶ」というような状態になっていたでしょう。このようなことは武士の非常に恥ずべきことと存じます。また、今このような形勢切迫に至っているのを傍観して、あるいは怠惰などに「打▢[虫食いがあって不明]テハ」、いわゆる米食いの虫同様であって、皇国の人と生まれた甲斐もありません。草木もみな大君の国であれば、草同様の身分であるとも、御楯(天皇の楯)となる者がいなくてはいけないと思います。また短才疲力[ママ(非力の誤りか)]の者といえども、さほど役に立たぬこともありますまい。我々のような者でも楠公(楠木正成のこと)が用いれば、しっかりと勤王の役に立ちます。しかしながら、ただ何事も捨て置いて国を出て行く重罪を犯すこと、幾重も幾重も恐れ入ります。何とぞお許しください。やはりこの後、(父上が)日々ご不快にのみ過ごされるのでは、私の思いも達することができない道理でありますので、ただこの上は(私の亡命は)今様の出来事で、近来少なくなく、また公卿方にさえあることなのだから、草莽風情の者さえもありうることだと思ってください。また、一昨年、病死していれば「今様ノ事ナド有ベキ」(※意味がよくわからないので原文引用)、心外にも腐骨になるべき者を、それよりはましと思し召しください、云々。

霜月(十一月)五日夜

[田所惣次の長男]眞之助百拝

御父上さま

【注⑪。眞之助は田所壮輔(たどころ-そうすけ1840-1864)のことと思われる。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、田所壮輔は「幕末の武士。天保(てんぽう)11年9月生まれ。田所寧親(やすちか)の子。土佐高知藩砲術師範。文久3年脱藩し,長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の忠勇隊にはいる。禁門の変で京都でたたかうが敗れ,三田尻にかえる。のち隊の同志と意見が対立し,元治(げんじ)元年9月29日自刃(じじん)。25歳。名は恒誠。通称ははじめ嶹太郎。」】

(続。春嶽の手紙や、田所の書き置きなどを読むと、その時代に生きた人々の息づかいを感じます。私の訳が拙くて、原文の味わいを十分に伝えられないのが残念です。それと、あまりにも意味がよくわからないところが多くて申し訳ありません。)