わき道をゆく第225回 現代語訳・保古飛呂比 その㊾
[参考]
一 下代類(足軽身分の一種)の柳瀬柳次のせがれ新之助は十一月日(欠字か)脱走。同五日、田所嶹太郎・尾崎幸之進も脱走した。幸之進が宿に残した書き置きに、弟猪三次に役所へ届けるようにとの添え書きがあり、(本文は)次の通り。
私こと、平常から天下国家のために心のかぎりを尽くしておりますが、恐れ多くも玉体の安危がおぼつかないとのことを聞き、また、九州辺の人心が不穏の情勢のため、急ぎ彼の地の模様を調べてお知らせしたいと思いました。もとより二百年来のご恩を承っている身分でありますので、二君に仕えようという心底は毛頭ございません。及ばずながら(受けたご恩の)万分の一でも報いたいという心積もりです。重大な関所の法を犯し、(藩の)命令に背いた罪に対し、幾重も御仁恵のお沙汰をくださるよう伏してお願いします。謹々敬白。
亥(文久三年)十一月 尾崎幸之進 直吉判
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一 田所眞之助が藩に送った書状[別名・谷島太郎という人であろう。月日は詳らかではないが、この月の初旬ごろだろうか。よってここに入れた]
おそれながら私は草莽の者ではありますが、近年天下の形勢不穏につき、皇国を憂い、かつ御国のため、及ばずながら尽力してきました。そうしたところ追々時勢が切迫し、既に昨年、勅使が関東へ送られましたが、幕府は叡慮を遵奉せず、(後で)ようやく臣下として従う様子を見せるようになりました。これはまったくご隠居様(容堂公)の苦心の周旋により実現したことで、朝廷も満足され、また志士たちも土長二藩といえば、心から尊敬しております。しかしながら、幕府の政事改革により、彼の地(江戸のことか?)では人心不和を生じ、不安の風説があると聞きましたので、心配し、同じ気持ちの面々と申し合わせて(江戸に?)参りましたところ、もちろん別状はなく、一同恐悦した次第です。その後、(容堂公は)京都よりのお沙汰を受けて上京された。(これで容堂公の)尽力によりきっと朝議の基が立つだろうと、有志の者も見込んでおりましたが、何の周旋もなされないご様子で、恐れながらどういうことかと思って、内々模様をうかがっておりました。「深キ御思召被為在御趣否」(※深いお考えがおありになると思っていたら、そうではなかった、という意味か。よくわからないので原文引用)、ご帰国になった。しかしながら、その際、私はお供をも仰せつけられず、何のお沙汰もなかったので、彼の地(京都)の守衛(が自分の勤め)と思い、そのまま滞在しながら朝廷のご様子を伺っておりましたら、まことに(朝議の)基本が立っておらず、「一度被仰出候義モ再度ニ及」(※一度ご命令になったことも再度に及び、と読めるが、正確な意味がわからないので原文引用)、朝廷の威厳が軽くなっています。このため諸藩においても勅書を遵奉する様子が見えません。まことに恐れ入る状態で、なかなか攘夷も行われがたく、この次第を言上するつもりで帰国し、太守さまにお目通りを願い、詳しく言上しましたところ、評議の結果、同日、勤事差し控え(職務停止)同様(?)を仰せつけられました。八月十七日の大変(文久三年八月一八日の政変を指す)以来、「倍怪勢ニ至リ」(※原文引用)、勤王の諸藩ならびに天下の有志たちは慷慨のあまりどのような事柄を企てるかもわかりません。すでに大和一揆(天誅組の変)も鎮静化され、別紙[なし]のようなことも聞きましたので、ただいま(容堂公が)上京されると、どのような目にあわれるかわかりません。私が知っていることを言上したいと思うのですが、現在お咎めの身分ですので、それもかないません。どこまでも謹んで藩のご処置を待つべきですが、いろいろな不安異説がありますので、その真偽を必ず探索して、御国恩(注①)の百分の一でも報いたいと思います。藩の命令を待たず関所の法を犯し、他国に足を踏み入れた罪は後でどのようにもお受けするつもりです。
田村眞之助
【注①。精選版 日本国語大辞典によると、国恩(こくおん)は「国また国王から受ける恩。その国に生まれ、国の保護を得て生をまっとうする恩恵。また、天子の恩沢」】
[参考]
一 徳永氏の「袖控」(※正確な意味は不明だが、記録とか備忘録といった類いの言葉ではなかろうか)は次の通り。
武市半平太
島村衛吉(注②)
私は幼少の頃から読書相手をしていた縁で、この二人とは交際し、行き来しておりました。半平太は剣術を千頭傳四郎の門下で学び、すこぶる勉励のため、追々武芸が上達し、たびたび褒賞を受けた上、格禄等も抜群の取り立てを受けました。その後、江戸在勤中、「當時態々押移候處」(※意味不明のため原文引用)、御国体を辱めぬよう深く決意し、他藩の有志の面々と交わり、探索周旋の御用を勤めていたとのことです。しかしながら、このたび京都のお沙汰について同人はじめ数人の輩が重大な取り調べを受け、驚き入っております。とりとめのないことではありますが、世上往来の風説等「不軽儀ヲ巧候ヤモ」(※意味不明のため原文引用)伝え聞いておりますが、二人はいずれも衆に優れ、忠誠の面々とかねて伝え聞いておりますので、今更(そういうことがあろうかと)大いに疑問に思っております。このようにお命じなったのは、きびしくご詮議された上で決意されたわけであり、なかなか下々の者が申し上げることはできませんが、恐れながら当今とても流言が幅を利かせないとも限りません。万一、一犬虚に吠ゆれば万犬実に伝う(一人がいい加減なことを言うと、世間の人々がそれを本当のこととして広めてしまう)のようになっては、長年忠義心から起こる憤りをため込んでいる輩を閉塞させてしまうだけでなく、士気の弛緩にもつながり、ついには国家の元気を沮喪させてしまいます。そうなったら大変なことになるので、幾重にも(真相を)糺明なされた上、寛大で平明なご処置を仰せつけられたいと存じます。妄言をしないようにと、かねてお示しなされておられましたが、国家のために黙っておくことができず、ついては前に申し上げました通り、子弟と申すほどの関係ではございませんが、私情においても傍観することが忍びがたく、いずれにしても多罪を顧みず言上いたしましたので、憐憫の心をもって、厚くご詮議を仰せつけられたく存じ奉ります。恐惶謹言。
巳[亥の誤りである]十一月 徳永達助
右は同月中旬、小頭役の久松圓次に頼み、御勘定方へ差し出した。
【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、島村衛吉(しまむら-えきち1834-1865)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。天保(てんぽう)5年10月生まれ。島村真潮(ましお)の弟。土佐高知藩の郷士。千葉一胤(かずたね),桃井春蔵(しゅんぞう)のもとで剣術を修業。武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわり,吉田東洋暗殺にかかわる。文久3年の八月十八日の政変後,高知藩における勤王党弾圧で下獄し,元治(げんじ)2年3月23日拷問(ごうもん)死。32歳。名は重険(しげのり)」】
[参考]
一 この月、朝廷は再び容堂公をお召しになったが、ご病気のためご猶予のお願い、次の通り。
私こと、先だって急な御用があるので早急に上京するようにという勅命を受け、ありがたく承りましたが、以前よりの病が近ごろ悪化したため、やむを得ずしばらくのご猶予をお願いしました。それから種々療養につとめましたが、寒冷な気候になるに従い、痛みがひどくなり、現在は上京の見込みが立ちがたくなっています。このまま時を過ごしては、重々恐惶の至りでありますが、今少しよくなるまで、お許しを願いたいと存じます。以上。
十一月 松平容堂
[参考]
一 この月、朝廷より次の通り、お沙汰があった。
松平容堂
先ごろ御用があっての呼び出しに対し、(容堂が)病気のため猶予願いを出した件について、(天子は)心配されておられるが、このたび(容堂を)召喚したのは、公武一和の基本を立てようという(天子の)厚い思いによるものなので、精々療養につとめ、早々に上京するよう、(天子は)さらに仰っておられる。
十一月
また、次の勅命があった。
松平容堂
先日から再三上京の件でお沙汰があったが、折悪しく病気だとのこと。そのうえ寒気の時節で、(天子は)ことさら気の毒に思われておられるが、何分このたびは公武一和、天下泰平の基をも立てたいと、厚く頼みにされておるので、なおこのうえ精々療養し、どうにかして上京するようにというお沙汰である。
十一月
一 十一月二十九日、ご隠居様はご病気がまだ完全に回復されていないが、治療である程度よくなったので、来月十七日、国許を発たれると言明された。
[参考]
一 記録抄出に、秋澤清吉が長州より(聞いて)帰ってきた話であると、ある人の話を次に(記す)。
長州はただいま国論が二つに分かれている。益田弾正(注③)・高杉晋作は、薩の陰謀秘計をそのままにしておいたら、いよいよますます「虐炎(?)」が盛んになり、ついに将軍家滅亡にいたるであろう。であれば、速やかに事を発して、(薩を)討たなければならないという。桂小五郎・久坂玄瑞は、もちろんそうだけれども、今少し時勢を見合わせた後にするべきだ。急速に発しては、却って事が成就に至ることが難しくなるといって、意見が合わずに難しいところだが、イギ織部[水天宮神主、六十八歳。頗る傑出しているとのこと]が双方を仲裁して、まずそのままになったとこと。玄瑞などもこの人にはそれ以来感服して、いまこの人がいなければ国論が分裂するといわれている。三条さま(三条実美)の八月十八日以来の御奮激(激しく奮い立つこと)には、右人(※イギ織部のことか)も大いに感服し、公家衆にこのような人物がいるとは思いもよらなかったと褒め称えているとのこと。また長州の国論に、当今の十七大名をはじめ小諸侯にいたるまで、一人も正義に基づき攘夷の行動を起こす人がいないが、長州においては一国滅亡にいたるまで攘夷は断然と実行すると一決したとのことである。また十月三日の夜、御七卿さま(※七卿落ち。注④)の御前において大議論が起こり、平野次郎(平野国臣のこと。注⑤)はすぐに挙兵して関東と薩州を征討しようと一途に主張したが、そのほかはいまだ時が早いと言うので遂に沈黙して、暫くして左右前後を見回し、いつまでも議論が合わず、拙者は我が思うところを行うと言って走り出した。あっと言って、他の者たちも走り出し(平野の行方を)尋ねたけれども行方がわからなかった。(平野は)沢主水君(沢宣嘉のこと。注⑥)にも跡を慕われ、ともに丹波亀山路に行き、土民を募って一揆を起こそうとしたが、最初土民に乱暴な振る舞いがあって、上下が合わず、二人とも土民の手に捕らわれたとのこと。
○高崎猪太郎の論だとのこと。長州のこれまでの所業は暴発だなどと世に申す者があるけれど、逐一まったく暴ではない。正義である。そのうち少々は暴なることもあるが、まずそれを捨て置いて、このうえは一和のうえ、追々は攘夷の謀策にも至るべきだ。もっとも七卿方は重い身分でありながら、これまで浪士たちの説を聞き入れて、いろいろと事を企て、ついに勅命をもねじ曲げ、長州へ都落ちとなったについては、叡慮をも悩ましたことゆえ、これらの罪状は厳しく糺さないと政体は成り立たないと言ったとのこと。薩の狡猾、伏水の一挙(※寺田屋事件のことか)、大原卿の一件(※勅使派遣のことか)、十八日の一件(※文久三年八月十八日の変)、「右ノ論等一色ニ出ヅ」(※意味がよくわからないので原文引用)、憎むべし憎むべし。
【注③。朝日日本歴史人物事典によると、益田右衛門介(ますだ・うえもんすけ。没年:元治1.11.11(1864.12.9)生年:天保4.9.2(1833.10.14)9は、「幕末の長州(萩)藩の家老。名は兼施,のち親施。通称,幾三郎,弾正,のち越中,右衛門介。号,霜台。阿武宰判(萩藩の郷村支配の中間組織)益田の永代家老家,元宣の次男で,嘉永2(1849)年1万2063石余の家督をつぐ。相州警衛総奉行として外警に当たる。安政3(1856)年に当職(国家老)に任じ,通商条約締結の際に,周布政之助らと藩の自律を唱え,当役になる。文久2(1862)年の尊攘の藩是決定に参画した。翌年の8月18日の政変で藩は京都を追われる。元治1(1864)年,上京するが,禁門の変に敗れ,第1次長州征討に際し,幕府への謝罪のために三家老のひとりとして切腹を命ぜられた。(井上勝生)」】
【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、七卿落(しちきょうおち1863年(文久3)は「三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の尊攘(そんじょう)派公卿(くぎょう)が長州藩に落ち逃れた事件。尊攘急進派の公卿は長州藩はじめ尊攘志士と提携して、攘夷(じょうい)強行、朝権奪回の運動を進めていたが、会津、薩摩(さつま)両藩ら公武合体派による八月十八日の政変により失脚し京都を追われた。すなわち同日三条実美、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、四条隆謌(しじょうたかうた)、沢宣嘉(のぶよし)、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)ほか6名の公卿が、参内、他行、他人面会の禁の朝譴(ちょうけん)を受けた。そこで久坂玄瑞(くさかげんずい)、真木和泉(まきいずみ)、長州藩重役らと事後策を練ったすえ、上記7人の公卿は一時長州藩に逃れ再起を図ることに決し、翌19日京を脱出、21日兵庫より乗船、27日周防(すおう)三田尻(みたじり)の招賢閣に入った。64年(元治1)禁門(きんもん)の変に際し、諸卿の上洛(じょうらく)が計画されたが、長州藩が敗北したため中止となり、長州藩内事情の変転もあって翌65年(慶応1)三条、三条西、東久世、四条、壬生の五卿は九州大宰府(だざいふ)に移り、王政復古まで滞在した。なおこの間、錦小路は病死し、沢は生野(いくの)の変に参加し敗走している。[佐々木克]」】
【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、平野国臣(ひらのくにおみ。没年:元治1.7.20(1864.8.21)生年:文政11.3.29(1828.5.12))は「幕末の筑前福岡藩士,尊攘派志士。通称次郎。同藩足軽平野吉郎右衛門の次男。江戸屋敷普請方,長崎屋敷諸用聞次定役を勤める。かねて国学,和歌,雅楽を学んでいたが,会沢正志斎の『新論』に感化を受け,また有職故実を修めたこともあって,烏帽子直垂の王朝風俗を愛好し,王政復古を志すようになる。安政5(1858)年脱藩上京するが,折からの大獄の嵐を筑後に避け,月照を保護して入薩。脱藩の罪で追われ,肥後,薩摩などに潜行。万延1(1860)年,桜田門外の変の報を下関の商人白石正一郎宅で聞き,「所から名もおもしろし桜田の火花にまじる春の淡雪」と詠んでいる。文久2(1862)年島津久光の上洛を機に,薩摩藩士および真木和泉,小河一敏ら九州有志と挙兵を企てたが,寺田屋の変で挫折。参府の途にあった藩主黒田長溥を諫止し投獄された。獄中では「小撚文字(こよりを小さく切って張り合わせたもの)」で『神武必勝論』などを著す。翌年赦免されて上京,8月16日学習院出仕となる。翌日天誅組説得の命を受けて大和五条に赴くが失敗,8月18日の政変により但馬に走る。七卿のひとり沢宣嘉を擁して生野代官所を襲撃したがほどなく潰敗し,捕らわれて京都六角の獄に収監。元治1(1864)年禁門の変の騒擾の際,未決のまま斬首された。辞世は「みよや人嵐の庭のもみぢ葉はいづれ一葉も散らずやはある」。<著作>『尊攘英断録』『培覆論』『回天三策』<参考文献>『平野国臣伝記及遺稿』(三井美恵子)」】
【注⑥。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、沢宣嘉(さわのぶよし1835―1873)は「幕末・明治初期の公卿(くぎょう)、政治家。天保(てんぽう)6年12月23日、権中納言(ごんちゅうなごん)姉小路公遂(あねがこうじきんみち)の三男として京都に生まれ、沢為量(ためかず)の嗣(し)となる。1858年(安政5)外交処置に関する勅諚(ちょくじょう)案の改訂を建言する88名の廷臣列参に加わる。以後、三条実美(さんじょうさねとみ)らと尊攘(そんじょう)派の公卿として活躍した。1863年(文久3)八月十八日の政変で七卿(しちきょう)の一人として長州藩に落ちたが、同年10月平野国臣(ひらのくにおみ)らと但馬国(たじまのくに)生野(いくの)(兵庫県朝来(あさご)市)に挙兵して敗れ長州に潜伏した。王政復古とともに位階を復せられ、1868年(明治1)新政府の参与、ついで長崎府知事、外務卿などを歴任した。明治6年9月27日没。」】
十二月
一 この月十五日、幕府の命で太守さまの参府(江戸参勤)が免除された。通達書は次の通り。
参府の件で先だって通達したこともあるが、昨年来、京都・大阪の南北の警固ならびに国許の海岸防禦の手当て、また父の容堂が上京した際に相応の人数も召し連れたであろうことなど(の事情が)あった。そのため海防の手当てそのほかが行き届かず当惑したとのこと。そのうえ病気だというので、いろいろ申し立てた内容はやむを得ないことと思われ、今回の参府はご容赦なされたので、そのつもりで。
十二月十五日
[参考]
一 十二月、稲毛吉太がある人に送った手紙。
[前略]十三日、容堂さま上京の知らせあり、云々、美名がますます輝き、「既ニ二條様御河原町御儀モ、御向原ヨリ貸地之儀発端有之趣、云々」(※意味不明のため原文引用)。老君(容堂)のご裁断は、(長州に都落ちした)七卿の帰京、(京都守護職の)会津侯のお暇、長州の上京、薩長の和熟、皇国の鉄石の基を開き、攘夷(の実現)となる、云々。光御里の坊つまり中川宮さまの御殿は容堂さまのご本陣となる。今、薩藩人が旅宿しているが、留守居役よりの引き合いで近々中川宮邸を引き払うはずである、云々。
一 十二月二十一日、京都よりの再三のお召しにより容堂公がご発駕された。上京の道筋は、帯屋町へお堀端を行き、北大手筋・蓮池町・播磨屋町・種崎町を経由して、幡多倉よりはしけ船の乗り、浦戸港内で蒸気船に乗り移り、同夜出帆、同二十三日に大阪着、同二十八日に京都着である。
一 同二十七日、将軍家が江戸を発ち、同二十八日、品川より出帆、ところどころで上陸するという。
一 同晦日、朝廷より容堂公が参與に任じられた。
ただし、明けて正月七日に辞任したと後で聞いた。
[参考]
一 この年、土佐における兵員・兵器等の概略は次の通り。
○高岡郡
○與津四(※地名の後に出てくる漢数字の意味は今のところ不明)、御士(おさむらい)一人、足軽五人、郷士・浪人・募兵六十人
○志和二、郷士・浪人・募兵合わせて十人
六貫[カルロン(=カノン砲の一種。以下[]内のカタカナは砲の種類]一挺新賦(=新たに割り当てられたもの)、二貫[カノン(注⑦)]一挺新賦、二貫一挺新賦、同一挺新賦、五百目一挺。
○矢井賀二、郷士・浪人・募兵合わせて三十人。
○上ノ加江、郷士・浪人・募兵合わせて十五人。
二貫[カノン]一挺新賦、六貫[ヘキサンス]一挺新賦、一貫一挺賦替(?)、二貫[カノン]一挺同、同一挺
○久禮四、郷士・浪人・募兵合わせて六十人
○須崎五、郷士・浪人・募兵合わせて七十五人
五百目一挺新賦替(?)、十三貫[ホンヘカノン]一挺新賦、同[ハテカン]一挺同、六貫[ヘキサンス]一挺、二貫[カノン]一挺同、同[カノン]一挺新賦。
○野見二、郷士・浪人・募兵合わせて三十人。
六貫[ヘキサンス]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同。
○本陣
△須崎御用家[二百目野戦八挺]、郷士・足軽二十人、浪人・募兵合わせて百五十人。
総計[郷士九十八人、足軽二十五人、浪人百十五人、募兵二百四十二人]合わせて四百八十人。
○宇佐三。[脱文があると思われる
○新居二。
二貫[カノン]一挺新賦。
△久通より新居まで、深尾鼎(配下の)騎馬九十七人、郷士五十人。
○吾川・長岡郡
○仁ノ村四、郷士・募兵合わせて四十五人。
六貫[カルロン]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同、同一挺同。
○東諸木三、郷士・浪人・募兵合わせて四十五人。
六貫[ヘキサンス]一挺同、二貫[カノン]一挺同、同一挺同。
○長濱四、郷士・浪人・募兵合わせて六十人。
十三貫[ホンヘカノン]一挺新賦、六貫[ヘキサンス]一挺同、二貫[カノン]一挺同、同一挺同。
△御郡奉行[二百目野戦八挺]、隨兵、郷士・足軽二十人、浪人・募兵合わせて百五十人。 総計[郷士七十人、足軽二十人、浪人百三十三人、募兵百二十二人]合わせて三百四十人。
○浦戸三、
三貫一挺旧賦、十三貫[ホンヘカノン]一挺同。
△年番一組。
与力騎馬。
郷士三十人。
○種崎三。
十三貫[ホンヘカノン(一挺旧賦が脱字か)]、二貫[カノン]一挺同。
△年番一組。
与力騎馬。
郷士三十人。
○仁井田三。
十三貫[ホンヘカノン]一挺新賦、六貫[ヘキサンス]一挺同、二貫[カノン]一挺同。
△年番一組。
与力騎馬。
郷士三十人。
○十市三、郷士・浪人・募兵四十五人。
二貫[カノン]一挺新賦、四百目一挺替、三百五十目一挺同。
△年番中老一人。
右の人数は高知御郡奉行より割り当ての予定。
○香我美郡
○前濱三、郷士・浪人・募兵合わせて四十五人。
十三貫[ホンヘカノン]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同、同一挺同。
○久枝三、郷士・浪人・募兵四十五人。
六貫[カルロン]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同、同一挺同。
○吉原三、郷士・浪人・募兵合わせて四十五人。
六貫[ヘキサンス]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同、二貫一挺同。
○赤岡四、郷士・浪人・募兵合わせて六十人。
三貫[ホンヘカノン]一挺旧賦、十三貫同一挺新賦、六貫[カルロン]一挺同、二貫[カノン]一挺同。
○岸本二、郷士・浪人・募兵[人数脱字か]
二貫[カノン]一挺新賦、五貫カノン一挺同。
○夜須二、郷士・浪人・募兵合わせて三十人。
二貫[カノン]一挺新賦、三百五十目一挺賦替。
○本陣
△赤岡御用家[二百目野戦八挺]、隨兵、郷士・足軽二十人、浪人・募兵合わせて百五十人。
総計[郷士百八十八人、足軽二十人、浪人百五人、募兵九十二人]合わせて四百五人。
○安喜郡
○和食三、[駆けつけ]郷士一人、足軽五人、郷士[浪人の間違いか]・募兵合わせて四十五人。
五貫[カノン]一挺新賦、一貫一挺賦替、五百目一挺同。
右は五藤主計の付属持ち場。
○安喜五、
六貫[カルロン]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同。
○伊尾木二、
四百目一挺賦替。
△五藤主計
御士一組、与力騎馬十五人。
郷士三十人。
○唐濱三、郷士・浪人・募兵合わせて四十五人。
二貫[カノン]一挺新賦、五百[目が脱字]一挺賦替、三百七十[目が脱字]一挺同。○安田三、郷士・浪人・募兵合わせて四十五人。
六貫[ヘキサンス]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同、三百目一挺賦替。
○田野三、郷士・浪人・募兵合わせて四十五人。
十三貫[ホンヘカノン]一挺、六貫[カルロン]一挺同、一貫一挺旧賦。
○奈半利二、郷士・浪人・募兵合わせて三十人。
五貫[カノン]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同。
○羽根三、郷士・浪人・募兵合わせて三十人。
二貫[カノン]一挺新賦、三百[目が脱字]一挺賦替。
○室津三、郷士一人、足軽五人、募兵合わせて四十五人。
十三貫[ホンヘカノン]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同、一貫一挺。
○津呂三、郷士・浪人・募兵合わせて三十人。
五貫[カノン]一挺新賦、二貫[カノン]一挺同。
○佐喜浜三、郷士一人、足軽五人、募兵合わせて四十五人。
二貫[カノン]一挺新賦、同一挺同、一貫一挺旧賦。
○野根三、郷士・浪人・募兵合わせて四十五人。
六貫[カルロン]一挺新賦、二貫[カノン]一挺新賦、一貫一挺旧賦。
○甲浦三、募兵三十九人、明神傳衛足軽五人、浪人明神忠右衛門。
十三貫[カノン]一挺同、一貫一挺旧賦。
○本陣
△田野御用家[二百目野戦八挺]隨兵、郷士・足軽二十人、浪人・募兵合わせて五十人。総計[郷士四十二人、足軽四十人、浪人三十九人、募兵四百七十八人]合わせて五百九十九人。
○海防掛りは次の通り。
郷士・地下浪人。
右の子弟養育人等まで。
募兵、庄屋・老名・本地持百姓・田地當百姓。
右の人数は安喜郡まで。
覚え
一 御奉行の隋兵
百五十人 高知増
百五十人 香我美同
百五十人 高岡郡同
百五十人 安喜郡同
しめて六百人
右は御目付方における取り調べの規定、帳面に引き合い、増(加)分は以上の通り。
そのほか台場掛りは規定帳の通り。
ほかに、
本山土居付きの郷士二十四人は別に本山を守る。
幡多郡は宿毛近辺には山内主馬、三崎には士一人が配置され、郷士・民兵あり、足軽あり。
中村には他の郡のように御郡奉行(がいる?)
浦戸・種崎・須崎
右の台場は文久三年に再度建築。
蒸気船
右は文久三年、関東にてお買い上げになり、航海御用を御士が仰せつけられ、乗り帰った。須崎に到着。「夕顔 胡蝶丸 ミ子トケヘール 千挺」(※原文引用。夕顔・胡蝶丸は船名。ただし土佐藩が夕顔・胡蝶丸を購入したのは慶応二年以降で、なぜここに名前が登場するのかわからない。ちなみに文久三年に土佐藩が購入した蒸気船は南海丸。また、ケヘールはゲベール銃(注⑧)のことと思われる。「ミ子ト」は意味不明)。
右(ゲベール銃のことか)は福留健次・大石彌太郎(注⑨)が長崎へ探索御用を仰せつけられて行ったとき、同地で買って帰った。
文久三年のこと、それより追々英国の中形(中型銃のことか)が来た。行秀(左行秀のことか。注⑩)製の中形である。
【注⑦。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、カノン砲は「大砲(火砲)の一種。大きな筒を意味する英語のcannon、フランス語のcanonに由来する。加農砲(かのんほう)とも書く。14世紀ヨーロッパに出現した大砲は、15世紀にモーター(臼砲(きゅうほう)、現在では迫撃砲を示す)とカノンの2種に区別された。カノン砲の特徴は、山なりの弾道を描く迫撃砲に比べ、水平に近い弾道(低伸弾道)で弾丸を撃ち出すことができることである。そのために発射薬はモーターより強力で、弾丸は高初速で発射される。威力、射距離は他の砲に比べ大きいが、その反面、砲重量も大きくなり、動作が鈍重になる。第二次世界大戦中は巨大な海岸砲、列車砲が出現した。砲身が長いのが特徴である。単にガンとよぶ場合もあるが、現代ではカノンと榴弾砲(りゅうだんほう)(ハウイツァー)との区別がなくなりつつある。砲身製造技術の向上により、区別する必要がなくなったためである。ちなみに、陸上自衛隊が所有する155ミリ榴弾砲の射程は24キロメートルである。[猪口修道]」】
【注⑧。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、ゲベール銃は「江戸時代末期に海外から輸入された歩兵銃の一種。ゲベールGewerはオランダ語やドイツ語で軍用小銃を意味するが、日本では銃の固有名詞となっている。火打石式の点火装置をもつ先込め式小銃で、1670年フランスが制式軍用銃としたのをはじめとして、ヨーロッパ各国軍隊が採用した。日本では長崎の町役高島秋帆(たかしましゅうはん)が1831年(天保2)に私費を投じ、輸入して紹介したのをはじめとし、以来もっとも多く輸入されて、幕末の内乱に使用されたことでよく知られている。全長149.9センチメートル、口径17.5ミリ、重量約4キログラムで、銃身は鍛鉄(たんてつ)製の白磨(しろみがき)丸型銃筒で、銃口部に着剣用の突起があり、銃身と銃床とは上中下3個の帯金で結合されているため「三つバンド」ともよばれた。照準器は初期型は照星だけであったが、のち国産倣製されるようになり、照門もつけられた。なお初期型は火打石式であったが、1845年(弘化2)以後は雷管点火式となり、初期型の大部分は雷管式に改造されている。短銃身のカーバイ型もあった。[小橋良夫]」】
【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大石円(大石円 おおいし-まどか1830*-1916)は「幕末の武士。文政12年12月17日生まれ。土佐高知藩の郷士。文久元年洋学研究のため江戸で勝海舟の門にはいる。同年武市瑞山(たけち-ずいざん)らと土佐勤王党を結成し,盟文を起草。戊辰(ぼしん)戦争では参謀,小目付として従軍した。大正5年10月30日死去。88歳。名ははじめ元敬。通称は弥太郎。」】
【注⑩。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、左行秀(左行秀 さの-ゆきひで1813-1887)は「江戸後期-明治時代の刀工。文化10年11月25日生まれ。筑前(ちくぜん)(福岡県)の左文字派の流れをくむ。安政3年土佐高知藩にかかえられ,刀鍛冶(かじ)および鉄砲鍛冶をつとめた。のち江戸深川の藩邸詰めとなり,明治初年から東虎と称した。明治20年3月5日死去。75歳。筑前出身。姓は豊永。通称は久兵衛,のち久左衛門」】
(続。文久年間もようやく終わりに近づきました。来年から元治・慶応年間に入り、やがて舞台は九州太宰府、京都、長崎、東京へと移っていきます。それにしても、意味の分からない言葉がたくさん出て来て、申し訳なく思っています。いずれは専門家の知恵を借りて、正確な現代語訳を残したいと思っていますので、ご容赦下さい。)