わき道をゆく第226回 現代語訳・保古飛呂比 その㊿

▼バックナンバー 一覧 2023 年 12 月 29 日 魚住 昭

附録

多少重複するところはあるが、参考のため、小原輿一郎(注①)の筆記の抜き書きを次に掲げる。

文久三年正月二日、 一昨日の(文久二年十二月)二十九日に無刻(最速の意)飛脚が到着したとのこと。これは極月(十二月)二十一日、太守さまが京都に到着されたという知らせだった。

使者の深尾包五郎が「御雇ヲ以」(※御雇には臨時任用などの意味があるが、この場合はどうなのか、いま一つわからない)到着。正月五日に太守さまが京都を発たれ、帰国されるとのこと。家臣一同恐悦を奉唱した。

先日、無刻飛脚に聞いたところでは、江戸より京都まで「十八刻使」(※正確にはわからないが、もしかしたら江戸から京都まで十八刻で着く飛脚のことか)により、御殿山の夷人舎(外国人宿舎)焼き討ち(注②)(の知らせがあった)。(詳細は改めて)尋ねないと、しかとは分からず。

正月三日、坂井與次右衛門が自裁したとの風聞がしきりにあったが、真偽は不明。

因みに言っておくと、坂井はお側御用役である。

同五日、同役が一同示し合わせ、三人来宅した。時勢については「政府改正之廉立候事」(※廉立候事は目立つこと、際立つことという意味だが、政府改正が何を指すのかいま一つよくわからない)は、その時々に前もって役場へ知らせてくれるよう、監察官に文書を差し出すことになった。

同七日、同役より書面で次の知らせがあった。昨日六日、京都より飛脚が着いた。もっとも、これは毎月の定期便を兼ねたもので、早追い(デジタル大辞泉によると、江戸時代、急用の際に、昼夜兼行で駕籠かごをとばした使者のこと)で着いた。八ツ山(品川)の夷栖(外国人宿舎)焼き討ちにより、夷人が横浜を引き払い、一人も残る者がいなくなった。このため京都・江戸ともに時勢が迫り、急速に事が起こるやも知れぬ事態になったと、(京都藩邸の幹部が)お目付け役に急報してきた。これにより、至急(土佐藩の)軍備の状況を点検しなければいけないので(年始なのに)押して出勤するよう言ってきたが、「差掛リ存寄調差出スニ付」(※ちょうど手許にあったデータを差し出すので、という意味かもしれないが、よくわからない)今日は出勤に及ばずと言ってきた。また下許武兵衛が来て、文書の草稿を持参した。これはみなさしあたりの意見で、格別気付いたこともなかった。しかしながら今のような(予断を許さぬ)事態に至っているので、押して七ツ半(午後五時ごろ)出勤し、夜八ツ半(午前二時ごろ)退勤した。

同八日、少将さま(12代藩主・山内 豊資のこと)がお命じになった思し召し書の草稿を書き、大監察局へ差し出す。また、長岡・吾川の二郡に配置された五組の押し出し(?)の件があった。

同九日、昨日の思し召し書ならびに五組巡回の件を詰める。ようやく十日、三ノ丸へ諸士が召し出されることに決まる。

〇足軽がすこぶる人数不足のためお抱え(新規採用)する件。

銅類を御家中より徴発する件。

同十日、四ツ時(午前十時ごろ)三ノ丸へ出勤。九ツ過ぎ(正午過ぎ)諸士一同が大筒の間より下に列座。お奉行たちから書き付けをいただいた。御礼の挨拶回りは省いてただちに出勤、両役場は明日の御乗り初めの規式(定まった作法。きまり。規則=精選版日本国語大辞典)で繁忙のため、出勤はなし。

今日八ツ時(午後二時ごろ)、京都より使者の手島八助が到着。二ノ丸で事情聴取があった。

太守さまが(京都で)参内され、(天子から)天盃を頂戴された。また御衣(天子が着た衣服)を拝領されたとの知らせ。そのほか時勢の報告があった。

武市半平太が時勢報告(のため)として(高知に)着いた。

七ツ半ごろ、手島八助を役場へ呼び、事情を聞く。薩の跋扈の勢いが顕著になったこと、

長崎焼き討ちのこと、

因州(鳥取藩)家老が「姦」(※姦にはみだら、よこしま、悪賢いなどの意味があるが、この場合、具体的に何を指しているのかわからない)のこと、宇和島藩家臣某が「姦」のこと。

粟田さま(中川宮のこと)へ薩の「姦」が潜り込んでいること。付けたりとして、姉小路・三条さま御両家より御心付け(金銭などの贈り物のことか)のこと。

武半(武市半平太)が丹州(深尾丹波。土佐藩の重臣)を推挙、丹州は暴論あること。

御近習の大谷・西野・林・津田等は正義のこと。

夕方から末松氏へ参上、一同五ツ半(午前九時ごろ)ごろより鼎殿(藩の重臣・深尾鼎のこと)の宅へ行き、九ツ過ぎ(午後一時過ぎ)退出した。

正月二十日、(小原が)大目付を仰せつけられる。

同二月二十日、京都お留守居役を仰せつけられる。

同三月三日、当分兵之助さま(容堂の実弟)付きを仰せつけられる。来る十五日、(兵之助さまの)上京のお供を仰せつけられる。京都の御本陣・智積院へお供着。

一 同三月三十日、当分兵之助さま御用を免じられる。

その後、ご隠居様の容堂公が帰国の際、京都の旅館でお目通りを許された。(容堂公が)出発されるとき、暫時お人払いをしたうえでお目通りを許され、そのときのお言葉。兵之助方の用向きは許すけれども、今のこのような情勢だから、諸事遠慮なく気付けよとの御意を拝承した。

一 同八月、(八月十八日の政変で)長州侯が三條殿と同意のうえ京都を立ち退き、その後、長州邸の兵卒が邸に火を放って立ち退き、といった巷説がひどくやかましい。これは八月十八日のことだが、京都守護職の会津侯より使者が、日の出すぎに河原町の(土佐)藩邸に来た。「自分己家客對之間ニ通リ」(※自室の応接間に通り、という意味か)今朝以来「毎々ニ付」(※毎々はいつもという意味だが、それでは意味が通らない。かくかくしかじかだったら意味が通るのだが)兵之助さまの御参内云々。とりあえず同役の武山氏に知らせたところ、それならば智積院(この場合、兵之助のことか)のご都合はそなたにゆだねる。自分は三條様をはじめとする方々の御殿へ告げ知らせるという。かれこれ問答する時間も煩わしいので、陣羽織・小袴を着て乗馬で本陣(の智積院)へ参上した。身分の上の者から下の者まで変事がある時はかねて覚悟のことゆえ、わずかの時間で勢ぞろいした。[右火(ママ)は他家も同様のことにちがいない。こういう事態になったら同勢を召し連れ、かつ装束はしかじかとあらかじめ定めてある]、兵之助さまが参内されたとき、まだ他の諸侯は参内されておらず、一番手ではないかと思った。その後、(公家の)白川殿はほかならぬ御親族さまであるので、しばらく「御座敷御内ニ外御借用御相談ニ成ル」(※白川家の座敷を借りる相談をした、という意味だと思うが、正確にはわからない)、兵之助さまはご休息のために入られ、我々までも交代で詰めることになった。かつまた御内(内裏のことか)の警固もあって、お勤めが忙しいことこのうえない。ほどなく東本願寺より金一万両が朝廷に献上され、同九月にいたり、諸家の軍兵の上下となく一同に賜った。総勢八千人余りのうち、兵之助さまの率いる人数は、お供の人数百六十五人、翌十九日、大阪より上京した人数は(住吉の)陣屋の者たち七十八人、しめて百四十三名。一同の糧食は市中より炊き出しし、みな請け負った。

右の拝受の金は一人前一両あまりずつになる。

なお、兵之助さまは始終(本陣の)智積院におられ、そこから外に、思いのままお出かけになることがなかった。時折、三條殿(容堂の妹・恒姫が公家の三條公睦に嫁いだ)岡崎御殿へはお伺いのお勤めをされた。岡崎はご兄弟さまのことだから、折を考えてお伺いなされた。眞受院さま(信受院の誤り。容堂の妹・恒姫のこと。公睦はすでに死去)も喜ばれ、ご馳走をされ、夜に入ってお帰りになることもあった。それについて、どこからか、今のご時節に夜に入って(本陣に)帰るのはよろしくない、岡崎御殿では饗応も過ぎるように見受けられるので、早く帰られるように申し上げたいという人があった。愚かなことである。これしきのことをお止め申し上げるべきではない。時折、鬱を散じることがなくては、あのお寺(智積院)でただ一人閑居するのはよろしくない。(兵之助さまが京都に)来られたとき、何の旅情の慰めもなかった。それで折々、ご様子を伺うとき、何かお慰めに盤将(?将棋盤の類か)・詩歌など気慰みになるもので遊ばれてはどうかと申し上げたところ、何も好みはない、このように閑[座居]であっても、病になることなどを心配する必要は決してない、気遣い無用と仰った。折々は、国許のお屋敷の幼いお子さま方へ品物などを送るようにと命じられるだけで、お行儀においてはまことにまれなお振舞に胸を打たれずにおかれようか、不覚の涙がこぼれた。恐れながら感動のあまり、一筆を残す。

一 同年十一月、同役の中島小膳が京都に着くとお暇を仰せつけられ、国許へ帰る用意を始めた。

去年以来、慷慨暴論の徒、吉村虎太郎(注③)らの一党が種々意見を申し出て、議論を吹っ掛けてきたことが度々あった。兵之助さまにお目通りを願う者たちも少なくなかった。また、そのほかには打って変わって、幕府追従の件や因循の談判などもあり、また、古沢迂郎(注④)らが所司代に不敬の直訴をしたり、あるいは等持院の木像等のこと(注⑤)もあり、まことに無益の繁用多端、苦辛老骨を砕くこと枚挙にいとまがない。

【注①。高行日記の文久二年四月二十三日の項に「間又右衛門・小原與一郎が小目付となる。間は誠実家とのことだが、交際なく、人となりをよく知らず。小原は正義家で気骨あり、もっとも望みある人物だ。隣家だから、人となりはよく知っている。自分よりかなりの年長である。」とある。】

【注②。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、イギリス公使館焼打事件は「1862年(文久2)12月、長州藩尊王攘夷(そんのうじょうい)派志士らの攘夷実行事件。御殿山(ごてんやま)事件ともよぶ。1862年10月、勅使三条実美(さねとみ)、姉小路公知(あねがこうじきんとも)は幕府に攘夷の実行を督促するために江戸へ向かい、幕府は攘夷を承認したものの、一方では品川御殿山の景勝地に外国公使館建築を開始していた。当時、幕政に反抗する諸藩の激派志士らは次々と攘夷事件を起こしていた。長州藩でも、高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、志道聞多(しじもんた)(井上馨(かおる))、伊藤俊輔(しゅんすけ)(博文(ひろぶみ))ら激派12名は、同年10月、横浜における攘夷計画に失敗、江戸藩邸に謹慎中であったが、御楯隊(おんたてたい)を組織し、12月12日夜、イギリス公使館内に潜入し、火薬に火を放ち、竣工(しゅんこう)前の公使館を全焼させた。[井上勝生]」】

【注③。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、吉村寅太郎(よしむらとらたろう1837.4.18~63.9.27)は「虎太郎とも。幕末期の尊攘派志士。土佐国高岡郡津野山郷芳生野村の庄屋吉村太平の長男。12歳で庄屋となり各地の庄屋を歴任。その間志士と交わり,武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に参加し,1862年(文久2)脱藩。寺田屋騒動で捕らえられて土佐へ送還されたが,出獄すると翌年再び上洛し,天誅組総裁の1人となり大和国で挙兵。諸藩軍の追討をうけて苦戦し,吉野の鷲家口(わしかぐち)で戦死。」】

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、古沢滋(没年:明治44.12.22(1911)生年:弘化4.1.11(1847.2.25))は「幕末土佐(高知)藩の志士,明治期の民権運動家,官僚。土佐藩家老深尾氏の家臣の次男。長兄は民権運動家岩神昂。幼名は迂郎。学才頭角を現し,弱冠15歳の文久2(1862)年上洛し土佐勤王党幹部平井収二郎に嘱目されて国事に奔走。しかし,収二郎は中川宮朝彦親王令旨事件で処罰され,帰郷した滋も父,兄と共に過激運動の故に収監された。慶応3(1867)年放免され,岡本健三郎に誘われて明治2(1869)年上京して政府に出仕。3年7月官命で英国ロンドンへ派遣され,政治経済学を修め6年11月帰国。征韓論政変で下野した同郷の先輩板垣退助の依頼で民撰議院設立建白書を起草,爾来板垣の知能参謀として民権運動に挺身,15年には『日本立憲政党新聞』の主幹,『自由新聞』の主幹に転じ,立憲改進党攻撃の論陣を張った。しかし,長州閥の品川弥二郎,井上馨らに急速に接近。19年外務省書記官として官界に転じ,27年奈良県知事,29年石川県知事,32年山口県知事。37年貴族院議員に勅選された。(福地惇)」】

【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、足利氏木像梟首事件(あしかがうじもくぞうきょうしゅじけん)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動のなかで、徳川将軍に天誅(てんちゅう)を加える意を示すため、足利将軍3代の木像の首をさらした事件。1863年(文久3)2月22日、京都等持院(とうじいん)に安置されていた尊氏(たかうじ)、義詮(よしあきら)、義満(よしみつ)の木像の首を引き抜き、三条河原にさらし、幕府に対し有志の挙兵を訴えた。主謀者は、三輪田綱一郎(元綱)、師岡正胤(もろおかまさたね)(節斎)ら平田派の国学者のほか、長尾郁三郎、小室利喜蔵(こむろりきぞう)(信夫(しのぶ))、西川善六など商人や豪農、浪人が多く、尊攘激派の先駆けであった。[池田敬正]」】

(続。ようやく「保古飛呂比 佐佐木高行日記 一」が終わりました。来年から新たな章「佐佐木高行日記 二」が始まります。いつもいつも不完全な訳しかできずに申し訳ありませんが、お付き合いの程よろしくお願い申し上げます。)