わき道をゆく第227回 現代語訳・保古飛呂比 その51

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保古飛呂比 巻十一 元治元年正月より同年七月まで

元治元年甲子[文久四年三月朔日に改元] 高行三十五歳

正月

一 この月二日、養父の三六高下さまがご病死。

実は昨年の大みそかの夕刻に脳卒中の発作を起こされた。自分は越前町住まいの竹村與之次[歩行格]宅を借りて旅宿にあって、早速駆け付けたところ、最早言語も通じず、ただただ高いびきをかいておられた。大患である。新井口町の医師・北川省吾の診察を受けたところ、治療のすべがないという。同日の夜半、御絶命になった。よって近類(近い血縁)等へ知らせたが、(自宅が)辺境にあるため、翌日の未明になって武馬善左衛門が来てくれたけれども、元日なのでまずもって病気の旨を口頭で伝え、翌二日に病死の届けをした。

行年五十歳、正月二日の御病死の届

 届

佐々木三六こと、長らく病気のところ、養生かなわず、今日病死しました。その届けを頼まれて参上しました。以上。

文久四年正月二日

武馬善左衛門


佐々木三四郎

右は、父三六が今日病死しましたので、今日より来月二十一日まで、定式服忌(近親の死で喪に服する期間を定めた決まり)を受けて引き籠りますので、このことをお届けします。以上。

文久四年正月二日

武馬善左衛門

正月四日の夜、土佐郡杓田村字箕越山へ埋葬した。

葬送の際は正月早々だったが、村民が平生の交わりで皆が来てくれて、親切にしてくれたので、格別人を雇う必要がなく、まことにもって仕合わせのことだった。先年、祖母上の御不幸のときよりは、勤役中で暮らし向きの融通が少々きくので、三日後は日々弔問客も絶えなかった。このたびは長濱村へ埋葬することもできたが、すでに祖母上を箕越山に埋葬しているので、そのおそばに埋葬した。

一 正月八日、御七ケ日の法事を営み、近族(血縁の近い親族)ならびに近隣の世話になった人々を招いた。

ただし同日・同九日の両日とも、浦戸町の眞宗寺へ行き、法会を執り行った。

[参考]

一 同十二日、関白二條斉敬公(注①)より[鷹司関白の後任である]、容堂公・会津容保侯・伊達宗城侯そのほか御老中等へ命を伝えて曰く。本城災(文久三年十一月、失火で江戸城の本丸が焼失した)後、将軍(徳川家茂。注②)の上洛は苦労であるが、天下の安危にかかわることなので、また事を急いで去年のようにしてはならない。各々が尽力して公武が協和するように注意せよ。[諸書を照らし合わせて参取した]

【注①。朝日日本歴史人物事典によると、二条斉敬(にじょう・なりゆき 没年:明治11.12.5(1878)生年:文化13.9.12(1816.11.1))は「幕末の公家政治家。五摂家。父は斉信,母は水戸藩主徳川治紀の娘従子。安政5(1858)年条約調印に反対の態度を示し,12月,徳川家茂への将軍宣下を伝達のため江戸に赴く。大老井伊直弼に面会を求めたが拒絶され,翌年,10日間の慎に処せられた。文久2(1862)年1月に右大臣,同12月国事用掛。翌年8月18日の政変に参画し尊攘派勢力を一掃,12月,関白に就任する。以来,朝彦親王と共に,幕府および徳川慶喜と提携して朝廷を運営,長州再征・条約の勅許に尽力した。慶応2(1866)年9月,列参奏上の22廷臣から批判を受け辞表を提出。却下され,徳川慶喜の将軍就任に力を尽くす。同年12月孝明天皇が没し,翌年1月明治天皇の践祚に伴って摂政となる。王政復古の政変で摂政・五摂家の制が廃絶され,参朝停止の処分を受けた。明治1(1868)年8月処分解除,翌年7月麝香間祗候。ちなみに二条家は,他の摂家と違って将軍の諱の1字を用いる慣例があり,斉敬の「斉」は家斉の「斉」である。(井上勲)」】

【注②。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、徳川家茂(とくがわいえもち(1846―1866))は「江戸幕府第14代将軍。紀州11代藩主徳川斉順(なりゆき)(将軍家斉の子)の長子。弘化(こうか)3年閏(うるう)5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福(よしとみ)と称す。12代藩主斉彊(なりかつ)(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)4歳で家督を継いだ。将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派の推す一橋慶喜(よしのぶ)に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。結局、1858年(安政5)慶福を推す南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したのち、継嗣と定まり、同年徳川家定(いえさだ)の死去により将軍職を継ぎ、家茂と改めた。桜田門外の変による井伊大老横死ののち、老中久世広周(くぜひろちか)、安藤信正(あんどうのぶまさ)らの画策により、1862年(文久2)孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)を夫人に迎え、公武合体による幕府権力の回復を計ったが、同年の島津久光(しまづひさみつ)の率兵(そっぺい)上京、久光と勅使大原重徳(おおはらしげとみ)の東下によって幕政改革を迫られ、慶喜を将軍後見職に、松平慶永(まつだいらよしなが)を政事総裁職に迎えた。翌1863年、慣例を破り、自ら上洛(じょうらく)、幕権回復を計ったが、朝廷は尊王攘夷(じょうい)派の勢力下にあり、攘夷祈願の賀茂社(かもしゃ)行幸に供奉(ぐぶ)させられた。しかし4月の石清水社(いわしみずしゃ)行幸には随行を固辞して東帰した。その後、八月十八日の政変によって公武合体派が勢力を回復し、1864年(元治1)再度上洛した。ついで、長州藩が、第一次長州征伐ののちにふたたび抗戦の構えをみせたため、第二次の長州征伐となり、1865年(慶応1)三たびの上洛ののち、大坂城の征長軍本営に入った。翌年6月に開戦された長州藩との戦争に、幕軍敗戦の報が相次ぐうちに、7月20日、21歳で城中に病死した。法号昭徳院。[井上勝生]」】

[参考]

一 同月十四日、将軍家茂公、大阪を発ち、伏見に一泊、同月十五日、二条城に到着。

一 同月十六日、勅使坊城大納言(坊城俊克。注③)・野々宮二位宰相中将が二条城に行き白書院(注④)で将軍と対面したという。

一同月十五日の知らせに次の通り。

将軍家茂公がさる十二月二十七日、江戸城を発ち、海路の途中、何らかの事情があったのか、所々で上陸碇泊し、正月八日、大阪城に到着のよし。

【注③。改訂新版 世界大百科事典によると、坊城家 (ぼうじょうけ)は「藤原氏北家高藤の流れ,勧修寺(かじゆうじ)庶流。勧修寺定資の男権中納言従二位俊実(1296-1350)を始祖とし,その子俊房より居所にちなんで坊城(小川坊城)と号した。しかし1540年(天文9)俊名の没後断絶し,94年(文禄3)贈内大臣勧修寺晴豊の三男俊昌が再興。家格は名家。大納言を極官とした。江戸時代,いわゆる宝暦事件に連座して辞官・落飾した俊逸は有名。その孫俊明および曾孫俊克はともに幕末に至って武家伝奏を務め,条約勅許,将軍継嗣問題や水戸降勅事件,さらに和宮降嫁など朝幕関係に奔走し,俊克の弟俊政およびその子俊章は維新政府の要職にあり,1884年華族令の施行により俊章は伯爵を授けられた。なお江戸時代の家禄は180石である。執筆者:米田 雄介」】

【注④。精選版 日本国語大辞典によると、白書院(しろしょいん。「しろじょいん」とも)は「 近世、武家住宅内の建物の一つ。柱は白木(しらき)で、漆などを塗っていない書院。江戸城本丸御殿では一番主要な大広間の次にあり、表向きの部屋として儀式を行なったり、来客と対面したりするのに用いた。対面所とも。黒書院はこの奥にある。」】

一 正月十九日、服喪の期間を終えて、出勤を仰せつけられる。

 佐々木三四郞

右は「家督掛」(※家督相続した者という意味か?)の忌中引き籠もりをしていたが、御用に差し障りがあるので、明二十日より忌中明けを命じられ、出勤するよう申し付けられた。以上。

文久四年正月十九日

[御奉行]

 深尾弘人

 柴田備後

 五藤内蔵助

 山内主馬

支配人  野本源之助殿

別紙の通り申して来たので、そのつもりで、(命令を)お請けし、「御親族之中ヲ以、御奉行エ可被相勤候」(※意味がよく分からないので、原文を引用)、以上。

 文久四年正月十九日  野本源之助

 佐々木三四郞殿

右の忌引き明けを命じられたのは、このごろ海防の方面でとりわけ御用が多いためである。よって翌二十日より出勤した。

[参考]

一 正月二十日、伝奏ならびに由緒ある公家衆十四、五人が(二条城に)登城、黒書院(注⑤)で(将軍に)対面、御料理が出たとのこと。

同日の夕方、にわかに勅使の坊城・野々宮が黒書院で御料理を供され、四ツ半時(午後十一時ごろ)に済んだとのこと。

【注⑤。デジタル大辞泉によると黒書院(くろ‐しょいん。くろじょいんとも)は「将軍や大名などの大規模な殿舎に設けられた書院。天井の格子、障子の縁、床框とこがまちに至るまで黒漆塗りとしたもの。多く、居間風の座敷として使われた。」】

一 同月二十一日、将軍が参内。位記(律令制で、位階を授けられる者に、その旨を書き記して与える文書=デジタル大辞泉)拝観手続きのため、九ツ半 (午後一時ごろ)にようやく参内した。

徳川慶喜公・紀州公・会津容保公が参内、中川宮はじめ諸公卿が列座し、将軍へ宸翰(天皇の自筆文書)を賜ったとのこと。その文面は次の通り。

ああ汝らはいまの形勢をどう見る。内はすなわち綱紀が廃れ弛み、上下が解体し、百姓は塗炭に苦しむ。ほとんど瓦解土崩の色を顕し、外はすなわち驕虜(傲慢な夷賊)、五大州の凌辱を受ける。まさに併呑の禍に遭おうとしている。その危うさはまことに累卵のごとし。また焦眉(眉を焦がすほど火が迫っている)のごとし。朕はこれを思って夜寝ることもできぬ。食べ物をのみ込むこともできぬ。ああ、そなたはこれをどのように観る。これすなわち汝の罪ではない。朕の不徳の致すところ。その罪は朕自身にある。天地の鬼神は朕をなんと言う。どうして祖宗(歴代の天皇)と地下にまみえることができようか。よって思うには、汝は朕の赤子である。朕は汝を自分の子のごとく愛す。汝は朕を父のごとく親しむようにせよ。その親睦の深さは天下挽回の成否にかかわる。どうして重要でないことがあろうか。ああ汝、昼夜心を尽くし、思いを焦がし、つとめて征夷府(蝦夷を征討する役所)の職掌を尽くし、天下人心の期待に応えよ。蝦夷の征服は家の大典、膺懲(征伐してこらしめること)の軍を起こさねばならぬ。といっても無謀な征夷はまことに朕が好むところではない。適切と思われる策略をこらし、それを朕に奏せよ。

朕はその可否を論じ、漏れなく調べ、一定不抜の確固たる国是を定める。朕また思うに、古来から国家再建の大業をなそうとするには、その人を得なければならぬ。朕が凡百の武将を見るところ、いやしくもその人ありといえども、現在、会津中将(松平容保)・越前前中将(松平慶永)・伊達前侍従(伊達宗城)・土佐前侍従(山内容堂)・島津少将(島津久光)らのごときはすこぶる忠実純厚、思慮宏遠、もって国家の枢機を任せるにたる。朕はこれを自分の子のように愛する。汝、これを愛し、これと親しみ、ともに相談せよ。ああ、朕は汝と誓って衰運を挽回し、上は歴代天皇の霊に報告し、下は万民の急を救おうとしている。もし怠惰のためそれに成功しなければ、それは朕と汝の罪であろう。天地の鬼神は我らの罪を責めて殺すにちがいない。汝、努力せよ、努力せよ。

一 正月二十七日、将軍が参内、大小の諸侯が付き従った。

この日、将軍が従一位に叙せられた。

歴代天皇の山陵の営繕を行った功績によるものであると。

また将軍に

(天皇が)宸翰を賜ったと。内容は次の通り。

朕は不肖の身で早くから天皇の位につき、かたじけなく万世無欠の金甌(注⑥)を受けた。常に徳が少なくて先代天皇と百姓とに背くことを恐れてきた。ことに嘉永六年以来、洋夷がしきりに来港し、国体はほとんど言うことができない状態だ。物価は沸騰して民は塗炭の苦しみを味わっている。天地の鬼神は朕をなんと言うだろう。ああ、これは誰の過ちだろうか。昼夜それを思うのをやめることができない。かつて公卿や武将たちにこの洋夷の件を議論させたことがあるが、いかんせん泰平の二百余年を過ごしてきたため、武威により外寇を圧倒することができない。もしみだりに征討の軍を動かそうとするなら、かえって国家不測の禍に陥る恐れがある。幕府が断然、朕の意をくんで、十余代つづく旧典を改め、外には諸大名の参勤を弛め、妻子を国に帰し、各藩に武備充実の令を伝え、内には諸侯の冗費を省き、出費を減らし、大いに砲艦の備えを設けた。まことにこれは朕の幸せであり、最も褒め称えるべきことである。そうしたところがあに図らんや、藤原実美(三条実美のこと)らが卑しい匹夫(道理の分からぬ、つまらない男)の暴説を信用し、世界の形勢を察せず、国家の危機を思わず、朕の命令をねじ曲げて、軽率に攘夷の令を布告し、みだりに倒幕の軍を起こそうとした。長門宰相(長州藩主)の暴臣のごときは、その主を愚弄し、理由なく外国船を砲撃し、幕府の使者を暗殺し、朝廷の許しを得ずに実美らを本国へ誘い込んだ。このように狂暴の輩は罰しないわけにはいかない。しかしながら、これはみな朕の不徳のいたすところであって、まことに慚愧にたえない。朕がまた思うに、我が方の砲艦は、彼の方(外国勢力)の砲艦に比べれば、いまだ「慢夷ノ膽」(驕慢な洋夷の肝)を呑むに足りず、かえって洋夷の軽蔑を受けかねない。ゆえにしきりに願う。国内では、天下の全力をもって攝海(大阪湾)の要所に備えをし、上は山陵を安んじ奉り、下は生民の安全を保ち、また列藩の力をもってそれぞれの要港に備えをせよ。国の外に出ては、数艘の軍艦を整え、飽くなき醜夷を征討し、先代天皇の「膺懲の典」を大にせよ。去年、将軍は長く京都に滞在し、今春もまた上洛した。東西に奔走し、あるいは妻子をその国に帰らせた。費用が武備に足りなくなるのはもっともなことである。だが、これからは決してそうであってはいけない。つとめて太平因循の雑費を省き、力を合わせ、心を専一にして、征討の備えを精鋭にし、武臣の職掌を尽くし、家名を辱めることなかれ。ああ、汝ら将軍および各国の大小名たちは、みな朕の赤子であり、今の天下のことを朕とともに一新しようとしているのだ。民の財を減らすことなく、姑息な贅沢をすることなく、膺懲の備えを厳しくし、祖先の家業を尽くせよ。もし怠ければ、特に朕の意に背くだけでなく、皇神の霊に叛くことになる。祖先の心に違うことになる。天神鬼神もまた汝らを罰するであろう。

正月

【注⑥。デジタル大辞泉によると、金甌無欠(きんおう‐むけつ)は「傷のない黄金のかめのように、完全で欠点のないこと。国家が強固で、外国の侵略を受けたことがないことをいう。」】

一 正月二十七日、(高行が)次の通り仰せつけられた。

その方はこのたび(太守さまが)海岸をご覧になる際のお供を仰せつけられた。このことを役場より通知するよう御奉行らから指示されたので、そのつもりでいるよう。以上。

 文久四年正月二十七日 御仕置き役[参政のこと]金子平十郎 同 柏原内蔵馬

 佐々木三四郞殿

[参考]

一 稲毛吉太が某氏に送った書状、次の通り。

所要(=精選版 日本国語大辞典によると、「必要とすること。必要とするもの。また、なすべき用件」) 老公(容堂)が京都に着かれて以後、ご高名の諸侯方が次々と(京都に)入来された。君(容堂のこと)は特に駕籠で出かけられることなく、「如何様」(※いかさまにはどのよう、なんとしても、などの意味があるが、この場合はどういう意味かわからないので原文引用)加茂川べりをぶらぶらされ、信受院さま[容堂侯の妹、三条さまの奥方]へは二度お出でになり、その後、二条両関白殿(※二条関白は二条斉敬のことだが、両がつく理由がはっきりしない)へお出でになった。これは(容堂侯が)京都到着後まもなく政治参与就任を請われたのを辞退され、その後、両殿下に直接その旨を申し上げになったところ、今度は朝命(朝廷からの命令。天子の仰せ=精選版 日本国語大辞典)をもって御依頼を受けられたので即座に拝受されたとのことで(そのことを報告に行かれた?)。その後は「君ニモイカニモヲ[脱字ありか]御奮発」(※いかにも容堂侯らしく奮発され、という意味か)まことに恐悦である云々。(容堂侯が)胸算(胸の内の計画)をなしとげ早々に帰国なされれば、まことに大慶至極であります。さて十五日は将軍の上洛を拝見しましたところ、行列の者たちが槍や鉄砲などを持つのは当然のことながら、筆で表現するのが難しく、行列は軍装の姿にも決して見えませんでした。「如何様殿リ鎖単衣?」を着た壮士が三、四十人ばかりいて、これはかの壬生浪人(新撰組のことか)であると聞きました。上様は御年(おんとし)二十二、三と見え、色青白く、肥えて美しきお方、わずか一間ばかりの距離でしかと見上げました。右の通り、将軍の上洛もつつがなく済み、人心も平和云々。

正月八日、長州の台場で発砲の件、京都の薩摩藩邸へ情報が届いたので大いに(藩士たちが)沸き立った。しかし三郎君(島津久光)がこれを押さえて「この件については我らに深い考えがある。第一に朝廷の意向をうかがわなければならぬ。遠からず将軍の上洛もあるので、つぶさに言上する。そのうえで(藩士たちは)我らの命令を受けて進退しなければならぬ」と教示したとのことで、薩摩藩士たちがそれ以来、頻繁に行き来するようになりました。薩摩藩士たちは町中の往来一町のうちに三人ずつ見受けられます。我が藩(土佐藩)はつごう二千余人ですが、町中の往来で、たまたま我が藩の者だと見受けられるのは一人か二人、薩摩藩はたしか一万五千人はいるだろうという説があります。同二十一日、将軍が参内されました。先乗りは所司代の淀侯(稲葉正邦。注⑦)という。譜代大名がおよそ三十騎、思い思いの出で立ち。御殿(おんとの)越前侯(松平慶永。注⑧)という。また一橋侯(徳川慶喜)という。

千規(?)が言うには、ある人の話に、参内当日、将軍は竜顔(天子の顔)を拝した後に、主上から直接、「汝は吾を父のごとく見て、吾は汝を子のごとく見る」との御宸筆(天子の自筆文書)を下された、また当日、将軍を内大臣に任じられたとのこと。[記録抄出]

【注⑦朝日日本歴史人物事典によると、稲葉正邦(いなば・まさくに。没年:明治31.7.15(1898)生年:天保5.5.26(1834.7.2))は「幕末の老中。父は陸奥国二本松藩(福島県)藩主丹羽長富。山城国淀藩(京都市)藩主稲葉正誼の養子となり嘉永1(1848)年襲封した。文久3(1863)年京都所司代に任じられ,京都守護職松平容保と共に尊攘激派の取り締まりに当たった。その間,孝明天皇の大和行幸の中止を進め,同年の8月18日の政変に際しては会津・桑名両藩兵と共に御所を警備し,政変の成功に寄与した。翌元治1(1864)年には老中に転じ,第1次長州征討に藩兵を出し,長州藩3家老の首級を実検している。慶応1(1865)年4月に老中を免じられたが,翌2年4月再任された。そして将軍徳川家茂の死去に伴う第2次征長軍の引き揚げを担当し,翌3年将軍徳川慶喜の幕府強化策として新設された国内事務総裁に任じられた。大政奉還に当たっては将軍が摂政・関白を兼ねて権力を強化し,公武の別や譜代,外様の別を廃して上下両議事所を設置し,公議に基づいて国是を確立することを主張した。その後,鳥羽・伏見の戦が起こると2派に分裂した藩論を前に中立を宣言した。敗北した幕府軍が退却を重ね淀城に至ったとき,城門を閉ざしてその受け入れを拒否している。その後,江戸から上洛し妙心寺で謹慎したが,明治1(1868)年閏4月新政府側の警衛の任を与えられた。江戸城の開城に際しては恭順派を支持した。翌年知藩事に任じられたが,4年廃藩置県で免官となった。17年には子爵を授けられている。<参考文献>『淀稲葉家文書』(日本史籍協会叢書)(長井純市)」】

【注⑧。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、松平慶永(まつだいらよしなが。1828―1890)は「幕末期の越前国(えちぜんのくに)福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽(しゅんがく)が通称となる。田安(たやす)家徳川斉匡(とくがわなりまさ)の八男で、1838年(天保9)11歳のとき、越前家を継ぎ、第16代藩主となった。以後20年間のうちに、中根雪江(なかねせっこう)(靭負(ゆきえ))、鈴木主税(すずきちから)らを登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘(しゅとう)の導入など洋学の採用も推進した。その間、1853年(嘉永6)ペリー来航に際して、海防の強化を説き、江戸湾など沿岸警備の具体策の実現を、幕府に対して積極的に働きかけた。1857年(安政4)、熊本藩士横井小楠(よこいしょうなん)を登用し、開国通商の是認に傾くとともに、13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の継嗣(けいし)に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推すなど、島津斉彬(しまづなりあきら)(薩摩(さつま)藩)、伊達宗城(だてむねなり)(宇和島藩)、山内容堂(やまうちようどう)(土佐藩)らとともに、幕府主流派と対立した。1858年、大老井伊直弼(いいなおすけ)による日米修好通商条約調印と、紀伊家の徳川慶福(とくがわよしとみ)(のち14代将軍家茂(いえもち))の継嗣決定に強く抗議したため、7月、ともに動いた徳川斉昭(とくがわなりあき)はじめ、先の大名たちとともに謹慎(きんしん)処分を受け、退隠、藩主の地位を同族の茂昭(もちあき)に譲った。1860年(万延1)井伊直弼の暗殺後、謹慎を解かれ、さらに2年後(文久2)政界に復帰、その7月には慶喜の将軍後見職就任に続いて、政事総裁職に任ぜられて、幕政の指導的地位にたった。復権後の彼の立場は、公武合体の推進にあったが、幕府の中枢にあるとともに、1864年(元治1)には一時京都守護職に就任、朝議参予(さんよ)ともなって朝廷からも大きな信頼を受けた。1866年(慶応2)12月、慶喜が将軍職に就くが、慶永はその施政に大きな影響力をもち、一方、京都に集まった宗城、容堂、島津久光(しまづひさみつ)(斉彬異母弟)の3名とともに、参予会議の「四侯」として、公武合体による国政改革に努めた。長州攻撃の収拾や、兵庫開港の容認とその「勅許」の獲得など、年来の懸案を将軍慶喜が処理したことについては、慶永の建言・助言が大きな役割を果たしていた。大政奉還・王政復古で、新政府の議定(ぎじょう)職の一人に任命されたが、戊辰(ぼしん)内乱から、慶喜への厳しい処分が進む政界の方向に反発、1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)、続いて大蔵卿兼務を最後に、1870年7月、42歳でいっさいの公職を退いた。以後、自らの体験を歴史的に回顧した『逸事史補』など多くの著述をまとめた。明治23年6月、62歳で病没した。[河内八郎]」】

(続。不完全な訳で、ご迷惑をおかけしますが、ことしもよろしくお願いします。なおこの訳文は東京大学史料編纂所編纂の『保古飛呂比 佐佐木高行日記 二』(東京大学出版会刊)を底本にしたものです)