わき道をゆく第228回 現代語訳・保古飛呂比 その52

▼バックナンバー 一覧 2024 年 1 月 26 日 魚住 昭

  (文久四年)二月

一 この月二日、太守さまのお供で香我美郡手結浦まで行き、それより引き返して、赤岡浦に宿泊、同三日、赤岡浦より前濱等、十市・仁井田・種崎浦等の海浜を巡覧、浦戸浦で宿泊、同四日、長濱・諸木村の海浜を通って仁井村まで巡覧、同日夕に帰城した。

なお、下地村の庄屋(※原文は床屋だが誤植と思われる)の林某が、わが藩の海防のために手結浦より戸原濱まで土手を築くよう建言していて、(土手が必要かどうか)太守さまが実地に巡覧されるため、海防御用掛の原傳平・乾作七の両人そのほか下役一同がお供した。

この堤防により堅固に防禦するよう工事をした場合、すこぶる費用がかさんで、結局、実行が困難なので、肝要の場所を見立て、その場所に(のみ土手を)つくったほうがいいという意見を(高行が)申し立てた。

[参考]

一 松井順助が京都より徳永達助に贈った書簡、次の通り。

このたび

君上(容堂公)・一橋公・春嶽公・宇和島侯・会津侯が政治参与職に任命され、(島津)三郎侯も従四位下権少将に叙せられ、先日来、旅館へも入られて、議論が数刻にわたって行われました。君上には参内するようにというお沙汰がありましたが、少々腰痛があり、お断りになって参られませんでした。二条城へは上洛以来、二度登城され、最初は夕方より朝七つ(午前四時ごろ)帰殿されました。一橋公・春嶽公・三郎侯・二条関白殿・中川宮さま・近衛関白殿等へも時々お出でになった。現在の(君上の)宿志が叶うかどうかは、まことに皇国の安危の機微にかかり、ひとかたならず配慮されておられるものの、ご持病も時々ぶり返し、医師などは国許で養生するよう、上京をお止め申し上げるほどの状態である云々。思い通りに参内することも難しいので、政治参与職をお断りしたいと言われたところ、二条さまの直々のお言葉で、病気はいかようにも保養を加え、「時々参内ニ及申間敷ニ付」(※意味がわかりにくいので原文引用)、勉励するようにと言われ、やむを得ずお請けになった。そしてその内容を詳しく書いた文書により、時々登城することも難しくなるということを、今月一日、幕府へも届けられたとのこと。上洛されてから、三条大橋の制札場(注①)に浪人を厳しく取り締まるという制札を建てた下紙(注②)に、「およそ同志の者が三万七千人ばかりおり、ここに書いてある(浪人取り締まりの)探索中、聞き出し次第天誅を加える」と書いて、二条城へ投げ込む事件があったとのこと。島津三郎さまはさる十七日、参内され、竜顔を拝され、天盃を頂戴され、鞍を置いた馬を拝領された。かつ修理大夫さま(薩摩藩十二代藩主・島津忠義。注③)が、領地に英夷(英国勢)が渡来した際、早速打ち払い、御家来も粉骨砕身、格別尽力した(注④)ことをお聞きになって、天子も満足されている。よって在国中ではあるけれども、厚い思し召しをもって馬一匹、黄金十枚を拝領されたことを知らせてきました。

二月五日 順助

達助さま

【注①。精選版 日本国語大辞典のよると、札場(ふだば)は「江戸時代、人通りの多い辻や橋のたもとなどにあった、種々の布告や禁令の制札を立てておく場所。制札場。】

【注②。精選版 日本国語大辞典によると、下紙(さげ‐がみ)は「意見や理由などを書いて公文書などに添付する別紙。付箋。さげふだ」】

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、島津忠義(しまづ-ただよし1840-1897)は「幕末-明治時代の大名,華族。天保(てんぽう)11年4月21日生まれ。島津久光(ひさみつ)の長男。安政5年薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家12代となり,父に後見される。藩の近代化をすすめ,薩英戦争をたたかう。慶応3年討幕の密勅をうけ大兵をひきいて京都に出,王政復古につとめた。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍の主力となる。のち公爵,貴族院議員。明治30年12月26日死去。58歳。初名は忠徳,茂久。通称は又次郎。」】

【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、薩英戦争(さつえいせんそう)は「幕末、鹿児島で行われた薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘。1862年(文久2)8月の生麦(なまむぎ)事件に関し、幕府はイギリスに対し公式謝罪と償金10万ポンドの支払いに応じたが、薩摩藩は犯人の引渡しと償金2万5000ポンドの要求を拒否した。そこで翌63年6月27日、イギリス艦隊司令長官キューパーは鹿児島湾に侵入、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めた。しかし交渉は進展せず、7月2日イギリス艦隊は薩藩の汽船天祐(てんゆう)丸など3隻を拿捕(だほ)した。薩藩の天保山(てんぽうざん)砲台はじめ各砲台も発砲、旗艦ユーリアラス号では艦長ジョスリング大佐、副長、水兵(7名)が戦死、6名が負傷した。旗艦の弾薬庫前に幕府償金の箱が積まれていたため、砲撃が2時間も遅れたという。3日も小戦闘が続いが、4日に至りイギリス艦隊は、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去、横浜に帰った。英艦のアームストロング砲は、薩藩の旧式砲の4倍の射程距離をもち、集成館、鋳銭所や城下町の1割を焼亡した。死傷者は、イギリス側が戦死13、負傷50名に及んだが、薩藩側は戦死5、負傷十数名にすぎなかった。しかし薩藩側ではイギリス海軍の威力を認識し無謀な攘夷(じょうい)を反省する機運が生まれた。講和は、薩藩が大久保利通(としみち)・重野安繹(しげのやすつぐ)らを交渉委員にたて、償金を幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で成約した。以後、薩英関係は急速に緊密となり、薩藩のイギリス留学生派遣なども実現、討幕運動における同藩の地位を高めることとなった。[原口 泉]」】

一 稲毛吉太が某氏に送った書状、次の通り。

(上略)老公(容堂公のこと)は最近すこぶる活発に動いておられる。今月四日、邸内で角力を催されるというので拝見しに行った。(老公は)それをご覧になった後、二条城に登城された。玄関より馬に乗って上下十騎ばかりで都大路を行かれ、まことにお盛んなことで、恐悦している。このことはもうとっくにご承知と思う。大樹公(将軍家茂のこと)は右大臣に叙せられ、薩三郎君(島津久光のこと)は近衛少将に叙せられ、そのうえ黄金二十枚とか頂戴したとのこと。京都の情勢は薩摩藩(※原文は○に十字の記号)に制圧されているように見える。その子細はというと、勸修院宮さま(山階宮晃親王のこと。注⑤)という徳名(名声。もしくは徳が高いという評判)のないお方を還俗させ、かの高崎猪太郎(注➅)をその諸大夫(注⑦)にし、かつまた、京都の薩州新屋敷を江戸同様に立派に完成させたうえ、このたびまた黒谷(現在の京都市左京区黒谷町か)で莫大な建築工事を実施している。このため材木などがことのほか高価になり、洛中洛外を往来する武家の半ばは薩州人で、ほとんど天下をのみ込むような勢いで、正義の諸藩は猜疑心に駆られ、長州藩といえば仇敵のようで、まことに嘆かわしい。正義攘夷の論は地を払い、さてまた先日、越前公より届いた書簡を老公が一見された後、火に入れよと命じられたのを、お付きの坊主がちらと拝見したところ、「上様(将軍)の持論が朝議と符合していて天下の歓事(喜ばしいこと)愉快とはこのことです。宇和島(伊達宗城侯)にも早速手紙を出しました」云々とのこと、貴兄はどうお考えか、七卿の帰京、長州侯の入京、攘夷の策論は入り乱れている云々。

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Pluによると、山階宮晃親王(やましなのみや-あきらしんのう1816-1898)は「江戸後期-明治時代,伏見宮邦家親王の第1王子。文化13年2月2日生まれ。文政6年親王となり,翌年山科(京都府)勧修寺(かじゅうじ)で得度。元治(げんじ)元年勅命により還俗(げんぞく)し,山階宮家を創設した。議定,外国事務総督をつとめた。明治31年2月17日死去。83歳。法名は済範。」】

【注➅。朝日日本歴史人物事典によると、高崎五六(たかさき・ごろく。没年:明治29.5.6(1896)生年:天保7.2.19(1836.4.4))は「幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官僚。父は善兵衛。大獄最中の安政6(1859)年,岩下方平らと井伊幕政の打倒を画策,江戸,水戸,京を奔走するが挫折,帰藩。同年11月,薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加。文久年間(1861~64)島津久光の命を受け江戸,京に活動。第1次長州征討下,西郷隆盛の指示を受け長州(萩)藩との折衝に当たる。慶応3(1867)年土佐藩の大政奉還論に同調し,武力討幕方針の藩政府主流から隔たり,ために維新後の官歴は必ずしも華やかではなかった。明治4(1871)年置賜県参事,教部省御用掛,岡山県令,参事院議官,元老院議官,東京府知事を歴任。(井上勲)」】

【注⑦。デジタル大辞泉によると、諸大夫(しょ‐だいぶ)は「1 四位または五位の位階を授けられた者の総称。2 親王・摂政・関白・大臣家などの家司けいしに補せられた者で、四位・五位まで昇進した地下人じげにん。3 武家で、五位相当の者。」】

[参考]

一 二月十一日、幕府より小納戸頭取の朝倉播磨守が使者として送られ、次の通り相違なく下された。

一 火鉢 一対

一 鴨 青龍詰め

右は松平容堂へ

一 大比鉢 一対

一 元信筆掛物

一 鯉 十本[長入?]

右は島津大隅守(島津久光のこと)へ

[参考]

一 二月十四日、将軍が(天子に)勅答書を差し上げる。

先月二十七日、拝見させていただきました宸翰(天子の手紙)の叡旨(天子の意向)はご即位以来、皇国の災禍をことごとく御(おん)自らのせいだとされる勅諭であり、まことにもって恐懼感泣の至りであります。よくよく幕府の従前の過失を反省しますと、罪の大きさに恐縮いたします。臣家茂は不肖の身をもっていたずらに重任を辱め、綱紀は振るわず、内外の禍乱は続き、年々宸襟を悩ませましただけでなく、昨春上洛の際、攘夷の勅命を受けたにもかかわらず、実際にはついに行われがたく、横浜鎖港の談判すらいまだ成功の期限もはかりがたい折から、再度のご命令により上洛いたしました上は、極めて逆鱗に触れ、厳しい譴責を受けることはもとより覚悟しておりましたところ、意外にも宸嘗(天子の褒美)をお受けしたのみならず、至仁の恩諭をもって、臣家茂ならびに大小名を赤子のように親愛くだされ、将来を勧誡(善を勧め、悪を戒めること=精選版日本国語大辞典)していただいたことは、臣家茂の一身にとって深大な恩恵であり、まことにもって奉答しようもございません。これ以後、万事の旧弊を改め、諸侯と兄弟の思いをなし、心を合わせて臣下の道を尽くし、つとめて太平因循の冗費を省き、武備を厳重にし、内政を整え、生民をよみがえらせ、大阪湾の防禦はもちろん、諸国の兵備を充実させ、外国勢の軽蔑を絶ち、砲艦を厳重に整備し、ついに「膺懲(悪者を懲らしめること)の大典」を振起し、国威を海外に輝かせるための条件などをよくよく励して、恐れながら(天子の)胸の内を安んじたいと思っております。しかしながら、膺懲のために暴挙に走らぬようにという叡慮につきましては堅く遵奉し、必勝の大策を立てるようにしたいと存じます。もっとも横浜鎖港の件はすでに外国へも使節を派遣しましたので、いくぶんかの成功を収めたいと思っておりますが、外国の内情ははかりがたいので、沿海の武備についてはますます奮発勉励し、武臣の職掌を固守し、大計大議(国の命運にかかわる重大事項)はことごとく国是を定め、宸断(天子の判断)を仰ぎ、皇国の衰運を挽回し、外は慢夷(驕った外国人)の胆をのみ、内は生霊を保ち、叡慮を安んじて、上は皇神の霊に報い、下は祖先の遺志を継ぎたいと思っています。これは即ち臣家茂の至誠懇祷(誠意を尽くした懇ろな祈祷)であります。これによりこの件はお請けいたします。臣家茂、誠恐誠惶(心から恐縮し畏敬すること=精選版日本国語大辞典)、頓首謹言。

二月十四日 臣家茂

[参考]

一 二月十五日、容堂公が将軍休息所に召し出され、茶菓を下された旨を拝承した。

一 同十七日、次の通り。

佐々木三四郞

右の者は、従来の役をそのままで、当分軍備御用取扱を仰せつけられていたが、右の取扱は免除する。右の通り仰せつけられたので、この旨を申し聞かせるように。以上

文久四年二月十七日

五藤内蔵之助

柴田備後

深尾弘人

山内主馬

野本源之助殿

別紙の通りなので、その心得をお請けして、肩衣を着て、御用番の内蔵之助殿のところへ出頭するよう。以上。

文久四年二月十七日[以下略]

[参考]

一 同二十一日、勅諭・勅書および勅答の三通を各藩に廻達した。

別紙二通、昨日二十日、二条城において、一席ひとりずつの呼び出しで、渡されたので心得として申し上げる。

二月二十一日 松平大蔵大輔(松平春嶽)

松平肥後守さま(京都守護職・松平容保)

島津大隅守さま(島津久光)

松平伊予守さま(宇和島藩主・伊達宗城)

松平容堂さま

追って文書を読んだうえで(他の諸侯に)廻達くださるように。以上。

横浜鎖港の件は精々成功するよう、かつまた諸国の兵備を充実させ、外国勢が軽蔑しているとのことが天子のお耳に入っているので、このうえは国を挙げての守衛が緊要のことである。さしあたり大阪湾の要港が急務なので、迅速にその功績を挙げ、人心を安堵させ、数年たたぬうちに征夷を実行し、天子の御心を安んじるようお沙汰があった。

二月

さる十四日の勅答の内容で横浜鎖港の一件につき、お請けぶりが不分明(つまり幕府が横浜鎖港を請け負ったのかどうかはっきりしないということか?)のため、一橋中納言(徳川慶喜のこと)を訊問されたところ、なるほど鎖港の成功は是非とも奏上すべきなので、さらに文書で言上することになった。なおまた別紙で申し付けたとおり、勉励するようにとのお沙汰があった。

一 さる十四日に差し上げた勅答書のなかで横浜鎖港の一件はお請けぶりが不分明だと思われたとのこと。慶喜へ内々にお沙汰があったと承知致しました。しかしながら、いよいよ鎖港する見込みで、すでに外国へ使節を派遣たしました。是非とも成功するつもりでございます。もっとも再度の聖諭を受け、無謀の攘夷をせぬようにという趣旨は謹んで承りました。ついてはいよいよもって沿海の武備を充実するようつとめる所存です。これによりこの段を申し上げます。以上。

二月二十一日

臣家茂

[参考]

一 二月二十二日、これより先、老公(容堂)が病によりお暇を乞うたが朝廷は許さず、ここに至って再びお暇を乞うた。この日の朝議はこれを許し、(老公は)参與を辞めた。

案ずるに、老公が参與を命ぜられたことは本藩の記録に見えなかった。明治前記に、本年一橋中納言・若松・福井・高知・宇和島の諸侯に参與を命じ、正月十三日、島津三郎を従四位下少将に叙任し、参與を命じたとある。おそらく参與とは朝廷の政治に参与することであって、必ずしも参與という職名を設けられたのではないようだ。[藩政録]

(続。今回は別の急ぎの原稿があったため、作業があまり進みませんでした。申し訳ありません。ただ、勅答書などを訳していくと、当時の天皇と将軍の関係性が具体的に見えてきて、面白いなと感じました。)