わき道をゆく第229回 現代語訳・保古飛呂比 その53

▼バックナンバー 一覧 2024 年 2 月 12 日 魚住 昭

一 (文久四年)二月二十三日、次の通り。

今年正月二日、病死しました。

馬廻り 佐々木三六

御蔵米知行百二十石

うち五十石が御役領[郡奉行・普請奉行そのほか付属の場所を仰せつけられる]

総領 佐々木三四郎

三四郎惣領 同先一郎[生年三歳]

三六次男 同軍八郎[生年九歳]

右の三六は今年の正月二日に病死し、その日から定式の服忌に入り、昨日の二十二日で五十日が満ち、今日より忌明けになった。

文久四年二月二十三日 野本源之助[両判]

奉行所御中

右の前文の通りに書いて、忌明けより四、五日前、組頭あてに差し出すはずのところ、不案内のため、大いに遅れ、ようやく二十三日夕方、組頭より御用番の奉行の五藤内蔵助殿に差し出しましたので、一日延引となりました。

一 二月二十四日、次の通り仰せつけられる。

佐々木三四郎殿

右の者、父の跡目を相違なく下しおかれ、従来の役目・役領知、かつ付属の役場どもそのまま仰せつけられる旨をお命じになった。

文久四年二月二十四日

右の通り、御用番の奉行の五藤内蔵助殿のお宅で仰せつけられた。

一 同二十六日、次の通り。

御自分のこと、そのまま一明組の野本源之助支配下に属するので、「其御心得御組頭エ御達可有之候」(※意味がわかりづらいので原文引用)。以上。

文久四年二月二十六日

大目付 若尾直馬

同 小八木五兵衛

同 高屋友右衛門

一 同二十六日、次の通り。

佐々木三四郞

右の者、父の跡目を相違なく下しおかれ、従来の役目・役領知ともそのまま仰せつけられる。御礼は来月一日、(太守さまが)お請けになるので、四ツ時(午前十時ごろ)三ノ丸へ罷り出るよう。もっとも進物は御台所に用意してある旨を「旁被申聞」(※意味がわかりにくいので原文引用)、もし故障などがあって、出勤できないときは、早速届け出るように。以上。

文久四年二月二十六日

御奉行 五藤内蔵助

同 柴田備後

同 深尾弘人

右の通りである云々。

文久四年二月二十六日

佐々木三四郞どの

一 二月二十七日、幕府より明石[須田か]淡路守がお使いにて容堂公へ、お召しの小袴・交肴(まぜざかな=祝事や進物などに贈る数種類の鮮魚=精選版日本国語大辞典)を下されたと伺った。翌二十八日、老公が京都を発たれた。

[参考]

一 同下旬、聞いたところでは次の通り。

さる二月十五日、松平肥後守[会津の容保]が軍事総裁を仰せつけられる。京都守護職は免ぜられた。

松平春嶽に京都守護職を仰せつけられたとのこと。右同日、二条城のなかで議論が錯綜して、結論が出ないことがあったという風聞。

右同日、在京の一万石以上以下の面々服紗小袖・麻上下着用、四ツ時に二条城に罷り出るようかねてからのお達しがあった。九ツ時すぎ、(将軍が?)黒書院に出て、諸大名が召し出され云々とあった。いまだその次第が分からず。

一 同月、常野が不穏の形勢だという。[詳しくは附録にあり]

三月

一 この月朔日、元治と改元。

一 同四日、ご隠居様が到着。例の道筋に罷り出る。

一 同九日、二番目の妹の於太尾が久徳克兵衛の妻になるとの縁組み願いを済ませた。

妹のおまさは宮崎竹五郎が大坂で一昨年病死したので、死別願いを出していたが、それが聞き届けられた。

一 同十五日、山内壱岐殿が近習家老見習いを仰せつけられる。

[参考]

一 同二十二日、幕府より、島津大隅守(島津久光)へ鞍置馬[陣ケ森]が下される。

[参考]

一 この月、我が藩が次の通り命じられた。

長州の多人数が伏見山崎あたりその他の諸所に屯集し、次々と入京。容易ならざる挙動にも及ぶやもしれぬため、急ぎ人数を引き連れ、警衛のため上京されるようにとのお沙汰なので早々に国許にその旨を伝えられたい。

右について太守さまより次の書面を幕府に差し出された。

京都の守衛につきましては、精選の士を配置するよう、昨春、学習院において命じられましたが、先年、浪華表(大坂)の警固の台命(幕府の命令)を受け、陣営を新築し、兵員を若干配備いたしました。しかしながら、私の領国は毎々申し上げます通り、海浜がすこぶる広く、国中の人数を尽くしても、充実の備えは難しいほどの地勢であります。大阪湾の要港はことに京都の喉元の地にあたり、わずかの人数をもって備えるのは、名はあっても実なきことと、従来から深く心を痛めておりました。そうしたところ京都において前述のお沙汰を受け、私の分際で京都・大坂両端の警衛、ことに精選の士を配置することはどうしても難しく、よって同三月、右の両端のうち、しかるべき場所を定めて命じられますよう歎願しましたところ、いまだ何らのお沙汰もいただけないなか、八月十八日に、皇居で思いがけぬ変事が起きました。その際、厄介(注①)の兵之助が勅命を受け、かねて命じられていた禁門の守衛をしまして、同月の晦日に浪華表の人数を引きあげ、さらに厳重に京都を守衛し、浪華表には別に国許より人数を差し出すよう松平肥後守(京都守護職の松平容保)よりお沙汰があったので、すぐさま右の人数を残らず引きあげ、清和院の御門の四条表の守衛を仰せつけられ、今もって勤めておりますが、前件のように、京都・大坂の総勢をみな京都に召し置かれ、そのうえ浪華には別の人数を配置するよう命じられましては、国内は空虚になり、たちまち人力財用が疲弊してたまらず、もし外寇(外国勢による侵略)が出来したとき防禦する術策を立てることが難しいと憂慮し、恐れを顧みず、同九月に再度のお願いをいたしましたところ、このたび重大な宸翰(天皇の書簡)の写しを拝見しまして、諸大名の従来の労苦を思いやられ、武備の疎略の罪を責めることなく、今より一新の功を立てるようにとの聖旨、まことにもって心に刻まれ、感嘆しました。何とぞ、叡慮を遵奉され、勅答の趣意を厚く引き受けられたいという念願ですが、一昨年来、私ども父子は勅命・台命を受け、東西に奔走し、かつ続いて兵之助と交代で長らく京都に滞在したため、失費が多く、最近にいたり国力が不足し、万一緩急あるとき、やむをえずの不覚があるのではないかと憂慮しています。何とぞ前に願いました筋をお聞き届きいただき、慈恵あるご評議をひたすら切望しております。今般江戸表において、右の願い書をもって、皇居が沈静化するまで、いかようにもやりくりをして、大阪湾の警衛が成り立つようにとの内容をもって、差し下しを仰せつけられ、再度の厳命はもとより謹んでお受けしますが、前述しましたようにやむを得ぬ事情がありますので、このうえ再三の歎願を差し出しましたことは恐惶のいたりでありますが、まことによんどころなき次第、憐愍を加えていただき、いましばらく浪華表の守衛任務の免除を仰せつけられ、京都だけの守衛任務にしていただければ、八方手を尽くして国力を養い、後日、ひときわの忠節を励みたい思いでありますので、前述のお願いを厚く諒察いただき、何分にもご容赦のご評議を仰せつけられたく、伏してお願いいたします。恐惶頓首。

元治元年三月

松平土佐守

【注①。精選版日本国語大辞典によると、厄介は「江戸時代、一家の当主の傍系親でその扶助を受ける者。生家に寄食して相続者に養われる次男、三男など」】

四月

[参考]

一 この月七日、松平肥後守が京都守護職に再任された。松平春嶽公は願いによって(京都守護職)御免を仰せつけられたとのこと。

一 同十八日、容堂公の名代の石川左内殿が二条城へ登城したところ、容堂公が国事に格別尽力されたので、従四位上少将へ推挙することを御所へ申し上げたところ、その通りに宣下する旨を仰った。

右の内容を拝承した。

高行が言う。七月十六日、江戸表より知らせ云々とあり。京都で右の十六日の分は、江戸において六月晦日とあり。

[参考]

一 四月二十日、朝廷より我が藩に次の通りお沙汰があった。

幕府は、内は皇国を治安せしめ、外は夷狄を征伐すべき職掌であるところ、泰平の世が打ち続き、上下が遊惰に流れ、外夷が驕りたかぶり、万民が不安になり、ついに今日の形勢ともなったので、癸丑(嘉永五年。1853年)以来、深く宸襟を悩まされ、これまで種々命じられたこともあったが、このたび大樹(将軍)が上洛し、列藩より国是の建議もあったので、別段の聖慮をもって、先だって幕府に一切委任されたので、以来政令が一途に出て、人心に疑惑が生じないようにと思し召された。ついては別紙の通り心得、必ず職掌を果たせるようにすべきこと。ただし国家の大政大議は奏聞を遂げるべきこと。

[別紙]

一 横浜の件は、是非とも鎖港の成功を奏上すべきこと。

ただし、先だって仰られたとおり、無謀の攘夷はもちろんいたすまじきこと。

一 海岸防禦の件は、急務を専一に心得、実備すべきこと。

一 長州に対する処置の件は、藤原実美(三条実美)以下脱走の面々、ならびに宰相の暴臣にいたるまで、一切朝廷よりお指図はされないので、「御委任ノ廉ヲ以」(※委任された権限内で、という意味か?)十分見込みの通り処置すべきこと。

ただし先だって仰った内容の通り処置すべきこと。

一 最近、必要の諸品が高価なので、万民が難渋を忍びない状況なので早々に勘弁し、人心が折り合う処置をすべきこと。

[参考]

一 同二十九日、将軍が(天皇に)奏して

神宮の供米を献じ、

聖誕(天子の誕生日)に刑戮(死刑)を停止し、

皇子、皇女の僧尼をやめ、将軍が襲職(職務を受け継ぐこと)に入朝するなど、十八 條を定めた。

一 この月、小高坂村西町の池庫太(注②。池蔵太のこと)の屋敷を求め、転宅した。

庫太は勤王家の過激派で、先年脱走したため、右の家屋敷を望む人がないので、少々値もやすく、八銭三貫文で買い入れた。[ただし八銭は一匁八十文である]これまで借りていた越前町の家屋は、いたって手狭で、御用向きに差し支えた。郡奉行をつとめていたときは、水害や火災などの際、郡と書いた幟(のぼり)を持たせるため、玄関に備え置いていたのだが、その柄が二間ばかりの長さがあって、横にすると、隣の屋敷へ「柄ノ石」(?)が突き出すくらいだった。また郡中から非常の注進があったとき、外輪長屋(※本宅の外側の長屋か?)と間違い、郷中の者が夜中には直に敷居まで入り込むことがたびたびあった。郡奉行の月番のときは火災または殺傷人等の届け出がたえずあり、右のようなありさまで何分不都合が少なくなかった。もっとも西町で求めた家屋も手狭だが、何とか用には足りる。屋敷の建坪は三十坪ばかり。この家の代金は神田村の示野壽太郎から借りた。

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、池内蔵太(いけ・くらた。没年:慶応2.5.2(1866.6.14)生年:天保12(1841))は「幕末の土佐(高知)藩士,尊攘活動家。名は定勝,通称内蔵太,変名は細川左馬之助,細江徳太郎。高知城下に生まれる。文久1(1861)年江戸に出て安井息軒に入門,同郷の武市瑞山らと親交し,土佐勤王党結成に参画。3年,因循な藩政に憤慨し脱藩,長州に走り下関外国船砲撃,大和天誅組の挙兵に参加,元治1(1864)年の長州藩の京都進軍に従軍奮闘,その後は坂本竜馬の海援隊に加わり薩長提携の周旋に関与,慶応2(1866)年5月,長崎から鹿児島へ航海中暴風雨で遭難死した。同輩中島信行は,坂本遭難ののちまで存命したならば人望は彼に集まり海援隊の首領になる可能性は高かった,と語った。」】

五月

[参考]

一 この月十六日、将軍が大坂を発ち、海路江戸に帰ったとのこと。

一 同月二十五日、次の通り。

佐々木三四郞

右の者、郡奉行・普請奉行加役かつ附屬の役場ともにお役御免。もちろん(これまでの)役領知(=役職手当て)はなくなり、格式も御小姓組に差し戻される。

右の通りであるので、この旨を通知する。以上。

元治元年五月二十五日

御奉行 五藤内蔵之助

同 深尾弘人

同 柴田備後

同 山内主馬

右の通りであるので、そのつもりで、肩衣を着用のうえ、御用番の内蔵之助殿のもとに出頭するよう。以上。

元治元年五月二十五日 野本源之助

佐々木三四郞殿

そもそも郡奉行を解任されたのは、いろいろ事情はあるけれども、職務上には寛永通銭の騰貴のことである。そのわけは、数百年来、同銭は品位の善し悪しにかかわらず、一文として通用していたが、近来になって品位によって高下を生じ、大坂等では耳白銭(注③)・文銭(注④)[耳白・端白(つまじろ。端が白く縁取られていること)は輪が見え、文銭は大佛から鋳造した。ヰの形の裏に文の字がある]は四文または二文と値が高くなったとのこと。裏に元の字がある銭は(値が)小さく賤しい。もっともその類いの銭もほかにあり、この銭はやはり一文として通用するとのこと。畢竟、銅質の量の軽重による。

右の通りなので、町人・百姓でも、金満家は耳白・文銭等を蓄えておいて、大坂へ出して利を得るので、国許では一文銭がすこぶる不自由となっている。よって次第に日用の差し支えを生じ、苦情が出るようになったので、藩政府ではその対策を詮議するようになった。自分は自然にまかせ、大坂等と同様、耳白・文銭は値を上げるよりほか仕方がないと申し立てたけれども、採用されず、遂に富豪の銭を囲う家々を捜索し、厳罰に処すべきとの結論に達し、まず第一に市中より始めようと、町奉行の乾治左衛門へお達しがあったところ、乾は俗人で何の議論もなく、直ちにそれをお受けして、何分郷浦一様でなくては不都合なので、郡奉行へ早くお達しのうえ、示し合わせて施行すべき旨を申し出た。よって御奉行(郡奉行の間違いか)へも右同様のお達しがあったけれどもお受けせず、文書をもってお受けできない理由を申し立てた。その書面の大意は次の通り。

近来、大坂等で、寛永通貨のうち品位がいい分は二文または四文として通用するとのことで、市中および八ケ浦(土佐の八つの海浜?)で富豪の者どもが囲い込み、大坂表に輸出するので、国中不自由となり、商売上はもちろん、誰もが苦情を申し述べています。これは畢竟、奸商どもが私利をむさぼることから起こったことなので、囲い占めをしないようお触れを出されたが、守られませんでした。よってこのたび市中、郷浦まで、囲い込みをしている疑念のある面々のところに、係官がいきなり踏み込み、家蔵を捜索し、もし囲い込みをしていれば厳罰に処すという趣意の内達がありました。すでに町奉行の乾治左衛門よりも示し合わせがありましたので、早速その着手にかかるべきところ、右のような通用銭の品位によって高下を生じるのは自然の勢いであって、これはまったく定価をあらわしているにすぎずません。幕府においてお勝手向きが不如意のときは、金銀貨の改鋳があり、寛永年間には最も甚だしく金銀の品位を落としたとのこと。よって諸品がその度々に高値となります。物品の高値ではなく、すなわち金銀の品位が悪くて価値を落としたことによるという先哲の確かな説があります。しかしながら、寛永通貨も耳白・文銭の時代は大いに品位がよかったが、裏元(裏に元の字があるもの)そのほか裏元に類する分ははなはだ)悪く、決して耳白・文銭と同類ではありません。幕府でも金銀貨の不良品のときは、たちまち諸物品に影響を来すということは太宰(太宰春台。注⑤)の経済録等に書いてあります。これまでは銭の品位によらず、一文は一文に通用し、誰も怪しみませんでした。甚だしいのは、仙台通貨(仙台通宝。注➅)のような鉄銭でも、数珠つなぎにした状態ならやはり一文に通用するのはかえって道理に背くように今更思います。前件の通り、それぞれの品位によって値の高下を生じるのは当然のことです。いったい幕府の威権が強盛なときは「理ノ当否ノ物モナク」(?)、自然の慣習で行われますが、近来幕府の威権もようやく弛み、かつ人知も進む時勢になっては、右のようなことはたとえ幕府の命令をもって圧倒しても行われがたく、いわんや藩政においてはいかんとも致し方ないと存じます。であるのに、強いて家蔵を探し、そのうえ厳罰等を命じられれば、まことに暴政となります。ここに同じ物品がありまして、その金銀等の量目の多少により、自然と値が高下するのは無論のことで、先日来試しに各銭を集め、量をはかったところ、耳白が第一、文銭がその次で、裏元等はもっとも量目が劣りました。よって愚考しますところ、何分その価値にしたがい、あるいは二文または三文、四文と区別を立てるようご詮議を仰せつけられたい。近来、銭の実価を顕すのには驚きます。その訳は銭は死物なので階級等を破って不平を申し出るのは道理に背くと思っていたところ、あに図らんや、死物の銅銭より一番に不平を言い出し、下品の銭とは同席を嫌うようになりました。近日必ず「治物(?)」である人間も、門地等のために屈しないようになり、速やかに品位によって値を高くすることは最も肝要と存じますので、前件のお達しの内容をお受けすることは困難です云々。

右は、当時両役場[参政府・大監察]には、小八木五兵衛・寺田左右馬・若尾直馬・板坂市右衛門等の門地家が多くいて、要路を占めていて、とかく階級門地を鼻にかけているので、右の銭の値の件によって、門地が頼りにならず、なおかつ一藩の政府にあって天下の形勢はすでに死物の銭までに及び、幕府の威権が衰えたのを諷したのだが、小八木等は大いに不満の様子で、この説をもっぱら主張した人は誰なのか、また書面は誰が書いたのかと聞かれた。小八木らは、自分(高行)が下役または他の軽格の勤王家と計り、その説を差し出したのではという疑念を持っていたが、これはまったく自分の考えであって、拙い文章ながら、筆も自分自身がとったものであると答え、帰ってきた。下役たちに「今日はこんなことを言ってきた。追々は庄屋や老(おとな)等に「耳白・文銭出来可申」(?)、我々のような仙台通貨は難しくなる言って、一同大いに笑った。これらはこのたび免職された原因の一つと考える。

また免職に関連した風聞でこういうこともあった。昨年勤王家が牢屋入りし、追々吟味が進むにつれ嫌疑を受ける人も多くなり、牢屋が不足するようになったので、新築された。近いうちに、佐々木などもその仲間入りすると(いう話が)、家内らの耳に入るようになり、家内らは大いに心配した。これはとりとめのない話で、当今の風聞を後日のために記しておくものである。

【注③。精選版 日本国語大辞典によると、耳白銭(みみじろせん)は「 江戸時代、正徳四年(一七一四)に江戸亀戸で鋳造された寛永通宝銭。銭貨の外輪が幅広いことの「みみひろ」の変化した語とする説と、外輪が白いところからいうとする説とがある。なお寛文八年(一六六八)鋳造の寛永銭をこれにあてる説もあったが、今日では支持されていない。耳白。」】

【注④。精選版 日本国語大辞典によると、文銭(ぶん‐せん)は「江戸時代、寛文八年(一六六八)から発行された寛永通宝銭の異称。裏面上部に「文」の字があるところからの称。「文」の字と表の銭文の一字「寛」の字と合わせて鋳造年次の「寛文」を表わしている。〔鋳銭考(古事類苑・泉貨一)〕」】

【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、太宰春台(だざいしゅんだい。1680―1747)は「江戸中期の儒者で荻生徂徠(おぎゅうそらい)の弟子。名は純(じゅん)、字(あざな)は徳夫、通称を弥右衛門といい、春台と号した。またその邸宅を紫芝園(ししえん)と号した。信州飯田(いいだ)(長野県飯田市)に生まれたが、9歳のとき江戸に移住。15歳のとき但馬(たじま)(兵庫県)の出石(いずし)藩に仕えたが、数年にして致仕し、京都、大坂、丹波(たんば)を転々とすること10年ののち、1711年(正徳1)ふたたび江戸に戻り、荻生徂徠と対面する機会を得た。これを機に、それまで疑いを抱いた朱子学を捨て、徂徠の門下となる。同年下総(しもうさ)国生実(おいみ)藩(千葉市)に出仕したが、今度も病を理由に5年後に致仕し、以後は官途につかなかった。延享(えんきょう)4年5月晦日(みそか)に没し、門人たちによって江戸・谷中(やなか)天眼寺(てんげんじ)に葬られた。服部南郭(はっとりなんかく)が徂徠学の私的側面を継承し詩文派の中心となったのに対して、春台は徂徠学の公的側面を継承し経世論に秀でた。彼は、徂徠の自然経済機構に立脚した経世論を原則論としては認めつつも、現実が商品経済原理によって動いている以上、これに即応した藩専売制を有効な現実策として、富国強兵を積極的に図るべきだと説き、その理論的裏づけとして法家思想にも同調を示した。これらの春台の経世思想は、海保青陵(かいほせいりょう)に発展的に継承されている。倫理思想の面においては、宋学(そうがく)の心法論を否定し、心の自己統御能力をいっさい認めず、外的規範としての「礼」を重視し、これによって心を醇化(じゅんか)していくべきことを主張した。著書に『経済録』『弁道書』(1735)『聖学問答』(1736)『論語古訓』(1739)『論語古訓外伝』(1745)『老子特解』(1747)『紫芝園稿』(1752)など多数がある。[小島康敬 2016年6月20日]」】

【注➅。精選版 日本国語大辞典によると、仙台通宝(せんだい‐つうほう)は「 江戸時代、天明四年(一七八四)、陸前仙台で領内通用のため幕府の許可を得て鋳造発行した鉄銭。撫角(なでかく)型方孔のもので、全国通用の銭貨と外観を変えた。はじめこの仙台通宝は「五文通用」と定められたが、世評きわめて悪く、流通は円滑にゆかず、価値が低下したばかりでなく、ひそかに領外へ流出した。仙台銭。」】

(続。佐佐木高行の議論の率直さに驚きました。こんなにストレートな批判が公然と行われたら、身分制度が崩壊するのも当然だろうなと思いました。急ぎの原稿があって更新が少し遅れました。ご容赦を)