わき道をゆく第230回 現代語訳・保古飛呂比 その54

▼バックナンバー 一覧 2024 年 2 月 27 日 魚住 昭

一 五月三十日、次の通り。

佐々木三四郞

右の者は我らの組に入り、「御自分支配」(?)の坐列は東野楠猪の次へ[中略か]

右の通り云々。

元治元年五月三十日

柴田備後

加用記内殿

別紙の通り云々。

元治元年五月三十日

加用記内

佐々木三四郞殿

一 同日、次の通り。

佐々木三四郞

右の者、「御軍備ニ付」、御詮議をもって、当今御馬廻り組に入れられ、諸々の勤め事を御馬廻り同様にするよう仰せつけられた。右の通り、(太守さまが)命じられたので、その旨を申し聞かせる。以上。

元治元年五月三十日

柴田備後

加用記内殿

別紙の通り云々。

元治元年五月三十日

加用記内

佐佐木三四郞殿

[参考]

一 この月、老公(容堂)が屋敷を散田に新築されるため、お取り上げになった屋敷は次の通り。

馬廻り 井上覚之進

御相伴格医師 結城立道

山内下総殿付きの與力 服部與十郎

同 本山左近右衛門

同 立野某

同 門田善六

同 壬生志摩之助

ただし、右の替わりに上り屋敷(狩り場の休憩所のことか?)等を下さる。

六月

一 この月二日、次の通り。

佐々木三四郞

そのほうは当分一明組の野本源之助支配に入る。もっとも、組付き「御屋敷御門御番」に入るので、その旨を前後の組頭へもお達しになる。以上。

元治元年六月二日

大目付 小八木五兵衛

同 板垣市右衛門

同 若尾直馬

佐佐木三四郞殿

一 六月二日、太守さまが九ツ時にお供の行列とともに浦戸を通り、蒸気船で大坂へ向かわれ、同十日、登城されるとのこと。

「[頭註朱書]この一項は慶応元年である。誤ってここに入れられている。校訂者が記す」

[参考]

一 同十八日着の宮地雄蔵便に、京都より徳永忠助の手紙。

六月五日の夜四つ時(午後十時ごろ)前、百人ばかりが手槍を携え、六條様の御門を下へ通行したということを御本殿から知らせてきた。当夜、何か事件が起きるかもしれないので用心するようにとのことだったのでそのつもりでいましたところ、御所の近辺では変わったことはありませんでした。翌六日の夜、守衛の者が御本殿から来て、三条河原町辺りで騒々しいことがあるとのことだったので、中納言さまより河原町屋敷へ「参事ノ譯聞糺参候様」(?)にとのことにつき、すぐさま私が参ったところ、河原町二条下ル隅の門前を少し上るところで、十八、九歳くらいの浪士が切られていました。この人は土佐の人間という風説もあるとのこと。ここより少し下って長州屋敷前におびただしい血が流れていました。また少し下って加賀屋敷の門前を下ったところに、同じくおびただしい血が流れていました。河原町三条東へ入ル北側の「偶[ママ]計屋」(?)の庭畳におびただしい血がありました。これは浪人一人が逃げ込んだのを右の家で殺害したとのこと。同町の半丁ばかり北側の池田屋という宿屋で浪人六人が切られたとのこと。戸が開いていないので見届けることができませんでした。三条小橋本に後ろ鉢巻の数十人が槍を引っさげてたむろしており、これは伊勢の桑名の手勢。裏に数十人棒をもってたむろしており、これは一橋の手勢。その次に数十人が手槍を持っており、これは壬生浪人。その次に数十人が槍と鉄砲をもっており、これは会津の手勢。右の場所を見物して、小目付の岡剛蔵の下宿の門で岡氏へお目にかかりたいとのことで、家来が門が開くと、甲冑姿で主従と思われる人が来たので面会したところ、桑名の藩中で岡が聞いた噂では、浪人が参集しているので、一橋・会津・桑名三藩へ召し捕るよう命令が下った。土佐の植松某は亡命し、川原町二条より三条下ル辺りに止宿しているが、早足で抜け出したとのこと。何かその筋のことがお耳に入っていないかと尋ねられました。その筋は一向に知らないと答え、すぐに帰り云々。同七日夜七ツ(午後四時ごろ)すぎ、蛸薬師上ルところより出火、八十軒ばかり焼失、両夜とも騒がしいことでありました云々。

六月六日

【注①。改訂新版 世界大百科事典によると、池田屋事件 (いけだやじけん)は「1864年(元治1)6月,京都三条小橋の旅館池田屋でおこった新撰組による尊攘派襲撃事件。文久3年(1863)8月18日の政変後の京都は,公武合体派の勢力下におかれ尊攘派志士の活動は圧迫されていた。勢力挽回を意図した尊攘派は,熊本藩の宮部鼎蔵らが中心となり,中川宮(朝彦親王),一橋慶喜,京都守護職松平容保の暗殺を企てた。志士たちは京都に潜入して画策するが,ひそかに武器を集めていた近江出身の古高俊太郎が新撰組に捕らえられるなど,きびしい情勢が切迫していた。翌64年6月5日,吉田稔麿,北添佶摩,宮部鼎蔵ら長州,土佐,熊本などの藩士20余人が池田屋に集まり蜂起の件を謀議中,近藤勇ら新撰組数十人が襲い激しい闘いとなった。尊攘派志士は,宮部,北添,吉田らの闘死をはじめとして,ほとんどが捕殺された。この事件に憤激した長州藩は,激派を中心にして挙兵上京することになり,同年7月に禁門の変をひきおこした。執筆者:高木 俊輔」】

[参考]

一 六月十一日、

口上覚え

私こと、さる十日に不慮の手疵を受け、(武士の)一分が立ち難いので、療養したうえで、半ば治癒したら、相手に対し存分に果たそうと思っておりましたが、炎暑の時節、万一不意のことがあったら、士道の本意が立たないので、恐れ多いことではありますが、自殺します。

右の内容をよろしくお取り成しくだされるよう願います。以上。

六月十一日 麻田時太郎

山田八右衛門殿

右の別紙を書き残してただいま自殺しました。右のお届けのため参上しました。

同日 森復吉郎

上略、また十日には別紙の通り一通りでない事件が起きました。その夜、「川原町ヘ惣出ニテ評議区々」(?)、いずれも一睡もしませんでした。しかるに会津侯がいろいろ手を尽くされ、医者を二度にわたって派遣され、御用を[脱字ありか]、お見舞いのお菓子等を下されました。終[ママ]会津藩の柴司と申す「此[ママ]」人が槍で突きました。年は十九歳とききました。会津侯よりご香典として白銀七枚が下されました。

一 右の事件の後、本藩(土佐藩)より十五、六人ばかり同所へ行きました。何分騒然としていましたので、このうえ新撰組に対し異議を申し立てることになれば、容易ならざる事態になるのでくれぐれも穏やかに鎮めるようにいたしたく、重役方にもそのことを伝え、十分に考慮していただくようにということになりました。

会津藩の公用人の手代木直右衛門・小室金吾がやってきました。小留守居の田村年太郎が応対し、中島小膳は外出中、(会津藩側から)乾・岡両氏のうちどちらかが応対してほしいとの申し出がありましたが、両人とも外出中で、それならば年太郎に話しておくので、その筋に委細を伝達してもらいたいと申しました。次はそのときの口上の大要です。

さて「彼ノ宅」(※どういう家だかわからない)を取り囲んだら、(土佐藩の)時太郎殿が驚き、身繕いを始めたので、(会津藩の)石塚勇吾が槍で立ち向かい、その際、時太郎殿が「怪しい者ではない」と言ったので、「勇[ママ]吾ヨ寄」(?)、時太郎殿の手を押さえたところ、(会津藩の)柴司が槍の峰を紙で包んだまま、勢い大いに速く駆け寄って、ふと時太郎へ槍の峰を突き当てたとのこと。その際、勇吾より「早まるな」と声をかけました云々。勇吾には慎みを申し付け、柴司はひとまず壬生に引き取るよう手配をしました。何分にも尊藩(土佐藩)でよろしく御評議のうえ、弊藩(会津藩)へ「御談振」(※相談とか談判とかの意味だと思われるが、たしかでないので原文引用)のこともおありでしょうから、幾重にもご相談いたしたく、まことにまことに藩士の軽はずみな振る舞いをしたことはくれぐれも恥じ入る次第、このことをよろしくお断りするよう申し付けられて参りましたと申しました。中島小膳が「出懸」(?)、会津公用人の手代木・小室が入来して、昨日昼間、同藩の廣澤富次郎が時太郎の見舞いのため「公[ママ]」会津よりお菓子・熊膽を持参云々。柴司はよくよく承知していまして、まことにこれまで肥後守(会津侯)へは容堂さまよりご懇意にしていただき、尊藩の方にはくれぐれも懇切にしていただいたのに、一人の軽挙により関係悪化してはいかにも済まぬと親類の者どもにくれぐれも頼みおき、今朝の明け方に切腹いたしました。時太郎殿にはご親類もおありでしょうから、死体を内々に見届けてくれとの細々とした演説をされたので、もはや「本文次第」(?)は及ばぬことと申し云々。

中島小膳と岡行蔵が会津侯(松平容保のこと。注②)の旅館へ挨拶に行ったときの口上の覚え。

我が藩の時太郎が不慮の手疵を負った件について、一昨夜以来、尊藩のお方々さまのご厚情をいただき、身に余るありがたき仕合わせと存じます。委細は先刻、手代木・小室の両兄へ申し渡しました通り、昨夕自殺しました。末期にいたり、くれぐれも御礼を申し上げるよう頼んでいましたので、私より御礼申し上げます。柴司殿も切腹されたとのこと、おいたわしきことに存じます。しかしながらこの件は双方に恨みがあるわけではなく、士道の名分を正したうえのことです。是非なき不運と存じ、この件につきいささかもほかに懸念すべきことはございません。これからはなおまた深くお付き合いを願いたいと深くあいさつし、かつまた柴司殿のご遺体を(時太郎の)親類の者に見せてくれとの「御手ノ足リ候[ママ]」ご口上を親類ならびに重役に申し聞かせましたところ、どちらもことの次第を承知しているので拝見するに及ばず、このうえはご配慮なく、早々に手厚く(葬儀を)営んでいただきたいと返答がありました。また同姓の柴秀次郎へ司の弔いを申し述べ、廣澤富次郎へも昨夕の挨拶を申し述べ、引き取りました。[徳永氏の書状]

【注②。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、松平容保(まつだいらかたもり(1835―1893))は「幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守(わかさのかみ)、肥後守となる。美濃国(みののくに)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建の六男に生まれ、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり、1852年(嘉永5)襲封した。公武合体論を唱え、1862年(文久2)の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、尊王攘夷(じょうい)運動が熾烈(しれつ)になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとった。1863年の八月十八日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩(さつま)藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図ったが、内部対立のために失敗した。1864年(元治1)、これを好機として禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)を起こした長州藩を、薩摩・桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と協力して条約勅許問題などで活躍したが、1867年(慶応3)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(ちゅうりく)の宣旨(せんじ)が出され、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり、東北・北越に兵を展開し、籠城(ろうじょう)のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預(ながあず)けの処分を受けた。1872年(明治5)許され、1880年には東照宮宮司となった。明治26年12月5日没。[井上勝生]」】

一 六月十七日、山内主馬殿、深尾弘人殿が御奉行御免となり、五藤内蔵助殿が御奉行職退役となった。

一 同二十一日、柴田備後殿が当分、御奉行職・御近習御用御免となった。

[参考]

一 同二十二日、

毛利淡路(注③。毛利元蕃のこと)・吉川監物(注④。吉川経幹のこと)へ尋ねることがあるので、罷り出るよう指示したので、道筋が差し支えなく通れるようにされたい。もっとも松平安芸守の家来が付き添いとして同行するはずなので、とくとその筋において、心得るよう申し渡しておくように。右の内容を芸州から大坂までの道筋に領分・知行のある面々ならびに警衛のための人員を出す予定の面々に通知するように。

添え紙

豊後守殿がお渡しになった書き付けの写しを送るので、承知されたい。

六月二十二日

小笠原攝津守

神保佐渡守

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利元蕃(もうり-もとみつ1816-1884)は「江戸後期-明治時代の大名。文化13年7月25日生まれ。毛利広鎮(ひろしげ)の7男。天保(てんぽう)8年(1837)周防(すおう)(山口県)徳山藩主毛利家9代となる。幕末には宗家の萩藩に協力し,幕長戦争などに出兵。明治4年廃藩置県にさきだち,藩地を宗家に返還して隠居した。明治17年7月22日死去。69歳。」】

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、吉川経幹(きっかわつねもと。没年:慶応3.3.20(1867.4.24)生年:文政12.9.3(1829.9.30)は「幕末の長州(萩)藩の支藩,岩国藩主。「つねもと」とも読む。通称,亀之進,監物。弘化1(1844)年家督を継ぐ。文久2(1862)年長州本藩が尊王攘夷の藩是を決めてから,藩初以来疎隔していた関係が修復され,毛利敬親の名代として上京した。文久3年の8月18日の政変により本藩が京都から追われるとき,7人の公卿を護衛して帰藩した(七卿落ち)。翌年の禁門の変後,本藩に恭順を説き,広島の幕府軍のもとに赴き,謝罪を周旋した。慶応2(1866)年の幕長戦争には,本藩と共に広島口で戦い,翌年3月に病死した。死の公表は,明治2(1869)年。<参考文献>日本史籍協会『吉川経幹周旋記』」】

(続。今回も急ぎの原稿があって、あまり訳出作業を進めることができませんでした。次回からは一層頑張りますのでご容赦を)。