わき道をゆく第231回 現代語訳・保古飛呂比 その55

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一 (元治元年)六月二十六日、我が藩にて次の通り。

口上覚え

昨今の切迫した時勢は、有限の財力をもって無窮のつとめに応じなければならず、まことに難渋の至りである。このため(太守さまの)身のまわりをはじめ諸事の厳格な節約を命じられた。なおまたそれぞれの職務において節約・備蓄の方法を協議するよう命じられたので、追々富強の基本も立つだろうが、現在、藩の財政難は当惑の至りである。ついては今年の半知・出米等(俸禄半減などの対策のこと)を命じなくてはならないほどの状況だが、太守さまが厚く思し召して、それは取りやめにされた。しかしながら、このうえはいつ費用等が重なって、やむをえず半知・出米等をすることになるかもしれず、かつ時勢の切迫はみなが承知しているので、厚く心得て、日常の暮らし方をはじめすべて冗費を省き、倹約を守り、いつ御下知があっても速やかに出陣できるよう、軍国の覚悟が肝要である。分格差略(それぞれの身分に応じた生活の規制を弛めることか)の件は、さる戌年(文久二年)に定められた通りに心得、かつ年限は差し止められたので、末々に至るまで心得違いがないよう申し聞かせよと(太守さまが)おっしゃった。

右の内容を組中に申し聞かせ、配下がいる者たちは下々に申し聞かせるよう。次に右のことを拝承した組頭中より、配下の者たちに申し聞かせるよう。以上。

六月二十六日

深尾左馬助

福岡宮内

山内下総

柴田備後

一 同二十六日、深尾弘人殿が御奉行職を、柴田備後殿が御近習御用を仰せつけられた。

一 同二十七日、御槍奉行の山川左一右衛門(注①)が解任された。どういう理由か分からず、勤王の嫌疑か。右の山川は同志なので記しおく。

【注①。文久二年四月二十三日の佐佐木高行日記(魚住訳)に「山川左一右衛門が御郡奉行となる。山川は同志であり、謹直である。平士の中では大身家だから、大いに活発に事をなす気力に乏しい。これは惜しむところである。郡奉行を勤めている間、御廻り役の島本審次郎をひそかに京都に遣わし、内密の勅命などの書類を素早く入手させた。そのあたりには最も注意していたので、佐幕家からは嫌疑を持たれた。」という記述がある。】

一 六月、長州藩家来の濱忠太郎らが嘆願書を提出し、三条(実美)公以下ならびに毛利大膳(注②)父子の罰科を免ぜられることを乞う。[記録抄出]その添え紙に、

私どもは田舎住まいの微臣であります。威厳を憚らず推参しましたことは、まことにもって恐れ多く存じますが、宰相(毛利大膳)父子、三条殿以下は、従来攘夷を唱え、叡慮をひたすら遵奉しておられたところ、はからずも天子のおとがめを受け、以来数カ月、国もとで憂苦謹慎されておられる模様で、いかにも臣子の身分で痛苦憐愍の至りでございます。このうえは聖なる皇天后土(天を治める神と地を支配する神=精選版日本国語大辞典)に号泣愁訴するほかなく、別紙に一通り綴りましたが、京都に入るのは恐れ多いので閣老である稲葉公に天朝へ届け出るよう願い出ました。なおまた君侯さま方にも、何とぞ三条殿以下宰相父子の心の内を洞察していただき、何らかの手段でしかるべくお取り成しをしていただきたと存じます。そのため右の書面を差し出しましたのでよろしくお取りはからいをお願いします。もっとも、多人数が罷り出ましたが、主だった者が十分鎮静を加えていますので、いささかも粗放な振る舞いはいたしません。そのことは御懸念なく、私どもの鄙情(いやしい感情)をも憐れみくだされ、御周旋のほど皆様よりよろしく仰っていただくようお願いします。以上。

六月

濱忠太郎

入江九平

芸州 備前 御名 會津 柳川 佐竹 福山 津和野

【注②。改訂新版 世界大百科事典によると、毛利敬親 (もうりたかちか。生没年:1819-71)は「幕末の長州藩主。はじめ教明,慶親と名のり,のち敬親と改める。大膳大夫と称した。諡(おくりな)は忠正公。1837年(天保8)家督を継ぎ,村田清風を登用して天保藩政改革を推進した。61年(文久1)佐幕的開国策の航海遠略策を採用してみずからも運動したが,翌年,島津久光の率兵上京や幕政改革によって藩論を転換させざるをえなくなった。ただちに入京し,敬親臨席のもと木戸孝允や周布(すふ)政之助らの家臣と会議を開き,尊王攘夷の藩論と単独攘夷実行を決定した。63年下関でアメリカ商船などを砲撃して攘夷を実行したが,8月18日の政変で京都に勢力を失い,再起を期した禁門の変に敗れて官位・称号を奪われた。67年(慶応3)大政奉還後,官位を復し,69年(明治2)薩摩,土佐,佐賀藩と版籍奉還を奏請し,権大納言に任ぜられた。同年中に隠退して山口藩知事の職を子元徳に譲った。執筆者:井上 勝生」】

[参考]

一 長州よりある人の書状のなかに、[記録抄出]

最近、諸藩は越前藩・薩摩藩・會津藩等が邪(よこしま)なことを悟ったようで、筑前藩などは大いによろしいです。すでに四月下旬、筑前藩の世子君(世継ぎの君)が京都より御帰国の際、小郡駅で東久世殿、当藩の世子君と面会し、二日滞留され、まことに親睦を結ばれました。黒田藩はいよいよ攘夷に決し、国許はもちろん長州へ(異国船が)襲来の際は、兵員を差し出す筈で、長州の端の若松という、馬関から二里ばかりのところに陣営を設け、兵を出張させております。長崎も長州へ襲来した船の修復等をして帰ったということがあったので、渡来した異国船は断然打ち払うことに決し、肥前藩へそのことを通達したところ、肥前藩は天幕(天朝と幕府)からお沙汰がなくては同意することができないとの返答があったので、御使者の建部孫右衛門より「こんどの件はご相談したのではなくて、国論がひとつに定まったので、両藩の持ち場のことゆえ、一応御通達申し上げたまでと言い捨て、帰ったとのことであります。

一 私も筑前藩へ三条さまよりの御使者として参り、四月二十一日、福岡に着いて大殿さまへ拝謁し、十日滞留し、重役の面々にも面会し、日々ご丁寧な御馳走をいただきました。もっとも(長州の)宰相様からの御使者もあって、それを佐久間老兵衛がつとめ、帰りがけには(私と老兵衛が)白銀五枚ずつ拝領して帰りました。その後、御使者の往来が絶えず、筑前脱藩人はそれぞれ呼び返して、もとの格に戻し、かつ登用された人もありました。

一 備前・因州・水戸・水口加藤・芸州・藤堂・柳川より、外国船が当国(長州)に襲来した際には加勢を差し出す旨を京都で言ってきたそうです。因州・備前はわざわざ御使者をもって言ってきました。芸州も同じく御使者の往来がしきりです。津和野藩・対馬藩はもちろん当藩と真に同論であります。

一 六月十五日ごろ、当藩有志が三百人余り脱走しました。招賢閣(注③)の諸藩有志も同じく脱走しました。そうしたところ、同二十四日ごろ、京都の嵐山天龍寺、山崎天王宝寺四、五個所の要害の寺院にたむろし、天幕へ嘆願書を差し出したようです。右は因幡・備前両国の京都詰めの人へ頼んだ様子です。嘆願書の主意は、攘夷の叡慮の貫徹と、正義の公卿方の復職、長州の藩主父子の冤罪を晴らすことを願ったとのこと。右については暴発等はなく、極々恭順至誠をもって歎願のはずではありますが、薩摩・會津・越前・彦根等の奸藩より暴をもって来たならば、やむを得ず決戦に及ぶ手筈とのことであります。

【注③。防府市歴史用語集によると、「1863年に8月18日の政変[はちがつじゅうはちにちのせいへん]によって京都を追い出された三条実美[さんじょうさねとみ]ら7人の公卿[くぎょう]が三田尻御茶屋に滞在した時期に、三田尻御茶屋[みたじりおちゃや]の一角を会議室としたのが招賢閣(しょうけんかく)です。多くの志士が集まりましたが、翌年の禁門の変の後に廃止されました。明治維新後に解体され、現在はありません。」】

一 世子君のご実兄の御家老・福原越後(注④)が六月中旬に出発、七百人を召し連れ、関東へ御使者として行く途中、図らずも伏見において亡命者が所々に屯集していると聞き、かつ六月五日の京都邸の乱暴(池田屋事件)も承知していたので、右の鎮撫ならびに京都情勢調べのため伏見に滞在するとのこと、昨夜、その知らせが届きました。執政御家老の国司信濃(注⑤)および児玉小民部が同五日に出発、亡命者の鎮撫のため上京しました。右の人数も数百人です。

【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、福原越後(ふくはらえちご。1815―1864)は「江戸後期の長州藩の永代家老。支藩徳山藩主毛利広鎮(もうりひろしげ)(就寿(たかひさ))の六男で、名は元(もとたけ)。宇部(うべ)を采邑(さいゆう)とする宗(そう)藩家老福原親俊(ちかとし)の跡を継ぐ(一万一千三百余石)。嘉永(かえい)年間(1848~54)以降、藩の要路にあり、毛利敬親(たかちか)(慶親(よしちか))を助けて尊攘(そんじょう)に尽くし、また宇部領内の領政改革を行い、重厚温雅にして文学詩歌をよくした。文久(ぶんきゅう)3年(1863)八月十八日の政変が起こると、翌64年(元治1)藩主の雪冤(せつえん)を陳情するため率兵上京、蛤御門(はまぐりごもん)付近で幕府軍と戦って敗れ(禁門の変)、海路、宇部に帰った。第一次長州征伐にあたり、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)、国司信濃(くにししなの)の両家老とともに禁門の変の責任を問われ、岩国竜護寺で自刃した。[吉本一雄]」】

【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、国司信濃(くにししなの。1842―1864)は「幕末の長州藩の家老。名は朝相(ちかすけ)、のちに親相と名のる。藩士高洲元忠(たかすもとただ)の次男。家老国司将監迪徳(しょうげんみちのり)の養子。寄組に列し、文武に秀で和歌をたしなんだ。1863年(文久3)の馬関攘夷戦(ばかんじょういせん)には手兵を率いて警備にあたり、ついで赤間関惣奉行(あかまがせきそうぶぎょう)として指揮にあたった。八月十八日の政変が起こると、藩主父子の雪冤(せつえん)、尊攘派立て直しのため64年(元治1)7月に兵を率いて上洛(じょうらく)、禁門の変を起こしたが、敗れて辞職。その責任を負って福原越後(ふくはらえちご)、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)の両家老とともに徳山藩に預けられた。第一次征長軍が国境に迫ると、幕府への謝罪のためとして両名とともに自刃させられた。[吉本一雄]」】

一 益田右衛門[弾正こと](注⑥)が明後日の六日に出発上京し、末藩の毛利讃岐守が来る七日に行列とともに出発の予定。右は五日、京都邸の暴力沙汰の「取紛」[紛は誤字で、糺か]の含みとのこと。人数がすこぶる多い。

【注⑥。朝日日本歴史人物事典によると、益田右衛門介(没年:元治1.11.11(1864.12.9)生年:天保4.9.2(1833.10.14))は「幕末の長州(萩)藩の家老。名は兼施,のち親施。通称,幾三郎,弾正,のち越中,右衛門介。号,霜台。阿武宰判(萩藩の郷村支配の中間組織)益田の永代家老家,元宣の次男で,嘉永2(1849)年1万2063石余の家督をつぐ。相州警衛総奉行として外警に当たる。安政3(1856)年に当職(国家老)に任じ,通商条約締結の際に,周布政之助らと藩の自律を唱え,当役になる。文久2(1862)年の尊攘の藩是決定に参画した。翌年の8月18日の政変で藩は京都を追われる。元治1(1864)年,上京するが,禁門の変に敗れ,第1次長州征討に際し,幕府への謝罪のために三家老のひとりとして切腹を命ぜられた。(井上勝生)」】

一 六月五日、長州京都邸の変動(池田屋事件)につき、備州(岡山)・因州(鳥取)・筑前(福岡)・芸州(広島)・対州(対馬)のうち一藩が、天朝・幕府へ伺い書を差し出したとのこと。右は白刃をもって容易に往来し、一応の取り調べもなく、やにわに斬り殺すとは、どういう御趣意によるものでありましょうか。これ以後、そのようなご処置ぶりになれば、京都詰めの者はもちろん、在国の者にいたるまで、その心得をする恐れもありますので、お伺いしたく、書面をもって差し出す所以です。

一 近日、横浜より届いた知らせによれば、今月中には醜夷(異国勢力のこと)が必ず当国に来る模様で、海岸方面では大砲をそろえて待つ形勢です。当藩の兵力・意気はまことに羨むべきの至りであります。

この手紙は七月四日の日付である。

[参考]

一 我が藩は次の通り命じられた。[記録抄出]

松平土佐守

長州の多人数が伏見ならびに山崎辺りそのほか所々に屯集している。追々入京する見込みだ。容易ならざる挙動に及ぶおそれがあるので、至急兵員を引き連れ、警衛のため上京するように致されたい。朝廷からのお沙汰につき、早々に国許へ連絡するように。

一 長州勢が東に向かうという話があるが、そのまま入京するやも知れず、稲荷山辺りに早々に兵員を派遣し、厳重な警衛を心がけるよう。詳しいことは在京の大目付(注⑦)御同所(?)へ問い合わせてもらいたい。

竹田[桑名、會津] 伏見[加州、彦根] 豊後橋[大垣] 淀[薩州] 伏見街道[水口] 稲荷山[土佐][稲荷山の警固を命じられたが出兵せず]

【注⑦。改訂新版 世界大百科事典によると、大目付 (おおめつけ)は「江戸幕府の職名。1632年(寛永9)12月,秋山正重,水野守信,柳生宗矩,井上政重の4人が総目付に任じられたのがはじまりである。当初は大名・旗本,老中以下諸役人の政務・行状を監察し,言上することをおもな任務としたが,中期以降は各藩に対する法令伝達や,江戸城中における大名の座席,作法などをもっぱらつかさどった。また勘定奉行とともに道中奉行を兼務したほか,切支丹宗門改,江戸十里四方鉄炮改,分限帳改などの職務を分担した。評定所に交代で出座し,裁決に立ち会うこともあった。1662年(寛文2)以来老中支配。役料は66年1000俵,92年(元禄5)3000石以下に700俵,1723年(享保8)に足高(たしだか)制が制定されて,3000石高と定められた。定員は4~5名だが,幕末には10名に及んだことがある。江戸城の詰所は芙蓉間。就任者は従五位下に叙せられた。長崎奉行,勘定奉行,町奉行などを経て任じられる者が多く,旗本の栄職であった。執筆者:松尾 美恵子」】

七月

一 この月九日、太守さまがこのたび御警衛のため上京されるようにと、書き付けをもって(朝廷から)命じられたので、用意がととのい次第上京されることになった。

一 同十六日、江戸より吉報の御使者・兒玉信五郎が今日到着した。御用があるので先月晦日の四ツ時(午前十時ごろ)、名代として御一門中の一人が(江戸城の)西ノ丸へ登城するようお達しがあった。そこで摂津守さまに名代を頼んだところ、体調がすぐれないため、替わって松下加兵衛さまが登城された。そうしたら、(江戸城の)白書院の縁側の「御替席」において、老中列座のところで「(土佐藩主が)長々と京都滞在して尽力したので、少将に推任したいと御所へ申し上げたら、その通りに宣下すると仰ったので、少将に仰せつける」という旨を、水野和泉守が仰ったとの知らせが届いた。[四月十八日参照]

一 同十七日、(高行の)妹おまさが川上左衛門の妻に縁組みすることが聞き届けられ、早速婚礼が整った。

一 同十七日、容堂公・太守さまが南会所へお出でになられ、諸士を召されて、次のように仰った。

考えがあるので、今日よりすぐに親政を実施する。親政の処置はほかでもなく、至理至当、断然不動のものであるゆえ、奉行どもはじめ諸役人はこの主意を十分理解してそれぞれの職掌に励むように。

右につき御奉行中の副書は次の通り。

このたび親政を実施されることを役人どもに仰せ出られた。(容堂公・太守さまは)畢竟、一定の国論が下に徹底せず、時論が紛々して向背(従うことと背くこと)に惑い、それで朋党の団結が保たれるはずがないとお考えになった。それでは尊皇の大義がかえって損なわれ、第一の手足となるべき臣下として一定しなければ、実用にも立たず、天朝・幕府に対してもいかがなものかと深く憂慮されている。よってこれからは政事を親政され、御先代さまの創業の趣意に基づき、至理至当の道をもって、国家を経営すると思し召されている。このうえは貴賎にかかわらず思うところがあれば、直にお聞き下さるとのことである。胸裏にあることは一点も隠さず、幾重も言葉を尽くすようにという御趣意なので、そのお気持ちを厚く奉行が引き受け、領内の庶民に至るまで(容堂公・太守さまに)忠誠を尽くすように。以上。

桐間将監

福岡宮内

[参考]

一 七月十八日、長州藩の国司信濃・益田右衛門介・福原越後が京都で禁門に迫った(注⑧)。薩州・會津・越前等の各藩守衛の士がこれを撃退した。我が藩は清和院御門を守って戦いに及ばなかった。

このとき長州藩家老より次の通り言ってきた。

弊藩の亡命の徒が山崎表において、主人ならびに三条殿以下の冤罪、攘夷の国是を哀訴歎願していたら、このたび時勢が切迫し、至情にたえざるのあまり、天朝・幕府にお願い出をし、列藩に通達して、義兵を挙げました。これにつき、私どもにおいても「引纏ヒ」(?)、ついに一戦に及んだ次第は別冊の通りであります。国家のために天下の大罪を犯した苦衷を洞察していただき、一時の騒擾をお許しいただき、なお天朝・幕府のご仁恵のほどを御評議よろしく懇願いたします。このことをご主人様へほどよく仰っていただくようお願いします。恐惶謹言。

七月 松平大膳大夫家老

益田右衛門介

   福原越後

   国司信濃

土州さま御留守中

【注⑧。改訂新版 世界大百科事典によると、禁門の変 (きんもんのへん)は「1864年(元治1)7月19日,長州藩と朝廷を固める会津藩,薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。蛤(はまぐり)御門の変ともいう。これより前,尊王攘夷を主張する長州藩は,〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で,公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により京都から追われ,朝廷の九門の一つ,禁門警備の任を免じられ,藩主が処罰された。長州藩には,京都を脱走した七卿や真木和泉らの浪士も集結し,失地回復をめぐって進発論や持重論が渦巻いた。藩の指導者,周布政之助や高杉晋作らは,持重論により藩論をまとめていたが,翌64年3月になると,幕府と薩摩藩,会津藩,越前藩らの公武合体派は内部対立を起こし,有力大藩が帰国し,間隙が生じた。さらに6月に池田屋事件で志士が斬殺され,長州藩内で,一気に進発論が勝利を占めた。国司信濃・福原越後・益田弾正の3家老に,来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉らが同行して先発し,世子毛利定広の本隊が後続した。先発隊は,山崎,伏見,嵯峨に分駐し,七卿や藩主の免罪などを上表したが入れられず,かえって幕府の征長令の発令工作が進んでいた。ついに先発隊は,本隊の到着を待たずに挙兵し,7月19日,京都内外で長州藩兵と会津・桑名・薩摩など諸藩兵が交戦した。長州は,一時,御所に迫ったが敗走し,来島ら多数が戦死し,久坂・真木らが自殺した。京都は,約3万戸が焼失し,7月24日,長州追討の朝命が下る。執筆者:井上 勝生」】

[参考]

一 長州の発砲につき、高見氏の注進(注⑨)は次の通り。(※この文書の前半は文脈のつかみにくいところがある。ご勘弁を)

長州の軍勢が淀・伏見辺りに屯集していることについて、京都御守衛方より歎願の筋があったというので、(長州側から)二、三人をもって通知すべく、数人が京都に入ったことは、誰もが気にかかっていました。そのほか種々の説得がありましたが、(長州側は)まったく承服しませんでした。重ねて七月十七日、御目付(幕府の大目付のことか)二人が利害得失を説きましたが、なおまた帰順する様子が見えず、かえって廣言(無責任に大きな声で言い散らすこと=デジタル大辞泉)の答えに及んだので,それが天朝に聞こえ、(長州)追討の評議が始まったとのことです。この件について、お沙汰があり次第、国許(高知)に御使いとして道中四日の予定で派遣すると、上司より聞かされたのは十八日午后四時ごろだったとのこと。同夜の八時ごろ、(長州の使者が)町人のような格好に変装し、二人とも煤けた提灯を持ち、我が藩の御留守居役のところに来て、濱忠太郎・入江久平[一]両名の書簡を持参し、なおその二人の口上によると、自分等は長州藩の者であり、先だってから嘆願書を差し出したが、まったく御聞き届けにならず、会津藩の悪逆がますます増長するので、やむを得ず同志たちとともに義兵を挙げ、會津の逆徒を討ち取ろうと思う。入京を禁じられた輩が恐れ多くも皇居近くに入り込んで騒動に及ぶことは後日お咎めを受けるでしょうから、その節はよろしくお取り成しをお願いします。一日当地に滞在した後は残らず国許に引き払い、天朝・幕府のご処置を待つつもりです。會津の罪の次第は詳しくはこの書簡にありますといって帰り、またその後に、家老益田右衛門・国司信濃・福原越後の書簡を同じく持参して、今夜中に義兵を挙げますので、後日ご周旋をお頼みします。委細はこの書簡にありますといって帰ったとのこと。やがて伏見街道の方で砲声が聞こえ、戦争が始まったのは同夜十時すぎごろと思ったとのこと。さて長州藩に陣揃いしていた者たちは、「今夜義兵を挙げ、竹田街道より京都ヘ押し寄せる」とお触れを出し、非人数百人に高提灯・箱提灯など三百張りばかりを持たせ、竹田街道の方に陣頭を向け置いたが、出発の時になって(行く先は)伏見街道とお触れを替えて進んだ。それから藤ノ杜の戸田采女正(注⑩)さまが守る場所をも打ち破って通り、京都に入った。[後日に聞く。藤ノ杜より引き返し、竹田街道より京都に入る云々]、翌七月十九日、午前十時ごろより、境町御門内で戦争が始まり、寺町の長州屋敷がそれと同時に出火、鷹司殿の屋敷も出火、乾御門の外で戦争になり、薩摩と取り合いになり、下立売御門で合戦になった。高見左右吉は同日午後四時前、戦争の最中に火事のまっただ中より出発し、伏見街道を通り、稲荷・藤ノ杜等の守備場所を横切り、辛うじて(土佐藩の)伏見屋敷に同日日没まえにたどり着いたとのこと。[右の高見左右吉は七月二十四日に早追いで京都より到着した]。

右は(高見から)聞いたまま。次の通り役頭へご報告する。

土佐藩ではこのごろ情勢が不穏で、歎願の勤王組が数々ある。そのため(太守さまの)御手元金により臨時のお手当をして、若侍八十人ばかりで昼夜の見回り番をするよう仰せつけられた。

【注⑨。高見の注進については『佐佐木老候昔日談』に次の記載がある。「この報知を最も早く高知に齎らしたのは、高見左右吉で、十九日の午後四時頃京を出発して、二十四日に高知に着いた。高見とは自分も懇意ではるが、極くアワテ者で、仰山の事をいふ男であつた。誰に向つても、伏見辺は大戦争最中であつて、予は死屍累々たるを踏越し踏越して帰国したいふ。其の言方まで可笑しいので、後には高見の事を累々と綽名した。サアかうなると佐幕家は大得意である。が勤王家としても決して負けては居ぬ。色々激烈なる嘆願書を上る、人気は益々物騒となつて来る。如何なる事変が起るかも知れぬので、政府でも一層戒を厳にして、八十人の若侍を選抜して、昼夜廻番をさせた。」】

【注⑩。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、戸田氏正(とだ-うじただ1814*-1876)は「江戸時代後期の大名。文化10年閏(うるう)11月18日生まれ。戸田氏庸(うじつね)の子。天保(てんぽう)12年美濃(みの)(岐阜県)大垣藩主戸田家9代となる。城代の小原鉄心(おはら-てっしん)に藩政の刷新,軍制の改革にとりくませる。安政3年に隠退後も尊王の立場から藩主を後見した。明治9年6月28日死去。64歳。」】

[参考]

一 島田玄蔵(魚住注・土佐藩の大坂詰めと思われる)よりある人に送った手紙。

昨夜、とりあえず伏見の重大事についてお知らせしましたが、今朝にいたってもまだ火の手は消えておりません。ますます勢い強くなり、どうなるかと大心配しております。もちろん当地の警固はすこぶる厳重、あるいは作州(津山藩)勢が落ち武者二、三人を召し捕らえ、または桜宮あたりを通る落ち武者を鉄砲で撃ったとか、種々の風聞があって、上八町はじめ天満はみな立ち退いたとのことです。正午ごろ、(土佐藩大坂屋敷の)御在役が御城代に風説をお聞きしたところ、詳しいことはわかりませんでした。そのうち薩州・土州が一緒に天龍寺に押し寄せ、勝利を得たと聞きましたが、つづいて晩方に至り、京都からの使者として高見左右吉が大坂に下ってきたので、とりあえずその話を聞いたところ、大いに違いました。もともと長州の兵員がおびただしく入り込んだのは、大膳大夫さまご父子(長州藩主の毛利敬親父子)ならびに七卿のお咎めを許してほしいと歎願するためであって、先日の天朝よりのお答えでは、「忠義の至りではあるが、兵器を持参したのはいかがなものか。ひとまず本国へ引き取るように」との説諭があったとのことです。しかし、長州側はそれを押し返し、またまた歎願したので、なおまた大目付、會津より説諭しましたが、長州側はそれを聞き入れずに天朝ヘ上奏したところ、逆鱗に触れて追討を仰せつけられたとのことです。長州側も同十八日、このように歎願がかなわないのは會津の仕業なので、やむをえず発砲するので、一日だけ宮殿での騒動を起こすのをお許し願いたいとして「此夜ノ御屋布ヘモ」[以下文意ママ通ゼズ]、ほかならぬ御家(土佐藩のことか)のことなので、当夜発砲する旨を言ってきました云々。

一 (土佐藩の)兵員が清和院門へ出動しました。長州藩は伏見の屋敷詰めの兵員がこの日の午後十時ごろから、高張り提灯で「山崎に引き取る」といつわって、伏見街道へ行き、所々の警固陣を押し抜いて、戸田采女の警固場所へ行ったところ、通さないので大変な議論になり、戦争におよびました。そうして長州勢が大勝したとき、彦根の軍勢が来て加勢したので、長州勢は戸田の大砲をとって伏見の屋敷に帰った。そしてその大砲をもって竹田通りに行き、會津の警固陣を打ち破り、[此時ニ大ニ天王山ノ長州勢二番ノ手モ参]その後、彦根勢は伏見に行き、長州伏見屋敷に大砲を打ったところ、大佛屋の軒(?)にあたり、つづく砲弾が屋敷にあたったが、兵員がいないので、火をかけて引き返したということです。このためこの辺は一面の大火になったとのこと。右の長州勢は境御門に討ち入り、難なく破り通って、寺町御門を通るとき、大砲小銃打ち合いとなり、死人が数知れず。そのとき三条川原町の長州屋敷は出火して、半焼で終わった。つづいてまた火が出て、火は次々と西へ及んで、九条殿の屋敷周辺は大火なので、川原町の御屋敷は類焼したとの風説です。このとき(砲弾で)首を貫かれた往来の者があり、逃げ去る者あり、砲声は耳の奥に貫き通ったとのこと。昨夜より今夜にかけてのことはわからず、明朝に飛脚が帰ってくれば、合戦の始末が分かると思います。委細は高見左右吉が帰りますので、道筋の険しい話はお聞き取りください。浪花は力戦はなく、右の騒動について金銀の苦戦心痛、ただいまこそ蕭何(注⑪)の下方にてあるいは恥となり、あるいは悦ばせることであります云々。

【注⑪。精選版 日本国語大辞典によると、蕭何(しょう‐か)は「中国、前漢の政治家。諡(おくりな)は文終。沛の豊邑(江蘇省豊県)の人。高祖劉邦第一の功臣で、丞相から相国となり、秦の法律・制度・文物の取捨吸収に努め、漢王朝経営の基礎を作った。律九章を作ったといわれる。韓信・張良とともに漢の三傑と称される。紀元前一九三年没。」】

(続。今回は禁門の変がメインになりました。この後、高行は藩の命令で京都に出張することになります。土佐の中に閉じ込められていた高行の活動範囲がだんだんと広がっていきます。お楽しみに。それからいつもながらの拙訳をお許しください)