わき道をゆく第232回 現代語訳・保古飛呂比 その56

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[参考]

一 (元治元年)七月二十二日、京都より飛脚が着いたので、戦争(禁門の変)後の状況を確かめたところ、十九日「八ツ時前」(午前二時ごろか午後二時ごろ?)戦が終わり、長州人が引き取った後も砲声が聞こえた。同二十日に至り、砲声が止んだが、火勢はますます盛んで、京都の八割ほどが焼失した。もっとも御所をはじめ二条城、土佐藩邸に異常はなかった。鷹司邸からは長藩の死骸が車で積み出されていた。また諸藩の警固人員をはじめ、だれもが飢えに直面していて、玄米で飢えをしのいでおり、同二十二日ごろに至り、ようやく白米が配給された。もちろん同日まで、甲冑を着たり、あるいは陣羽織で槍を提げた諸藩の軍勢が往来しており、それぞれの警固場所ではなおさら厳重に警護されている。山崎・竹田・伏見街道は当初のように警固されており、長藩は一人もおらず、京都よりの「御使者・御徒使」(どちらも使者だが、徒使(かちつかい)の方が身分が低い?)等はすべてクサリ帷子あるいは小手・すね当て、長髪・乱髪のままで使者に立ち、いずれもその藩ごとの印をつけている。

右は七月二十七日着の早追いで届いたある人の書状。

一 同二十三日、長州追討の命が下った。すなわち我が藩に対し次の通り。

松平土佐守

松平大膳大夫(長州藩主・毛利慶親のこと)は前から入京を禁じていたが、陪臣・福原越後を遣わし、名は嘆願に託して、その実強訴した。つづいて国司信濃・益田右衛門介等を(朝廷への使者として)次々と送り出した。(それに対し朝廷は)寛大仁恕を以て扱ったが、悔悟の意思なく、言を左右し、容易ならぬ意趣を含んで、現に自ら兵端を開き、皇居に発砲した。その罪は軽くない。それに加えて、父子黒印の軍令状(注①)を国司信濃に授けたとのこと、全く軍謀(戦いの策略)は明らかである。おのおのがたは防長(周防国と長門国。現在の山口県)に押し寄せ、速かに追討すること。

 七月二十三日

右の通り、御所より命じられたので、大坂表の警固のため、只今より兵員を派遣し、軍備を厳重にする。大膳大夫以下、(京都方面に)登ってくる者があれば、速やかに誅伐すべし。


松平土佐守

長州藩士がこのごろ出頭している模様であるが、多人数が兵器を携え、所々に屯集しているのははなはだ不穏なので、早々に引き払った。(※引き払うには取り払う、取り去る、逮捕する、連行する、退去するなどの意味があるが、この場合はどれにあたるのか不明。以下、この文書にはうまく訳せないいところが多いある。ご容赦を)。(長州藩家老の)福原越後は少人数で伏見に滞在している。そうして、願い出をするに際しては穏やかにその筋を経由して、重ねてのお沙汰を待つよう、朝廷が御趣意をもって説諭されたにもかかわらず悔悟せず、鎮静を唱えて(?)いる。国司信濃・益田右衛門介等は引き続き上京し、かえって人数を次第に増やしている。そのうえ、再三願い書を差し出し、恐れ多くも昨秋八月以降のご処置も真の叡慮ではないなどと申し立てている。このように兵威を借りて、しいて歎願するのは朝廷をないがしろにする所業であり、不届き至極なので、各地に屯集している長州藩の者たちを征討せよと天朝が命じられた。ついては長防二国の動揺の恐れもあるので、これを制圧するよう必ず心得、以後、(京都方面に)登ってくる者はもちろん、国許においてもいかがと思われる行為があれば、速やかに兵員を差し向け、誅伐するようにせよ。

ただし時機を見計らい、それぞれの主人が出動した各場所から攻め入るべきこと。

【注①。精選版 日本国語大辞典にょると、黒印状(こくいん‐じょう)は「黒色の印肉で押した印影のある文書。室町時代以後、武将の発行する文書に、従来の花押(かおう)に代え、黒印または朱印が用いられる場合がみられ、花押のある御判物(ごはんもつ)に対し、それぞれ黒印状、朱印状と呼ばれた。江戸時代には、一般に朱印は将軍の発するものとされ(私的な文書には黒印を用いた)、黒印は諸大名が用いた】

一 この月、太守さま[豊範公]が直筆の書で示されたことは次の通り。

尊皇攘夷の大義について議論が紛々として、人心が迷い誤り、御国体を取り違える輩もいるかもしれぬ。分義(それぞれの身の程。分限)に惑い、職分を忘れるような振る舞いもまことに嘆かわしい次第である。そもそも皇国の昔は天子のまつりごとが及ばぬところはなく、征伐のことも天子が親臨された。国々に守・介(国司を任命する際の役職)を置かれたのは、これを中国の制度に比べれば郡県の治とも言うべきである。中古(平安時代)以来、ようやく公武が区分され、武門は幕府を設け、国司・地頭の方面において、別に主従の分限が成立し、ついに元和(江戸初期)に至ってはっきりと封建の治が定まった。封建の制度といっても、天朝の命が幕府に下り、幕府は天下の大小諸侯を率い、令を四方に伝える。その分義順序はもとより乱すべきではない。ゆえに諸藩が国となってからは、上は天朝・幕府に対したてまつり、有事には功を立てて恩に報いることに励み、下は一国の士民(武士と庶民)に臨み、それぞれの役割を知らしめ、内を修めて外に向かう。これすなわち天子の藩屏たる所以である。尊皇の大義はもとよりここにある。また元和のご治世以後、およそ二百有余年、藩国の士民として国体がこのようであることをわきまえておれば、かりそめにも恩を知り、義を知る者であれば、紛々迷悟する理由はないであろう。ことに一昨年、攘夷の勅命が下ってからは公武の関係が不穏になったときもあり、一時奮激した者がこの機に乗じ、乱すべからざる順序を越え、当面の分義を棄てて、恐れ多くも直に天子の大庭(京都のことか)に走り、事を議し、でたらめな意図をもって、膺懲の典を挙げようと謀る者が少なくない。これはひとえに勅意を遵奉した、道理にかなった筋道に似ているようだが、まったくそうではない。(だからこそ)果たして昨年八月以来のありさまとなったのである。我らは不肖の身といえども、諸侯藩屏の一員となり、一国の士民の主となり、天朝・幕府の策略が定まったら、どうあろうとも遵奉し、できるかぎり功業を励むべき分限である。であるのに、議論をもって攘夷と唱え、あるいは士気を振るい、兵備を厳重にする等のことはもとより急務であるとはいえ、国中の人心の方向を定め、道を失わぬようにしなければ、政治全般の実があがりがたく、いわんや遵奉の本意も立たなくなる。結局、我ら不肖より思うところを貫徹せず、意外のことのみ多くあり、その責任を誰に帰すことができるだろうか。よって、このたび藩政を親政することにしたのも、頭首手足とも一体の義を示し、有事の時に当たっては国中の者が我らの馬上の役に立ち、指示が意のままにならなければ、天朝・幕府の恩に報いることもどうしてできようか。前にも述べたように、昨今の封建の国体は、藩国士民となく、ことに我らの下として、勝手に尊攘の大義を唱え、自分の職分を忘れ、僭越で分をわきまえぬ挙動があり、ついに「反面[ママ]」する義を知らず、我らの不肖のせいとはいえ、さらに不心得なことである。かつまた一国中、我ら以下家老・諸士・軽格・庶民に至るまで、それぞれに等級順序があり、あえて僭越な振る舞いをすべきではない。ただ言語のみ貴賎にかかわらないのは上下が隔絶しないためである。右のことでも、藩庁の役人どもへ申し出るか、我らに直に申し出るか、これまた順序がある。そのほか政事に携わらぬ方に接近し、ひそかに申し入れし、あるいは申し立てた事件により徒党を組んだり連判したりすることは決して諫諍上言(家臣が主人を諫めて言上すること)の道ではない。よくよく心得るべきである。

  七月

攘夷の件について特に疑義を抱く者があるだろうから、なおまたここに書き加える。昨年、朝廷幕府に建白したことはみなに説き聞かせたとおりで、今もって相違ない。これ以後、もしも幕府において遵奉の筋が遅滞するようなことがあれば、幾重にも当方の意図を尽くして言上するつもりである。ついては家老以下庶民に至るまで、それぞれの職分を守るよう、本文の趣意に従い、万一の有事のときの指揮を待つようにすることはもちろんである。なお、画策のことに至っては我らの心算があるので、自分勝手にでたらめな議論をしてはならない。

一 七月二十四日、藩がこのたび厚い思し召しをもって御親政を言明されたのは、たびたび会所(藩の政庁)へもお入りになり、なおまた言路を大いにお開きなって、下々の状況をよく知るようにというご趣意である。これより思うところがあって会所へ罷り出る際の規定は次の通り仰せつけられた。

中老よりお留守居組に至るまでは、当日出勤のうえ御近習御目付へ願い出ること。白札より組外までの者は、御徒目付へ願い書を出し、そのほかの輩は支配方へ願い出ること。

一 七月二十四日、夜、下横目(下級警吏)が次の通り連絡してきた。

お目付中の口上、

差し迫った御用向きにつき、すぐに役場へお出でになるよう。もし役場が引けていたら、月番の森権次郎宅へお出でを。

七月二十四日

右につき、早速お目付月番の森権次郎殿宅へ行ったところ、次の通り命じられた。

このたびの伏見の一件につき、事情探索のため、立ち帰り(行ってすぐ帰ること)をもって、京都に派遣する。このことは奉行から仰せつけられるはずのところ、差し迫った事情があり、かつ御用繁忙につき、役場より申し聞かせるよう仰せつけられた。

同様に仰せつけられた人は次の通り。

武藤清八

佐々木三四郞

松木新平

松下與膳

日比忠兵衛

ただし三組に分けて、形勢に応じて、一組ずつ帰国するようにと説明があった。

右の通り、二十四日夜命令を受け、翌日、同行人が顔を合わせ、藩庁に伺い書を出した。

【注②。この京都行きを命じられたときの様子を佐佐木が『佐佐木老候昔日談』で語っているので、それを引用しておく。「けれども、京都の状況は、僅に高見が知らせた丈であるから、その後の真相はトント分らぬ。いや詳細なる事情は更に分らぬ。かういふ大事件であつて見れば政府でも先からの報知を待つて居るといふ優長の事は出来ぬ。そこで夫等のことを明白にするため、至急探索を京摂の間に派するといふことを評決したと見える。高見の高知に着した夕方、大目付から自分の處へ使が来て、早刻役場に出頭するやう、若し役場が引けたら月番の處に出るやうにと云うて来た。モウ遅くなつたと思うたから、月番の森権次の宅に行くと、此度の事件につき、用意出来次第、京都の事情を探索して来いといふ命令だ。其の時、森が『サテチクト長州がバリバリ云はせたゲナ、胡麻をイル様に有つたゲナ』といふ。実に言方が可笑しい。可笑しいけれども、マサkに笑う譯にも行かず、帰りながら、他の京都同行者五人と、森の口真似をして、『是はチクト妙ナ御目付の言渡御用ヂャ』などと笑つたことである。さて其の同行者は、武藤清八、喜多村虎次郎、松木新平、松下與膳、日比忠兵衛で、之を三組に分つて、形勢に応じて臨機帰国することに定めた。右の中松下は、真の勤王家とは云へないがまづ同志に近いものである。他は皆佐幕家である。尤も喜多村は年も若いし、まだ半信半疑であつたから、病気と称して上京しなかつた。ツマリ一行中勤王の方では自分と松下のみだ。一体当時佐幕勤王両派の疾視は甚だしく、佐幕家は勤王家の失策を数へ立てる。文久二三年頃、軽格が士の風をしたとか、平井収次が物頭の槍印をしたとか、重箱の隅を楊子でほじくる様に、つまらぬ事迄吹聴して、その僭上を攻撃する。さては京師の御失策までも彼是いふ。勤王家もまた決して引込んでは居ない。佐幕家の失策を非難し、また幕府は臣子の分を知らぬというて罵倒する。まるで暗闘混戦の状態である。然るに長州の失敗に依つて、佐幕家は大得意となつて、真に幕威を回復した事と思うて居る。さうならば、此度の探索なども、自分の党派の者ばかりを遣れば宜ささうなものであるが、さうなると、譬へ事実にもせよ、勤王家が信じない。一般人民が承知しない。そこで藩庁でも、止むを得ず両派を交ぜてやることにしたのだ。」】

一 同二十七日、出発。

本年は暑気が甚だしく、北山越えが最も難儀した。予州(伊予国。現在の愛媛県)の姫島の宿に着いた際などは暑気が堪えがたく、一同終夜眠れなかった。丸亀より直に乗船して大坂に着いた。

[参考]

一 七月二十七日、清岡氏ら、次の通り。

指出(?)

私どもこのたび御目付所へ歎願の筋があり、一同決心のため、岩佐関所脇に屯集しました。もとより暴事に触れることは決していたしません。とりあえず、このことを [ママ]つかまつります。

  元治元年七月二十七日

清岡道之助

同 治之助

御郡奉行所

【注③。朝日日本歴史人物事典によると、清岡道之助(きよおか・みちのすけ。没年:元治1.9.5(1864.10.5)生年:天保4.10.20(1833.12.1))は「幕末の土佐国(高知県)安芸郡郷士,勤王の志士。諱は成章,通称道之助。学問に励み,江戸に出て安積艮斎,佐藤一斎,若山勿堂に師事して研鑽,安政1(1854)年に帰郷。文久1(1861)年,土佐藩構築の大坂住吉陣営に駐在,武市瑞山の土佐勤王党には直接加盟しなかったが提携を約す。同年8月,勤王党の獄が起こり武市以下幹部が禁獄された。道之助は安芸郡の同志を糾合,武市らの救解を運動,元治1(1864)年8月,23名の同志と野根山岩佐駅に屯集,藩庁に救解嘆願書を発したが,藩庁の姿勢は強硬で,大監察小笠原只八が藩兵800を率いて鎮圧に出た。清岡らは阿波国(徳島県)への逃亡を試みたが捕縛され,奈半利河原で斬首の刑に処せられた。<参考文献>瑞山会『維新土佐勤王史』(福地惇)」】

一 七月晦日、朝廷より西海・南海・山陽・山陰四道二十三藩に長州追討の命があった。ついでまた二藩にも命じたという。

一 この月、(土佐藩は)清和院の御門を警衛する任務を解かれ、大坂警衛の任務を命じられた。

御名(豊範の名か) 家来へ

右の者は、(大阪湾の)木津川口の千本松より津守新田北ノ端までの川筋の水陸の警衛を仰せつけられる。右の千本松のあたりへこのたび野砲台[並御固場之内船改所へ筏等取建之上右野砲台脱(※意味不明のため原文引用)]の砲器を据え付け、御備向き(役職名と思われる)等にそれぞれ委任されるので、右の船改場の件は津守新田地先のうち、最も重要な地の利を見定め、(設置を)申し立てられたい。もっとも番所の件は、手軽に公儀よりお取り立てなさるつもりで、修造等はお任せになる。出来あがったうえで御入用のものはお渡しになるので、建物の仕様等詳しいことは絵図で示す。

右の通り通達するので、そのつもりで。


船改めは、警固場所において川中に筏を繋ぎ置き、入港出帆する船どもを厳重に改めるべきはもちろんのことであるが、遠国辺鄙の商船などは右のような改めを受けることを恐怖し、そのほか乗り組みの者たちが右の改めに畏縮の念を生じ、そのせいで大坂表への入港を厭い、諸荷物をよそへ積み送り、当地へのいろいろな品物の船舶輸送を減らすようになっては、三都(京・大坂・江戸)の衰微は言うに及ばず、容易ならざる差し支えを生じることになると、「前顕[ママ]ノ儀ニ付」、右のような事情をとくと弁明する。右の船改め所は、川中島へ筏を繋ぎ置くのも、なるだけ船の通路に差し支えないよう「水尾尻ヲ明置可申」(※意味不明のため原文引用)、たとえば諸荷物を積んでいるだけで、船頭・水主(乗組員)のほかは乗り組みの者がいないように見える船に対しては、どこの国の船かを尋ね、怪しい筋がなければ通すようにされたい。一人乗船しているときは引き留め、船中を改め、怪しい者等が乗り組んでおれば、かねて命じている通り、召し捕るのはもちろん、もし手向かい等をした際には切り捨ててもかまわない。

一 諸国の船が通るときは、お供の先船(先行する船)もあるので、右の先船の乗組員のうち、主だった者に対して通行の訳を聞き、問題がなければ、通すように。万一不審の様子があれば留め置き、早速その取り扱い方を問い合わせてもらいたい。

一 諸藩の士が船に乗って通る場合、長州人の場合は言うまでもなく、かねて命じられた通りに対処し、そのほかの場合は通行の訳を聞き、前記の場合同様取り計らわれたい。

一 右は船改め場所であるので、手当てとして上荷船(注⑤)一艘を配置するので、右の船へはかねて用意の大砲等を備え置くよう。

一 川船改めについては右に準じて取り計らうよう。

右の通り取り決めおいたので、なお洩れていることは告げ知らせ申し上げる。以上。

【注④。精選版 日本国語大辞典によると、船改(ふね‐あらため)は「港に出入する船舶の積荷・乗組・便船人などを船番所の役人が検査すること。また、その役人。江戸時代では、江戸に出入する廻船を下田または浦賀で改め、禁制の品や人間の流入・流出を防止したのが代表的な例。※浮世草子・武道伝来記(1687)五「村芝与十郎といへる船改(アラタ)め、身体はかろけれ共水主船頭にあがめられ」】

【注⑤。精選版 日本国語大辞典によると、上荷船(うわに‐ぶね)は「大型廻船の荷物の積みおろしをするために使われた喫水の浅い荷船。瀬取船、茶船と同じで、二〇石積みから四〇石積みがふつうだが、所により大きさ、船型に多少の相違がある。」】

保古飛呂比 巻十二 元治元年八月より同年十二月まで

元治元年甲子 (佐佐木高行)三十五歳

八月

一 八月初旬、京都に着いたところ、もはや鎮定後で何事もなかった。そのとき、平瀬保之進・津田斧太郎・野崎糺等の佐幕家が周旋の御用で在京していた。平瀬は中川宮のお付きである。よってすこぶる得意である。同人の主催で會津・桑名両藩の周旋方と会合を持った。その際、會津藩士がこう言った。「将軍家ももはや長持ちは難しい。その訳は、上流の役人らは何事も分からず、我々が尽力心配することを採用してくれない。よって今後の見込みはさらにない。が、我が會津は末藩同様で将軍家を宗家としているので、ともに倒れるまでは尽力の覚悟」と歎息した。それなのに我が同行者や平瀬らは無二の佐幕家で、将軍家の権力がいまだ盛んなのを賞賛した。ではあるが同行の佐幕家も會津藩の右の談話には疑問を抱いたように見えた。自分はもっともなことだと承知したが、適当に挨拶しておいた。勤王家に出会いたいと思ったが、もはや平定された後であり、かつ佐幕家のなかにいるので、わざと(意見を言うのを)差し控えたが、大勢は分かる。なぜかというと、同藩の徒士以下の勤王家等より、内々に事情を聞いているからである。帰藩後、藩庁は右の會津藩士の談話には少々気勢を失ったように見えた。

一 京都滞在中、

會津藩周旋人の

倉澤吉兵衛

小森久太郎

小野権之進

手代木直右衛門

柴多一郎

大野英馬

廣澤富次郎

庄田文助

諏訪常吉

木村兵庫

神保修理

上田傳次

鈴木作右衛門

中澤帯刀

依田源治

柏崎才一

高田庄作

川瀬重次郎

桑名貞助

中澤養次郞

鈴木内蔵

遠山寅次郎

野村佐兵衛

桑名藩周旋人の

松浦秀八

立見鑑三郎

築摩市左衛門

三宅彌三右衛門

川瀬雄蔵

森(名前を失念)

右の中で、

會津藩三人、桑名藩二人、

平瀬保之進の紹介で面会した。

【注⑥。京都滞在中の出来事について高行が『佐佐木老候昔日談』でさらに詳しく語っているので、長くなるが、それを引用する。「二十七日一同高知を出発した。本年は実に炎熱甚しく、歩いて居ても目が廻る様である。殊に北山の険路を踰えて行くのであるから、其の困難は一通ではない。其の夜伊予の姫島に宿つたが、蒸暑いので終夜誰も一睡もしない位。丸亀から乗船して、大坂に着し、夫から京都に上つた。八月上旬京都に着いて見ると、最早鎮定後で別段変つたこともない。ないが、京都の大半は既に烏有に帰し、満目荒涼、転た戦争の猛烈悲惨なるを偲ばざるを得ない。而も味方の様な気がする長州が敗走した事であるから、何となく感慨に堪へない。幸に皇居が其の災を免れられたのは、何よりの幸福で、是に至つて、更に皇威の尊厳を思ふと同時に、一種霊妙の感に打たれたのである。

この時分藩からは、平瀬保之進、津田斧太郎、野崎糺等の佐幕家が周旋御用で在京して居る。此等は、国許に朝廷の御失態と、幕威の旺盛なるを通知した連中だ。就中平瀬は、中川宮の御付で、御紋服などを拝領して、意気揚々として居る。もと自分の隣家であるから、懇意にして居つたが、此頃は全く杜絶の有様である。一行は皆佐幕家であつた為に、其の旅寓に尋ねて行ったから、自分も仕方なく、同一の歩調を取つた。行って見ると案の條平瀬は朝廷の御失態を挙げ、幕府の威権の強盛を説き、長州を散々に悪く云ふ。自分は夫が何分癪に障つてならぬのだ。然るに一夕平瀬の尽力で、會津、桑名の外交家五六人と會して、大に酒杯を交はした事があるが、一座悉く佐幕家の連中と見做して居るから、互に打解けて内情迄も打明けて話す。すると會津人が歎息して言ふには、最早幕府の運命も長くはないと思ふ。何分因循姑息で、到底以前の権力を挽回することは出来ない。上流の人は、何にも分らぬ癖に、自分等の意見はすべて採用して呉れない。此度は幸に長州を追払つたが、今後更に見込はない。併しながら我が會津は、徳川と離れられぬ親藩であるから、出来得る限り尽力して、若しいかなければ、宗家と共に斃れる覚悟であると、大に悲観して居る。平瀬は無暗に将軍家の威権の盛なるを称賛したが、これを聞いて、同行の佐幕家も、大に失望したらしい。多少疑惑の色も見える。自分は内心愉快で堪らない。が、夫を色に顕はしてはならぬと、善い加減の挨拶をして居つた。

探索と云うても、同行者が佐幕家であるから、悉く其の方面の人にのみ面会する。會津では手代木直右衛門、神保修理、其の他三十人もあらう。桑名の方では、立見鑑三郎、松浦秀八等五六人ある。ツマリ是等の人々に、種々事情を聞くに過ぎぬのだ。松木等は、更に勤王家抔に會ふ気がない。尤も會ふと嫌疑を受けるから、殊更に避けるのも無理はないが、彼等は勤王家をば絶対に嫌つて居るのだ。これでは到底その真相を探る事はできない。夫故自分は、勤王家側の説をも聞かうと思うたが、猥に勤王家と往来すれば、直に嫌疑を受ける。のみならず、其の方の人が詢に乏しい。幸に武市派でなくとも、夫以下の徒士連中が尚滞京して居るから、窃に其の連中に聞くと、佐幕家の話とは全く反対で、此度の騒動も幕府の仕向が悪かつたから起つたので、長州の暴発するのも無理はないと云つて居る。

松下に武藤は、滞京四五日にして、取敢へず形勢を報告するといふので、帰国した。その時東山栂尾亭で送別会を開いて、六本木の白拍子玉松と云ふのを呼んで剣舞をやらせた。玉松はなかなかの美人で、後に木戸の妻となつた。武藤等はさういふ風であるから、勤王家の事情はもとより知らう筈はない。帰国してからは、盛に佐幕家に有利なる報告をした。自分は八月下旬迄滞京して、佐幕家包囲の中に、勤王方面の事をも偵察して、同二十七日、松下と共に帰藩した。日比は二三日遅れて、たしか三十日に帰つたと思ふ。松下も日比も矢張佐幕的の復命をしたから藩庁の連中は大喜びだ。当時の探索役などいふものは、大抵此類である。藩の有司は、ただ會桑に密従して、長州征伐を真に快事そいて居る。何でも征長の命の發せられた時、無二の佐幕家たる小八木卓介が、早追を以て帰国し『幕兵の英武は比倫すべき者がない。會桑の兵がその前衛となつて、長賊と戦うたならば、雑作もなく負かして仕舞ふ』。と云ふて偏信の余り、寺田典膳をして致道館で揚言させたことがある。唯乾作七は、アアいふ人であつたから、多少観察が違つて居つたやうだ。自分は夫等の連中の報告が可笑しくてならぬ。凝るといふものは、実に恐ろしい者で、アアも滑稽じみた報告が出来るものかと思うた。成程有司の歓心を買はうとならば枉げてもさう報告すべきであるが、自分にはソンナ馬鹿気た事は出来ない。夫故見聞した有の儘を報告し、『會桑さへ、有識者は既に悲観して、幕府の永続の不可能を唱へ、他の連中でも、盛に幕府の衰亡を説いて居る』。と云ふと、政府の連中は洵にいやな顔付をする。失望の色も見える。

マア半信半疑といふ風だ。勤王家は是迄の報告に気を腐らして居た際だから、双手を挙げて悦んだ。盛に来てはどうだの、彼だのと聞きたがる。夫を話すと、急に元気づく。佐幕家は之に反して、自分を仇敵の如く目して居るが、これが事実であつたから仕方がないのだ。夫に就て思ひ出すのは、自分が若年の時の事だが・・・・・その時分、或老人が自分に向つて、この皮は自分の若い時は余程深かつたが、この頃は斯様に浅せたといふ。夫で自分が不審して、僅か四五十年位で、夫程浅せたといふならば、開国以来幾千年経つて居るか分らぬが、全く涸れて終はぬは何ういふ譯でせう。と聞くと、老人が云ふには『理は其の通りで、涸れさうで涸れない。実に分らぬ話だ。一体太平は永続しない。五十年とか、百年とかには必ず争乱がある。人命を損し、田畑も荒れる。さうなると、山を拓いて田畑とするが、荒蕪すると其処に樹木が繁生して、水気をふくんで来て、一時浅せた川も再び水量を増して来る。ツマリは繰返していくのだ。徳川氏も最早二百年の太平を保つたから、川が浅せると同様の運命に遭ふであらう。平和永続すれば人心を腐らす。変乱がつて夫を蘇生させるのだ』と云はれたことがあるが、今日の形勢に照して、益々其の言の真なることを深く感じたのである。」】

一 松下與膳の筆記は次の通り。

長州の暴動が皇居に迫ったという知らせがあった。[土居某が大坂より引き返す。高見左右吉が京都より帰藩する。](高見は)屍累々たるを踏み越え踏み越え帰国しましたと言った。このとき高見のことを人皆が累々と呼んだ。

夕方、大目付の森権次宅で松木新平・日比貫助・武藤淸八・佐佐木三四郞・松下與膳の五人が用意出来次第、北山越えで京都探索するよう命じられた。そのとき森権次がこう言った。「サテチクト長州ガバリバリ言わせたゲナ。胡麻を炒るようにあったゲナ」。

これはチクト妙な御目付の言い渡し御用ヂャト口を合わせてカエル。

穴内カ龍石カ[不分明である]ニテ

松木新平、夜半に突然、大霍乱(注⑦)を起こし、激しく吐いた。いったん手足が冷たくなり、明け方になってようやく温もってきた。しかしながら青駄(青竹を割いて作った担架)に乗って山路を越え、炎暑を冒し、平山に至って歩行した。一同初めて安心した。京都に着いてから、平瀬保之進の旅宿に行った。これは松木新平が平瀬の近親であるためであり、平瀬がこのとき粟田宮さま付きになっていたためだ。それから事情をいろいろ探索のうえ、三、四日たって淸八・與膳はすぐに帰国、取り敢えずのところを報告することになった。このとき東山の栂尾亭で別れの盃を交わし、六本木の玉松という白拍子が剣舞をした。佐佐木「ハヒゝヲゾヘト」(※意味不明)大喜びだった。ずいぶん愉快だった。一同歌をうたう。淸八・與膳はただちに出発、帰国した。

【注⑦。精選版 日本国語大辞典によると、霍乱(かく‐らん)は「きかくりょうらん(揮霍撩乱)」の略。もがいて手を激しく振り回す意から) 暑気あたりによって起きる諸病の総称。現在では普通、日射病をさすが、古くは、多く、吐いたりくだしたりする症状のものをいう。今日の急性腸カタルなどの類をいったか。《季・夏》」】

[参考]

一 徳永忠介より達介への手紙に曰く。[七月十八日参照]

七月十八日(午前もしくは午後)十時前、六條殿の(邸に)伝奏・議奏が集まり、長州藩の留守居役に勅命を申し付けた。その文意は、このたび出動した軍勢を今日中に引き下がらせるようにということだった。万一引き下がらないときは、討手を差し向けることになるとのことだった。ただちに留守居役はそれを受けて、山崎へ早馬で行ったという。それから山崎より、洛外において會津と戦争したいと言って来た。(それから長州勢は)山崎を退去し、天龍寺に行った。翌十九日朝、中立売通りの蛤御門へ行き、中川宮さまと會津を目掛けて進み、直に蛤御門外で會津と戦った。御門を押し破ったとき、彦根・薩が後方にまわり、戦いが激しくなったが、長州勢は思うようにいかなかった。伏見より押し出した(長州の)軍勢が柳の馬場通りの堺御門へ向かったところ、御門前で越前・一橋・會津と戦い、鷹司邸の裏門を長州藩が押し破り、堺町御門内へ入り込んだ。會津とかなり戦い、やがて鷹司邸より出るまで、御殿へ會津藩が大砲を撃ちかけ、ここで長州藩は死人がかなり出た。長州勢は川原町の屋敷を一番に自分たちで焼き払って立ち退き、彦根・越前・薩州・一橋・真田・御町奉行、「此組(ママ)ヨリ」所々を放火し、大火になり、同十九日朝より二十一日まで焼け、天龍寺・天王寺は薩會の手で焼けた。長藩の死人・切腹は七十ばかりという。一橋・彦根・越前は死人・手負いの者がおびただしいとのこと。しかしながら、「ツツミ候故」(隠しているゆえか?)わからない。薩をはじめそのほか出向いた藩にも死人・手負いがいろいろあるとのこと。伊藤甲之介は、丸太町夷川上ル處でといわれるが、手負い、ついに切腹したとのこと。土佐藩の印があったので、御国(土佐藩)に照会したとのこと。蛤御門外に土佐藩の能勢某[安喜の庄屋の倅という](の遺体)があったとのこと。首はなかったとのこと。長州の軍勢は、大将格は福原越後父子。国司信濃・益田右衛門助はじめ残る軍勢は、丹波越えあるいは山崎を通って兵庫を引き下がり、直ちに舟で帰国したという。七卿方の中にも、このたびの人数に加わった方があるとのこと。早船飛脚の言だとして、山崎で駕籠に乗った人に出会ったところ、駕籠の中に緋縮緬の指貫をして三十ばかりの色白のお方が乗っておられて、(その駕籠で)帰られた。これは三条(実美)さまだという。

一 長州藩の軍勢が中立売通りに来たとき、見受けた者の話では、大砲二挺、小砲は(各人の)手ごとに持ち、手槍・長刀・弓もあった。白布の幟に尊王義心長藩金剛隊とあった。これは山崎・嵯峨の組という。[見受けた人は中島小膳の家来である]

一 柳の馬場通りに来た軍勢は、伏見または(長州の)川原町屋敷そのほかにも潜っていた組という。これも幟を立てていたが、町人から話を聞いたので、文字がわからぬため記さない。

一 長州組が米五百石を天龍寺に残していた。そのわきに札が立てられていて、その文には「川原町邸を焼き払ったため、類焼もあって迷惑をかけたので、川原町近辺に配る分を残す。受け取ってもらいたい」とあったという。

一一万八千石が大阪の長州藩邸にあった。これまた札に「うち三千石は商家へ売り渡したので、札を持ってきたら渡してもらいたい」とあり、「残った一万五千石はこのたび京都まで騒がしたので、迷惑した町人どもへ渡してもらいたい」とあったとのこと。右の二点は風説ではあるが、確かなことのようである。

一 有栖川宮さま・鷹司・正親町・日野・五條・五辻・橋本・石山・中御門・平松そのほかお名前を記すことができないが、先だって十七卿方が申し合わせて、長州入京で御挨拶の建白をされたことにつき、このたび御参内を差し止められた。

一 會津のお国許に浪人が入り込み、一揆を起こすとの風説もある。それゆえか三日ほど引き続いて、會津より早追いが来たとのこと。何かことが起こったのかと思った。

   八月六日

[別紙]

先月十八日の夜、會津の下宿である浄華院は六條さまの邸の前にあるので、伺ったところ、甲冑を着た軍勢が出入りして、御所の方へ行き、寺町通りは諸所に提灯があって往来がはなはだしく、いかにも当夜何か事が起こるかもしれないと思い、用意した云々。中納言さまが御所からお使いが来たので参内された。山崎の軍勢が伏見を押し破り、竹田通りで合戦を始めたので、このことを一同心得るようにという御意とのこと云々。十九日正午前、眞須姫さまが初めて御本殿さま方の御所に立ち退かれ、私ども一人ずつ交代で御殿に詰め、一人はおそばに付き、(眞須姫さまは)同二十日夕方、二里ばかり離れた岩倉というところに立ち退かれた云々。治世に生まれ、乱世のことは昔物語に聞いていたところ、珍しいことに出会って、何かといささか合点しかけました。座上(※机上の議論という意味か)とは大に違うもので、そのときの事跡は筆紙に尽くしがたいので、まずは概要を申し上げます。

  八月五日

  忠助

伯父上さま

(続。わかりにくいところがたくさんありました。誤訳が多いと思いますが、お許しください。とりあえず高行日記にどういうことが書かれているか、その概要をお伝えするだけでも意味はあるのではないかと思いながら作業を進めています。)