わき道をゆく第233回 現代語訳・保古飛呂比 その57

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[参考]

一 (元治元年)八月五日、この日より長州が異船(外国船)と戦争、(注①)

一 長州の異国船との戦争に関する諸説。(元治元年八月)

大隅守(大坂町奉行・松平信敏のこと)組の盗賊方(大坂町奉行所の犯罪取締役)より申し上げた内容を恐れながら口上する。

「兼テ御聞被為仰付候當時」(※意味が分からないので原文そのまま引用)、九州の豊後鶴崎に碇泊していたイギリス軍艦に接触するため、今月十二日、勝安房守さま(軍艦奉行・勝海舟のこと。注②)が順動丸(幕府の蒸気船)に乗り組んで出帆した。しかしながら、(イギリス軍艦は)今月五日より二日ばかり、長州の田之浦あたりの、同国の御城下の沖合いに押し寄せ、いったん長州勢が負け戦になったところに付け入って、上陸したが、そのとき地雷が火を放って、大勢の異人を討ち滅ぼしたため、負け戦になった。このため残党の軍勢は豊後沖合いに退き、追々戦い方に工夫をこらしているとのこと。とても勝さまは(和平の仲介に)入ることは出来ず、前述の内容を聞き取ったうえで、今月十六日の夜七ツ時(午後四時ごろ)、お帰りになった。以上のことは兵庫津の西出町の軍艦鍛冶・嘉助という者のところへ、右の順動丸の水主小頭が船揚げ(船を陸に揚げて修理することか)し、前述の経緯を話した。早速、調べに入ったが、「地雷火フセエ[ママ]場所字モ不分、何分途中御聞合ニテ」(※意味が分かりにくいので原文引用)、帰船したので、詳しいことは分からない。これからなお調べて、委細を聞いて申し上げる。

八月十七日 四個所長吏(注③)

大隅守組町目付より申し上げた内容

湊摺町

   伊勢屋

   彌兵衛借屋

   豊前小倉船宿

   豊前屋二郎八

右方の客船

  豊前小倉御城下船頭町

前田屋清兵衛船

沖船頭 作次郎

外に

      水主八人

右の作次郎は、今月十日、領主の家中の藩士七、八人が当蔵屋敷(小倉藩の大坂屋敷のことか)への急ぎの飛脚のために乗った早船(注⑤)の乗組員で、昨日の十七日の暮れ時すぎ、船宿の二郎八方ヘ到着。彼の地の風評話を聞いていたので、その話を次に記す。

一 今月四日、豊後領の姫島より異国船十八艘ばかりが長州下関の上手の小倉領田ノ浦沖へ碇泊し、長州へ何ごとか交渉がある様子だった。その後、同五日昼九ツ時(正午ごろ)より、早くも長州領の前田というところの台場(砲台場)に向けて異国船七、八艘が近寄り、長州勢と双方が発砲して戦争となった。何分異船より発砲が激しく、前田台場ならびに陣屋の二カ所が崩れ、同九日までに同所の壇ノ浦台場一カ所、同陣屋三カ所ばかり、同所の人家八軒の家や土蔵、ならびに下関領の引島台場一カ所、陣屋二カ所、百姓家七、八軒を異人が崩し、焼き捨てた。そして異人どもが次々に上陸した。さらに野戦砲ならびに剣付き鉄砲をもって下関極楽寺・教法寺を打ち払い、長府城も少々打ち崩し、すべて下関より長府城までの浜辺側の台場・屯所は残らず打ち崩し、焼き払い、大砲二十挺ばかりを集め取ったとのことで、長州勢は敗走の模様。大勢が討ち死にし、生け捕られた者もある模様。しかしながら下関最寄りの町にある人家等は焼き払わなかったものの、そこに住んでいる者たちは残らず立ち退いたらしく、長州勢はまず敗軍の様子に見えた。同十日、異人どもは本船に乗り組み、下関の御戸前に二艘と、田ノ浦に十六艘ばかり碇泊した。通船はもちろん(可能で)、田ノ浦へ上陸したり不法の行いをしたりすることはないと小倉領で取り沙汰しているとのこと。

一 小方浦(現在の広島県大竹市の小方か)の渡海船(注⑥)の船頭の由兵衛という者は、七月二十三日、同所を出帆、商い事のため豊前国の小倉へ行き、商用を片付け、今月四日に退帆しようとしたところ、前日の三日暮れごろ、同国の田ノ浦へ異国船八艘が渡来、同類の軍艦を待ち合わせて戦を始めるという風聞を聞いた。やがて軍艦七艘がそろって、すでに戦争の形勢となり、世の中が騒がしく見えたが、帰国を急ぐため、五日朝、深く考えもせずに小倉川口を出帆した。その折から風が止み、沖合いの引き潮に漂っていたところへ、遠くに大砲一声、下関の壇ノ浦へ軍艦が来襲したようだった。砲声がしきりに響き渡り、海中に落ちた弾丸が潮の上で一面の火災となり、また前田・壇ノ浦近辺の人家、山中など所々が焼け、両軍の弾丸が空中に飛び交って震動が凄まじく、生きた心地がしなかった。ひたすら漕ぎ手を励まし、いま来た方向へ漕ぎ戻そうと立ち働いたが、潮が悪く、なんとか巌流島に流れ寄った。見渡したところ、十七艘の異船が入れ替わり立ち替わりすき間無く発砲していた。そろそろ夕方近くなって、下関の細井へ漕ぎ着けたころ、砲声がようやく鎮まり、異船は沖合いへ引き取った。同六日早朝より、戦いの砲声が激しくなり、陸地から打ち出した弾丸は異船に的中しても、それ以上に(船体を)破壊しなかった。異船から打ち出すボンベンとかいう大砲は台場のまん中に落ち、この毒丸(※毒の弾という意味か)に防禦の軍勢は持ちこたえられず、いずれ陸地での戦で勝負を決めようという覚悟があってか、前田・壇ノ浦ともに、守兵たちは台場を棄てて逃げ去ったように見受けられた。(異船側は)急に軍艦を進めるうち、一艘誤って岩礁に乗り上げた。そのほかの船はみな岸へ乗り付け、台場に乱入し、砲台の車陣屋などを焼き払い、すぐに「カト石」という山へ引き籠もったので、同七日、長州勢がここへ押し寄せ、手詰め(厳しく詰め寄ること)の勝敗、追いかけたり引いたりしながらしばらく戦い、異人が五、六十人討たれ、味方の甲冑の武士十五、六人が討ち死にした。ついにすべて負け戦になったとのこと。このころ、船頭の由兵衛は問屋の岸屋茂兵衛方で種々の話を聞き、前述の壇ノ浦で敵味方が入り乱れてもっぱら戦争をしているとのことなので、同家の手代、下男・由兵衛[ママ]・松次・亀蔵ら五人を連れ、具足・武器を携え、細い山陰を伝い、壇ノ浦の後ろの山に登り、松陰にうずくまって窺っていたところ、戦が終わり、異人どもは山上にたむろする模様だった。すると、弾丸が一発眼前を遮ったので、驚き、みんなで足早に逃げ帰り、なお様子をうかがっていた。「ヒク島」(彦島?)の大将荻野某は「古流ノ師家」(※日本に古くから伝わる軍学の師範という意味か)で評判がよく、みんなが頼もしく思っていたところ、同八日にいたり、異船が下関沖に乗り込み、「ヒク島」に発砲したが、台場に物音がなく、上陸して調べたところ、前日の七日、前田・壇ノ浦が落ち去るのを見受けて守兵がみんな逃げ去り、陣中が空虚になったので、異人どもがこれまた陣営を焼き捨て、前田をはじめ「デン松」(?)など各所の台場の砲器を残らず奪取した。ところが百斤以上の大砲は放っておくのも難しく、どういうふうにしたのか、(大野某らが)夜分に船中へ取り込んだとのこと。これにより、各所の台場の砲器はすべて見受けなくなったとのこと。また馬関(下関のこと)警衛の総勢は約千六百人といわれているが、すべてが退散した。このうち一宮の近辺の勝山というところの、長府侯の陣営に軍勢が逃げ延びたところ、台場の砲器を捨て、空しく逃げ帰ったことを、長府侯が憤り、御自分の馬上に旗を立て、進軍されたところ、異人どもは大将軍と見受けたのか、手を振って支援したので、その理由を尋ねたところ、諸国とはみな交易が整い、長州の一カ国だけ(交易を)引き受けていない。やむを得ず軍艦を差し向け、すでに砲器を奪い取ったけれども、戦争は人命の生死にかかわってよろしくないので、交易を許されるかどうかと申し出たところ、国主(長州藩主)が納得されなければ返答することはできないと返答した。これにより(異国側は)様子を見るため海岸へ十七艘を碇泊させ、まず戦争は止むので、通船は差し支えなくなったということを、九日夕にいたり、各問屋より触れ回ったので、同十日四ツ時(午前十時ごろ)、下関を出帆、今日の十一日午後三時ごろ、帰帆したが、このごろ異人どもが下関表を縦横に徘徊することがあまりにも無残で、なかなか言語に尽くしがたいということを申し出た。このことを聞き取り書をもってご注進申し上げます。

  八月十一日 割小屋小方村 和田吉左衛門

  長州表に異国船が襲来し戦争した様子を下方の者どもが見聞きした内容を別紙の通り申し出て、国許よりそれを送ってきたので、差し出します。このことを申し上げます。以上。

  八月十六日 松平安芸守留守居 菅野肇

【注①。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、四国連合艦隊下関砲撃事件は「1864年(元治1)のアメリカ、イギリス、フランス、オランダ四か国艦隊による下関砲撃事件。下関事件、馬関(ばかん)戦争ともいう。1863年(文久3)5月10日の攘夷(じょうい)決行を期して、長州藩は、下関海峡を通過したアメリカ商船、フランス・オランダ軍艦を砲撃した。その報復のため、翌年8月に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四か国艦隊は、艦船17隻、備砲288門、兵員5000人余で下関を砲撃した。藩内では、イギリス留学から急遽(きゅうきょ)帰国した伊藤俊輔(しゅんすけ)(博文(ひろぶみ))、井上聞多(もんた)(馨(かおる))が戦闘を回避すべく奔走したが功を奏さず、8月5日に戦闘が開始された。長州藩は奇兵隊や膺懲(ようちょう)隊が中心となって防戦したが、連合軍は陸戦隊を上陸させて、3日間で下関砲台のことごとくを破壊した。その後、高杉晋作(しんさく)によって和議交渉が行われ、長州藩は、外国船の馬関通行の自由、石炭・食物・薪水(しんすい)ほか外国船入用品の売り渡し、下関砲台の撤去などの条件を受け入れ、8月14日に講和が成立した。交渉では、前年の攘夷戦に対する賠償要求もなされたが、攘夷戦は幕府の命令によるものとして、その要求には応じなかった。禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)から下関砲撃事件に至る敗北は、藩内の攘夷派に打撃を与え、保守俗論派へ政権が移っていった。[吉本一雄]」】

【注②。朝日日本歴史人物事典によると勝海舟(没年:明治32.1.19(1899)生年:文政6.1.30(1823.3.12))は「幕末明治期の政治家。名は義邦,通称は麟太郎,昇進して安房守を称したが明治維新後に安芳と改称し,さらにこれを戸籍名とした。海舟は号。下級幕臣の長男として江戸に生まれた。父左衛門太郎(小吉)は自伝『夢酔独言』で知られる。従兄に剣聖男谷精一郎。剣術に続けて西洋兵学を究めるため蘭学に志し,ペリー来航時には江戸で有数の蘭学兵術家だった。安政2(1855)年から幕府の長崎海軍伝習に参加してペルス=ライケンやカッテンデイケの教えを受けた。安政6年帰府すると軍艦操練所教授方頭取。万延1(1860)年には咸臨丸の事実上の艦長として太平洋を横断。文久2(1862)年幕政改革の一環として軍艦奉行並に抜擢された。翌3年4月には将軍徳川家茂の大坂湾視察を案内して神戸海軍操練所設立許可を取り付け,これを幕府と西南諸藩「一大共有之海局」に仕立て,さらに欧米の侵略に抵抗する東アジアの拠点に育て上げようとの構想を持った。元治1(1864)年5月神戸操練所発足とともに正規の軍艦奉行に昇ったが,同年7月の禁門の戦争以降の幕権保守路線に抵触して10月には江戸への召還命令に接し,戻ると罷免されて寄合入りした。慶応2(1866)年第2次征長戦争に際して軍艦奉行に復任し,会津・薩摩間の調停や長州との停戦交渉に当たる。明治1(1868)年鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜の東帰後は陸軍総裁に昇り軍事取扱に転じて旧幕府の後始末に努め,東征軍の江戸総攻撃予定日の前夜に西郷隆盛と談判して戦闘回避に成功した。一時は徳川家と共に駿府(静岡)に移ったが,新政府の相談に与って東京に出ることが多く,5年には海軍大輔,6年10月の政府大分裂のあとは参議兼海軍卿に任じた。しかし翌7年の台湾出兵に不満で辞任し,以後明治10年代にかけては完全に在野で西郷隆盛復権の運動などにかかわった。20年伯爵,21年枢密顧問官。明治政府の欧米寄りを批判し続けて清国との提携を説き,日清戦争には反対だった。足尾鉱毒事件を手厳しく批判し田中正造を支援した。<参考文献>石井孝『勝海舟』,松浦玲『明治の海舟とアジア』(松浦玲)」】

【注③。精選版日本国語大辞典によると、四箇は「 (大坂の天満山・千日寺・天王寺・鳶田の四箇所に居住したところから) 非人の長をいう。長吏」。また、長吏は「中世、畿内、近国で、非人集団を統率する頭の称。特に、江戸時代、大坂で、与力・同心に属して犯罪人の探索や逮捕などの目明しの仕事に当たった非人の頭の称。非人の居住地として、鳶田・千日・天満・天王寺が決められ、それぞれの集団の四人の長を称した。」】

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利元周(もうり-もとちか1827-1868)は「幕末の大名。文政10年11月9日生まれ。毛利元寛の子。叔父毛利元運(もとゆき)の養子。嘉永(かえい)5年(1852)長門(ながと)(山口県)府中藩主毛利家13代となる。四国艦隊下関砲撃事件,幕長戦争などで宗家を補佐した。慶応4年5月7日死去。42歳。」】

【注⑤。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、早船(はやふね)は「江戸時代,瀬戸内海に就航していた船足の速い船をいう。下関-大坂 (あるいは兵庫) 間の海路は外国使節の参府,西国大名の参勤交代,その他一般乗客でにぎわい,次第に船足の速い船が要求されるようになって登場した。幕末の記録では下関-大坂間を3日半で航行した。」】

【注⑥。精選版 日本国語大辞典によると、渡海船(とかい‐ぶね)は「江戸時代、主要都市間を連絡して貨客輸送にあたった海船。大坂を中心として瀬戸内海に多い。数十石積から四百~五百石積まで、航路の長短により大小の差があり、艤装にも大きな差がある。長距離用の代表は小倉渡海で、北九州~大坂間を往復し、大型の屋形を設けて当時の客船としては最上のものといわれた。近距離用には尼崎・西宮・兵庫などの渡海があり、屋形のない小船を用いたが、西宮渡海などは沖繋りの廻船の荷役も行なった。渡海。とかいせん。」】

新聞覚え(新しく聞いた話)

一 長崎を出発後、赤間関(下関のこと)に来ましたところ、長府(現在の山口県下関市の南部。長府藩は長州藩の支藩)の戦争の話を聞きました。そこで、この日八日七ツ時(午後四時)ごろ、旅宿の亭主・田丸屋助七と申す者を一間に呼び寄せ、長府城下へ入り込んで模様を見聞きしたいと言ったら、亭主が言うには、私のせがれも近年、武術を修め、今日は公務で藩庁に行っておりますが、夕方帰ってきたら相談して、そのうえでご返答申し上げたいということでした。この旅宿から城下へは二、三里ほど隔たっているが、 夷船が到来後、七日夜から新田というところより上陸し、城下の方へ列をなして押し寄せた。長府藩の軍勢も出動し、互に戦争に及んだという話を聞きました。ほどなく旅宿のせがれが帰り、亭主と相談のうえでこう返答しました。「思うようにならず残念ですが、他藩の人間は城下への立ち入りを禁じられており、そのうえただいまの戦争のことゆえ、なおさら国禁のことになっておりますので仕方ありません」。ところで、旅宿の近辺で様子をうかがったところ、八日夜の丑三つ(午前二時)のころ、夷人が陸から引き上げ、海上でまたまた戦争に及び、二艘が水船(精選版 日本国語大辞典によると、水船(みずぶね)は「打ち込む波や船体の損傷による浸水で船内に水が充満し、沈没しそうな状態の船。」)になったとのこと。とりわけ陸地での戦いも夷人側には死人が出て、かつまた二人が生け捕りになり、その者たちは指揮官だとのこと。翌九日、夷人は軍勢を引き上げ、十里くらい沖に碇泊して様子を見合わせているとのこと。赤間関の沖には異船数十艘が見えるとのこと。長州側の死人の数を尋ねたところ、二十人ばかりいるとのこと。いずれも軽卒(身分の低い兵士)とのこと。夷人の方は二百人余りといいます。これは天竺町の伏兵が焼き玉(精選版日本国語大辞典によると、焼き玉は「銅製の球に火薬を込め、火をつけて敵中に投じるもの」)を打ち込み、不意のことだったので(夷人が)みな新田に引き取り、乗船したとのこと。英国人ということです。九日の午前十時ごろ出発し、とりあえずお届けをします。

右は宿毛の鎌田與三郎が山内殿へ届け出た情報、(鎌田は)昨日の十四日夜に御城下に到着した。

一 八月四日、長州沖へ十八艘が碇泊。小倉藩より、長州を討つ件は(朝廷の)追討の命令が下っているので差し控えるようにと(夷人側を)諭した。すると夷人側は、このたびの長州の諸台場の兵器をことごとく取り上げ、幕府へ差し上げるということを横浜で通達したうえで、(長州沖に)廻船していると申し出たとのこと。

一 八月五日の午後二時ごろ、英仏米蘭四カ国の軍艦十八艘が前田砲台場で戦争に及び、その日の日中で止んだ。翌六日早朝より、前田・壇ノ浦で戦争に及び、やがて陸戦となり、長州側が山谷に伏兵を配置して接戦となった。このとき夷人の手負い三十六人のうち十八人が死んだ。やがて長州側は大敗走。翌七日、(夷人側は)馬関近辺へ少々砲撃し、人家二、三軒に火を放った。それより夷人側は次々と前田・壇ノ浦等の砲台へ上陸し、陣屋等を焼き払い、大砲等を奪取。あちらこちらを行き交い、夷船より打ち込んだ弾丸を掘り出した。このとき長州人はひとりも近辺にいなかったとのこと。それから夷人は田ノ浦まで引き取り、翌八日、巌流島より引島砲台に大砲を放ち、次々と上陸した。長州人は前夜に引き払い、その際、大砲をそれぞれ土中に埋めておいた。夷人はそれを奪取して帰ったようだ。同日午後三時ごろ、長州藩の宍戸刑(高杉晋作のこと。注⑦)が宰相さま(長州藩主毛利敬親のこと)の書状を(夷人側に)持参して、昨年来、通行する船を砲撃したのは、天朝・幕府の命を受けてのことだとしてお詫びをしたが、(夷人側は)この書状には侯(藩主)の御印がなく、ことに天朝・幕府の命だというのはありえないとして、一切承知しなかった。このため同十日、毛利出雲・杉徳助・畑野金吾・後倉太▢[ママ]が天朝・幕府からの攘夷期限等のお墨付きを持参して、談判にかかったところ、(夷人側は)これは決して実物ではありえず、このうえは宰相さま父子が馬関に出てきて直に応接してほしいといって承知しなかったので、山口に知らせた。すると十四日まで待ってくれるようにと申し置いて帰ったとのこと。

なお和議が成立すれば、昨年来の砲撃やこの度の軍艦派遣に要した雑費を償ったうえ、また馬関近辺の砲台に一切砲器を備えず、船で通行する際の薪水等を自由に「見決呉候様」(※面倒を見る、もしくは供給するといった意味と思うが、正確ではない)。またこのたび馬関に火を放つべきところを容赦したので、それだけの価の金を取り立てると言っているようだ。もとより長州一国の人民には恨みはないけれども、昨年の通船を理不尽に砲撃した責任をとってもらうと言っているようだ。

同十四日、交渉の上、和議が整い、償金等のことは一切夷人側が望むにまかせる約束になったとのこと。ところが夷人側より官士(政府の役人の意か)が横浜にいるので、この者に相談の上、金額等を定めるとして、すぐ(異船)二、三艘が横浜へむかったようだ。

【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、高杉晋作(没年:慶応3.4.14(1867.5.17)生年:天保10.8.20(1839.9.27))は「幕末の長州(萩)藩士。父は小忠太。安政4(1857)年藩校明倫館に入学。次いで吉田松陰の松下村塾に入り久坂玄瑞と共に双璧と称せられる。翌年7月江戸に赴き昌平黌に入学。獄中の松陰に金品を送る。文久1(1861)年世子毛利定広の小姓役,翌年5月藩命により幕府船千歳丸に乗船し上海へ渡航,植民地の実情を観察し帰国。同年11月久坂らと品川御殿山に新築中の英国公使館を焼打ちにする。翌文久3年1月松陰の遺骨を小塚原から回収,武蔵国荏原郡若林村に改葬。3月上洛。尊攘運動の興奮をいとい10年間の暇を乞う。「西へ行く人を慕ふて東行く 心の底ぞ神や知るらん」と,僧形となり東行と号して萩に隠棲。時に長州藩は外国船砲撃を断行し,報復攻撃にあって敗北。直後の6月藩命により下関防御の任に当たり奇兵隊を結成,自ら総督となる。時に25歳。奇兵隊の「奇」は正規軍の「正」に対する「奇」で,庶民も入隊できる有志隊であった。 8月18日の政変で京を追われたのち,長州藩内に高まる武力上洛論に反対,翌元治1(1864)年1月脱藩し上京,帰国して獄に入れらる。出獄後の同年8月,四国艦隊による下関砲撃の善後処理を命じられ講和条約を締結。第1次長州征討の進行に伴い佐幕派の藩政府が誕生,危機を察して九州に脱走し野村望東の平尾山荘に潜伏。下関に帰り,同年12月に挙兵。死を覚悟し「故奇兵隊開闢総督高杉晋作,則ち西海一狂生東行墓」の墓誌を用意した。佐幕派藩政府を相手に勝利を収めたのちイギリス留学を希望。次いで脱藩し讃岐の日柳燕石のもとに身を寄せる。帰藩後,用所役として藩政指導を担当。慶応2(1866)年6月海軍総督,幕府との開戦直後,小倉方面の戦闘を指揮した。同年10月,肺結核を重くして退職,翌年4月下関に病没した。享年29歳。のちの顕彰碑には「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し,衆目駭然,敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや……」とある。<著作>『高杉晋作全集』(井上勲)」】

一 宰相さま父子の出張の件は京都のご都合があって、難しくなったため、お断りになったとのこと。

一 今月八日、長崎において宇和島藩の吉見三彌・金子孝太郎の両人が英国コンシュル(領事)に会ったところ(コンシュルは)次のような話をした。英国・米国・仏国は、昨年以来、長州が通船に砲撃するのを憤っている。そのため英船十艘、蘭船四艘、仏船三艘、米船一艘の計十八艘が昨日今日、田浦の辺りに集結し、「十[ママ]時ヲ置」(?)馬関の辺りを砲撃し、[戦争というほどのことではなく、少々砲撃する]、それより交渉に取りかかるという。このため両人がとりあえず小倉まで引き返したところ、早くも戦争は済んでいたとのこと。

一 長州より今月五日、長崎へ知らせがあったところでは、これまで三本柱の船を見かけたときは、日本船・夷船の差別なく、砲撃していたが、これからはたとえ異船であっても応接の上でなくてはみだりに砲撃しない旨を届け出たとのこと。

一 長州さま(?誰を指すのかよくわからない。ご勘弁を)が最近、大に悔悟なされ、(家老の)益田右衛門介以下を頼りにされ、「夫々御調有之趣」(※意味がわからないので原文引用)、かつ宰相さま(藩主の毛利敬親)は剃髪され、官位の返上を申し出られたようだという情報がある。

一 このたび京都から敗走した(長州の)軍勢は御国内(長州)に入らず、(長州藩の)大坂留守居役は船で帰国する際、問屋に(船の手配を)頼んだとのこと。

右は高屋左馬助の探索書の記述とのことである。

一 八月十四日、下関より注進があり、その内容は次の通り。

今月一日、豊後姫島の沖合いに繋船していた英仏蘭米四カ国の軍艦十八艘が、四日になって長州の沖合いに入り込みました。そのため五日朝、当地より応接に出たところ、下関から長崎まで故障なく通船できるようにしてほしいと要求してきましたが、「近来ノ儀ニ付」(※こういう時勢なのでというような意味なのか?)、聞き届け難いと返答しました。そうしたところ、五日昼すぎ、船を仕掛けて来たので、長府の外ヶ浜台場より発砲し、それより双方が撃ち合いになりました。このため、恐縮ながら、高見の場所から見受けたところ、いちばんの軍艦は片側を「御察シ」[ママ。ここに脱字があるか]、双方の発砲の音が山海に響き、実に震動が雷のようで、矢玉は大雨が車軸を流すようでした。同日夕、双方が陣を引きました。翌六日朝の六時ごろより、前日のように撃ち合いがありました。七日、(長州側の)陸戦に持ち込もうという戦略により、壇ノ浦・前田まで三カ所で大合戦となり、濱田では地雷火のため夷人どもの即死が多数ありました。同日、夜通しで戦い、八日午前十時ごろまでに夷人四百人余りが死亡。怪我人は数知れない様子。当地の諸士は四人ばかり即死、怪我人が三十四人出たとのことです。ところで、「関地先御役人」(※下関あたりの役人と解したが、間違いかも)が主君の命を受け、一騎で、長府より下関に出る途中、前田あたりで夷人どもに前後を取り巻かれました。多くの夷人は残らず剣付き鉄砲等をうち捨て、平伏し、和睦を願ったとのことですが、何分通訳がいないので、言葉がわかりません。この夷人は懐から白旗を取り出し、本船を指さし、「十八艘の白旗を上げさせると、それは和睦の印となる。日本でもそれと同様に白旗を上げてほしい」とのことでした。であれば、和平に関して願い事があるようなので、御在番(関地先役人のことか)はわかったと言うかわりにうなづいて、双方が別れ去る際に馬をなでさすって暇乞いをしました。(夷人は)すぐさまバッテイラ(軍艦のボート)で白旗を掲げて本船に漕ぎ付けました。鐘を打ち鳴らし、十八艘も残らず白旗を立て、同じく鐘を打ち鳴らしました。すると外で戦っていた夷人たちは残らず鉄砲をうち捨て、平伏しました。このため当方の諸士もやむなく陣を引くことになったということです。どういう譯でしょうか。詳しいことは下々にはわかりませんが、(異船は)いまだに滞船していて、すでに九日夕方までに拙宅の沖合いを九艘が航行したり碇泊したりしております。もっとも戦争の際、夷船六艘ばかりが破損し、うち三艘は大破損して、ただいま田ノ浦沖で修理しているということです。

一 六日の発砲で当町内の東側の四軒家というところが残らず焼火玉に当たり、破損した家が十四軒ありましたけれども、怪我人は一人もありませんでした。ただいまは夷人どもが上陸し、遊行しているもようです。このあとどうなりますか。次便より申し上げるつもりです。以上。

八月十四日

別紙は下関より急飛脚で昨夜、知らせてきたもので、今朝、それを写し取らせ、ご覧に入れたくて差し出します。長州にてもまず勝利を収めているなら、皇国の誉れでありまして、大悦このことでございます。[略]

八月二十三日

安井九兵衞 花押

宛先[大坂在役であろう。安井九兵衛は大坂総年寄りという]

一 宇和島よりこのたび御直書(藩主直筆の書簡)が来た。そのなかに添えられていた探索書。八月二十七日、高知着。すなわち次の通り。

仏国の飛脚船が横浜より瀬戸内海を通って、馬関(下関)にしばらく碇泊、戦争の経緯のだいたいを伝え聞き、それより当地(長崎)に昨日入港した。新たにもたらされた知らせを次のように承った。

一 今月五日、六日の砲戦で馬関の砲台はほぼ打ち崩れ、当市中に数発打ち込まれるにいたり、長州側より和睦を乞うたとのこと。交渉の趣旨は、大膳大夫(長州藩主)父子は攘夷については、真実信用していなかったが、この書面の通り[先月十八日以前の勅定であろう]、朝廷・幕府よりしきりに攘夷の厳命があり、黙止することができず、速やかに発砲に及んだ次第。このうえは(英国など)各国の命令に服し、和親を結びたいという趣旨で、豚鶏を数多送ったとのこと。これにより醜夷どもは発砲を止め、各国が話し合って軍用金三十万ドル位を求めることを内定したとのこと。そういう経過で、[大膳大夫父子の使いであろう]今月十三日、深く和親を結びたいという趣旨で、各国の軍艦に乗り付け、和平の条約万端を取り決めるつもりだと言ってきたとのこと。

一 この和平が整えば、英国艦のみが馬関に残り、仏・蘭の艦船を大阪湾に送り、砲台築造等の実否(本当か嘘か)を見聞させるという風評が軍艦内であるとのこと。政府(幕府のことか)において和親を好むなら、火急に砲台を築造する道理がないだろう云々。馬関に滞留する夷人どもは長州人の内情を聞いて、長州に罪なし、政府の処置がはなはだ宜しくないという空気である。(長崎)在留の夷人までもほとんどこれを信用する勢いだ。長州人はよほどうまく説得したと見え、まさに今日、大膳大夫父子の使いが乗艦して、どのように話しているのか。恐るべし。

一 馬関の砲台に備え付けられていた大砲の良好なものだけを選び、八十五挺が各国の手に奪われたとのこと。そのほか不要の大砲は、火門(銃砲の点火する口)に釘を打ち込んで捨てたという。

このほか陸地での戦もあったとか聞いたけれども、詳しいことは後で報告する。

別紙

この二、三日、探索して得た情報により、長賊(朝敵長州)の始末をとくと熟察したところ、つぎのように思い至った。(長州は)今回の京都での暴発により朝敵の名号を逃れがたく、すでに列藩が長州征討の命を奉じたこともとっくに伝え聞いているはず。内外の大軍による危機が切迫してここに極まり、防長の自滅はこのときと知った。それゆえ平常の策略ならば、外患を除き、内患から逃れるため、今の攘夷説を主張し、相手をだまして和を乞い、夷艦を襲う拙策かもわからない。しかしながら、これまでの長賊の所業をはたから見たところでは、概して表裏が反転していて、表に勤王を唱えながら内実は容易ならざる謀反の心を抱いているのは言語道断、今回も例の通り意外な反逆のたくらみより出たものではなかろうか。馬関の一戦以来の交渉の首尾を推し量ると、醜夷が長州を襲った勢いで大阪湾に回るのだろうか。それを許せば、長賊は早くそのことを知るにちがいない。これにより、彼我の時機を計り、速やかに和親を結び、大膳大夫父子の使いが乗艦し、彼等を欺いて水魚の交わりを約する。そうして、発砲したのは長州藩の罪ではなく、去年八月以前の「後證跡無之」[ママ]、天朝・幕府の厳命を無視できずにやむを得ず、いったん発砲に及んだ云々。天朝・幕府および列藩をもって自分の「暴石」[ママ]に換え、大阪湾に砲台を築造したことまで彼等(夷人)に嫌悪させ、「餘證ニ唱」(?)、大阪湾へ(異国船を)廻したとのこと。天朝に「強願ヲ立ツル逆意諭[ママ]」、恐れ多くも朝廷に対し戦端を開かせ、自分の危機を皇国一般にすり替え、挙げ句の果てには動揺の機会に便乗して、夷賊を意のままに操り、彼等の兵権を借りて、天下を併呑掌握するという大望、いや反逆のたくらみから出たものでありましょうか。であるならば、天下国家の危機はこのときでありましょう。進退を挽回する策略を立てることは至急かと存じます。苦心慨嘆に堪えず、軽はずみな愚察をとりあえずご覧に入れたいと思いました。敬白。

元治元年八月十六日

川口香蔵

松本杢兵衛さま

  侍史

引き続き長崎において、長賊の姦計を詳しく解き明かしたく、何かいい考えもないものかと苦心しましたが、何分機会を失し、空しく歯ぎしりをするのみです。これより、万々一大阪湾に(異船が)廻るような事態になったら、是非耐え忍んで至当の応接をしていただき、長賊の反逆のたくらみに陥らぬよう、周旋尽力のほど、互に望み奉ります。そうすれば、列藩が長州征討の兵を挙げ、長賊の罪を正し、各国の醜夷どもにあまねく示したいとひたすら願っております。以上。

一 八月六日、西御屋敷で堅馬さまが死去された。

[参考]

一 京都より来た書状の写し。[前後を略す]

中川宮さまが一昨日の七日、九州西国鎮撫将軍に任じられた。実にご英断、感激の至り。「関東奸吏」(※幕府の、心のよこしまな役人という意味か)はぞっとしているにちがいない。

八月九日

[参考]

一 同十五日、松山侯(伊予松山藩主・松平勝成)の使者である番頭兼任の松下小源太[年齢六十歳くらい]上下九人、お目付藤野主馬[年齢四十七、八くらい]上下八人が到着。

一 同二十二日、藩が出したお触れは次の通り。

このたびの防長(周防国と長門国。長州藩のこと)追討のお沙汰に関して、(太守さまの)お考えがあり、御奥さま[長州よりお輿入れの方である]は離別され、(お城を)退去される。当分、五藤内蔵助の留守屋敷を借り上げ、そこに住まわれる。よって、今日から、

俊姫さまと唱え奉るようお命じになった。

右のことをそれぞれの組の者たちに申し聞かせるよう。

「例文」(?)

元治元年八月二十二日

御奉行 福岡宮内

     桐間将監

[俊姫さまは慶応三年、中島町の林邸に移られ、明治元年、帰城され、二ノ丸へ移られ、明治五年八月六日、浦戸を出帆、上京された。]

(続。毎度のことですが、不正確な訳で申し訳ありません。いずれ専門家の力を借りて、正確な訳にするつもりです。それまでどうかご勘弁を)