わき道をゆく第234回 現代語訳・保古飛呂比 その58

▼バックナンバー 一覧 2024 年 4 月 24 日 魚住 昭

一 (元治元年)八月二十六日、京都ヘ同行した武藤清八・松下與膳が帰藩。

一 同二十七日、自分と松木新平が帰藩。

一 同二十七日、帰藩のうえ聞いたところ、先月二十七日、自分等が高知を出発した日の夕刻、清岡道之助・治之助の暴挙があった。城下の人心は恟々(恐れて震え上がること)としたとのこと。委細を聞いた。清岡道之助は友人だが、遠隔の地にいるので、近来の模様は聞かなかった。すこぶる剛直な人物である。惜しむべし。ことの顛末は別に下に記す。

一 同三十日、日比忠兵衛が帰藩した。

ただし、同行の喜多村虎次郎は病気のためついに上京しなかった。

このたび京都の変事のため上京の命を受けた人は次の通り。

松下與膳 同志

喜多村虎次郎 曖昧、佐幕の方だろう。

武藤清八 佐幕

松本新平 同

日比忠兵衛 同

右のような人選は、政府(藩庁)においてよほど注意したようだ。

[参考]

一 八月三十日、[藩にて左の通り、という記述が抜けているようだ]

洋式砲術学 洋式築城学 航海学 洋学 西洋医学

右の学術を志す面々は、しかるべきところへ差し向けられるはず。有志の輩は、来月二十日までに(届を)提出したものをまとめてお目付役場へ回付することになる。[記録抄出]

[参考]

一 八月、藩にて左の通り。[記録抄出]

このたびお供の面々を率いて上方方面に差し向けられた輩は、彼の地において袖印(注①)を用いるようにと公儀より命令があったので、それぞれの家来に至るまで(袖印を)用意すべし。もっとも、それぞれの奉公人どもで無名字(名字のないもの)以下の者は、その身なりそのままで派遣する。

【注①。精選版 日本国語大辞典によると、袖印(そで‐じるし)は「 戦場で敵味方を識別するために、鎧(よろい)の袖につけた標識。小さな旗状のしるしで、多く布帛を裁ち切って用いるが、小旗や木枝なども用いた。袖の笠標」】

[参考]

一 ある人が勝安房守(勝海舟のこと)塾中の高松太郎(注②。坂本竜馬の甥の坂本直のこと)より聞いた話は次の通り。[記録抄出]

先だって水野和泉守(注③)さまが二条宮さまへ参殿し、建言したところでは、これ以後、長州へ異船が襲来する恐れがある。万一襲来して戦争になった場合、援兵を差し向ける諸藩もあるだろう。そのようなことにならぬよう、前もって諸藩へ布告をしていただきたい、と申したところ、宮さまのお答えはこうだった。長州がこのような罪名を得たといっても、土地においては神州にある。その神州の地を夷狄に侵されるのを、神州人として傍観しておいて済むことか、と。(和泉守は)即座に論破され、一言の申し開きもなく退出した。翌日、人を遣わして(二条宮に)申し上げたのは、昨日和泉守より建言したことは、いささか言葉の間違いがあるので、そのように思し召されたいと申し出たとのこと。この四カ国の異船は、長州襲撃のとき、最初小倉藩に頭越しに談判した。そのとき(異人側は)長州の件は、天朝の命を用いず、幕府の令を聞かず、かえって皇居に迫って騒擾に及んだ罪を追討すべきだというのでその命令を幕府の官吏より受けてのことで、(小倉藩の)ご領分にはいささかも迷惑をかけませんと言っておいて、長州へは何らの交渉もせずに無二無三に襲いかかり、発砲に及んだとのこと。小倉藩は安堵し、長州の台場が崩れ、あるいは人家が焼けおちることなどを傍観し、かえって愉快の様子だったとのこと。右の事柄は京都で、薩摩・越前の配下に聞こえ、大に人心沸騰し、いずれも前述の二条宮さまの説に同じで、薩摩より何か密書をもって建言に及んだことがあった。このうえは、幕吏の責任を追及する議論が紛々たることになるだろう。このため、このたびはご隠居様(容堂)の上京がなくては、天下に相談すべきお方はいないという結論になり、諸藩からご隠居さまを渇望しているとのこと。右の異船が長州へ押し寄せた一件については、(幕府が)神奈川で夷人に応接し、外国奉行などがその任に当たっているとのこと。右の戦争の知らせが江戸表に伝わって以来、すぐさま外国奉行が差し向けられたが、始終、右の四カ国の跡を付けていって、すでに事が済んだ後にやってきたとのこと。これはたしかに意味のあることか、「相許候趣」(※意味がよくわからない)、一橋卿は長州派遣の朝命(朝廷の命令)を辞退され、ほかにしかるべき者を差し向けていただきたいと建言したところ、それならば勝安房守に命じようという朝議が決まった。薩摩より建言したのは、これらのすべては幕府に委任されたらその手順がよろしかろうとのことで、一橋殿に朝命が下り、一橋公のお沙汰で、お目付のほかに何か奉行役のお方らが大坂に下り、安房守に命令が伝えられた。安房守はすぐさま出帆したが、これまた戦争が済んだ後に着いて、空しく引き返したとのこと。安房守は出帆から帰帆まで三日三夜の往来ということ。その後、長州は夷人と和睦し、異船の損傷を小倉領または長州でか修復しているとのこと。そのうち京都において長州征伐の件はいよいよもって止めになるような情勢だと、薩摩・越前の探索役から聞いた。

右の一件は京都においても薩摩・越前の外へいまだ漏らしていないとのこと。

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、坂本直(さかもと-なお1842-1898)は「幕末-明治時代の武士,官吏。天保(てんぽう)13年11月1日生まれ。高松順蔵の長男。母は坂本竜馬の姉千鶴。土佐高知藩の郷士。土佐勤王党にはいるが,脱藩して小野淳輔(じゅんすけ)と名のり,海援隊で活躍。慶応4年箱館府権(ごんの)判事。明治4年坂本竜馬家の家名をつぐ。のち東京府典事,宮内省舎人などを歴任した。明治31年11月7日死去。57歳。本姓は高松。初名は清行。通称は太郎。」】

【注③。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、水野忠精(みずのただきよ[生]?[没]1884.5.)は「江戸時代末期の幕府老中。和泉守。老中水野忠邦の世子。弘化2 (1845) 年9月浜松藩主襲封。 11月山形藩5万石に移封,文久2 (62) 年2月老中となり,横須賀製鉄所設立協約に調印。慶応2 (66) 年5月辞任。」】

  九月

一 この月四日、このたび俊姫さまが当分五藤内蔵之助の留守屋敷を借り上げてお住まいになるので、右の留守屋敷を御假住居と呼ぶことになった。

一 同五日、清岡道之助以下が刑に処せられた。

これについて山本正誼はこう記している。

そもそも野根山の一挙(注④)というのは、幕政の末、外交がようやく開いて内外の事件が多発し、天下がほとんど危機に瀕する時にあたり、諸国の勤王の有志が百方尽力したけれども方向が一致しなかったため、正邪の区分が立ち難く、各藩に大同小異があって国是が一定せず、我が高知藩においてもそうだった。ここにおいて勤王の士が天下の豪傑に気脈を通じ、国家のために大いに計画をめぐらす最中、時勢はますます切迫して、一途に建言するものは、あるいは幽囚の身となり、あるいは不慮の死を遂げる者が多々あった。その惨状は事実に照らして明瞭なのでこれ以上は言わない。そうして勤王の大義を唱える者は、百折不撓(何度失敗しても挫けないこと)、必死の精神で百万尽力したが、素志がひとつも貫徹しないので、その心は凝り固まってほとんど為すところを知らぬありさまになった。ここにおいて、我が藩の東西の有志が将来の運動の方向を定めるために高知に集まった。安芸郡からは清岡道之助が参加して、この評議に預かった。衆議の結果、かつてのような姑息主義であくまで言上しても、それが功を奏する望みはない。よって、正面から迫って、有志の国家に尽くすことの正邪当否の下命を仰いだほうがいいということになった。その方法については、藩内の有志を三分し、香美郡部落に属する有志は、書面をもって憚ることなく死を覚悟して言上すべきだ。安芸郡・幡多郡の両郡はいっそう激しく出て、藩内の有志が国是の成否如何をこの一挙で決しようということになった。各郡の有志は解散し、道之助は帰村当日から諸所で集会をもって、言上の策を相談した。それぞれ意見があり、ある者は要害の地を選んで、有志の素志が貫徹するまで言上すべしと言い、ある者は幡多郡とともに東西同時に事を始めるには、僅かな人員でやっても、たちまち圧倒されて、好結果を見ることはとてもおぼつかないと言った。幡多郡の巨魁である樋口眞吉に照会して幡多郡の異論を聞いた上で再び相談することに決まり、山本左右吉の仮住まいがある小高坂村に集まって互に協議した。眞吉は、香美郡有志のなすことを見て、その後で一層激しく出た方がいい。いま同時に事を起こそうとしても、幡多郡では速やかに行いがたい事情があって、ただちに答えに困る旨を述べた。左右吉は、安芸郡においては方法の如何についていまだ確定していないが、いずれいつか事を起こすと承知してもらいたいと述べておいて、[そのとき幡多郡の田邊剛次郎らの異論があったが略す]帰途、古川村の村田を訪ね、山本喜三之進ほか二、三の士と会い、安芸郡があらまし仮に定める方法を議論した。いずれもが過激すぎるのではないかという恐れを抱いた。幸い、喜三之進は私祭(個人が行う祭祀)があって伊尾木村に行く予定があった。嫌疑を避けるのに格好の機会なので、その際、同村の同志山本賴蔵宅で面会し、香美郡同志の意見を述べようと日にちを約束し、左右吉は田野村に帰ってその旨を告げた。みんなは幡多郡は因循で、前に言っていたことと話が違うといい、議論が紛々とした。そうして喜三之進との約束の日になり、清岡治之助が伊尾木村に行き、同人と面談したが、安芸郡が激昂したため、香美郡の意見をよく検討する余地がないまま別れた。これより安芸郡は各郡に相談することなく、安芸一郡の考えが向かうままに進退することに決めた。その方法を議論するにあたり、野根山の岩佐という要地に拠って(藩政府に)献言しようという意見があり、あるいは献言する場所が、西にありながら東に退いて岩佐に屯集するのはダメだ、西に進んでその場所を定めても、適当なところは少なくないという意見もあった。また、あるいは、田野より西に進めば郡役所に後ろを断たれて進退の自由がなくなると。また、次のような意見もあった。強いて要害の地に拠ろうとするのは、結局、脅迫主義に近く、有志の素志に反するもののようであるだけでなく、藩政府の怒りに触れ、せっかくの精神を貫徹することがおぼつかなくなる。むしろ一同で家郷を出て高知城下に屯集し、餓死しても退かず、精神のあるところを吐露すべきた。もし捕縛などの動きがあったら、あらかじめ用意を調えておいて、速やかに切腹しよう。そのときは生前に結果を見ることはできないけれども、死後、藩政府も我々の心のうちを憐れみ、残る同志の忠告を入れられるのみか、僅かな命を落とすことで一般の士気を鼓舞する方策になる、と。あるいはこう言うものもいた。果たしてその言葉の通りになればよいけれども、もし事に臨んでいささかたりとも醜態の挙動があった場合には、後世の笑いの種になるばかりか、我が党の忠言は虚言となり、かえって我々の忠情を貫徹することができなくなる。野根山に屯集する者は僅かな人数だといっても、要害の地であるから進退が自由であり、十分献言する余地があるにちがいない。そのうえ、見込み通りにいかなくても、国境から阿波領に出れば、現在の牟岐の郡令は有志なので助けてくれるにちがいないと信じる、と。この意見に賛成する者が最も多かった。[郡令を頼む原因は、安芸郡の郡令より、隣接のことゆえ亡命者等がある際には互に捕縛のうえ引き渡すようにしたいという旨を照会したところ、それに対する回答として、現在の時勢につき、国家のために亡命するものが少なくない。実際にことが起きてみなければあらかじめ照会に応じることはできぬ云々と答えたからだった。]あるいは別の者はこう言った。郡令ひとりの美言は頼むに足りない。以前、中岡慎太郎(注⑤)が脱走したときのことを考えたほうがいい。中岡は阿波で同志の家を訪ねたが、奸者(悪い奴)のために一夜の安眠を全うすることもできなかった。昼間は山野に隠れ、始終夜行だけで、辛うじて中国地方に渡ることができたのではなかったか。これはまったく国論の定まらない我が藩の状況より幾倍も厳しい感がある、と。よって(阿波領の)その地方に行って現況を視察することに決まった。川島惣次をひそかに派遣し、川島は十日余り現地に滞在して帰った。川島の報告に曰く。国論一定せず、奸党は日増しに勢いを得て、正義の士は嫌疑のため往来も自由にできず、例の郡令の如き者もその職を解任される日が近いようだ。この結果、衆議は阿波を頼りにしないことに決まった。それでも、野根山に拠ることを賛成する者が多かった。そうして、ある者はこう言った。今の時勢は極々切迫して、ことは今日明日に起きるにちがいない。そして国(土佐藩)のことはどうしてもしなければならぬ目的はない。むしろすぐに京都・大坂間に出て、外側から国のことを救うとすれば、決して変(近いうちに起こる一大事変という意味か)に遅れる心配もなく、一挙両全(一つのことをなすことによって、二つのことがうまくゆくこと=精選版日本国語大辞典)になるだろうと。みんなはこう言った。その説は大いに理があるけれども、前に高知の集会で決めた約束に背くのみならず、何も言わずに国境を出て、事がならずして斃れることになった場合、数百年の大恩に浴しながら、軽はずみにも国難に赴くという口実で、その実は自分の名誉を得ようとして愚かにも斃れたとの誹りを免れない。また獄中にある者に対しても「深切ト云ハザルヲ得ズ」(※深切といえずの誤植か)。ともかくも野根山に拠って献言をなし、その勢いにより臨機の計画を立てなければ、いつまで議論しても仕方がないと。よって各自ひとまず解散して再会のうえ速やかに出発の期日を決めようと約束した。七月十六日の夜、安田村不動の海浜に再会して、七月二十五日を期して出発することに決まった。翌十七日、清岡道之助が山本左右吉に至急面談したいと連絡してききたので、直ちに会った。清岡曰く。「我が輩が熟考するには、誰か(外部と)応接する者が残らないと不都合と思う。君がその任にあたるべきだ」。山本曰く。「僕と中岡慎太郎の二人は、安芸郡で最初より国事のために奔走してきたことを知らない者はいない。従って嫌疑もまた大である。その任につくのをいささかも辞するわけではないが、事を起こせばたちまち捕縛されることは必定だ。果たしてそうであれば、実際のところ応援の術をほどこす暇なく、(自分の任務は)無効になる」と言って固辞した。清岡曰く。「君と僕とは近親の間柄であり、他に(応接の任にあたる)人があったとしても、衆人の見るところにつき聊か深慮を加えざるを得ない。応援のことが成るも成らざるも天運にまかせる。いずれにしろ早晩一死あるのみ。どうして(応接役を)断る理由になろうか」。左右吉は承諾した。このとき以来、(左右吉は)専ら野谷川を上り、岩佐に出る山間の実地探索の任務をつとめた。そうして国の事(この場合は藩に対する要求、といった意味か)が成就しなくとも、幸い命ながらえて国境を出ることができたなら、京都に赴かずに、まず長州藩に行き、万事協議の末、事をなすべきだ。もっとも、皆が岩佐から退く場合になったら、「左右道ヲ転シテ」(?)、安芸郡畑山村より並生村を経て、道を北にとり境(国境のことか)を出よう、同行する者は長崎隆蔵で、道の先導は刀鍛冶の如意助を伊尾木村に配してその任務につかせようと考えた。準備はすでに整い、期日になって東西より集まる者が田野村の旅籠佐渡屋でひそかに小宴を開き、黄昏が過ぎるのを待って出発した。ところが安田村の同志たちが帯剣の都合があってひどく遅刻した。そのため一同は明け方に米ケ岡を過ぎたという。その夜、役人が(彼等の動きを)察知し、郡役所より早追いで急を高知に報じ、かつ常備の兵員に追討を命ずるなど騒擾が極まった。郡役所が樋口皆丑・高原省八の両人を岩佐に派遣し、(蹶起の)趣旨を問い、あわせて下山するよう告知させた。その両人への答えは次の通り。「挙動は穏当ではないが、まったく不慮の事態に備えるためであって、兵器などを利用するわけではない。歎願は書面で陳述しているので別に語るに及ばない」と言ったとのこと。左右吉は(道之助らに)出発後の現況を知らせるとともに、七月二十八日に官兵が田野に着くと、その勢いは慌ただしく兵を交えることに汲々としていて、嘆願書を手に取ってゆっくりと詮議する様子ではないと確信したので最後の報知をした。そうして、(官兵は)要所に備えを設けていたが、ただ竹屋村のみ手当てが行き届いていないので、竹屋村に向かって国境を出るべきだと告げた。このとき(左右吉は)野川村より知らせた。至難を思うべきだ。官兵たちは田野を出発した翌日、装束野まで進み、相手をだまして、歎願は聞き届けられるだろう、よって装束野まで出てくるようにと命じたが、(道之助らは)我々の願い出の趣旨を採用されるには「事[ママ]ヲ仰ク」旨を述べて応ぜず、止むを得ず官兵は岩佐に進んだ。同志の輩は岩佐の官舎を出て、[和佐の関所に御殿と称する官舎があった。木下嘉久次は代々これに住んだ]、後ろの深い林でいよいよ官兵がやってくるのを見て立ち退き、竹屋敷村を通って国境を出た。左右吉らは三十日に一同が岩佐を立ち退いたという知らせに接し、その夜、脱走しようとしたが、故あって果たさなかった。翌日の暮れるのを待った。官兵の所々より田野に引き取る者たちが急に騒ぎ出した。策をこらしてその理由を探ったところ、同志の者たちが阿波領の牟岐にある寺院に屯集の知らせがあったため、(官兵は)加領郷より早船に乗って甲浦に向かうとの確証を得た。よって左右吉は脱走を思いとどまり、該地(牟岐のことか)の動きをうかがおうとしたが、通路が遮断されていて探知の手段がなく、ついに阿波藩より二人、三人と分けて、国境まで護送して引き渡された。(同志たちは)九月三日の二日間に田野の郡役所に到着し、館内の、そのために新築した獄につながれた。元治元年九月五日、奈半利川原において厳刑に処せられた。両清岡は高知縄手(高知城近くの川原か)にさらし首にされた。遺骸は清岡道之助は不十分ながら行き届いた(?)が、埋葬の席次(?)が当を得ない者が少なくなかった。以上が野根山事件の概略で、些細なことは枚挙に暇がない。この時、清岡道之助成章三十一歳、同治之助正道三十九歳、近藤次郎太郎為美三十五歳、田中収吉惟清二十二歳、柏原省三信郷三十歳、柏原禎吉義勝二十七歳、新井竹次郎義正二十六歳、川島惣次郎友利四十一歳、木下喜久次秀定二十一歳、木下愼之助英吉二十四歳、宮地孫一利渉十九歳、宮田賴吉能格三十歳、安岡哲馬忠房十八歳、岡松恵之助盛直三十歳、檜垣繁太郎梁之十六歳、千屋熊太郎孝樹二十一歳、宮田雪齋致信二十九歳、小川官次好雄二十一歳、須賀恒二義氏三十歳、豊永斧馬方鋭二十七歳であった。嗚呼。

【注④。この野根山事件については佐佐木が『老候昔日談』で語っているので、それを引用する。「八月二十七日、丁度自分等が高知出発の日、野根山[安芸郡]の騒動があつた。城下より二十里もある僻遠の地に、清岡道之助、及び其の従弟の清岡治之助始め、極僅少の人数が屯集した位に過ぎなかつたが、風聲鶴涙、城下では、或は敵がモウ迫つて来たとか、或は三谷山[城北の山]に賊の旗が見えたとか云うて、甲冑を着し、刀槍鞘を払つて、町中を奔馳するといふ騒ぎ、自分の親類の藤井守馬なども、其の準備をして、岩崎小吉を誘ひに行った處が、岩崎が『具足を着るから待て』。と云うた様な始末。城下は宛然戦争のやうであつたさうだ。尤も間もなく鎮定したが、もともとこの騒動の起りを質せば、かうなのだ。

此頃は最早時勢が一変して、勤王家の時代は去つて、佐幕家全盛時代となつた。勤王家は之が為めに百方奔走するけれども、一つも其の意志が徹らない。さうして惣大将とも云ふべき武市は幽囚の身となつて居る。そこで国内の勤王家は、一致聯合して将来の方向を定めんとして、安芸其の他各郡の有志が高知に会合した。清岡道之助は、この時安芸郡を代表して出席した。清岡とは自分も懇意にして居つたが、何分にも過激であつた。處がかういふ過激家の会合であるから、その決議も従つて極端に馳せて居る。其の方法は、モウ到底、従来のやうに姑息主義の上書では役に立たぬ。香我美郡の有志は、死を決して上言し、安芸、幡多の両郡は、一層過激に出で、何うならうとも、国是の成否如何を一挙に決する様にしやうと定めた。藩庁の方から見れば、実に危険と謂はなければならぬ。清岡は帰郡して、同志と相談し、幡多郡の巨魁たる樋口眞吉に照会して、其の意見を叩いた。樋口はアアいふ実着の男であるから、軽々しく妄挙には賛成せずして、体よく謝絶したらしい。すると清岡等は、幡多の因循を憤り、憤激の余り香我美郡にも交渉せず、単独行動を取る事にした。けれども、容易にその方法も纏まらない。或は野根山岩佐の要地に拠つて、献言しやうと云ふ者があり、或は野根山のやうな處はいかない。高知に接近する方面に地を相したいと云ふ者があり、或は田野より前に進んだならば、郡府に後を絶たるる懼がるから、宜しくないと主張する者がある。中には、要害の地に拠るのは所謂脅迫に当つて、素志に背くのみならず、官庁の怒を買うて、却つて不利益である。寧ろ城下に出て、死を決して意を貫かう。若し捕縛さるる時は、切腹して仕舞へば、生前に功なきも、死後に影響する處が少なくないと、すると一人が之を駁して斯様な事をしては、却つて醜体でも現はす様な事があつたならば、笑を後世に残すのみならず、我々の忠誠も虚偽となつて来る。野根山ならば進退自由、十分献言することが出来る。万一いかなければ、国境を超えて阿波に出れば宜しいと云ふ。さうするとまた、夫はいかぬと、中岡慎太郎脱走の例を引いて、阿波郡宰を攻撃する者もある。或は京攝の間に脱走せんといふ説も出て、議論紛々たる有様であつたが、遂に野根山に拠る事に決し、すべての手筈を定めて、七月二十五日黄昏武装して、野根山に登つた。安芸の郡奉行は仙石貢の父の弥次馬である。即夜之を探知して、大に狼狽し、急を高知に報じた。高知からは、大目付小笠原只八が兵を率ゐて討手に向つた。郡府からは下山を云うてやつても、頑として承知しない。さうして御目付宛の献言書を差出した。(中略)

要は、攘夷の実行を促す事と、武市の寛典を請ふの二つに外ならぬが、多少脅迫的の意味を含まれて居る。実に彼等は必死の諸氏であつたのだ。とより二十三人位の少人数であるから、兵隊が押寄せてゆくと、阿波路に脱走したけれども、阿波も矢張佐幕家が旺盛を極めて居つたので、警戒厳重、悉く押へられて、国境で藩に引渡され、田野の獄中に投ぜられ、九月五日、竟に奈半利川畔に於て斬首せられた。何でも其の罰文は福岡[後に孝悌子爵]の手に成つた者だ相だ。福岡等は、尤も下士勤王家を嫌うて、大に圧迫を加へたのだ。自分は此時はモウ帰国して居たが、何も夫程の事でもない。ないあが、長州騒ぎの場合で、人気が非常に立つて居た者であるから、藩庁でも大騒をして、自ら事を大にしたと云うても差支なからう。」】

 【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、中岡慎太郎(なかおかしんたろう(1838―1867))は「幕末の討幕派志士。土佐国安芸(あき)郡北川郷(高知県北川村)の大庄屋(おおじょうや)小伝次(こでんじ)の長男。名は道正、初め光次と称し、のち慎太郎と改めた。学問を間崎滄浪(まさきそうろう)に、剣を武市瑞山(たけちずいざん)に学び、国事に目覚める。1857年(安政4)大庄屋見習となり父を助ける。1861年(文久1)武市瑞山らが土佐勤王党を結成するやただちに加盟、翌年には同志50人と京都、江戸に出て尊攘(そんじょう)運動に参加、1863年帰郷。同年八月十八日の政変後、藩の勤王党弾圧が激化したため脱藩して周防(すおう)三田尻(みたじり)に赴き、以後長州藩をバックに活動。1864年(元治1)の蛤御門(はまぐりごもん)の変では忠勇隊とともに戦い、負傷して長州に退く。のち三条実美(さんじょうさねとみ)の周辺にあって、薩長(さっちょう)同盟を画策し、1866年(慶応2)に坂本龍馬(さかもとりょうま)の協力でこれに成功。翌1867年、土佐藩より脱藩を赦(ゆる)され、薩摩(さつま)の西郷隆盛(さいごうたかもり)らとの間に薩土討幕の密約を結ぶ。土佐藩の遊軍として龍馬は海援隊、慎太郎は在京の浪士を集めて7月京都に陸援隊を組織し、武力討幕の一翼とした。幕府大政奉還後の同年11月15日夜、京都河原町の下宿近江屋(おうみや)に龍馬を訪れて会談中、幕府見廻組(みまわりぐみ)に襲われてともに斬(き)られ、17日絶命。[関田英里]『平尾道雄著『陸援隊始末記』(中公文庫)』」】

一 安田村・清岡治之助の徒党の願い書

 大名さまの参勤交代が緩和(注⑥)され、ご婦人さま方がそれぞれお国にお引き取りになられ、各国においても富国強兵の大基本が立ち、尊攘の大義をわきまえ、何時でも夷狄を掃攘して皇国の武威を発揮するようにという朝廷の決定がなされました。これは、まったくもって先年来、ご隠居さま方が尽力され、つづいて太守さまもご出馬され、周旋されたため、うまくお運びになったものと存じます。そのうえまた、ご隠居様が昨冬上京され、周旋された様子。ご隠居さまにはやはり根元の鎖港論を主張されたためか、短期間の京都滞在でご帰国になられた。決して在野の者が推察べきことではありませんが、このように異論を唱えられて、速やかに帰国されたうえは、きっと奮発され、富国強兵の基本を立てられ、他の国はともかく、当国においては当然自立の覚悟をなされ、尊攘の大義をどこまでも固守され、海防のご詮議をはじめそれぞれ行き届いたお沙汰が出るものと、一同心待ちにしておりました。ところが、ご帰国以来のご様子はどのようなご深慮がおありなのか、ついに海防厳備のご命令もなく、国内の士気を高める模様もうかがえず、逆に国産の樟脳の類いを長崎あたりまでも積み出し、交易品を(夷人に)手渡すという風説がしきりであります。もとより伝聞ですので、いかなるやりかたなのか存じませんが、こうしたことについて人々の疑惑がますます募り、必死の覚悟をしていた者も自然に弛み、恐れながらご政体のありようをいろいろ議論する様子に見え、かつまた、武市半平太以下の人々についても、今もって寛典(寛大な処置)もなく、私どもまで何とも恐縮至極でございます。武市以下の人々は及ばずながらも尊攘の大義に基づき、国家のために尽力する者と見え、すでにこれまで時勢に相応した御用も命じられておりますので、なおその情実や正邪をよくよく弁明するよう命じられ、きっぱりと非常寛大なるご処置を命じられますよう。そうでなくては、武市ら有志の者は今日に至り、太守さまやご隠居様から重ね重ね嫌悪された形になり、それはとりもなおさず人望に響くことになると存じます。前述の通り、人々の疑惑が高じたうえに、またまたこのような次第になっては、昨今の時勢がどのような事態になるかもわかりません。何とぞ国内の人心の向かうべきところをきちんと示され、これまでの疑惑がはっきりと晴れるように命じていただきたい。もっともこうしたことは今さら申すまでもなく、すでに先だって以来、「其筋存寄申出モ無之趣」(?)、さてそうしたことについての評議はどうなっていますでしょうか。いまだに断然たる方針を拝承しておらず、私どもも最近のご詮議はどうなっているのだろうか、今日か明日かと心待ちにしておりますので、何とぞ非常の時勢ゆえ、また非常のご処置により、尊攘の大義を貫徹し、ちまちまとした小義にかかずらうことなく、諸事大義にかかわることは諸国に遅れないようにしていただきたい。さてまた先日来、夷賊が長州に襲来の情勢となり、諸国による応援も盛んに行われたとのこと。因備(鳥取藩と岡山藩)のような国に援兵として軍勢を預け、配置したようですが、お国(土佐藩のこと)においてはいかがでしょうか。いずれにせよ前もって手配をし、なお時勢によっては軍勢をも差し出し置くというほどでなくては、いつ火急の変が起きるか予測しがたく、もし諸国に遅れるようなことになっては、はなはだもって恐れ入る次第と存じます。もとより私どもは軽輩とは申しながら、これまでのお国から受けた恩は「申モ鳴許ケ間敷」(※意味不明のため原文引用)、ひとえに土佐守さまの馬前において残らず死にたいだけであります。そのため国事に関して感激に堪えざることはやむを得ず紙面に書いて差し出しましたので、「出泣[ママ]ノ責ニモ」(?)お許しをいただき、国是を一定して非常一洗のご指示を至急いただきたく、伏して歎願いたします。頓首死罪々々。

私どもは決心のためここに屯集しましたので、もしそれが罪となりましたら、後日どのようにもご命令に服します。以上。

  元治元年七月二十七日 清岡道之助

  お目付所

  右の屯集の人々は同志ではありますが、それぞれの名前を記すのはいかがかと思い、そこで私どもの惣代として右の通り差し出しました。よろしくご披露をお願いします。以上。

  指出

  私どもはこのたびお目付所に歎願の筋があり、一同決心のため岩佐関所脇に屯集いたしました。もとより暴力ざたに及ぶことは決していたしません。とりあえずこのことをお届けします。

  同[元治元年七月二十七日]

       清岡道之助

       同 治之助

【注⑥。百科辞典マイペディアによると、文久の改革【ぶんきゅうのかいかく】は「1862年,勅命により実施された幕政改革。鎖国体制から開国への移行に伴う尊王攘夷運動の激化,将軍継承問題を巡る一橋派・南紀派の対立など政治の混乱が続いた時期であった。若年の将軍徳川家茂を補佐する役として,一橋家の当主一橋慶喜を将軍後見職に任命。越前藩の前藩主松平慶永(春嶽)を政事総裁職,会津藩主松平容保を京都守護職に任命した。また,隔年交代制であった大名の参勤交代を3年に一度に改め,江戸在留期間も100日とし,江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可することとした。幕府陸軍の設置,西洋式兵制の導入など軍制改革や蕃書調所を洋学調所と改めるなど洋学研究もてこ入れした。」】

一 野根山事件について宮崎嘉道が記したもの。

多数の浪人が野根山に屯集したことが二十七日、ご城下に伝わり、すぐさまお侍たちをはじめ足軽たちが討手として多数差し向けられた。足軽の数が足りなくなり、新規御雇いの者が召し抱えられたとのこと。東御邸[容堂公の仮のお住まい]近辺から大手筋にかけ、抜き身の槍を携え、四方より駆け集まった人数はおびただしく、実に麦の穂盛りのように見えた。城内へも甲冑を負い、槍を携え、立ち入った者が多かったとのこと。

    田野郷士 清岡道之助

    中山郷々士 清岡治之助

    安喜西濱郷士 寺屋権兵

    唐濱郷士治左衛門の倅 柏原禎吉

    右治左衛門養育人

    安田浦住多喜次倅 柏原省三

    岩佐番頭 木下覚次

    右覚次弟 木下伊久次

    田野浦庄屋代 吉本培助

    西島村庄屋代 近藤次郎太郎

    吉良川庄屋代 田中収吉

    和食村庄屋代

    五郎養育人 千谷熊太郎

    安喜浦地下医師 宮田雪齋

    安喜浦浪人

    兼五郎二男 宮田賴吉

    御雇足軽孫作▢▢ 孫市

    島村番人庄屋

    孫七倅 横山英吉

    大井村浪人

    松十郎二男 岡松恵之助

    北川郷惣老 竹次郎

    安田庄屋

    佐助養育人 イ檜垣(?)守井繁太郎

    安田浦民兵 斧馬

    安田浦蔦屋 鷹次

    安喜西濱民平

    米屋 イ恒次(?) 常次

    安喜浦庄屋

    雄三郎倅 辻 右馬之助

    しめて二十三人[右の人数のうち清岡虎吉は居合わせたように言われていない]

    右の者どもは野根山に先だって屯集していて阿州路へ脱走

         辞世

    生為皇国民、死為皇国神 清岡道之助正道

    身は国に心は阿波にととまりて 霊の柱のたはむものかは 近藤次郎太郎為美

    君が為尽す誠もいたつらに 我とあしたの露と消つつ  豊永斧馬

    露たにもなにか惜まん我命 おしむはのちの名のみなりけり  木下嘉久治

    斯在時なにか命のをしからん 死ても国のためをおもへは  川島惣次

    奈半利川かへらぬ水の底ふかく 尽すこころのあはと成ぬる 檜垣繁太郎

    折たるとも何をしからん真心に 君と民とのためとおもへは

    同志安岡鉄之助[馬の誤記か](注⑦)が父の井ノ口村庄屋安岡助六の墓参の時、

    両親の教へにそむく死出のたひ 心からとて又もまよふな

    墓の雨覆いに次の書がある。読み人知らず、

    心なき峯の嵐のはけしきに またきもみちの散りものこらす

右の同志二十三人は思いがけなく死罪を言い渡され、処刑されるとき、詩を吟じ、歌を詠んだが、書き留めることを差し止められた。歌までは覚えたが、詩は記憶できなかったとのこと残念である。かような火急の死に臨んで辞世などを残すのは、一通りの者どもではなく、何かの時にはきっと御用にも役立ったであろうに、惜しむべきことであります。以上、宮本。

討ち手

大目付 小笠原只八

外輪物頭 森本貞三郎

同 福岡三兵衛

同 横田祐三

同 中山助八

安芸郡奉行 仙石弥次馬

同 中山又助

御手許御臨時馭切り 毛利勇雄

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、安岡鉄馬(やすおか-てつま1847*-1864)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。弘化(こうか)3年12月生まれ。土佐高知藩安芸郡(あきぐん)郡奉行所の学館の教授役となる。元治(げんじ)元年清岡道之助らが武市瑞山(たけち-ずいざん)の救出をはかった野根山(のねやま)屯集にくわわったが捕らえられ,同年9月5日処刑された。19歳。名は忠房」】

(続。野根山事件に関するまとまった記述はここで一応終わります。いつものことながら不正確な訳しかできませんでした。申し訳ありません)