わき道をゆく第235回 現代語訳・保古飛呂比 その59

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一 (元治元年)九月六日、銀一匁につき銅銭二十文、鉄銭八十文になった。これは、先ごろ値上げを申し出たが採用されなかったため、時勢やむをえず今日に至り値上げしたものである。いわゆる一寸先は闇の面々が要路を占めているのは恐るべし笑うべしである。[元治元年九月六日の銭値上げ以後、段々替わる。明治元年四月三日には銅銭十文]

なお同日のお触れに、

一 今回の(太守さま)ご旅行中の(お供の)服装の定め。

一 白札(士格と軽格の中間)以下、「名字唱之者」(名字を唱えることを認められた者)は出勤の際、合口(鍔のない短刀)・脇差し(武士が差す大小二刀のうちの小刀)・染め足袋・分割羽織(打裂羽織のことか。注①)を携帯・着用しても構わない。また、お供をする際、伊賀袴(注②)・「括リ上」(?)・立付(注③)の着用は勝手次第。

一 晴れ・雨ともに塗笠(注④)・菅笠(注⑤)のどちらかを用いる。立付の着用は勝手次第、雨天の場合も右に同じ。

【注①。デジタル大辞泉によると、打裂羽織(ぶっさき‐ばおり)は「武士が乗馬や旅行などに用いた羽織。背縫いの下半分が割れ、帯刀に便利。背裂せさき羽織。背割せわり羽織。割さき羽織。引裂ひっさき羽織。」】

【注②。精選版 日本国語大辞典によると、伊賀袴(いが‐ばかま)は「袴の一種。裾(すそ)を狭くして脛(すね)に当たる上下に紐をつけ、脛にくくりつけて脚絆(きゃはん)のようにしたもの。仕事着や旅行着として伊賀者が用いたところからの名といわれる。たちつけ。かるさんばかま。〔日葡辞書(1603‐04)〕」】

【注③。精選版 日本国語大辞典によると、「裁着・立付(たっ‐つけ)」は「たちつけ(裁着)」の変化した語。 裾(すそ)を紐で膝の下にくくりつけ、下部が脚絆(きゃはん)仕立てになっているはかまの一種。たちつけばかま。たっつけばかま。野袴。」】

【注④。精選版 日本国語大辞典によると、塗笠(ぬり‐がさ)は「薄い板に紙を張り、漆塗りにした笠。多く女がかぶる。」】

【注⑤。デジタル大辞泉によると、菅笠(すげ‐がさ)は「スゲの葉で編んだ笠。すががさ。」】

一 九月八日、太守さまの大坂行きは来月一日、甲浦通りを発駕される予定だと発表があった。

一 九月二十九日、先ごろ通達した通り、(太守さまは)明後日の一日、出発されるはずだったが、四、五日ばかり延期されると発表があった。

    十月

一 この月四日、次の通り仰せ付けられた。

佐々木三四郞

右の者は当分御軍備御用を仰せ付ける。

右の通り命じられたので、この旨を申し聞かせる。以上。

十月四日

  桐間将監

  福岡宮内

高屋九兵衛殿

別紙の通り云々。

十月四日

高屋九兵衛

佐々木三四郞殿

同役は原傳平・乾作七である。原は北條流の師家。乾は北條流の高弟で、先年より會津長沼流を少し学んだということだ。(注⑥)

【注⑥。佐佐木が御軍備御用を命じられた前後の事情について『佐佐木老候昔日談』で語っているので、それを引用する。長くなるがご容赦願いたい。「十月四日になつて、自分は御軍備御用と云ふのを仰付つた。同役は従兄の原傳平と、乾作七である。御軍備などと云ふと、如何にも立派な備立でもあるかのやうであるが、決してさうではない。もと土佐には、何組何組といふて、すべて十二組ある。之を御馬廻組と称して、家老がその組頭となる。尤も一明組と二明組は、家が断絶した為に組頭も家老ではなかつた。外に扈従組と云ふのがあるが、これは旗本である。又御留守居組は平士の下級にて十二組扈従組の以外の者だ。この十二組の中に、一組二十人位づつ郷士を組入れた。郷士は総計八百戸あつた。組以外の者は、小組郷士というて、郷士頭が支配した。徒士とか、足軽とか云ふ者は、これに属して居る。また御用人と唱ふる文官の家が在る。もと用人は、雇人の意味であつたが、此頃は用人と書く様になつた。重に算筆を職掌としてゐて、眞の軍人ではない。けれども家数が多いので、其の子弟は軍籍に這入つた。

各郡には地下浪人といふ者がある。郷士は知行が自分で開墾したものであるから、秩祿も売買することが出来る。併し、夫を売ると郷士の資格が無くなる。尤もチャンと制規があつて、商人などは買ふことが出来ぬ。必ず百姓でなければならぬ。百姓の金満家が、郷士の株を買ふと、直に郷士になれる。さうして売つた方は、即ち地下浪人となるのだ。もうかうなれば、家禄はない。ないあが、苗字帯刀を許されて居る。降雨の際に、履物を履く事が出来る。足軽などになると、無苗で之が出来ぬけれども、郷士や地下浪人は、夫を許されて居るから、民間などでは、非常に名誉として、其の株を買うては、軍籍に這入った。此地下浪人になるには、も一つ道が在る。徒士足軽の子弟が平士の家来になつて、三代の間無事に勤めると、即ち夫になるのだ。海防の事が重視される様になつてからは、各郡に民兵と云ふ者が出来る。所謂志願兵で、百姓の壮者を以て組織したのだ。

郷士は、各自職掌があつて、他国迄御供して行けるが、この地下浪人と民兵は、夫が出来ない。其の地方の居付であつたのだ。

さて是等の兵卒を組立てるといふ事になると、中々六ケしい。時勢上、大に組織に改革を加へねばならぬが、夫が出来ない。先づ士格及び郷士は刀槍、足軽は鉄砲と定つて居る。飛道具は一般に賤まれて居つたが、弓だけは士でも持つた。さうして従来の備立は、真先が足軽の小銃隊、次が足軽同様の長柄隊、次が士隊と、かうなつて居る。其の袖印も、士はどう、足軽はどうと、皆区別してある。同じ士隊の中でも、一番組と旗本組とでは違ふ。軍旗も、廻りを紺にするとか、紫にするとか、各階級に従つて異つて居る。然るに今日の場合となつては、足軽ばかり鉄砲を持つ譯にはいかぬ。大に改革して、銃隊組織にしなければならぬ。大砲も、野戦を備へる様にしなければならぬ。けれども、さうなると全く階級がなくなり、袖印も土佐とか、何とかせねばならぬ。然るに是迄は袖印も何も区別して居つた点から、都合が宜いが、士も足軽も同様にして、袖印のみ違ふのは面白くないと、士格は一様説に反対する。原や乾のやる北條流は、もともと守成が目的で、治国平天下の事を士鑑要法に寓し、専ら道義を講じ僅に兵学の一部たる築城法を教ふる位で、練兵などの事は一向に無い。尤も原と乾は、自分等と江戸で一緒に會津の長沼流をやつて居るから、夫を折衷するが、どうもいかない。自分は山鹿流を習つて練兵の方には、尤も重きを置いて居るから、夫でやれば、どうにかウマクいくが、御家流の方で承知しない。・・・・・と云ふのは、北條流の始祖たる北條安房守は、幕府の大目付で、甲州流の兵学者である。山鹿素行は即ち其の門人であるが、幕府より叱責されて、赤穂に預けられ、北條からは破門された。前に云うた通り、御家流は北條流であるから、破門されたる素行の創めた山鹿流を嫌ふのである。自分は夫が残念なので『一体北條流の基礎たる甲州流は、武田信玄の立てた者で、兵は例へよく練れても、信玄は親を逐放した大不孝者である。その大不孝者の兵学を学ぶのは不都合である』と、議論を戦はした。ツマリこの二流の相違点は、理論と実際とにあるのだ。北條安房守は、なかなかの人物で・・・・・三代将軍家光が、家康以来の文教を奨励し、林道春を招いて儒道を修め、一般武士にも之を修めさせ様としたが、戦国殺伐の餘気はなほ残つて居る。三河武士の気魂は存して居る。『アノ長袖の儒医に道ヲ学んだとて、何の役にも立たぬ』。抔というて、一向平気である。そこで家光は、安房守に意を衒めて、修身治国等に関する本を書かせたけれども、これはアマリ長過ぎていかぬといふので、更に士鑑要法を書かせた。夫を兵学であると云うたからして、漸く武士も学ぶ様になつた。ツマリは徳川氏の政略で、太平を基として居る以上、兵事よりも修身の道を修めさせなければならぬ。それに就ては、兵学に藉口してやらせなければいかぬといふ處から、士鑑要法が出たのだ。處が素行は、愈々さうなれば兵備は出来なくなる。苟も兵学として兵備が出来なければ何も役に立たぬ。却つて天下を治めることは出来ぬと云うて、大に練兵をやつた。北條流にも城取と云ふのがある。器に砂を盛つて、城の模型を作る。これが其の趣旨とする處である。先づ実用を離ること遠しといふべしだ。素行は之を観破して、すべて実用的に組立つた。木でミツを作り、席上備立をして懸引をする。のみならず、必ず実地に練習する。そこが北條流と大に異つて居る處だ。自分は之を旗本の久保田助左衛門に学んだ。原抔は北條流は政略上の事は知らず、兵営の真髄を得たものと解して居る。さうして理屈ばかり云うて居る。けれども練兵の点に至つては一向に出来ない。夫故山鹿流と、乾等の習つた長沼流を折衷してやると、どうかかうか練兵の形は出来るが、如何にも幼稚で、児戯に類して居る。近来蘭流の銃隊がボツボツ流行するが、大体の兵制を学んだものはない。古流の砲術家たる荻野流でも、銃隊の懸引はするが、今の一小隊位の運動に過ぎない。蘭流家も矢張其の通り、尤も書籍で相応に調べたものもあるけれども、実地に臨んではさうはいかない。のみならず、この古流と蘭流との軋轢も甚だしい。今日君侯御出馬などといふ時に際して、兵制に大改革を施し大調練が出来る様にしなければ、実用には立たないが、差当つてどうも仕様がない。勿論士格などは、銃隊は兵卒のやる事として居るが、最早士格も一同に銃隊にしなければならぬ。弓隊などといふ迂遠なものは廃して、昔の足軽隊といふ様にして終はなければならぬと、自分はかう考へて居るから、その方針を採つては居るものの、銃隊の中でも、新古互に我が流を尊んで譲歩しないばかりでなく、古流の小銃も一定して居ない。拾文目筒もあれば、三文目筒、或は五文目筒もあつて、まちまちである。さればとて、之を廃する時には、新銃を買つて与えなければならぬ。けれども、それは経済が許さぬので、急を充たす譯にいかぬ。何は兎もあれ、一般に銃隊を組織し、士隊、徒士隊、足軽隊と三つにして、大練兵をやる説を主張し、これもホンの一二度やるかやらぬか位であつた。足軽は喜んでも、士格は大不平と云ふので、種々階級上の弊害が出て来るので、まづ北條流の兵理を基とし、之に山鹿、長沼、又は蘭流等を加味して、大練兵をすれば、自然と発明する處があらうといふ處に妥協したが、唯銃砲の数が少ないので、尤も困難を極めた。かの維新前、板垣の組織した迅衝隊は、士、徒士等より壮士を選抜したのであるが、、この時分はさう大英断を施すことの出来ぬ、困難な事情が纏綿したので、之を実行しなかつたけれども、ツマリはここでその端を開いて、板垣に至つて結果が現はれて来たと云つても差支なからう。

マア練兵は此の辺でやるとしても、軍具の方などには、前途有望の者が乏しい。もとこの軍具と軍太鼓といふものも、世襲の芸家えあつたが、去る文久二年芸家を廃して、文武館の導役としたので、多少之を学ぶ人も出来た。しかし、この貝鼓は共に調子を合はせて稽古したことがなかつたが、近来軍制上から一所にして、自分も屡々之に立合つた。貝鼓を習ふ連中は、就れも迂遠であるが、其の中に徒士の傍士茂左衛門は、さすがに軍太鼓の鼓家丈あつて、頗る熱心で、彼の太鼓の音を聞くと人心が競ひ立つ心地がした。昔藩祖の時代に、軍貝の名人に三雲新左衛門と云ふ者があつたと云ふことだ。三雲の吹立つる貝の音には、総軍大に振つたといふ事である。今日貝鼓の方には、傍士の外に上手がないとは、心細いぢゃないかと、同役とも密に心配した。」】

一 十月七日、太守さま[豊範公]が発駕された。例の場所でお見送り。甲浦通り。同十七日、大坂にお着き。木津村の願泉寺へお着き。同二十七日、長堀屋敷に移られた。

[参考]

一 同日、土佐にて「當米平等相場」(?)

一 吉米(良質の米)一石につき代銀二百五十二匁。

一 太米(注⑦)同 二百五十匁

【注⑦。太米は赤米の別称。赤米は精選版 日本国語大辞典によると、「(米粒に薄赤い斑点があるところから) 外来の水稲の一品種。粘りが少なく味は悪いが、熟期が早く、また炊くと倍にふえるので、近世、西国地方で多く作られた。大唐米(だいとうまい・だいとうごめ)。唐法師(とうぼし)。」】

一 同十三日、早朝、文武館に出て、それより御軍備方へ出勤。「三八ノ操練条令」(?)ならびに「組順」(?)などを処理させて午後二時ごろ、仕事を終え、夕方、齋藤宅へ行き、夜、毛利夾輔を同伴し(て出かけ)た。その出かけに、中村禎輔方に立ち寄り、話し合った。それから山川宅へ行き、午後十一時ごろ帰宅した。

このごろ軍制の議論が多く、一定せず。しかしながら大体は御家流[北條流である]であるが、久しく泰平に浴し、かつ北條流はもともと守成(注⑧)の目的なので、治国平天下の事を士鑑用法(注⑨)に託し、もっぱら道義を講じ、その兵学の一部である築城の事を学習させるぐらいで、練兵のことなどは一向に教えない。そのため先年、練兵を命じられたときも、御家流では兵理を講究することはできても、具体的な技術は習得できない。よって、自分は己が学ぶ山鹿流の技術を持ち出し、さらには原傳平・乾作七・谷村才八らは長沼流つまり會津流で対応し、相互に調合してようやく練兵の形はできたが、すこぶる幼稚で、ほとんど児戯に近かった。近来、オランダ流の銃隊は行われているが、いまだ大体の兵制を学ぶことができた者はいない。また、古流の砲術家も銃隊の駆け引きはするけれども、大体の兵制はない。それでも古流の砲術家と新流の蘭(オランダ)流家との軋轢が甚だしく、議論は紛々としている。このため兵制の大改革を施行しなければ、実用に役立たないが、差しあたり如何ともしがたい。その訳は、前述の通り、蘭流家も古流の砲術家も一部の銃隊だけで大体の軍制を知らない。蘭流では、銃隊より大砲隊など、一隊より大隊に組み上げるとのことだが、いまだ伝授した者はいない。もっとも書籍の上でそれを調べた者はいるそうだが、実際にはわからない。しかも従来より銃隊は兵卒のみと心得る者が少なくない。最早士格らも一同に銃隊を組み立てなくては実用にならない時勢となったのであるから、その組み立てにする方針であるけれども、銃隊の中でも、新古の流派は相互に我が宗を尊しとして一和しない事情なのに、古流の小隊も一様でなく、十文目筒・三文目五分筒など不揃いである。であるなら、古銃を廃するときは新銃を買い求めなければならないのだが、それは財政上の問題で急速には行われず、何はともあれ、一般を銃隊にし、士隊・徒士隊・足軽隊と申すようにし、大練兵をしばしば催すことこそ第一の急務であるとの議論となった。

今日にも太守さま御出馬という場合に立ち至ったら、いかんともならず、よって御家流の兵理を基本として、山鹿・長沼流または蘭流の銃隊も加え、とにかく大練兵をすれば、自然とそれぞれが分かってくるところもあるだろう。ただ困却することは、砲銃に乏しく、蘭流の大小砲銃があってもはなはだ少数であることだ。

【注⑧。 精選版 日本国語大辞典によれば、守成は「創始者の意向をうけつぎ、その築きあげたものをより堅固なものとすること」。】

【注⑨。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、士鑑用法(しかんようほう)は「兵書。北条流の祖、北条安房守氏長(ほうじょうあわのかみうじなが)(1609―70)38歳の著作で、1646年(正保3)成稿、53年(承応2)刊行。氏長は甲州流小幡景憲(おばたかげのり)門下の逸材で3代将軍家光(いえみつ)の兵法師範として、45年『兵法雄鑑(へいほうゆうかん)』52巻を完成し、献上している。本書はこれを簡約し、一般士人向きに編成したもので、治内・知外・応変の3綱各10か条、計30か条、それに城取の1編からなり、同流の講義用テキストとして使用され、普及した。[渡邉一郎]」】

一 同十四日、午前八時ごろから文武館で軍貝・軍鼓の打ち合わせがあるので、出勤。午後より本場所へ出勤。操練の肝煎り(同職中の支配役・世話役のことか)を急いで任命してもらうよう申し出ておいて、午後二時すぎ、仕事を仕舞い、夕方、肝煎り役五人が来る。伊與木勘太が明日、京都ヘ出発するので暇乞いに来る。夜、外出せず。

因みに記す。軍貝・軍太鼓も世襲の芸家であったが、さる戌年(文久二年)、芸家が一般に廃された。しかしながら、以前から学んでいた者がいないので、(旧芸家の)皆が文武館の導役を仰せ付けられた。それで、僅かながら学ぶ人も出来た。よってこれまでは軍貝・軍鼓ともに調子を揃えて稽古したことはなかったが、近来は軍制上よりいっしょにして、月々決まった日を定めた。本日はその決まった日だった。ところが貝鼓ともにいずれも迂遠の人のみで上手がいない。そのうち徒士の傍士茂左衛門は軍太鼓の芸家だったが、すこぶる熱心に修業していて、彼の太鼓の音を聞くときは人心が競い立つ心地がした。昔、藩祖(山内一豊)の時代に、軍貝の名人・三雲新左衛門という人がいた。三雲が吹き立てる貝の音には全軍が大いに振るったという。今日の貝鼓の面々は傍士のほかは望みなし。(太守さまの)御出陣等の際はどうなるのかと、同役どもと密かに心配した。

一 十月十五日、「雨休日」(雨休み日と読むか?)、夕方、本山只一郎宅で歌会があったので出席。小原與一郎・渡邊禎御吾・飯沼権之進が同席。薄暮に帰宅。夜、外出せず。

一 同十六日、晴れ、出勤。乾作七より武者奉行場の趣意書が戻ってきた。受け取って、役場の箪笥に納めておいた。役場へ原傳平配下の者の名簿を受け取りに来たので渡す。

ただし原は本役は外輪物頭[足軽大将である]。

御作事方より棟梁大工が来て、種崎台場の囲いは「四ツ垣」か、または「菱垣」かと問い合わせたので、「菱垣払ヒ縄」にするよう申し聞かせた。

帰途、山川氏宅に立ち寄り、話し合った。その夜、出頭を命じる切り紙が来た。よって御奉行たちや高屋九兵衛殿へ挨拶回り。

一 十月十七日、次の通り仰せ付けられる。

佐々木三四郞

右の者、高岡郡奉行かつ附屬の役場も仰せ付けられる。これより外輪物頭格を仰せ付けられる。役領知は百三十石を下しおかれる。万端入念に勤めるようにと(太守さまが)仰せである。

なお、家族を引き連れ、彼の地の官舎に常駐するよう仰せ付けられる。

十月十七日

そのほうは一明組の高屋九兵衛の組に入ったので、そのことは組頭へもお達しがある。以上。

大目付

  森権次

  後藤象次郞

  佐々木三四郞殿

先任の同役は寺村勝之進だ。同人は若年のころはすこぶる人物の評判があった。二十七歳のとき、大監察(大目付)となった。ところが、馬淵嘉平(注⑩)の門下で、同派のことに関し格禄を召し放され、城下禁足を命じられ、家督は長男の助太郎が相続した。その後、罪を許されたが、年ごとに気質を変じ、吉田元吉に取り入ったためか、活発を装って大酒を飲んだ。もとの馬淵派の同志である平井善之丞・渡邊彌久馬・渋谷達四郎などとは自然に疎遠となり、若年の時とちがって世間の評判も悪い。とはいえ、今日はどの派も混じっている状態であるから、時々、役職を勤めている。佐幕家だから自分とは見込みがもちろん合わない。このような者どもを交えて用いるのは、何分昨今の時勢によるもので、佐幕のみでは国内の人民に背くことになるという政略である。自分どもはその辺を十分承知のうえ、できるだけ同志の勢力を得るために、あえて(藩庁の辞令を)断らずに出勤しているのだが、すぐに(佐幕勢力に)負けるかもわからず、実に方向の立たぬ世の中である。(注⑪)

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、馬淵嘉平(まぶち・かへい。没年:嘉永4.11.11(1851.12.3)生年:寛政5(1793))は「江戸後期の高知藩藩士。高知生まれ。父は軍貝家孫之進。竹内流小具足組打を修業し,武技にすぐれ高知城下に道場を開いた。文政年間勤番で江戸へ赴き,魚屋喜平らに心学を学ぶ。その後勘定小頭に登用され,嘉平を中心に藩内の改革派が結集し,天保14(1843)年には藩主山内豊煕が推進する藩政改革に参加した。しかし改革派は門閥層の藩士から「おこぜ組」と呼ばれ,排撃された。嘉平は前藩主山内豊資により,禁学の心学を教えたかどで投獄され失脚した。高知で獄死。(長谷川成一)」】

【注⑪。この辺の事情について佐佐木自身が『老候昔日談』でより詳しく語っているので、それを引用する。「(寺村は)勿論佐幕家であるから、自分とは意見が合はない。政府でも何故斯様に反対分子を持つて来て同役にしたかと云ふに、夫は到底佐幕家ばかりでは、人民が云ふ事を聞かぬ處から、政略上已むを得ず、二派の者を配合したのだ。自分などは、其の辺の消息は十分知つては居るが、同志の勢力を扶殖する為に、振つて御請をする様にした。須崎辺は勤王家が多いからして、成程寺村も土地の受けが非常にわるい。郷士などは、蛇蝎の如く嫌つて居る。しかし寺村は、自分に対しては最初は別に悪感情を持つて居らなかつたが、岡村斧吉といふ地下医者の勤王家を初め、多くの勤王家がよく出入する處から、大に嫉妬心を起して間柄が何となく面白くなくなつた。殊に互に感情を害したのは、長州征伐の一件である。八月以来長州は朝敵の汚名を蒙り、幕府からは尾州侯が総督になつて、愈々その国境に兵を進め、長州ハ三家老の首級を斬つて、服罪した。寺村は藩庁に知人が多いから、自然その方面の事を聞込んでは得意がる。彼は常にかういふ事を主張して居る。一体外国と戦争を交へた處が、我藩では少しも利益はない。長州征伐の為に兵を動かす様になると、我藩の封地も増加して来ると、藩の利益問題から割出して、双手を挙げて長州征伐を悦んだ。自分は夫が癪に障つてならぬ。勿論自分は高知の同志とは連絡を取つて居る。平井善之丞、山川良水、本山只一郎、谷守部[後の干城子爵]などとは、絶えず書面を往復して、上国並に高知の形勢抔を聞き、また此方の状況などを報じた。のみならず、谷は屡々須崎迄やつて来て、腹蔵なく今後の方針などに就て熟議を凝らした。且つ郷士連中が、長州の同志と気脈を通じて、其の方面からも、種々の除法を齎らして来るので、長州の非運の事も知つて居るから、寺村が云ひ出す度に厭でならぬ。翌年の正月元旦に、こんな腰折を詠んだ。

めでたしと祝ふうちにも天津空

心にかかる雲はありけり

マア其の心を詠んだ積なのだ、時勢の非なるを見て面白くないのは、自分ばかりではない。郷士などが、憤慨の余藩の因循を罵ることも殆ど極度に達した。慥か十一月二十四日の夜分であつたらうと思ふ。去二十一日、新井村の郷士中島與一郎と同養育人の中島作太郎[後の男爵信行]とが脱走して、與一郎は予州境の用井口の番所で自殺し、作太郎は予州路へ逃げたといふ注進があつた。作太郎は寺村の知行所住して、彼の書生となつて居たのであるから、寺村は大に憤つて、作太郎は迂遠である、阿房である、能く何事を成し得やうぞ點、速に捕縛せよと、部下に厳命を下した。自分は作太郎とは面識はないが、勤王家の事であるから、寛大にしたい。けれども寺村がこんな剣幕であるし、また国法を破つたのであるから、捕手をやらぬ訳にはいかぬので、勇助外下吏両人を遣はした。幸と云へば変であるがマア幸にも其の功がなく唯々與一郎の死屍を持戻つて来たのみであつた。是からといふ者は、寺村とは益々不和になつた。」】。

[参考]

一 筑前藩(福岡黒田藩)より我が藩への書簡、次の通り。

手紙をもって啓上いたします。さて、美濃守さま(福岡藩主・黒田長溥のこと)の領内に異船が乗り入れた際は、玄界島で合図をし、即刻兵員を出動させるようにしていますが、この先、異船の形をした船が通航して、内海(この場合は瀬戸内海のこと)へ乗り込む際、船の印が見分けがたく、万一手違いがあっては不都合ですので、異国形の船が内海に乗り込むときは、本船は沖合いの遠くに滞留させ、「バツテイラ」(ボート)などで玄界島に通達のうえ乗り入れをなさるようにしたいと思います。このことは幕府へもお断りしておりますので、そちらさまもそれと同じくお断りのうえ、乗り入れるようにされたい。、このことを皆様がよろしくご了解くださるようお願いします。以上。

  十月

  なお(貴藩が)異国形の船をお持ちかどうか、しかとはうかがっておりませんが、かねてお願いしておりますように、この件についてもお知らせいただきたい。以上。

  永田直二郎

  上野辯太郎

宮井俊蔵さま

別紙の通り、筑前様よりお知らせがありました。お心得のため進達(注⑫)します。以上。

十月十八日 宮井俊蔵

御仕置所あて

【注⑫。進達(しん‐たつ)は精選版 日本国語大辞典によると、「下級の行政機関から上級の行政機関に対し、一定の事項を通知し、または一定の書類を届けること。」】

一 同十九日、無事。

一 お目付より呼び立てられ、「罰考一巻」(※よくわからないのだが、刑罰に関する考察を記した本一冊か)を(大目付の)森権次より受け取る。「大勢強訴ノ企望顕也」(※直訳すると、大勢で強訴しようという企てが明らかだということになるが、詳細不明。)

一 同二十一日、同役の寺村勝之進が来訪。山川氏が来訪。佛事修行(年忌法要のことか)をするので、親族たちや縁故の家々へ案内に行く。

一 (法要をする)佛寺の案内に回る。寺村勝之進を訪問、留守だった。

一 同日、次の願い書を出したところ、許可されたこと。

  願い奉る口上(口頭で述べること)の覚え

一 吉米(良質の米)十五石[ただし来る七月までに相場の価格で代金を上納する]

これは、私が高岡御奉行・須崎官舎常駐を仰せ付けられたところ、彼の地は扶持米(注⑬)が難渋するので、「何卒但書之通ヲ以御売掛米ニ」(※但し書きの通り、後で代金を払うので、売り掛けで米を支給してほしいという意味か)仰せ付けられたく願い奉ります。

右のことをよろしくお取り成し下されたく頼み奉ります。以上。

元治元年十月 佐々木三四郞

高屋九兵衛殿

右の願い書を先日差し出しておいたら、次の通り通知があった。

  佐々木三四郞

右の者、高岡郡奉行・須崎官舎常駐を仰せ付けられたところ、彼の地では扶持米が難渋するので、売掛米に仰せ付けられたいという願いを聞き届けたので「勘定方承合候様、御▢通可被成候」(※よくわからないので原文引用)、以上。

  元治元年十月二十二日 御仕置き役 村田仁右衛門 渋谷傳 堀部佐助

  高屋九兵衛殿

  別紙の通り云々

  高屋九兵衛

  佐々木三四郞殿

【注⑬。旺文社日本史事典 三訂版によると、扶持米(ふちまい)は「江戸時代,幕府や諸藩の家臣に俸禄として支給された米知行地を与えられない下級武士に支給された。幕府や諸藩の財政難に伴い扶持米を減額されることもあり(半知借上),生活困窮者は扶持米を抵当に商人から金融をうけるなど,生活に苦しんだ。」】

一 十月二十三日、寺村勝之進を訪問した。また留守だった。「罰考」に封をして、家来に渡しておいた。

一 同二十四日朝、眞宗寺へご位牌を依頼した。夕方、操練見物に行く。

一 同二十五日、法事。正午より眞宗寺へ参拝。夕刻より焼香客が来た。

一 同二十六日、郷廻り役(下横目ともいう。下級の警察官)の馬吾が来た。今朝墓参した。昨夕、前田半[ママ]九郎が来た。家の用事を依頼した。昨夜、源兵衛へ家事の相談をした。今日、役場に出勤。支配頭の高屋九兵衛方で「本年目録」ならびに「役料目録二枚耳判ヲ受ケ替エ」(※意味不明なので原文引用)、前田伴九郎へ頼み、市吉屋五平方に宛てて渡しておいた。

一 同二十七日、晴れ、「衆議講會」(※講會は無尽講などの講の集会のこと)の案内状を書いた。前田伴九郎が来た。今朝、郷廻りの馬助が御用伺いに来た。

中村禎助が返礼に来た。福富健治がお祝いに来た。(妻の)貞衛が岩蔵を召し連れ、愛之助方ヘ家事のことで行く。母上[実際には姉上]が川上・久徳両家を参られた。自分は本山宅へ行く。

一 同二十八日、前野又四郎方ヘ行き、役場へ出勤。夕方、伴九郎・寿太郎の両人が家事のことについて相談のため、来た。同夜、山川宅で毛利と中村に会った。

一 同二十九日早朝、長濱村のお墓、浦戸浦の寿法寺へ参拝。平井善之丞へ伴九郎借用の相談の書状を出すことについて伴九郎に相談した。

前田伴九郎は日比虎作の家来で、平井が後見している。そのため万事、伴九郎の身柄については平井で支配しているが、(自分の)家事の世話方について伴九郎に頼むことについて相談したのである。

同夜、福富健次宅で毛利夾輔・小島官兵衛に会った。

  十月

一 この月朔日、晴れ、関健助が我が家に来て言った。家来の田所源七という者が健助の知行所で金子(きんす)を借りた、これは亡命のためである。「□傳」(?)寿太郎が朝夕、家事のために来る。同夜、衆議講會があり、次の人命が来会した。

谷兎毛・毛利夾輔・原四郎・服部與十郎・宮崎次男・下許の家来・齋藤の家来・田村屋亀太郎などである。

今朝、郷廻りの馬助が来た。弘岡村の竹之丞と新居村の渡守のもめごとの覚え書き写しを渡すこと。同夜、用石村の兼太郎が罰考を受け取る。

(続。何度も同じことを繰り返して恐縮ですが、私の素養不足で誤訳がたくさんあると思います。どうかその点を考慮に入れてお読み下さい。申し訳ありません)