わき道をゆく第236回 現代語訳・保古飛呂比 その60
[参考]
一 (元治元年)十一月朔日、土佐で米国の値段が定められる。
一 糯米(もちごめ)一石の代銀が二百五十六匁
一 吉米(上質の米) 同上。
一 太米(赤米) 二百五十二匁。
一 十一月二日、晴れ、講銀(講で積み立てた銀)の割り当ての手札を次の面々に配る。
武馬・森岡・高屋・本山らへ(手札を)持参させた。
同日、午前十時ごろ出勤。竹之丞の罰考を大目付の森権次へ渡す。また権次より、御救い令(藩庁による窮民救済令)に掛かるはずの罰考が返却されたので受け取った。例の火の用心の「御示」(※示しは、模範を見せて教えること)があるので南会所に出勤。帰りに高屋九兵衛宅で役職手当ての目録の「判仕替」(?)を受け取る。
ただし目録二枚は昨夕、安次に(命じて高屋方に)持参させておいた。
壽太郎が来た。玉川屋安右衛門方で二貫目借用の約束をしたという。しかしながら、正銀(現金のこと)がないので、「預切手」(※よくわからない。蔵預切手(くらあずかりきって)のことだろうか。精選版 日本国語大辞典によると、蔵預切手は「 江戸時代、各藩の蔵屋敷から、蔵預かりした品物に対して、振り出した倉荷証券。」)で受け取っていただくわけにはいきませんかという。よって、夜須屋儀右衛門を呼び寄せ相談した。ただし、右の二貫目は「家屋敷宛儀ニ差入置ク筈ナリ」(※よくわからないのだが、家屋敷を借金の担保に差し入れるということだろうか)。市吉屋の手代が来た。ただちに役領目録二枚を渡した。
一 十一月三日、晴れ、早朝、川上三左衛門から渡物(注①)を返上する件について頼まれ、仕置役の村田仁右衛門殿の宅に行った。それから御目付役場に出勤。中平村の百姓・倉次組の罰考一通、用石村の間人(注②)兼太郎の罰考一通を森権次より受け取る。今朝、火番(火事に備える番人)の楠山與五郎が来た。午後より安次を召し連れ、介良村のご先祖のお墓に参拝。夕刻帰宅。寺村勝之進より西畑村・覚蔵の妻の罰考一通、留書役(書記)の文書一通を廻してきた。よって披見した。
【注①。精選版 日本国語大辞典によると、渡物(わたり‐もの)には「① ある土地から他の土地へ、または、ある人の手から他の人の手に渡ってゆく物。また、そうして渡って来た物。② 先祖代々受け継いできた物。また、子孫代々受け継いでゆく物。③ 祭礼などに、市中をねり歩く山車(だし)や行列など。ねりもの。④ 主人から渡される扶持米・給金など。⑤ 外国から渡ってきた物。舶来品。」などいろいろな意味があるが、この場合は④かもしれない。】
【注②。デジタル大辞泉によると、間人(もうと)には①中世の村落で、住み着いてから年月が浅く、正式な村の住人としての権利を認められていない者の称。② 武家の召使いの男。中間ちゅうげん。③ 近世、本百姓に対し土地を持たない農民など、いろいろな意味があるが、この場合は③か。】
一 十一月四日、晴れ、中平村の百姓・倉次の罰考一通、用石村の間人・兼太郎の罰考一通を封印して岩蔵に持たせ、御郡方(注③)の留書(書記)へ届け出た。川上竹次郎が家の用事で二度来た。奥村又十郎が(高行の郡奉行就任)祝いに来た。安次を伴九郎のところに使いにやった。夕方、宮地幸右衛門方ヘお祝いに行った。前野又四郎宅へ川上の用件で行く。また川上氏の願い書を仕置役の村田氏の内見に入れておいた。同夜、用石村の間人の半次の罰考ならびに三野村の「人気一件」(注④)についてお目付たちに相談した。書簡の控えを(寺村)勝之進より廻してきたので、受け取った。
【注③。御郡方は郡奉行の役所という意味か。デジタル大辞泉によると、郡奉行(こおり‐ぶぎょう)は「江戸時代、各藩に置かれて地方の行政に当たった職名。農民の管理や徴税・訴訟などを扱った。郡代。」。土佐藩の行政の仕組みについては平尾道雄著『土佐藩』に簡潔な説明があるので、それを引用しておく。「行政機関は近習(きんじゅ)と外輪(とがわ)にわかれ、前者は内政官として藩主の江戸参勤に側近するものに近習家老があり、側用役や内用役・納戸役がこれに付属し、その勤務を監察するものに近習目付がある。江戸藩邸や京都藩邸には留守居役が任命されて渉外関係の任務に当り、大坂には在役が常駐して蔵屋敷を預かり、主として財務を作配した。外政官として執政の任に奉行職二人または三人が家老のうちから選任せられ、月番をもって政務を担当するのである。その下に仕置役を置いて参政の任に当て、その付属機関には民政方面に町奉行・郡奉行・浦奉行があり、徴税官としては免奉行、営繕関係には普請奉行と作事奉行、会計事務には勘定奉行や銀奉行、林政官には山奉行があり、船奉行は造船や航海を管掌した。寺院や神社のためには特に社寺奉行を置かず、仕置役が直接これを管理することになっていたのである。司法警察には大目付があり、その下に小目付・徒目付・下横目を任命して風紀を監察させたのである。民政は町および郷・浦の三支配に区分された。町は町奉行、郷は郡奉行、浦は浦奉行が管掌するのであるが、その下部はそれぞれの地域において自治組織をもち、庄屋がこれを支配した。これを地下支配と称し、地下支配に対して仕置役場の直接支配するものを直支配(じきしはい)と称し、地下人のうちでも直支配に入る機会をもつことをその栄誉としたのである。」】
【注④。精選版 日本国語大辞典によると、人気(じん‐き)は「① 人の生気、活気。また、人々の気配。人が群集してつくりだす気配。にんき。② 人々の気うけ。世間のそれをよしとする感情。にんき。③人の気持。その地方一帯の気風。にんき。」とあるが、この場合は①の「人々の気配。人が群集してつくりだす気配」か。三野村の農民に不穏な動きがあったということか。】
一 十一月五日、晴れ、毛利氏へ安次を使いに出す。川上氏の「家用」(※前掲の渡物返上のことと思われる)について徳増屋の亀蔵が来た。返上米の件を引き受けて帰った。御目付より出勤するようにと言ってきた。午前十時ごろに出勤した。宮内村の百姓・與吉の弟である楠馬の罰考を横山覚馬から受け取った。用石村の間人・半次の罰考ならびに三野村の「人気」について御目付へ示談(※精選版 日本国語大辞典によると、「物事がまとまるように相談すること。意見を提示すること。」)の控えなどを横山覚馬に渡す。海防関係の文書一通、「留書役補ヒ端書」(※書記が補足した文書と思うが、確かではない)一通を仕置役の村田仁右衛門殿へ渡す。長濱村の惣吾が肴を持参して(郡奉行就任の)祝いに来る。前日、下村の間人・市作の妻・かめ、これはいったん出奔して戻って来た者だが、そのかめの罰考が須崎より廻って来た。受け取る。郷廻りの貞助、大番(?火番の誤りか)の磯次が御用伺いに来る。今日、野中太内が幡多郡奉行に、中村禎助が三郡奉行(長岡・土佐・吾川の三郡を所管する奉行)に任命された。よって宮地幸右衛門といっしょに中村宅を訪問した。毛利氏宅へ駕籠を取り寄せにやった。長濱村のしめが祝いに来る。
一 十一月六日、雨、安次を西分村の源兵衛方ヘ遣わす。郷廻りの貞助、火番の磯次が御用伺いに来る。今日、病気のため引き籠もる。火番の磯次に楠馬の罰考を須崎へ届けさせる。同夜、源兵衛より「八銭二貫二百目」(※よくわからないのだが、銅貨で八銭、銀貨で二貫二百匁という意味だろうか)を受け取る。伴九郎が来て、世話に預かった。安並貞之進が「家事」のことで来た。須崎より「文武ノ訪合」(※文武の交流といった意味か。よくわからない)についての返答が来た。
一 同七日、晴れ、日比金次郎が「家事」のことで来た。福留健次が来た。安並も来た。勝駕瀬半助・お千勢の縁組みについて来た。郷士の中村輝馬が来て、十四日の操練を窪川五社近辺で行いたいという届けを持参した。受け取って須崎へ廻す。岩蔵を郡役所まで頼みに遣わした。玉川屋安右衛門方で八銭二貫目をさだ(高行の妻)が受け取って来た。齋藤より駕籠を取り寄せた。また中野屋で駕籠を求め、代金を渡す。同夜、宇佐浦の豊永という医師の家督の一件で文書が廻ってきたので受け取る。
一 十一月八日、晴れ、出勤。福島浦より港の普請の追願(※精選版日本国語大辞典によると、追願(おい‐ねがい)は「前にした願いに追加して願うこと。再度の頼み。ついがん。」)を庄屋より受け取る。「表方」(※この場合は政務を担当する奉行職を指すのかも。よくわからない)へ届けた。日下村・市作の妻の罰考を森権次に差し出した。
一 同九日、出勤せず。貞助「大番」(?)御用伺いに来る。同夜、国澤四郎右衛門宅へ行き、宮地幸右衛門と会った。
一 同十日、曇り、夜須村の虎右衛門の倅・作蔵と「前仁井田郷柿ノ木山村」の熊吾の供述書ならびに罰考を御目付へ差し出した。乾退助(板垣退助)、毛利恭助(注⑤)を訪問する。
【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利恭助(もうり-きょうすけ1834-?)は「幕末-明治時代の武士,官吏。天保(てんぽう)5年11月29日生まれ。土佐高知藩士で,致道館剣道導役,小目付となる。慶応3年(1867)谷干城(たてき)らと薩土討幕の密約に参画。明治元年京都留守居役,のち新政府で静岡県参事などをつとめた。明治10年代に病没。名は吉盛。」】
一 同十一日、雨、「禄米役」(※禄米は藩主から支給される扶持米のこと)の大塚勇蔵が来た。須崎のことを万事頼んだ。寺村勝之進より甲冑操練についての意見書が廻ってきた。同夜、国澤四郎右衛門・片岡健吉(注⑥)と乾退助方で会った。「送夫賄」(※送夫は運搬役の人夫。賄は食事の世話をするひと)の「先キ打チ」(※馬に乗って一団の先頭に立つこと)を貞助に話した。
【注⑥。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、片岡健吉(かたおかけんきち。1843―1903)は「自由民権家。天保(てんぽう)14年12月26日、土佐国中島町(高知市中島町)に生まれる。父は土佐藩士片岡俊平、母は渋谷氏。家格は馬廻(うままわり)250石の上級武士。戊辰(ぼしん)戦争に際し迅衝隊(じんしょうたい)右半大隊(みぎはんだいたい)司令として会津城攻略に参加。戦功により中老職。朝命による海外視察のため1871年(明治4)5月6日出発、アメリカを経てロンドンに滞在。1年10か月後帰国し海軍中佐。征韓論に敗れて下野した板垣退助(たいすけ)と行動をともにし高知に帰る。74年海軍中佐の辞表を提出するとともに、立志社(りっししゃ)の創立を推進し、翌年4月の社長制設置とともに社長に就任。同年8月24日から翌年1月まで高知県七等出仕。77年6月9日に国会開設を求める立志社建白書を提出して却下になる。同年8月18日西郷隆盛(たかもり)の挙兵に関し逮捕され1年5か月入獄。出獄後、高知県会議員に当選し初代議長。80年4月国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可(いんか)ヲ上願スル書」を提出したが拒絶される。85年5月15日キリスト教受洗。87年12月26日公布・施行された保安条例による東京からの退去を拒否したため軽禁錮2年6か月。第1回衆議院議員総選挙以降、連続8回当選。1902年(明治35)3月27日同志社社長。衆議院議長在任中の明治36年10月31日病死。正四位勲三等、旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)。墓は高知市秦泉寺山(じんぜんじやま)。[外崎光廣]『川田瑞穂著『片岡健吉先生伝』(1939・立命館出版部/復刻版・1978・湖北社)』▽『外崎光廣編『片岡健吉日記』(1974・高知市民図書館)』」】
一 同十二日、雨、出勤。勝之進の操練についての意見書を関健助へ頼んでおいた。別枝村の「非常一件」(?)の供述書ならびに罰考、高岡村の辯吉の罰考、前の佐賀浦商人の右衛門の「養育人岩次追放立帰助命者岩次」(※意味不明なので原文引用)の供述書一通、それぞれを受け取る。
一 十一月十三日、晴れ、十二日に受け取った罰考・供述書などを御目付に差し出した。未の刻(午後二時の前後二時間)、西町の自宅を「薄暮発足」(※薄暮というには早すぎると思うのだが・・・)、弘岡村に宿を取った。
一 同十四日、辰中刻(午前八時二十分ごろに相当する)弘岡村を出発。高岡村で昼食。日没、戸波村の番頭宅に宿を取る。今朝、作配役の一件について(寺村)勝之進よりの手紙を受け取る。
[参考]
一 監察書に次の通り。[事実は不明だが、當時のものゆえ記入する。なおこの次の條を参照すべし]
一 御進発(長州征討のため将軍が出陣すること)の件について、薩摩藩が天璋院さま(注⑦)へ吹き込んだとのこと。
一 勘定奉行より、野州表へ追討(注⑧)の軍勢を送るのに必要な兵粮・人役の費用さえ続きかねるのに、このたび長州まで追討ということになれば、千里の波濤を超えての兵粮の運送がつづく見込みはありません。幕府の貯蔵米は江戸人が二カ月食べるくらいということを将軍に申し出たところ、将軍はもっともなことだと耳を傾けられたとのこと。
一 (長州)征伐の件、肥前御老公(佐賀藩第十代藩主・鍋島直正のことか)は寛大な処置が下るよう周旋しているとのこと。長州征伐を建言しているのは、「全三郎公抔ノ御軍配モ同家ヨリ出候哉」(※三郎は島津久光のことだと思うが、意味がわかりにくいので原文引用)、そういうことでは長州も納得がいかないから、にわかの追討は行うべきではないと肥前人(鍋島直正?)は主張しているとのこと。
一 松前伊豆守さま(松前藩第十二代藩主・松前崇広。老中格)は(長州)征伐の件はまず異人に向かわせ、そのうえで(幕府が)追討したらよろしかろうと述べられたとか。長州へ向かった異船の中に幕府通弁官の青田喜三郎が乗り込んだという。これは勝麟太郎かた直接聞いた話だという。
一 このたび、阿州(阿波国。現在の徳島県)の海岸は手広なので長州征討のための出陣は免除していただきたいと、松平左兵衛督さま(?)に拝謁のうえ申し上げたところ、それに対するお答えで、海岸のことは阿州一国だけのことでもないので、このたびの大命を受けぬ理由にはならぬと論破された。すると、使者はこう言った。内実は、(阿州は)昔から土州と不和のうえ、最近国許(阿州のこと)へ襲来の企てもあって、そのため(国許を守る)人が少なくなれば、その虚を伺ってきっと攻め込んでくるでしょう。そういう事情のため免除していただきたいと申し出たのです、と。すると松平左兵衛督はこう言った。たとえそのようなことになったとしても、将軍さまが、東北の浮沈のかかった争乱(天狗党の乱のことか)があるのに、「大城」(江戸城のことか)を捨てて(長州征討のため江戸を)進発されようという時節である。国を失ってもそれを厭わずに追討の任務をお受けなさるべきなので、「得ヘ」[ママ]取り次ぎはしない。早々に帰国して、阿波守殿に申し上げるように云々。
一 内実はこういうことです。(阿州は)土州と不和のうえ、このたび脱走人(野根山事件で阿州に逃げ込んだ者たちのこと)二十五人が国許(阿州)に立てこもり、土州より(彼らを)引き渡してくれと言ってきた。そのとき、わずかの人数を受け取るのに五百人ほどの軍勢が(土州から)押し寄せたのは不可解だった。脱走人も兵器を携えている様子だった。脱走は表向きの理由で、実際は、国許に立てこもり、土佐藩政府と同意のうえで、どのような計略があるかはかり難い。もし長州追討に向かうならば、虚に乗じて打ち入るか、これまたわからない。しかしながら、そのような事情は文書をもって願い出るのは難しく、このような意味合いでご斟酌のうえ周旋してくださいますようにと言った。すると、左兵衛督さまは、土州はそのようなことは決してしない、いかに土州に人がいないといっても、元来大国なのだから、そのような無謀の企てをするような無思慮の人間はいない。たとえ万々一そのようなことがあっても、秀吉公(本能寺の変の知らせを聞いて秀吉軍が中国地方から急きょ引き返したことを指すか)などは大いに悦ぶところで、もし、その虚に乗じて打ち込んできたときは、天下の全力をもって土州を打ち取れば、「一先可取候共、土州二国ヲ領シ、阿州ニ於テハ大成幸成ト云」(※意味がとりにくいので原文引用)。使者はひどく赤面したとのことである。
【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、天璋院(てんしょういん。没年:明治16.11.12(1883)生年:天保7.12.19(1837.1.25))は「江戸幕府13代将軍徳川家定の御台所。薩摩藩支族今和泉領主島津忠剛の娘。鹿児島生まれ。薩摩藩主島津斉彬 の養女。さらに家定と婚姻するため,近衛忠煕の養女となった。通称は篤姫。諱は敬子。婚姻から2年足らずで家定が没し,落飾して天璋院と号した。14代将軍徳川家茂に降嫁した和宮(静寛院宮)との仲は芳しくなかったといわれるが,幕府崩壊に際しては,協力して徳川家救済に尽力。明治維新後は,徳川宗家を継いだ家達の養育に専心した。家定との婚姻は政略的なものであったが,生涯徳川家の人として生きた。<参考文献>本多辰次郎「天璋院夫人」(『歴史地理』14巻5号)(久保貴子)」】
【注⑧。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、天狗党の乱(てんぐとうのらん)は「1864年(元治1)3月から12月にかけて、水戸藩士の尊王攘夷(じょうい)派のうちの急進派が常陸(ひたち)(茨城県)、下野(しもつけ)(栃木県)、下総(しもうさ)各地の農民を率いて関東各地また中山道(なかせんどう)に転戦した事件。天保(てんぽう)(1830~44)ころから水戸藩改革派の武士を天狗とよぶ風があったが、64年3月、水戸藩士田丸稲之衛門(いなのえもん)、藤田小四郎(こしろう)らが尊王攘夷を旗印に常陸国筑波(つくば)山に挙兵すると、水戸藩領那珂湊(なかみなと)、小川、潮来(いたこ)の三郷校に集結していた郷士、神官、農民ら約1000人がこれに加わった。これを世に筑波天狗党という。天狗党は下野国太平山(おおひらさん)、日光と移動するが、幕府はこれに追討軍を送り、また、水戸藩をはじめ関東諸藩に出兵を命じ、下野、下総、常陸各地に戦闘が続いた。水戸藩改革派が領内各地に建設した10余の郷校に学んだ農民は改革派に連なり、一方、鯉淵(こいぶち)勢、河和田(かわわだ)勢、薄井勢、寺門隊など農兵は藩内保守派(諸生党)に属して天狗党と闘い、これに世直し騒動も加わって、領内農村も複雑な様相をみせる。水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)の代理として分家の宍戸(ししど)藩主松平頼徳(よりのり)が藩内抗争鎮撫(ちんぶ)のため水戸に下るが、戦闘に巻き込まれて幕府から自刃を命ぜられる悲惨な事件もあった。天狗党は水戸、那珂湊の戦いで敗れ、その一部は北上して磐城塙(いわきはなわ)で全滅、主流800余名は武田耕雲斎(こううんさい)を長として西上、当時京都にあった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(禁闕(きんけつ)守衛、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の子)を頼って幕府追討軍、諸藩の兵と闘いながら下野、上野(こうずけ)、信濃(しなの)、飛騨(ひだ)を通り、越前(えちぜん)国(福井県)新保(しんぼ)まできて力尽き加賀藩に降伏、翌年、約350人が斬罪(ざんざい)となった。維新黎明(れいめい)期の天誅(てんちゅう)組や生野(いくの)の変などと並ぶ激派事件である。[秋山高志]」】
[参考]
一 備前侯(注⑨。岡山藩主・池田茂政)より尾張侯(注⑩。尾張藩主・徳川慶勝)への書簡は次の通り。
一筆啓上いたします。このたび、長防(長門国と周防国)征討の大任をお受けになり、當表(備前のこと)まで下向されるとのこと、慶賀の至りです。早速、ご陣屋へ出て、出陣のお祝いを申し上げるべきところですが、このところ病床にありますので使者をもってお歓びを申し上げます。さて松平大膳大夫(長州藩主・毛利慶親のこと)が将軍の命に応じず、つづいて京都での乱暴のよしをもって追討されることは承知しておりますが、元来宰相父子(長州藩主父子)は公儀に対して不都合なところがあるとはいえ、その元は正義より出たところで、一概に朝敵とは言いがたく、それついて私の思うところを申し上げます。「御請引」(?)もなく、ついに大納言卿(徳川慶勝のこと)をはじめ他藩の大軍を出動させるとは恐れ、驚きました。これは痴人の処置であり、いよいよ失政となりそうです。すでに大和騒動(天誅組の変。注⑪)または太平山屯集(天狗党の乱)など容易ならざる事態が起きているのに、中国征戦(長州征討)にでもなれば、その虚に乗じて各地で反乱が起きるかもわかりません。ことに浪花には松平土佐守が大軍で陣を構えています。同人はいまだ弱年でありますが、智勇の将と聞いており、そのうえ毛利家とは深い縁のある仲であります。大坂に滞在中、土佐守にもとくとご相談されたらいかがでしょう。加賀・細川・因州はじめ国守(藩主)の(幕府への)心服はいかがなものでありましょうか。これとてもいつ謀反心を抱くかわかりません。これらのことをお考えになり、長防への出陣を延期していただきたい。大納言家は御三家でも隨一のお家でありますから、大樹さま(将軍のこと)がどれほど命じられても、出陣をお止めになるべきで、軽々しい出陣はご遠慮ありたいと存じます。私が病気でなければ、参上して、死をもってお止め申し上げるべきのところ、病中書面をもって申し上げるため、(貴方様の)神経を刺激するようなことを申し上げたかもしれないので、詳しいことは家来の修理進より申し上げるようにします。病床乱筆をお許しください。恐々謹言。
十一月
備前守茂政より
尾張前大納言卿
【注⑨。朝日日本歴史人物事典 によると、池田茂政(いけだもちまさ。没年:明治32.12.12(1899)生年:天保10.10.11(1839.11.16))は「幕末の岡山藩主。父は水戸藩主徳川斉昭。江戸幕府第15代将軍徳川慶喜と浜田藩主松平武聡は実弟,鳥取藩主池田慶徳は実兄。幼名は九郎麿,雅号は楽山。文久3(1863)年池田慶政の養子となり,将軍徳川家茂の偏諱を賜わり茂政と改名した。藩政においては下級藩士の登用や近代的な軍備の整備に努めた。幕末の政局に際しては尊王攘夷の立場をとったが,朝幕間の板挟みとなって苦心した。攘夷親征の猶予を奏請する一方,長州征討には反対している。鳥羽・伏見の戦の勃発に際し引退して鴨方支藩(岡山県)藩主池田政詮(のち章政)を養子に迎えた。維新後,弾正台大弼を務め引退後は能楽復興に努めた。<参考文献>衣笠健雄『史談会速記録407 池田茂政公事歴』(長井純市)」】
【注⑩。改訂新版 世界大百科事典によると、徳川慶勝 (とくがわよしかつ。生没年:1824-83(文政7-明治16))は「幕末・維新期の大名。尾張藩14代藩主,のち再家督して17代藩主。支藩の美濃高須藩主松平義建(よしたつ)の第2子として江戸に生まれる。初名は義恕(よしくみ),のちに慶恕,慶勝。1849年(嘉永2)に宗家を継いで,藩政改革に実効をあげた。日米通商航海条約の調印をめぐっては鎖国攘夷を唱え,将軍継嗣問題では一橋派にくみし,徳川慶福(よしとみ)(家茂)を推す井伊直弼派と対立した。このため,58年(安政5)隠居謹慎を命ぜられ,家督を弟茂徳(もちなが)に譲った。62年(文久2)罪を許され,16代藩主義宜(よしのり)の後見として藩政の実権を掌中にするとともに,公武合体運動にも重きをなした。64年(元治1)の長州征伐には征長総督として広島に赴き寛大の処置をとったが,つづく再征には出兵を拒否して幕府不信を表明した。67年(慶応3)新政府議定職。70年(明治3)名古屋藩知事となる。諡(おくりな)は文公。執筆者:松田 憲治」】
【注⑪。旺文社日本史事典 三訂版によると、天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)は「幕末,大和国(奈良県)でおこった尊攘派志士の最初の挙兵事件十津川の変・大和五条の変ともいう。吉村寅太郎・藤本鉄石らが孝明天皇の大和行幸の先駆をしようとし,1863年公卿中山忠光を主将として挙兵。8月17日大和五条の代官所を襲撃したが,八月十八日の政変で行幸は中止となり,形勢逆転し,諸藩によって鎮圧された。寅太郎・鉄石らは戦死。」】
[参考]
一 瀧口尚作・野崎傳太が探索して昨二十四日、大坂に帰ってきた。両人からの聞き書き。
一 長防征伐の「期間」(?)は今月十八日の予定だったが、吉川監物(注⑫)が先ごろ益田・国司・福原(注⑬)の三賊の首を持参して広島に来て、歎願におよんだ。しかしながら尾張侯がまだ広島に到着しておられなかったので、さる十四日に御役人方が首実検をし、昨十六日、尾張公がお着きになり、十八日のことはしばらく延期された云々。
一 長州の藩主父子とも退去して、寺院に住まい、慎んで暮らしておられる。家中(の藩士たち)も同様の様子。
一 吉川監物は五十人ばかりの人数を率いて(広島に)来た。次第に(その人数は)減少し、このごろは平人(普通の人)の格好で広島に滞在するようす。
このことは芸州広島において肥後の中林折九郎より聞き書きした。
【注⑫。朝日日本歴史人物事典によると、吉川経幹(没年:慶応3.3.20(1867.4.24)生年:文政12.9.3(1829.9.30))は「幕末の長州(萩)藩の支藩,岩国藩主。「つねもと」とも読む。通称,亀之進,監物。弘化1(1844)年家督を継ぐ。文久2(1862)年長州本藩が尊王攘夷の藩是を決めてから,藩初以来疎隔していた関係が修復され,毛利敬親の名代として上京した。文久3年の8月18日の政変により本藩が京都から追われるとき,7人の公卿を護衛して帰藩した(七卿落ち)。翌年の禁門の変後,本藩に恭順を説き,広島の幕府軍のもとに赴き,謝罪を周旋した。慶応2(1866)年の幕長戦争には,本藩と共に広島口で戦い,翌年3月に病死した。死の公表は,明治2(1869)年。<参考文献>日本史籍協会『吉川経幹周旋記』(井上勝生)」】
【注⑬。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、 福原越後(ふくはらえちご。1815―1864)は「江戸後期の長州藩の永代家老。支藩徳山藩主毛利広鎮(もうりひろしげ)(就寿(たかひさ))の六男で、名は元(もとたけ)。宇部(うべ)を采邑(さいゆう)とする宗(そう)藩家老福原親俊(ちかとし)の跡を継ぐ(一万一千三百余石)。嘉永(かえい)年間(1848~54)以降、藩の要路にあり、毛利敬親(たかちか)(慶親(よしちか))を助けて尊攘(そんじょう)に尽くし、また宇部領内の領政改革を行い、重厚温雅にして文学詩歌をよくした。文久(ぶんきゅう)3年(1863)八月十八日の政変が起こると、翌64年(元治1)藩主の雪冤(せつえん)を陳情するため率兵上京、蛤御門(はまぐりごもん)付近で幕府軍と戦って敗れ(禁門の変)、海路、宇部に帰った。第一次長州征伐にあたり、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)、国司信濃(くにししなの)の両家老とともに禁門の変の責任を問われ、岩国竜護寺で自刃した。[吉本一雄]」】
[参考]
一 十一月十四日の始末について、十六日に派遣した急使に託してよこした手紙。
来る十八日に長防へ攻めかかるはずだったが、十四日早朝、長藩家老の毛利隠岐・志道阿波[隠岐が率いてきた兵員は五十人ほど、阿波は同三十人]が芸州(安芸の国。広島県西半部)の菩提所である国泰寺へ益田・福原・国司の三人の首を白木の長持ちに入れて持ってきました。右の家老は二人とも麻のかみしもを着用、長髪のまま、いかにも恐れ入った格好に見受けました。成瀬隼人正(注⑭)は一部隊の半分を繰り出し、国泰寺に入って、三人の首実検をしました。その場に大目付・小目付が同席しました。「芸州人数ヲ以寄手諸侯ヨリ警衛厳重ニ相済候ニ付」(※意味がわかりにくいので原文引用)、十八日の攻撃開始はひとまず見合わせるよう諸侯に指示されました。近日、吉川監物が芸州に来て、応接する筈です。総督(尾張藩主・徳川慶勝)はこの十五日、当地に宿営されます。この後の御指揮はどういう手順になるのでしょうか、このことは内々に申し上げます。
十一月十六日差し出し
【注⑭。世界大百科事典(旧版)内の成瀬隼人正家の言及。【付家老】より…江戸時代,幕府から親藩たる三家・三卿に,また諸藩では本藩より支藩に,藩主・藩政の指導監督の目的で付けられた家老職。なかでも著名なものは三家の付家老で,尾張徳川氏の成瀬隼人正家(尾張国犬山,3万5000石),竹腰(たけのこし)山城守家(美濃国今尾,3万石),紀伊徳川氏の安藤帯刀家(紀伊国田辺,3万8000石余),水野対馬守家(紀伊国新宮,3万5000石余),水戸徳川氏の中山備前守家(常陸国松岡,2万5000石余)の5家を指す。家老として付属された関係で,家督を継ぐと同時に,家老の地位についた点,一般の家老と異なる。」】
[参考]
一 毛利大膳父子は罪を認めて刑に服する姿勢を明らかにしているので、今月十八日の攻撃の日限につき、再び指示を出すまで、攻撃を見合わせる。
右は尾張大納言殿より追討諸藩への指示書の写し。
一 十一月十五日午前七時ごろ、(高行の一行が)戸波を出発し、昼前に須崎浦の郡役所の官舎に到着した。村松彦造医師らが来た。大塚雄蔵・大工の寿平・火番の吉吾ならびに喜太の世話に預かる。同夜、(同役の寺村)勝之進が来訪、酒肴を出し、用談した後、午後十時ごろ帰る。熊次が野菜を持参してお祝いに来る。宮内村の楠馬の罰考がお目付より廻ってきた。不時御用(※突発事態に対処するためのという意味か)の郷廻り役を任命してほしいという文書が安芸郡より廻って来た。
一 同十六日、出勤、仕事を終えて砲台の検分に行った。戸波郷の地下浪人・三本左仲次の亡父・源蔵と間人・長太郎の田地の境が錯綜している一件は、もともとの処置がよろしくないけれども、そのままとりあえず差し置くよう、勝之進同席の場で申し聞かせた。渭浜浦の岡本屋喜代丞より「寸志床敷願出落字有之趣ニテ、橋詰彌久三恐入紙面彦蔵ヨリ出ス」(※意味がよくわからないので原文引用)、昼食後から勝之進が出府(この場合は高知に行ったという意味か?)した。大塚雄蔵・大工の寿平が来た。
(続。今回はいつにもましてわからないところが多く、申し訳ありません。できるだけ早く専門家の力を借りて解読したいと思っています)