わき道をゆく第237回 現代語訳・保古飛呂比 その61

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一 (元治元年十一月の)この月、御仕置衆より次の通り[日にちが明らかではないが、このころと思われるのでここに収める]

別紙

御自筆(※この場合、容堂の自筆という意味か。豊範は大坂滞在中)の文書の写しと、御奉行衆の添え書きを役人衆に拝見させるよう、御奉行衆にお命じになったので、そのつもりで拝見するように。以上。

[日付が脱落か] 御仕置役の連名

高岡郡奉行

   佐々木三四郞さま

   寺村勝之進さま

よりいっそう(藩の指示を)お請けするため、一カ所一人ずつ「御月番」(※この場合、奉行職の月番を指すと思われる)のお宅へ参上するよう仰せつけられたので、そのつもりで、同じ任に当る同役の者と調整されたい。

このたび拝見を仰せつけられた御自筆の「御当所写」、そして御奉行衆のお触れ書ともに拝見のうえ、左の通り心得られたい。

一 近ごろ、攘夷あるいは海防等の件について、下々に至るまで、それぞれの思うところを役人どもへ申し出ている。中には数人で談合する者も少なくない。これ以後、そのような者があれば、(太守さま・容堂公が)直接聴取され、その場で(その意見に対する)お考えも仰られるので、役人どもが己個人の考えで応答するのは、まず差し控えるように。

ただし、それぞれの役場の範囲内で、個人個人の意見で、しかも決して御政体に関係がなく、または人心の動静にもかかわらぬことは別である。

右はこのたびの御親政につき、差し当たり仰られたことの概要である。委細は追々面談のうえ申すつもり。また、貴殿の支配下の人心が不穏ではないかとも言われているので、なるだけ(人心を)引き締めたうえ、(同役と)示し合わせて、ひとりが出府されたい。以上。

元治元年   御仕置役衆の連名

佐々木三四郎さま

寺村勝之進さま

[参考]

一 十一月十六日、尾張侯(徳川慶勝)が国司信濃(長州藩家老)の首実検をして吉川監物(国司らの首を届けた長州藩の支藩,岩国藩主)に返した。また、山口城を壊し、兵を解き、三條實美卿らを各藩に分送させた。

  国司信濃の辞世

  よしやよし世をさる迠も我心

  御国のためになをつくさはや

  同家来につかわした歌

  飛鳥川きのふとかはる世の中の

  浮瀬にたつは我身なりけり

[参考]

一 中島氏(注①)より某氏に贈った書簡、次の通り。

仲三郎君に申す。もはや大儀のために脱亡いたします。私の分は匹夫(つまらない男。身分の低い男)で、兵馬の権もありません。しかしながら、その志は、天神国神に誓い、富士山が崩れ、湖水が涸れるとも必ず天下を挽回するつもりです。もとよりこのたびは「数騎瞬息ノ間に不達者」(※数騎は中島ら数人の亡命者のことか?瞬く間に生命が尽きてしまうので、といった意味か?)と存じておりますので詳しくは申し上げません。細木老翁には別の手紙を出していないのでくれぐれもよろしくお伝えください。なお、冥府での再会を楽しみにしております。再拝稽首(うやうやしく礼をすること)

  霜月十六日 中島與一郎

  明神嚴彦大人

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中島与一郎(なかじま-よいちろう1842-1864)は「幕末の武士。天保(てんぽう)13年10月生まれ。土佐高知藩士。勤王の志をいだき,元治(げんじ)元年中島信行らと脱藩,長門(ながと)(山口県)にいく途中,伊予(いよ)(愛媛県)との国境で歩行困難となり,番所に自首。問答中に番卒をきり,同年11月24日自刃(じじん)。23歳。名は清渺。」】

一 十一月十七日、晴れ、無事富吉が帰ってきたので、齋藤・本山・川上・宮崎へ手紙を遣わした。同夜、熊次が肴三匹を持参。こちらより土産料一朱を遣わした。

一 同十八日、大工の壽平・橋本屋の隠居が来た。通鑑(資治通鑑の略。注②)五冊を拝借、宗記である。

【注②。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、資治通鑑(しじつがん)は「中国の歴史書。司馬光(しばこう)著。294巻。北宋(ほくそう)の英宗の勅を受けて1065年編集に着手、19年をかけて84年に完成、神宗に献じた。歴代の事績を明らかにし、皇帝の政治の参考に供する意味で名づけられた。周の威烈王23年(前403)から五代後周(こうしゅう)末(959)まで1362年間の史実を編年体で記述し、政治、経済、軍事、地理、学術など広く各分野にわたっている。300を超える膨大な原史料から彼の儒教的歴史観に基づいて編集し、優れた文体で叙述され、中国の代表的な史書である。すでに散逸した根本史料を含む唐・五代の部分の史料的価値は大きい。南宋末元初の人胡三省(こさんせい)が30年を費やして作成した注釈は本書の価値をさらに高めている。[柳田節子]『田中謙二注『中国文明選1 資治通鑑』(1974・朝日新聞社)』▽『頼維勤・石川忠久編『中国古典文学大系14 資治通鑑選』(1970・平凡社)』」】

一 十一月十九日、雨、一昨夜より雷鳴が三度続く。岡村貫蔵が、倅の悟市が見習い勤めを仰せつけられたので、挨拶に連れて来た。本山才八・佐々木左喜次・谷兎毛・原傳平・市村源七・武馬善右衛門・上田定蔵、これらの家々に送る書状を留書役(書記)に頼んだ。夕方、幡多郡の郡奉行・森九十郎が(高知からの)帰途、立ち寄る。酒肴を出し、夜五ツ(午後八時ごろ)前に帰る。「学文[ママ]ノ筋ニ付」、件の御雇足軽・半蔵の「身前」(※身上経歴のことかと思うが、確証はない)を言ってきた。右は、「世倅」(=世継ぎの長男)が先日申し出たことは間違いと言っていた。

[参考]

一 同十九日、太守さま[豊範公]が帰国を願い出て、お暇をいただいた。

一 同二十日、晴れ、幡多郡の同役・野中太内(注③)が須崎浦に止宿している関係で、夜中に訪ねて来た。酒肴を出し、五ツ半(午後九時ごろ)帰る。野中とは議論が合わない。同役の寺村勝之進と同じ論で、佐幕論家である。いわゆる吉田派。

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、野中助継(のなか-すけつぐ1828-1868)は「幕末の武士。文政11年生まれ。土佐高知藩士。吉田東洋に重用され,東洋暗殺後も公武合体論を主張して土佐勤王党を弾圧。戊辰(ぼしん)戦争では佐幕説をとなえてゆずらず,藩主の従軍命令を拒否して切腹を命じられた。慶応4年5月27日死去。41歳。本姓は永井。通称は太内(たない)。」】

一 同二十一日、曇り、本山・川上・宮崎より書状が来た。いずれも無事。富吉あての書状が来た。早速安次に記させ、返事を出させた。

[参考]

一 十一月二十一日、仁井村の郷士・中島與一郎[二十三歳]、日下村の郷士・中島作次[十九歳](中島信行のこと。注④)、仁井村庄屋代の細木元三郎(注⑤)[二十六歳]が脱走。[作次・元三郎と與一郎は意見が食い違い、與一郎は途中より引き返した]、(與一郎は)松山領の関所がはなはだ難しくて通ることができず、再び立ち帰り、二十三日に名野川関所に行ったところ、御国入りを許されなかったので、関所の番兵二人を傷つけ、御国に立ち入り、辻堂で自殺した。細木氏より中島氏に贈った書簡は次の通り。

 この空模様ではなかなか難しく、とにかく日和を待つこそ上策と存じます。深淵先生もたぶんお出でになるだろうと推察します。これはご返事としてお聞きください。以上。

  十一月十九日 細木元三郎

  中島與一郎殿―――この宛名は審らかではない[ママ]

【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、中島信行(なかじまのぶゆき1846―1899)は「明治時代の政治家。弘化(こうか)3年8月土佐藩士族の家に生まれる。通称作太郎。幕末、海援隊に入って活躍し、新政府成立後は徴士(ちょうし)、外国官権判事(ごんはんじ)、兵庫県判事、大蔵省紙幣権頭(ごんのかみ)、租税権頭を歴任ののち、神奈川県令(1874~1876)、元老院議官(1876~1880)を務めた。神奈川県令時代に開かれた第1回地方官会議(1875)では公選民会論を説くなど進歩的意見を述べ、元老院議官辞任後の1881年(明治14)自由党の結成に参加、副総理に推された。さらに翌1882年請われて大阪の立憲政党総理となり、民権運動に力を尽くした。1887年保安条例に触れ横浜へ転居し、1890年神奈川5区より代議士に当選し初代衆議院議長に就任。1892年イタリア公使、1894年より貴族院議員。1896年男爵となる。明治32年3月26日没。なお夫人俊子(としこ)(旧姓岸田)は女性民権家、長男久万吉(くまきち)は実業家として名高い。[安在邦夫]『寺石正路著『土佐偉人伝』(1914・富士越沢本書店)』」】

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、細木核太郎(ほそぎ-もとたろう1838-1904)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。天保(てんぽう)9年11月生まれ。細木瑞枝(みずえ)の孫。武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわり,元治(げんじ)元年中島信行らと脱藩,長門(ながと)(山口県)にいく。戊辰(ぼしん)戦争では,彰義隊との戦いや会津(あいづ)戦争で活躍。明治37年4月6日死去。67歳。土佐(高知県)出身。名は栄敦,千足。通称ははじめ元三郎,元太郎。」】

一 十一月二十二日、曇り、今日愛之助の「妻りが」が(高知へ)帰るので、愛之助に頼んだ用件は次の通り。

 一 屋敷貢物のこと。  一 屋根葺き替えのこと。

 一 山川毛利へ手紙   一 宮崎の「目録判」を頼んでやったこと。

 一 浅川に返礼状 節に本を送ること。   一 金子借用受領書を渡すこと。

今夕、大砲の稽古があるので浜辺へ出張する。

[参考]

一 同日、太守さまが御帰国を許される。願い書は次の通り。

 私こと、大坂表の警衛のご指示をいただき、とりあず登坂(大坂に行くこと)すべきはずのところ、いろいろな難渋を理由に歎願し、厄介の兵之助を名代として登坂させることをお聞き届けいただき、あり難き仕合わせに存じておりましたが、将軍様が長防御親征を命じられたようだと伝え聞いて以来、この上にもお断りをしようとは申しながら、始終そのまま過ぎてしまい、傍観同然となっては重々恐れ入る次第だと存じまして、今度にわかに登坂しました。しかしながら国許の人心は昨年来、動揺しており、不穏のこともあります。ことに今年七月の京都での変事(禁門の変)の勢いに乗じて徒党を結び、山中へ立てこもり、強訴する者どもがありました。彼らはついに阿州路へ逃亡のうえ、阿州から引き渡しを受け、召し捕りましたが、尋常の吟味をする暇もなく、二十余人を一斉に処刑するよう命じました。これについて、彼の一党どもは罪に服したようでありましたが、なにぶん異議を抱く者もあります。そのうえ、かねて牢舎入りなどを申し付けた者が十余人ありまして、吟味が進むにつれ、自ずから事件が重大になり、事件関係者が少なくなく、「方面一致」(※意味がよくわからないので、原文引用)はいまのところおぼつかない状態です。これらも畢竟、天下の時勢につれて起きる事柄であるかと思いますが、一国にとっては容易ならざることで、第一、先祖以来、当藩が掌握していた職分も立ちがたいと、実にもって心痛恐縮の至りにございます。右のような国事向きの難渋のまま、しばらくのところ容堂に委ねておきましたが、同人も病症でして、今もって全快せず、悩み苦しんでおります。そのうえ一度隠居をもした身分ですので、諸事思うようにいかず、その辛苦は一通りではありません。このうえ私が長々と滞坂していては、よんどころなく行き届きかねることにも至り、ますますもって心配しております。いったん登坂しておきながら、いわんや現在長防追討のため諸藩が向かっているのに、帰国の件を申し出るのは恐懼の至りでございますが、かねてお聞き届けをも仰せつけられた件でもありますので、再び兵之助が登坂するよう仰せつけられ、私と引き替えに、なおまた御警衛を厳重にするようお命じになれば、まことにもってあり難き仕合わせと存じます。こうした事情をお汲み取りいただき、憫察を加えていただきたく、伏して願い奉ります。以上。

  十一月十九日

御付紙

書面の趣旨も余儀ないことなので、願いの通り聞き届ける。

  右は十一月二十二日、所司代の松平越中守さまのところへ(土佐藩の)留守居役を呼び立てたうえで、願い書(御付紙つき)が渡された。

一 十一月二十三日、晴れ、出勤、夕刻より講義へ出席した。

一 同二十四日、出勤、さる二十一日、新井村郷士中島與一郎・同養育人中島作太郎が脱走。用居口番所で與一郎が自殺。作太郎は予州地(伊予の国。愛媛県)へ走ったとのこと。二十四日夜に注進があり、とりあえず郷廻りの勇助ほか下吏二人を派遣した。

 この作太郎は同役の寺村勝之進の知行所に住まい、寺村方に書生として寄宿していたようだ。寺村はすこぶる佐幕家で、最も長州を憎んでいる。それに反して、作太郎らは勤王家なので、寺村は大いに怒り、あいつはすこぶる迂遠だ、阿呆だ、何事をしようというのか、速やかに捕縛せよと言い訳めいたことを言っている。自分は作太郎と面識はないが、須崎の勤王家たちとは懇意で、勤王家と見なされたためか、大に嫌疑を受けた。

[参考]

一 十一月二十四日、芸州(広島藩)家老へ(征討軍の)総督府より渡された文書。

 毛利大膳大夫は追々謝罪の運びとなったが、このうえはどのような処置を講じるべきかについて聞きたいので、「重臣之内國論専對方行届候者」(※重臣の中で国論を専ら担当する者といった意味か?よくわからない)を来月五日までに広島表へ差し出されたい。

ただし「本文見込之趣」(※今後の処置を指すと思われる)を直ちに申達したい者は、持ち場の兵備を解かぬよう申し付け、わずかな兵を連れ、広島表へ早速申し出られたい。

 総督府へ配置しておいた家来へ通達

   松平美濃守(老中)

去年脱走し、これまで長州に滞在していた三條実美ら五人の輩を長州より受け取り、一人ずつ「御自分」(※何のことかわからない)ならびに熊本藩・久留米藩・薩摩藩・佐賀藩へ領置する予定なので、それぞれを受け取りのうえ、引き渡し方をもっぱら取りはからうこと。もっとも、受け取りが困難な状況になれば、(熊本藩の細川)越中守らと申し合わせ、兵力をもって臨機の処置をとられたい。そのことは越中守らへも申し渡しておく。

一 十一月二十五日、休日、撃剣場へ出勤。谷守部(後の谷干城。注⑥)が来た。夕方、一緒に角谷台場床を見物に行った。

一 同二十六日、出勤、九ツ時(正午ごろ)より操練。夕方、池彌四郎が来た。

【注⑥。朝日日本歴史人物事典によると、谷干城(没年:明治44.5.13(1911)生年:天保8.2.12(1837.3.18))は「明治期の陸軍軍人,政治家。土佐(高知)藩士谷万七の子。家系は土佐の著名な神道家で国粋派。安政6(1859)年江戸で2年間安井息軒の三計塾に学ぶ。帰郷して文武館の史学助教。桜田門外の変(1860)に触発され,また武市瑞山に啓発を受け尊王攘夷運動に参加。慶応1(1865)年藩命で長崎,上海視察,翌年西郷隆盛らと会談し薩土討幕密盟に加わった。戊辰戦争では大軍監として東北に転戦。明治4(1871)年兵部省に登用され,6~8年熊本鎮台司令長官。7年佐賀の乱の鎮定に当たり,台湾出兵の際は台湾蕃地事務参軍として西郷従道を補佐した。9年神風連の乱後熊本鎮台司令長官に再任,西南戦争(1877)で籠城2カ月,薩軍の攻撃に耐え熊本城を死守した。11年中将,東部監軍部長,その後陸軍士官学校長兼戸山学校長,中部監軍部長を歴任,14年長崎墓地移転問題で辞表を提出したが明治天皇は許さなかった。 同年開拓使官有物払下げ事件が起こると,鳥尾小弥太,三浦梧楼,曾我祐準らと払下げの再議,国憲創立議会の開設を建白,薩長専制を批判するとともに陸軍反主流派としての立場を強めた。このとき佐々木高行らと中正党を結成。17年学習院院長となる。18年第1次伊藤博文内閣の農商務大臣となって,19~20年に欧州視察をし,帰国後すぐに「時弊救匡策」を草して政府の情実,皮相な欧化政策をはげしく批判し,折から進行中の外相井上馨による条約改正にも反対して,農商務大臣を辞職。天皇は学習院御用掛,枢密顧問官などへの就任を希望したが,固辞した。また新聞『日本』(社長陸実)を主宰して「日本主義」を提唱,在野国権派の結集をはかろうとした。22年8月杉浦重剛,三浦らと日本倶楽部を結成して外相大隈重信による条約改正に反対,このとき民間の反対集会に参加したため予備役に編入された。議会開設(1890)以降は貴族院議員,懇話会のリーダーとして有力な反政府勢力を築いた。日清戦争(1894~95)後の過大な領土的要求を戒めたり,31年地租増徴問題で反対し,日露開戦にも反対した。<参考文献>平尾道雄『子爵谷干城』,島内登志衛編『谷干城遺稿』(田浦雅徳)」】

[参考]

一 同日、兵之助さまが近々、高知を発ち、上坂(大坂に行くこと)するようにとの御内意を受けられた。

一 同二十七日、快晴、齋藤より書状が来た。國澤四郎右衛門より久徳勝兵衛が十八日に帰着するという通達があった。大砲會日(※會日は集まりのこと。大砲に関する集まりだろうか)なので出張した。

一 同二十八日、晴れ、國澤へ返事を出した。今朝、撃剣場へ出席。少々気分が優れないので早じまいした。齋藤・宮崎・竹馬へ書状を出す。喜之助を召喚した。

一 同二十九日、晴れ、気分が優れず、引き籠った。

一 同三十日、晴れ、今日も引き籠った。大工の壽平が来た。「去ル二十七日おふつじニテ壽平家内ニ振舞候事」。(※意味がよくわからないので原文引用)

[参考]

一 同日、大坂より徒使(かちつかい。伝令のこと)が到着。

太守さまが今月十九日、帰国のお暇の願い書を松平越中守(京都所司代)へ差し出されたところ、同二十三日、右の願い書に付紙をもって、願いの通り聞き届ける旨の知らせが来た。[この月二十二日の項を参照]

     十二月

一 この月朔日、今日より出勤する。

一 同二日、晴れ、同役が(高知から)帰着、同夜に会う。用談をして酒宴を催す。

一 同三日、晴れ、出勤。夕方、講義へ出席した。

一 同四日、晴れ、久徳克兵衛(高行の二番目の妹の於太尾が久徳の妻)が格録を取り上げられ、野根川より西側への禁足を仰せつけられる。四人扶持十石が実弟の力へ与えられると國澤四郎右衛門より通知があった。

一 同日、兵之助さまがかねての御内意の通り上坂される。来る十五日、当地を出発するようご命令があったという知らせが届いた。

一 十二月五日、久徳氏のお咎めに関し、勤事差し控え伺い(注⑦)を出すよう宮崎に頼んで引き籠った。國澤へ返事、久徳の見舞状が来た。夕方、勝之進が来て、夜半に帰る。同人は、若年の時は評判がよかったが、近年は大酒のみで俗人となった。実は(寺村については)厭うべきことがしばしばあるが、(それでも役職に)用いられるのは歎かわしいことだ。郷廻りの理助・又兵衛が帰途に寄ったので酒肴を出す。下役の北代覚助、郷廻りの馬助が来た。北代覚助は俗吏である。同夜、木地師(注⑧)小柿何某が巻物数巻を寺村のところに持参してきたといって、(寺村)勝之進が来た。

【注⑦。世界大百科事典(旧版)内の差控伺(さしひかえうかがい)の言及 【遠慮】より…また武士は一定範囲の近親,もしくは家来が処罰されたときには,自発的に謹慎すべきであった。通常上司に差控伺(さしひかえうかがい)といういわば進退伺を出し,その指揮によって御番遠慮,御目見(おめみえ)遠慮などが命ぜられた。御番遠慮は勤務の禁止で,他行せず,月代(さかやき)もそらず籠居するもの,御目見遠慮は将軍の拝顔を遠慮するもので,御目見の儀式,および御成(おなり)の場合,勤仕から除かれるが,その他の出勤は許された。…」】

【注⑧。精選版 日本国語大辞典によると、木地師(きじ‐し)は「木地のままの器類を作ることを職業とする人。また、その頭分(かしらぶん)。木地屋。」】

一 同六日、晴れ、今日も同様に引き籠り。吉吾より、長州攻め口(長州に攻め入る場所)の御名付け(命名の意か)ほか文書を借用した。壽平が来た。昨日、池彌四郎が蜜柑・柿を持参したので、今朝、肴を返礼として渡した。猪野小平太より蜜柑十五個持参、返礼に半紙を渡す。

一 十二月七日、病気のため引き籠り。

同日、藩の軍備の関係で、お侍の師弟・養育人ら十五歳までの「正年」(※よくわからないのだが、ひょっとしたら生年のことか)、ならびに平常学んでいる武芸、かつ、伝授が済んでおればその訳、かつまた、これまで藩のお雇いで他藩への旅勤を仰せつけられた面々は出発・帰着の年月など、詳しく報告書に記し、来年の正月二十五日までに取り揃えて差し出すことになった。

一 同八日、引き籠りのこと、宮地幸右衛門より書状が来た。

一 同九日、今日より出勤、宮崎潤助より書状が来た。勇助を召し抱える。

一 同十日、晴れ、「糀米」(注⑨)を今日、寺村勝之進へ頼み、替えさせた(?)。熊次郎が城下に行くので、本山・齋藤・川上・宮崎に伝言した。壽平が来た。

【注⑨。精選版 日本国語大辞典によると、麹・糀(こうじ)は「蒸した米、麦、大豆、ぬかなどに麹かびを繁殖させたもの。淡黄色で甘味。種々の酵素を含み、酒、甘酒、醤油、味噌などの醸造の主要原料とされる。かんだち。」】

一 同十一日、晴れ、吉吾が来た。齋藤より書状が来た。昨日、池彌四郎が来た。今日、終會(※終會は会合を終えることだが、この場合は何を意味するのかわからない)なので、夜に入り「仕舞」(※仕事を終えたという意味か)。

一 同十二日、今夕、岡本辰馬が来訪。同夜、同役(寺村のこと)が来た。また森金次郎・山中孫三郎・足軽の金七・同半蔵を招き、酒肴を出す。右の面々はいずれも文武導役なので、その労を謝すためである。

一 同十三日、晴れ、岡本辰馬が帰着した。国産改役の紋蔵が年魚九尾、きび少し、子供にといって持参した。酒肴を出す。同人は山鹿流操練の際、世話方をした縁故がある。壽太郎へ書状を出す。

一 同十四日、風、母上が少々病気なので、医師の岡村斧吉が来診した。同夜、尾川新助が来た。城下の模様を聞いて、今日齋藤へ書状を出す。

一 同十五日、晴れ、谷守部が来訪。夕方、寺村宅で守部と会う。宮地幸右衛門・山川・本山只一郎へ書状を出す。

同日、兵之助さまが今日出発のはずのところ、延期となり、来る十七日、出発されると発表があった。

一 同十六日、晴れ、岡村斧吉が来た。同夜、宮尾方に寺村と一緒に行った。池彌四郎が同席、四ツ(午後十時ごろ)すぎに帰る。

一 同十七日、晴れ、熊治が高知より帰る。本山・山川よりの書状を持ち帰る。壽太郎・愛之助より書状が来た。夕方、大砲の稽古のため台場へ出張。同夜、松田繁齋・森彌次平が来た。勝之進を呼び、酒肴を出す。四つごろ帰る。同日、兵之助さまが出発、上坂なさる。

一 同十八日、雨、熊次・岡村斧吉が来た。同夜、上田圓蔵が来た。

一 同十九日、晴れ、五ツ時(午前八時ごろ)より角谷台場を見分。夕方、御用につき郷廻りの昨七が来た。左の文書を持っていたので写しておいた。

   覚

野州辺の賊徒(天狗党のこと)のうち脱走した者が、信州路より間道を通り、京都・大坂あるいは長州辺へ来るかもわからないので、この州への入り口はもちろん、間道などを厳重に心得、召し捕り、もし手向かいなどすれば切り捨てるよう、早々に各方面に通達するよう老中衆より連絡があったので、そのことをお知らせする。

さらに、長州屋敷の中に、間道などを取り調べた書類もあり、前述のことも懸念されるので、各方面の取り締まりのことをよく考え、しかるべく取りはからうよう。また、兵庫・堺・西ノ宮辺の取り締まりの件、厳重に通達すべき旨を言ってきたので、このことをお知らせする。

別紙の通り伊豆守が通達されたので、早々に廻状を順次送達されるよう。

 十一月二十七日

 松平伊豆守内

  安松八郎右衛門

  宮田□之進

  福島豊治

  松尾五郎

松平土佐守さま

松平甲斐守さま

眞田信濃守さま

 御家来衆さま

  覚

常野両州(常陸国と下野国)の賊徒が信州へ脱走、それより美濃路・上方筋へやってくると言われているので、追討の命を出し、なお歩兵隊も差し向けましたが、万一撃ち漏らして(賊徒が)大坂表に立ち入っては容易ならざることなので、この州の警衛はもちろん摂河泉(摂津と河内と和泉)の諸家へ討ち取り方を厳重に通達するように致したい旨を田沼玄蕃頭(注⑩)より言ってきたので、このことを通達します。

十一月

別紙の通り伊豆守が通達しますので、廻状を順次送達されたい。以上。

 松平伊豆守内

  安松八郎右衛門

  宮田□之進

  福島豊治

  松尾五郎

 御名御家来衆さま

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、田沼意尊(たぬまおきたか。没年:明治2.10.24(1869.11.27)生年:生年不詳)は「水戸天狗党に対する大量処刑を指揮した幕末の江戸幕府若年寄。諱は意尊,通称金弥,父は,遠江国(静岡県)相良藩主(1万石)田沼意留。天保11(1840)年7月に家督相続,文久1(1861)年9月14日に若年寄となる。元治1(1864)年8月,水戸藩の紛擾鎮圧を命じられ出陣,紛争の一方の当事者である保守派の市川三左衛門に与し,水戸藩主目代の松平頼徳を自刃させ,天狗党の武田耕雲斎の軍を攻撃。敦賀で降伏した耕雲斎ら350名を斬罪にした。慶応2(1866)年10月,若年寄を辞任。保守的佐幕主義者で,そのことは,鳥羽伏見の戦で幕府軍に参加し明治1(1868)年2月,駿河,遠江で最も遅れて勤王証書を提出したことでもわかる。(吉田昌彦)」】

一 十二月二十日、晴れ、今日、斧吉・壽平が来た。齋藤より書状が来た。先日、熊次が(高知から?)帰るときに、「壽太郎為替昨日受取」(※意味がよくわからないので原文引用)、即刻、金子二百五十両を受け取る。楠立吉より木曾一件の文書を借りて写す。

一 同二十一日、晴れ、楠瀬立吉と郷廻り作七から借用した文書を返却。神田村の壽太郎へ書状を出す。『牧民忠告解』(中国・元の時代に書かれた『牧民忠告』の訳注書)一冊「取下候事」(※精選版 日本国語大辞典によると、取下(とり‐さげ)には、差し出したり預けたりしたものをとりもどすことという意味がある。)

[参考]

一 荻方(長州藩のことか)より立て札をした文面の写し。

 仁慈をもって段々と教え諭したにもかかわらず、諸隊の者どもが藩の命令に従わないので、やむを得ずこのたび厳しい対処を仰せつけられる。それでも、隊中の多人数のうち、前非を悔い、断りを申し出た者はお構いなく、元通り家に帰ることを許されるであろう。

一 手向かいせぬ者はみだりに討ち取ることはせず、手向かいする者はたとえ若年者であっても、容赦なく打ち捨てる。そのように心得よとのこと。

  元治元年十二月

(続。今回もまたわからないところがたくさん出てしまいました。自分の勉強不足を痛感しています。どうかご容赦ください)