わき道をゆく第238回 現代語訳・保古飛呂比 その62

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[参考]

一 長州より総督府へ差し出した書面、次の通り。

先だっては公卿方の引き渡し、そして脱藩人の始末の件でお達しがあったので、早速に右の公卿方に通知し、当の脱藩人どもへも申し聞かせました。ところが、無頼者が千人に及んで隊をなしている中へ公卿方・脱藩人どもが一緒になっております。種々難題の歎願の筋を申し立てております。慎み中のことですので、兵力を用いるようなことがあっては、天朝・公儀に対して済まぬことなので、百方力を尽くして説得しましたが、今もって承服しておらず、それゆえ公卿方の引き渡し「□[ママ]様」延引に及び、恐れ入ります。このうえは慎み中のことではありますが、諸隊の者を追討し、公卿方を御引き渡しいたします。しかしながら、混雑中のことですので、自ずから公卿方にお怪我などがあるやもしれませんので、そのことをお聞き届けくださるようお願いします。以上。

  (元治元年)十二月 大膳(長州藩主・毛利大膳のこと)

  右の両通[ママ]を二十一日、総督府へ差し出した。

  大和國之助(注①)

  毛利登人(注②)

  前田孫右衛門(注③)

  渡邊内蔵太(注④)

  猶崎彌八郎(注⑤)

  山田又助(注⑥)

  松崎剛蔵

右は十二月十九日、斬首を仰せつけられた。

【注①。朝日日本歴史人物事典によると、大和国之助(やまとくにのすけ。没年:元治1.12.19(1865.1.16)生年:天保6.11.3(1835.12.22))は「幕末の長州(萩)藩士。尊攘運動に参加。文久2(1862)年久坂玄瑞らと横浜居留地の焼き打ちを計画。のち藩の要路にあったが,第1次長州征討下に誕生した佐幕派の藩庁により,前田孫右衛門ら6名の政務員と共に処刑された。(井上勲)」】

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利登人(もうり-のぼる1821-1865)は「幕末の武士。文政4年7月6日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の尊攘(そんじょう)派で,世子毛利元徳(もとのり)の奥番頭。四国艦隊下関砲撃事件の講和談判では軍使となる。第1次幕長戦争のあと恭順派により野山獄に投じられ,元治(げんじ)元年12月19日同志とともに処刑された。44歳。名は貞武,武。号は主静庵,斤田など。」】

【注③。朝日日本歴史人物事典によると、前田孫右衛門(まえだ・まごえもん。元治1.12.19(1865.1.16)生年:文政1.7.28(1818.8.29))は「幕末の長州(萩)藩の政治家。大組士で高173石余。名は利済,字は致遠,号は陸山。嘉永5(1852)年,蔵元両人役。安政3(1856)年,当職(国家老)の益田右衛門介の手元役につき,万延1(1860)年,益田の当役への転役により当役手元役。反対のため困難があった洋式軍制改革に尽力した。文久2(1862)年上京して直目付に就き,学習院用掛として政治活動をする。翌年の京都での8月18日の政変後,一時,罷免されたが,用談役の要職に復帰した。元治1(1865)年,長州征討の朝命ののち,野山獄に投じられ,翌日,斬首された。(井上勝生)」】

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、渡辺内蔵太(わたなべ-くらた1836-1865)は「幕末の武士。天保(てんぽう)7年2月3日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。藩主毛利敬親(たかちか),世子元徳(もとのり)の小姓。藩論を尊王攘夷(じょうい)にまとめるのに尽力したが,禁門の変後,恭順派に捕らえられ,元治(げんじ)元年12月19日処刑された。29歳。名は遜,暢。通称ははじめ久之助,広輔。号は介亭。」】

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、楢崎弥八郎(ならざき-やはちろう1837-1865)は「幕末の武士。天保(てんぽう)8年7月12日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。江戸で安積艮斎(あさか-ごんさい),大橋訥庵(とつあん)にまなび,尊王攘夷(じょうい)の志をいだく。文久3年政務役となり,禁門の変のあと,藩内で幕府恭順派が実権をにぎると捕らえられ,同志とともに元治(げんじ)元年12月19日刑死した。28歳。名は清義。号は節庵。」】

【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、山田亦介(やまだ-またすけ1809-1865)は「江戸時代後期の武士。文化5年12月18日生まれ。村田清風の甥(おい)。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。長沼流の兵学をおさめ,砲台建設,洋式軍艦庚申(こうしん)丸の建造など海防につくす。恭順派の台頭により,元治(げんじ)元年12月19日処刑された。57歳。名は憲之,公章。号は愛山,含章斎。」】

一 十二月二十二日、快晴、宮地幸右衛門より書状が来た。

一 同二十三日、晴れ、風、齋藤・宮崎・本山へ書状を出した。同夜、たけの親が病気なのでにわかに宿へ返す。勇助が連れ帰った。寺村へ書状を届けた。

一 同二十四日、晴れ、久徳より書状が来た。服部より千勢(高行の娘)の所望状(嫁にほしいという手紙)が来た。

[参考]

  一 同日、登五郎さま(西邸山内家の当主・山内豊樹のことか)に女子が誕生。

一 同二十五日、晴れ、今日例年の通り、餅つきをした。

一 同二十六日、晴れ、今朝安次が出府(高知行き)。齋藤・本山・宮崎・川上へ伝言。宮地・市村へ書状を出す。服部へ千勢の縁組の返答をした。

一 同二十七日、晴れ、岩川壮吉が久礼浦(高岡郡)」へ来ると言ってきたので、(谷)守部(谷干城のこと)へ書状を出す。同夜、新助が来た。

[参考]

一 同日、尾張総督(長州征討軍総督の徳川慶勝のこと)より出兵諸藩へ次の通り。

毛利大膳(長州藩主)父子の服罪について、国内の鎮静の様子を見届けさせたところ、異議ない模様だ。よって討ち手の面々は撤収されたい。

  元治元年十二月二十七日

      尾張前大納言

一 同二十八日、快晴、岡村斧吉(注⑦)が来た。「吉吾深情ニ相尋ネ呉ル」(※吉吾の配慮で医師の岡村が訪ねてくれたといった意味か?よくわからない)。同夜、下役二人が来て酒肴を出した。談話。四ツ(午後十時)ごろ帰る。勇助に暇をやった。

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岡村景楼(おかむら-けいろう1835-1890)は「幕末-明治時代の医師。天保(てんぽう)6年生まれ。大坂や長崎で西洋医学をまなぶ。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍の軍医。高知病院医監をつとめ,のち高知で開業。明治12,19年にコレラが流行したとき,治療法を考案し,おおくの患者をたすけた。明治23年2月7日死去。56歳。土佐(高知県)出身。初名は斧吉。号は桜峰,蜃気楼。」】

一 同二十九日、快晴、本山ならびに壽太郎へ書状を出す。齋藤より書状が来た。お触れの控え在中。野中太内(幡多郡奉行)が(高知へ)呼び返されると吹聴しており、(寺村)勝之進までそのことを言ってきたとのこと。勇助の交替要員として熊次が手伝いに来た。酒代・肴代を池丸屋と紺屋に払うので、合計額を計算して持ってくるよう言ってやったところ、(年末のため)ことのほか取り込んでいるので、なにとぞ正月に支払いをしていただきたいと断りを入れてきたため、聞き置いた。昨日、山中孫三郎・半蔵へ酒一升、肴二尾、岡村斧吉へ一歩、肴二尾、「宮尾・岡村医師ニ付キ謝礼熊次ヘ一朱遣ス」(※意味がわかりにくいので原文引用)。書記二人に酒一升ずつ、肴二尾ずつ遣わす。吉吾の妻へ篠巻(注⑧)一つ、子供下駄一足を遣わす。壽平へ一朱、下駄一足、肴二尾遣わす。同夜、安次が(高知から)帰った。

【注⑧。精選版 日本国語大辞典によると、篠巻(しの‐まき)は「わたを細い竹に巻いて細長い筒状にしたもの。糸車にかけて糸を引き出すのに用いる。綿筒(あめ)。しの。」】

[参考]

一 薩州の高崎猪太郎からの手紙の写し[宛先はなし。我が藩府へ来たものであろう]

一 十二月十五日、大坂を出帆、船中の天候不順のため、漸く晦日に岩国の新港へ到着。(同行者の)筑前福岡藩の北岡勇平は岩国藩城下の料理屋に行き、私は(旅宿に)引き続き残っていたところ、同夜の四ツ時ごろに同藩役人の香川克・横道八郎次という両人が、これは用人のよしだが、北岡が同道して、私の旅宿に訪ねてきたので、山口の詳しい事情を聞きました。今は(岩国藩の)主人の吉川監物も山口に行って留守だとのこと。これも結局のところ、(吉川監物は)宗藩(長州藩)に恭順・誅罪(処罰)の道を尽くさせたい、もしそれに成功しなければ、再び帰らないという決心で、家中一同へも申し聞かせて行ったそうです。右について、(香川と横道が)追々事情を話すには、なにぶんこれまで激党(過激派)が勢力を伸ばし、何事もわがままに暴威[丁替わり、脱漏があるようだ](※以下、私の手に負えない部分は原文をそのまま引用する)。「貞思モヨラン、仍之元家毛利能登(長州藩一門家老である厚狭毛利家の当主)同伴勢」[これは重臣正義の者で、吉川監物の仲間とのこと]が復職を計ったところ、その通り断ったけれども、やはり暴輩(乱暴なやから)の勢いがはなはだしいため、両大夫(吉川監物と毛利能登の両家老のことか)はしばらく引き籠ったが、これは深い考えがあってのことだったよう。「萩城下ノ外」、これまで正義を唱え、あるいは咎め(処罰)・閉門などの処罰を受けた者どもが三百人ばかり山口へ押し寄せ、ひたすら監物らの心からの願いとして激党(長州藩の過激派)退去の策略をめぐらしたとのこと。しかしながら、なかなか暴徒の勢いが強く、正義が実現しがたい状況だった。毛利大膳は暗黒[暗愚の誤記か]、長門守(大膳の養子・毛利元徳のこと。注⑨)は粗暴、黒白をわきまえず、監物などはただただ理を解するものの、またたちまち激党に惑わされてしまう勢いで、ほとんど監物も処置に苦しんでいるとのこと。そうしたところ、このごろの下輩人(身分の卑しい者)の書状の中で、政田幸助[麻田公輔]こと周布政之助が死んだことを言って来た。いまだ表向きの「掛合」(※交渉とか談判を意味するが、この場合は何を意味するか不明)はないので、本当のところはわからないが、「暴訴死」したのは相違なく、右はこれまでの乱暴な処置を悔悟して、自刃切腹したのか、または正義なる者が暗殺したのか、正義党が刺し違えたのかわからないが、しかしながら死んだとのこと。[中略]右の両人(岩国藩の役人の香川克・横道八郎次のこと)の話が本当であれば、(長州の)内情は紛々の情勢である。そうであれば、官兵(長州征討軍)が臨めば、激党のみは敵対するかもしれないが、そのほかの正義党はこれを機会として処置を付ける模様に見えるけれども、なにぶん正義党の勢いは小さく、振るわない情勢である。しかしながら彼(正義党)より内乱を仕掛ければ、このうえの良い機会である。もっとも国内の人民は手足の置き場所がなく、よほど苦歎しているようです。五卿はやはり山口近辺に滞在しておられるとのこと。追々は大膳父子が面会することもあるとのこと。久坂玄瑞はたしかに鷹司家で割腹したとのこと。桂小五郎ほかの有司(役人のこと)は残らず帰国に及んだとのことでございます。

【注⑨。改訂新版 世界大百科事典によると、毛利元徳 (もうりもとのり。生没年:1839-96(天保10-明治29))は「長州藩世子,山口藩知事。支藩徳山藩に生まれ長州藩主毛利敬親の養子となる。?尉,広封,定広と名のり,長門守を称した。諡(おくりな)は忠愛公。幕末政争に敬親とともに活躍し,1864年(元治1)の禁門の変に兵を率いて上京したが,敗戦を聞いて途中から帰国した。68年(明治1)新政府の議定となり,翌年家督を継いで山口藩知事となり,第十五銀行頭取なども務めた。執筆者:井上 勝生】

一 現在の風評は次の通り。

長防の寄せ手(長防を攻める側の軍勢)は、十二月二十七日に引き取りのお達しがあり、二十八日より順次引き揚げになった。総督さまは正月四日に引き揚げの予定になっているとのこと。もっとも、(三条実美ら)五卿を預かることになっている薩州・肥後・久留米・筑前・柳川の五藩は、この五卿の守衛のための人数を残しておくようにとのお達しがあったとのこと。

一 五卿に随従する激徒の大半は屈服しているが、いまだ二人が服従せず、副総督さま(越前藩主・松平茂昭)へ歎願があると申し出たとのこと。右の激徒のうち、諸藩を脱走した者は三十人ばかり。そのうち土佐藩を脱藩した「某(ママ)」土方楠左衛門(注⑩)が頭目になっているとのこと。

一 武田耕雲斎(注⑪)以下の軍勢七百人ばかりを敦賀の寺院に厳しく閉じ込め、加州・越前そのほかの守兵が付いているとのこと。

一 このたび常野(常陸の国と下野の国)の賊徒が降伏したことについて、堂上(朝廷周辺)の議論をひそかにうかがうと、彼輩(賊徒)は関東に対してはそれなりの罪があるかもしれないが、天朝に対しては「サル名罪」(?)もなしとの御議論とのこと。

一 田沼侯(田沼意尊。水戸天狗党に対する大量処刑を指揮した江戸幕府若年寄)はいまだ定宿に滞陣しておられる。耕雲斎はじめ降参した者たちを受け取るためとのこと。

右のお渡しになるようにとのお沙汰は、江戸表より大監察が来て、発令されるとのこと。

【注⑩。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、土方久元(ひじかたひさもと[生]天保4(1833).10.6. 土佐[没]1918.11.4.)は「明治期の政治家。伯爵。土佐藩士土方久用の子で通称楠左衛門。号は泰山。文久1 (1861) 年武市瑞山の誓書盟約に加わって尊皇攘夷運動を行ない,同3年8月 18日の政変以後,七卿に随行して西下し,三条実美の信を得た。さらに倒幕運動にも参加し,中岡慎太郎とともに薩長連合実現へ大きく貢献した。明治維新以後,江戸府判事,東京府判事を経て,明治4 (1871) 年には太政官になり,1877年には一等侍補,さらに内務大輔,内閣書記官長,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣,宮内大臣,枢密顧問官を歴任。その後,帝室制度取調局総裁,臨時帝室編修局総裁として修史事業に尽力,また國學院大學学長,東京女学館館長をも兼ねた。」】

【注⑪。デジタル大辞泉によると、武田耕雲斎(たけだ‐こううんさい1803~1865)は「江戸末期の勤王家。水戸藩士。名は正生。徳川斉昭に仕え、家老。尊攘派の筑波山挙兵を助け、天狗党の首領となり、同志を率いて上洛の途中、加賀藩に降伏。敦賀で斬首された」】

附録

常野脱走浮浪(水戸藩の尊王攘夷の急進派・天狗党が常陸、下野などの農民を率いて関東各地また中山道に転戦した事件)の中山道暴行始末。

元治元年春の二、三月より、攘夷の御成功を願ってと唱えながら、常野諸郡へ割拠屯集し、五、六月に至り、だんだん多人数になったため、幕府よりそれぞれを征討する軍勢が出動したが、なにぶん鎮定しなかった。十月中に入り、(賊徒が)常州の港に屯集したところで、ついに近辺の二十四諸侯に命令が出て、大挙征討したところ、賊徒はたまらなくなったのか、その月の下旬、同所を脱走。野州辺・黒羽辺に移り、それより宇都宮城辺に出て、鹿沼宿に一泊して日光街道を押し登った。その数およそ千余人。さらに十一月十一日夜、(賊徒は)太田に宿泊、十二日、同所に滞留し、十三日夕方、出立した。上州平塚というところで利根川を南にわたり、その辺で一泊、郷惣というところに止宿したとのことである。十四日、本庄宿で昼食、脇往還(注⑫)の吉井泊、十五日に下仁田泊。もっとも追討の諸侯である田沼玄蕃頭らが新発田・館林持[ママ]跡より追いかけたが、間に合わずに帰陣した。下仁田泊の夜、高崎勢が夜討ちしたところ、賊徒は用意していたのか、高崎方が不利となった。十六日晩、(賊徒が)下仁田を出立した後、高崎勢は四百人ばかりで追いかけ、下小坂というところで一戦したが、高崎勢はなおまた敗走し、家老はじめ四、五十人が討ち死にした。その夜、(賊徒は)内山峡という上信国境(上野国と信濃国の境)の東下で一泊。十七日、内山峡を越え、信州平賀村で一泊、十八日、中山道より同宿へ押し出し、十九日、和田宿泊、二十日、和田嶺に押しかけた。和田嶺には諏訪勢・松本勢の計千人余りが出動しており、ついに一戦に及んだところ、賊徒が打ち勝って、勢いに乗じて下ノ諏訪に押し入って一泊し、木曾道中は路程が峻険で、福島の関所(中山道の福島 (長野県木曽町) に置かれた関所)があるため、下ノ諏訪より路を転じて、高島城下を横切った。[この日、城下では戸を閉め、土民どもは一切通行しなかったとのこと]さらに、(賊徒は)伊奈街道に押し入り、二十一日、居越村に泊まり、二十二日上穂村泊、二十三日、片桐村泊、二十四日、飯田城下へ出て、二十五日、可瀬を越えて、二十六日夜、中山道の妻籠・馬籠の両宿に押し出し、それより追々街道を押し登り、二十八日、太田川の川上を押し渡った。

事前に右の注進があり、川面には尾州の軍勢・大垣勢が二千人余り固まっていたが、賊徒が河東にまわったところ、どうしたのか、一、二里引き退いたので、(賊徒に)ついに河を渡られたという。一説に、賊徒が太田川を渡る前、尾州軍勢で食い止めるべく、大垣勢が後詰めの手はずだったところ、右のように引き退いたので、大垣勢は大に立腹したとのこと。

右の出来事が順次京都に注進されるに及んで、近辺の諸侯へ討伐命令が下された。大垣の軍勢一番手八百人が河渡し宿まで繰り出し、三番手の七百人が同所に詰めよせた。彦根勢一番手の木俣土佐が千人ばかりで右の河渡まで押し出し、大垣の軍勢に談判し、彦根勢は美江寺宿東本田村で守りを固め、大垣勢の後詰めのる手筈を打ち合わせ、是非河渡で決戦し、食い止める決心のところ、賊徒は二十九日、鵜沼に一泊して右の模様を察知するに及び、官兵に対し、戦争してはよろしくないので、なるだけわき道によけると言って、晦日の朝、鵜沼を出立した。右宿地内の二十軒というところより北へ入り、昼の九ツ時(正午)ごろ長良川を通り、芥見村で昼食し、その辺より飛騨街道を四、五里、北行。天王寺に泊まった。[ただし天王は長良川の東涯である]。十二月朔日、天王村を出立、二手に分かれ、一手は船五艘で、岐阜より一里余り北で上陸し、揖斐村に到着。もう一手は、文殊を通り、大野・大門を越え、揖斐村に着いた。揖斐村は岡田将監の陣屋ばかりで、家数は四、五百軒ある。[この夜、賊徒どもは近辺の人足を集め、松明をたき、信山城で、垂井・赤坂に繰り出すつもりだと言いふらした]。その前、寄手は、(賊徒が)右の様子を見せたので、朔日より、彦根の先手の木俣土佐が率いる千人が、夜八ツごろ、美江寺より赤坂へ引き返し、二番手の貫名筑後が率いる八百人は赤坂より垂井まで行き、脇五右衛門が率いる六百人が今須宿に着いた。[夜九ツ時ごろとのこと]。脇五右衛門はすぐさま今須宿より藤川へ繰り出した。もっとも彦根側の軍議では、貫名組八百人が垂井より押し出し、新野組八百人が関ケ原より繰り出し、藤川へ応援し、揖斐村に押し寄せ、一戦打ち破ることになっていた。ところが、二日四ツ過ぎより賊徒が揖斐村を出立、谷汲村より佐原村・合原村・日當村の三ケ村に泊まりこんだ。[右の三ケ村は揖斐村より三里余りで、越前大野村の山越し間道である]。この道は山谷で、路程がとくに険しいので、彦根・大手の両軍勢も火急に追討もできず、だんだん詰め寄ったところ、(賊徒は)三日夜、市場村・東板屋村・能郷村の三ケ所に分かれて止宿した。四日、大河原村・天神堂村まで行き、[この辺は山路が塞がっていて、そのうえにその前から大雪で地元民も歩行困難になっていた]。その辺で人足を多数駆り出し、布団で雪を踏み固めて通行し、這越峠を下り、越前秋生辺まで押し出したところ、秋生村はその前に大野の軍勢が焼き払ったというのでやむなくその夜は野営したとのこと。もっと能郷の内イホ谷というところで農家一軒を焼き捨て、以前から持参していた「同盟之首級」(※意味がよくわからないが、仲間の首のことか)、かつ、深手を負った者ども、または不要の駄荷物などを残らず焼き払ったとのこと。十二月三日、寄せ手の諸隊を総括するため、一橋中納言殿(徳川慶喜のこと)が京都を発たれ、即日、大津に着陣し、諸隊を指揮された。もっとも、御家老の大井丹後守・松浦加賀守、御側御用人の黒川嘉兵衛、番頭兼御用人の松浦作十郎、御用人の榎本亭造・佐久間小左衛門・原市之進・梅澤孫太郎、そのほか別手組・講武所小筒役など、総勢およそ二千余人。一番手は松平民部大輔八百人、二番手は加州の軍勢千三百人、脇備えの所司代の軍勢二百人、見廻り組二百人、その応援の筑前の軍勢二百人、藤堂和泉守の軍勢百人、次備えの會津の軍勢千二百人が北国海道湖水西縁に出動。今津・海津押しとして小田原軍勢六百人、ほかに分部若狭守の軍勢も精々大溝陣家(大溝藩の藩庁)ばかり固めようと、それぞれ手筈を定め、五日朝、松平民部大輔が草津辺まで繰り出し、なお次々と順序をもって繰り出す模様だったが、賊徒が越前路へ落ちて行くという知らせが次々とあったので、陣場(軍勢が陣取る場所)を替え、まず加州勢千三百人、そのうち七日に大津を出立、湖水を船で渡り、海津まで繰り出した。小田原の軍勢も同日出動し、湖水の西縁を進んだところ、賊徒どもはいよいよ越前路に行き、六日、大野街道へ押し出し、笹俣峠の南下で止宿し、七日、笹俣より五里ばかり西に行き、千代谷に一泊、八日、なおまた西へ五、六里行って東俣で一泊、九日夕、今庄宿まで押し出した。十日・十一日は同所に滞在、[もっとも十一日の夜、五十人ばかりが木ノ目峠を越し、新俣村まで押し出した]。十二日、残らず新俣まで押し出し、同所で止宿した。

新保は山間の一小村で家の数は五十軒ばかりあるが、大勢が押し入ったため、宿所を失った土民は残らず逃げ去ったとのこと。賊徒も軽輩の者は軒下に陣をとっていた。この日、すぐさま葉原までまで行くべきところ、同時に加州勢が葉原まで詰め寄ったので、同所に止宿した。すべて賊徒が通行したところは、土人はみなあわてて逃げ去り、まことに騒然とした。

北国筋は越前・福井をはじめ、鯖江・丸岡・大野・府中・若州小濱・敦賀などまで、そぞれ軍勢が出動し、「北東手右[ママ]」固め、彦根・大垣の両軍勢も越前府中まで入り込み、賊徒の後ろを固めた。加州勢は葉原まで出動し、一番に接近戦の覚悟[この日加州勢は行きかねて葉原まで進んだとのこと。途中で昼飯の支度がができず空腹になったが、隊長の命令でついに葉原まで午後に到着した。それと同時に賊徒が新保まで着いたので、同所で食い止めた]、その日、[九日、御用人佐久間小左衛門の前手組四百人が大津を出立し、疋田まで出動した。十一日、御家老の松浦加賀守・梅津孫太郎、筑前の軍勢二百人、藤堂軍勢二百人が大津を出立、敦賀表に行った]。十三日、中納言殿が大津を出立、その日は堅田泊、十四日、大溝に御着陣、同所で諸藩を指揮されようとしたところ、昨夜加州陣より使者が到来、賊徒が歎願の件で言ってきたというので、にわかに情勢が変わり、十五日に今津泊、十六日に梅津に御着陣された。もっとも、加州勢へは厳重に攻撃することをお達しになり、時宜次第で疋田・敦賀辺まで向かうつもりでおられたところ、その前[十一日の夕方である]賊徒どもより加州軍に書状が届いた。文中の趣意は、まったくもって天朝・幕府の兵に抗するつもりはありませんが、ただ時日の行き違いがあって、上京のうえ釈明したく、これまで罷り越しました。何とぞ、道路差し支えなくお通しくださるようにということだった。加州よりとりあえず出した返事は、今年我々が出動して道路を塞いだのは、天朝の命令のよるもので、一橋中納言殿がご加勢して固めておられる。所詮穏便にすませることはできないので、一戦のうえ通行すべきだと断った。すると、十二日晩、なおまた書状が到来。少々考えるところがありますので、攻撃の件は御免願いたいと言ってきた。その前[十三日の夜]、右の始末を加州より急使をもって堅田御本陣へ申し立てたところ、早速お達しがあった。その趣旨は、賊徒どもから歎願があったからといって、諸隊が手を弛めてはもってのほかのことである。たとえどのように申し立てても、いったん幕府の軍勢に敵対した者どもだ。そのようなことに取り合って、要撃の機を失ってはならぬので、早速手筈のうえ討ち取るようにということだった。[十四日の朝、堅田でお達しがあった]。右は「行道ニテ」十三日夕、始末嘆願書・訴罪書の通り加州へまで差し出したとのことで、十五日、右の通り加州より通達した。文中に「趣意ケ間敷儀」(?)ががあるので、取り上げがたく、是非押し詰めて接近戦に及ぶべき旨を、なおお達しがあった。そうすると十六日、加州より(一橋中納言に)申し立てたのは、前件のお沙汰の通り、いよいよ十七日朝、押し詰めて接戦におよぶべき旨を断ったところ、賊徒がなおまた申し立てたのは、一同決死の覚悟でいるので願い上げ・・[以下紛失]

右は、中山源太左衛門が京都より持参したのを写したものである。

【注⑫。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、脇往還(わきおうかん)は「五街道以外の街道。脇街道、脇道などともいう。五街道に準じるような街道から、地域間の街道に至るまでその範囲は広く、主要脇往還としては伊勢路(いせじ)、中国路(山陽道)、佐渡路、長崎路、北国(ほっこく)路、松前道(まつまえみち)(奥州道中(おうしゅうどうちゅう)の延長)、羽州(うしゅう)街道などがある。とくに関東平野は縦横に脇往還が走り、おもなものに、近世初期に重要な地位を占めた中原街道、東金(とうがね)街道はじめ、大山(おおやま)、成田(なりた)、川越(かわごえ)街道などがある。幕末には沿岸防備のため、房総(ぼうそう)、三浦半島沿岸の街道が重視された。運賃の規定はあったものの、物資輸送組織は整備されていない場合が多かった。[山本光正]」】

  保古飛呂比 巻十三 慶応元年

  慶応元年[元治二年四月改元] 佐佐木高行 三十六歳

  正月

一 この月正月、家内一同で朝、祝った。

たらちねのうからやからも打揃ひ

    としのはしめを祝ふうれしさ

芽出たしと祝ふうちにも

    心にかかるくもはありけり

本日は年賀客が来て、面会した。夕方、寺村(勝之進)宅に挨拶に行った。

一 同二日、今朝、寺村宅へ下役二人と作配役二人を呼び寄せ、用談した。九ツ半(午後一時)ごろより官舎を出発、六ツ(午後六時)すぎ高岡町に着、番頭方に止宿。今日、旅中、折にふれて、

風さえて春としもなし久方の

    都の空はいかにあるらん

[参考]

一 同二日、豊範公が大坂を発って国に帰り、兵之助さまがその名代として大坂守衛にあたられる。[藩政録による]

右についてのお届けは左の通り。

先だってお届けした通り、かねてお願い済みのように、土佐守の大坂表警衛の名代として、厄介の山内兵之助が昨年十二月二十五日に大坂に着きましたので、土佐守は帰国のためさる二日に同所を出立したことを言ってきましたので、そのことをお届けします。以上。 正月十七日 松平土佐守内 廣瀬傳太夫

一 同三日、雨、高岡を発ち、朝倉で昼食、八ツ時(午後二時)ごろ、高知西町の自宅へ到着。早速、お仕置き役の市原八郎左衛門を訪ねて用談し、大目付の森権次へ届け出、御奉行の桐間将監殿へ届け出る。宮地・川上に挨拶し、同夜、本山の姉上宅に行って、一同の無事を祝し、寛いだ話をした。姉上は満悦なされていた。

一 同四日、晴れ、早朝、お仕置き役の市原宅へ行き、御用を済ませた。それより山川・毛利を訪ね、三郡役場へ出勤、仕事を済ませて齋藤叔父・上原傳平に挨拶。大目付の間忠蔵宅へ用談のため訪ねて行き、帰途、沖助市を訪ねた。同夜、宮地幸右衛門・山川久太夫・宮崎潤助・池田勧蔵が来た。

一 同五日、晴れ、明け方、杓田へ墓参。帰途、武馬善左衛門に挨拶、本山で雑煮を食べた。帰宅したら、毛利夾輔・國澤四郎右衛門が来た。昼食後、お仕置き役の村田氏宅へ御用のため行った。留守。それより五十嵐屋・市村・服部・真宗寺へ挨拶、再び村田宅へ行ったところ、まだ帰宅せず。齋藤・山川・中村・森岡・久徳へ行く。将監殿・市原・森へ届け。夕方、支度して、また村田氏へ行った。御用を済ませ、夜五ツ(午後八時)前に帰宅。村田へ往来の途中、前野・中島に挨拶。今朝、隣家の「小松池」を訪ね、そのほかの隣家へは家来を遣わした。同夜、四ツ時(午後十時ごろ)、浅野の家人が来て、仕方なく用事を頼まれる。よって即刻、川上・浅野両家に行き、ようやく用事を片付け、九ツ(午前零時)ごろ帰宅した。

一 同六日、大雨、昨夜、岡本辰馬が来た。明け方に出発、高岡村で昼食、戸波村で「再飯」(二度目の昼食?)、日没に須崎の官舎に帰る。

一 同七日、(寺村)勝之進が来訪。本日は日中休息した。

一 同八日、雨、亀太郎が五日より滞留、今朝、久禮浦へ向かった。永野の書状を披見。平井善之亟より書状が来た。時勢のことについてである。「依ツテ宰メ置ク」(※意味がわからないので原文引用)。宮尾より今日の神農祭について案内があり、夕方、池彌四郎が誘いに来る。病気のため断る。笹村源右衛門が鉄山の調査で雲州(出雲国)に行くと言って暇乞いかたがた相談に来る。

一 同九日、曇り、母上[実は姉上]・玉輝・千勢(いずれも高行の娘)・さだ(高行の妻)が風邪のため床に臥す。宮尾が来診する。「所剤」(?)を所望した。

一 同十日、曇り、下代が(高知に)出府するため、用向きがないか尋ねて来た。黒原五郎が柿ノ木山に行くというので挨拶に来る。病気のため会わず。

一 同十一日、風邪のため引き籠る。

[参考]

一 同二十一日、尾張前大納言よりのお届け、左の通り。

毛利大膳父子が服罪し、長防が鎮静しましたので、入京し、あの件この件について天子様にご報告のため参内すべきところですが、旅中の私どもに対し、お沙汰の向きもおありでしょうから、帰路の際には上京せず、名代として成瀬隼人正を遣わし、関白殿下に言上させ、いったん(尾張に)帰国の上、早々に参内したい旨を申し上げておきましたが、大膳父子服罪のことなどを隼人正から言上するのは安心できないとお考えになり、帰路の際に上京し、参内のうえ言上するよう仰った旨、傳奏の野宮中納言から連絡があったのを旅中に承知しました。私はかねがね病気でありましたのを、押して旅行し、いまもって回復しておりませんので、よんどころなく大坂表に逗留し、手当しております。しかしながら、前述の次第につき、未だ病中ではありますが、押して明二十三日に大坂表を発ち、いったん入京し、早々に参内するつもりであります。これにより申し上げます。以上。

  正月二十一日 尾張前大納言

一 正月二十三日、同二十四日、同二十五日、同二十六日、同二十七日、皆勤した。

 (続。いつものことながら拙い訳で申し訳ありません。)