わき道をゆく第239回 現代語訳・保古飛呂比 その63

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[参考]

一 (慶応元年)正月二十四日、藩で文武奨励の制度が定められた。すなわち左の通り。

一 文武の課業は、十六歳の正月より始め、二十二歳の十二月までの毎月二十日、二十三歳の正月より始め二十九歳の十二月までの毎月十五日、五ツ時(午前八時ごろ)に文武館に入り、八ツ時(午後二時ごろ)に文武館を出ること。

一 右の年齢は、入館するごとに、学問・槍剣・砲術を学ぶべし。もっとも、槍剣のうちどちらか一技だけ学んでも構わない。そのほかの芸術(学芸と技術)は当人の志次第。

一 三十歳より三十九歳の十二月までは毎月十日、右の刻限の通り文武館に出入りすべし。

一 右の年齢は文武のうち一芸だけを学んでも構わない。もっとも、砲術は現在第一の利益なので、腕前を磨くよう心がけられたい。そのほかの芸術は当人の志次第。

なお、末子・弟・養育人等はこれに準じる。

一 すべて四十歳以上の入館は当人の志次第。

一 初めて入館する者は司業調役に届け出をすべし。

一 さる戌年(文久二年)以来、入館の面々は、文武の師家(の氏名)を届け出るよう定められていたが、今後はそれを止める。もっとも修行のやり方については文武役掛の指図に従うべきこと。

一 課程がある面々は入館の度々に「泮宮」(※学校のことか)へ掛札をすべきこと。

正月

右は、後に須崎へお達しがあった。

一 同二十八日、姉上が(高知へ)出府された。

一 同三十日、千勢の縁組願い書を原四郎へ依頼した。池彌四郎より面会申し込みがあったが、病気のため断る。

一 この月、登五郎さまのところで生まれた御女子の名前は於繁(おしげ)さま。

     二月

一 この月朔日、晴れ、西洋流操練のため浜辺に出張する。

一 同二日、出勤した。同夜、軽砲の講義会のため同役(寺村のこと)宅へ行った。その際、足軽の頼吉が言った。野戦筒はもともと西洋で用いたものではなない。高島四郎太夫(注①)が西洋砲を開発したとき、陸戦砲は大金を要するため、とても我国ではにわかに行われがたいからといって工夫したものだと。

【注①。朝日日本歴史人物事典によると、高島秋帆(たかしま・しゅうはん。没年:慶応2.1.14(1866.2.28)生年:寛政10(1798)は「幕末の砲術家,洋式兵学者。高島流砲術の創始者。諱を茂敦。字は舜臣,子厚。通称は糾之丞,四郎太夫。秋帆は号。長崎町年寄を勤める傍ら出島砲台を受け持った四郎兵衛茂紀の3男として長崎に生まれる。父から荻野流,天山流砲術を学んだが,長足の進歩を遂げつつある洋式砲術とは隔絶した差のあることを知り,通詞(通訳)にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり,出島砲台の責任者であったことから,オランダ人に疑問を直接問いただすなどしてヨーロッパの軍事技術に関する知識を修得した。また町年寄の特権である脇荷貿易によって各種の火器やオランダ兵学書を買い求め,天保5(1834)年ごろにはこれらの成果を基に高島流砲術,洋式銃陣を教授するようになった。アヘン戦争(1839)に関する情報に大きな衝撃を受け,天保11年西欧列強のアジア侵略から日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出した。翌年幕命により江戸に出て,5月9日徳丸ケ原(東京都板橋区)で日本最初の洋式砲術演習を行った。これにより幕府の高島流砲術採用が決まり幕臣江川太郎左衛門,下曾根金三郎のふたりに高島流を皆伝して長崎に帰ったところが,かねてから蘭学を蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行鳥居耀蔵によって天保13年謀反の罪を着せられ,投獄される。その後ペリーの来航など世情も大きく変化したこともあって,幽囚10年の嘉永6(1853)年に赦免となり,江川太郎左衛門の許に身を寄せ,通称を喜平と改める。安政2(1855)年には普請役に任ぜられ,鉄砲方手付教授方頭取を命じられ,次いで安政4年富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め,現職にあって没す。「火技中興洋兵開基」と称えられ,日本の軍事近代化に大きな足跡を残した。(所荘吉)」】

一 同月、常野脱走(天狗党の乱のこと)の浮浪、敦賀の刑罪場で斬首された者は次の通り。

  武田伊賀 武田彦衛門

  武田魁助 山國兵部

  山國淳一郎 長谷川通之助

  村嶋萬次郎 井田周助

  朝倉弾正 川瀬専蔵

  高野長五郎 國分新太郎

  米橋誠之丞 前島徳之介

  田丸左京 小野武雄[藤田小四郎こと]

  [以下欠落]

一 三月十七日付の徳永忠助の書状に(以下の記述があった)

[上略]京都も御静謐のように表向き唱えられておりますが、いろいろと大事が起こっているようだと内々察しております。なにぶん世上不穏な風聞が流れております。すでに先日、南門より西北へ二十間ばかり離れた塀の裏板に土と血の足跡が付いておりました。巷説には、越前敦賀で浪人二百四十人ばかり切ったのでこの足跡ができたとのこと。実に奇怪な事であります。右の浪人の処罰がはなはだ無理な事だということであります云々。

[参考]

一 二月十九日、江戸より飛脚が到着。太守さまは京都警衛のために今夏まで在京するよう命じられていたが、現在、国許で直接政治を行わなければ難渋する局面なので、名代をもって警衛のお勤めに当たらせたいという願い書を先月一日、御用番(注②)の本多美濃守さま(注③)へ差し上げたところ、同七日、御付紙(注④)をもってまず重臣たちを国許に差し向け、取り締まり等の件などそれぞれの指揮が整い次第、早速(太守さまが)出京して(国許の)警衛に当たるよう命じられた。恐悦のことである云々。[記録抄出]

【注②。精選版 日本国語大辞典によると、用番(よう‐ばん)は「江戸幕府の老中・若年寄が、毎月一人ずつ順番で執務の責任にあたったこと。月番。御用番。」】

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、本多忠民(ほんだ-ただもと1817-1883)は「江戸後期-明治時代の大名。文化14年2月26日生まれ。讃岐(さぬき)(香川県)高松藩主松平頼儀(よりのり)の子。本多忠考(ただなか)の婿養子となり,天保(てんぽう)6年三河(愛知県)岡崎藩主本多家(定通系)5代。翌年の三河加茂郡百姓一揆(いっき)を藩兵を出動させてしずめた。京都所司代をへて,幕末の難局に2度老中をつとめた。明治16年1月29日死去。67歳。」】

【注④。世界大百科事典(旧版)内の付紙の言及【付札】より…「江戸時代,公文書に貼付された付箋の一種で指令,意見,返答などを記すのに用いられた。付紙,張札とも称する。付札はとくに下から提出された伺書に対して回答を下す場合に多く見られ,幕府は大名諸家よりの伺書に対して老中の付札をもって回答指示を与えた。…」】

一 この月、娘の千勢を藤井守馬の妻に縁辺取組(結婚縁組のこと)したいという願いがお聞き届けになった。

一 この月、ご隠居様(容堂公)の御屋敷の普請始めがあったと承った。

[参考]

一 長州藩の「巧書」(※巧みな偽文書という意味か。よくわからない)、次の通り。[文久三年八月十八日参照][ここに引いた史料は、文意が通じないところが少なくない。誤写が多いためか](※魚住より。この文書は漢字だけで書かれているため、私の力ではうまく解読できません。誤訳だらけだと思いますが、ご容赦を)

 皇室が失権してほとんど千年たった。元弘(注⑤)の時代に嘗て一度、(皇室の権力)を回復して、また失った。いまは元弘を隔てること五百年。聖主(天子)が出馬して、夷狄の禍があり、天はしきりに災いを起こしてそのことを警告した。上は大いに懼れ、下は詔(天子の命令)に逆らった。覇府(幕府)は夷を恐れて詔を奉らず、天子の廃立をもくろんだ。ここにおいて天下のほとんどが覇府に背いた。壬戌(文久二年)の春、関西の義徒が呼び合って入京。まず覇府の罪を糺して後に攘夷を欲した。これより前、諸侯のなかに、覇府に天子の詔を奉って攘夷をするよう勧める者があった。とくに我が長州の相公(相公は宰相のことだが、この場合第十三代藩主・毛利敬親を指すと思われる)が覇府をたびたび諫めたが、覇府は聴かなかった。このとき相公は江戸にあって、また天子の詔を奉じるよう陳べたが、覇府はまた聴かず、相公は義理と道理を尽くす道は尽きたと考えた。そこで世子に命じて京都に入らせた。覇府はまた因循にして夷を滅する意思はなかった。天子はわが三條(実美)公を江戸に遣わして督促し、相公はついに自ら京都入りした。諸侯はこれにならって相次ぎ京都入りした。癸亥(文久三年)の春、覇主(将軍)が入朝(朝廷に参内すること)し、親しく叡旨(天皇の言葉)を受けた。しかし、覇府はなお因循にして決しなかったため、天子は怒って、攘夷の期限を直命した。相公は奮ってこれを奉じ、領内の馬関海峡を通行する夷船は討伐し、「五□皆克之」(※欠字があるので意味不明)、天子は使者を送ってこれを賞し、覇府は使者を送ってそれを非難した。相公はその幕府の使者を受け入れず、長州人はこれ(幕府の使者・中根市之丞のこと。注⑥)を殺した。相公は一族の吉川氏(吉川経幹のこと。注⑦)を(幕府との折衝に)派遣し、長州藩家老の益田氏(益田右衛門介のこと。注⑧)が参内した。益田氏は天子に次のように上奏した。覇府と諸侯はその場限りの優柔不断で恃むに足りない。「宜親征以□其膽且悚動乎天下也」(※欠字があるためわかりにくいが、天子自ら親征して、亥狄の肝をつぶすべきだといったような意味かと思われる)。天子はそれを聴き、大和に行幸し、大祖陵(神武天皇陵)と春日祠(春日大社)に参拝して、軍事を議し、ついで伊勢天祖廟(伊勢神宮)に行幸(注⑨)しようと、その時刻を期し、中川朝彦親王(注⑩)に西国鎮撫使になれと命じた。親王はそれを断った。天子はさらに強く(鎮撫使になるよう)迫ったが、親王は断った。「更命師王」(※意味がよくわからないので原文引用)、親王これを受く。親王は夜、にわかに皇居に入り、會侯(京都守護職の松平容保)と薩州人を呼び寄せ、そして三條公以下十余人の参内を禁止した。そして會津・薩摩の兵に皇居を守らせた。皇居には銃砲が散乱し、士卒が満ちあふれ、常軌を逸した振舞が横行した。親王はそうしてはじめて長州人の謀反を宣言した。長州人は大いに驚き、関白鷹司公(注⑪)の邸に集まり、三條公は親兵七百を率いて駆け付けた。諸卿もまた駆け付け、諸藩の兵もまた集まった。兵の数はおよそ三千か。賊を一掃しようとしたが、皇居の門はすべて賊が占拠しているのでどうにもならない。そこで大佛寺に入って合議し、長州に進んで再挙をはかることを決めた。西下したのは 三条実美公、三条西季知公、東久世通禧公、四条隆謌公、錦小路頼徳公、澤宣嘉公、壬生基修公の七人である。諸公は三田尻に館を定め、相公と世子は「更来弔[ママ]」(※意味不明)、再挙を相談した。ああ、神州の禍難また多し。かつて「女真胡元之難」(刀伊の入寇のことか。注⑫)があった。皆これを拒み、また「納冠」(?)して皆殺しにされた。今、洋夷が来て、和親交易を請い、これを許す。「又請者不許則観乎、以強之而其呑□之機是矣」(※意味不明のため原文引用)。しかし、天下はあまねく攘斥と和親の二説が交錯し、中川宮親王は人倫に背き、学問文化を廃らせている。邪と正が混じり、是と非が混じり、禍害は極まった。そうして三條公と相公の執義(義を守ること)に、天下は挙げて帰心し、天下の正気(正しい意気)はここに集まった。相公の挙が成ったのを知るべきである。けだし、相公の挙は長州藩一藩の挙ではない。天子の挙である。そして、皇室の権威恢復が成るかどうかの分かれ目である。ゆえにその戦いは必勝を期すべきである。負けてはならないのである。「此籌策之所宜以□也、画三策□」(※欠字のため意味不明だが、勝つための方策としては三つの策があるという意味か)、(その一策としては)一同が廟堂に会し、盃を酌み交わして盟約を結び、世子が軍を指揮し、三條公以下が皆行動を共にする。その軍勢は五万。相公が「居守」(※留守を預かるという意味と思われるが、詳細不明)することが大事である。相公が自ら軍を率いるべきである。そして世子が賊にあたることに任ずれば、この挙は成る。世子が自ら身をもって軍隊を率いて戦いに臨むことが重要であり、出陣するための準備を徹底的に行うことが不可欠であり、「而□之々術也」(※欠字のため意味不明)。

 (長州の)支藩の某侯某侯、大夫(家老)の某氏が東西を守り、同時に猛将が勇士を率いて海上を直進し、大坂城を破って、ここを拠点にして敵の糧道を断つ。別の三隊は岸和田から河内に進入、そこの民を手なずけて行き来し、大坂城の自軍と示し合わせる。また次の三隊はひそかに入京し、二条城と幕府役人が集まるところに火を放つ。あるいは山に叫び、あるいは市に号令をかける。その出没隠見(現れたり隠れたりすること)は予測できない。「撓乱□藉」(※動乱狼藉という意味か)は治めることができない。火膳城(?)・彦根城に漸進し、湖南(琵琶湖の南部)を拠点に東山・北陸の道を固める。「又□[ママ。(欠字ではなく該当の字がネット上では見つからない)]師王」、これを越羽の地への拠点とする。隙をつかれて覇府は西を得ることができない。そこで世子が馬を駆って入京し、嵯峨の形勝(敵を防ぐのに適した場所)を拠点とし、「礙然」(?)動かず、天子に上奏してこう言う。中川宮朝彦親王は帝位を簒奪しようとした云々。その罪を糺すことを請う。事前に関白鷹司公に秘策を授けておき、これに萬里・烏丸公や諸侯を内応させる。そうすれば賊を制するの死命は我が掌中にある。これを上策とする。

 (次の策は)廟堂で一同が会し、盃を交わして盟約を結び、自軍を上中下の三つに分ける。上軍は千五百人、某侯を指揮官とし、五日前に先発して進軍する。そして中軍は五千人、世子を指揮官とし、嵯峨および嵐山下の数カ所に陣どる。下軍は千百人、猛将を選んで指揮官とし、五日遅れで山崎を退く。三條公以下は皆中軍にあり、東久世公は浪士や年少の者を率い、「勇□者」(※欠字)は下軍にある。陣を定め、関白鷹司公の手を借りて、乞罪(天子に自らの過ちを認めて謝罪する)し、(文久三年)八月十八日政変の前後の邪正の如何を訴える。「因以請糺會之却上以誣賢之罪」(※意味不明のため原文引用)。また、たびたび諸侯の陣に使いを送り、わが軍への助力を求める。そうすればわが軍の使いは一人で数陣を取り込む。「彼各發一使我陣垣数十、而道路相接會及覇吏」(※意味不明のため原文引用)、これにより長州藩と諸侯が合従する。會津は勇ましいが無謀なので、必ず怒って起つだろう。我は上軍をもってこれを「如不得已者」(※やむを得ざる者のごとくと読むと思うが、意味不明)討つ。さらに下軍を三隊に分けて、それらを皆大阪城に向かわせる。一隊は直接城を取り、一隊はその南に出て「蹂躙乎諸侯□兵」(※欠字のため意味不明)、一隊はその東北に出て村落の間を号令をかけて回る。皆火をもって助勢し、その迅速さはまるで天から落ちてくるような速さで、これに備えることを知らず。「備之後合為二隊」(※合わせて二隊となすと意味だと思うが詳細不明)、一隊は城を守り、もう一隊は河内・摂津間に出没する。大阪城の兵と示し合わせ、糧食の入京を断つ。また「守軍」(?)の二将を遣わし、それぞれが千余人の兵を率い、一将は三井寺に進軍し、賊の東帰する者を討ち、また東兵の入京を阻む。もう一将は丹波の諸城を攻略し、若狭に進んで占拠する。また兵を引き連れ、比叡山および愛宕山に登る。「□于卑使之不得動也、闕一方使之得生路而逃亦可也」(※欠字で意味不明)だが、包囲網の一方を開けて、逃げ道を得させ、逃がしてもいいだろう、というような意味のことか)、これを中策とする。

 部署は既に定まり、勤めて出でず。そこで支藩の某侯を入京させ、関白鷹司公に冤罪を訴え、かつ、八月十八日前後の邪正の所在を明らかにするよう求める。その言葉は真心を尽くして行き届いており、世間ではこれに涙しない者はないだろう。そして、諸侯の陣に使いを送り、我等への助力を要請する。その言葉は公平で飾り気がなく誠実で、これを聞いて義を感じない者はいないだろう。そのため関白はよく働いてくれるだろうし、諸侯は必ず周旋するにちがいない。たとえそうでなくとも、一二の侯の助力は今日でもある。いわんや我らが切に求めれば、そうすれば大勢が一団となってゆっくり形勝の数カ所に陣を進める。これは精勤な兵が敵を待つようなものだ。そこで、礼を備えて皇居に入り、會津侯の狂妄の罪を糺すことを求める。この日従う軽装の兵は少ないので我が陣に注意を払う者はなく、敵兵は皆待命のため退いている。そのときにわかに兵を率いて皇居に入り、占拠する。これは八月十八日の賊の行為と同じだ。賊を召し出して、来た者はこれを縛り、来なかった者はこれを討つ。前もって浪士の強く、知恵のある者を数人選び、それぞれが数十百人を率い、これに武器や金銭を貸与し、これが四散してにわかに敵の地を襲い、[拠之以劫奪沿□](※欠字のため意味不明)、また隠れて入京し、「火営焚糧蕩滌」(※炊事場や洗い場のことだと思われる)を踏みにじり、「又□反間射書」(※欠字のため意味不明)、手紙を賊に遣わし、「眩于所従、惑于所合」(?)。これまた同様に考える。これを下策とする。

 あるいは曰く。上策は奇である、まさしく奇なので世の評判では長州が謀叛を起こしたということになる。この上策を合わせて行うのはたやすいように見えるが、その実はどうなのか。それに対する答はこうである。果断にこの策を行えば万々我が事は成るだろう。成ってその後の不義が何を害うだろうか。「兵□道此其尚也、何□宗□攘天下之大事乎」(※欠字で意味不明)。あるいはまた曰く。すべてがうまくいかないことがありうるが、その場合はどうか。それに対する答えはこうだ。その場合は速やかに退いて守ることになる。今、我の振舞は世の測るべからざるところである。いわゆる九天(宮中のこと)の者を動かし、「既□其□焉」(※欠字のため意味不明)、兵をもって我に加勢する者があるだろう。このため攻めることにより守りをなす。そうしてその後の不義、我が心は光明正大である。天地鬼神はこれを知る。恥じることはない。

あるいは曰く。すでに皇居への参内を止められている。強いて参内すれば、必ず勅命をもって止められるにちがいない。それに対する答えはこうだ。今日の勅命というものは中川宮という賊が出している。偽りである。真にあらざるなり。もしこれを以て真とすれば我々に為すべきものはない。仮に我々の領地を奪いにくることがあったら、ただちにこれを納めるだろうか。納めなければ、それは違勅ということになるだろうか。特にこの時に至って(中川宮を)偽者とするのではない。あるいは曰く。八月十八日の賊軍の士卒は銃砲を発砲しようとしたが、なおいまだ発砲しなかった。そうして我が方は今、戦を以てこれに臨む。これは暴に似るのではないか。それに対する答えはこうだ。是非を誤っている。怯んでいる。「今日之事在乎戦之勝負、能了此意者得志耳」(※意味がよくわからないので原文引用)

あるいは曰く。軍が千里出動すれば、一日の出費は千金である。今千里の外で数万の兵を用いるとすれば、「顧因用不給如何」(※費用の不足を問題視していると思われるが、詳細不明)。答えはこうだ。糧食を敵から奪うというのは兵家の秘語である。大坂は天下の富の源泉である。これをとれば百年間、その費用を供することができる。これが大阪城を必ず取らなければならぬ所以である。

あるいは曰く。諸侯に我の冤を雪ぐのを恃むのは、それは憐れみを乞うようなことになりはしないかと。答えはこうだ。慶事があればそれを告げて祝う。災いがあればそれを告げて弔う。これは諸侯の常である。今、我の災いは一国一家のことではない。そうであれば之を告げて、之を請うのは礼である。「辞而請之義不屈」(※意味がよくわからないので原文引用)。どうしてこれが憐れみを乞うことになろうか。

あるいは曰く。今、我に災いがあってもこれを問う者はない。雪冤を頼んだとしても、誰がこれに応じるか。それに対する答えはこうだ。諸侯は恃むに足らず。我が方の要請に応じるか、応じないかはまだわからない。この策が下である所以である。相公はもともと一人で奮って防長二国を皇室に差し出した。偉いかな。「今求與國此自皆素志也、而求則彼為主我為客、客為主所使常也」(※意味不明のため原文引用)。醜いかな。これだと諸侯に助力を恃まないほうがいい。「然我如為彼所使而我反使彼、亦有術焉、今日之事術亦不可度也」(※意味がわからないので原文引用)。あるいは曰く。浪士が大勢来るのではないか。試みに彼等を形容すれば皆才能なし。また敵の刺客や悪賢い人間かもしれない。これは追い出すべきだ。それに対する答えはこうだ。その浪士たちの多くは京都を動き回っていて、八月十八日の政変に遭って逃げた者である。また「有國者」は正義の所在を慕って来た者のみである。他の才はなくとも、父母を離れ、妻子を捨てて、そして皇室に報いようとする思いはまさに切なるものではないか。これは取るべきである。いま防長を見ると、天下の十分の一にすぎない。彼等はその一に加担するのに正義か不正義かを基準として選んだのではないか。これは憐れむべきである。(中国の)周末の五公子はみな食客三千人を抱えていた。いわんや我は大国であり、義を選んだ者を追い出すべきか。彼等の志は評価すべきで、鶏鳴狗盗(つまらぬことしかできない下賤の人)の比ではない。そのため刺客奸人に対してはよく注意しなければならない。そうしてその人間を知って、刺客奸人が入り込むのを防ぐ手だては自ずからあるはずだ。あるいは曰く。いま我は大規模の軍需が甚だ多い。「貸客戎器金穀可謂遇也」(※意味がよくわからないので原文引用)。曰く。我は戦うべからずして客を使う戦術である。そうしてその客は自ら喜んで戦う者である。「貸戎器金穀雖而為多」(※同)、もしさらに人を雇ってこれを戦わせるなら、それは武器金銭のみにできることである。

 あるいは曰く。大勢が集まるのを待ってはいかがと。曰く、兵は神速な判断を尊しとする。あるいはまた曰く。機会を待ってはどうか。曰く、(八月)十八日以後はみな機会である。兵法曰く。隙をみせれば敵は必ずおびき寄せられる。餌を与えれば敵は必ず食らいついてくる。「則機會云者亦主将為之」(※意味がよくわからないので原文引用)。あるいは曰く。いま京都の兵はほとんど十万、我が方は数十をもってこれに臨むが、その勝敗は見えているのでは。曰く。敵は数が多いといっても烏合の衆だ。また戦う心のある者は万に一人である。わが軍は全員がヒグマである。「且孤軍無□死地者」(※欠字のため意味不明)、一騎当千の所以である。どうして数が少ないことを悩む必要があろうか。あるいは曰く。中川賊は憎むべし、これを斬ることができるのは一二の力士(並はずれて強い者という意味か)のみだが、いかがか。曰く。予は初めて足下の説を聞いてうれしく思い、そして熟思するに、「非癸亥十月十九日作乎計也、何賊雖去之覇則依然覇之不去憾、復不可今賊與覇合斃覇也、且彼因循優柔則我亦不可遽以果激如之」(※意味不明のため原文引用)。いま幸いにして賊の勢いは猛烈である。「用兵有名不如置之而為質也」(※同)。昔、東照宮(徳川家康)は三成の仮の数年の命を救った。ゆえに関東の事があって天下を取った。「今欲以善與自國而悪益顕」。

  元治二年中春の某日、これを写す

高行が言う。粟田宮(中川宮)付きの(土佐藩士)平瀬保之進は大の佐幕家で、右のような書き付けを蔵していたが、右は、後に至って、平瀬より借りて写したものである

【注⑤。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、元弘の乱(げんこうのらん)は「元弘1=元徳3 (1331) 年後醍醐天皇が計画した鎌倉幕府討滅クーデター。正中の変 (1324) に失敗した天皇は,再び討幕を企てた。この計画は事前に六波羅探題の察知するところとなり,参画者日野俊基,僧円観らは捕えられ,天皇は元弘1=元徳3年8月笠置山に逃れ籠城したが,翌年六波羅に遷され隠岐に流された。幕府はこの年の4月 27日,正慶と改元し,光厳天皇を擁立した。後醍醐天皇の挙兵に応じた楠木正成らは,赤坂城によって幕府軍と戦い,落城すると千早城に籠城して幕府の大軍を悩ました。元弘3=正慶2 (33) 年,後醍醐天皇が隠岐を脱出すると,足利尊氏,新田義貞らも挙兵して,鎌倉幕府は滅びるにいたった。」】

 【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中根市之丞(なかね いちのじょう。1836-1863)は「幕末の武士。天保(てんぽう)7年生まれ。幕臣。文久3年幕府の正使として,長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の外国船砲撃の責任をとうため,下関に派遣される。周防(すおう)(山口県)室津(むろつ)で萩藩兵に拘禁され,同年8月21日に殺された。28歳。」】

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、吉川経幹(きっかわ-つねまさ1829-1867)は「幕末の大名。文政12年9月3日生まれ。天保(てんぽう)15年(1844)周防(すおう)(山口県)岩国城主吉川家をつぐ。学校養老館を創設。第1次幕長戦争の際,宗家毛利家存続のため両者間を周旋。慶応2年の再戦のときは毛利家に協力して幕府軍を撃破。3年3月20日病死したが喪は秘され,4年岩国藩6万石初代藩主として大名に列した。享年39歳。初名は章貞。通称は監物。」】

【注⑧。改訂新版 世界大百科事典によると、益田右衛門介 (ますだうえもんのすけ。生没年:1833-64(天保4-元治1))は「幕末長州藩の重臣。永代家老の益田家に生まれ,名は兼施,のち親施。弾正,越中とも称した。1857年(安政4)家老に任じ,藩政改革・尊王攘夷運動の中心人物の一人であったが,64年(元治1)藩勢挽回を目指す禁門の変に兵を率いて参戦し,敗走した。領地の須佐に謹慎の後,征長軍を迎え,同年11月幕府への謝罪のため三家老の一人として切腹し,益田家も一時,御神本(みかもと)と改姓した。執筆者:井上 勝生」。

【注⑨。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、大和行幸(やまとぎょうこう)は「幕末期,尊攘派が政権奪取を企図した攘夷親征の行幸計画。具体的には天皇が大和の神武陵・春日社に行幸し,親征の軍議を行い,伊勢神宮に参宮するというもの。1863年(文久3)真木和泉(まきいずみ)らは萩藩を動かして天皇の攘夷親征・王政維新を企て,討幕の機運をつくろうとした。その結果,8月13日大和行幸の詔が出され,同時に萩藩主らに上京が命じられた。諸藩へも行幸供奉(ぐぶ),軍用金献納が命じられたが,8月18日の政変により中止。」】

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、朝彦親王(没年:明治24.10.29(1891)生年:文政7.1.28(1824.2.27))は「幕末維新期の宮廷政治家。伏見宮邦家親王の第4子に生まれる。天保7(1836)年仁孝天皇の養子となり奈良一条院門跡,同8年親王宣下,同9年得度を受け尊応入道親王と称す。嘉永5(1852)年京都粟田口の青蓮院門跡となり尊融と改称,同年12月より天台座主。広く英明をうたわれ,水戸藩士から今大塔宮(護良親王再来の意)と称された。安政5(1858)年2月条約調印の承認を求めて老中堀田正睦が上洛して以来,諸藩の京都手入れが活発化。水戸藩士,次いで越前藩士の働きかけを受け,条約調印反対の姿勢を示し,将軍継嗣を徳川慶喜に期待して活動。翌6年2月謹慎,12月には隠居・永蟄居に処せられた。文久2(1862)年4月処分を解除され,青蓮院門跡に復した。時に39歳。同年12月国事用掛。翌3年1月還俗の内勅を受け中川宮と称す。 公武合体論を唱えて尊王攘夷運動に対抗。孝明天皇の意を受け8月18日の政変を指導,長州藩・尊攘派勢力を京から追放。その直後に元服し,名を朝彦とした。尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ,皇位簒奪の異図を含み呪詛の密法を行っているとの讒誣を受け,以来この種の風評に悩まされる。当初は薩摩藩と協調していたが,元治1(1864)年より徳川慶喜と接近。以来関白二条斉敬と共に朝廷内から慶喜の政権を支持し続け,そのため慶喜に批判的な廷臣の反発を招く。慶応2(1866)年8月,大原重徳,中御門経之ら22廷臣の列参奏上で弾劾され辞意を表明したが却下された。翌3年12月9日の王政復古の政変に際して参朝停止の処分を受ける。翌明治1(1868)年8月徳川再興の陰謀を企てたとの嫌疑により親王の位を剥奪され,広島に幽閉された。同3年京都帰住を許される。同8年5月親王の位を回復し,一家を立てて久邇宮と称す。7月神宮祭主に任命される。神宮の旧典考証に没念,22年遷宮の儀式に従事した。著書に『朝彦親王日記』がある。(井上勲)」】

【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、鷹司輔煕(たかつかさ・すけひろ。没年:明治11.7.9(1878)生年:文化4.11.7(1807.12.5))は「幕末維新期の公家(摂家)。鷹司政通の子。安政4(1857)年右大臣となり,翌年の条約勅許問題では,幕府寄りの関白九条尚忠と対立。同年8月の「戊午の密勅」降下に関与したため,安政の大獄(1858~59)によって辞官・落飾・慎を余儀なくされた。文久2(1862)年赦免され,国事御用掛に就任。翌年には関白・内覧となるが,尊攘派に利用されることが多く,同年8月18日の政変で失脚,まもなく辞職に追い込まれた。その後も国事御用掛にとどまり,朝政に関与するが,父政通ほどの器量,知略もなく,暴なる性質であったという。(箱石大)」】

【注⑫。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、刀伊の入寇(といのにゅうこう)は「1019年(寛仁3)刀伊の賊が50隻余りの船団で,対馬・壱岐・北九州に襲来した事件。大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家の指揮のもと,地元の武士団の奮戦で撃退したが,死者365人,拉致された者1289人という被害がでた。拉致された者のうち300人余りは高麗(こうらい)で保護され,帰国を許されている。事件の顛末は藤原実資の日記「小右記」などにも詳しい。刀伊は朝鮮語の異民族を意味するDoeの音訳といわれるが,当時沿海州地方に住むツングース系民族の女真(じょしん)が朝鮮半島の東海岸を荒らし,南下して北九州地方にまで侵寇したものであろう。」】

(続。今回はいつもにもまして難航しました。高校・大学時代にもっとちゃんと勉強していれば、こんなに苦労することはなかっただろうにと後悔することしきりです。読者の方にはご迷惑をおかけしますが、いずれは専門家の力を借りて、もっとちゃんとした訳にするつもりですのでお許しください)