わき道をゆく第240回 現代語訳・保古飛呂比 その64

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  (慶応元年)三月

一 この月八日、左記の通り。

   佐々木三四郞

右の者、高岡郡奉行・外輪物頭格かつ附屬役場ともに職を解かれる。もちろん役領知(※役職手当てのことか)は今後支給されない。格式は御小姓組に差し戻される。

右の通り、命じられたので、その旨をお手前から(佐々木に)申し聞かせられたい。以上。

  三月八日 福岡宮内

          桐間将監

別紙の通り云々

   三月八日 森藤太夫

  佐々木三四郞殿

一 三月十日、左の通り。

  佐々木三四郞

右の者、「左御小姓組」のお手前の配下の、座列は東野楠猪の次に入れるので、その旨を承知し、三四郞へ申し聞かされたい。以上。

  三月十日  深尾丹波

        加用記内殿

 別紙云々

三月十日  加用記内

佐々木三四郞殿

一 同十二日、左の通り。

 佐々木三四郞

 山本立平

右の二人、御軍備につき、詮議の結果、当分馬廻組に差し入れられる。さまざまな勤事は御馬廻り同様に仰せ付けられる。

右の通り命じられたので、この旨を承知されたい。

三月十二日  加用記内

 佐々木三四郞殿

 山本立平殿

一 三月十六日、左の通り。

貴殿は當分深尾弘人殿の組に入り、組付きの御屋敷門番に組み入れられる。そのことは前後の組頭へもお達しがある。以上。

 三月十六日 大目付 眞邊栄三郎

                    野中太内(注①)

 佐々木三四郞殿

(以下は高行の所感)右の高岡郡奉行を御免になった後の後任は上野耕作である。同人は大身家で温厚実直の人物だから、まずもって安心した。もっともまだ若年で、同役の寺村勝之進が我意を振り回し、郡内の勤王家を忌み憎むので、人心が騒ぎ立ち、思わぬ罪人などが出はしないだろうかと、これだけは大いに気にかかる。

さてこのたび高岡郡奉行を御免になったのは、昨冬、野中太内が幡多郡奉行から(高知に)呼び返されたとき、須崎に一泊し、自分の同役の寺村勝之進と会った。そのとき(寺村は)自分(高行のこと)が郡内の勤王家と交際し、須崎の町医者・岡村斧吉らと懇意にしていて、また中島與一郎(注②)・中島作太郎(注③)の脱走の時も見込み違いをしたことなど、つまりは武市半平太との関係を云々し、(高行が)郡の主宰(郡奉行のこと)でいることは後の災いになるだろうなどと内輪話をした。野中は吉田派のなかで小身であるけれども有力者で、先年、大目付に抜擢され、まもなく吉田が倒れて(吉田派は)閑散となったが、その後、幡多郡奉行に任命された。最近、吉田派が追々要路を占めるようになり、このたび(野中は)大目付になったという。前述の寺村らの談話により、自分は御免になったと漏れ聞いた。果たしてそうなのかどうか、これまでの解任処分は何か失策かまたは議論の合わないことか、自分に覚えがあるけれども、今度はさらにその覚えがない。大いに疑いの気持ちを持った。ちょうどこのころの風聞に、揚屋(牢屋のこと)の建て増しがあって、佐々木らも武市に関係して大疑獄が起こるという話があった。このことは家人たちが聞き込み心配したことである。

右は、当時には何もわからなかったが、明治二十六年ごろに至り、佐幕家の若尾直馬[故人となる]の文箱の中より、探索書が出てきたといって、ある人から送ってきた。一見して、嫌疑があった痕跡が見えた。よって左に記して参考とする。

一 武市半平太の事跡書[西国修行のこと]

さる申年(※魚住注。申年は萬延元年だが、以下の出来事はその翌年の文久元年のこと。誤記と思われる)、武市半平太・河野益彌・島村恵吉(注④)・池内蔵太(注⑤)、深尾丹波殿の家来の柳井健次(注⑥)らは武芸と学文の修行のため江戸表に滞在していた。当今の天下の時勢を見ると、幕府のご処置は奸曲(心に悪巧みがあること)であると彼らは考えた。すでにそのころ安藤侯(老中の安藤信正のこと)の命令で内々に廃帝の旧例などの取り調べもあったように右の面々は承知していた。折から、去々酉年(文久元年)、半平太は「於他所」(※よそで、という意味。この場合、土佐藩屋敷でも長州藩屋敷でもない第三者的な場所でという意味かも知れないが、よくわからない)長州藩と付き合い、天下の形勢を議論に及んだところ、同志と見込まれたのか、その後、長州藩からの招きに応じ、半平太が行ったら、なおまた時勢論になって次第に親しくなった。そうして、彼の藩(長州藩)と薩摩藩で義兵を挙げようという企てがあるのを聞いた。半平太は、盟約を結んだ同志の名前をつぶさに承知したうえでその企てに同意し、その詳細を前述の益彌・恵吉・池内蔵太・健次らに報告して相談した。折から、大石彌太郎(注⑦)・門田為之助・間崎哲馬(注⑧)らも来ていたので相談したところ、各人が同意した。ちょうどそのとき、渡邊彌久馬(注⑨)が(土佐藩の)築地邸に詰めていたので、右の面々のうちから量ったところ、同人も同意したのか、「これは重大案件なので、国許でなくてはきちんと議論することができない」と言った。そこで、それぞれが帰国しようということになり、お暇の年限中(江戸に出る際に決められた出張期間という意味か)ではあったが、帰国することに決め、再び彌久馬のところに行き、帰国したら上士の誰に相談したらいいだろうかと尋ねた。すると、小南五郎右衛門(注⑩)・平井善之丞(注⑪)らに相談したらいいと彌久馬は答えた。一同はそうすることに決めた。ただし、仲間内で示し合わせて、為之助は学文の修行のため伏見へ行った。半平太・益彌・恵吉らはともに江戸を出発、同年十月上旬ごろ国許に帰着した。即日、半平太は平井善之丞方を訪ね、前述の次第を報告して相談し、意見を聞いた。すると、「重大な案件なので即答は難しい。なお小南五郎右衛門へも[このとき五郎右衛門は御赦免を受けて帰住を許されていた]相談した方がいい」と言われた。半平太は江戸表を発つ際、薩摩藩の樺山三円(注⑫)から五郎右衛門への書状を頼まれていたので、それを持参かたがた五郎右衛門方に行き、前述の次第を述べ、意見を聞いたところ、「近ごろ帰住を許された身分なので、周旋に乗り出すことは難しい。親類の本山只一郎(注⑬)は御側物頭を勤めているので、同人へ相談しておいたほうがいい」と言われた。(半平太の一党は)江戸から帰国早々、見込んだ輩を半平太の取り次ぎで仲間に引き入れ、すでに南邸の「御手抱」(?お抱えの意か)の岩崎馬之介(注⑭)にもはかった。山川左一右衛門らのところへも行いいた。本山只一郎・佐々木三四郞らにも対面し、議論のうえ、事情を詳しく述べ、谷守部(谷干城のこと)にも会ったという。その後ますます関東(幕府)の奸曲がひどくなったと言って、諸国の人心が沸騰し、時勢が日々差し迫ってきているように半平太の一党は思い込み、藩庁に対してしばしば意見を申し出たが、そのころ吉田元吉(参政の吉田東洋)が権威を笠に着て、下情外説(庶民の実情や外部の者の説)を無視し、ほしいままにしているほか、御役人はあってもなきがごときの御時節で、一つとして自分たちの意見を用いようとしないので、彼等は憤怒し、興奮の極に達した。。右の元吉を初め奸曲の重役を除かずしては、国内が奮い立つことはないと衆論(多くの者の意見)が決した。[盟約連印]折から、吉村虎太郎が西国より帰って来た。寅太郎は以下のような久坂玄瑞の話を伝えた。「いよいよ時勢が切迫し、すでに諸国の有志の輩が下関で会った。談判の上、上京して所司代を踏み潰し、天朝を擁し奉り、因循違勅の関東を押しつぶす」と。そのため、ますます過激の徒は元吉を憎み、このままにしておいては、国体を穢し、その上、言語を塞ぎ、意見の妨げになるので、殺害することに決まった。そのことを半平太より平井善之丞に伝えたところ、「そのような考えは忠義でないともいわれまいか」と答えた様子を見て、なおさら気持ちが募り、(※ここでいったん文章が途切れて、次の[]内の注記が入っている)

[このあたりのことについて以下のように記した文書がある。同人(半平太)は小南五郎右衛門方ヘ行き、私は命を惜しみません、今、二、三人も同志が私へ命をくれる者があれば、志を遂げることができるのにと歎息した。そのため五郎右衛門は「その言葉を聞くと、桜田門外の変と同じことをやろうとしているのであろう。たとえ巨魁を倒しても、早速正義を実現できる見込みはない、桜田門外の一挙以来、天下は正義に帰したであろうか。これをもって悟るべきだ。必ず短慮を慎み、時節を待つべきだ」と申し聞かせたとのこと]。

(再び本文に戻る)御家老衆・御侍(上士)衆・軽格(下士)衆に至るまで、同意して盟約を結んだ面々がようやく数人に至り、[このころ上々様(※誰を指すか不明)の御内命で、村田馬太郎が京都ヘ行き、伏見で野本平吉に対面、釈迦日(四月八日の釈迦誕生日)の変事(吉田東洋暗殺)を告げた]、御連枝さま(藩主などの兄弟のこと)方も内々で同意されたか、御下知(命令)を伝える文書をお渡しになられたという風説もある。四月八日の夜、[同夜、同人(半平太のことか)方に客が来て、翌早朝、桜馬場を往来したとの風聞あり]、吉田元吉が御會(藩主・山内豊範への講義)のため登城することを、上士衆などの同志の面々から知らせたとのこと。大石團蔵(注⑮)・那須眞吾(注⑯)・安岡嘉助(注⑰)らは、吉田元吉がその夜、下城する途中を殺害に及び、その場から直ちに脱走。思案橋辺りで元吉の首級を河野益彌・川原塚茂太郎・柳井健次が受け取り、雁切(吉田東洋の首がさらされた現場)へ行ったとのこと。[路用のため、半平太らより金子を渡されたという]。右の一件は、前もって半平太より久坂玄瑞に知らせてあったとか。京都に行った同志のうち、重松圓太郎が召し捕られて(元吉暗殺の)下手人を白状に及んだ。また、圓太郎は玄瑞より半平太の変名あての書状を頼まれて持参しており、その文中に、京都に来た下手人を匿っているので安心してほしいと書かれていた。この圓太郎が「解死人(下手人の誤り)」を白状に及んだため、国許で、半平太以下の盟約の輩が六月十五日ごろ、比島山に集まり、圓太郎の供述が手がかりになるのを恐れて、一同亡命することに衆議が決した。そうしたところ、藤本駿馬・高瀬要次郎らから、亡命は誠忠ではない、たとえ露見のうえ死罪に処せられても、不義の名をこうむるのはよろしくないと声があがった。それをきっかけにさまざまな異論が出たため、ひとまずその場を引き取り、駿馬がこの件を半平太に相談しようと(半平太の家を)訪ねたところ、数人が来客中で、島村恵吉方ヘ行ってくれるようにと言われ、半平太に面会を断られたとのこと。その後、(元吉暗殺の)下手人は強いて詮索しない旨を小南五郎右衛門辺りが言ったという風聞を半平太以下が伝え聞いて安心したとのこと。六月二十八日に(藩主・豊範が国許を)発ったとき、半平太も御供を仰せ付けられたが、下津井(現在の岡山県倉敷市)に渡海したとき、半平太は樋口眞吉(注⑱)とともにどこかにいったのか、行方が知れなくなり、姫路駅より再び御供に加わったとのこと。(太守さまは)やがて麻疹を発症され、大坂表に長々と滞在されておられる間、次第に全快されたが、わざと病気と称して滞在されているのではないかと軽格の者どもは疑念を持った。そこで稲荷宮に集まって評議の上、医師ならびに重役の面々に真相を糺そうと企てたところ、半平太はこの動きの沈静に廻ったようだったが、(半平太はふだんは)過激第一の人であるのにと皆が不審に思ったということだ。やがて(太守さまが)上京され、半平太はそのお供として京都へ行き、探索御用を仰せ付けられた。すると、半平太は「彼徒」(ここでは勤王派を意味する)の巨魁であるためか、(土佐藩の)他藩応接係の面々に、上士から軽格に至るまで、半平太の変名である墨龍の割り符を渡し、この割り符を持参しない者には他藩から機密を明かさぬよう取り計らった。半平太はこのことで他藩からは深く人望を得た。一方で内外の同志の者たちと密事を企て、公家衆に迫って、(※ここで文章は一端と切れている。)

[以下、朱筆で以下のように記してある。板坂三右衛門が御近習目付に勤役中、半平太が来て、「元吉が殺害されたが、下手人が切腹するはずのところ、小南五郎右衛門がそれには及ばぬという趣旨のことを言ったので亡命した」とのことを直に申し述べた模様]

種々の事をはかったとのこと。半平太はその際、「外輪」(本陣の外側という意味かも知れないが、詳細不明)へ旅宿を構え、同志の者が合宿していたが、やがてどういう詮議があったのか、専ら五郎右衛門らの推挙により、「御組入」を仰せ付けられた上、勅使として姉小路さまが江戸に下る際、御付人に選ばれ、お供した。このため、右の旅宿に平井収次郎(注⑲)が引き移った際、掃除をさせたら、肴台(料理を乗せる台)の縁や足などの数々が(※ここで文章はいったん途切れている。)

[この下に付け紙があって、以下のように書いてある。四月八日の(吉田東洋暗殺の)下手人は京都にいて、五郎右衛門とともに薩摩藩のお留守役と示し合わせ、逃げたとのこと。これまで平井収次郎の旅宿にひそかに匿われていたとの風聞があった]

あったとのこと。肴台は梟首(さらし首)の立て札にし、縁や足を取り除き、罪状を記したとのこと。やがて同人(半平太)は(江戸から)帰京し、□(欠字が数字分ある。藩主・豊範のことか、もしくは容堂のことか)へたびたびお目通りを願い、意見を申し上げ、さる五月、またお目通りを願い奉り、五郎右衛門らの人選等について意見を申し上げた。この際、半平太は先日、横山覚馬ら「両役場」の全員に退役を仰せつけられ、「甚宜敷御場合ニテ」(※意味がよくわからないので原文引用)、いましばらくそのままならば、覚馬らに対し、天誅に替わって誅戮を加える者があるなどと言上したとのこと。その際、仕置き役の柏原内蔵馬・寺田左右馬(注⑳)・金子平十郎、大目付の横山覚馬・中島小膳・平井善之丞が御免を仰せ付けられた模様だ。[渡邊彌久馬が免ぜられ、山川左一右衛門が致道館専任を免ぜられた。このことはこの文書にない。「按スルニ以上始末ノ案ナラン」(※意味がよくわからないので、原文引用)。年月なし]

【注①。朝日日本歴史人物事典によると、野中助継(のなか・すけつぐ:明治1.5.28(1868.7.17)生年:文政11(1828))は「幕末の土佐(高知)藩士。永井新平の次男。野中兼山の支流の裔野中持継の養子。通称太内。野中家は数次不幸が続き,養子に入ったときは5人扶持切米12石の微禄だった。しかし,気性激しく節を貫く気骨があり,吉田東洋に訓育されて,吉田派幹部となり幡多郡奉行,高岡郡奉行を経て小目付,大目付に累進し,馬廻200石となった。勤王党の断獄には峻厳をもって臨み,また徳川将軍家擁護の政治姿勢を貫き,挙兵討幕論の乾(板垣)退助らと衝突,戊辰戦争では,前衛隊司令に任命されたが出兵不可を強硬に唱え就任拒否,5月南会所にて切腹して果てた。(福地惇)】

 【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中島与一郎(なかじま-よいちろう1842-1864)は「幕末の武士。天保(てんぽう)13年10月生まれ。土佐高知藩士。勤王の志をいだき,元治(げんじ)元年中島信行らと脱藩,長門(ながと)(山口県)にいく途中,伊予(いよ)(愛媛県)との国境で歩行困難となり,番所に自首。問答中に番卒をきり,同年11月24日自刃(じじん)。23歳。名は清渺。」】

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中島信行(なかじま-のぶゆき1846-1899)は「幕末-明治時代の武士,政治家。弘化(こうか)3年8月15日生まれ。中島久万吉(くまきち)の父。土佐高知藩を脱藩して,坂本竜馬(りょうま)の海援隊にはいる。維新後,神奈川県令,元老院議官を歴任。のち自由民権運動に参加し,自由党副総理。明治23年衆議院議員となり,初代議長。貴族院議員。明治32年3月26日死去。54歳。通称は作太郎。」】

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、島村衛吉(しまむら-えきち1834-1865)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。天保(てんぽう)5年10月生まれ。島村真潮(ましお)の弟。土佐高知藩の郷士。千葉一胤(かずたね),桃井春蔵(しゅんぞう)のもとで剣術を修業。武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわり,吉田東洋暗殺にかかわる。文久3年の八月十八日の政変後,高知藩における勤王党弾圧で下獄し,元治(げんじ)2年3月23日拷問(ごうもん)死。32歳。名は重険(しげのり)。」】

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、池内蔵太(いけ・くらた。没年:慶応2.5.2(1866.6.14)生年:天保12(1841))は「幕末の土佐(高知)藩士,尊攘活動家。名は定勝,通称内蔵太,変名は細川左馬之助,細江徳太郎。高知城下に生まれる。文久1(1861)年江戸に出て安井息軒に入門,同郷の武市瑞山らと親交し,土佐勤王党結成に参画。3年,因循な藩政に憤慨し脱藩,長州に走り下関外国船砲撃,大和天誅組の挙兵に参加,元治1(1864)年の長州藩の京都進軍に従軍奮闘,その後は坂本竜馬の海援隊に加わり薩長提携の周旋に関与,慶応2(1866)年5月,長崎から鹿児島へ航海中暴風雨で遭難死した。同輩中島信行は,坂本遭難ののちまで存命したならば人望は彼に集まり海援隊の首領になる可能性は高かった,と語った。(福地惇)」】

【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、柳井健次(やない-けんじ1842-1864)は「幕末の武士。天保(てんぽう)13年生まれ。土佐高知藩士。土佐勤王党にはいる。文久3年脱藩し,長州におもむく。元治(げんじ)元年7月19日の禁門の変で忠勇隊に属してたたかい,重傷を負って自刃(じじん)した。23歳。名は友政。」】

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大石円(おおいし-まどか1830*-1916)は「幕末の武士。文政12年12月17日生まれ。土佐高知藩の郷士。文久元年洋学研究のため江戸で勝海舟の門にはいる。同年武市瑞山(たけち-ずいざん)らと土佐勤王党を結成し,盟文を起草。戊辰(ぼしん)戦争では参謀,小目付として従軍した。大正5年10月30日死去。88歳。名ははじめ元敬。通称は弥太郎。」】

【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると、間崎滄浪(まざき・そうろう。没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保5(1834))は「幕末の土佐(高知)藩郷士。本名則弘,通称哲馬。滄浪は号。早くより才覚を表し土佐の三奇童のひとりと称された。嘉永2(1849)年16歳にして江戸に遊学,安積艮斎に入門,塾頭に抜擢された。遊学3年にして帰郷,城下に学塾を営み子弟を訓育し評判が高かった。また吉田東洋の少林塾にも学んだ。徒士になり浦役人や文武下役に任じたが上役と衝突して罷免された。文久1(1861)年再び江戸に上り安積の塾に投じ同門の幕臣山岡鉄太郎と親交,また武市瑞山と意気投合し,土佐勤王党に加盟。2年に上洛,在京の勤王党幹部平井収二郎らと勤王運動に適合する藩政改革を計画,中川宮朝彦親王の令旨を得たが,隠居山内容堂(豊信)の激怒を招き,平井,弘瀬健太らと切腹の刑に処せられた。<著作>詩集『滄浪亭存稿』<参考文献>平尾道雄『間崎滄浪』(福地惇)」】

【注⑨。朝日日本歴史人物事典によると、斎藤利行(さいとう・としゆき。没年:明治14.5.26(1881)生年:文政5.1.11(1822.2.2))は「幕末の土佐(高知)藩士,明治期の官僚。高知城下の渡辺利成の子。初め渡辺弥久馬。少壮より文武に優れ,土佐藩主山内豊煕の御側物頭のときおこぜ組に属し藩内抗争で失脚。嘉永年中(1848~58),参政吉田東洋のもとで復権し新おこぜ組の有力者として活躍。安政初年近習目付,安政3(1856)年土佐藩で最初の銃隊編成に際して軍備用兼任として銃隊の操練・教授を勤めた。慶応初年仕置役に昇任,この時期の複雑な藩務に尽力した。維新に際して名を斎藤利行と改め,土佐藩の代表格で維新政府の参与に挙げられ,明治3(1870)年,刑部大輔,同5月参議に昇任して4年6月まで在任。8年7月から没年まで元老院議官。明治前期の政府部内で薩長土勢力の均衡に果たした役割は大きい。(福地惇)」】

【注⑩。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、小南五郎(こみなみ-ごろう1812-1882)は「江戸後期-明治時代の武士,官僚。文化9年10月生まれ。土佐高知藩士。大目付をつとめ,藩主山内豊信(とよしげ)の側用役となる。文久3年藩論が公武合体に一変し,土佐勤王党が弾圧されるとともに謹慎を命じられる。慶応3年(1867)大目付に復職,維新後は高知藩権(ごんの)大参事などを歴任した。明治15年2月22日死去。71歳。名は良和。通称ははじめ五郎右衛門。」】

【注⑪。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、平井善之丞(ひらい-ぜんのじょう1803-1865)は「江戸時代後期の武士。享和3年生まれ。土佐高知藩士。13代藩主山内豊煕(とよてる)のもとで大目付となり藩政刷新にのりだしたが,保守派の反対で失脚した。尊王をとなえ,15代藩主山内豊信(とよしげ)の参政吉田東洋と対立。文久2年(1862)東洋の暗殺後,大監察となったが,豊信の勤王党弾圧により免職。慶応元年5月11日死去。63歳。名は政実。」】

【注⑫。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、樺山資之(かばやま-すけゆき)は「幕末の武士。薩摩(さつま)鹿児島藩士。嘉永(かえい)5年(1852)江戸詰となり,水戸藩の藤田東湖らとまじわる。井伊直弼(なおすけ)襲撃の計画にくわわったが,決行前に帰藩。長州の桂小五郎(木戸孝允(たかよし))らと連絡をとり,薩・長の尊攘派(そんじょうは)連合への気運をつくった。通称は三円(さんえん),瀬吉郎。」】

【注⑬。朝日日本歴史人物事典によると、本山只一郎(もとやま・ただいちろう。没年:明治20.8.28(1887)生年:文政9(1826))は「土佐藩(高知県)藩士,地方官,宮司。諱は茂任。文武に優れ,嘉永6(1853)年,藩主山内豊信の側小姓,安政年間,郡奉行に任じ,外圧高揚の折から,海防のための練兵や砲台構築に尽力。文久1(1861)年,藩主豊範の御側物頭役。同2年,参政吉田東洋暗殺事件を契機に藩情は一変。藩主豊範を擁して上京し,天皇から土佐藩主に国事周旋の勅諚あり,御側物頭の役職柄,別勅使三条実美らの江戸下向に斡旋尽力して功績があった。慶応2(1866)年大目付,同4年1月鳥羽・伏見の戦を機に土佐藩軍への錦旗伝達者となった。新政府に仕えたが明治8(1875)年退官,以後春日社,賀茂社などの宮司を勤めた。(福地惇)」】

【注⑭。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岩崎秋溟(いわさき-しゅうめい1834-1887)は「幕末-明治時代の儒者,官吏。天保(てんぽう)5年11月29日生まれ。郷里土佐(高知県)で岡本寧浦(ねいほ),江戸で安積艮斎(あさか-ごんさい)にまなび,土佐勤王党にくわわる。戊辰(ぼしん)戦争に書記役で従軍し,「東征記」としてまとめる。維新後は新政府につとめた。明治20年12月22日死去。54歳。名は維慊。字(あざな)は君義。通称は馬之助。別号に克堂。」】

【注⑮。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大石団蔵(おおいし-だんぞう1833-1896)は「幕末-明治時代の武士。天保(てんぽう)4年生まれ。土佐高知藩の郷士。京都で春日潜庵(せんあん)にまなぶ。土佐勤王党にくわわり,文久2年那須信吾らとともに藩参政の吉田東洋を殺害。のち鹿児島藩士奈良原繁の養子となり,高見弥一郎と改名。イギリス留学後,鹿児島の造士館などでおしえた。明治29年2月28日死去。64歳。名は祐之。変名は安藤勇之助。」】

【注⑯。朝日日本歴史人物事典によると、那須信吾(なす・しんご 没年:文久3.9.24(1863.11.5)生年:文政12(1829))は「幕末の土佐(高知)藩の郷士,勤王運動家。土佐藩家老深尾氏家臣浜田光章の次男,高岡郡檮原村の郷士那須俊平の養子。本名重民,通称信吾。体格雄偉,体力衆に抜きん出て武芸に秀でた。土佐勤王党に参画。文久2(1862)年,武市瑞山ら勤王党は一藩勤王論を主張して京都に押し出そうと参政吉田東洋に盛んに進言したが遮られ,その抹殺を謀った。信吾は,安岡嘉助,大石団蔵と4月8日に吉田を暗殺し,長州に脱出,京坂の間に転じ,国事に奔走,3年8月,大和五条代官所襲撃に始まる天誅組の乱に幹部となり奮戦,9月24日吉野の鷲家口で戦死した。宮内大臣を勤めた田中光顕は甥。<参考文献>田中光顕『維新風雲回顧録』(福地惇)」】

【注⑰。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、安岡嘉助(やすおか-かすけ1836-1864)は「幕末の武士。天保(てんぽう)7年生まれ。安岡覚之助の弟。土佐高知藩郷士。武市瑞山(たけち-ずいざん)らの土佐勤王党に属し,那須信吾らと藩の参政吉田東洋をきって長州に脱走した。文久3年天誅(てんちゅう)組の挙兵にくわわって捕らえられ,4年2月16日処刑された。29歳。名は正定。」】

【注⑱。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、樋口真吉(ひぐち-しんきち1815-1870)は「幕末の武士。文化12年11月8日生まれ。土佐高知藩士。郷士の子。遠近鶴鳴にまなび,諸国を遊歴して剣術や砲術をおさめる。帰郷して中村に家塾をひらき,土佐西部勤王党の首領格となる。戊辰(ぼしん)戦争に従軍,その功で留守居組にすすんだ。明治3年6月14日死去。56歳。名は武。字(あざな)は士文,子文。号は彬斎(ひんさい),南溟(なんめい)。」】

【注⑲。朝日日本歴史人物事典によると、平井収二郎(ひらい・しゅうじろ。没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保7(1836))は「幕末の土佐(高知)藩士,勤王運動家。幼名幾馬,通称収二郎,本名義比。文武を修め,特に史書に通じた。文久1(1861)年,土佐勤王党結成に参画し幹部となる。2年,藩論は尊王攘夷に傾き,藩主山内豊範を擁して京都に押し出した。時に諸藩の勤王運動家が続々上洛,薩長土3藩の運動が群を抜いた。収二郎は,小南五郎衛門,武市瑞山らと他藩応接役を勤め,別勅使三条実美東下の際は京都にとどまり,薩長両藩の軋轢緩和などに奔走。しかし,勤王党が構想する藩政運営方針を藩庁が容れないのを憂慮,間崎滄浪,弘瀬健太らと中川宮朝彦親王の令旨を獲得,大隠居豊資を擁立する改革推進を工作した。これが隠居山内容堂(豊信)の逆鱗に触れ,3年6月,切腹の刑に処せられた。(福地惇)」】

【注⑳。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、寺田剛正(てらだ-たけまさ1808-1877)は「江戸時代後期の武士。文化5年9月6日生まれ。土佐高知藩士。仕置役,側用人として藩政にかかわる。安政の大獄後,一時免職となるが,文久2年以後は小八木五兵衛(こやぎ-ごへえ)とともに佐幕派の中心として活動。慶応3年同志38名と連署して討幕論に反対した。明治10年4月6日死去。70歳。字(あざな)は子兼。通称は左右馬(そうま)。号は志斎。」】

一 左市郎(注㉑)のこと

  章次(文久二年十一月、伏見で暗殺された土佐藩下横目・広田章次)のこと

[高行が言う。なおこの両人は、吉田の下手人探索のために大いに尽力したことにより、ついに勤王過激の徒に暗殺された。よってその(両人を殺した)暗殺人を探索するという意味であろう。]

  八月十七日午後四時ごろ、和歌山の五條表見附の代官所に討ち入り(注㉒)、賊主(賊のかしら)鈴木源内はじめ六人の賊主を討ち取り、そのほか八人を捕縛し、その夜官舎を焼き捨てた。翌十八日、右の代官の支配下にあった七万石の村民が降伏してきた。昨日の十九日、僕らは旗本の領地の村に行った。十三カ村が降服し、勢いは日々盛んになっている。今日、前侍従御隠居さま[容堂公]も上京され、彼の徒(半平太の一党を指すと思われる)の挙動が思し召しにかなわなかったので、「御手許御臨時御用」の面々、あるいは「御側手」の輩(容堂の側近を指すか?)より「御目差之様」(よくわからないのだが、もしかしたら目を付けられたようにという意味か)になり、もしや

  [なお、この下に付け紙があって、以下のように記されている。本間精一郎(注㉓)を殺害することを相談して決めた。一夜、決行の期限に至り、佐井寅次郎が手を下すことをしきりに望み出たため、時間が過ぎ、その夜は空しく打ち過ぎた。翌晩、岡田以蔵(注㉔)・島村恵吉そのほか五、六人が本間を祇園町に誘い、途中で殺害した。「御近習手」の調べでは半平太・恵吉らの仕業の模様。川田乙四郎より藤本駿馬が聞いたとあるが、詳らかではない]

御役人らへ不届きを働けば、当人はもちろ、彼の徒を踏み潰し、なで切りにするなどと、若輩の面々がすでに口外しているようで、自ずから上下隔絶の形になっているので、かれこれ疑念もあるのではないかと恐察します。どういう料簡なのでしょうか。(半平太が)お目通りを願い、その際、盟約連判帳を直に差し上げたところ、お取り上げにならなかったとのこと。「其後去戌年御帰国被遊候上ニモ、御隠居様十津川[此所不審]エ御引移リ」(※意味がよく分からないので原文引用)、やがて大軍を率いて上京されることになるので、早く朝敵の相模守(池田慶徳のことか。注㉕)を討ち取りになり、片時も早く(天子の)御親征が実現するよう周旋されるのが肝要のことであります。

  八月十日 吉村寅太郎

  島村壽之介(注㉖)さま

  土方楠左衛門(注㉗)さま

  安岡覚之介(注㉘)さま

【注㉑。朝日日本歴史人物事典によると、井上佐一郎(いのうえ・さいちろう没年:文久2.8.2(1862.8.26)生年:生年不詳幕末の土佐(高知)藩士。吉田東洋の庇護を受ける。下横目の職務からも東洋を殺害した尊攘派の犯人の探索を続けた。藩主山内豊範に従って大坂に滞在中,岡田以蔵ら土佐藩尊攘派の手にかかって殺害された。(井上勲)」】

【注㉒。改訂新版 世界大百科事典によると、天誅組 (てんちゅうぐみ)は「1863年(文久3)8月に大和で挙兵した尊攘激派グループ。この年中央政局を動かした尊攘派のうち,真木和泉らのたてた攘夷親征計画により,8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔が出された。

これを機に大和の天領占拠をめざして,土佐の吉村寅太郎,備前の藤本鉄石,三河の松本奎堂(けいどう)らを中心とし,公卿中山忠光を擁して結成されたのが天誅組である。8月14日に京都を出て,大坂と河内を経て大和に入り,17日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害し,代官所支配地の朝廷直領化,本年の年貢半減などを布告した。はじめ土佐,筑後久留米,鳥取などの脱藩士が多かったが,河内の庄屋層が加わり,京都政変(8月18日)が伝えられると,十津川郷士の大量動員をはかった。26日めざす高取城攻撃に失敗すると十津川郷士の離反が相つぎ,さらに諸藩兵の追討を受けて敗走をつづけ,9月24日大和吉野郡鷲家口の激戦で多数の犠牲者を出して壊滅した。執筆者:高木 俊輔」】

【注㉓。朝日日本歴史人物事典によると、本間精一郎(ほんま・せいいちろう。没年:文久2.閏8.20(1862.10.13)生年:天保5(1834))は「幕末の尊攘派志士。越後国(新潟県)三島郡寺泊町の商人本間辻右衛門の長子。名は正高,字は至誠,号は不自欺斎を称した。安政初年には幕臣川路聖謨 に仕えていたが,安政5(1858)年の安政の大獄を契機に志士となって活動を開始した。京坂で志士と交わり,また青蓮院宮など公家の間にも出入りし,急進的な活動を展開した。しかし藩に属さない活動は薩摩や土佐の志士から反感を買い,さらにその酒色に溺れた生活に悪評が立ったのち,文久2(1862)年閏8月20日島原遊廓からの帰途を薩摩の田中新兵衛,土佐の岡田以蔵らに斬られ,梟首された。<参考文献>太田仁一郎編『贈従五位本間精一郎君事蹟』(高木俊輔)」】

 【注㉔。朝日日本歴史人物事典によると、岡田以蔵(おかだ・いぞう。没年:慶応1.5.11(1865.6.4)生年:天保9(1838))は「幕末の土佐(高知)藩郷士,尊攘の志士。土佐郡江ノ口村(高知市)生まれ。資性強豪,安政3(1856)年江戸の桃井春蔵道場で剣術修行。万延1(1860)年,武市瑞山に従って四国,中国,九州諸藩を剣術修行に回遊。文久1(1861)年,土佐勤王党に参加,翌年同志らと入京,薩藩の田中新兵衛らと天誅行動の急先鋒となり,多くの佐幕派に危害を加えたが,なかには吉田東洋暗殺犯人探索で上京した藩監察の井上佐一郎惨殺もあり,人斬り以蔵の異名を得た。3年5月,姉小路公知暗殺事件で嫌疑を受け,京摂の間に潜伏,同年秋,土佐勤王党の獄が起こるや捕縛され,井上殺害を自白して斬刑に処せられた。(福地惇)」】

【注㉕。朝日日本歴史人物事典によると、池田慶徳(いけだ・よしのり。没年:明治10.8.2(1877)生年:天保8.7.13(1837.8.13))は「幕末の鳥取藩主。父は水戸藩主徳川斉昭,母は松波春子。江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は弟。幼名は五郎麿,雅号は竹の舎,省山。嘉永3(1850)年池田慶栄の死後,幕命によりあとを嗣ぐ。安政年間(1854~60),側用人田村貞彦らを中心に人材を登用し,藩校尚徳館の拡張,農政,軍制など多方面にわたる藩政改革を推進した。しかし,藩内の尊攘派と保守派の軋轢に苦心した。攘夷論に賛成はしたが,攘夷親征には猶予を奏請している。第1次長州征討には出兵したものの,それ以後長州を弁護しつつ,幕府に恭順の態度を示し大政奉還論を唱えた。朝幕間の板挟みとなったが,戊辰戦争では朝廷側に立つ。明治5(1872)年隠居した。<参考文献>『鳥取県史3 近世政治』(長井純市)」】

【注㉖。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、島村雅事(しまむら-まさこと1821-1885)は「幕末-明治時代の武士,官吏。文政4年1月29日生まれ。武市富子,島村洲平(すへい)の叔父。土佐高知藩の郷士。慶応元年(1865)土佐勤王党弾圧で永牢(えいろう)となる。維新後,自由の身となり,陸軍,司法両省につとめた。明治18年8月30日死去。65歳。通称は寿之助。」】

【注㉗。新訂 政治家人名事典によると、土方久元(ヒジカタ ヒサモト。肩書宮内相,農商務相,国学院大学学長。別名通称=楠左衛門 大一郎 変名=南 大一郎 号=秦山 生年月日天保4年10月16日(1833年)出生地土佐国土佐郡秦泉寺村(高知県)。「文久元年武市半平太の土佐勤王党に参加、尊攘運動に投じた。3年8.18の政変で三条実美ら七卿落ちに従い西下。のち倒幕運動に走り中岡慎太郎らと藩長連合実現に尽力。維新後徴士、江戸府判事、鎮将府弁事を経て、明治4年太政官出任。のち内務大輔、内閣書記官長、元老院議官、宮中顧問官を経て、20年農商務大臣、次いで宮内大臣、枢密顧問官兼任となった。31年辞任し、のち帝室制度取調局総裁、国学院大学長、東京女学館長などを務めた。明治28年伯爵。著書に「回天実記」(全2巻)がある。没年月日大正7年11月4日」】

【注㉘。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、安岡覚之助(やすおか-かくのすけ1835-1868)は「幕末の武士。天保(てんぽう)6年生まれ。土佐高知藩の郷士。砲術をよくした。長崎遊学後,武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党に加盟し,勤王党弾圧で投獄された。維新の大赦でゆるされ,戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍にくわわる。慶応4年8月25日会津(あいづ)若松攻撃の際に戦死。34歳。名は正義。号は皆山堂。」】

[参考]

一 中島作次(脱藩した中島信行のこと)の長州よりの返書(返事の手紙)、左記の通り。

[上略]小生は去年十一月二十日に(土佐を)出発云々。十二月一日、初めて国許の者に会い、長州の様子を聞いて驚き入りました。それより三條(実美)さまに拝謁、まず長府の功山寺という寺で、公卿さまの守衛となりました。同十五日、遊軍八十余人で馬関に出動して義兵を挙げるので三條さまへ暫くお暇を願い、遊撃軍の加勢に行きました。十九日、馬関より三田尻に軍艦を取りに行ったところ、難儀は筆舌に尽くしがたく、「其跡ハ風マン[ママ]悪シク」(?)、そのうえ船長・水夫が次々と逃げ出して、人数がわずかになり、味噌も醤油も漬物も少しもなく、もとより肴のあるはずなく、飯米も同様で、そのうえ「汐ハユク食兼申候」(※潮が速くて食べることができないという意味か)。薩摩藩の船、備前藩の船および諸藩の討ち手の軍艦が壇ノ浦に停泊し、その間をただ一艘ですり抜け、軍人数はようやく二十人ばかり、危うきこと、まことに言いようがありません。今日は戦死、明日は戦死と、心に隙がありませんでした。二十七日、ようやく馬関に帰帆し、船中で二泊し、二十九日、初めて上陸し、東光寺というのを陣所と定め、厳重に守りました。元治二年春朔日(元日)、天気は晴れ、寺僧が雑煮を出したので、小生は元旦を祝して、

降り積る四方の高根の

          ゆきとけて

   花咲く春と

      なるそうれしき

この夜、奸吏・松原八郎という者を切りました。二日、晴れ、藤田豊後之助という者が軍勢を引き連れ、馬関新地というところへ出動するというので、小生ら十人ばかりが斬り殺しに行きましたが、不運にもついに打ち逃しました。つづいて総員を繰り出し、新地へ攻め込み、賊兵を追い散らし、器械・兵糧・金子などを残らず取りました。四月五日、奇兵隊(注㉙)が俗論家と戦争になり、そのほか戦いがたびたびに及んだので、十一日、遊撃軍の馬関出動の軍勢が萩の近くに出動しました。この日、吉田というところで一泊。十二日は雨天、四郎ケ原で一泊、十三日[雨天]より砲声が聞こえ、次第に激しくなり、早速軍艦を斥けたのかと様子を見にいったところ、大田口で諸隊(注㉚)が合戦の最中の「様ハツ[ママ]」(※誤記があるため意味不明)、四ツ時ごろより砲声が少し弛みました。軍はすぐさま大田口まで出動しました。そのころ日暮れになり、諸隊が帰陣の時です。その夜は諸隊が疲れていたので、遊撃軍が替わって大田口を守りました。死体の首などが切られ、踏み割かれ、土にまみれて、まことに目も当てられぬ有様でした。十五日は雨天、野営で昼夜防禦を固めました。十六日は雨天、赤というところに敵が集まっていたので、遊撃軍が先陣を切って攻め寄り、その際、小生も先陣に進んで働きました。敵の砲丸がビューッと言っては「後ノ峯ニヅザ」(※意味不明のため原文引用)、このようなことは幾度となくありました。戦の間、およそ四ツ時ばかり、小生腹が減り、握り飯を食おうと思って見ると、捨ててしまっていて、飢えが甚だしく、雨具も持っていなかったので雨に濡れ、寒さがひどく、敵の本陣に攻め入ったとき、破れ俵に握り飯が雨に濡れていたのでつかみ食いにしました。敵はことごとく逃げ去っていたので仕方なく、夜明けに味方も大田まで帰陣しました。およそ戦争は笹浪・河上・大田・長登・江ノ口・赤など双方合わせて七度ありました。戦ごとに味方が勝利しました。ああ、天の正気を助けるところでしょうか。わずかの人数で大勢に勝利し、理非天の助け(道理にかなったことには天の助けがあるという意味か)であります。これより賊兵の諸隊を恐れること、犬や羊が虎を恐れるようなものです。同十九日夜、大田を出発、二十日、山口に着陣。大田口の関門が遊撃軍などの持ち場となり、笹浪口が奇兵隊の持ち場となりました。山口を鴻城軍が固め、そのほかところどころの入口を御楯隊・膺懲隊・八幡隊などが固めました。ここで軍議があり、海陸より萩の城下へ押し寄せ、賊党をことごとく打ち殺すということで、北の海へ軍艦を乗り廻し、陸より諸隊が寄せたところ、賊兵は大いに恐れました。そこに君公より御使者が来て、賊兵の処置をするので、ひとまず帰陣してもらいたいと言うので、やむなく二月五日、山口まで引き取りました。この日から、高熱のためわずらい、なかなか急には回復しませんでした。十四日、またまた諸隊が萩に攻め入りました。小生と前後して僅かなちがいで土佐人の桑原儀之助(注㉛)、丹波人の今枝泰蔵が同病で、二人ともに病死しました。それなのに小生一人が助かったことは実に幸いであります。その後、賊兵は大敗北のうえ分散し、両君公ともに山口にお出でになり、まず戦はなく、君公の思し召しにより、諸隊が九カ所に分かれ、防禦を固めました。奇兵隊は吉田、鴻城軍は山口、遊撃軍は高森、膺懲軍は石見境そのほか各所を固めました。君公の命により、諸藩浪士は残らず遊撃軍の遊軍になり、今月五日、残らず高森に出動。高森というところは(長州と)芸州の境でして、馬関より三十里余りもあります。しかしながら小生ほか筑前の人・小柴三郎兵衛、土佐の人・小松右馬之助・玉川壮吉、長州の人・森重健蔵、吉野の人・平井慶之助、皆が病気のため小郡病院に滞在していたところ、次第に病気が平癒したので高森へ出動するとのことです。小生もこれから出動する予定です。小郡にいたとき、細木が見舞いに来て、與一郎の一事(一緒に脱藩した中島與一郎が自死した件)をあらかた話してくれたので、詳細を聞きたく、わざわざ馬関まで行ったところ、折から福吉屋久兵衛に会って詳しく話を聞きました。先生方には先だってより実に大いにお世話になったことを久兵衛より聞きまして、何ともありがたくお礼の言葉もありません。まずはあらあら手紙でのご返事かたがた、長州の様子をあらあら廻らぬ筆に書き綴り、お昼寝の妨げをいたしました。戦争中のことなかなか筆に尽くしがたく、そこそこ記しましたので、ご推察を願い奉ります。取り紛れまずは右まで。恐々頓首。

 千規が言う。この手紙には月日、宛先がない。たぶん三月ごろ、宇佐浦の商人の便に託して、細木氏か明神氏かに宛てて送ったものと見られる。

【注㉙。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、奇兵隊(きへいたい)は「1863年(文久3)6月高杉晋作(しんさく)によって創設された長州藩最初の民兵隊。同年5月長州藩は攘夷(じょうい)を決行し、下関(しものせき)海峡を通航する外国船を砲撃した。このため同月から翌月にかけて米・仏艦から報復攻撃を受け、下関前田砲台が一時占領されるなど苦戦を強いられた。この難局を打開するため、藩府は謹慎中の高杉晋作を登用。高杉は下関の豪商白石正一郎宅で藩府の正規軍とは異なる民兵隊を組織し、奇兵隊と名づけた。奇兵隊は身分にこだわらず、武士、陪臣(ばいしん)、百姓、町人の中から、500名の有志の者を募って組織し、高杉が総督となり、幹部には実力のある者を任命した。庶民の参加者も多く、これまであった有志の集団、光明寺党などもこれに加わった。隊士は武器と俸給が藩から支給され、庶民出身者も苗字(みょうじ)帯刀が許された。奇兵隊の駐屯所は最初は下関に置かれたが、のち厚狭(あさ)郡吉田村(下関市大字吉田)に移った。1865年(慶応1)の藩内の内訌(ないこう)戦には諸隊方の主力となって戦い、翌年の第二次長州征伐時には豊前口(ぶぜんぐち)の戦いの主力軍として活躍し、小倉城を占領した。続いて68年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに参加、さらに北越戦争で奮戦した。このため戦死者77名、戦傷病死者61名、負傷者約199名を出した。翌年兵制改革により諸隊は解散された。奇兵隊はじめ諸隊士は解散に反対し、脱隊騒動を起こして藩府軍と戦ったが、やがて鎮圧解除された。[広田暢久]『『奇兵隊日記』全四巻(1918・日本史籍協会)』▽『田中彰著『幕末の長州』(中公新書)』」】

【注㉚。日本大百科全書(ニッポニカ) 「長州藩諸隊」の意味・わかりやすい解説長州藩諸隊ちょうしゅうはんしょたい幕末に長州藩で組織された有志による隊の総称。1863年(文久3)に高杉晋作(しんさく)が赤間関(あかまがせき)(下関(しものせき)市)で奇兵隊を結成すると、下級藩士や百姓、町人の参加による隊が次々に編成された。そのおもなものに、遊撃隊、御楯(みたて)隊、鴻城(こうじょう)隊、南園(なんえん)隊、膺懲(ようちょう)隊、八幡(はちまん)隊、第二奇兵隊、集義隊、荻野(おぎの)隊があった。隊の編成は、総管、軍監、器械方、書記、会計方の幹部と兵士とからなり、数伍(ご)をもって小隊とし、数小隊をもって一隊とし、三田尻(みたじり)、赤間関、山口などに駐屯した。65年(慶応1)には、さらに10隊1500人の定員が定められ、隊士50名を単位に、総管、軍監、書記、斥候(せっこう)、隊長、押伍(おうご)各1名の役員を置き、また軍制改革によって、干城隊(かんじょうたい)を中核とする家臣団編成の隊や、農民を組織した農兵隊とともに、藩の統一的な軍事体制のなかに組み込まれた。翌66年の対幕府戦では、下関に奇兵隊、芸州口に遊撃隊が配置されるなど、藩の中心的軍隊として活躍した。67年には、小隊の各地に屯集することの軍事上の不備から、隊を大隊に編成し直し、奇兵隊と遊撃隊をそのままに、その他の隊を整武隊、鋭武隊、振武隊、健武隊とし、68年の戊辰(ぼしん)戦争へ参加した。しかし、69年(明治2)に兵制改革が行われ、常備軍が編成されると、諸隊は解散を命ぜられ、これを不満とする一部隊士は脱隊して、翌70年にかけて脱隊事件を引き起こした。[吉本一雄]」】

【注㉛。デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桑原政伸」の解説桑原政伸 くわばら-まさのぶ1844-1868 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。弘化(こうか)元年生まれ。土佐高知藩郷士。土佐勤王党の樋口真吉にまなぶ。脱藩して長門(ながと)(山口県)におもむき,八月十八日の政変で京都を脱出した三条実美(さねとみ)らを警護した。長門萩(はぎ)藩遊撃隊にくわわるが,慶応4年1月病死。25歳。通称は儀之助。」(魚住注・中島信行の書簡によれば、慶応二年一月に病死したことになっている)

     四月

[参考]

一 この月朔日、将軍が進発を諸藩に命令(注㉜)した。

先だって将軍がご上洛を言明されたが、ただいま長防はまったく鎮静もしておらず、激徒再発の様子もあって、京都においても深く宸襟を悩ませておられる。天子さまのご命令もあり、また、塚原但馬守(注㉝)・御手洗幹一郎を差し向けた趣意にも背くため、急速にご進発なさるので、その日限を命じられた際に差し支えなきようにせよと(将軍は)仰られた。その趣旨を老中より言ってきたので、このことをお達しする。

   四月

【注㉜。精選版 日本国語大辞典によると、長州征伐(ちょうしゅう‐せいばつ)は「幕末、江戸幕府が長州藩に対して行なった制裁と武力攻撃。元治元年(一八六四)尊攘派に打撃を与えるため、禁門の変での長州軍の皇居への発砲を理由に出兵。これに対し、四国艦隊砲撃事件以後保守派が台頭していた長州藩は、禁門の変の主謀者を処刑、恭順の意を表わし、幕府軍は戦わずに撤兵した(第一次征長)。この処置に不満を抱いた討幕派の高杉晉作らは馬関を中心に挙兵、奇兵隊ほか民兵諸隊により保守派を一掃して藩の主導権を握り、幕府に反抗した。幕府は慶応二年(一八六六)長州再征を行なったが、薩長連合のため薩摩藩は出兵を拒否し、洋式の兵器を備えた長州軍を相手に苦戦。将軍徳川家茂の死後まもなく、小倉落城を機に撤兵(第二次征長)。以後、幕府の権威は急速に失われた。長州征討、幕長戦争、長州戦争ともいう。」】

一 この月十一、二、三日、東照宮二百五十回忌祭が陽貴山(現高知市)で執り行われた。

一 同十四日より十七日まで御神忌祭があった。

右は鄭重のご祭典あり。尊幕家は得意、我が輩は不快だった。

一 同月十八日、慶応と改元。

右は後にお触れがあった。

[参考]

一 この月、幕府が長州再征。将軍、諸藩に命令する。

   大目付へ

(将軍は)毛利大膳父子らの征伐の件を、先日、塚原但馬守(注㉝)・御手洗幹一郎を通じて命ぜられた。将軍のご趣意に背けば、すぐ進発する旨を先だって仰られたところ、いまだそのような模様は耳に入って来ないが、容易ならざる企てがあると言われる。さらに(毛利大膳父子らに)悔悟の様子もなく、また御所より命じられたこともあり、いずれにしても征伐する旨を(将軍は)言明された。これにより、五月十六日、進発される。

右の通り命ぜられたので、そのことを諸方面に伝えられたい。

   四月


【注㉝。朝日日本歴史人物事典 によると、塚原昌義(つかはら・まさよし。生没年不詳)は「幕末の幕臣。安政3(1856)年外国貿易取調掛就任以後,外交面で頭角を現し,同6年外国奉行支配調役。万延1(1860)年日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節に随行,海外知識を広め帰国。文久2(1862)年目付,講武所頭取,大砲組与組を経て元治1(1864)年目付に再任。この間,文久3年池田長発遣欧使節の目付に,また慶応2(1866)年英国駐箚公使に任命されたがいずれも赴かず。慶応2年大目付就任以降,外国奉行,勘定奉行兼任,外国総奉行,若年寄並などを歴任。一方慶応3年兵庫開港に備えて商社を設立し富国強兵化に努めたが,長州処分や鳥羽・伏見の戦では強行論者であったため,明治1(1868)年徳川慶喜により免職・登営禁止を命じられる。<参考文献>『維新史』4,5巻(岩壁義光)」】

このたび将軍が進発されるについては、中国・四国・九州筋の面々は、いずれも国許に軍勢を備えおくようにされたい。

   四月

ご進発をお命じになったので、参勤の面々が国許を発つのは暫時見合わせるようにされたい。右の内容は中国・四国・九州筋の面々ヘ伝えるように。

   五月

一 五月十一日、平井善之丞が亡くなった。行年六十三歳という。同人は我が藩の勤王家の先輩であり、我々が信用する人物である。その志いまだ伸びず地下に入る。実に歎息々々。

一 同十六日、家茂将軍、長州再討のため江戸城を発ったという。

ちなみに言う。この進発のとき、箱根を越え、三島に着いた際には、将兵が皆ビッコを引いていた。これでは再征は難しく、三河武士の面影をなくしたとの風評があるという。また将軍は久能(久能山東照宮。注㉞)にお立ち寄りがなかったという。

【注㉞。精選版 日本国語大辞典によると、久能山東照宮(くのうざん‐とうしょうぐう)は「静岡市駿河区根古屋、久能山にある神社。旧別格官幣社。主神は東照大権現(徳川家康)。元和二年(一六一六)家康の遺骨を埋葬、翌年日光に改葬し、その故地に東照社を創建。正保二年(一六四五)宮号の宣下があり、以来東照宮という。銘真恒の太刀(国宝)を所蔵する。久能山。」】

(続。今回は登場人物が多く、注記がずらりと並びました。注記を読むと、登場人物のその後の運命が分かって、感慨深いものがあります。明治維新まで無事に生きのびた人は運がよかったのでしょう。多くの武士たちが途中で命を落としています。彼らを駆り立てたものは何だったのでしょうか。いつもながら間違いだらけの訳で申し訳ありません)