わき道をゆく第241回 現代語訳・保古飛呂比 その65

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      (慶応元年)閏5月

一 この月十日、左記の通り。

   佐々木三四郞

右の者、當分御記録分限集録取次、これらのそれぞれの役目を命じる。かつ、御軍備御用兼任を命じる。

右の通り(太守さまが)命じられたのでその旨を申し聞かせよと御奉行衆より言ってきたので、このことを通知する。以上。

別紙の通り云々。

  閏五月十日 高屋順平

  佐々木三四郞殿

一 この月十一日、武市半平太が切腹(注①)、小南五郎右衛門らが終身禁固を命ぜられる。罰文は左記の通り。

小南五郎右衛門

右の者、上方に在勤中、いろいろと(太守さまの)「被當思召子細子細」(※よく分からないのだが、藩主の気に触る特別の事情というような意味だろうか)があった。右により、格禄名字帯刀(の特権)を没収され、倅の孫八郎へ生涯御預けを命ぜられる。

  五郎右衛門の倅 小南孫八郎

右の者、父が受け取っていた俸禄中の五人扶持・二十石を与える。格式は御留守居組とする。

     武市半平太

右の者、去る酉年(土佐勤王党が結成された文久元年のこと)以来、天下の形勢に乗じ、密かに徒党を組み、人心扇動の基を醸造し、それより後、京都の高貴のお方へ容易ならざることをしばしば申し上げ、かつまたご隠居様へたびたび不届きのことを申し上げるなど、すべて臣下の分際をわきまえず、目上の者を軽蔑し、國憲をばらばらに乱した。そうした振る舞いは言語道断、重々不届きの至りである。(太守さまは)非常に御不快に思し召され、厳罰に処されるべきはずのところだが、ご慈恵をもって切腹を命ぜられる。

なお閏五月十一日の夜、南会所大廣庭北の角に板を敷き、また莚を敷き、切腹を命ぜられる。

     園村新作

右の者、去る戌年(文久二年)、吉田元吉の横死の際、お目通りを願い出て不束(ふつつか)なことをいろいろ申し上げ、太守さまに迫ったのは不届きの至りである。太守さまはご不快に思われた。右の子細について吟味したところ、申し開きはなく、恐れ入り奉ったということを申し出た。しかしながら、右の振る舞いにつき、太守さまはなお重大に考えておられる。このため(園村の)格禄名字帯刀(の特権を)没収し、倅の勇馬へ生涯「宰[ママ]置候」(※御預けにするという意味か)よう命ぜられるはずのところ、勇馬は幼年のため、当面牢舎入りを命ぜられる。

      新作の総領 園村勇馬

右の者、太守さまのご慈恵により、父の新作の元の知行高のうち百石を与え、格式は御小姓組とする。

[郷士岡田儀平の倅で、同じ苗字の以蔵こと、出奔無宿者の鐵蔵(以蔵の変名)、京都から追放された入れ墨者]

   以蔵

右の者は、去る戌年(文久二年)六月、お供として大坂に滞在中の八月二日、同じお供仲間の足軽・佐市郎が大奸物で、このままおいたら大害を生じるので暗殺すべきだと平井収二郞が言い出したので、それに同意した。佐市郎は大與という料理屋にいると聞き、すぐさまそこに行ったところ、岡本次郎(注⑥)ならびに圓次の二男・久松喜代馬(注⑦)、新十郎の二男・村田忠三郎(注⑧)らが一席を設けたので、盃を酌み交わした。そこに外から呼びかける者があり、外に出たところ、野津村庄屋の柿右衛門の弟・松山深蔵(注⑨)がいた。そうして、互に事を果たす場所(佐市郎を暗殺する場所のこと)を九郎右衛門町(道頓堀の一角)の川岸端と見定めておき、同人ならびに収次郞・清岡治之助(注⑩)・田内恵吉(武市の実弟)らは外側の見回りをすることにした。その際、収次郎が佐市郎は絞め殺したほうがいいと言った。以蔵はそれから大與という料理屋に立ち戻ったところ、佐市郎もその酒席に加わり、酒を飲んだ。その後、そこを出て、再び名前のわからぬ妓楼へ登り、その際、(島村)衛吉もやってきた。時刻が移り、かねて定めておいた場所へ行く途中、暗殺に加わる人数が集まった。以蔵は自分が持った手ぬぐいを佐市郎の首に打ちかけ、片端を恵吉が差し押さえて引き合った。そのとき誰かわからぬ者が佐市郎の睾丸を蹴るや否や佐市郎は倒れ、入水の格好になったので、水の中に押し流した。その際、一刀刺すよう言ったら、忠三郎が短刀で腹を一カ所突き通し、死体を川の中に投げ込み、犯行の跡が分からぬようにした。同年の閏八月、京都で浪人の本間精一郎がこれまた奸物であるとして、右の収次郎・深蔵・弘瀬健太(注⑪)・薩摩の田中新兵衛(注⑫)・自分(以蔵)らが示し合わせ、暗殺した。同九月、収次郎・治之助・健太らそのほか薩摩藩・長州藩数十人が語り合い、与力同心のうち、渡邊金三郎・大川原十蔵・森孫六らに奸悪の挙動があったとして、江州(いまの滋賀県)の石部駅で殺害に及んだ。また、去々亥年(文久三年)、以蔵は事情があって出奔し、各地を浪々中に不埒の行いをして、京都で入牢を命じられた。その後、入れ墨のうえ洛外追放された後、(土佐藩に)召し捕られ、吟味を遂げたところ、「右達ニ」(?)白状におよんだが、しかしながら右のように徒党を結び、いろいろ不安を醸成し、たびたび重い人命を絶ち、あまつさえ御国恩を忘却したことは言語同断、大胆なやり方でお上を憚らぬ上、不届き至極の咎により牢舎で打ち首とし、雁切でさらし首にするものである。

    岡田以蔵の辞世

君か為盡す心は水の泡

消にしのちぞすみ渡るへき

岡本次郎の辞世

君か為め盡すまことはひとつしも

   とふらてきゆる身こそ悲しき

   村田忠三郎

   久松喜代馬

しめて右の四人、牢屋で打ち首。

格禄名字帯刀ともに没収され、牢舎入りを命ぜられる。

   河野萬壽彌(敏鎌こと)

   小畑孫三郎

御扶持切米帯刀ともに没収され、右同。

審次郎[島本仲道のこと]

右は、さる戌年(文久二年)、郷廻り役(下横目=下っ端の警察官)をつとめていたとき、御密事御用(藩の機密に関する職務)のため、京都・大坂方面に派遣された。その際、天朝より長州藩への内勅を同藩の者より借り受けた。折から(藩邸が国許への)飛脚を立てることになったので、国許に(内勅を)送ろうとして、留守居役方の書記にそのことを告げておき、再度(内勅を)持参したところが(飛脚は)先刻出発したと言われた。そのため、(審次郎は)とやかく文句をつけ、ついに留守居役にまで直に申し出た。そのとき(審次郎は)いろいろ不当な言いがかりをつけたので、帰国のうえ役儀御免を命ぜられた。また、翌年の亥年(文久三年)、森山村の地下浪人・順作の倅・武政除市が、あるまじきことをしたとして、(審次郎らは)そのことを糺した。そのとき、間崎哲馬(注⑬)の発案に従い、前檮原村の庄屋・吉村寅太郎ならびに足軽・順次郎らと一緒に除市方に赴き、父子同席の場で詳しい経緯を述べ、(除市の振る舞いは)盟約に背き、諸事因循であるなどと詰問した。その際、除市のしでかした過ちを並べ立て、こうなった以上は覚悟を決めなければならぬと言葉巧みに言い聞かせた。すでに切腹をもさすべき勢いだったが、「其儀ヲ差留置」(※意味不明のため原文引用)、寅太郎は父子が恐怖の体であるのを見込み、父親の順作を別席に連れて行った。寅太郎は、除市が切腹を逃れるには、皇国の御為に金を差し出すようにとの「語音ヲ為闇[本のママ]ヨリ」、要求に応じて金を出すようにと言い残して、ひとまず帰宅した。翌日、右の同人らともに再度、除市方に行き、強いて金百両を出させた。しかしながら、除市は自分のしたことを後悔しさえすれば、それで問題は済むところだったのに、かえって事態を重大化させて金を出させるのは「押法ノ見付」(?)を逃れがたい。また京都の一件は、御威光を軽んずるやりかたで、「廉々○○○[本のママ]」、よって牢舎入りを命ぜられる。

乙丑年(慶応元年)閏五月十一日

【注①。武市切腹の経緯については『佐佐木老侯昔日談』に詳しく書かれているので、それを引用しておく。かなり長くなるが、ご容赦を。「吉田参政の暗殺されてから、最早四年の星霜を経過した。其の当初に於ては、厳重に探索しやうとしても、時勢が時勢であるし、また今日の警部位の處は、大分武市一派の勤王家であるから、どうする事も出来なかつた。尤も権力ある会計方―大蔵大臣たる仕置役以下、勘定小頭徒士あたりには、俗論家が多い。尾崎忠治なども学問はあるが、俗気を脱しない。概して云へば刀筆の俗吏であるが、そこは大勢と云ふものは動かせぬものである。多くの佐幕家が藩の政治を左右して、その下手人探索を命令しても、働く人がない。今の議員なら買収出来るが、此頃はさうはいかない。其の中下横目の佐一郎、章次といふ両人が、職務上捜索に着手したが、佐一郎は勤王家の為めに反対に殺されて淀川に投込まれ、章次も大阪で殺されて了つた。マア云へば無政府ともいふべき有様で政府の威信などといふものは全く皆無であつた。然るに翌元治元年京都政変以来、藩の形勢もまた一変して来た。佐幕家が追々勢力を得て、武市を始め、以下の勤王家は囹圄の中に苦しむ身となつた。殊に藩庁には吉田派が捲土重来して市原、後藤、福岡などが幅を利かす様になつて、ツマリ首領の復讐とも云ふべき気味で、勤王家を圧迫した。で、勤王家は之に対抗する事は出来なくなつたけれども、何分過激でもあるし、多数でもあるから藩庁でも心配でならぬ。武市は入獄して以来、アアいふ謹直の男であるから、決して不穏の事はやらぬ。終日読書に耽つて居るといふ有様。勤王家は勿論、看視迄も同情を寄せて、種々と特典を与へるのみならず、其の無聊を慰め、学問の事などを質問して、如何にも親密にする。大目付あたりで小言を云うても、一向に承服しない。民部様などは殊に之を憐んで、護身の霊符などを下さるといふ深い御情。之に引かへて後藤、福岡等は吉田事件の証跡を得やうと頻にあせつて居る。すると丁度下士勤王家の刺客たる岡田以蔵が、其の後酒食に沈湎して、京都御構となつて居たのを逮捕して、夫を尋問して見ると、漸くその端緒を得た。そのうえ元治元年五月始めて武市の審問を始め、時勢の推移に従つて、佐幕家の勢力も絶頂に達して居る處から、八月に至る迄十数回法廷を開いたが、更に用要領を得ない、下士勤王家は之を聞いて、大に憤慨し、自分等は武市を処刑さるるならば矢張同罪にして貰ひたいと、大人数麻上下を着用して政庁に押かけて来る。清岡等はまた一揆の旗を翻す。実に容易ならぬ事態となつたので、一方審問を止めると共に、藩侯は長文の諭諭書達書を発したが、到底彼等を鎮静することは出来なかつた。さういふ形勢であるから、藩庁も武市の訊問に手を着けることが出来ない。唯グズグズしてこの歳五月に至つて、また再審を始めた。藩庁も余程手を焼いた様で、―之に手を着け様とすると、勤王家が騒ぎ出す。さり迚其儘に置けば政府の威信に関する。殆ど板挟の苦境に陥つたのだ。武市が、獄中から留守宅にやつた書簡の一節に、『此まで色々罪を尋ね詮議すれども、一つもこれといふ事なく、罪がなきとて三年も牢に入れ置き、今更ただ許されもせず』とあるが、実際何とか処分をせねばならぬ。多くの連累嫌疑者を逮捕して拷問するけれども、更に白状しない。武市は最早二年近くも牢獄に呻吟して居るから、身体も衰弱して居る。後藤等は夫を白洲に引出しては拷問する。病気になると医者にかけてはまた拷問する。實に悲惨の極である。ツマリこの時は秋風烈日の勢を以て拷問したので、中には拷問中脚気衝心の為に死亡したものさへある。勤王家連中は之を聞いて悲憤の余、腕を扼して密に後藤等を暗殺せんことを企つたものである。拷問数十回に渉つたが、吉田の下手人を白状させることが出来ない。けれども若しこの儘荏苒経過したならば、その間如何なる事変を生ずるかも知れぬ。そこで政府に於ては已むを得ずして、他の罪名の下に処置せんとし、夫には丁度この際が宜からうといふことになつて、閏五月十一日、断然武市に死を賜うた。時恰も将軍長州征伐の為め大阪に進発し、佐幕家が高潮に達した時であつたのだ。後藤は当日出張して判決文を読み聞かせた。其の大意はかうである。『天下ノ形勢ニ乗ジ、窃ニ党與ヲ結ンデ、人心扇動ノ基ヲ醸成シ、公卿ニ不逞ノ策ヲ献ジ、且ツ老公ニ不屈ノ意見を上申スル等、臣下ノ處分を失シ、上威ヲ軽蔑シ、国権を紛乱シ、言語同断デアル。屹度御不快ニ思召サレ、厳刑ニ處スベキデアルガ、御慈恵ヲ以て切腹ヲ仰付ラル』と、この外岡田以蔵、岡本次郎、村田忠三郎、久松喜代馬は斬首、河野萬壽彌(注②)、小畑孫三郎(注③)、審次郎[後に島本仲道(注④)]、園村新作(注⑤)等は老舎を命ぜられ、小南五郎右衛門は、格禄苗字帯刀を召放されて、倅に御預けとなり、さうして倅の孫八郎は、是迄禄高がたしか百五十石か二百石であつたのを減石して、五人扶持二十石下された。武市はこの夜政庁の大廣庭の北隅に板と莚を敷いた設けの席で、見事切腹した。弘田久助、土井彌之助、岸本圓蔵等が徒士目付で、専ら之を取扱つた。其の功労を以て、弘田と土井は白札であつたのが士格に進められ、岸本は白札となつた。岸本は自分の親類で、その出世を悦ぶことが殊に甚だしい。けれども之に関係した人々は非常に人気に触れて、散々に悪口された。岸本が格式昇進の祝儀に、鰹魚の腹に短刀を貫いた人形を贈つて、その切腹を諷した者がある。いや勤王家の反感と国中の人気に触れたのは、是等の連中ばかりではない。政府全体の信用が全く地に墜ちたのである。武市を処分したので、勤王家は屏息した様であるが、従来は表面から攻撃して、その反省を促した者が、モウ夫に止まらずして、佐幕の政府には歯せぬといふ景況とつた。後藤等の組織した内閣がやり切れなくなったのも、全く之が為である。小南は自分等の同志であるが、右の如く責罰を受け、平井は五月十一日に病没し、山川と本山は野に在る。自分も矢張無役であつたが、武市の処罰される前日、突然當分御記録分限集録取次兼御軍備御用兼任を命ぜられた。御記録分限集録取次は記録奉行とも集録奉行とも云うて、系譜であれ、賞罰の事であれ、一切藩の記録に関する事を取扱ふのだ。併しながら、之は當分といふ事で、一時的の者である。然るに五月十四日、僅々四日ばかりの中に、武校調役に転任を命ぜられた。どういふ譯か更に分らぬが、考へて見れば、ツマリ政府の政略上の窮策であつたのだ。武市の処分は頗る重大の事件で、さすがに政府も之には余程苦心もし、恐怖もした。自然如何なる疑惑動揺があるかも分らぬ。そこで自分は嫌疑者の一人で、政府に反対して居るから、この際登庸して置けば、武市を処分するにも安心であるといふ處から、始めは仮に記録奉行とし、直に武校の本役にしたので、政府では武市事件に就ては、関係者も廣く羅織はしない、今日悔悟したならば、既往は追はないといふ政令に基づいて、寛大の方針を探るといふことを世に示すさんとしたのだ。後藤等は、武市等が憎くてならぬ。ならぬけれども、武市の陰然の勢力がえらいから、猥に処分も出来ぬ。で、これに関係して居る者を寛大にする様にして、遂に目的を達したのであるが、これが為に却つて国民一般に愛想をつかされて、遂に自滅するに至つた。

六月十四日に至つて、自分は職務上政府と意見が合はぬ處から、武校調役を免ぜられ、野に在つて、同志と共にこの頽勢を挽回せんが為に奔走した。】

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、河野敏鎌(こうの・とがま。没年:明治28.4.24(1895)生年:弘化1.10.20(1844.11.29))は「幕末の土佐(高知)藩士。勤王の志士,明治政府官僚,政治家。土佐藩士河野通好の長男。通称万寿弥。安政末年江戸に遊学,儒者安井息軒に師事。江戸滞在中の武市瑞山と意気投合,文久1(1861)年8月土佐勤王党結成に参画,9月瑞山と共に帰郷し同志を糾合した。2年,藩主山内豊範を擁して入京,勤王運動に努めた。3年藩論は再び公武合体に転じ勤王党の獄が起こり,敏鎌も禁獄,永牢に処せられた。維新後赦免され,明治2(1869)年以後大蔵省7等出仕,広島県参事などを経て5年司法少丞。欧州出張(1872~73)。帰国後司法大丞兼大検事。内務卿大久保利通に信頼され権大判事となり佐賀の乱(1874)関係者を裁断。8年元老院議官。西南戦争(1877)終結後,臨時裁判所裁判長となり戦犯審理をつかさどった。13年文部卿,14年農商務卿。14年政変で下野。15年大隈重信の立憲改進党創設に参画して副総理に就任,17年解党を主張して党を離れた。枢密顧問官(1888~92),農商務大臣兼司法大臣(第1次松方正義内閣),内務大臣(同前),文部大臣(第2次伊藤博文内閣)を歴任して26年子爵。<参考文献>瑞山会編『維新土佐勤王史』,寺石正路『土佐偉人伝』(福地惇)」】

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、小畑孫三郎(おばた-まごさぶろう1837-1866)は「幕末の武士。天保(てんぽう)8年生まれ。小畑美稲(うましね)の弟。土佐高知藩士。奥宮慥斎(おくのみや-ぞうさい),若山勿堂(ふつどう)にまなぶ。文久2年監察使となり京都,大坂の政情をさぐった。武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわり,3年同志とともに終身禁固となるが,病気で釈放され慶応2年9月21日死去。30歳。名は正路。」】

【注④。新訂 政治家人名事典 明治~昭和によると、島本 仲道(シマモト ナカミチ。生年月日天保4年4月18日(1833年)出生地土佐国土佐郡潮江村(高知県)経歴土佐藩士)は「幼時より陽明学を好み、東遊して安井息軒の門に入り、久坂玄瑞らと交わる。土佐勤王党に加わり、文久2年藩主山内豊範上洛の実現に尽力した。3年勤王党の獄にあって終身禁錮となる。維新後許され、松山征討に出陣した。新政府に仕え、兵部権少丞、地方官を経て、司法省に入り、5年司法大丞、さらに大検事、警保頭を兼任。司法卿江藤新平に信頼され、司法制度の改正、新律綱領の制定に尽力した。6年征韓論が敗れ、江藤と共に下野。のち民権運動に従い、14年自由党顧問となり、河野敏鎌の親友として活躍したが、20年保安条例により東京から追放された。多摩困民党顧問も務めた。没年月日明治26年1月2日」】

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、園村尚実(そのむら-ひさざね1828-1889)は「幕末の武士。文政11年生まれ。土佐高知藩の勤王派。文久2年吉田東洋が土佐勤王党の那須信吾らに暗殺された際,藩主山内豊範(とよのり)に藩論を尊攘(そんじょう)に転換するよう進言。のち藩は薩長と提携したが,前藩主山内豊信(とよしげ)の弾圧で慶応元年入牢,維新大赦で出獄した。明治22年6月死去。62歳。通称は新作。」】

【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岡本次郎(おかもと-じろう1831-1865)は「幕末の武士。天保(てんぽう)2年生まれ。土佐高知藩士。文久2年藩主にしたがい京都にいき,諸藩の尊攘派とまじわる。のち武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわる。岡田以蔵らとともに吉田東洋の寵臣井上佐一郎を殺害した罪で,慶応元年閏(うるう)5月11日処刑された。35歳。本姓は中島。名は正明,忠和。通称は別に八之助。」】

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、久松喜代馬(ひさまつ-きよま1834-1865)は「幕末の武士。天保(てんぽう)5年4月生まれ。土佐高知藩士。江戸の千葉一胤(かずたね)に入門。のち土佐勤王党に参加。慶応元年勤王党弾圧で投獄され,同藩井上佐一郎殺害が発覚し,同年閏(うるう)5月11日処刑された。32歳。名は重和(しげかず),重治(しげはる)。」】

【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、村田忠三郎(むらた-ちゅうざぶろう1840-1865)は「幕末の武士。天保(てんぽう)11年9月生まれ。土佐高知藩の郷士。武市瑞山(たけち-ずいざん)にしたがって土佐勤王党にくわわる。文久2年(1862)岡田以蔵らと藩の監察吏井上佐一郎を暗殺し,のち発覚して慶応元年閏(うるう)5月11日処刑された。26歳。名は克昌。」】

【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、松山正夫(まつやま-まさお1837-1864)は「幕末の武士。天保(てんぽう)8年2月11日生まれ。土佐高知藩士。文久元年土佐勤王党にくわわる。3年脱藩して長州におもむき,三条実美(さねとみ)ら七卿にしたがった。禁門の変では忠勇隊隊長としてたたかい,元治(げんじ)元年7月21日真木和泉(いずみ)らとともに天王山で自刃(じじん)。28歳。通称は金三郎,熊蔵,深蔵。号は津山。」】

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、清岡治之助(きよおか・じのすけ没年:元治1.9.5(1864.10.5)生年:文政9.10.2(1826.11.1))は「幕末の土佐国(高知県)安芸郡郷士,勤王の志士。諱は正道,通称治之助。曲水,桂山と号した。資性沈着にして胆力あり。若くより文武を修行し,江戸に遊学,安積艮斎に入門,また平田国学をも熱心に学んで古史・古伝にも通じた。文久年中に上京,土佐勤王党の同志らと尊攘運動に挺身,しばしば天誅行動におよんだ。同2(1862)年,勅使三条実美の江戸下向に副使姉小路公知に扈従した。同年秋,武市瑞山ら勤王党幹部が下獄したため,治之助は同族清岡道之助ら安芸郡の同志と武市らの救解運動を企てたが,藩政府の追及にあい,ついに捕縛されて同志23名と共に奈半利河原に斬られた。(福地惇)」】

【注⑪。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、弘瀬健太(ひろせ-けんた1836-1863)は「幕末の武士。天保(てんぽう)7年生まれ。土佐高知藩士。文久元年土佐勤王党に参加。2年勅使三条実美(さねとみ)に随行して江戸へおもむく。同年横浜外人居留地焼き討ち計画にくわわり,12月には間崎滄浪(そうろう)らと青蓮院宮(しょうれんいんのみや)(朝彦親王)の令旨をうけて藩政改革をくわだてたが,前藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)の怒りにふれて捕らえられた。文久3年6月8日切腹。28歳。名は年定。」】

【注⑫。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、田中新兵衛(たなか-しんべえ1841-1863)は「幕末の武士。天保(てんぽう)12年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。薬種商の子とも船頭の子ともいわれる。示現流剣法の達人。文久2年京都におもむき,尊攘(そんじょう)派を弾圧した九条家家臣の島田左近を暗殺,「天誅(てんちゅう)」のはじめとなる。文久3年姉小路公知(きんとも)殺害の嫌疑でとらえられ,5月26日京都町奉行所で自刃した。23歳。名は雄平。」】

【注⑬。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、間崎滄浪(まさき-そうろう1834-1863)は「幕末の武士。天保(てんぽう)5年生まれ。土佐高知藩士。安積艮斎(あさか-ごんさい)の門にまなび,塾頭となる。帰郷して家塾をひらき,土佐勤王党で活躍。文久2年弘瀬健太らとともに中川宮朝彦親王の令旨(りょうじ)をえて藩政改革をすすめようとしたが,前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))の怒りをかい,3年6月8日自刃(じじん)を命じられた。30歳。名は則弘。字(あざな)は士毅。通称は哲馬。」】

一 閏五月十四日、左記の通り。

申し渡し覚え

    佐々木三四郞

右の者、武校調べ役を命じる。これにより格式は御馬廻り、役領知は三十石とする。入念に勤めるよう仰せ付けられる。

    佐々木三四郞

右の者、そのままの組列の北村久米之進の上に申し入れる旨、御目付役より連絡があったので、その旨を伝える。「分限縁辺」(身分や親族関係)などの「差出御取越可有候」(※意味不明のため原文引用)、以上。

  閏五月十四日、 深尾弘人

  高屋順平殿

別紙の通りなのでそのつもりでおられたい。以上。

閏五月十四日 高屋順平

佐々木三四郞殿

(高行の所感)さる十日に突然、當分(※一時的にという意味)御記録分限集録役を命ぜられ、それからわずか四日間で武校調べ役に転任を命ぜられた。當分御用を命ぜられてすぐに転任するのは、武市らが厳罰に処されて疑惑動揺が広がるのを恐れたためだろう。自分は嫌疑者の風聞があったゆえににわかに當分御用を命ぜられ、武市に関係する者でも無実の者を広く罪に問うようなことはしないと示すため(武校調べ役に転任となったの)であろうと友人たちが言った。どうであろうか。あるいはそうだろう。あまりに僅かの間に、御用を命ぜられたことは不審である。

[参考]

一 閏五月十四日、幕府のお触れ。

このたびお触れがあった。真鍮銭(注⑭)・銅小銭は歩合を増して通用する。

一 真鍮銭一枚につき歩合を増して 十二文

一 文久銭(注⑮)右同断 八文

一 銅小銭右同断 四文

銅小銭のうち(裏に)文の字のあるもの(注⑯)は六文。

右の通り、天然の相場に留意されたので、両替屋たちは命名の店に貼っておいて、(新たなに定めた歩合で)通用することを、漏らさず早々に通達されたい。

閏五月十四日[長萩風説書による] 

【注⑭。精選版 日本国語大辞典によると、真鍮銭(しんちゅう‐せん)は「江戸時代、明和五年(一七六八)から発行された寛永通宝四文銭のこと。黄銅質で、一文銭とは形と色が異なり、区別されているが、俗には「四文銭」とも「真鍮銭」とも呼ばれた。しんちゅうぜに。〔御触書天明集成‐四四・明和五年(1768)〕」】

【注⑮。改訂新版 世界大百科事典によると、文久永宝 (ぶんきゅうえいほう)は「1863年(文久3)2月から67年(慶応3)にかけて鋳造・発行された銅貨で4文通用の銭貨。鋳造は江戸浅草橋場町の金座,深川海辺新田および浅草橋場町の銀座で行われた。これに先だって,1860年(万延1)に精鉄銭の寛永通宝(鉄4文銭)が造られたので,銅貨の寛永一文銭を回収して文久永宝が鋳造された。それは従来の寛永四文銭よりも小型で,材質も劣る。執筆者:作道 洋太郎」】

【注⑯。精選版 日本国語大辞典によると、文銭(ぶん‐せん)は「江戸時代、寛文八年(一六六八)から発行された寛永通宝銭の異称。裏面上部に「文」の字があるところからの称。「文」の字と表の銭文の一字「寛」の字と合わせて鋳造年次の「寛文」を表わしている。〔鋳銭考(古事類苑・泉貨一)〕」】

一 閏五月十七日、土井彌之助・弘田久助は御組入り(白札から士格になった)、岸本圓蔵は白札に進められ、岡崎喜久馬は米四斗を拝領、大監察は御酒を頂戴。いずれも十一日の処置のご褒賞であるという。

[参考]

一 毛利の家臣が幕府に対し、大膳父子を許してほしいと願い出る。

嘆願書

大膳さま(注⑰)・長門さま(注⑱)は、元来、皇国のため一途に大義名分を重んじなされ、天朝・幕府よりのお沙汰の趣旨を尊奉確守され、期限を誤らずに攘夷に踏み切られました。すると(朝廷の)監察が下向され、天子の叡感(お褒め)をいただき、実に無窮の鴻恩に対し国を挙げて感奮決心しました。にもかかわらず、その後のお沙汰の次第となり、最前のご議論は確定なされたのであろうかと、国内の者どもが自然疑惑の念を抱くということがありました。それが、まったく思いがけなくも、天子さまの御前で(家臣たちが)妄動に及び、誠にもって日夜天子の御寝食を安んじることもできず、恐懼至極でございました。その折から、外夷も己個人の私闘のようになったため、やむを得ずいったん戦闘中止の取り計らいを命ぜら、さらに上京の家老そのほかを厳罰に処され、天朝と幕府にお詫びし、恭順謹慎をなされました。ところが役人どもの処置に不当なところがあり、国を挙げて憤懣が募り、騒ぎが起きたため、やむをえずご父子さま(藩主と世子)がお出でになられ、是非を糺され、告諭されてようやく沈静化したので、いよいよ恭順謹慎された次第です。そうしたところが、近来ご父子さまには悔悟の様子がなく、かえって容易ならざる企てがあるとか、あるいは幕府のためにならぬことを外夷と謀っているなどという風説もあるかのように聞きました。これは言語に絶し、驚嘆の至りでございます。家臣の心中が明瞭でないことは「血泣覚悟」(?)を決めておりますが、第一、皇国の大義名分にもかかわる以上、天朝・幕府に対しては、下は天下草莽の者まで思うところがあるにちがいありません。その憾み千万、実に臣下の私情は忍びがたいので、それを厚く諒察していただきたい。前述の風説も天下後世のためにとくと厳しく糺していただき、ご父子様の御心中が明白になられるよう、ひとえにご尽力のほどをひたすら伏して願い上げます。以上。

   志道安房 根來上総

   井原主計(注⑲) 毛利伊賀

   毛利出雲 毛利能登

   毛利筑前 宍戸備前(注⑳)

宛先はないが、おおかた吉川監物へ差し出したものであろう。

    後歎願

本家の毛利大膳の家来どもより別紙の趣旨を取り上げていただきたいと、末家の家来による周旋を歎願してきました。右はこのたびの不実の風説(大膳父子が幕府に対してよからぬことを企てているといった風説をさすと思われる)を受け、臣下の私情が忍び難いのは仕方のないことであります。厚く御憐察くださるよう、とりわけ私どもよりも心からお願いします。このため、別紙そのままをご覧いただけるよう提出しますので、しかるべくお取り成しのほどをお願い申し上げます。以上。

   閏五月 吉川監物

又添え書き

毛利大膳の家来どもより嘆願書を差し出し、周旋の件を歎願願い出たということを吉川監物より添え書きをして、同人の家来目賀田喜助・森脇一郎右衛門が広島まで来て、別紙の歎願書二通を差し出し、願い出ました。なお、右の家老どもよりの歎願の趣意を監物が書き取って指しだし、くれぐれも失敬のことを厚く述べ、なにぶん差し出し方をひたすらお願いするよう国許より言ってきましたので、このことを申し上げます。以上。

閏五月十九日 松平安芸守(広島藩主)留守居役 菅野肇

【注⑰。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利敬親(もうり-たかちか1819-1871)は「江戸時代後期の大名。文政2年2月10日生まれ。毛利斉元(なりもと)の長男。天保(てんぽう)8年(1837)長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩主毛利家13代となる。村田清風を起用して藩政を改革,富国強兵策をすすめる。文久3年周防(すおう)山口に藩庁をうつす。四国艦隊下関砲撃事件,禁門の変,第1・第2次幕長戦争などの難局を人材の登用によってきりぬけ,維新の功労者となった。明治4年3月28日死去。53歳。初名は慶親。諡(おくりな)は忠正公。」】

【注⑱。改訂新版 世界大百科事典によると、毛利元徳 (もうりもとのり。生没年:1839-96(天保10-明治29))は「長州藩世子,山口藩知事。支藩徳山藩に生まれ長州藩主毛利敬親の養子となる。?尉,広封,定広と名のり,長門守を称した。諡(おくりな)は忠愛公。幕末政争に敬親とともに活躍し,1864年(元治1)の禁門の変に兵を率いて上京したが,敗戦を聞いて途中から帰国した。68年(明治1)新政府の議定となり,翌年家督を継いで山口藩知事となり,第十五銀行頭取なども務めた。執筆者:井上 勝生」】

【注⑲。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、井原主計(いばら-かずえ1816-1867)は「幕末の武士。文化13年4月15日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩家老。嘉永(かえい)6年ペリー来航のとき武蔵(むさし)大森を警備。元治(げんじ)元年横浜で四国艦隊下関砲撃事件の講和を結ぶ。慶応元年幕長戦争の事後処理に藩を代表したが,交渉をまえに広島から無断帰国し,隠居を命じられた。慶応2年12月19日死去。51歳。本姓は吉田。名は師古,師中,親章(ちかあき)。通称ははじめ熊之進」】

【注⑳。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、宍戸親基(ししど-ちかもと1827-1886)は「幕末-明治時代の武士,教育者。文政10年9月17日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩三丘(みつお)領主。家老として藩主毛利敬親(たかちか)を補佐。元治(げんじ)元年四国艦隊下関砲撃事件では,講和使節となる。慶応2年第2次幕長戦争では芸州口の指揮役として幕府軍をやぶる。晩年は郷校徳修館で教育につくした。明治19年7月14日死去。60歳。初名は徳基。通称は備前。」】

 [参考]

一 閏五月二十二日、幕府より左記の通り。

毛利大膳は昨年、尾張大納言(第一次長州征討軍の総督となった徳川慶勝のこと)より悔悟伏罪(罪を悔悟して刑に服すること)の姿勢であるとの申し出があったが、その後、激徒が再発に及び、それに加えて、しばしば家来どもを外国へ派遣し、大砲・小砲などの兵器を多量に備え、そのうえ密輸を前述の通り行ったという確証があるので、(将軍が)進発される。

閏五月二十二日

一 閏五月二十二日、家茂将軍が長州征伐のため上京し、二条城に入ったという。

一 同二十四日、将軍が二条城を出発し、伏見に一泊、同二十五日夕、六ツ時(午後六時ごろ)、大坂着という。

なお、お供した面々は登城の際、陣羽織を着用するようお達しがあったという。

一 この月、江戸の困窮がひどいとのこと。

文書をもって申し上げます。

このごろ世間では次第に米穀やいろいろな品物が高値になり、市中の者たちは皆、暮らしが成り立ちません。とりわけその日稼ぎの者は難渋を極めておりますので、非常のために貯蔵している籾蔵米(注㉑)をもって、なにとぞ御救米(注㉒)くださるよう願い上げます。以上。

  閏五月 ただし町々

  思し召しがあったので、「不被及與[元のママ]被 仰渡候事」(※意味不明のため原文を引用)

右のように願い出たのは、このごろ一般が困窮のためで、その一、二を挙げれば、次のような風聞がある。

  一 場末の町々より、妻子を捨て置いて欠落(かけおち。注㉓)したという訴えが毎日三十~五十カ町ある。欠落人尋ねならびに妻子扶助手当て等を町内へ命ぜられる。

  一 深川川筋に身投げして水死する男女子供が多いとの訴えにより、川沿いの町々へ橋・川岸番を申し付けられるため、町の入用がこのごろ増え、昼夜番の入り用も嵩み、土地を捨てるものが多い。場末の町々は大難渋ともっぱら言われる。

  一 寺社境内の樹木や木材置き場の「連木」などへ首をくくって果てる者についての訴えが各所からあるため、検使が日々二、三十カ所あって廻りかね、遅滞しているという。

  (高行の所感)これは江戸表からある方に言ってきた。幕府の権力も及びかねたりと見える。格別凶年でもない。異国人が渡来して以来の変化である。恐るべし、ああ。

【注㉑。デジタル大辞泉によると、籾蔵(もみ‐ぐら)は「江戸時代、凶作の年に備えて米を籾のままで貯蔵する蔵。」】

【注㉒。精選版 日本国語大辞典によると、救米(すくい‐まい)は「江戸時代、飢饉・災害などにあって困窮している人を救助するために施した米。施米(ほどこしまい)。おすくいまい。」】

【注㉓。百科事典マイペディアによると、欠落(かけおち。駆落とも記。)は「中世,とくに戦国時代においては人々が軍役・貢租(こうそ)の負担や戦禍から逃れて他領に出奔してゆくえをくらますことをいった。江戸時代にも広く無断でその住居を去り行方不明になることをいい,為政者は欠落防止のため厳罰をもって臨んだ。武士にあっては当主の欠落は家断絶,親類縁者の場合も相続に影響した。庶民にあってはのちには郷村,五人組の連帯責任にするなど巧妙な制度をつくって対処した。なお相思の男女がひそかに他郷に逃げるのも駆落といったが,現在では一般にこのことをさす。」】

一 我が藩はかねて大坂表の厳重な警衛を命ぜられていて、その交代員は次の通り。

大坂御警衛第四交代人員

  大目付 小笠原唯八

  御内用役 深尾三九郎

  足軽大将 林亀吉

  旗奉行 長谷川賴助

  足軽大将 森勝作

  足軽大将 小倉嘉吉

  足軽大将 西山治右衛門

  小目付役 森岡早蔵

  大頭 深尾兼五郎

  五藤卯之助

  朝比奈直吉

  遠山甚右衛門

  鳥飼覚兵衛

  前野勘八

  土井楠吉

  五藤恭助

  関軍吉

  西村孫之進

  市川禮之助

  小川喜六

御馬廻り組頭

小崎左司馬

加藤□□

早崎鶴馬

清水小八郎

佐藤喜三太

寺村修蔵

齋藤平兵衛

三浦伊豆馬

衣斐八右衛門

渡邊七五三八

日比虎作

前教授役 谷勘太

同助役 金松竹太郎

後教授役諸藩応接役兼帯 手島八助

剣術 馬淵桃太郎

砲術 能見粂次郎

馬術 馬場鉛子

右のほか臨時人数は分からず。

大坂御警衛第五交代人員

大目付 小坂忠右衛門

小目付 原四郎

御内用役 前野源之助

足軽大将 井上武左衛門

當分旗奉行 酒井萬壽衛

當分大砲頭 尾崎権太

大御頭 桐間将監

御支配頭 仙石彌次馬

臨時支配頭 百々禮三郎

自勤御馬廻

奥村代雄 尾代長□

今枝左右蔵 安田悦次

伊藤達助 渡邊嘉八郎

前野賴助 美濃部兵左衛門

御雇い

板坂新七 百々佐也

百々代登志 渋谷達枝

村山林太郎 三浦於セン[元のママ]

植木繁馬 後藤協

金子金馬 野々村巳子吉

寺村貞吉 板越佐次馬

板越克治

詰越 手島八助

文校助役 大谷謙助

(続。またまた注記がずらりと並びました。誤訳や不明なところがたくさんあると思います。どうかご容赦ください)