わき道をゆく第242回 現代語訳・保古飛呂比 その66
(慶応元年)六月
一 この月二日、太守さまが高知城を発たれ、浦戸通りの道筋へ出られ、同三日、大坂に到着されたという知らせがあった。大阪城で公方さまにしばしば拝謁されたとうかがった。
一 六月十二日、左記の通り。
右の者、武校調役を免ぜられる。もちろん(武校調役の)役領知は除かれる。格式は(当分馬廻組から)小姓組に差し戻される。
右の通り命ぜられた。この旨を申し聞かせるよう奉行衆より言ってきたので、このことを(本人に)申し聞かせられたい。以上。
六月十二日 深尾弘人
高屋順平殿
別紙の通り云々。
同日 高屋順平
佐々木三四郞殿
荒尾勇蔵
佐々木三四郞
右の二人は、左御小姓組の加用記内の配下に入る。座列は東野楠猪の次で、名前順の通りである。その旨を承知し、とりわけ(荒尾、佐々木の)両人に申し聞かせられたい。以上。
六月十四日 深尾丹波留守居 清水儀平
高屋九兵衛殿
別紙の通り云々。
同日 高屋九兵衛
荒尾勇蔵殿
佐々木三四郞殿
(高行の所感)右の解任は、職務上、藩政府と意見が合わなかったためである。
一 六月十八日、左記の通り。
佐々木三四郞
右は御軍備(御用掛)に任じられたので詮議の結果、当分馬廻り組へ入れられ、もろもろの勤務は馬廻りと同様に仰せ付けられる。
右の通り命ぜられた旨を奉行衆より言ってきたので、その旨を言い聞かせるように。以上。
六月十八日 深尾丹波の留守居 清水儀平
高尾九兵衛殿
別紙の通り云々。
高尾九兵衛
佐々木三四郞殿
一 六月十九日、左記の通り。
貴殿を当分福岡宮内殿の組に入れ、組付きの追手門番に入れるので、その旨を前後の組頭にも知らせるように。(※原文は「其御心得前後組頭ヘモ御達可有候」。)以上。
同十六日 森権次 福岡藤次
佐々木三四郞殿
一 同十九日、左記の通り。
右の者、当分我らの組の大町常之丞の座列へ入れるので、その旨を承知し、三四郞へも告げ知らせられたい。以上。
同十九日 福岡宮内
山田八右衛門殿
別紙の通り云々。
同日 山田八右衛門
佐々木三四郞殿
[参考]
一 六月二十九日、幕府よりの布達(=布告)、左記の通り。
最近、浮浪の激徒(=過激派)が海上に船で集結する悪巧みがあるのではないかという情報があるので、防長両国周辺の隅々の諸島では、ひときわ取り締まりを強化し、不審の者があれば、厳重な処置をされたい。
右の内容は、四国・九州の面々(諸侯)に知らせるように。
[参考]
一 六月二十八日、太守さまが将軍家茂公の御座所(居室)に呼び出され、お人払いのうえお目見えが済み、お菓子を頂戴された。[慶応元年五月、将軍のご進発に随行の御側役朝倉播磨守の日記]
[参考]
一 六月二十八日、今日の六ツ半時(午前七時ごろ)、お供の行列ととともに(太守さまが大阪城に)登城され、七ツ時(午後四時ごろ)すぎ、(本陣に)帰り着かれた。将軍様の御座所のわきの部屋で対面され、ご挨拶やお話があり、お人払いのうえお茶お菓子などの賜物があったとうかがった。恐悦至極である。玄同さま[尾張のご隠居。注①]・一橋さま(徳川慶喜)にも会われた。老中の松前伊豆守さま(注②)にもお会いになり、具合がよろしいとうかがった。
【注①。朝日日本歴史人物事典 によると、徳川茂徳(とくがわ・もちなが。没年:明治17.3.6(1884)生年:天保2.5.2(1831.6.11))は「幕末の尾張(名古屋)藩主,一橋家当主。父は高須藩(岐阜県)藩主松平義建,兄に徳川慶勝,弟に松平容保,松平定敬がいる。安政5(1858)年7月慶勝が謹慎・隠居の処分を受けた後,尾張藩主となり藩論を佐幕の方向に導くが成功せず,文久3(1863)年8月隠居。以来将軍徳川家茂の側近にあって徳川慶喜と対抗した。慶応2(1866)年12月一橋家当主となり,慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦ののち徳川宗家の救済に力を尽くした。(井上勲)」】
【注②。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、松前崇広(まつまえたかひろ 。1829―1866)は「江戸後期、幕末の松前藩主。第9代藩主松前章広(あきひろ)の第6子。文政(ぶんせい)12年11月15日生まれ。幼名を盈之助(えいのすけ)、ついで為吉(ためきち)と称し、襲封後崇広(たかひろ)と改めた。1849年(嘉永2)藩主昌広(まさひろ)の致仕により襲封したが、同年幕府より特旨をもって城主に列せられ、新城の築城を命ぜられた。新城は1854年(安政1)に完成、福山城と称した。しかし、箱館(はこだて)開港に伴い翌1855年、城付地以外の旧領地の大部分が幕領となり、替地として陸奥(むつ)国伊達(だて)郡梁川(やながわ)(福島県)、出羽(でわ)国村山郡東根(ひがしね)(山形県)に計3万石が宛行(あておこな)われた。1863年(文久3)幕府の寺社奉行(ぶぎょう)に任ぜられ、まもなく辞したが、翌1864年(元治1)7月老中格、海陸軍総奉行(翌年海陸軍総裁)となり11月老中に任ぜられた。以後、幕権拡張論者の老中阿部正外(あべまさと)と行動をともにし、1865年(慶応1)兵庫開港問題で阿部とともに勅旨によって罷免され、翌慶応(けいおう)2年帰藩し4月25日松前で没した。[榎森 進]『『新撰北海道史 第2巻 通説1』(1937・北海道庁)』▽『金井圓・村井益男編『新編物語藩史 第1巻』(1975・新人物往来社)』」】
[参考]
一 君侯(太守さま)の帰国願い書の写し、左記の通り。
今般、公方さまが(江戸城を)進発されたとうかがい、国事(この場合は土佐藩内の政治に関する事柄)難渋とは申しながら、傍観しては済まぬと思い、取り敢えず登坂(大坂に行くこと)して、ご機嫌をうかがい、かつ木津川の警衛場所を見分しようと、早々に登坂いたしました。そうしたところ、このごろそれぞれの手配などが済みましたので、こうなったら、さらに国許を沈静しようと思い立ちました。また浮浪の激徒が海上で悪巧みをしているという(幕府の)お沙汰もありましたので、その取り締まりかたがた、七月七日より、「向々爰許」(※向々はそれぞれ思い思いに、爰許はここらあたりという意味だが、この場合もそうかどうか分からない)乗船し、帰国したいと思いますので、そのことをお伺いいたします。以上。
六月二十九日 松平土佐守
この文書の付け紙に幕府の返答がこう記されている。「お伺いなされた通り、取り締まりの件を十分に心得られたい。」
(高行の所感)このたびの老公(太守さま)のご帰国はどういうことであろうか。分からぬ。風聞では、幕府が長州の非を糺し、そのうえで長州が伏罪(罪を認めて刑に服すること)せぬときは追討するとの相談がなされている。そうしたところが、(世論は)この追討の不可を唱え、人心も何となく不穏。薩州などは追討を阻止するため隠密にはかりごとをめぐらし、幕府も断然たる処置なく、恐れながら朝廷にも確固とした方針がなく、すこぶる困難の事情があって、何事も方向が日々朝夕と模様が変わり、とても周旋の余地もなく、時機を見て尽力するという含みをもって、病気療養かたがた帰国されたという。果たしてそうだろうか。局外にいるのでそのご趣意を知ることができず、まして自分はつねに武市半平太らの仲間であるとの嫌疑がかけられている。また、自分は長州の肩を持つ意見であるから、いよいよもって情報は入ってこない。どういうことであろうか。
[参考]
一 この月、公儀のお達しは左記の通り。
将軍のご在坂中に万一異変が起きたときは、昼夜ともに追手前で狼煙の合図を十発打ち上げるので、これを合図に各隊は集合場所へ集まること。
右の通り命ぜられたので、承知されたい。これに関して、当地の市中そのほかにおいては、花火をすることを禁じられているようであるが、狼煙の合図と紛らわしいので、これからはさらに堅く禁止する。
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家来へ
御名(土佐藩主・豊範のことと思われる)
海岸ならびに川筋の警固、市中の巡邏ともに格別行き届いた勉励ぶりで、御苦労である。。詳しいことは家老衆へ伝えたとおり、今般、お供の役目をつとめる者たちが市中の巡邏に当たるよう命じていたが、それについては(太守さまが)大阪城におられる間は市中の巡邏をするに及ばない。もっとも、海岸そのほかの警固については、これまでの通りと心得られたい。
六月
七月
一 この月、太守さまが大坂より乗艦され、浦戸を通り、同十日に着城されたので、道筋にお迎えに出て、それより登城し、ご祝詞を申し上げた。
一 同二十日、左記の通り。
佐々木三四郞
右の者、申し渡すことがあるので、平服で、今日の八ツ時(午後二時ごろ)、左馬助宅へ出頭するよう申し聞かせられたい。以上。
別紙の通りなので、そのつもりで。もっとも、(命令を)お請けするため、福岡宮内殿にお目にかかるように。以上。
七月二十日 山田八右衛門
佐々木三四郞殿
これは、本山貫之助(注③)が総領としての身分を剥奪され、渡川(四万十川のこと)以東の禁足を命ぜられた件についてである。
【注③。保古飛呂比の文久三年四月五日の項に次の記載がある。「初夜(現在の午後八時から九時ごろ)ごろ、(義弟の)本山誠作殿から使いが来て、こう言った。「(誠作の長男の)貫之助が先ほど、小高坂村西町に住む徒士(=かち。土佐藩の下士身分。郷士の下で、足軽の上に位置する)の黒岩與三郎方で、水道町に住む徒士・野村彦造の次男の健次と口論の末、刃傷に及んだので、すぐに来てもらいたい」。よって、すぐさま支度し、黒岩方に駆け付けて事情を聞くと、貫之助が健次を切りつけたすぐ後、数人で双方へ引き分けたとのことだった。貫之助は十六歳、健次は二十歳で、血気の者たちであるが、大勢に押し分けられて仕方なくそのまま物別れになり、互いにその場に控えて親類の指図を待っていた。(中略)さてこれからどう処置したものか。父親の誠作はことのほか心配して、自分(高行)は貫之助の叔父だから自分の決断にすべてをまかせるとの意向だった。(中略)そこでやむを得ず、自分が「ただ今勝負させるからその覚悟をせよ」と大声を発した。貫之助はそのまま地上より内庭のほうに進み、それに親族が三人ばかり付き添った。自分(高行)は玄関から唐紙を押し開け、奥座敷に進んだ。後からも一同続いてくる。貫之助は自分より一足早く、相手の健次に向かい、「立ち合え」と声をかけ、すぐ二太刀を畳みかけて切りつけると、健次はそのまま倒れた。このため(貫之助は健次の体に)接近してとどめを刺した。」】
一 同三十日、左記の通り。
佐々木三四郞
右の二妹(高行の二番目の妹)、鷲見馬次の弟・兵衛の妻に縁組みしたいという願いを我々は了解した。この旨を(三四郞に)申し聞かせるように。以上。
七月三十日 福岡宮内
山田八右衛門殿
別紙の通り云々。後で婚礼の準備が整ったら、その前々日に「袖扣」(※よく分からないのだが、届け出文書の形式の一つではないか)をもって届け出るように。
七月三十日 山田八右衛門
佐々木三四郞殿
八月
[参考]
一 探索方からの報告の聞き書き、左記の通り。[七月からのこと]
一 長州の国論が一つに定まったこと。京都の変動がついに(長州の)征伐というまでになって、(長州藩主は)深く心をお痛めになり、深くお詫びすると仰って、夷船との戦争を途中でやめるよう取り計らわれた。そして、ひたすら悔悟の様子で、三家老を厳罰に処し、それ以後、今日まで間違いなく謹慎され、お国の民に至るまで謹慎していたが、ともすればその真意が貫徹せず、かえってお国の民は暴動を起こし、あるいは夷狄と組んでとんでもない企てに及んでいるなどの悪評が立ったため、幕府の憎しみはいよいよ増し、ついに将軍が自ら征伐すると言い出され、すでにご出馬になられたようである。ついては、最早このうえ致し方なく、(防長の)二国一致で防戦し、城を枕に討ち死にしようと決議し、徳山・岩国(の支藩)にいたるまで一緒になり、その武器も整ったとのこと。大膳さまご父子は、山口新城へ立てこもりの支度にかかられた模様である。
一 (都落ちした)五卿方はこのまま筑前にいると、長州征伐により、安否のほどが心許ないという心配から、何分対馬へ渡海するのがいいと言って、以前から対馬の正義家へ計っていた。土方(土方久元のこと。注④)と薩摩藩の士が申し合わせて、数十人が渡海したところ、あにはからんや、正義の輩は多くが禁固幽閉され、俗論の輩が沸騰し、執政をはじめ俗吏が跋扈していて何の手段も見つけかねた。八方大義をもってよくよく弁解し、ついに禁固の徒に対面もしたけれども、その甲斐なく、対馬藩の政府も大いに窮した。五卿の受け入れを断ったら、たちまち国内に兵端を開くことになるかもわからず、受け入れを許したら幕府の憤りはどうなるだろうか、まことに国の大事であるといろいろな議論が交わされ、ついに渡海の件は断ることに決し、幕府へその詳しい経緯を通達した模様だ。
【注④。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、土方久元(ひじかたひさもと[生]天保4(1833).10.6. 土佐[没]1918.11.4. 東京)は「明治期の政治家。伯爵。土佐藩士土方久用の子で通称楠左衛門。号は泰山。文久1 (1861) 年武市瑞山の誓書盟約に加わって尊皇攘夷運動を行ない,同3年8月 18日の政変以後,七卿に随行して西下し,三条実美の信を得た。さらに倒幕運動にも参加し,中岡慎太郎とともに薩長連合実現へ大きく貢献した。明治維新以後,江戸府判事,東京府判事を経て,明治4 (1871) 年には太政官になり,1877年には一等侍補,さらに内務大輔,内閣書記官長,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣,宮内大臣,枢密顧問官を歴任。その後,帝室制度取調局総裁,臨時帝室編修局総裁として修史事業に尽力,また國學院大學学長,東京女学館館長をも兼ねた。」】
一 尾州公(尾張藩主・徳川慶勝。注⑤)より、このたびの長州征伐の件は不相当だという申し立てがあったようだ。その理由は、これまで(長州藩は)悔悟し、重ねてお詫びを申し上げ、謹慎しているので、このうえ今、将軍が征伐に乗り出すというのは(よろしくない)。その罪が天下にあまねく知られ、天下の人心が罰すべきだと言い、そのうえではじめて(征伐に)向かいなされてこそ、天下を治めることができる。今度のご処置はそうではない。かえって天下の大事を醸成することになり、後に無益なことをしたと悔やむことになるなどと云々したとのこと。
【注⑤。改訂新版 世界大百科事典 によると、徳川慶勝 (とくがわよしかつ。生没年:1824-83(文政7-明治16))は「幕末・維新期の大名。尾張藩14代藩主,のち再家督して17代藩主。支藩の美濃高須藩主松平義建(よしたつ)の第2子として江戸に生まれる。初名は義恕(よしくみ),のちに慶恕,慶勝。1849年(嘉永2)に宗家を継いで,藩政改革に実効をあげた。日米通商航海条約の調印をめぐっては鎖国攘夷を唱え,将軍継嗣問題では一橋派にくみし,徳川慶福(よしとみ)(家茂)を推す井伊直弼派と対立した。このため,58年(安政5)隠居謹慎を命ぜられ,家督を弟茂徳(もちなが)に譲った。62年(文久2)罪を許され,16代藩主義宜(よしのり)の後見として藩政の実権を掌中にするとともに,公武合体運動にも重きをなした。64年(元治1)の長州征伐には征長総督として広島に赴き寛大の処置をとったが,つづく再征には出兵を拒否して幕府不信を表明した。67年(慶応3)新政府議定職。70年(明治3)名古屋藩知事となる。諡(おくりな)は文公。執筆者:松田 憲治」】
一 備前侯(岡山藩主・池田茂政。注⑥)が大いに振れる(※右往左往するという意味か)。どうしても将軍が西行するとなったら、岡山においてあくまでお止めしようと申し出るつもりだが、万一長州藩と同一の嫌疑を受けるかも知れず、万事覚悟するよう布告され、三都(江戸、京都、大坂)の藩邸に詰める家臣たちへも内々の心構えをするよう通達があった模様だ。
【注⑥。朝日日本歴史人物事典によると、池田茂政(いけだ・もちまさ。没年:明治32.12.12(1899)生年:天保10.10.11(1839.11.16))は「幕末の岡山藩主。父は水戸藩主徳川斉昭。江戸幕府第15代将軍徳川慶喜と浜田藩主松平武聡は実弟,鳥取藩主池田慶徳は実兄。幼名は九郎麿,雅号は楽山。文久3(1863)年池田慶政の養子となり,将軍徳川家茂の偏諱を賜わり茂政と改名した。藩政においては下級藩士の登用や近代的な軍備の整備に努めた。幕末の政局に際しては尊王攘夷の立場をとったが,朝幕間の板挟みとなって苦心した。攘夷親征の猶予を奏請する一方,長州征討には反対している。鳥羽・伏見の戦の勃発に際し引退して鴨方支藩(岡山県)藩主池田政詮(のち章政)を養子に迎えた。維新後,弾正台大弼を務め引退後は能楽復興に努めた。<参考文献>衣笠健雄『史談会速記録407 池田茂政公事歴』(長井純市)」】
一 先ごろ関東(幕府)が長州に容易ならざる企てがあると言ったのは、小笠原侯(小笠原長行。注⑦)よりの讒言から起こったということで、長州が不審感を抱き、(小笠原侯に対し)、そちらから拙国(長州)のことをさまざまに覇府(幕府)へ申し出たようであるが、ご返答によってはこちらにも考えがあると問いただしたとのこと。
【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、小笠原長行(おがさわら・ながみち。没年:明治24.1.22(1891)生年:文政5.5.11(1822.6.29))は「幕末の老中。唐津藩(佐賀県)藩主小笠原長昌の長子に生まれる。2歳で父を失い,他家から入った藩主のもとで部屋住となる。安政4(1857)年藩主長国の世子となり藩政指導に当たる。学識はつとに高名で,文久2(1862)年7月,徳川慶喜,松平慶永の幕政のもと世子の身分のまま奏者番,若年寄を経て老中格。翌年上洛,将軍徳川家茂のもと朝幕間の融和を図るが尊攘派の攻撃にあい失敗,江戸に帰る。5月決断してイギリスに生麦事件の償金を支払い,向山一履(黄村),水野忠徳らと兵約1500を率いて大坂に上陸,尊攘運動の抑圧を図るが朝廷の反発を招き,免職された。慶応1(1865)年9月老中格,次いで老中。翌2年長州処分執行のため広島に出張,小倉に渡り九州方面の征長軍指揮に当たるが,戦局は不利に進行,家茂死去の報を得て小倉を脱す。10月免職・謹慎。翌11月老中に復職。鳥羽・伏見の戦の後の明治1(1868)年2月,老中を辞職し世子の地位も放棄。江戸を脱走,奥羽越列藩同盟に加わり板倉勝静と共に参謀役。同盟崩壊後,箱館五稜郭に入る。翌2年4月戊辰戦争の最終段階,箱館戦争の最中,アメリカ船により帰京,潜伏。同5年姿を公にするが,その後も世間を絶って余生を送る。「俺の墓石には,声もなし香もなし色もあやもなしさらば此の世にのこす名もなし,とだけ刻んで,俗名も戒名もなしにして貰いたいなあ」と冗談を交えて遺言。子の長生は世間並みの墓石を作った。<参考文献>『小笠原壱岐守長行』(井上勲)」】
松平安芸守(広島藩主・浅野長訓。注⑧)へ。
毛利淡路(注⑨)・吉川監物(注⑩)の両人が従える家来たちが大坂着の際、「外供」(※よくわからないが、お供の者に外供と内供の二通りがあるらしい)の者は兵庫表(現在の神戸市)に、「内供」の者は西宮に残しておき、そこ(西宮)から淡路・監物の両人を召し連れていくように。両人が大坂まで同行させたいと申し出る家来がいたら、その者らの姓名を記した文書を差し出させ、淡路・監物と同様に召し連れるように。両所(兵庫表と西宮)に残した家来の滞留中、それぞれ食事を提供する手筈になっている。もっとも、猥りに他出はもちろん、諸事を慎み、慇懃にお沙汰を待つよう通達されたい。
右の内容を旅中護送の家来へ通達し、取り締まりに支障がないようにされたい。
右の御同人(松平安芸守)へ。
毛利淡路・吉川監物の旅宿の件は、生玉中寺町(現天王寺)の円通寺へ手配しておいたので、両人が大坂に着いたら、同寺に召し連れ、警衛するように。右の旅宿の取り締まりのため、御目付支配ならびに大坂奉行組与力・同心に昼夜詰め切りにさせるので、諸事を問い合わせ、取り締まりに支障がないよう内外の心構えをされたい。もっとも、両人の在坂中はすべて食事を提供するので、それを伝えるように。詳しいことは、(将軍の)御進発係の大目付・御目付に問い合わせていもらいたい。毛利淡路・吉川監物の大坂行きの件はかねて通達しておいたが、もし病気等でどうしても難しい場合は、毛利左京(毛利元周。注⑪)・毛利讃岐(注⑫)ならびに大膳家老(長州藩主・毛利敬親の家老)のなかで話し合って、来る九月二十七日に大坂表へ出頭するよう、そのほうより通達されたい。
八月十九日
芸州侯(広島藩主・浅野長訓)へ幕府よりの御下知(命令)
【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、浅野長訓(あさの-ながみち1812-1872)は「幕末の大名。文化9年7月29日生まれ。浅野重晟(しげあきら)の孫。安芸(あき)広島藩支藩の新田藩主浅野家5代をついだが,安政5年本藩を相続,広島藩主浅野家11代となる。辻維岳(いがく)らを登用して藩政改革を推進。両度の幕長戦争で和議調停につとめ,大政奉還にも尽力した。明治5年7月26日死去。61歳。前名は茂長。名は「ながくに」ともよむ。」】
【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利元蕃(もうり-もとみつ1816-1884)は「江戸後期-明治時代の大名。文化13年7月25日生まれ。毛利広鎮(ひろしげ)の7男。天保(てんぽう)8年(1837)周防(すおう)(山口県)徳山藩主毛利家9代となる。幕末には宗家の萩藩に協力し,幕長戦争などに出兵。明治4年廃藩置県にさきだち,藩地を宗家に返還して隠居した。明治17年7月22日死去。69歳。」】
【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、吉川経幹(没年:慶応3.3.20(1867.4.24)生年:文政12.9.3(1829.9.30)幕末の長州(萩)藩の支藩,岩国藩主。「つねもと」とも読む。通称,亀之進,監物。弘化1(1844)年家督を継ぐ。文久2(1862)年長州本藩が尊王攘夷の藩是を決めてから,藩初以来疎隔していた関係が修復され,毛利敬親の名代として上京した。文久3年の8月18日の政変により本藩が京都から追われるとき,7人の公卿を護衛して帰藩した(七卿落ち)。翌年の禁門の変後,本藩に恭順を説き,広島の幕府軍のもとに赴き,謝罪を周旋した。慶応2(1866)年の幕長戦争には,本藩と共に広島口で戦い,翌年3月に病死した。死の公表は,明治2(1869)年。<参考文献>日本史籍協会『吉川経幹周旋記』(井上勝生)]】
【注⑪。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利元周(もうり-もとちか1827-1868)は「幕末の大名。文政10年11月9日生まれ。毛利元寛の子。叔父毛利元運(もとゆき)の養子。嘉永(かえい)5年(1852)長門(ながと)(山口県)府中藩主毛利家13代となる。四国艦隊下関砲撃事件,幕長戦争などで宗家を補佐した。慶応4年5月7日死去。42歳。」】
【注⑫。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利元純(もうり-もとずみ1832-1875)は「幕末の大名。天保(てんぽう)3年11月6日生まれ。豊後(ぶんご)(大分県)日出(ひじ)藩主木下俊敦(としあつ)の4男。急死した毛利元承(もとつぐ)の養子となり,嘉永(かえい)3年(1850)長門(ながと)(山口県)清末藩主毛利家8代となる。維新の動乱期に宗家の萩(はぎ)藩を補佐し,四国艦隊下関砲撃事件,幕長戦争などに出陣した。明治8年3月12日死去。44歳。」】
[参考]
一 八月十八日、豊後守殿(阿部正外。注⑬)がお渡しになった文書は次の通り。
松平安芸守へ
毛利淡路・吉川監物の出坂(大坂行き)の件はかねて通達しておいたが、もし病気でどうしても行くのが難しい場合は毛利左京・毛利讃岐ならびに大膳家老どものうちで話し合って、来る九月二十七日までに大坂表へ出てくるよう、その方より伝えられたい。
右の通り、松平安芸守へ通達したので、芸州(安芸。現在の広島県の西半分)より大坂までの道中筋に領分・知行のある面々は警衛のための人員を出すよう伝えられたい。
右の通り、大目付へ通達した。
【注⑬。日本歴史人物事典によると、阿部正外(あべ・まさと。没年:明治20.4.20(1887)生年:文政11.1.1(1828.2.15))は「幕末の老中。幕臣阿部正蔵の次男に生まれる。禁裏付,神奈川奉行,外国奉行を経て町奉行。元治1(1864)年3月,宗家阿部正耆の養子に入り白河10万石の藩主となり,同年6月老中に就任,幕府内強硬派を代表した。慶応1(1865)年2月,本荘宗秀と幕兵3000を率いて上洛,朝廷への管理強化を図ったが失敗。同年9月,英仏米蘭の外交団の要求を受け,兵庫の早期開港を幕議として決定,これを不満とした朝廷によって,官位剥奪,老中罷免,国許謹慎を命じられた。翌2年6月,幕命により城を棚倉に移され,藩主の座を子の正静に譲って蟄居。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加した。(井上勲)」】
[参考]
一 この月、大坂の風聞、次の通り。
同年八月十九日、二十日、二十一日、西方の空中に旗のような白雲が現れ、東北の空中に押し寄せ、中ごろに及んで(白雲は)数十の小旗に変わり、八方へ何十となく現れて揺れ動き、しばらく入れ違い、また端の白旗とともに東北の方へ空中を走り、しまいには上に消え去った。(この現象は)未ノ上刻(午後二時ごろ)より申ノ下刻(午後五時ごろ)に終わった。人々が海岸・川口に群集して見物した。珍事である云々。これは虚実がわからないけれど、先ずもって長州方の吉兆であろう。東北に走り消えたということは関東(幕府)の凶事である云々。
[参考]
一 この月、将軍家茂公の大坂滞陣の風聞、次の通り。
旗本で高持ち(禄高の多いこと)のお方はみんな妾を召し抱えておられる。小高(禄高の少ない)御家人方は遊女町に通われ、遊女は大繁盛している。小高の旗本の家来は一人につき一日に白米四合、銭四百文ずつ旅宿ヘ支給されるが、不足している。(幕府陸軍の)歩兵組数万人へは白米四合ばかりとなっているが、ほかに手当てが一切ないので、(彼らは)往来の掃除の日雇いをしている。歩兵は田舎者だから一升は食べるので、小遣いはなく、大いに窮迫している。そのため近くの村へ強談判し、二十人、三十人ずつ鉄砲を持ってやってきて脅すので、人々は恐怖している。そこへ空砲が連発されるので、暴行を恐れて金を出す。京都から来た歩兵がそれと入れ替えになったが、やはり白米四合のほか一銭も手当てがなく、遠からず以前と同じようになると、人々は恐怖で身をすくませている。
(大坂の)近国の大名方の家中の者は、高松侯より始まり、次いで紀州侯の家中が、国許から妻子が見物のために出坂、みんなが(主人と)同宿した。今は近国の諸藩は残らず妻妾を呼び寄せているとのこと。遊女町へお目付役が見回りに行ったが、このごろは遊女買いの仲間に入ったとのこと。
[高行が言う]この風説のようであれば、長州追討は所詮できまい。万一長州が討ち滅ぼされたとしても、これより天下大乱、恐るべきは異国人の侵略である。ああ。
九月
[参考]
一 この月十七日、(幕府が)異国側と面会したとのこと。
豊後守殿が面談した旨、(面談の詳しいことは後で)告げ知らせるという。在京中につき、来る二十一日までと言い、それまでに済むとのこと。(※文脈がうまくつかめないので原文を引用しておく。「是月十七日、異国ヘ応接有之候由、/豊後守殿面談致シ候旨、委細可申聞ト申事ニ付、在京中ニ付、来二十一日迄ト申、夫迄ニテ相済候由」)
[参考]
一 同月十八日、京都所司代松平越中守(注⑭)より御所へ届け書、次の通り。
攝海(大阪湾)の兵庫表に今般夷船九艘が碇泊し、うち一艘が大坂表に乗り込みましたが、速やかに退帆するよう処置すべき旨を年寄りどもより申し聞かせました。当節柄のことなので、一応御心得のためにご連絡申し上げます。以上。
九月十八日 松平越中守(注⑭)
【注⑭。朝日日本歴史人物事典によると、松平定敬(まつだいら・さだあき没年:明治41.7.21(1908)生年:弘化3.12.2(1847.1.18))は「幕末維新期の桑名藩(三重県)藩主,京都所司代。通称鎮之助,晴山と号した。父は美濃国(岐阜県)高須城主松平義建。尾張(名古屋)藩主徳川慶勝,会津藩(福島県)藩主松平容保の弟。安政6(1859)年桑名藩主松平猷の養子となり家督を相続した。元治1(1864)年京都所司代に就任し,一橋慶喜,松平容保と共にいわゆる一会桑政権の一翼を担い,京都の治安維持および朝幕間の周旋に努めた。慶応2(1866)年8月から9月にかけての同政権崩壊後は兄容保と袂を分かち,終始一貫慶喜と行動を共にする。明治1(1868)年の鳥羽・伏見の戦ののち,大坂を逃れて江戸城に入り,主戦論を唱えた。のち東北を経て箱館に渡り,五稜郭で政府軍に抵抗したため,翌年津藩に永預となり,同5年1月になってようやく許された。なお会津藩士手代木直右衛門によれば,坂本竜馬暗殺犯とされる京都見廻組与頭佐々木只三郎に暗殺を指令したのは定敬だという。<参考文献>「酒井孫八郎日記」(『維新日乗纂輯』4巻)(家近良樹)」】
(続。今回も難渋しました。誤訳がたくさんあるかもしれませんが、ご容赦を。高行が何気なく日記に書き留めた風説が時代の雰囲気をよく伝えているなと思いました)