わき道をゆく第243回 現代語訳・保古飛呂比 その67

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[参考]

一 記録抄出に(次の通り)。この十七日、異国船九艘が兵庫港(神戸港)へ来て、大坂表へ行くとのこと。いつ(大坂に)乗り入れるかもわからないと「御名代」(※誰を指すのか不明)まで演説された。昨日、安治川(淀川の最下流区間)の川口に碇泊したようすだと、またまたお達しがあった。

 つねづね横浜の夷人が言っているのは、兵庫開港のことそのほかの要望について一向に幕府の詮議が済まず、本国より言ってきていることもあって、どうしても浪花に廻りたい。幸いに将軍家も在坂しておられるので、直に談判しようとしており、関白殿下(二条斉敬。親幕派の公卿)にも拝顔すると言う。そこで、酒井飛騨守(注①)が応接しようとしたところ、(先方は)承諾せず、また水野和泉守(注②)も(交渉の場に)出ていったけれども、一向に会わなかったとのこと。是非とも浪花へ行くのは思いとどまってくれるよう申し入れたけれども、結局、この十三日に彼の地(横浜)を出発したとのこと。魯(ロシア)亞(アメリカ)英(イギリス)佛(フランス)の四カ国ということだ。英は例の暴論も唱えたが、佛は(幕府と夷人側の)間に立って日本の周旋もするとのことだ。いずれことが済まぬときは兵端を開くつもりだと、大いに兵威を示している様子だ。もっとも、このこと(兵端を開く覚悟)は秘して漏らさぬ姿勢だ。異国船に長州人が乗っているという説もあり、船の数は十九艘ということで、(先月)三十日に兵糧を積み込んだとのことである。

右は横浜探索書を一覧して記憶のまま写したもの。大同小異もあるかもしれないが、大要はこのとおりである。

九月十九日に記す。 藤本惇七(土佐西部勤王党の首領格・樋口眞吉の弟子で、大政奉還建白書の執筆者として知られる)

【注①。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、酒井忠□(田へんに比。さかいただます。[生]文化13(1816).6.20. 江戸[没]明治1(1868).2.12. 東京)は「江戸時代後期,第7代越前敦賀藩主。天保4 (1833) 年襲封,同 14年若年寄となり,老中安藤信正とともに外交上の難局にあたった。文久2 (62) 年6月罷免されたが翌年4月老中小笠原長行のもとで復職,同年7月再び罷免されたが,元治1 (64) 年7月復職。薩摩藩のイギリス接近を警戒し,また横浜でアメリカ,フランス,イギリス,オランダ各国公使と応接して下関事件取極書 (→四国艦隊下関砲撃事件 ) を締結した。のち老中水野忠精とともにフランス公使 L.ロッシュと製鉄所建設の議をまとめた。慶応3 (67) 年6月致仕,跡を子忠経が継いだ。」】

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、水野忠精(みずの-ただきよ1832-1884)は「江戸時代後期の大名。天保(てんぽう)3年11月25日生まれ。水野忠邦の長男。弘化(こうか)2年9月遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松藩主水野家2代,同年11月出羽(でわ)山形藩主水野家初代となる。5万石。寺社奉行,若年寄,老中をつとめた。明治17年5月8日死去。53歳。」】

[参考]

一 九月中旬、英佛亞魯四カ国[の八艘あるいは九艘が]下田より兵庫港へ来て、願い立てをする模様。当港(兵庫港)開港期限について、ちょうど将軍家(注③)も大坂城におられるので(直談判し)、かつまた口実をつけて上京し、関白殿下にも申し立てをしようという動きで、一段と事態が急迫した。将軍様は京都ヘお上がりになり、(天朝に)再三隠居の件を願い出られたが、京都(天朝)のお許しがなく、[脱字あり]必ず将軍職をお請けになる。

 右に関し、長防征伐は現在(幕府の)お沙汰がなく、異国船は関東へ告返「ママ。(おそらく引返の誤り)」したとのこと。

【注③。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、徳川家茂(とくがわいえもち。1846―1866)は「江戸幕府第14代将軍。紀州11代藩主徳川斉順(なりゆき)(将軍家斉の子)の長子。弘化(こうか)3年閏(うるう)5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福(よしとみ)と称す。12代藩主斉彊(なりかつ)(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)4歳で家督を継いだ。将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派の推す一橋慶喜(よしのぶ)に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。結局、1858年(安政5)慶福を推す南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したのち、継嗣と定まり、同年徳川家定(いえさだ)の死去により将軍職を継ぎ、家茂と改めた。桜田門外の変による井伊大老横死ののち、老中久世広周(くぜひろちか)、安藤信正(あんどうのぶまさ)らの画策により、1862年(文久2)孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)を夫人に迎え、公武合体による幕府権力の回復を計ったが、同年の島津久光(しまづひさみつ)の率兵(そっぺい)上京、久光と勅使大原重徳(おおはらしげとみ)の東下によって幕政改革を迫られ、慶喜を将軍後見職に、松平慶永(まつだいらよしなが)を政事総裁職に迎えた。翌1863年、慣例を破り、自ら上洛(じょうらく)、幕権回復を計ったが、朝廷は尊王攘夷(じょうい)派の勢力下にあり、攘夷祈願の賀茂社(かもしゃ)行幸に供奉(ぐぶ)させられた。しかし4月の石清水社(いわしみずしゃ)行幸には随行を固辞して東帰した。その後、八月十八日の政変によって公武合体派が勢力を回復し、1864年(元治1)再度上洛した。ついで、長州藩が、第一次長州征伐ののちにふたたび抗戦の構えをみせたため、第二次の長州征伐となり、1865年(慶応1)三たびの上洛ののち、大坂城の征長軍本営に入った。翌年6月に開戦された長州藩との戦争に、幕軍敗戦の報が相次ぐうちに、7月20日、21歳で城中に病死した。法号昭徳院。[井上勝生]」】

[参考]

一 市村太左衛門の書簡の中に、次の記述がある。

 一 公方さまが長防の処置の件で、このほどお命じになった趣旨もあるので、天子さまのご機嫌うかがいのため、近々上洛するとおっしゃられ、今月十五日の六ツ時(午前六時ごろ)、お供の行列とともに上洛された。

 一 このたび筑州(筑前・筑後の国)の軍勢が(大坂方面に)やってくるという風説があるので、木津川を厳しく警衛するよう、十六日、お目付の赤松右京殿より指示があった。

 一 十六日、兵庫港へ異船九艘がやってきて、大坂の方へ向かうと言っているとのことを連絡してきたと、公辺(幕府)より知らせがあった。

 一 このたびの長防の情勢次第で(将軍が)軍勢の出動を命じられる件について、(我が藩が)加勢を命じられるため、国許において軍勢を配置しておくよう指示されたことを慎んで承りました。しかしながら、右の加勢などを差し出すことになれば、どういう配置の仕方にするのでしょうか。只今の大坂表の人員を差し出す場合、「各段於国許手賦仕候儀、御軍配ニヨリ心得方有之、且ツ山海相隔国柄、旁以人数繰出不而已、辯兼候儀ニ至申可」(※意味がよくわからないので、原文引用)。右のようなことをどう心得てしかるべきか、そのことを一応うかがっておきたく、お指図をいただきたく存じます。

九月

「御名内」(※意味不明)

野村友五郎

一 このたび相州の浦賀港へ英佛蘭三カ国の船が渡来して申し立てたのは、兵庫開港の件を至急処置するよう、もし遅れれば、幸い将軍が大坂滞在中なので、彼地(大坂)へ申し立てるということでした。そこで水野侯(老中の水野忠精)がいろいろ交渉しましたが、先方は承知せず、今月十三日に浦賀を出帆したとのことです。もっとも右の三カ国のうち、英艦が強く申し立て、佛蘭は(日本との)間を取り持つと聞いています。英船には長州人が乗り組んでいるとのこと。また兵庫開港のことは、大諸侯が異人の後押しをしているとも聞きます。この説は江戸の探索より言ってきたことなので、書いておきます。これについて愚考しますところでは、このたびの将軍上洛は、間違いなく当地も異船渡来の情報は入っておりますので、(将軍の)進発を口実にしてのことではないでしょうか。また十六日、兵庫へ来艦したのは間違いなく英佛蘭船と察しますが、そうである以上、対峙しようにもただいま米銭が乏しくて差し支えるというようなことで、ご詮議もされていると承っています。筑前人は、朝敵と名指しされているわけではないのに厳しく取り調べるというのは合点がいきません。

  九月

[参考]

一 九月中旬、大坂表の極秘風聞は次の通り。

 毛利淡路・吉川監物が病気を理由に出坂(大坂に出てくること)しなくなったので、その代わりに毛利左京・毛利讃岐・大膳家老たちの中から(誰かが)九月二十七日までに出坂するよう(幕府が)通達し、その後、諸方面にも言明した。もしまた同日までに(長州側が)出坂しなければ、ただちに軍勢を差し向けることになるので、銘々それぞれが用意していたけれども、毛利家より末家の家老どもはもちろん、家来の者どもは一人も出坂できなくなり、「聴與[もとのまま]」断ったとのこと。(幕府の)閣老たちは事前の思惑がはたと食い違い、どうにも手立てがなくなった。もともと(将軍には)親征の考えはまったくなかったのに、このように強硬に断られ、閣老衆の仲立ちもなくなったので、致し方なく、御所へ深く手入れをして、(将軍の)進発を上洛と名目替えした。(将軍は)大坂より直に上京し、長州のことは一橋公・尾州公に任せ、ひとまず還御(この場合は将軍が江戸に帰ることを指す)の命令を御所からいただき、さらに、一橋公を新将軍にするという宣下をたまわり、長州はじめ中国・四国筋を鎮静化するつもりのようだ。もっぱら(将軍の)取り巻きたちが奸謀をめぐらし、それぞれが思い思いに言い出している。

事態の沈静化は、攘夷の方針確立がなくては、どれほど骨折りしても、誠に鎮静には至りかねるだろう。このことはいたって難しいという風聞である。

一 九月二十七日、次の通り。

佐々木三四郞

 右の者、御郡奉行・普請奉行かつ附屬の役場をも仰せつけられる。これにより外輪物頭格を仰せつけられ、役領知百三十石を支給される。万端入念に勤めるよう(太守さまは)仰せである。(注④)

  九月二十七日

【注④。この人事について高行は『佐佐木老候昔日談』で次のように述べている。「九月二十七日になつて、自分は御郡奉行兼普請奉行に任じ、外輪物頭格に進められた。役領知は百三十石。政府も全く信用を失つて、人民を制馭するには、どうしても勤王側の人でなければいかぬのでツマリは自分等を登庸したのである。単に御郡奉行と云へば、三郡の事で、マア今の東京府知事の格だ。で、この御普請奉行を兼任するいふのは、もともとかういふ事から起つたのだ。この両役が、最初別々であつた時分は、職掌上喧嘩をしてならぬ。御普請奉行は、職務の方から道路も成るべく立派にし、堤防もまた成るべく完全しやうとする。が、これは國役であるから、其の負担は人民にかかつて来る。すると郡奉行は、民衆保護の上から反対を唱へる。之がうまく折合が付けば宜いが、さういかない場合が多い。互に我を張つて譲歩しない。仕方なく政府に持出して裁決を仰ぐのであるが、絶えずこの問題が起つて来るのでは、ウルサクて困る。また仕事は捗取らぬ。のみならず、これを根に持つて益々反目して、或時の如きは、互に自説を主張して遂に果合をしたことさへある。夫で政府でも、大に反省して、種々評議の上兼任させることにしたのだ。さうすれば別に争ひ様はない。普請奉行から郡奉行に交渉する事でもあると、自分から自分へやるのであるから、その人一個の量見で、どうとも事柄はすぐ解決する。例へば自分で云ふと、普請奉行佐々木三四郞・・・郡奉行佐々木三四郞殿ーーとやるので、一寸面白い感はあるが事の遅滞と、前の如き弊害は無い。

奉行の事といへば、この御普請奉行と、御山奉行とが能く喧嘩をする。御山方が木材を運搬するに、常に河流を利用する。夫も筏に組める處なれば格別の事はないが、小さな河になると、さう出来ぬから、一本づつ流す。尤も平水の時などは差支ないけれども、降雨の為に増水でもすると、夫が土手に突当つて破壊してならぬ。そこで御普請奉行が怒り出して、御山奉行に厳談を開いて、この一本流を禁じた。御山方は困つて仕舞ふが、致方がない。之に就ては面白い話がある。自分はもと御山奉行を勤めて、此度御普請奉行になると、御山奉行の方から一本流を許す様にと頼んで来た。夫で自分は『いや夫は御尤の事ではるが、自分が御山奉行の中なら、勿論其の方にしたいのであるが、御普請奉行になつた以上は、折角ではあるが、御話に応ずる事は出来ぬ』と謝絶した。すると御山奉行も、大分憤つたとかいふ話だ。

またこの御山奉行と御作事奉行が能く衝突する。御作事奉行は良材を採伐して、立派な建築をしやうとし、御山奉行は山林保護の為めに伐らせまいとして、絶えず争ふ。夫故これも兼任するすることにした。幡多郡はこの御山奉行と郡奉行が兼務であり、且つ貧郡である處からして、木材を濫伐し、また人民の採伐も黙過したので、幾程もなくして、禿山亢々として秀づる様になつた。

モ一ツこの郡奉行と免奉行とが喧嘩をする。免奉行とは、今日の税務署長で、租税徴収の役人だ。或は風雨等の為めに、作物に損害を蒙るとか、凶荒で収入が減ずるとかいうて、屡々人民の困難する場合が在る。けれども免奉行の方では、ソンナ事には頓着なしに、無理やりに取立てやうとする。郡奉行の方では、之を見て黙つては居ぬ。人民に同情を寄せて、是歳はコレコレの不幸があつたから情状を酌量したら宜からうとか、免税にした方が正当であるとか云うて、抗議を申込む。サアこれもなかなか形が付かない。遂に執政、参政、大目付の三役の方へ持出して、裁決を仰ぐ。

併しながら、この御郡奉行と御普請奉行の争は、種々入込んでは居るし、尤も猛烈であつたやうだ。のみならず、御普請奉行の方は兎角弊習があつて、異説の出易い地位だ。翌年三月、城下で第一の橋梁たる潮江橋架換の時などは、御仕置役と屡々激論を闘はして、漸くの事で見込通り架換へた。当時費用多端の際、何分省略論が多いし、自分も不急の土木などは起さぬ様にして居るが、此橋は長さ七拾五間余架換年度も過ぎて大分朽ちた處もあつて、危険でもあるし、橋梁の事はこの場合最も必要と感じたから、地位を賭して遂にこの目的を達したのだ。費用も随分多額に上つたが、人民からは別に異説も出なかつた。】

[参考]

一 九月二十八日、大坂表を出発した飛脚が十月六日に着いた。その内容は次の通り。[記録抄出]

 一 先ごろ兵庫沖に碇泊した夷船が今日、安治川口に上陸した。このたびは異人が何か難しいことを申し出て、そのままでは帰らぬと言っている

 一 長州征伐はいよいよ十月二日に先陣が出発、八番手までが出発を命じられた。かつまた一昨日の二十六日夜、一橋公が早馬で京都より徹夜で下坂(京都から大坂に下ること)され、昨日登城され、即刻京都ヘお帰りになった。尾州玄同公(注⑤)は昨夜京都を発たれたが、橋元より引き返し、今日まで枚方宿に滞留されている。会津公も京都より下坂され、まず荷物は伏見まで来たが、これまた引き返され、幕府上層部は大いに混雑の模様。それなのに異船に長防の人が乗り込んでいるという風聞があり、市中が騒がしくなっているところへ、またまた兵庫表で異人とこのたび大口論が出来したという知らせが入り、いまだ鎮静化していないなどと種々の申し出があり大心配しています。まずはこのことを申し上げたく、この通りであります。以上。

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、徳川茂徳(とくがわ・もちなが。没年:明治17.3.6(1884)生年:天保2.5.2(1831.6.11))は「幕末の尾張(名古屋)藩主,一橋家当主。父は高須藩(岐阜県)藩主松平義建,兄に徳川慶勝,弟に松平容保,松平定敬がいる。安政5(1858)年7月慶勝が謹慎・隠居の処分を受けた後,尾張藩主となり藩論を佐幕の方向に導くが成功せず,文久3(1863)年8月隠居。以来将軍徳川家茂の側近にあって徳川慶喜と対抗した。慶応2(1866)年12月一橋家当主となり,慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦ののち徳川宗家の救済に力を尽くした。(井上勲)」】

一 九月二十九日、左記の通り。

 貴殿を当組に入れ、松井次平の次の座列に入れると御目付役より言ってきたので、その旨を心得、「分限差出」(※よくわからないのだが、身分や役職などに関する書類か)を急いで準備し、提出されたい。以上。

 九月二十九日  山内壱岐

 佐々木三四郞殿

一 九月二十九日、左記の通り。

そこもとは山内壱岐殿の組に入ったので、それについて前後の組頭へもお達しされることになる。以上。

 同二十九日   神山左多衛 西野彦四郎

 佐々木三四郞殿

[参考]

一 同二十九日、藤本氏よりある人への手紙。左記の通り。

 異船はいまもって兵庫に止まっており、応接のため小笠原壱岐守(老中格の小笠原長行)・赤松右京の両人が来ているようです。異人はますます跋扈していて、実に憎むべきことと存じます。警固場所があるので、万一異人が上陸した際の対処の仕方をうかがったところ、もし夷人が上陸のときは町奉行所の外へ公儀の役人が出張し、その時その時付き添うので、夷人側から申し入れがあれば、異議なく通すようにとの指示がありました。警衛対象は長防だけのこととなり、異人はお構いなしとのこと。一笑に堪えかねません。将軍様は二十一日に参内され、別紙の通りの言上をされ、その内容が知らされたので、ご覧に入れます。もっとも(将軍は)二十三日に下坂され、もはや長州へ出陣の模様です。異人の処置もまた一通りでないことでどうなることかと存じます。いずれも事態が切迫している時に飛脚を立てましたので、右ばかり早々。

 九月二十九日  藤本惇七

[別紙]

 長防の処置については、かねて上奏しましたとおり、条理順序に従い、不審点をとくと糺問のうえ、それぞれ処置し、毛利淡路・監物に大坂表に早く来るよう通達しましたが、(彼らは)登坂(大坂に登ってくること)を延期しました。そのため、もし両人が差し支えるならば、毛利末家ならびに大膳家老どもの中の(誰かが)当月二十七日までに間違いなく登坂するよう、重ねて通達しましたが、いまもって登坂せず、このうえ違背に及んだら、最早寛大な取り計らいも難しくなりますので、仕方なく軍勢を進め、罪状を糺すしかないと存じます。もっと兵機緩急そのほかをとくと熟考のうえ、間違いがないよう処置したいと存じます。このことを上奏いたします。

 九月

 御諱(注⑥)

 言上の内容を(天子が)お聞き入れになり、(将軍に)お暇を与えられた。なお長州の一件が済んだら、御用があるので、早速上京するようかねてお命じになっておられる。以上。

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 木津川の警衛所ではこのたび異人が上陸しても不審尋問をするに及ばない。「公辺ヨリ被差備、御方ヨリ断出候ハバ」(※公儀を通じて先方から断りがあれば、というような意味と思われるが、自信がないので原文引用)、通行させるよう命令があった。よって、警固の内容は長州人に対しての警衛ということになった。異船渡来の際は、「御町」(町会所のことか?)より「御名代」(?)が知らせ、長防人の上坂(大坂に上がってくること)に対する守りの時は、お目付より御留守居役を呼び立てて知らせる。

【注⑥。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、 諱(いみな)は「本名・実名(じつみょう)のことだが,とくに生前の名をその死後に人々がいう場合の名をさす。もともと,死後はその人の実名を忌んで口にしなかったことから,この呼称が生じたとされる。のちにはそうした区別がなくなり,生前においても実名のことを諱とよんだ。また,貴人などの実名は口にするのもはばかられたため,その実名を敬称して諱とよぶこともあった。「偏諱(へんき)を賜う」といういい方もこれにもとづいたもので,特別なことがないかぎり貴人の実名を他に用いることは避けられた。死後にその人をたたえてつけられる称号・諡(おくりな)のことをさして,「のちのいみな」ともいう。」】

(続。今回はいつにもまして難解な記述が多く、作業が捗りませんでした。自分の無知無力に歯ぎしりする思いです。誤訳だらけだと思いますが、ご勘弁を)