わき道をゆく第244回 現代語訳・保古飛呂比 その68

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十月

一 この月三日、(土佐藩の)探索役・野崎糺が早追い(注①)で大坂を発ち、同九日、国許に着いた。異国船渡来による上方表(京都・大坂方面)の騒動についての報告。あらましの話は左記の通り。

このたび兵庫へやってきた異国船は、去る酉年(文久元年)、江戸表で、兵庫開港の件を願い立てした。その際、(幕府は)当地だけでは詮議が済まず、京都ヘうかがい、その上で返答するので五年間待ってほしいと答えた。(そのため異国船側が)今年で五カ年が過ぎたので、是非開港を許していただきたいと願い出たものである。このため(幕府で)いろいろ評議したが、小笠原摂津守(兵庫奉行を勤めた小笠原広業のことか)さまの意見では、結局のところ、ありのままを答えるより仕方がないと。そのわけは、先年答えた開港の件は、まったく京都(朝廷)をはじめ将軍家にもうかがっておらず、我々の考えで答えておいたが、いまさらそういうことを言いにくい。特にこれまで和親交易などについては、諸国の大名も止める事ができず、すでに内乱にも及ぶような事態で、根本的な和親に至った場合、和親の意義を失う形にもなりそうなので、この意味で、閣老列座の上で(兵庫開港を)異国船側に断るべきだと(小笠原摂津守は)しきりに主張した。しかし、阿部侯(老中の阿部正外。注②)をはじめ一同は承知せず、(小笠原摂津守の意見は)採用されなかった。そうして、何しろ開港を許すべきだということになり、このうえは京都(朝廷)にうかがわずに返答をして、万一強いて開港を許した事が(天子の)逆鱗にふれたら、将軍職を拝辞なさるべきだということで評議が一決した。もっとも一橋公が上京しておられるので、いちおう伝えておこうということになった。(一橋公は)もし、そのようななことになったら、天朝・将軍家に対してよろしくないので、至急評議をされたいと言って、下坂された。そして、(異国船側と)応接せずに帰ってくるよう役人を引き戻し、いろいろ御評議があった。一橋公からは何しろ開港を許す事はできないと、たってのお言葉があったが、将軍様は受け入れられなかった。(それでも一橋公からは)強いて諫言があったが、(将軍家は)「そうであるならそなたが我らに替わり将軍職に就いたらいい。我らは隠居し、関東へ引き下がろう」と言って、そのまま京都に登り、辞任の届けを出して、伏見まで下られた。そうしたところ、会津侯がいろいろ周旋し、あえて諫言を申し上げたので、(将軍は)とりあえず伏見に滞留されている模様。こうした経緯で、すべて大もめとなり、まず征長(長州征伐)などのことは関心の対象外になっているとのこと。このたびのことについて、会津侯はとりわけ奮発され、実に関東第一の忠臣と諸藩は評しているとのこと。

【注①。精選版 日本国語大辞典によると、早追(はや‐おい)は「 江戸時代、急使を馬や駕籠に乗せて昼夜兼行で伝送すること。また、その馬や駕籠。中世には急使を送る際は、駅使・早馬という騎馬によったが、のち駕籠に替わった。通常、正・副使の二人を、駕籠舁四人が最大速力で次宿に継ぎ送ったが、江戸・京都間は約一〇〇時間かかったという。早打(はやうち)。はや。」】

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、阿部正外(あべ・まさと。没年:明治20.4.20(1887)生年:文政11.1.1(1828.2.15))は「幕末の老中。幕臣阿部正蔵の次男に生まれる。禁裏付,神奈川奉行,外国奉行を経て町奉行。元治1(1864)年3月,宗家阿部正耆の養子に入り白河10万石の藩主となり,同年6月老中に就任,幕府内強硬派を代表した。慶応1(1865)年2月,本荘宗秀と幕兵3000を率いて上洛,朝廷への管理強化を図ったが失敗。同年9月,英仏米蘭の外交団の要求を受け,兵庫の早期開港を幕議として決定,これを不満とした朝廷によって,官位剥奪,老中罷免,国許謹慎を命じられた。翌2年6月,幕命により城を棚倉に移され,藩主の座を子の正静に譲って蟄居。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加した。(井上勲)」】

(高行の所感)筆者の野崎糺は佐幕家で、当時藩庁より京攝[脱字があるようだ]では會津・桑名両藩と交際しているので、本当の事であろう。要路の佐幕家は一時心を痛めたようであったが、やがて平穏に帰したと見え、安心したとのことだ。しかしながら、どうなるか分からない。

右のとおりで、詳しい事は局外の者には知られなかった。維新の後は追々聞いたこともあったが、明治二十五年の夏、日光で、竹内帯陵といって旧幕府の家臣で、将軍側近や大坂町奉行・大監察などを勤めた人に出会った際、同人の親族の朝倉播磨守という小納戸頭取を勤めた人の日記を借りて写した。右の野崎が帰藩して報告した探索内容の参考にするため、次に記す。[以下十二月十八日まで朝倉播磨守の日記]

一 九月十五日、将軍が大坂より上洛。

一 同十七日、将軍参内のはずのところ、御所に差し支えがあって延期。

一 今朝、天保山沖に異国船九艘が着いたとのこと。うち二艘が大坂へ乗り込んだとのこと。

一 同十八日、昨十七日に(幕府側が)異国人を応接したとのこと。「豊後守殿(老中・阿部正外)面談致シ候旨、委細可申聞ト申事ニ付、在京中ニ付、来二十一日迠ト申、夫レ迠ニテ相済候事」(※意味がよくわからないので原文そのまま引用)。

一 同二十一日、将軍が今朝参内された。

一 同二十三日、豊後守殿が昨夜、京都より到着。今日、(異国人)応接の場所に直ちにお出でになった。

一 伯耆守殿(老中の本庄宗秀。注③)のご指示。

今日二十三日、(将軍は)二條城を発たれ、伏見より淀川を下る船に乗られ、今晩、大坂城へお帰りになる。このことをお供方の一万石以上・以下の面々へ早々に知らせるように。なお、将軍をお迎えする場所は、先日出発された際の通りである。

【注③。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、本庄宗秀(ほんじょうむねひで。[生]文化6(1809)[没]1873.11.20.)は「東京江戸時代末期の丹後宮津の藩主。天保 11 (1840) 年襲封。藩政の立直しに努め,その後海防に尽力。万延1 (60) 年大坂城代,元治1 (64) 年老中となり,外国掛として兵庫開港延期交渉にあたった。慶応2 (66) 年第2次長州征伐に際し,先鋒総督徳川茂承と対立,召還されて蟄居を命じられた。維新後教部省に出仕。」】

一 (将軍の)ご帰還の知らせは次の通りとお目付が報告してきた。

一 備前島(大坂城の北側、淀川に浮かぶ小島)の上がり場(船から上陸するところ)に着船。

一 「京橋御先」(※御先は先払いのこと。京橋は大坂城の北の玄関口)

五ツ時(午前八時ごろ)一寸廻り(注④)、(将軍が)備前島に着船。五ツ時二寸廻り、「京橋御先御注進申入、右ニ付」(?)、老中衆だけが出迎えに引き続き出られ、五ツ時五寸廻り、(大坂城に将軍が)帰還された。

一 お駕籠

先導役は伯耆守殿、お側衆の代わりは播磨守。

【注④。江戸時代の時刻の数え方について、福井県文書館のレファレンス事例詳細から引用させてもらう。「江戸時代の時計は一般的に和時計と呼ばれており、その中に尺時計というものがある。これは時刻の目盛盤がものさしに似ているところから、1辰刻を1尺あるいは2尺と表現しその細分時刻を寸、あるいは分と呼んでいた。一辰刻が二尺の場合、一寸が現在の約6分、一分が現在の約36秒となる。夜明けが明六つ時、日暮れが暮六つ時、そして暁九つ時あたりが現在の午後12時となる。一辰刻が一尺の場合、一寸が現在の約12分、一分が現在の約72秒となる。半時ごとの時刻を基準に二寸五分で経過時間(廻)と残り時間(前)の表記が変わる。夜明けが明六つ時、日暮れが暮六つ時、暁九つ時あたりが現在の午後12時となるのは一辰刻が二尺の場合と同じ。」】

一 九月二十六日、今朝の明け方、一橋さまが下坂され、五ツ時ごろ登城された。朝の御膳を用意して、お出しした。

一橋さまは、このたびはすぐ今日のうち上洛の予定で下坂されたが、明後日まで(大坂に)滞在されることになり、御旅館云々。[下略]

一 豊後守殿が兵庫表より九ツ時(正午)ごろ(大坂城に)来られた。

今日も例の通り、御用部屋に入られ、大評議があった。今般(将軍の)ご意向で、昨今格別に心配りをし、骨折った者へ御酒・御肴を与えるようご命令があった。

御用部屋の者は残らず、「御側」(将軍側近の御側衆のことか)格式まで、大目付・勘定奉行・同吟味役・町奉行・お目付等へ下された。御右筆(文書・記録の作成係)の組頭にお菓子一折り(折り箱一つ)ずつ下された。

一 九月二十七日、玄同さま(前尾張藩主・徳川茂徳)・壱岐守殿(老中格の小笠原長行。注⑤)が上京され、一橋さま・紀州さまが登城された。

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、小笠原長行(おがさわら・ながみち。没年:明治24.1.22(1891)生年:文政5.5.11(1822.6.29))は「幕末の老中。唐津藩(佐賀県)藩主小笠原長昌の長子に生まれる。2歳で父を失い,他家から入った藩主のもとで部屋住となる。安政4(1857)年藩主長国の世子となり藩政指導に当たる。学識はつとに高名で,文久2(1862)年7月,徳川慶喜,松平慶永の幕政のもと世子の身分のまま奏者番,若年寄を経て老中格。翌年上洛,将軍徳川家茂のもと朝幕間の融和を図るが尊攘派の攻撃にあい失敗,江戸に帰る。5月決断してイギリスに生麦事件の償金を支払い,向山一履(黄村),水野忠徳らと兵約1500を率いて大坂に上陸,尊攘運動の抑圧を図るが朝廷の反発を招き,免職された。慶応1(1865)年9月老中格,次いで老中。翌2年長州処分執行のため広島に出張,小倉に渡り九州方面の征長軍指揮に当たるが,戦局は不利に進行,家茂死去の報を得て小倉を脱す。10月免職・謹慎。翌11月老中に復職。鳥羽・伏見の戦の後の明治1(1868)年2月,老中を辞職し世子の地位も放棄。江戸を脱走,奥羽越列藩同盟に加わり板倉勝静と共に参謀役。同盟崩壊後,箱館五稜郭に入る。翌2年4月戊辰戦争の最終段階,箱館戦争の最中,アメリカ船により帰京,潜伏。同5年姿を公にするが,その後も世間を絶って余生を送る。「俺の墓石には,声もなし香もなし色もあやもなしさらば此の世にのこす名もなし,とだけ刻んで,俗名も戒名もなしにして貰いたいなあ」と冗談を交えて遺言。子の長生は世間並みの墓石を作った。<参考文献>『小笠原壱岐守長行』(井上勲)」】

一 立花出雲守(注⑥)殿が今朝、兵庫表より戻って登城された。

【注⑥。朝日日本歴史人物事典によると、立花種恭(没年:明治38.1.30(1905)生年:天保7.2.28(1836.4.13))は「幕末の奥州下手渡藩(福島県)藩主,幕府官僚。嘉永2(1849)年藩主となる。大番頭を経て文久3(1863)年若年寄に上り,明治1(1868)年1月老中格,会計総裁となるが,徳川家の組織縮小に伴い罷免され同3月帰藩。次いで閏4月上洛。藩領の半分は筑後三池(福岡県)にあって,下手渡の藩士は奥羽越列藩同盟に参加,三池の藩士は新政府傘下にあり,藩は分裂。同年8月奥羽鎮撫の朝命を受けるが,これが同盟離脱とみなされ,仙台藩兵の攻撃で下手渡陣屋が焼失。翌9月三池に移る。明治2年三池藩知事。廃藩置県に伴い東京に移住。同10年華族学校(学習院)の初代校長。以来,宮内省用掛,貴族院議員などを歴任した。(井上勲)」】

一 一橋さまが今日、急に上京された。

一 同二十九日、紀州さま・玄同さま、御年寄衆(老中衆)が登城された。

一 玄同さま・壱岐守殿が昨日、京都よりお出でになり、「御跡ヨリ追廻出」(※意味不明のため原文引用」、夕方、船でお戻りになった。

一 京都の一橋さまから書簡が来た。それから(将軍)上洛の有無をめぐって大評議が始まった。

一 今夜は(将軍の)退出がなく、夜になった。

一 十月一日、豊後守殿・伊豆守殿(注⑦)が御役御免になり、御用部屋閑居職になった。

【注⑦。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、松前崇広(まつまえたかひろ。1829―1866)は「江戸後期、幕末の松前藩主。第9代藩主松前章広(あきひろ)の第6子。文政(ぶんせい)12年11月15日生まれ。幼名を盈之助(えいのすけ)、ついで為吉(ためきち)と称し、襲封後崇広(たかひろ)と改めた。1849年(嘉永2)藩主昌広(まさひろ)の致仕により襲封したが、同年幕府より特旨をもって城主に列せられ、新城の築城を命ぜられた。新城は1854年(安政1)に完成、福山城と称した。しかし、箱館(はこだて)開港に伴い翌1855年、城付地以外の旧領地の大部分が幕領となり、替地として陸奥(むつ)国伊達(だて)郡梁川(やながわ)(福島県)、出羽(でわ)国村山郡東根(ひがしね)(山形県)に計3万石が宛行(あておこな)われた。1863年(文久3)幕府の寺社奉行(ぶぎょう)に任ぜられ、まもなく辞したが、翌1864年(元治1)7月老中格、海陸軍総奉行(翌年海陸軍総裁)となり11月老中に任ぜられた。以後、幕権拡張論者の老中阿部正外(あべまさと)と行動をともにし、1865年(慶応1)兵庫開港問題で阿部とともに勅旨によって罷免され、翌慶応(けいおう)2年帰藩し4月25日松前で没した。[榎森 進]『『新撰北海道史 第2巻 通説1』(1937・北海道庁)』▽『金井圓・村井益男編『新編物語藩史 第1巻』(1975・新人物往来社)』」】

一 同二日、夕七ツ時(午後四時)ごろ、次のように命じられた。

今日、一万石以上以下の者ども、一役一人ずつ、「以達御書付渡リ伯耆守殿」(※意味がよく分からないので原文そのまま引用)

御側衆・奥向きへ

昨今、内外の問題が多い折から、

宸襟(天子の心中)を安んじることができない事情もあり、(将軍は)その職掌において御痛心のあまり、胸痛・鬱閉(ふさぎこむこと)になっておられる。ついては一橋中納言殿(慶喜のこと)が長いこと京都におられ、それぞれの事務にも通じておられるので、中納言殿に(将軍職を)相続させ、政務を譲りたいと御所へ願い出られた。このことを(将軍の)内意として伝えるようにとのお沙汰があった。

一 同二日、夕七ツ時過ぎ、次のように命じられた。

明日の三日、六ツ半時(午前七時ごろ)、(将軍は)お供の行列とともに伏見へ行かれ、そこでお泊まりになり、それより東海道を通って江戸表に帰られる。

一 十月三日、今日の六ツ半時にお供の行列と共に伏見に行かれる予定だったが、だんだん出発が遅れ、四ツ半(午前十一時)ごろ、大坂を出発された。お駕籠で陸を通り、橋元で小休止。八ツ時(午後二時)ごろになり、同所で少々「御駕籠気ニ付」(?)、猶予があって同所を出発。二度の小休止を経て、伏見の御役宅へ四日明け方の六ツ時(午前六時ごろ)すぎ到着された。ほどなく、すぐさま御供の行列を組んで二条城へ行くと命じられ、八ツ半時(午後三時)ごろ出発、六ツ時(午後六時ごろ)二条城へ着かれた。(家来は)残らずお供に召し連れられ、大坂へ残ったのは、

老中 伯耆守殿。

若年寄 増山対馬守殿。

一 周防守殿(老中・板倉勝静。注⑧)のご指示

今般(将軍が江戸に)帰還されると昨日、発表されたが、京都(朝廷)に申し上げることもあるので、帰還の件は沙汰止みとなり、伏見に滞留されることになった。

この内容を諸方面へ早々に伝えられたい。

【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると、板倉勝静(いたくら・かつきよ。没年:明治22.4.6(1889)生年:文政6.1.4(1823.2.14))は「幕末の老中。父は桑名藩(三重県)藩主松平定永,天保13(1842)年備中国(岡山県)松山藩主板倉勝職の養子となり,嘉永2(1849)年襲封した。寛政の改革を行った老中松平定信は外祖父。号は松叟。藩政面では陽明学派の儒者山田方谷(藩校有終館学頭)を元締役兼吟味役に抜擢して財政再建,殖産興業,軍政改革などに努め,約10万両の負債を解消し,さらにほぼ同額の余財を生み出した。安政4(1857)年奏者番兼寺社奉行として安政の大獄の五手掛に任じられたが,寛大な処分を主張して大老井伊直弼と対立し,罷免された。文久1(1861)年復職し,翌年老中に任じられ生麦事件を処理,さらに将軍徳川家茂の上洛に随行し攘夷の勅命を奉承し,横浜鎖港談判に当たった。元治1(1864)年老中を退職したが,慶応1(1865)年再任され,第2次長州征討に際し寛典論を主張した。将軍家茂没後,一橋慶喜の将軍就任を推進する。その後慶喜の幕府強化策により新設された会計総裁に任じられ,幕政改革に尽力した。慶応3年10月土佐前藩主山内豊信の大政奉還の建言を受けると,その実現に努めた。鳥羽・伏見の戦ののち,慶喜に従って江戸に帰り,老中を辞し世子勝全に家督を譲る。松山城は岡山藩の征討軍の前に無血開城した。日光で謹慎中に新政府軍により宇都宮に移されたが,大鳥圭介に救出され,奥羽越列藩同盟の参謀となり,さらに箱館五稜郭に転戦した。しかし,東京に戻り自首し禁錮に処せられたが,明治5(1872)年赦免され,上野東照宮祠官となった。<参考文献>田村栄太郎『板倉伊賀守』(長井純市)」】

一 十月三日、今日の明け方、伏見に入られ、それよりすぐお供の行列と共に、二条城へ夜六ツ時過ぎ、入られた。伏見で、玄同さま・一橋さま・松平肥後守(京都守護職の松平容保。注⑨)・松平越中守(京都所司代・松平定敬。注⑩)がお出迎え、それより京都ヘ行かれた。

【注⑨。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、松平容保(まつだいらかたもり。1835―1893)は「幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守(わかさのかみ)、肥後守となる。美濃国(みののくに)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建の六男に生まれ、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり、1852年(嘉永5)襲封した。公武合体論を唱え、1862年(文久2)の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、尊王攘夷(じょうい)運動が熾烈(しれつ)になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとった。1863年の八月十八日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩(さつま)藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図ったが、内部対立のために失敗した。1864年(元治1)、これを好機として禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)を起こした長州藩を、薩摩・桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と協力して条約勅許問題などで活躍したが、1867年(慶応3)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(ちゅうりく)の宣旨(せんじ)が出され、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり、東北・北越に兵を展開し、籠城(ろうじょう)のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預(ながあず)けの処分を受けた。1872年(明治5)許され、1880年には東照宮宮司となった。明治26年12月5日没。[井上勝生]『手代木勝任・柴太一朗述『松平容保公伝』(『会津藩庁記録』所収・1926・日本史籍協会/復刻版・1982・東京大学出版会)』▽『山川浩著、遠山茂樹校注『京都守護職始末』全2巻(平凡社・東洋文庫)』」】

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、松平定敬(まつだいら・さだあき。没年:明治41.7.21(1908)生年:弘化3.12.2(1847.1.18))は「幕末維新期の桑名藩(三重県)藩主,京都所司代。通称鎮之助,晴山と号した。父は美濃国(岐阜県)高須城主松平義建。尾張(名古屋)藩主徳川慶勝,会津藩(福島県)藩主松平容保の弟。安政6(1859)年桑名藩主松平猷の養子となり家督を相続した。元治1(1864)年京都所司代に就任し,一橋慶喜,松平容保と共にいわゆる一会桑政権の一翼を担い,京都の治安維持および朝幕間の周旋に努めた。慶応2(1866)年8月から9月にかけての同政権崩壊後は兄容保と袂を分かち,終始一貫慶喜と行動を共にする。明治1(1868)年の鳥羽・伏見の戦ののち,大坂を逃れて江戸城に入り,主戦論を唱えた。のち東北を経て箱館に渡り,五稜郭で政府軍に抵抗したため,翌年津藩に永預となり,同5年1月になってようやく許された。なお会津藩士手代木直右衛門によれば,坂本竜馬暗殺犯とされる京都見廻組与頭佐々木只三郎に暗殺を指令したのは定敬だという。<参考文献>「酒井孫八郎日記」(『維新日乗纂輯』4巻)(家近良樹)」】

一 十月五日、一橋さまが昨日より参内され、壱岐守殿が参内された。

一 玄同さまが登城され、いったん帰殿、夜に入って再び登城された。

一 御所の一橋さまの控えどころへ御使の酒井河内守殿(大老の酒井忠績。注⑪)が行かれた。

(一橋さまは)昨日より参内されているので、(酒井河内守殿が)お訪ねになった。

【注⑪。朝日日本歴史人物事典「酒井忠績(読み)さかい・ただしげ 「酒井忠績」の解説酒井忠績没年:明治28.11.30(1895)生年:文政10(1827)幕末の姫路藩(兵庫県)藩主,大老。号は閑亭,閑斎。父は忠誨,万延1(1860)年襲封した。文久1(1861)年溜詰となり,雅楽頭と称した。2年京都所司代酒井忠義(小浜藩主)の罷免後,後任の大坂城代本荘宗秀が廷臣に疎まれ就任できず長岡藩主牧野忠恭が改めて着任するまでの間,同職代勤として市中取り締まりを担当し,朝廷の評価を得た。3年老中上座(翌年免職),慶応1(1865)年大老に就任し第2次長州征討,兵庫開港問題に当たった。この間,河合屏山ら藩内勤王派を断罪(甲子の獄)する一方,志願兵による西洋式歩兵銃隊と楽隊を組織するなど改革に努めた。慶応3(1867)年隠居した。<参考文献>『兵庫県史』5巻(長井純市)】

一 夜五ツ時(午後八時)ごろ、一橋さまが勅書をお受け取りになり、それを持参して登城された。引続き肥後守殿の登城には「其旨ニテ被知(ママ)登城」(※意味不明のため原文そのまま引用)、追々(将軍の前に)召し出され、御対顔・お目見え等があった。条約の件である。

一 勅書、かつこのたびの(将軍から天子への)お願い、(将軍職)退隠のお沙汰をいただけなかったという趣旨の(将軍から天子への)御書を添え、お戻しになった。

一 十月六日、一橋さま・肥後守・越中守等が関白殿のもとに参上され、夕七ツ時半(午後五時)ごろ、帰城された。

一 周防守殿(老中・板倉勝静)が関白殿への御使を勤められ、ほどなく登城、(関白の)お答えを言上した。

一 壱岐守殿(老中格の小笠原長行)が(病気を理由に)辞退したため、伯耆守殿(本庄宗秀)が(外国側の)応接にあたることになった。(伯耆守の)留守中、信濃守殿が大坂へ派遣される。夜に入り、壱岐守殿が登城。周防守殿・壱岐守殿に(将軍の)ご下問があった。それに引き続き玄同さま・一橋さま・守護職(松平容保)・所司代(松平定敬)が召し出され、将軍のご下問があった。玄同さまらに「御葛」(※よくわからないのだが、葛粉(注⑫)のことか)をお出しした。徹夜のため、明け方にいたって空腹の者が出てきて、お粥でもいただきたいとお目付に申し立てたとのこと。出雲守殿からそういう内話があったので、お粥を五十人前煮立てさせ、御膳番より渡した。なお老中・若年寄り衆そのほかにも別に仕立てた粥を差し出した。

【注⑫。精選版 日本国語大辞典によると、葛粉(くずこ)は「葛の根を砕いて布に包み、水に浸して絞った汁中に沈殿した澱粉粒を乾燥させたもの。色が白く、種々の料理の材料として用いる。奈良県吉野地方で産する吉野葛は特に有名。くずのこ。くず。」】

一 十月七日、将軍が天子(もしくは関白に)に差し出す御書をお書きになった。

一 玄同さまが四ツ半時(午前十一時ごろ)登城された。一橋さまが九ツ半時(午後一時)登城された。所司代が登城、松平肥後守が登城。

一 一橋さま・守護職・所司代が将軍に呼び出され、ご下問があった。周防守殿・壱岐守殿が将軍に呼び出され、ご下問があった。

一 周防守殿のご指示。

最近、御用が多く、夜中まで居残りをしているので、四ツ時(午後十時ごろ)までになったら、老中をはじめとする役職者ならびに泊まり番の面々にお湯漬けを出し、城内の勤番の者たちへは「御賦」(※おくばりと読むと思うが、何を配るのか不明)を出す。なお、右の刻限になったら、人数書き等をその時々、勘定奉行へ差し出すよう。

右の内容をお供の面々に知らせられたい。

一 夜に入り、肥後守殿が召し出され、将軍のご下問があった。玄同さまが将軍と対面し、天子(もしくは関白に)に差し出す御書を受け取られた。夜九ツ時(午前零時)すぎ、玄同さまより、付き添いのお目付を通じて、関白殿が(御書を)受け取ったという知らせがあった。

一 周防守殿のご指示の書き付け。

このたび(天子の)格別の御寵命(ありがたいご命令)を(将軍は)お請けになったが、何分容易ならざる時節なので、一橋中納言殿に政務の輔翼を命じられ、とりわけ十分な助力をするようお命じになった。

右の通り、一橋中納言殿ヘご命令があったので、お供の一万石以上以下の面々に伝えられたい。

一 十月、大目付の山口駿河守(注⑬)、お目付の赤松左京が大坂から戻り、(将軍に)お目見えを願った。二人は(将軍の前に)召し出され、お人払いのうえご下問があった。

異国船が残らず出帆したことを報告した。

【注⑬。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、山口直毅(やまぐち-なおき1830-1895)は「幕末-明治時代の武士,官吏。天保(てんぽう)元年生まれ。幕臣。安政3年(1856)甲府徽典(きてん)館の学頭となり,のち大目付,町奉行,歩兵奉行,騎兵奉行などを歴任。維新後は神祇(じんぎ)局につとめた。明治28年12月10日死去。66歳。江戸出身。本姓は林。通称は直亮。号は泉処,夬堂。日記に「山口直毅日簿」。」】

一 同十二日、一橋さまが登城、玄同さまが登城された。それから参内なされ、またぞろ登城された。肥後守殿・壱岐守殿が今日参内され、それから夜に入って登城された。

一 夜四ツ時(午後十時ごろ)すぎ、玄同さまが関白邸より再び登城された。肥後守殿・周防守殿・壱岐守殿が召し出され、お人払いのうえご下問があった。またぞろ九ツ半時(午前一時ごろ)、ご下問があった。夜更けなので、老中・若年寄り、肥後守殿・越中守殿に御膳が出され、このため御側の者へも出された。

一 同十三日、下関の異国戦争の図一冊を(将軍に)ご覧に入れるよう壱岐守殿より渡された。(将軍に)ご覧に入れておいた。

一 同二十二日、

一橋中納言殿、

このたび(将軍の)輔翼を命じられたので、参内の際は、(御所の)車寄せより昇降されるよう、御所よりご指示があった。

一 十月二十五日、一橋さま・肥後守殿・越中守殿・伊賀守殿・壱岐守殿が(二条城を)退出して関白邸に行かれた。夜、四ツ半時(午後十一時)ごろである。

一 同二十七日、五ツ半時(午前九時ごろ)、お供の行列がそろい、四ツ時(午前十時ごろ)、挟み箱(注⑭)が出た。ほどなく(将軍が二条城を)出られ、施薬院(注⑮)へ九ツ時(正午ごろ)前に行かれ、八ツ時(午後二時ごろ)すぎ参内され、七ツ時(午後四時ごろ)三寸前に(二条城に)戻られた。

【注⑭。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、挟箱(はさみばこ)は「道中の着替えの衣服などを中に入れ,棒を通して従者にかつがせた箱。2枚の板の間に衣服を入れ,これを竹ではさんだ戦国期の竹挟から転じたといわれる。近世では,道中での供ぞろえとの関連から,挟箱も武家の格式を表わすようになり,1個だけの片箱,2個を並べる対箱,供ぞろえの先に持たす先箱,後尾に持たす後箱などの区別が生じた。」】

【注⑮。デジタル大辞泉によると、施薬院(せやく‐いん)は「貧しい病人に薬を与え治療をした施設。養老7年(723)興福寺に悲田院とともに創設されたという。のち、病人・捨て子などをも収容した。中世に衰亡するが、豊臣秀吉が再興。やくいん」】

一 十一月三日、今朝の明け方の七ツ時(午前四時ごろ)、お供の行列と共に二条城を出発され、伏見より乗船され、淀川を通って下坂され、六ツ時(午後六時ごろのことか)二寸すぎ、大坂城に到着された。

一 同十四日、六ツ半時四寸前、(大坂城の)白書院へお出でになり、明十五日と明後十六日に芸州表へ出動する陸軍の役職者らを召し出され云々。(下略)

同十五日、四ツ時(午前十時ごろ)三寸すぎ、(将軍が)大手前にお成りになり、芸州表に向かう行軍をご覧になった。明十六日に出発の面々にも、一同勢揃いをご覧になり、四ツ半時五分すぎ、(城内に)お帰りになった云々。(下略)

一 九ツ時(正午ごろ)二寸すぎ、(将軍が)御座の間(注⑯)に出られた。

井伊掃部頭(注⑰)

近日、芸州へ出張するので召し出され、(将軍の)上意を受け、陣羽織を頂戴した。

井伊兵部少輔

掃部頭に付随して芸州に出張するので召し出され、上意を受けた。

【注⑯。精選版 日本国語大辞典によると、御座(ござ)の間は「天皇、摂関、将軍などの出御(しゅつぎょ)の座席を設けた部屋。また、摂関、将軍などの平常の居室。御座所(ござしょ)。」】

【注⑰。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、井伊直憲(いい-なおのり1848-1904)は「幕末-明治時代の大名,華族。嘉永(かえい)元年4月20日生まれ。井伊直弼(なおすけ)の次男。桜田門外で暗殺された父のあと,万延元年近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩主井伊家16代となる。桜田門外の変の追罰により10万石を減ぜられ,歴代の京都守護を罷免される。明治23年貴族院議員。伯爵。明治37年1月」】

一 十二月十五日、(将軍が)御座の間に出られ、上段に着座された。

一橋中納言殿

右が出座し、老中衆がその場に同席した。

上意。昨秋、毛利大膳の家来どもが皇居で騒乱を起こした際、ならびに常野脱走賊徒(水戸天狗党)が京都ヘ廻った際ともに、指揮が行き届き、格別の忠勤ぶりに感悦した。よって鞍置馬(鞍を置いた馬)・黄金を与える。

ただし鞍置は、選りすぐった上で後から、黄金五百枚は貨幣に換算して進呈される。「両様共御手録御右筆ニテ認メ」(?)、老中衆より差し上げた。

一 同十八日、芸州へ派遣された大目付ら三人が今日戻った。(長州側からの?)答書を持参した。

(続。随分長い引用でしたが、以上で「朝倉播磨守という小納戸頭取を勤めた人の日記」の写しを終わります。次回からはまた佐佐木高行本人の記述に戻ります。今回もまた、私の無知ゆえに解読不能の個所だらけでした。誤訳も至る所にあったと思いますが、どうかお許しください)