わき道をゆく第245回 現代語訳・保古飛呂比 その69

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[参考]

一 (慶応元年)十月十日、次の通り。

 毛利淡路・吉川監物にお尋ねの事柄があるため出坂(大坂に出てくること)するようにと、幕府より安芸守(広島藩主・浅野長訓。注①)に通達がありました。そのことを、毛利・吉川の両家に知らせ、御請書(拝見承知したという承諾書)を差し出しましたが、二人とも萩へ行っているなどいろいろな理由で遅延し、ご猶予を申し立てています。しかしながら、国許(広島藩)だけの判断で聞き届けるわけにもいきませんので、安芸守より封書を当地(大坂)へ寄越しました。それを今朝、御届けします。

  十月十日

【注①。改訂新版 世界大百科事典によると、浅野長訓 (あさのながみち。生没年:1812-72(文化9-明治5))は「幕末・維新期の広島藩主。浅野長懋(ながとし)の5子として生まれ,初め浅野氏内証分家長容の養子となるが,1858年(安政5)広島藩主慶熾(よしてる)が嗣子なく没したため,宗家に入り,翌年,茂長(もちなが)と改名。辻将曹らを年寄に登用して藩政改革を推進するとともに,両度の長州征伐や王政復古の際も調停役として功があった。68年長訓と改名したが,69年病気により致仕,養嗣子長勲(ながこと)に家督を譲り,東京に没した。執筆者:後藤 陽一」】

[参考]

一 薩摩藩の届け、次の通り。[次の事実は年月日不肖のため、仮にここに記入する]

 このたび長防に攻め入り、兵端を開くという知らせが国許へ伝えられました。これは実に天下の一大事です。(わが藩は)かねて皇居警衛の命令を受けているので、精一杯厳しく対応し、その任に堪えるようでなくては(天朝に)申し訳がありません。とりあえず一隊の軍勢を差し出し、蒸気船二艘を摂海(大阪湾)に入港させ、追々京都に到着させる手筈です。こういう時節でもあり、このことを何はさておき御届けします。

松平修理大夫(薩摩藩主・島津忠義)内 内田仲之介(内田政風。注②。)

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、内田政風(うちだ-まさかぜ1815-1893)は「幕末-明治時代の武士,官僚。文化12年12月2日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。江戸留守居添役,京都留守居役をつとめる。禁門の変や戊辰(ぼしん)戦争では軍需品の供給にあたる。維新後は金沢県参事をへて明治6年初代石川県令。8年退官,島津家の家令となった。明治26年10月18日死去。79歳。通称は仲之助。」】

  十一月 十二月

一 十一月二十三日、整之助さま(追手邸山内家の当主・山内豊章)の妹の於立さまが山内主馬殿(土佐藩の重臣。宿毛領主)方ヘお引っ越し。輿入れをされてからは家老の家内同様の扱いとなる。

一 十二月、雑喉場(ざこば。注③)の馬場の下の九反田で開成館の建設が始まる。

 この開成館は藩の産業を興し、富国の基礎を立てようという趣旨であるが、いまだ実行に着手していないのに、まず大きな館を建てる費用が甚だしくかかり、かつ半国役(國役は藩が農民らに課す税負担のこと。注④)なので人民が迷惑するわけだから、(自分が)しきりに異議を唱えたが、後日官民ともに利益をもたらすといって、ついに容堂公の前に呼び出され、直に(開成館の建設に協力するようにと)ご指示を受けた。それに対し、自分は今後の運用の仕方を見て、なお愚見を申し上げますと答えて、お受けしなかった。現在、執政の深尾左馬之助、参政の後藤象次郞が主任となって、(開成館建設に)最も力を入れている。

自分は郡奉行兼普請奉行なので、後藤と議論の末、ご隠居様(容堂)の前に呼ばれ、直接にご指示を受けた。このときに出した意見書の草案は次の通り。

ただし、この草案は当て字などを添削修正した分を執政に出したのだが、その分は同志に見せた後に散失した。よってこの草案の残ったものを記す。

――最近、時勢がこのうえなく切迫していることは、三尺の童も知っていて論ずる必要もないことである。であれば、時勢に応じ、上は皇朝をお守りし、下は我が社稷(注⑤)を存して義名を輝かせる機会である。この機会を失した時は、社稷の存亡は言うべからずはもちろん、汚名を千歳に残すことになる。今日の急務とするところは何が第一であろうか。要路の面々はみな、富国強兵と言う。その「目」[ママ(眼目の間違いか)]を言えば、商売によって利益を得ようとすることだ。利益を得るには藩独自の物産を盛んにし、幾分か利益の取りこぼしをなくすれば、藩も民も利潤を得て害はない。また、強兵を論ずれば、最近は西洋の火器でなければならぬ、海軍を大いに開くことが急務だと言う。海軍を開くときは、軍艦数艘を持たなければ役に立たない。海陸軍を充実させるには財力がなければならない。ゆえに藩独自の物産を興し、四方に交易して利益を得ることは今日の急務であると。地力を養成し、商業で四方に交易することはもちろん急務である。しかしながら、それを実行するには人心をつかむより急務はない。人心をつかむにはどうしたらいいか。最近の切迫した時勢に立ち至ったのは外夷の渡来に起因し、天朝は幕府の処置を不当とし、それからいろいろ混沌とし、ついに長州の暴発となった。現在は、長州の再征討のため、将軍が上坂後、今もって因循遷延し、「博々敷義」(※意味不明のため原文をそのまま引用)がない。これは結局のところ一般の人心が服していないためであるから、この先どうなることであろうか。ただいまのままに国是が一つに定まらず、天朝と幕府の間で揺れ動いているときは、人心はいよいよ疑惑が甚だしくなるので、藩の物産を興して富国強兵のことをどれほどお世話されようとも、その効果はあらわれないだろう。大義のあるところをもって国是を一つに定めることが急務である。国是が一つに定まれば、方向性が定まり、上下の気持ちが一つになる。そのうえで利益を大いに興し、軍備充実の方策を立てれば、何事も延滞することなく運ぶだろう。何の目的もなくては、いよいよもって万事差し支えのみが出来すると思う。忌憚を顧みず愚見を申し上げた。よろしく取捨(良いものを採用し、悪いものを捨てること)してくださるようお願いします。以上。

  慶応元年十二月

 これは執政・深尾左馬之助、参政・後藤象次郞らがもっぱら興利論(利益第一の論理)によって郡役所等へ内諭(内々に諭すこと)があったので、本文の通り差し出した。(注⑥)

【注③。日本歴史地名大系によると、雑喉場は「高知県:高知市高知城下下町雑喉場[現在地名]高知市九反田下町の鏡川沿いに築かれた大堤防の外、唐人とうじん町の東にある片側町。東は九反田。朝倉あさくら町の枝町であった。江戸時代中期の「高知風土記」には「雑喉場片町」とみえ、東西一三〇間、南北一五間、家数三五。天保一二年(一八四一)の城下町絵図には「シヤコバ」とある。雑喉場は生魚の公設市場として慶長期(一五九六―一六一五)に設けられたといわれる。近隣漁村から出荷された生魚を、朝夕二回市を開いて競売し、なかでも潮江うしおえ村と吸江ぎゆうこう村出荷の鯔は優先的に競売されたという」】

【注④。旺文社日本史事典 三訂版によると、開成館(かいせいかん)は「幕末,土佐藩に置かれた富国強兵策の中心機関1866年,後藤象二郎が企画運営し,貨殖・勧業・税課・鉱山・捕鯨・鋳造・火薬・軍艦・医・訳などの各局を設置。しかし重税や藩専売に反対する農民や勤王党の抵抗にあい不振であった。」】

【注⑤。精選版 日本国語大辞典によると、社稷(しゃ‐しょく)は「① 古代の中国で、建国のとき、君主が壇を築いてまつる土地の神(社)と五穀の神(稷)。この二神を宮殿の右に、宗廟(そうびょう)を左にまつり、国家の最も重要な守り神とした。また、広く、国の守り神である天地の神、国家の尊崇する神霊。② 転じて、国家。朝廷。」】

【注⑥。この意見書を出した経緯については高行自身が『佐佐木老候昔日談』でより詳しく語っているので、それを引用する。「此頃に至つて、藩の財政は必至と差泥んで来た。費用は多端である。収入は依然として居る。収支相償はない。御用金というても、信用が無いので人民が応じない。さすがの藩庁も殆ど窮地に瀕して来た。参政即ち会計方は後藤[後、象二郎伯爵]である。色々と智恵を絞つた揚句、吉田の遺策を受けて、産業を起し、富国の基礎を鞏固にするといふ美名の下に、開成館設立を企てた。まづ執政深尾左馬之助を説くと、もともと西洋流の人であるから、忽ち同意して、盛に之を主張する。そこで後藤は、更に老公に工合よく申上げたが、日頃信任深き後藤の事であるから、速に御採用になつた。土佐の産物と云へば、重なる者はまづ紙と樟脳。紙の産出は非常なもので、価格に積ると年々八十余万両もあつた。夫を此度買締めさせて、大坂其の他要港で一手販売しやうといふので、所謂官業にするのだ。樟脳は自分等の御山奉行の時分には、既に官業にして居た。この樟脳を取る楠は、昔から楯を作る為に伐採させなかつた。即ち軍用上の禁木であつた。然るに世の変遷と共に楯も不必要になつたので、夫で樟脳を製することにしたのだ。色々貨殖の道を講じて悉く失敗したが、これ丈は大に成功した。土佐にはこの大木があるので、産出額も多い。出来たものを長崎に輸出しては、外国人と鉄砲や船舶などと交易し、利益も尠くなかつた。さういふ譯なので、後藤が官民の区別なく、これは将来の大計であるなどと唱へて、すべて官業にし、さうして夫が為に第一着歩として、開盛館を建築しやうとしたのだ。時分は郡奉行、普請奉行、何れからもこれに関係することになつた。成程名義は立派である。素より其の趣意には賛成であるけれども、まだ実行もせざるに先だち、大建築を創めて人民に國役をかけるのは、今日の場合甚だ宜しくないと思うたから、郡府へ内諭のあつた時分、反対意見書を執政に差出した。執政に出した分は、大に修正を加へた者で、同志にも見せたが、何時か散佚して了つて、今其の草案丈残つて居る。(以下、草案略)土佐の規則で、御手許御用とか、國道臺場等はすべて公役で、開盛館は殖産的であるから、點公役なのだ。例へば、人を雇ふに、一日壱圓とすれば、公役なら一文も出さず、半公役なら半分補ふので、ツマリ五十銭やるのである。そこで時分が夫に異議を狭んだものだから、深尾と後藤が盛に興利論を説明する。けれども、時分は頑として堅く自説を取つて動かない。殊に後藤とは屡々激論を戦はした。後藤も殆ど窮して了つて、内々老公に『佐佐木を御諭し下さる様に』とでも申上げたものと見えて、老公からお召があつたので、速に参殿すると、『此度の事に就ては、大に意見を懐いて居るさうだが、有志の成算もあることであるから、枉げてこれに盡力する様に』との仰せ。已むを得ず御受けはしたものの、『尚今後の運び方によりては愚存を申上ることに致します』と申上げて退出し、愈々十二月から城下の東端九反田といふ處に、開盛館建築に取懸つた。老公も度々見分に来られた。或寒い日に御出になつた事がある。夜分になると、御自分でも酒を飲まれ、また臣下にも下されるが例になつて居る。すると賛成の由比猪内が、『どうもかう寒くては堪らない』と云ふと、老公は之を聞咎めて、是位の寒さが堪らないとは何事ぞ。長州征伐にでも出かけて戦争でもして見ろ。寒さなどは感ぜぬぞと大に叱られた事がある。翌年二月になつて、略ぼ竣功したので、其の四日落成式を挙げた。併しながらこれはホンの表面上の落成式で、全く出来上る迄には、まだ余程日子もかかり、且つ予算も到底足りまいから、更に半公役が懸りはせぬかと密に心配した。」】

 保古飛呂比 巻十四 慶応二年正月より同年六月まで

 慶応二年丙寅 佐佐木高行 三十七歳

 正月

一 この月元日、早朝より大頭の宅に参集。それより登城。例年の通り、御祝詞・御規式(決まった作法)が済み、下城した。

一 同二日、親族友人へ年賀の挨拶。

一 同三日、眞如寺のお山へ墓参した。一度帰宅し、さらに杓田村へ墓参。

一 同四日、親族友人らへ年賀の挨拶。

一 同七日、お馭り初め(土佐の正月恒例行事)に出るので、試みに「通し乗馬」した。

一 正月八日、「御責馬」(※責め馬は馬を調教すること)を拝見に行った。

一 同十一日、お馭り初めに出た。早朝、立場(たてば。馬をつないだ所か)へ出勤。自分は現在、後備組(後方に待機する組)なので乗馬は夕刻になる。そのため一度帰宅し、着替えをして小升形(※高知城下の地名と思われる)へ見物に行った。友人の中村禎輔(注⑦。中村弘毅のこと)は扶持切符(※知行ではなく、扶持米・切米を俸禄として支給されること)のお留守居組(上士の一番下の身分)であるけれども、抜擢され、京都留守居役に任じられ、物頭(注⑧)に昇進した。そのため曙染め(注⑨)の地に烏を描いた母衣(注⑩)をかけ乗馬していた。世の中が平穏無事なときは階級が知行取り(俸禄として土地をもらった上級の武士)で、馬廻り組でなければ、物頭の地位に就くことができなかった。近年はだんだん小身組も抜擢され、時勢が変遷してもはや階級論も破れはじめた。遠からず砲声を聞くことになるだろう。甲冑を身につけ、馬の馭り初めをするのは二百余年来、決まった形式だけのことだったが、真剣の馬武者を見る日は近い、と独り言を言いながら見物した。

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中村弘毅(なかむら-ひろたけ1838-1887)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)9年11月生まれ。土佐高知藩士。文久2年藩校致道館の教授となり,のち郡奉行,京都留守居役などを歴任。維新後は元老院議官。高知で中立社を設立し,民権運動と保守運動の調和をはかった。明治20年7月3日死去。50歳。本姓は武市。」】

【注⑧。改訂新版 世界大百科事典によると、物頭 (ものがしら)は「戦国・江戸時代の武家の職名あるいは格式の一つ。一般に歩兵の足軽,同心などからなる槍(長柄(ながえ))組,弓組,鉄砲組などの頭(足軽大将)をいう。侍組(騎兵)の頭(侍大将)である番頭(ばんがしら)につぐ地位にあった。江戸幕府の新番頭,小十人(こじゆうにん)頭,徒士(かち)頭,百人組之頭,先手(さきて)頭などはいずれも布衣(ほい)の格であり,諸藩の物頭にあたる。このうち新番組は騎兵(本来の侍),小十人組・徒士組は歩兵(本来の足軽),百人組は鉄砲隊(与力,同心),先手組は弓・鉄砲の両隊(与力,同心)であった。執筆者:北原 章男」】

【注⑨。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、曙染(あけぼのぞめ)は「ぼかし染の一種。朧染 (おぼろぞめ) とも呼ばれる。衣装に仕立てた際,曙の空のように紅や紫などで肩から裾に向って次第に色調を淡く染めていき,最後に裾の部分 10~15cmを白く染め残す手法。寛文頃 (1661~73) 京都の辻子新右衛門が染めはじめたと伝えられる。」】 

【注⑩。精選版 日本国語大辞典によると、母衣(ほろ)は「軍陣で、背にかける大形の布帛。流れ矢を防ぎ、存在明示の標識にもした。平安時代の末から十幅一丈などの大形なものが出て装飾化し、室町時代の頃から風にふくらんだ形を示すために竹や鯨骨製の母衣串(ほろぐし)を入れるのが例となった。母衣衣(ほろぎぬ)。」】

一 同十二日、江戸市中へ触達(注⑪)の写し

一 押し込み強盗・追い落とし(注⑫)・盗賊のことについて、かねて申し合わせなどをしたにもかかわらず、治安情勢は穏やかにならず、今春も不穏である。それについて今般、お沙汰があった。「拙者共、市中町々自身番屋詰合方、各々方見廻方心付等ノ義迠」(※意味がよくわからないので原文そのまま引用)、夜中から翌日の明け方まで見回りをし、自身番屋(注⑬)ごとの総人数を点検し、また見回りや番所詰めの者の名前などまでも詳しく書き出し、翌朝、両役所(南町・北町奉行所のことか)差し出すようにとのこと。かねて指示したとおり、町々の木戸は五ツ時(午後八時ごろ)に締め切ることを厳重に守り、送り拍子木(注⑭)を打つことを怠らぬようきつく申し渡せということである。町触れにもある通り、手に負えず仕方なく盗賊などを殺した者たちに対しては、それぞれにご褒美を下され、決して引き合い(事件後の法的処置のことか?)などで迷惑にならぬようにとのご沙汰である。(これらのことを)真実に守ることができれば、自然と取り締まりも行き届く。将軍進発の留守中の特別なことなので、これらの趣旨を「番屋々々ノ〆方急速ニ被取計」(?)、番屋詰めの者が町名等の名前を見回りの際に書き出し、「改等閑ノ儀有之候迚」(※点検をなおざりにしたといって、というような意味か)、おのおのがたが詫び等をすることにならぬよう、以前からお達ししている。

 慶応二年正月

 南北三廻り(注⑮)

一 押し込み・夜盗その他について、かねて指示したこともあり、特に(将軍の)お留守中の)取り締まりに関する通達も出していたが、最近、取り締まり不十分のことが多く見られるので、今後は別紙の通り通達する。

一 木戸がなくて締め切りができない場所は、竹木戸で補い、修理しておくこと。

一 夜の五ツ時(午後八時ごろ)を限りに木戸を閉め切り、送り拍子木等により送ること。

 ただし中番(注⑯)は(それをするに)及ばない。

一 日没より翌日の明け方まで、お役人衆が頻繁に見回りをされる。その際、番屋詰めの者の名前を残らず、別紙のひな形の通り、綴じ込みになるよう記し、差し出すようにすること。

 なお、十三日より見回りが行われる。

一 お役人衆が見回り先のお宅に立ち寄り、持参の弁当で食事をされることもあるとのこと。その際、湯茶の提供を頼むこともあるとのこと。これに関して、その方たちも管轄地を時々見回り、心配りをなさるように。

右の通り、通達する。以上。

 寅年正月十二日 組合 世話係

 寅年の正月幾日 何町何丁目 月行事(注⑰)が誰 火ノ番が誰 書役(注⑱)が誰 居番が誰 番人が誰

 右は、毎度、番屋詰めの者が残らず名前を記しておき、その時その時、見回りのたびに差し出すのであるが、記した名前の(本人がいるかどうか)確認されるので、その際に不都合がないように、町々へ申しおかれるべきこと。

寅年正月十二日

右のように取り締まりが厳重になったのは、長州征伐のため将軍が進発し、大坂に滞在して留守中に、江戸市中いたるところで押し込み強盗・追い落とし・盗賊が甚だしいためだ。彼らは侍風の者が多いので、厳重にしてもなかなか(取り締まりが)行き届かない。諸大名の屋敷は先年、妻子等を国許へ帰していて、どこも人が少なく、各藩から書生等が出府してきても取り締まりできず、実に我が儘勝手に横行する事態になっているので、幕府の威権も行われず、このような有様になっている。最早、徳川幕府も衰滅の期が来たのだと、江戸よりある人が言ってよこした。

【注⑪。山川日本史小辞典 改訂新版によると、触(ふれ)は「江戸時代,幕藩領主が定めた法令・命令を広く知らせる行為,また公布された法度類。比較的広範囲に触れ出されるものを触,関係部局だけに通達するものを達(たっし)といって区別したといわれるが,幕府の編集した「御触書集成」は触と達の別なく収録している。触書は触を書き付けたもの。幕府が全国に公布する触書は表右筆(ゆうひつ)が必要な部数を作り,老中から大名留守居,大目付・目付らに渡され,そこから大名・旗本領へ,一方,町奉行・代官を通じては幕領町村へ回達された。町奉行から管下の町に触れられた法令を町触,浦方のみを対象とした法令を浦触という。寺院へは寺社奉行から各宗派の触頭(ふれがしら)を通じて全国の寺院へ伝えられた。」】

【注⑫。精選版 日本国語大辞典によると、追落(おい‐おとし)は「 往来の人を脅したり追いかけたりして、落とさせた財布などを奪い取ること。また、その者。鎌倉時代からの語だが、江戸時代には、刑法上追剥(おいはぎ)と区別され、死罪に処せられた。」】

【注⑬。imidas時代劇用語指南(山本博文)による「番屋(ばんや)/自身番(じしんばん)」の解説。「番屋とは、江戸の町々にあった防犯のための施設。自身番とは、町の会計である町入用(ちょうにゅうよう)で設けられ、町入用で雇われた書役と町名主や家主たちによる自警組織。多くは1町に1カ所あったが、最合(もあい)といって、2~3町共同で設けるものもあったから、江戸に200余~300ほどあったとみられる。江戸の治安を担う廻り方同心が町を巡回するときは、御用箱を背負った供(とも)と木刀1本を差した中間1人、手先(目明かし)2~3人を連れ、自身番に「町内に何事もないか」と聞いて回る。同心が怪しい者を見つけると、自身番に連れていき、尋問する。ただし、容疑者を留置する施設ではないので、詳細な調べが必要なときは大番屋に連れていく。自身番には「自身番日記」が置かれ、町内の出来事などを書き留めていた。また、庶民の戸籍に当たる人別帳も備えられていた。」】

【注⑭。精選版 日本国語大辞典によると、送拍子木(おくり‐ひょうしぎ)は「 近世、江戸で、深夜町中の木戸に通行人があると、それを知らせるために番人が打った拍子木。通行の人数の数だけ、各木戸順送りに打って事故の予防とした。江戸吉原へ行く道の日本堤でも古く行なわれた。〔禁令考‐前集・第五・巻四七・正徳元年(1711)一一月〕」】

【注⑮。精選版 日本国語大辞典によると、定町廻(じょう‐まちまわり)は「江戸時代、町奉行配下の廻り方同心の一隊。南北両町奉行所同心各四名からなり、江戸の町方を大体四筋に分け定まった道筋を巡回し、犯罪の捜査および犯罪者の逮捕に従った。隠密廻り・臨時廻りとともに三廻りと呼ばれた。定廻り。〔市尹秘録‐一(古事類苑・官位五七)〕」】

【注⑯。精選版 日本国語大辞典によると、中番(なか‐ばん)は「辻に設けられる辻番に対して辻と辻との中間にある番所。また、そこに詰める番人。」】

【注⑰。精選版 日本国語大辞典によると、月行事(つきぎょうじ)は「江戸時代、江戸・大坂などで、月々交替して名主または町年寄を補佐して町内の事務を処理したもの。江戸では名主をおかない月行事持の町もあった。」】

【注⑱。精選版 日本国語大辞典によると、書役(しょ‐やく)は「町番所に詰めていて、町名主を補助し算筆をつかさどった有給の役人。また、裁判を扱う役所に詰めていた記録係。書記。かきやく。〔和英語林集成(初版)」】

一 正月二十日、芸州(広島)へ行っていた會津藩人が帰坂した。長州が屈服した模様だという内報(内々の知らせ)があって、佐幕派の者同士が喜び合ったという。

ただし、これは幕府の策略で、本文の通り(長州が屈服云々)言い触らしたか。

一 同二十日、京都において薩長が和解したという風評あり。

[参考]

一 同二十日、将軍が(天子に)奏上して、毛利氏の朝敵の名を除き、領地十万石を削り、(毛利)父子を蟄居させることの(裁可を)請う。許された。

一 同二十三日、夜、伏見寺田屋で坂本龍馬(注⑲)が遭難した。

【注⑲。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、坂本龍馬(さかもとりょうま。1835―1867)は「幕末の志士。天保(てんぽう)6年11月15日、土佐国(高知県)高知城下本丁(ほんちょう)一丁目に郷士坂本八平の次男に生まれた。実名は直柔(なおなり)、変名は才谷梅太郎(さいだにうめたろう)。本家は富商才谷屋で、曽祖父(そうそふ)兼助が郷士(ごうし)株を取得して分家した町人郷士。領知197石など家産があり裕福であった。幼少時愚鈍の評があったが、城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場での剣術修行でたくましくなった。1853年(嘉永6)3月、江戸に出て北辰(ほくしん)一刀流千葉定吉道場に剣を学び、1年余で帰国。1856年(安政3)8月、ふたたび江戸に出て剣技を磨き、剣士として知られ、北辰一刀流の免許を得、1858年9月帰国。1861年(文久1)8月土佐勤王党が結成されるやこれに加盟。10月剣術修行を名目に出国、翌1862年1月には長州萩(はぎ)に久坂玄瑞(くさかげんずい)を訪(とぶら)い、帰国後3月24日脱藩。大坂、京都を経て江戸へ出た。在郷当時、海外事情に詳しい絵師河田小龍(しょうりゅう)の通商航海論に共鳴していた龍馬は、江戸で異色の幕臣勝海舟(かつかいしゅう)を訪い、その見識に感激して入門、単純な攘夷(じょうい)論を捨て、航海術を修業し、勝の信頼を受け、勝を補佐して活動した。1863年には、勝の主唱による神戸海軍操練所の設立に東奔西走、10月その塾頭となったが、1864年(元治1)10月には勝の突然の失脚によって、操練所は解散された。この間、龍馬は松平春嶽(しゅんがく)(慶永(よしなが))、横井小楠(しょうなん)、三岡八郎(由利公正(ゆりきみまさ))、大久保一翁(忠寛(ただひろ))ら開明の人士らの知遇を得、西郷隆盛(さいごうたかもり)とも知り合った。操練所解散後、龍馬は薩摩(さつま)藩の保護を受け、1865年(慶応1)5月ごろ、同志を率いて長崎に商社(亀山(かめやま)社中)を設けて通商航海業に乗り出し、これを媒体として倒幕のため薩長2藩を同盟させる運動に奔走、中岡慎太郎(しんたろう)と協力して翌1866年1月20日には京都で薩長同盟を成立させた。その直後の23日、伏見(ふしみ)寺田屋で幕吏の襲撃を受け、寺田屋の養女お龍(りょう)の機転で危うく難を免れ、お龍と結婚した。薩長同盟の成立は幕府の長州再征を失敗に導いた。1866年土佐藩が貿易のため長崎に設けた土佐商会に出張してきた参政後藤象二郎(しょうじろう)(かつての土佐勤王党の弾圧者)と龍馬は翌1867年1月に会談。山内容堂(ようどう)の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた土佐藩は、龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪を許し、龍馬は海援隊長、中岡は陸援隊長となった。6月、後藤とともに藩船で京都に向かう船中で龍馬は、大政奉還、公議政治などの新国家構想をいわゆる「船中八策」としてまとめたが、これが土佐藩論を動かし、10月山内容堂は将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白、慶喜はこれをいれて朝廷に奉還を上奏、朝廷は10月15日これを許可し大政奉還は実現した。その後も龍馬は土佐、長崎、福井などを奔走、新政府の構想を練っていたが、11月15日夜、京都の下宿近江屋(おうみや)で中岡慎太郎と会談中、幕府見廻組(みまわりぐみ)に襲われて斃(たお)れた。年33。贈正四位。[関田英里]『平尾道雄著『坂本龍馬・海援隊始末記』(中公文庫)』▽『池田敬正著『坂本龍馬』(中公新書)』▽『山本大著『坂本龍馬』(1974・新人物往来社)』」】

[参考]

一 同二十六日[一書には二月二日とある]、板倉伊賀守殿(老中・板倉勝静のこと)の通達書を次に記す。

毛利大膳父子の伏罪(罪を犯した者が刑に服すること)の件は、疑惑の点がいろいろあるため、大目付・お目付を芸州表に送って糺したところ、いよいよ恭順謹慎していることは、一昨年、自判(自身で印判を押すこと)の書で申し立てた通りに相違ないようである。このため、寛大なお気持ちでご処置を上奏になられた。ついては壱岐守(老中・小笠原長行)が芸州表へ行き、ご裁許を言い渡すよう命じられたので、このことを通達する。一万石以上以下のお供の面々へ伝えられたい。

 別紙

 毛利大膳父子のご裁許の件を別紙の通り通達する。

 万一違背すれば、速やかにご征伐なされるので、なお心の緩みがないようにされたい。

 右の通り、大目付・お目付へ通達した。

 二月

一 この月四日、小笠原壱岐守が今朝、芸州へ出発したとのこと。

小笠原壱岐守の付添人の名前は次の通り。

 大目付 室賀伊予守、 お目付 牧野若狭守。

 後から出発した者の名は、次の通り。

 大目付 永井主水正、 勘定奉行 井上備後守、 お目付 岡部三右衛門。

 これらのことは順を追って高知に知らせがあった。要路の佐幕家は、いよいよ長州が屈服し、近いうちに平定されると意気揚々である。勤王家は、憂慮のうちにも、諸藩の勤王家より内々意脈を通じ、幕府の表面上のお達しの通りではく、長州も決して屈服せず、薩州もいよいよ長州に合体したと言う。両派が各自の説を信じる状況だ。自分と同志ら五、六人の公平な見方では、長州も削封(領地を削ること)等のことになれば、このまま屈服はしないにちがいない。その訳は、薩州も国を挙げて長州を助けると一つにまとまっているのではないけれど、薩州の有力家は長州を助けようとする方が多数のようだ。関東は知らず、関西の各藩はいずれも内輪は分裂の状況だ。我が藩でも士格は四分通りは真に佐幕家で、五分通りはどっちでもない因循家だ。勤王家はわずかである。しかしながら、郷士・徒士以下、「御国中」(※よくわからないが、土佐全体という意味か)は長州方である。このようなありさまであるから、これからの処置次第では遂に大乱に及ぶだろう。自分ら同志はこのところに注意し、君公の大義を誤ることがないよう尽力するべきだと、密かに集会を持ち、いろいろと周旋した。

一 二月四日、高知の九反田下井流方から雑喉場の馬場にかけて、昨年より開成館を建築中であったが、おおよそできたので、本日、棟上げを行った。

これは表面の落成式であるが、これからかえって出費がかさむことになり、さらに(人民に対し)半国役を課すことになりそうだ。しかし、いまだそのお達しはない。このうえいよいよ税を課すお達しがあっても、容易にお請けすることはできないと論じた。(自分と)同役の関健輔は吉田派、つまり後藤方である。松田宗之丞は俗人で、何派でもない。そうでありながら(二人は)自分の正論に同意した。現在の執政・深尾左馬之助、参政・後藤象次郞は最も勢力がある。容堂公に、産物を起こし富国の基礎を立てるために、開成館を建築すると、うまい具合に申し上げた。(容堂公は)かねて信用しておられるので、大いにもっともと承諾されたのだろう。この結果はどうなるか。はなはだ困難なことになるだろう。

[参考]

一 二月十五日、薩摩藩の動静を探るため、後藤象次郞・小笠原唯八[後に巻野群馬と改めた。注⑳]の両人を鹿児島に派遣された。[小笠原手記]

【注⑳。日本歴史人物事典によると、小笠原只八(おがさわらただはち。)没年:明治1.8.25(1868.10.10)生年:文政12(1829))は「幕末の土佐(高知)藩士。高知城下大川筋の生まれ。諱は茂卿,茂敬。晩年に牧野群馬と改名。文久1(1861)年前藩主山内容堂(豊信)の扈従となり江戸勤務。2年江戸・梅屋敷事件の善後処置に奔走,抜擢され側物頭役,大監察兼軍備用役に昇任,容堂の上洛に随従し公武周旋に当たる。帰藩後,元治1(1864)年に武市瑞山助命嘆願で野根山に屯集した清岡道之助ら23士を処刑した。慶応2(1866)年,容堂の命で土薩融和の使者として後藤象二郎と鹿児島に赴き島津久光と会見,3年5月,乾(板垣)退助,中岡慎太郎らが進めた薩土討幕密約に関与,いったん解任されたが大監察に復職,4年1月,鳥羽・伏見の戦を契機に藩論は討幕に転じ,只八は藩兵を率いて上京,三条実美の抜擢をうけ大総督府御用掛。江戸の彰義隊戦争,東北戦争に功あったが,会津攻城戦で奮闘中敵弾を受けて戦死。弟謙吉茂連もこの日の戦闘で戦死した。<参考文献>寺石正路『土佐偉人伝』(福地惇)」】

三月

一 この月一日、執政の福岡宮内、大監察の神山左多衛、小監察の野崎糺、探索御用の山田吉次、そのほか下横目・飛脚番らが芸州広島に派遣された。何の御用なのか知らない。幕府の命によるという。かねて長州追討の命が来るのを恐れていたが、それがなかったので、勤王家は大いに得意になったが、このたび重役が広島に送られた。しかも、全員佐幕家で、ことに野崎糺・山田吉次は、佐幕論を最も主張している人だ。だから彼の地(広島)でも二人はもっぱら(佐幕派の)會津・桑名の人間たちと会い、幕府の勢力を助けることは言うまでもない。そうなれば福岡・神山も必ず二人の説だけを信用して、勤王家を挫く策を講じるのではないかと、勤王家は密かに集会し、大いに心配している。

 自分は現在郡奉行であるが、藩政府の現在の状況については何も情報が入ってこない。そうこうするうち、ある日、大監察・福岡藤次[後に孝悌という。福岡はこのころ佐幕家で、長州破滅と信じていた。注㉑]より、長州の脱走兵が国境などに落ちてくるかもわからないので、その旨を心得るようにという、奉行衆の厳重な通達があった。奉行衆のなかでも佐幕家は愉快そうだ。しかしながら、民間は庄屋・村老等をはじめ、人民は長州方が多く、決して長州は敗北しないといって密かに笑っている。

現在は佐幕家が要路を占めているが、政略上の配慮で、郡奉行とかそのほかの部署では、勤王・佐幕両様の人物を交えて用いているので、小吏には勤王家が多く、藩庁も「差閊アル事ナリ」(※うまく機能していないという意味か?)。[五月下旬の記述を参照]

【注㉑。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、福岡孝弟(ふくおかたかちか。1835―1919)は「幕末・明治時代の官僚、政治家。天保(てんぽう)6年2月土佐藩家老福岡家の支族に生まれた。藤次と称す。1863年(文久3)藩主側役(そばやく)となり、幕末政局に土佐藩を代表して活躍、1867年(慶応3)参政に進み、10月同藩士後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らと将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に大政奉還を勧告した。王政復古直後の12月12日参与に任じられ議事制度の確立に尽力、五か条の誓文や政体書の起草にあたった。維新の功により賞典禄(しょうてんろく)400石を永世下賜。1872年(明治5)文部大輔(たいふ)ついで司法大輔、以後断続的に左院、元老院の議官を務め、1881年参議兼文部卿(きょう)、1884年子爵、1888年枢密顧問官。大正8年3月6日没。[毛利敏彦]」】

(続。自身番屋のくだりはわからないことばかりで、ちゃんとした訳ができませんでした。申し訳ありません)。