わき道をゆく第246回 現代語訳・保古飛呂比 その70

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[参考]

一 (慶応二年)三月晦日(みそか)、太守さまが上京延期を請願した。次の通り。

今夏中、私は京都警衛を仰せつけられ、ありがたく存じます。これにより、大坂表にかねて配置していた軍勢を、(朝廷の)了解を得たうえで、直接上京するよう指示しました。しかしながら、私は従来の腫れ物が近ごろぶり返したため、非常に難儀しており、速やかに上京することが難しくなっています。恐れ入りますが、今しばらく加療したいと思います。もっとも快気次第、早速上京するつもりです。このことを使者を通じて申し上げます。以上。

一 三月、潮江大橋の架け替え。

この橋は、城下で第一等の長橋で、およそ七十五間ばかり。掛け替え予定の年度より遅れたからか、かなり朽ちたところがあった。よって自分は普請奉行であるから、このたび掛け替え工事に着手した。いろいろと藩の出費がかさんでいるおりなので、何分省略論(出費を削るべきだという主張)が多かったが、橋梁は最も大切なことだから、安易な普請は(普請奉行として)引き受けがたく、お仕置き役としばしば論争して、ようやく見込みの通りに出来あがった。下役の林半助らが工事に尽力した。

ただ、普請方(注①)はとかく弊習があり、このたびも大いに心配したが、まずもって格別の異論はなく、安心した。

【注①。精選版 日本国語大辞典によると、普請方(ふしん‐かた)は「①室町・江戸幕府の職名の一つ。普請奉行の配下にあって、城壁・堤防・用水などの土木工事をつかさどったもの。[初出の実例]「ふしん〈略〉さて御役目に御作事方と普請方と有。〈略〉普請方は作事をもすれども、大抵修覆にて、惣て地形石垣など堀を掘、土居を築等の事」(出典:志不可起(1727))② 大工・左官など、建築に従事する職人。〔随筆・守貞漫稿(1837‐53)〕」】

[参考]

一 この月、大坂城の大手前屯所の小屋内に貼ってあった落首。

名にしあふ浪花の芦の長ければ

誰もよしとは思はざりけり

元治とは元に治まるはつなれど

慶応ふいてきつをもとむる

ねてはくひおきては城を眺めけり

講武所付はにしへゆかれぬ

右のように、将軍家一カ年間の大坂滞在はみんなが非難したことである。しかし、その(滞在が長期化した)理由を知らず。

のちに勝安房(勝海舟)に聞いたところ、当時の幕府財政の困難は、その極に達した。やむを得ず、勘定奉行の小栗上野守の計画に基づいて、フランスより八百万両を借りることになったが、フランスは、このときドイツと険悪な関係になりそうな情勢だったので、(幕府の借金申し込みを)遂に謝絶してきた。幕府は、その(借金の)成立を待って、空しく一カ年間、大坂に滞在したのだという。

四月

一 この月七日、我が藩が皇居日ノ御門の警衛を仰せつけられた。[同十四日ごろ拝承した]

松平土佐守

当分、日ノ御門の警衛を命じる。これまで南部美濃守(盛岡藩主・南部利剛。注②)に命じていたが、その任を解いたので、早々に交代し、警衛に勤めるように。

四月七日

右の命を受けたが、太守さまが腫れ物のため、名代として整之助さま(追手邸山内家の当主・山内豊章のこと)が上京を命じられ、上京されるはずである。

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、南部利剛(なんぶ-としひさ1827*-1896)は「幕末の大名。文政9年12月28日生まれ。南部利済(としただ)の3男。南部利義(としとも)の弟。嘉永(かえい)2年陸奥(むつ)盛岡藩主南部家15代となる。海岸防備,京都守護につくし元治(げんじ)元年左近衛(さこんえの)中将となる。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越列藩同盟にくわわり,新政府軍とたたかったが,敗れて明治元年隠居した。明治29年10月30日死去。71歳。初名は謹敦。通称は鉄五郎。歌集に「桜園集」。」】

[参考]

一 同月八日、伊賀守殿(老中・板倉勝静のこと)お渡しの書き付け、次の通り。

大目付・お目付へ

毛利大膳父子に対する(幕府の)裁許の件につき、同人の末家の毛利左京・毛利淡路・毛利讃岐ならびに吉川監物、大膳家老の宍戸備前・毛利筑前が芸州広島に出頭するよう先日、通達したが、いまだ広島に出て来るかどうかわからぬ状況である。ついては、さらに今度、毛利大膳父子(毛利敬親と、その養子の元徳)ならびに長門総領の興丸(毛利元徳の長男・元昭の幼名)に通達することがあるので、来る二十一日までに広島表に出頭するよう。また、右の末家ならびに吉川監物・大膳家老も同日までに同所へ出頭するよう、松平安芸守( 広島藩主・浅野長訓のこと)を通じて通達したので、そのつもりで。

右の内容をお供の一万石以上以下の面々に、心得として、通達しておかれたい。

別紙の口頭通達の覚え

別紙で通達した期限に至り、万一名代等を差し出さなければ、(将軍の)裁許違背により、その罪が重いため、速やかに討ち入るので、前もってその心得で、指図を待つようにされたい。

四月

右の通り、大目付・お目付より通達すること。

一 四月十日、長州の脱走兵が倉敷に討ち入り、幕府の兵は大敗したと(いう知らせが入った。)過激派は勢いを得た模様だが、佐幕家は、無頼の浪士ども(がやったこと)で、長州はすでに内部分裂していると(言っている)。しかしながら、(土佐藩の)藩庁では、内実は(この事件を)非常に憂慮しているという風評がある。(討ち入りした者たちが)長州藩から押し出したかどうかわからない。同志たちは大いに苦慮している。(倉敷浅尾騒動。注③)

一 四月十四日、長州脱走人の件で、(長州藩から)幕府へ届書が出され、(幕府の)広島出張先へも達したとの風聞がある。

右は引き続き知らせが入った。勤王家は、長州が(幕府の命令を)とてもお受けすることはあるまいと(言い)、佐幕家は、長州が幕府の命令に背くときは、攻めるまでもなく内部分裂を起こすにちがいないと言う。

【注③。朝日日本歴史人物事典によると、倉敷浅尾騒動の首謀者・立石孫一郎(没年:慶応2.4.26(1866.6.9)生年:天保3.1.1(1832.2.2))は「幕末の尊攘派志士。名は維敬,通称恵吉,敬之介(大橋)。播磨国佐用郡上月村(兵庫県上月町)の大庄屋大谷五右衛門喜道の長男。16歳で大庄屋見習になるが,藩役人と口論し母の実家美作国二宮村の立石正介に寄食。翌嘉永1(1848)年備中倉敷の庄屋大橋平右衛門の養子となり,敬之介と改名。その後尊攘派志士となる。慶応1(1865)年立石孫一郎と改名し長州藩南奇兵隊に入るが,翌年4月第二奇兵隊(南奇兵隊改め)を脱退。尊攘討幕を掲げて倉敷代官所および備中浅尾陣屋を襲撃した(倉敷浅尾騒動)。松山・岡山藩の追討を受けて逃亡し,頼りとした長州藩の銃撃により殺された。(高木俊輔)」】

一 同日、板倉(勝静)閣老へ薩摩藩の大久保市蔵(大久保利通。注④)が意見書を差し出したという。これは幕府では秘密にしている。もっとも我が藩庁はたぶん承知しているのではないか。しかしながら、藩庁も人心に大きな影響を与えるのを恐れて秘しているのだろう。それでも勤王家は薩長に伝手があるので、すぐに情報が入った。薩摩の主張は、再度の長州征討は大義名分がない、□□□(脱字)討ち入りの幕命には応じないとのことで、勤王家は密かに喜び合った。

【注④。改訂新版 世界大百科事典によると、大久保利通 (おおくぼとしみち。生没年:1830-78(天保1-明治11))は「幕末,明治初期の政治家。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈明治維新の三傑〉といわれる。薩摩藩士大久保利世の長男に出生。若年,開国後の緊迫した世情をうけて,薩摩藩尊王攘夷グループのリーダーとなり,1859年(安政6),大老井伊直弼(いいなおすけ)襲撃を計画したが未遂,しかし,これをきっかけに藩政実力者の島津久光の知遇を得て側近に抜擢(ばつてき)され,尊攘論から公武合体論に転向した。62年(文久2),久光の公武合体・幕政改革の運動に参画,一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職につけるのに成功し,その名を広く天下に知られるようになった。64年(元治1),参預会議の決裂で幕薩関係が悪化すると,西郷隆盛と組んで,長州再征反対,徳川慶喜将軍職就任妨害,兵庫開港4侯会議画策など多面的な反幕政治活動を展開して幕府を追いつめた。68年(明治1)12月9日,岩倉具視と提携して王政復古クーデタを敢行,明治維新政府を発足させた。新政府の中枢にあって参与,内国事務掛,総裁局顧問,鎮将府参与を歴任し,政権の基礎固めにあたった。さらに木戸孝允らと版籍奉還を推進し,69年6月17日に実現,諸藩領有権を政府に統合した。同年,参議,従三位賞典禄1800石をうけた。ところが政府部内で木戸派と対立が激化,対抗して鹿児島にいた西郷を政府に迎え入れ,大蔵卿に転任,71年7月14日,西郷の指導力のもと廃藩置県が断行され,政府は名実ともに全日本を統治下におくことになった。廃藩後の重要課題は条約改正であったが,その実現に野心をもやす肥前派の参議大隈重信に外交上の実権が移るのを阻むねらいで,岩倉使節団を組織し全権副使に就任,11月,アメリカ,ヨーロッパ各国訪問に出発した。しかし,条約改正を実現できず,73年5月,失意のうちに帰国。勢力挽回をはかって,10月12日,参議に返り咲くと,宮廷陰謀を駆使して西郷大使朝鮮派遣計画を葬り,留守政府派参議の追い出しに成功した(明治6年政変)。11月,初代内務卿を兼任,これ以後,いわゆる大久保独裁(有司専制)の時期に入った。74年,佐賀の乱鎮定の全権を帯び,つづいて台湾出兵の後始末のため全権弁理大臣となって北京に赴き,清国側全権との間に〈日清両国間互換条款及互換憑単〉を締結,その結果,日本の琉球領有が国際的に承認されることになった。75年1月,大阪会議で木戸,板垣退助と妥協し,漸進的に立憲政治に移行する方針をうちだした。また,地租改正事務局総裁や内国勧業博覧会総裁などを兼ね,殖産興業にも心をかたむけた。76年,各地で士族反乱がおきると,地租を軽減して不平士族と農民のむすびつきを防ぎ,77年の西南戦争を積極的に鎮定した。78年5月14日,東京紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら6名に暗殺された。執筆者:毛利 敏彦」】

一 四月十八日、備前藩が長州の賊徒を生け捕り、討ち取ったと届け出たという。

一 同二十三日、小笠原壱岐守(老中の小笠原長行)より、備中表の騒動が鎮静したと、大坂へ報告があったという。

一 同二十四日、毛利淡路名代家老、吉川監物名代家老が、去る十九日、広島に着いたとのこと。

これは大坂より(土佐に)知らせがあった。佐幕家は得意である。

五月

一 この月二日、長州(に対する幕府の)ご処置は、来る二十八日、国泰寺(広島)で言い渡されるということが、先月二十五日、広島で申し渡されたとのこと、大坂へ連絡があったという。

一 同五日、さる一日に長州(に対する幕府の)ご裁許が言い渡され、来る二十日迄にお請け申し上げるよう通達されたとのこと。(※前の項の記述と食い違うが、その理由は不明)

この夏、(土佐藩は)京都警衛を命じられたが、(太守さまは)腫れ物のため、名代の整之助さまがこの日、浦戸を経由して上京された。

一 同六日、長州のご裁許の件で言い渡される内容につき、今日、大坂より(朝廷に)上奏するため、使者の稲葉美濃守が上京するとのこと。

右の情報が高知に達すると、相変わらず両派の意見は異なり、佐幕家は長州が屈服するだろう、もし(幕府の処置を)お受けしないならば長州は国が滅ぶと言った。勤王家は、長州はお受けするはずがなく、そのうえ(幕府が長州に)討ち入りとなれば、大乱となり、幕府はかえって権力を失うにちがいない。その訳は、天下の人心に背いて昨年再討の命令を出してから、(幕府は)因循を極めたが、(これからも)内輪の諸事情があって、断然たることはとても出来ないと。

一 五月十一日、藩において次の通り。

このたび鉄砲を西洋式に統一すべきだということになったので、皆もそのことを十分に心得るよう(太守さまが)仰せつけられた云々。

この時勢に目を注げば、もともと鉄砲は西洋の特技なので、われわれ皆が望んだことなのだが、(土佐藩には)古流家も多く、ことに荻野流(注⑤)には門閥が多くて勢力があって、(古流の存続を)強く主張するので、何分断然たることも実行しかねていた。それが、もはや猶予している場合ではなくなり、右の通り仰せつけられた。我々はありがたく大喜びした。一方、古流家は内々でぐずぐず言う者もあると聞いた。

【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、荻野流(おぎのりゅう)は「近世和流砲術の一流派。流祖は荻野六兵衛安重(やすしげ)(1613―90)。安重は初め父彦左衛門(ひこざえもん)に種子島(たねがしま)の砲術を学び、早打乱玉(はやうちみだれだま)という技を創案して、遠州浜松の本多豊後守(ぶんごのかみ)に仕え、300石を給された。1644年(正保1)32歳のとき、諸流の研究を志して本多家を去り、各地を歴遊すること十数年、正木流など12の流儀の奥義を究め、弟小左衛門正辰(まさとき)の協力を得て、これを集大成して荻野流を編み出したという。1667年(寛文7)55歳、岡山の池田光政(みつまさ)に招かれ、のち播州(ばんしゅう)明石(あかし)の松平若狭守(わかさのかみ)に仕え、同地に没した。その子六兵衛照清(てるきよ)が父の業を継いだが、ゆえあって松平家を辞し、大坂の玉造(たまつくり)に移り住んで、ここに私塾を開いた。1747年(延享4)照清の没後、備中(びっちゅう)足守(あしもり)(岡山県)の藩士上田惣左衛門の次男代二郎が後を継ぎ、六兵衛照良(てるなが)と称した。この門流は以上のほか膳所(ぜぜ)藩、盛岡藩、秋田藩など全国に広がりをみせ、信州高遠(たかとお)の坂本天山(荻野流増補新術、天山流の祖)や幕末に活躍した高島秋帆(しゅうはん)など著名な砲術家を出している。[渡邉一郎]『所荘吉編『日本武道大系 第5巻 砲術』(1982・同朋舎出版)』」】

一 同十四日、大坂市中の所々で、米を売る店に乱暴する者がいて、 一般の品物の値段が高騰しているので、人心不穏との風説がある。そのころ童謡があって、

軍デタチテ大勢ツレテ

諸品直上ゲニヨウゴンス

一 五月二十一日、芸州表より長州家老の歎願の一件、松平安芸守(広島藩主)の家来を通じて(嘆願書を)差し出した云々、大坂に届いたとのこと。

一 同二十六日、松平伯耆守(注⑥。老中・本庄宗秀のこと)が軍艦で芸州表に出張したとのこと。

こうした情報が次々と入った。一般の人心は方向が定まらずに疑惑が甚だしい。純粋の佐幕家は、いささか懸念の模様との風聞があり、勤王家は密かに機会を待っている様子である。

【注⑥。朝日日本歴史人物事典によると、本庄宗秀(没年:明治6.11.20(1873)生年:文化6.9.13(1809.10.21))は「幕末の老中。宮津藩(京都府)藩主。天保11(1840)年に襲封。奏者番,寺社奉行となりその在任中に安政の大獄を担当する。大坂城代,京都所司代を経て元治1(1864)年8月老中。慶応1(1865)年2月,老中阿部正外と幕兵3000を率いて上洛,朝廷を幕府の管理下に置こうとして失敗した。翌2年5月,征長先鋒副総督として広島に出張。戦局は幕府・征長軍の不利に進行し,拘禁中の長州藩使節を釈放して和平交渉を始めようとしたが,征長先鋒総督徳川茂承の反発を招き老中を罷免され,次いで隠居・謹慎に処せられた。幕府倒壊後,新政府に出仕し教部省に勤務した。(井上勲)」】

一 同下旬、広島より執政の福岡宮内殿(注⑦)、大監察の神山左多衛[郡廉。注⑧]が帰国、種々の風聞があるけれど、(自分のように)局外の者にはわからない。長州方(長州支持派)は、我が藩庁はいよいよもって佐幕に決したと言い、佐幕家は、過激の徒が勤王を口実に暴挙をはかりかねないと、両派の取り巻きが唱え、人心はますます不穏である。[三月一日の記事を参照](注⑨)

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、福岡孝茂(ふくおか-たかしげ1827-1906)は「幕末の武士。文政10年生まれ。土佐高知藩家老。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)にまなび,藩主山内豊煕(とよてる)・豊信(とよしげ)(容堂)につかえ藩政を統括。吉田東洋暗殺後,一時免職となったが,再登用され,元治(げんじ)・慶応のころには藩兵をひきいて清和院門を警固。鹿持雅澄「万葉集古義」の稿本を宮内省に献納している。明治39年12月25日死去。80歳。通称は宮内,健三。号は麗水。」】

【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると、神山郡廉(こうやまくにきよ。没年:明治42.8.20(1909)生年:文政12.1(1829))は「幕末の土佐(高知)藩士,明治期の官僚,政治家。高知城下中島町生まれ。通称左多衛。文武に優れ,文久年(1861~64)中参政吉田東洋に抜擢され郡奉行,大目付を歴任。慶応2(1866)年,幕府の征長催促を拒絶する役目を果たした。3年10月,山内容堂(豊信)の大政奉還建白に後藤象二郎,福岡孝弟,寺村左膳らと連署した。維新政府の参与に任じられてより行政官弁事,議政官上局参与,刑法官副知事を歴任,廃藩置県後は長浜(滋賀)県,島根県の権令,和歌山県令を経て元老院議官,高等法院陪席判事を務め,20年男爵。23年貴族院議員に勅選され没年に至った。(福地惇)」】

【注⑨。福岡宮内らの広島行きについては高行が『佐佐木老侯昔日談』でその内幕を語っているので、それを引用する。「さて幕府に於ては、十一月に至つて諸侯の攻口を部署しながらも、なほ交渉に日を重ねて、人をして真に戦ふや否やを疑はしむる位であつた。長州は益々戦備を修めて、態度も強硬である。幕府も愈々窮したらしい。是歳三月長州処分に就ての勅許を請うて、閣老小笠原壱岐守が将軍家の名代となつて廣島へ下つた。藩の要路の佐幕家はいよいよ長州の屈服も近きにあるべしと云うて、意気揚々として居る。勤王家は心配して居る。中にも、諸藩の勤王家から、幕府の表面上達の様ではなく、長州も屈服はしまい。薩州と愈々合体したと通じて来る。それを楯に取つては盛んに反対する。友人五六人会すれば、直に其論が持ち上る。如何程論戦しても尽きない。双方互に熱くなつて、それならば賭をしやう、宜しいと云ふことになつて、折々賭が始まつた。かう感情づくめで、互に極端に走つて居るのであるから、中々先方の云ふ事などは聞きはしない。自分等同志の公平の考は、長州も削封の事に及んだならば、決して無造作には屈服しないであらう。薩州も挙国一致して、助長論ではあるまいが、有力家の多数は其の論である。関東は知らないが、関西各藩は孰れも内部に立入れば、四分五裂の景況である。我が藩でも士格の四分通りは真の佐幕家、五分通りは曖昧因循家、一分通りが勤王家、士格に於ける勤王家は僅々であるが、郷士歩行士以下国中の人民は悉く長州に同情を寄せて居る。かういふ景況であるからして、長州は屈服せぬにしても、幕府の処置如何に因つては、天下は大乱となるかも知れぬと、かう思うたから、吾々は此点に留意して、君侯の大義を御過りなき様尽力しやうと、同志と密会しては種々と運動した。何でも此時分の事である。或日大目付福岡藤次が、郡奉行を召集して、『長州も国内が破裂したから、脱走兵が国境に来るかも知れぬ。厳重に警戒する様に』と口達があつた。福岡は実際長州の破滅を信じて居り、また奉行中の佐幕家は、之を悦んだが、自分等以下の役人始め、民間の庄屋村老等は、之を信用せず、長州滅亡とは怪しからぬ見当違ひ、目先の利かぬ浅慮と、大に冷笑して居つた。すると之と前後して、奉行福岡宮内が、小笠原閣老に召されて、廣島に行つた。高知出発の日は、慥か三月朔日であつたと思ふ。福岡は能く分つた人だが、矢張佐幕家。随行の神山左多衛[後に郡廉、男爵]は吉田派の佐幕家。小鑑察の野崎糺、探索御用山田吉次の両人は、無二の佐幕家である。何故に廣島に行ったのであるか、能くは分らなかつたが、是迄勤王家連中は、幕府から出兵の命のないので安心して居たが、此度の事も或は夫ではあるまいか。若しさうとすれば、長州ならで我藩こそ破裂する。勤王家は要路には勢力はないが、実際上の勢力を持つて居る、故に出兵となると、極力反抗して要路と衝突するに違ひない。実に容易ならざる形勢となつたと、同志と大に苦心した。もとより佐幕家であるから、出兵を拒む様な事はなからう。殊に福岡等も野崎等の説を信用して、帰国して以来は勤王家抑圧の策を取りはしないかと、これも大に心配でならない。局外で真相が分らぬから、勤王家は吾が藩も愈々佐幕に決したと云ひ、佐幕家は過激の徒、勤王を口実として暴挙するかも知れぬと、人心は益々不穏になつた。が後で福岡自筆の日記を見ると、夫等は殆ど杞憂に過ぎなかつた。即ち其の次第と用件はかうなのだ。大坂の板倉閣老からの命令で、同地留守居役の石川石之助が出頭すると、長州処分の事に就て家老一人廣島へ出張させよとの事。兎角留守居役などには、ツマラヌ者が多いが、石川も矢張その類で、黙つて居れば宜いに、窺書などを出して、家老出張の際には兵隊を率いて参るのでありませうかなどと、余分の事を窺つて居る。若し出兵せよとなつたら、夫こそ一大事であるが、幸に其の事がなかつたは、何よりである。そこで藩からは、前いうた連中が廣島へ行つて、小笠原閣老に推参すると、『此度呼寄せたのは別の事ではない。長州処分の後肥前と共に人心鎮定方をやる様に。土佐派長州とは外ならぬ縁家の事である。且つ国政も行届いて居るから、土州で其の任務を引受ければ、治り方も宜いといふ将軍家の御意。肥前も同様の譯。これに就ては意見もあらうが、凡て大名の処置となれば、昔から御心添を他藩に命ずる先格であるから、左様心得よ』といふ命令、福岡がいふには、『御尤の事ではあるが、大膳の養女を土佐守の妻にして居つたが、先頃来大膳臣下ども爆発して、既に朝敵となつて、御征伐をも仰出されたので、其の妻を別離して通路が塞がつて居るので城外に閉居させて居るのみならず、国内暴徒跋扈の時は、三藩(※魚住注。土佐藩は薩長両藩とともに勤王三藩と言われた)などと称して居つたが、其後国情が一変して来たのを長州では非常に憤恚して、全く絶交の姿となつて居る。昨年来首魁を殺戮したが、国内は依然として不穏である。何時余燼が再燃するかも知れぬ。現に長州に意脈を通じて居るものさへある。かういふ事情故、長州に関する事なら御断する様にと土佐守から申付つて御座る』と謝絶した。夫から種々と談判があつて、『夫ならば事実は兎も角、名前丈で宜しいから引受ける様にと』との事。『然らば一旦帰国して、君侯の御意を承つて返事申上る』と福岡は野崎等を残して帰国した。其の間野崎等は幕臣や小笠原の家臣等に、盛に阿諛して居つた様子だ。

この事に就ては、両侯共に拒絶といふ御意であつたから、老公から御書を閣老に送つた。――福岡は夫を持参して、四月十日廣島に着し、閣老に會つてこれを差出し、更に『土佐から長州の為に周旋するは、害あつて益がない』と拒絶の事を申上げた。閣老も已むを得ず、納得して、暇を呉れたので、福岡等は漸く五月下旬になつて帰国した。肥前の方でも、矢張拒絶した相だ。幕府でも、長州処分に就ては余程手を焼いて、なるべく戦はずして屈服させやうと色々と苦心したが、土佐肥前を心添にしやうとしたのは、ツマリ当時勢力ある二藩が幕府方であるといふを示して、大に虚威を張る手段であつたのではないかと想像される。」】

[参考]

一 慶応二年 防長のご処置・再征討前に、幕府の命により土肥家老が芸州広島に行った記録

土州福岡宮内の手控え(※魚住注。この手控えは以下何ページにもわたって続くので、そのつもりで読んでいただきたい)。

一 福岡宮内[土佐国老]、執政・奉行職として芸州表に派遣される。

一 神山左多衛[福岡宮内の隨勤]、大目付として(派遣される)。下横目が隨勤。

一 野崎糺[右同断(福岡宮内の隨勤という意味)]、御雇い小目付兼探索(として派遣される)

御用下横目一人が同行する。ただし、(この者には)旅中の「御留守居場」(?)の御用取り扱いをも命じられた。

一 山田吉次[右同断]、御雇い探索御用。

一 飛脚番三人[右同]、その都度、国許へ報知のためである。

一 万一、五卿(注⑩)のうち(誰か)、あるいは我が藩の脱藩者などを預かるよう(幕府から)命じられたときは、急飛脚で知らせ、国許より受け取り部隊を即刻送り出す手筈になっている。「内調」(準備の意か)しておくこと。

行程 高知出発 止宿

三月一日

朝倉 横畠 用居 [予州の]熊町 [同]三濱で乗船

二度目は次の通り

四月一日

伊野 横畠 名ノ川 東川 久谷 三濱

一 幕府の命により、芸州広島へ通行の件 御隣領(伊予松山藩)へは(土佐藩の)郡奉行から松山藩の郡奉行へ手紙で知らせたと聞いている。

一 芸州へは、広島藩の家老に手紙で知らせている。

一 滞在中、宿銭が渡され、遣い銭の分は返上する。(※宿銭は宿泊代、遣い銭は旅中の細々とした出費だと思うのだが、遣い銭を返上するとはどういう意味か不明)。およそ五十日のつもりで。

一 以前は大坂廻りの行程をとっていたが、今回はそれをやめ(松山経由で広島に行く)

一 用意金は二百両、五十両、二十両。

右の通り、お仕置き役より支給する。もし不足の時は、急飛脚で国許に知らせる。

一 芸州表での心得などは廉書(注⑪)でうかがい、調べの通り命じられる。

一 大坂においては、最初の知らせは在役(留守居役)より言って来た。次の通り。

板倉伊賀守さま(老中)よりの書き付け

控え

御用があるので、松平土佐守(土佐藩主)の家老一人を芸州廣島表に派遣しておくようにされたい。

(以下は土佐藩の大坂留守居役・石川石之助の報告)手紙でお伝えします。一昨日の三日の夜の四ツ時(午後十時)ごろ、板倉伊賀守さまのところへ出頭するよう通知があったので、早速行きましたところ、別紙の控え(前掲の伊賀守からの書き付けのこと)の通りのご指示がありました。翌四日、別紙覚え書き(後掲)の通りうかがったところ、黄紙下紙(注⑫。同じく後掲)の通り、公用人の口上で(伊賀守の指示を)伺いました。平常の対応でよろしいだろうとは思いましたが、これまた容易ならざることなので、折柄、津田斧太郎が来ていたため、この(家老一人を廣島に派遣せよという)指示の狙いを探索するよう頼んだところ、(津田は)早速、伊賀守さまの屋敷に行き、指示の狙いを尋ねました。すると、それが内々で伊賀守さまの耳に入ったようです。伊賀守さまのご内意として『このたび家老一人を芸州表に呼び寄せることになった。詳しいことは、留守居役でなくては話せないので、同日の夜、留守居役一人が明六日朝五ツ半(午前九時)ごろまでに伊賀守屋敷に来てもらいたい』という通知がありました。そのため、その刻限にうかがったところ、『伊賀守さまの前で直に申し聞かせたい御用がある』と公用人から言われましたので、私は次のように頼みました。『今日、御前に召し出され、直に命じられる御用向きは容易ならざることと恐察致します。このうえは恐れながら、御前のお側近くに行かせていただきたい。御用の筋を聞き違えて問い返したりすれば恐れ入りますので、どうかこのことをお取り成し願いたい』。すると、その時刻になって、(伊賀守の)お側近くに呼ばれ、こう言われました。『このたび土佐守殿の家老一人を芸州表に派遣するようにとのお沙汰について、いろいろ質問があるのはもっともだ。付け紙の通りに通知したが、なおまた深く心配しているようだから、今朝(こうやって直に)話して聞かせる。この件は極秘で、話しにくいことなので、そのことをきっと心得るように』ということを仰いました。そのうえで『このたび芸州表に家老一人を差し出しておくようにと通知した件は、肥前殿・土州殿のお二人に限ってのことである。このたび長州に対する(幕府の)処置がなされ、その処置を長州がお受けしない場合は、お取り潰しになるだろう。(そうではなく)幕府のお沙汰の通りに長州が承服し、事が済んだときに(はじめて)土佐守殿・肥前守殿に働いてもらいたいことがあるので、ご両家の家老を(あらかじめ)派遣しておくようにとの(将軍の)ご意向である』。

このように(伊賀守の話を)お聞きしました。私がいまいろいろ(先方の狙いを)考えますと、長州のご処置が削封(領地を削ること)となり、それを問題なく長州がお受けすれば、和睦になるので、その際に、今後の長州の身の振り方を肥前守さま・土佐守さまより御心添え(忠告とか助言の意か)なさるようにとのことのようです。または、改易(注⑬)になったとしても、(大膳父子は他藩への)お預けになるわけですから、長州が処分を受けた後の身の振り方を心添えしてもらいたいとのことも伺いました。もし長州がお受けなさらぬ時は、お取り潰し・ご征伐になるので、そうなれば、ご家老に御用はないというふうな伊賀守さまの口ぶりでした。以上の通りですが、至極(言外の)意味のあることなので、文章ではわかりにくく、そのことを将監殿(土佐藩家老・桐間将監のこと)に伝えましたところ、ご評議の結果、幸いにも津田斧太郎を公用により早追いで帰国させるということ、なおまた例の通り「役場ヨリモ御達為仕候段被仰聞」(※意味がよくわからないので原文そのまま引用)、なお(言外の)意味があって文章で表現しがたいところは斧太郎が詳細を説明しますので、委細は御詮議を仰せつけられたく、このことをお伝えします。以上。

二月七日 [大坂留守居役]石川石之助

参政 村田仁右衛門さま

同 眞邊栄三郎さま

同 森権次さま

同 後藤象次郞さま

覚え

松平土佐守の家老一人を、御用のため芸州廣島表へ差し出しておくようにと(幕府に)命じられましたが、以前から長防の状況によっては、時としてご加勢を命じられることもありえると言われておりますので、このたびは軍勢を召し連れて出張すべきか、または家老一人を平常の姿で出張させるべきか、どちらかのご指示をいただきたい。

一 出発の日限は各段命じられていないので、だいたいのところのご指示いただきたい。

右の諸点についてご指示がないと、国許で事情を調べて対処することが難しいので、お伺いします。以上。

慶応二年二月 松平土佐守内 石川石之助

右の伺いの付け紙(伊賀守側の回答)

加勢をするというのではなく、廣島で御用があるので、ご家老一人を差し向けられればよろしい。もっとも軍勢を召し連れるなど、かれこれのところはご国法がおありだろうから、「其御手心持可然事」(※意味不明のため原文そのまま引用)

一 出発の期限については取り決めがないので、なるべく用意がととのい次第、廣島へ向かわれるように。

右の通り、ご承知おきくださいと、(伊賀守の)公用人・高田直より口頭で伝えられた。

【注⑩。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、七卿落(しちきょうおち)は「1863年(文久3)三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の尊攘(そんじょう)派公卿(くぎょう)が長州藩に落ち逃れた事件。尊攘急進派の公卿は長州藩はじめ尊攘志士と提携して、攘夷(じょうい)強行、朝権奪回の運動を進めていたが、会津、薩摩(さつま)両藩ら公武合体派による八月十八日の政変により失脚し京都を追われた。すなわち同日三条実美、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、四条隆謌(しじょうたかうた)、沢宣嘉(のぶよし)、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)ほか6名の公卿が、参内、他行、他人面会の禁の朝譴(ちょうけん)を受けた。そこで久坂玄瑞(くさかげんずい)、真木和泉(まきいずみ)、長州藩重役らと事後策を練ったすえ、上記7人の公卿は一時長州藩に逃れ再起を図ることに決し、翌19日京を脱出、21日兵庫より乗船、27日周防(すおう)三田尻(みたじり)の招賢閣に入った。64年(元治1)禁門(きんもん)の変に際し、諸卿の上洛(じょうらく)が計画されたが、長州藩が敗北したため中止となり、長州藩内事情の変転もあって翌65年(慶応1)三条、三条西、東久世、四条、壬生の五卿は九州大宰府(だざいふ)に移り、王政復古まで滞在した。なおこの間、錦小路は病死し、沢は生野(いくの)の変に参加し敗走している。[佐々木克]『末松謙澄著『修訂 防長回天史』復刻版(1980・柏書房)』」】

【注⑪。精選版 日本国語大辞典によると、廉書(かど‐がき)は「数えあげるべき箇条、理由などを書きしるしたもの。」】

【注⑫。精選版 日本国語大辞典によると、下紙(さげ‐がみ)は「意見や理由などを書いて公文書などに添付する別紙。付箋。さげふだ。」】

【注⑬。デジタル大辞泉によれば、改易とは「江戸時代、士分以上に科した刑罰。武士の身分を剥奪し、領地・家屋敷などを没収する刑。蟄居ちっきょより重く、切腹より一段軽い。」】

(続。福岡宮内の記録はまだ延々とつづきます。こうした細部を知ることにより、歴史の実相が見えてくるのではないかと思っています。いつものごとく誤訳がたくさんあるかと思いますが、ご容赦ください)