わき道をゆく第247回 現代語訳・保古飛呂比 その71
(幕府の命で広島に出張した土佐藩家老・福岡宮内(注①)の記録の続き)
一 ご隠居さま(山内容堂)より、(老中の)小笠原壱岐守さま(注②)へお手紙が送られるはず。
【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、福岡孝茂(ふくおか-たかしげ1827-1906)は「幕末の武士。文政10年生まれ。土佐高知藩家老。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)にまなび,藩主山内豊煕(とよてる)・豊信(とよしげ)(容堂)につかえ藩政を統括。吉田東洋暗殺後,一時免職となったが,再登用され,元治(げんじ)・慶応のころには藩兵をひきいて清和院門を警固。鹿持雅澄「万葉集古義」の稿本を宮内省に献納している。明治39年12月25日死去。80歳。通称は宮内,健三。号は麗水。」】
【注②。朝日日本歴史人物事典によると、小笠原長行(おがさわら・ながみち。没年:明治24.1.22(1891)生年:文政5.5.11(1822.6.29))は「幕末の老中。唐津藩(佐賀県)藩主小笠原長昌の長子に生まれる。2歳で父を失い,他家から入った藩主のもとで部屋住となる。安政4(1857)年藩主長国の世子となり藩政指導に当たる。学識はつとに高名で,文久2(1862)年7月,徳川慶喜,松平慶永の幕政のもと世子の身分のまま奏者番,若年寄を経て老中格。翌年上洛,将軍徳川家茂のもと朝幕間の融和を図るが尊攘派の攻撃にあい失敗,江戸に帰る。5月決断してイギリスに生麦事件の償金を支払い,向山一履(黄村),水野忠徳らと兵約1500を率いて大坂に上陸,尊攘運動の抑圧を図るが朝廷の反発を招き,免職された。慶応1(1865)年9月老中格,次いで老中。翌2年長州処分執行のため広島に出張,小倉に渡り九州方面の征長軍指揮に当たるが,戦局は不利に進行,家茂死去の報を得て小倉を脱す。10月免職・謹慎。翌11月老中に復職。鳥羽・伏見の戦の後の明治1(1868)年2月,老中を辞職し世子の地位も放棄。江戸を脱走,奥羽越列藩同盟に加わり板倉勝静と共に参謀役。同盟崩壊後,箱館五稜郭に入る。翌2年4月戊辰戦争の最終段階,箱館戦争の最中,アメリカ船により帰京,潜伏。同5年姿を公にするが,その後も世間を絶って余生を送る。「俺の墓石には,声もなし香もなし色もあやもなしさらば此の世にのこす名もなし,とだけ刻んで,俗名も戒名もなしにして貰いたいなあ」と冗談を交えて遺言。子の長生は世間並みの墓石を作った。<参考文献>『小笠原壱岐守長行』(井上勲)」】
一 小笠原侯へ松魚節(かつお節)三十本を贈呈するようにとのご指示を受け、仕置き役がその手配をすると、左多衛(広島行きに同行する神山左多衛のこと)が言って来た。 これは、ご隠居様より(壱岐守の)ご厚情への感謝の印として(贈られる)。
一 広島での申し立て・御用向き伺いなどの草案は、両殿様(豊範と容堂)が気に入られないとのことなので、なお検討を要する。左多衛へ渡しておく。
これは二月二十八日(のことである)
一 万一、(毛利)大膳父子の身柄預かりの指示が幕府から来るかもしれない。そうなったら実に難渋千万である。お断りを申し立てるべきか。お受けになるべきか。そこのところを前もって詮議して(広島に)行きたいということを、同役の家老や左多衛に伝えた。
これは十に八、九ないことと考えられるが、もしやと議論しても、お受けするとの結論が出るわけでなく、さりとて彼の地(広島)で決断を下すことでもないので、その際は至急の飛脚を国許に送り、ともかく(両殿様の)ご指示を待ち、そのうえでお請けの有無を申し上げることに決まった。
一 今月二十九日、(高知城の)二ノ丸に出勤、(太守さまの)御用を伺ったところ、格別のご指示はなく、かねて検討した通り心得るように(とのことだった)。もっとも事態が変動するかもわからず、(そのときは)小事は専決し、大事は国許の判断を仰ぐようにとご指示があった。
一 (幕府の狙いは)長州の周旋、五卿の身柄のお預かり、大膳父子の身柄のお預かり、この三カ条のうち周旋が「可近[進か]」(※可能性大という意味か)。この件についてはかねて内々に相談した通り、五卿お預かりでも、また大膳父子お預かりの場合でも国許へ連絡する手筈になっている。
右の通り、「占ヲ以テ」(※占いによってという意味か?)覚悟したが、(広島に)着いてから、(幕府の)御用の内容により、(幕府の)下知を受けたうえで臨機応変の対応をすること。
一 三月九日、芸州広島に到着。同十二日、小笠原閣老のところへ参上。次の通り。
小笠原閣老へ参上し、直に受け答えされたことの要旨は次の通り。
三月十二日
初めて小笠原壱岐守さまに拝謁した。野崎糺が同道し、旅館に参上した。(壱岐守の)公用人が出てきて言うには、今日は初めてお目にかかるので、まず御用向きの内容については話さず、如才なく四方山のお話をされるつもりなので、その含みで(壱岐守の前に)で出てください云々。これは今日は、眼目のところは話されないのだなと思いながら、(壱岐守の前に)出たところ、案外にも、次のようなお話になった。
一 公用人の案内に従い、(壱岐守の)御前に出た。まずさしあたりのご挨拶を終えた後、(壱岐守は)こう言われた。「今度、広島に呼び出した用件というのは、まだ正式発表されていないことで、もともと口外は決してできないことだが、およそのところを聞いておかないと大いに心配するだろうから、極秘に内々の話をする。といっても大いに心配するには及ばないことだが、聞かないと安心できないのはもっともなこと。長く言葉を費やすに及ばぬ。一言でわかることだ。長防に対する(幕府の)ご処置が済んだら、その後、(長州)国内の取り締まりについて心添え(助言・忠告をすること)をしてもらいたい。これが眼目である。
土佐藩は長州藩とは他ならぬ縁戚関係にある。それに土佐藩の国政は万端行き届いている。いろいろと土佐藩より助言・忠告があれば、長州国内の今後は大いに治まり方がよくなるだろうと、公方さま(将軍)もかなり期待しておられる。肥前藩にも同様の期待をしておられる。さて、それについては、いかに近親でも、他家の政務を心添えするということは、とても出来るわけがないなどという論もあるかもしれないが、もともと大名に対する幕府の処置があった場合は、その心添えが昔から命じられるのが先例なので、そのように心得てもらいたいとのことだった。
ここで、次の諸点で当惑しているところを口頭で申し上げた。次の書き取りは、つづく十四日に拝謁した際に(壱岐守に)差し上げた。
一 三月十二日、初めて拝謁し、極秘のご懇命(懇ろな仰せ)をお受けした際、憚りながら、(我が藩が)当惑する諸点を言上したときの覚え。
一 毛利家が(土佐・山内家の)縁戚だという事情を見込んでお命じなったのはごもっともですが、大膳の養女を松平土佐守の妻に娶っておりましたところ、大膳の臣下たちが先ごろ来、容易ならざる暴挙に出ました。すでに朝敵の名指しを受け、ご征伐をも命じられましたので、この妻を離別し、城外へ閑居させました。その際、(幕府へ)御届けをし、お伺いしたこともございましたが、(幕府による)ご征伐の最中に、離別した女を彼の方(長州)に帰らせることもなかなかできませんでした。もちろん(長州藩との)音信も絶えておりました。もともとは、国内の暴徒が跋扈していたとき、ともに三藩(薩長・土佐が勤王三藩と呼ばれたことを指す)などと唱えた形になっていましたが、その後、土佐藩が態度を急変させたのを、彼(長州側)は大いに憤り、歯ぎしりしていたわけです。さらにまた、土佐藩の民の中には、長防の勢いに乗じて、暴挙に走る者もいて、かねて詳細を申し上げたとおり、昨年以来、首魁の者の斬罪・割腹などを命じ、鎮定の形には見えますが、今もって余燼が再燃する兆候が絶えておらず、ひそかに防長へ意脈を通じているのではないかといいます。またこの暴徒たちが亡命し、長州の国内にいる者が少なくなく、彼らも生国(土佐藩)に対し、ますます恨みを抱いている模様です。そのほか、長州人が船で土佐藩の西境の海浜に来て、何かを申し入れたいと言って来ましたが、その地に駐屯している者たちがそれを引き受けず、追い払ったそうです。その際、土佐守の妻の離別のことも言い聞かせ、再び来ぬように言い聞かせ、(土佐藩は)いっさい拒絶の国となりました。そのため、あれこれと差し障りがあって、長州人へ直接応接することなどが必ずしもうまくいかないのみならず、かえって幕府のためにならぬことを起こしかねないようなことなるのは必然と、土佐守も深く心配しております。重大な御用向きを速やかにお受けしかねるように申し立てるのは、万々恐れ多いことでありますが、国許を発つときに、もし万一長防にかかわる御用向きだったときは、前に申し上げた通りの事情なので、恐れながらお断りを申し上げるようにと、土佐守に前もって申し付けられて、この地に参りました。右のようにやむを得ぬ事情をひとえにご憐察いただけるようにお願いします。恐懼謹言。
三月十四日 御名内
福岡宮内
なるほどいろいろ難渋の様子はよくわかった。すでに述べたように、もともと先例に基づくことなので、名目だけでよろしいことだ。彼の藩(長州藩)へ立ち入って、直にどうこうするというわけではない。大名に対する重大処分を行うときの定格ゆえに、そのお膳立ては揃えなければならぬ。しかしながら、その実際に至っては、その家(毛利家)に立ち入り、政事向きのことを何から何まで世話をするというわけではない。その辺のところは何も深くご心配に及ばぬことと思う。しかし、事情を知らぬゆえ、大いに取り越し苦労をなされるのははなはだごもっともながら、既に述べたような事ゆえ、何も強いて御苦労なさるべきことではない。さて長防のご処置が済んだら、白黒・邪正の差別もはっきりつくだろう。そうなったら、長州も本来の長州になる。彼の暴徒は何んとかなるわけだから、(長州は)正義の国に復することになる。今でも長州国内の模様を探ると、長州を挙げて暴徒というわけでもないようで、必ず(幕府の)ご処置が行われれば正義に帰するわけだが、その正しい視点から土佐藩を見れば、(土佐守の)妻を離別されたのもごもっとも、(暴挙をした)土佐藩の者たちを断然とご処置されたのもごもっとも、長州人が船で来たのを受けつけず追い払ったのもごもっとも、探索を(長州藩内に)入れたのもごもっともと思うようになれば、直に長防に踏み込んでも、むかっ腹を立てて恨みはせぬことだろう。そうであれば、心添えの一切ができぬと結論づけるけでもあるまいと思われる。その辺はいかがであろうと(壱岐守が)言われた。
(宮内の応答)おっしゃるように(長州藩が)正常な状態に復して、正しい視点で見れば、(土佐藩を)恨むことはないでしょう。しかし、大藩のことです。かつまた、藩内に正邪の別があっても、邪のために動かされたゆえに、現在の長州の姿になったのであって、長州藩の痼疾が全快するのは難しく、議論通りにもいかぬこともございましょうか。とにかく私は主命を受けて来ていますので、自分一人の考えで、即座にお請けすることは難しいと申し上げたところ、(壱岐守は)また次のようにおっしゃった。
なるほど主人のご命令を受けておられるので、それはもっともだ。ところで、まだまだ極々機密のところがあって、そこは尊藩の正議(正しい議論)にかかっている。容堂殿はとくにご英明で、天下の期待を集めておられる。その藩よりご家老が出てこられたということが眼目だ。ご高名の御方から右の通りと説明されるということが、大いに公方さまのためにご都合のよろしいことだ。ここは機密のところだ。よくよく理解してもらいたい。貴兄が当地(廣島)に出てくると聞いて、大いに我らは力づけられた。貴兄の見通しも承りたいとおっしゃったので、次のように申し上げた。
これは思いがけぬお言葉をお聞きしました。(土佐藩の)国政が行き届き、(容堂公が)英明などと言う人があるのでしょうか。それはすべて虚名でして、その実は、そのような徳は決してございません。次に、私は当地へ出てきましたが、元来愚昧で、そのうえ片田舎にいて、何らの情勢をも心得ておらず、土佐藩内の小事ですら埒が明きません。いわんや重大な事柄について何の役にも立つわけではありません。そのうえに陪臣(大名の家臣)の身分として、(幕府の)ご大政に関係することを評論し、建白などするというのは、まことに恐れ入る次第です。前々からそのような分不相応なことをせず、陪臣の分を守るよう、つねに言い聞かせられておりますと申し上げました。すると、(壱岐守が)こう言われた。
それはなるほどみだりにご大政の評論などせぬようにとの教えはごもっともなことである。しかしながら、それはまた大変な謙遜であろう。こちらから求めた時に、(貴兄の)見込みのところを言ったとしても、何も出過ぎたまねというわけでもないだろうと(壱岐守が)言われた。
それで、またこう申し上げた。謙遜というわけではありません。前に申し上げた通り、主人(容堂)の英明などということも思いもかけぬことです。私のことも同じでして、このままいたずらに(広島に)出ていても、何のお役にも立つというわけでも決してございません。極秘のお考えを拝承しましたら、いよいよ心配恐縮しますと申し上げた。(壱岐守は)また次のように言われた。
是非ともお断りということであれば、ただいま我らが言って聞かせた事柄を捉えて、とやかく議論するようなことがあると、我らにおいてもはなはだ迷惑する。元来、未発表の事柄で、決して口にしてはならぬことであるが、ほからぬ土佐藩のこと、お互いの親しさに任せて、その方の覚悟のために、極秘で言って聞かせたことだから、このことを声高に議論することになっては、大いに迷惑である。第一には、密事が漏れたら、国が乱れるか治まるかの瀬戸際に臨んでの(幕府の)ご処置に関係する事柄ゆえに、幕府にとって極々不都合になるので、返す返すもここのところをよくよくわかってもらいたい。いずれにせよ、表立って幕府の指示を知らせることになるので、いよいよお断りということであれば、その時に公然と申し立てるようにしてもらいたい。表立っての幕命だからといって、極々やむを得ぬ事情により、(お断りを)申し立ててはならぬというわけではない。なにぶんただいま未発表の内密話をとらえて声高に議論することになっては、はなはだ不都合。我らも親しさに任せて密事を漏らしたというようなことになっては、立場がなくなるから、そうした事情を返す返すも含んでおくようにとのことで、とにかくいろいろと言って聞かせたことをよくよく考えるようにとの仰せだった。
ここで、そういうことであれば、いったん退いてよく考え、そのうえでまたやむを得ず言上することもございましょうと申し上げた。これより四方山の話になった。すべて非常にご懇意なお言葉だった。ずいぶん我が藩を頼りにしておられるようにお見受けした。(壱岐守さまは)この日も大小監察等の寄り合いがあって、会議を開かれる模様だったので、自分はお暇を願い、退出した。
一 三月十四日、(壱岐守に)再拝謁を願った。次の通り。
恐れながら言上した内容の備忘録。
今般拝謁をお願いしたところ、早速お目通りを許され、ことに当表(広島のこと)での御用向きについては未発表の極々機密の内容にもかかわらず、(私の)覚悟のために極秘事項を教えていただくなど、いろいろ懇切なご指示をいただき、万々ありがたきしあわせに存じます。その際、内々に言上したこともありましたが、それに対して詳しく解説していただき、ご教示いただいた内容をお聞きして、まことに天下が治まるか乱れるかの瀬戸際に大任を担われるご苦心がおありになると、万々拝察いたしました。あれからいったん退出して、とくと考えましたところ、(壱岐守さまの)おっしゃられることのご趣旨はまことにごもっとも至極に存じますが、先日言上しました通り、かねて主人より言い聞かせられておりますこともいろいろありまして、主命に背くことも(あってはならぬと)、臣下の身分として大いに当惑しております。愚昧の私としては、一身に相反することを迫られ、進退の道を失うことになりますので、どうか私の心中を汲んでいただきたいと存じます。よって、ただ今のうちに一度国許に帰り、(壱岐守さまの)ご趣意の詳細を主人に伝えまして、その上で再び(広島に)参りまして、表立って発表されるときになって、とやかく申し上げないようにしたいと思いますので、いましばらくのお暇をいただくというのはいかがでありましょうか。なるべく道中を早め、わずかの日数で往復するつもりですので、ひとえにご賢察いただき、願いの通り許していただければ、土佐守におきましてもありがたく、安心するかと存じますので、このことを伏して歎願します。誠惶頓首謹言。
三月十四日
右の記述の内容を詳しく申し上げたところ、次の通り(壱岐守が)言われた。
(その方の)申し出ははなはだもっとも至極と思う。ところで、肥前藩の家老よりも長防の取り扱いが「相整不申段達シ申出候ニ付」(※正確な意味がわからないので原文そのまま引用)、(土佐藩に対するのと)同じことを申し聞かせたところ、そのようなご趣旨であれば、大いに安心しました。しかし、国許を出発する際に主人より言われたことなので、帰国のうえ返事をしたいと言って来たが、ただいま(広島に)着いたばかりで帰国したら、まさに外見もあって、つまらぬ風評など立ってはよろしくない。せめて二、三カ月が立った後ならば、また都合もよいだろうが、ただいま帰っては、幕府のためにはなはだ不都合なので、まず書簡で伝えるように言い聞かせたところ、その通りにすると申し出て、急ぎの飛脚を仕立て、自身は廣島に居留している。そのへんのところはいかがか聞かれたので、次のように申し上げた。
なるほどごもっとものことです。私も書簡で伝えるべきかと考えましたが、書簡では十分に意を伝えることができず、また(先方から)尋ね返してきて、再三往復することになっては、かえってうまくいかないので、ただいまのうちに国許に帰り、直に詳細のところを述べれば、よく当表(広島のこと)の事情もわかるので、そのほうが早道だと考えました。また、御用向きの事柄は極々の密事なので、書簡では不安心だと存じます。そのうえ詳らかにしたいことが(私の)文筆力では及ばないので、何分にも期限が迫らぬうちに、立ち帰るお暇をいただきたいと存じます。そうなれば、表立って御用の向きを発表される際になって、違背めいたことを決して申し上げぬよう、未発表の間によく検討しておくよう取り計らいたいのです。正式発表されてからとやかくと申し上げるのは、重ね重ね恐れ入りますので、ただいまのうちにお暇を願えればありがたき仕合わせと存じますので、ここのところを幾重にも察していただき、何とぞ願いの通りお許しくださるようにと申し上げた。(壱岐守は)また次のようにおっしゃった。
そういうことであれば、国許に行ってよろしいだろうと言われ、さらにおっしゃったのは、その方はもっともと思うのであれば、先日言い聞かせた方向でことが運ぶよう、帰国して尽力する考えなのかと聞かれた。
(私は)もちろんのことです。ごもっともと存じますので、なるだけ尽力して、近日のうちに当表(広島)に再出張するつもりです。
(壱岐守の言)その考えならば、何分にも尽力してくれるよう頼む。しかしながら土佐守殿・容堂殿のお考えの程は計りがたく、もしや思し召しがあられても、我らの言い聞かせた内容を詳しく申し上げたなら、もっとものことと聞き入れてくださるだろうか。その方の見込みでもその方向にことが運ぶだろうかと聞かれた。
(私は)先日来お聞きした内容を詳しく報告すれば、無理なこととは思わないでしょう。長防に入り込んで、直に応接などするに及ばぬという、極秘の意図まで細密に説明すれば、再び広島に出て、なるだけのところはお請けするよう言われるだろうと推察しますので、帰国したら、私の力が及ぶかぎり(壱岐守の)ご趣意通りにことが運ぶよう、弁論するつもりですと申し上げた。
(壱岐守が)またおっしゃるには、幾日くらいで往復するかというお尋ねだったので、
松山領の三濱へ船で渡り、それから陸路をごく急ぎますので、二日二夜くらいで城下に着きますと申し上げた。
それなら何日ごろ出発するかとおいうお尋ねなので、
ただ今よりすぐに用意にかかり、明朝にも出発します。このたびは一日も早いほうがいいと思いますと申し上げた。
それは迅速なことだ。それなら、容堂殿から書簡をいただき、土佐国産の名品を贈ってくださったお礼を申し上げたいので、明日夕または明後日の朝、出発することにしてもらいたいと仰ったので、
さようでございますなら、明日夕は「仕置」(※待機の意か)します。お手紙がおできになったら、野崎糺へお渡しくださるよう願います。もしまた私へ直接仰せつけられる御用向きがおありになったら、ご連絡があり次第参上いたしますと申し上げて、退出した。
なお退出のとき、次のように(壱岐守が)おっしゃった。
そのほうが申し立てたことは、我らにおいては至極もっともと受け止めたので、(土佐に)行くのはよろしいと言った。が、(このことは)大小監察等へも一応は告げ知らせなくてはならぬ。今日は寄り合いもあるので、(その方に)言って聞かすべき格別の意見も出ないだろうが、万一何かの申し出もあるかもわからない。そのほか別に申し聞かせておく用事はないか、なお考えておくとおっしゃったので、承知しましたと申し上げ、退出した。
ただし本文の通りなので、もしや異論が生じるだろうかと思っていたが、その後、何の連絡もなく、野崎糺が(容堂公ヘの)書簡を受け取りに参上した際、宮内に対してほかに御用の向きはございませんかと、さらに伺ったところ、何も別に御用はないというお答えだったとのこと。
皆がそろって(広島から)引き取ってははなはだ不都合である。世間体もある。我らは(宮内らが)早く帰ると知っていても、他人はそれを知らない。あるまじき風評が立ち、人心の疑惑を生じてはよろしくない。そのうえ肥前藩の手前もあるので、(宮内が国許に行って帰ってくる間)野崎らを残しておいてもらいたいとおっしゃった。
承知しました。当地の情勢探索の役目もありますので、以前から残しておくつもりでした。野崎らからも、宮内が国許に戻ったことを口外して、人心の疑惑を生じさせるようなことは決してありません。そのへんのところはご安心くださいと申し上げた。
(壱岐守からは)その方のことだから、はなはだ都合がいいのだと言われた。また、時候の移り変わりによく気をつけて行くよう、遠路御苦労などと労いの言葉をかけられた。
以上はこのたび芸州へ行き、帰路につくまでの経緯を記した。
追加
一 (壱岐守の)書簡を受け取るため野崎糺が参上したところ、拝謁を命じられ、直接書簡を渡された。さらに(壱岐守が)言われるには、宮内がこのたび帰国するのは余儀ない事情による。しかしながら、なおまた一日も早く再び戻ってくるのを待っているので、くれぐれもこのことを言って聞かせてほしいと仰せとのこと。当方が書状を書き上げるのが大いに遅くなっていて、このようなことを言いいにくいのだが、何分よろしく伝えてもらいたいとのことだった。
一 再び廣島表へ派遣された経緯は次の通り。
三月二十九日
深尾左馬之助(土佐藩家老)より、次のように言ってきた。
東邸へ参上して、(貴兄の)ご相談の事柄を(容堂公に)言上したところ、(長州藩ヘの心添えをすることに)同意なさらなかった。「なるべく文書で断るよりは、文書なしで直接返事をした方がいいだろう」と言われ、「それにしても二ノ丸(藩主・豊範のこと)はどうなんだ、二ノ丸の考え次第だ」とおっしゃったので、すぐさま二ノ丸へ参上して詳しいことを言上した。すると、これまた同意されない旨をおっしゃったので、自分(深尾左馬之助のこと)は「宮内が広島に行くとき、こちらの考えは前もって申し聞かせた通りだ。このうえ不敬にならぬようにお断りすべきだ。もっとも文書での返答を求めているが、宮内を派遣するのだから、それには及ばぬ。詳しいことは同役(の家老)たちに申し聞かせたので、彼らと相談せよ」とおっしゃったらよろしいでしょうと申し上げておいた云々。
宮内が二ノ丸へ参上したところ、(太守さまは)次のようにおっしゃった。
詳細は先日も申し聞かせたように、さらにまた不敬にあたらぬように考え、お断りするように。ただし(壱岐守あての断りの)文書は、そなたが行くので格別出さない。ただしやむを得ぬ事情があったら、そう言ってよこすようにとおっしゃった。左馬之助らに言い聞かせているので、彼らとさらに相談して(廣島へ)行くようにとおっしゃった。
(宮内は藩主の指示を)「相応」(※相応とは~にふさわしくとか、釣り合ってとかいう意味だが、この場合何に対して相応なのかよく分からない)にお請けした。そのうえで次のようなことを申し上げた。(壱岐守が容堂公のことを)ご英明であり、(土佐藩の)政事が行き届いているなどと言われたが、そうした虚名は思いも寄らないことなので、勘弁させていただき、お断り申し上げること。もちろんこのことについては、先方でも格別のお言葉はないと思います。次に、長防心添えの件は、かねて申し上げておいた通りの事情で、何分難渋しますのでお断り申し上げますが、先方はどのようにおっしゃるでしょうか。それはわかりかねますが、前におっしゃっておられたように(幕府の)発表にのみ申し立てるようにとおっしゃるか。またはもともと大坂での台命(将軍の命令)なので、広島での応答は難しいため、さらに大坂で(将軍のご意向を)伺ったうえで、その後で返事をするとお答えになられるか。
いずれにしても広島での(壱岐守による)専決はないはずと考えます。そうであるなら、まず手を拱いて待つことになり、やむを得ずだらだらと日を過ごすことにもなりましょう。そうなったら、大いに待ち遠しくなられるかと存じます。これはただいまよりわかりきったことですので、前もってご承知置きくださいと申し上げた。
(藩主は)なるほど時間がかかることになるだろうな。そのようなことになったら、考えがあるとの仰せだった。
おおむねこういうことで(藩主の前から)退出した。そして、早速、深尾左馬之助方ヘ行き、直接会って話したところ、太守さまと同じことを言ったので、もちろんこのうえは彼の地(広島)へ行き、お断りすることを精一杯言葉を尽くして説明するつもりだ。しかしながら老中よりどのようなお答えがあるだろうか。それがわからない。力の限り、お断りのところを語り尽くし、どうにもならぬときになったら、そのことを国許へ言上するつもりだ。とてもただ今の見通しでは、お断りの目的を遂げるという見通しはない。しかしながらお断りせずにおくべきではない。精一杯言葉を尽くすことはもちろんのことだ。そのうえで、かねて老中が言われた通り、正式発表のうえでなくては取り扱いが決まらぬので、そのときを待つようにとお答えがあるだろう。または元来大坂での台命なので、お断りのことはもっともながら、広島での老中の専決はできぬとのお答えがあるだろうか。いずれにしてもすぐに役目を終えて引き取る運びにはならぬ。誰であってもきっぱりと根の抜けるようにお断りができるような見込みはないと思うので、宮内が広島に着いてから尽力はするものの、ついに力及ばぬときが来るだろう。これは今からはっきりしていることだ。しかしながら、ご隠居様の書簡も出されるので、思いのほかのなりゆきになることもあるだろうか。それは十に九までかなわぬ見込みなので、このことは貴様にも先日以来たびたび話してご承知のことながら、ここはなお聞いておいてくれ。拙者もお断りがついに成功する見込みは立たぬというのが答えである。よって、行けるところまで行って、そのうえで力が及ばぬところまで至ったなら、国許にそのことを知らせる手筈にする。
ただしこのたび広島に着いてから、彼の地の模様がどうなっているかわからず、向こうに残っている者もいるので、彼らにすぐに尋ねて、知らせるべき点があれば、飛脚を立てる手筈にしている。
一 東邸へ参上したところ、(容堂公は)今日は会う時間がないので、明朝四ツ時(午前十時ごろ)までに来るようおっしゃったので、ひとまず下がった。
同三十日
一 東邸へ行き、[文の脱落個所があるようだ]通り、おっしゃった。
一 だいたいの趣旨は「表」(※二ノ丸の公的スペースのことか)で聞いたかとおっしゃった。伺いましたと申し上げた。その通りで、別に言い聞かせることはないと言われた。
一 書簡を(壱岐守に)差し上げられるというので拝見するよう言われた。文意の大要は次の通り。
長防に対するご処置が済んだら、国政の心添えをするようにとの件はお請けできません。肥前藩も同様と存じます。しかしながら表立って(幕府の)ご指示を受けた後でお断りをしては恐れ入りますので、なにとぞ今のうちに、両藩とも公辺(幕府)より御用済みになるようお命じになれば、それが公辺の御為(おんため)と存じます。もしや堂々たる(幕府の)ご処置に諸侯の力をお借りになったなどと言い触らされては無念の至りであります。閣下は賢明なので、どうして道理に外れることがありましょうか。どうして無策なことがありましょうか。[なお、諸侯の重大処置には、必ず国政の心添えがあるものだ云々は杓子定規だという意味の記述があった]
以上の意味合いなので、さらにまた宮内よりその趣旨を徹底するよう申し立てよとのことだったので、慎んでお受けした。しかしながら、小笠原侯は広島で専決することはとてもできないと存じますと申し上げたところ、それは出来ぬわけだから、大坂へ伺うとか何とかいうことになると思う。結局はこの(手紙の)通りになるだろうとの見込みがおありになるということだった。
一 このたびも小笠原侯へ鯨肉をご進物になるので、彼の地で都合良く取り計らうようにとおっしゃり、お手紙の中ではそのことは触れないとのことだった。
右のことは御膳番の高屋尚吉の申し出によるもので、先日かつお節を贈られた際には、書記役たちが守護して送り届けるよう命じられた。そのときの「手形」(※関所手形のことか)の通りでよろしいようなので、御用役にその旨を伝えておく。
(続。福岡宮内の手記はまだ続きます。相変わらずの拙い現代語訳で、読者にご迷惑をおかけして申し訳ありません。それでも、長州征伐をめぐる幕府と土佐藩の駆け引きの一端を読み取っていただけたら幸いです。)