わき道をゆく第248回 現代語訳・保古飛呂比 その72

▼バックナンバー 一覧 2024 年 11 月 7 日 魚住 昭

一 再び広島表に到着して小笠原侯に拝謁を願い、かつ、大目付と対面したことなどの経緯。

四月十日の拝謁の際、極秘歎願の言上の手控え(=心覚えに書き留めておくこと)

先日、極秘で仰せつけられたご用件を逐一主人に伝えましたところ、「これまでのご懇意により、公表しがたい事柄をもいろいろご教示いただき、そのご厚志はありがたき仕合わせ、感謝の言葉もなく、返す返すお礼を申し上げよ」と言いつけられました。とりわけ、極秘の密旨(秘密の命令)の内容であることや、折角のご厚意のことなど、かれこれ承知しているのですから、もちろん早速(幕府のご指示を)遵奉すべきところですが、国内が治まりかねていることは毎々申し上げている通りです。徳が薄く、不肖(未熟で劣ること)の身としては、虚名(※魚住注。これは小笠原が「土佐藩の国政は万端行き届いている」などと述べたことを指している)をもって極秘の任務に当たるわけには決してまいりません。たとえ、徳があったとしても、幕府のためになりませぬ。いわんや名と実がつりあわぬ身としてはなおさらのことです。天下の笑いを招き、恐れながら幕府のご威光を汚すのは必然で、まことにもって(幕府のご指示は)思いもよらず、恐縮の至りです。また長州藩に対する幕府の処置が済んだ後、心添えをするようにということも、先日、内々にお耳に入れました通り、(長州藩は)すべて拒絶の国柄なので、協力し合うのは難しく、たとえ名目ばかりのことであっても、「名をもってその実を責める」(※よく分からないのだが、その名目によって実態が評価されるというような意味だろうか)のは人事の常態ですので、遂に逃れがたいことでもありましょうか。それだけでなく、(幕府の指示を)実質の伴わぬ空名によってお受けしたら、やはり前述の極秘の事柄が関係しますので、何しろ幕府のためにならぬことだと存じます。そのようなわけで、万々やむを得ぬことで、よんどころなくお断り申し上げるようにと主人から言われました。しかしながら、いまだに正式発表されていない事柄で、とやかく申し立てるのは恐れ入りますけれども、正式の発表になった後で、それに違背するようなことを申し上げるのは、ますます恐れ入りますので、むしろ、ただ今のうちに十分にご評議していただき、(こうした土佐藩の実情を踏まえて)慈しみ深いご命令をいただければ、万々ありがたき仕合わせに存じます。このことは、(小笠原公の)ご厚意に甘え、極秘をもって余儀なき事柄を言上いたしました。主人は深く心配し、恐れ畏まっております。そこのところをよろしくお察しいただきたく、伏して歎願いたします。誠惶誠恐、頓首謹言。

四月十日 松平土佐守内 福岡宮内

この文書を持参し、拝謁の際に差し上げるつもりで控えていたところ、大目付の永井主水正殿・室賀伊予守殿、お目付の牧野若狭守殿が面会してくださった。その際、言われたのは、(老中の小笠原)壱岐守殿は体調不良のため、自分たちがまずお目にかかって話を聞くよう命じられたということだった。それで、前もって用意していた手控えの内容をおおむね口述で申し上げ、この文書を主水正殿ヘお渡ししておいた。

一 ご隠居様(容堂のこと)からのお手紙と進物品は(本陣に)参上してすぐ、(小笠原公の)公用人に面会のうえ、差し上げた。

一 (小笠原公に)拝謁を許されたので、公用人の案内により(本陣の)居間に出た。先日の落馬により痛いところがおありになるとのこと。寝床のままで対面を許され、御挨拶を終えて、(小笠原公がこうおっしゃった)

「容堂殿のお考えは、長州藩のご処置後の治め方のところはともかくうっちゃっておくということか、どうであろう」とお尋ねになったので、

「そのところまでは私は問い詰めませんでした。しかしながら、まったくそうではないと考えます。(長州藩が)断然たるご処置を謹んでお受けした以上、自力で国内の取り締まりを徹底するのは当然のことです。一方、外部から国政の取り締まりについて心添えしても、行き届くわけでなく、もともと無益のことです。長州藩は大国であり、人材がいないとは言いがたく、謹んで幕府のご処置をお受けした以上は十分取り締まることができるはずです。万一、取り締まりができず、またぞろ暴動になったときは致し方なく、それはその時に幕府が処置すればいいことだろうという考えだろうと察します」と申し上げた。(小笠原公は)「なるほど」とおっしゃった。

一 「容堂殿は、幕府が両藩(土佐藩と肥前藩)の力をお借りになるという見方をされているのか」との(小笠原公の)お尋ねなので、

「そのような見方ではありません。両藩の者を召し寄せられたので、他よりこれを見れば、その外形から、幕府が両藩の力をお借りになったと見えるかもわからず、そうなったら無念だというのが真意です。ですから、ただ今のうちに(我々に)当地を引き取るよう命じていただければ、そのようないわれなき流言もなくなると思います」と申し上げた。

一 京都の警衛を任せられておりますので、(京都と広島の)両端に分かれたのでは行き届きません。当地(広島)での御用向きについてはまだどういうことを命じられるかもわかりませんが、京都の警衛に専念できるようにしていただきたいと、(土佐藩が幕府に対し)表で申し立てるのはいかがでしょうか。これだと、極秘事項に触れません。表で答えたいという含みですので、悪しからずお指図をいただきたいと存じます」ということを申し上げた。

「そうした事柄をなおよく考えておこう」という仰せを聞いて、退室した。

同十三日、拝謁した。神山左多衛が同道した。

一 さる十日に詳しく申し上げておいた件についてのお考えはまとまりましたでしょうか。どういう具合かをお尋ねしたところ、備中倉敷の事件(慶応二年四月、長州藩を脱走した約百人が倉敷代官所などを襲撃した事件)で大いに取り込み、いまだ熟考の暇がなく、近いうちに結論を伝えるとのお答えだった。

一 京都の警衛云々の草案を書いて持参し、内々にご覧にいれた。文面のところなどにお考えがあれば、お指図をいただきたい、これは表で差し上げたいと申し上げた。なおよく検討したいとのことで、お預かりとなった。当座の仰せでは、当表と書くよりはやはり広島表とするほうがよろしいだろうということで、ごもっともに存じますと申し上げた。この文書の文面に対するお考えを(小笠原公が)示されたのは、大いに吉の兆候と思われた。

一 京都警衛と広島での御用、両手に物は持てぬというところと、そのうえ時勢も変動して、倉敷の事件も起こり、以前の見込み通りにいかぬところもあり、ここらの辺でなおよく考慮したいという(小笠原公の)の仰せだった。

京都警衛云々の草案は次の通り。とくとご覧になってくださるとのことでお預かりになった。

このたび御用の件があって、家老一人を当表(広島)へ差し出すようにとのご指示があったので、福岡宮内を差し出しました。その折柄、今般京都警衛の任務を命じられ、ありがたくお受けしました。そのため、急な軍勢のやりくりなど、なるだけ厳重な手配を検討したところ、京都と広島の両端の用向きが混じり合って、はなはだ心配しております。それゆえ何とか当表では御用済みになったという命令をいただき、京都警衛に専念するよう仰せつけられれば、充実した対応ができるかと思います。ところで、これらは勝手がましいことで、重々恐れ多く、容易にお願いしにくいことではありますが、当惑のあまり、やむを得ず、恐れながらお願いしますので、よろしくご評議をしていただき、お願いした通りご仁恵をいただければ、万々ありがたき仕合わせに存じます。以上。

御名内 福岡宮内

この文書を内々にご覧いただくために差し上げておいた。(文書の内容を)ご考慮くださったうえで、お指図をしてくださるということで、退出した。

同十五日

一 御痛所 (痛みのあるところ)ご機嫌伺いとして、小笠原侯の本陣に参上した。今日は会われないとのこと。

一 永井主水正殿(注①)のところへ行き、面会をお願いした。早速お会い下さったので、なおまた最初からの経緯を、順序立てて、詳しく申し述べた。老中(小笠原公)に言上した内容の記録を主水正殿に内々にご覧いただくために差し出し、なおよろしくご考慮くださいと申し述べた。

なお、渡邊松之丞による長州探索の一件を、文書のほかに口述で詳細を申し述べた。

【注①。朝日日本歴史人物事典によると、永井尚志(没年:明治24.7.1(1891)生年:文化13.11.3(1816.12.21))は「幕末の幕府官僚。三河奥殿藩(愛知県)藩主松平乗尹の2子に生まれ,3歳で父母と死別。25歳の年旗本永井家に養子に入り,弘化4(1847)年番士となる。ペリー来航後の嘉永6(1853)年10月目付に登用され,安政1(1854)年7月,長崎海軍伝習所総監理を命ぜられ任地に赴く。同4年3月伝習修業生を率いて海路江戸に帰り,12月勘定奉行。岩瀬忠震らと共に新設の外国奉行に任命され,露・英・仏との間に通商条約を調印した。同6年2月軍艦奉行に転じたが,同年8月徳川慶喜擁立を図ったとして罷職・差控に処せられた。不遇のうちに岩瀬の死を見送る。 文久2(1862)年8月京都町奉行として復帰,翌元治1(1864)年2月大目付に昇進。この間,姉小路公知暗殺事件,8月18日の政変,禁門の変にかかわり,第1次長州征討では征長総督徳川慶勝に随行して広島に出張し,長州藩庁との応接に当たる。慶応1(1865)年5月長州処分方針について老中と意見が合わず辞職,10月復職し上洛。広島に出張し長州藩使節を訊問して幕府にこれを報じる。同3年2月若年寄。大名が補任される慣行のこの職に旗本が任命されるのはほかに例をみない,それほどの抜擢であった。慶喜の側近にあり,土佐藩の運動に注目。大政奉還を実現に導き諸侯会議,公議政体の創出を図る。王政復古の政変ののち,新政府との妥協交渉に当たるが失敗。明治1(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦ののち,敗北した徳川軍を収拾し江戸に帰る。同年2月,恭順謝罪を決意した慶喜により免職・登城禁止に処せられる。8月榎本武揚の艦隊により北海道箱館に赴き,いわば蝦夷地方政権の箱館奉行に推された。翌年5月本営の五稜郭が落城し降伏,東京に送られ拘留。同5年1月赦免され開拓使用掛,左院少議官を経て同8年7月元老院権大書記官,翌年10月辞職し墨東向島に隠棲。同24年4月墨田河畔に旧幕臣を招き岩瀬追懐の宴を開き,程なく病没。(井上勲)」】

一 永井殿の内輪話では、「どれほど迷惑な話であっても(土佐藩に)押し付けて命じるということもできがたい。(土佐藩側の言い分は)至極もっともに思えるので、ご迷惑のかからぬようにしなくてはと考えている。これは拙者個人の考えである。老中の考えはどうだか、それはわからないが、拙者の考えはこの通りである。さてまたご迷惑な事柄がいろいろあるので、容堂さまがご決心された以上、容易にそれを変えられるようなことはないと思う。(老中と容堂公の)間に立つそなたのご心配を十分に推察する」という話だった。「いかにもおっしゃるとおりでございます、私は不調法な者ゆえ、進退の方途を見失うありさまです。よろしくご賢察下さるように」と言い置いて帰った。

一 室賀殿・牧野殿のところへも参上した。多忙ということで、面会はできなかった。

同十八日

一 (神山)左多衛が今朝、小笠原侯へご機嫌伺いとして参上した。永井殿へも参上し、面会を願って申し立てた。(土佐藩の言い分を)なおまた左多衛よりも詳しく述べたところ、「十分承知している、すぐさま老中に伝えておく。なおよく考慮するということなので、(返事を)迫るというようなことも難しい」との答えだったとのこと。「長州藩のことがご迷惑なのはごもっとも。しかし見て見えないようなもの(?)」とのこと。二度言われたとのこと。

同二十八日

一 五ツ時(午前八時ごろ)から永井(主水丞)殿のところヘ参上し、次の通り述べた。

一 先日来申し上げておいた事柄はいかがでしょうか。その模様をお聞かせ願いたい。

壱州公(小笠原壱岐守)のところへ行って、直に申し上げたいのですが、現在、長州藩の名代が広島に出て来ていて、大いに混雑しているとのことなので、まず主水正殿へ参上しましたと言ったところ、主水正殿の内輪話では、「このところ大いにご多忙なので、やむを得ず結論を出すことができず、だからといって壱州公も問題を放置するというわけでは決してなく、あれこれとお考え中である。拙者なども捨て置くということではなく、いずれ遠からず(幕府の)沙汰があるだろう」という内輪の話だった。

宮内より次の通り申し上げた。「実はさる四日、国許から飛脚が到着しました。備中倉敷の騒擾が本国の方へ伝わってきたため、相当に人心の動くことになり、彼の暴徒(土佐勤王党の一派を指す)の輩がまたまたその勢いに乗じて物議を申し立てたということで、それを鎮静化するのに苦労しているとのことです。これについて、土佐守の自筆の諭書を出して、郡下の者どもを教え諭すというような次第に至っておる模様です。その折から、京都警衛を命じられ、軍勢を繰り出しますと、倉敷の騒擾の最中にそのようなことになって、いずれにしても国許は大いに混雑するとのことで、一日も早くお暇が出ることになれば、何とぞ早々に帰るようにと言って来ました。そのためやむを得ず、またまた模様をお尋ねに参りました。また、(土佐の)国内の模様もお耳に入れたくて参上いたしました」と言ったところ、「なるほどそのようなこともあるでしょうな。(倉敷と土佐の間は)遠く離れているゆえ、おっしゃるように(大げさに)伝わっているのでしょう」との話だったので、私は「いかにも仰せの通りです。(襲撃した長州脱走兵の)人数は千四百から千五百と伝わっているとのことです。備中あたりの小藩・天領などをことごとく討ち取る勢いだなどと言うので、ようやく静まっていた(土佐藩内の)暴徒の輩がまたまた台頭しているとのことです」と申し上げた。すると、(永井殿は)「なるほどそのようなご事情ではひとしおご迷惑なことだと思います。しかし、先日来おっしゃっておられた線で、(貴藩の)ご内情に沿った形で事が運ぶだろうと、私だけの考えでは見込んでいますので、そのようにお考えいただきたい。しかしながら内々のお話でありますので、必ずそうなるというわけではありませんので、ここのところをよくよくお含みいただきたい。とかく役柄ゆえに、内々ということも□□(脱字)、必ずそうなるといって毎度困るということもあり、返す返すも必ずそうなると思い込まれぬように」という内輪の話だった。「委細心得ました。なおまた先程申しました理由でやむを得ぬ事情は、なおよろしく壱州侯(小笠原壱岐守)へのお取り成しをお願いします」と申し述べておいた。

五月四日

一 幕府の御用で、今日の五ツ時(午前八時ごろ)の呼び出しを受けたので、壱州公の本陣に参上したところ、さる一日に長州藩の処置を命じられた文書を、心得のため公用人から渡された。それが済んだ後、壱州公にお会いするよう命じられたので、すぐに(壱州公の前に)出て、例のごとく居間で向かい合った。挨拶を終えて言われたのは、「先日来(土佐藩側が)内々に申し立てたことは至極もっともに受け止めた。大坂表(の将軍の意向を)尋ねるので、待ち遠しくはあるだろうが、いましばらく待つように。このことを言い聞かせておく」との仰せだった。

「ただし陸上の御用向きは馬を乗り継ぐので、日数は掛からない。遠からず(幕府の)指示があるから、そのように思っておくように」との仰せである。もはや(こちらから)申す言葉はなく、大坂からの知らせを待つほかなく、退出した。今日は肥前の重役も出てきていて、同様のことを申し渡された。

同八日

一 さる四日の老中のお言葉では大坂に尋ねるということだった。その後の進み具合を聞くことができれば、こちらも大いに覚悟のしようがあるわけで、自分が参上したいところだったが、病気のため、(神山)左多衛が参上した。左多衛がいつごろになるかの見込みをやんわりと尋ねたところ、はっきりと確答はなかったが、近々には大坂よりご命令があるだろうとの仰せだったという。一日の長州の処分言い渡しについて言上するため、お目付が大坂に行っている。これももう帰ってくるはず。「必定此使ニハ相済ミ来ルニハ相違無之ト存ジ候」(※きっとこの使いが用件を済ませて帰ってくるに違いないと思う、というような意味と思うが、よくわからないので文を引用しておく)。(貴藩が)言われたとおりにするつもりだとの仰せだったので、まず近々との仰せは真意にちがいなく、このうえお尋ねする言葉もなく、「猶此上ニ延不申様之所ヲ相考、申上置候段、達出候事」(※なおこの上に延びることはないと考え、そのことを申し上げておいて退出した、といった意味だろうか、よくわからない)。

同十五日

一 昨日、肥前藩の留守居役が野崎糺の旅宿に来て言うには、今月十一日、小笠原公の本陣に行き、公用人に模様を尋ねたところ、はっきりしたことがわからないので(上司に)問い合わせてみると言った。問い合わせたうえで公用人が言うには、浪花(大坂)より連絡があり次第、すぐにご指示があるはず。たとえ夜中でも、その夜のうちにご指示があるだろう。さぞ待ち遠しく思っているだろうとのお答えだったとのこと。

同十八日

一 野崎糺が肥前藩の長森傳次郎に会い、「室賀伊予守殿(大目付)も大坂より広島に帰られたので、もはや御用済みとのお沙汰もあるだろうかと待っているが、今もって何らのお沙汰もない。どう考えるか」と相談したところ、肥前藩ももはやたまりかね、平山建次郎殿のところへ行き、模様を伺ったところ、平山は「重役はまだ(肥前に)帰られていないのか」と、とぼけた話をするので、「こうこうこういうわけでございます」と言った。すると、平山は「そうだったか。拙者は帰られたものと思っていた。それはさぞご迷惑なことだ」と話したとのこと。(肥前藩側が)平山に「室賀侯が広島に帰ってこられたら、御用済みのお沙汰があると思い、待っていましたが、すでにお帰りになっていて、今もって何のお沙汰もありませんので、今日は模様を伺いに参上しました」と言った。すると平山の話では、「なるほど、室賀が広島を出発したとき、土佐・肥前両藩の家老のことも御用件のなかにあったことを、拙者は見ていた。しかしながら、このたび室賀が大坂から帰ってきたのは、臨時に派遣する御用ができ、まずその御用のみで来て、先日当地より持参した文書などは大坂にそのまま置いてきたとのこと。それゆえ両藩の重役のこともいまだそのままかと思う」とのことで、なお室賀殿へ直接伺うよう手配しているとのこと。

なお(野崎は)唐津藩の大野又吉郎に接触して、情報をとるつもりでいたところ、肥前藩より前述の話が聞けたため、当面控えることにした。

以上の通り、糺より申し出てきた。

同二十一日

一 明日九ツ時(正午ごろ)、小笠原壱岐守さまがお会いになるので参上するよう、公用人より野崎糺に切紙(注②)が来たという知らせが届いた。

同二十二日、無刻飛脚(最速の飛脚)を(国許に)送った。

【注②世界大百科事典第2版によると、「ふつうの文書の大きさの料紙を竪紙(たてがみ)といい,それを縦横適当に切ったのが切紙である。正式な文書は,かならず竪紙に認めるが,簡単な私的なものには,はやくから切紙が用いられ」た】

一 今日九ツ時、小笠原公の本陣へ参上したところ、公用人から次のような半書が渡された。

覚え

(貴藩が)申し立てた事情もあるので、帰国するようにされたい。

一 これから(小笠原公が)お会いになると公用人が言ってきた。肥前藩の中野数馬と一緒に(小笠原公の前に)出ると、次のように言われた。

一 御用済みのご命令は本来の手順に戻り、大坂で言い渡すべきである。そのうえで、そなたらの引き取りの件を命じるのが手順だが、それではまたまた大いに遅延する。京都の警衛のこともあるので、本来の順序通りに(大坂からの知らせが)来るのを待つのも難しい。そのうえこの地(広島)のことは我々に委任されている。いずれにしても今日引き取るよう命じることになったので、そのように心得るようにとの仰せである。

「相応御受」(※相応の意味がいまひとつ分からないので、原文そのまま引用)申し上げ、退出した。

一 このため当地を引き取り、明後日の二十四日に乗船と決め、即日出発の無刻飛脚で国許に報じた。

同二十三日

一 お暇乞いに(小笠原公の)本陣に参上したところ、(小笠原公が)お会いになり、そうしてこうおっしゃった。

この(薩摩藩の)建言は赤心より出たものではない。長州を助け、幕府の威光を削ろうとしているようだ。(この建言を持参した)市蔵(薩摩藩の大久保利通のこと)の意中を知るのは難しいが、この時勢に照らせば、その事情は明らかだ。ゆえに老中はこの策を取らない。「不取亦失策ナラン」(※しかし、取らないのは失策になるだろうという意味だと思うが、よくわからない)

四月十八日、老中の板倉伊賀守さまへ薩摩藩・大久保市蔵が持参した書

ただいま内外危急の時節、長州藩に対する幕府のご処置は、その当否により、皇国の興廃にかかわる重大事であり、まことにもって容易ならざることであります。「追々御達ノ趣キモ被為仕」(※意味がよく分からないので原文引用)、なおまた来る二十一日までに大膳父子らが召喚され、もし今度、彼らが(幕府の命令を)お請けしなければ、(幕府が長州に)討ち入ると心得て、(幕府の)お指図を待つよう指示されたと承知しています。一昨年、尾張大納言さま(尾張藩主・徳川慶勝のこと)が征討総督として向かわれ、伏罪(罪を犯した者が刑に服すること)の筋道を立て、解兵まで至ったのに、かえって譴責同様の扱いでした。とりわけ、迅速に上洛せよという朝廷の命令を(将軍が)お請けなさらなかっただけでなく、改めて容易ならざる企てがあるとして長防再征討を命じられ、(将軍が江戸を)進発になり、ついに今日に立ち至りました。将軍が討ち入りを決意されれば、天下の騒乱を引き起こすことは明白であります。

朝廷より、時世相応のご処置で寛典に処すべきだというご意向もありますのに、それを(将軍が)謹んでお受けにならぬという伝聞が伝わって、天下の衆人の物議がやかましくなって、聞くに堪えない状況です。征討は天下の重大行為で国家の大事であり、後世の歴史に恥じぬ大義名分がはっきり立ち、(指導者が)その罪を鳴らし、号令を聞かずして四方が呼応するようでなくては至当とはいえません。凶器は動かすべからずという大事な戒めもあります。当節の天下の耳目は啓(ひら)けています。名分なしに兵を動かすことはできぬということがはっきりと明らかになっていますので、(長州再征等は)かえって撥乱済世(乱を治めて世を正しい状態にする)のご職掌の動揺を醸し出すことになります。前述の天の道理にもとる戦闘は大義においてお供しがたく、たとえ出兵の命令を受けましても、やむを得ずお断り申し上げます。重役どもから(幕府にそのように)申し上げるようにと言われていますので、このことを申し上げます。以上。

四月 松平修理大夫(薩摩藩主・島津忠義のこと)内 木場傳内(注③)

右の通り、大坂表で幕府に届けました。このことを申し上げます。以上。

右同 内田仲之助(注④)

この書面は、老中(板倉のこと)のもとへ大久保市蔵が持参して指し返しになった。しかし、老中が登城して留守の時に(市蔵が)また持参し、強いて置いて帰ったとのこと。そうして、板倉侯が帰館された後、最終的に指し返したとのこと。

右の書面は会津藩より極秘で借り受けたもので、決して下々に漏らさぬようお取り扱いを命じていただきたい。

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、木場清生(こば-きよお1817-1891)は「幕末-明治時代の武士,神職。文化14年7月2日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。仕官前は私塾をひらき,大久保利通(としみち),西郷隆盛らと交遊。西郷が奄美(あまみ)大島に配流されると,島詰目付となり世話をする。のち大坂藩邸留守居。維新後は大阪府判事,賀茂御祖(かもみおや)神社宮司(ぐうじ)などをつとめた。明治24年1月2日死去。75歳。通称は伝内。」】

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、内田政風(うちだ-まさかぜ1815-1893)は「幕末-明治時代の武士,官僚。文化12年12月2日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。江戸留守居添役,京都留守居役をつとめる。禁門の変や戊辰(ぼしん)戦争では軍需品の供給にあたる。維新後は金沢県参事をへて明治6年初代石川県令。8年退官,島津家の家令となった。明治26年10月18日死去。79歳。通称は仲之助。」】

一 亀井隠岐守(注⑤。長州藩の隣藩・津和野藩の藩主)より「内届」(※内々の届けという意味だろうか)。先月二十六日、長州より使者として、木梨半之丞と申す者が来たので市中の外で会ったとのこと。使者が述べたことの大意は次の通り。

このたび(幕府の)お達しがあり、大膳父子が出芸(広島に出てくること)するようにとのご命令でしたので、その名代として、一門の中から宍戸備後介(注⑥)を差し出しました。よって、遠からず何かのお達しがあるだろうと思っておりました。昨年末、(幕府の)大監察による糺問の際には、大膳父子の偽りない心情や藩内の士民の実情などを明瞭に言上し、詳らかにしてもらいたいとの指示書をいただけるものと、国を挙げて渇望しておりました。それにもかかわらず、万々一、世間のうわさのように、我々にとってまったく意外なお達しなどがありましたら、大膳父子はすべて承服するでしょうが、士民においてはあくまで歎願に及ぶでしょう。そうなると、きっと幕府が討ち入りをされるでしょうから、その際にはやむを得ず、臣下の勤めとして防戦に尽力する決心をしております。そうなったときには自ずから藩境に軍勢を配置し、兵備に及ぶことになりますので、このことを隣接の貴藩にお知らせします。

以上の通り、国許より言ってきましたので、お届け申し上げます。以上。

【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、亀井茲監(かめいこれみ(1824―1885))は「江戸末期、石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)藩主。号は勤齋(ごんさい)。久留米(くるめ)藩主有馬頼徳(ありまよりのり)の次男として生まれ、15歳で亀井茲方(これのり)の養嗣子(ようしし)となる。隠岐守(おきのかみ)と称する。藩内改革に努めるとともに、海防にも意を配り、小藩ながらも勤王運動に貢献。維新後は新政府の参与事務局判事となり、神祇(じんぎ)官の首脳として重きをなした。また薩長土肥(さっちょうどひ)に先だって廃藩を実施。明治18年3月23日没。養嗣子の茲明は父の勲功により子爵を賜る(のち伯爵)。[大原康男]」】

【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、宍戸□(王扁に幾。ししど-たまき1829-1901)は「幕末-明治時代の武士,政治家。文政12年3月15日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。山県太華(やまがた-たいか)の養子となり,安積艮斎(あさか-ごんさい)にまなぶ。第2次幕長戦争では,宍戸備後助と名をかえ幕府の問罪使に応対。維新後,山口藩権大参事,司法大輔(たいふ),元老院議官などを歴任。貴族院議員。子爵。明治34年10月1日死去。73歳。本姓は安田。名は敬宇。字(あざな)は世衡。通称はほかに辰之助,半蔵。」】

一 次の各項は、宍戸備後助・小田村素太郎(楫取素彦のこと。注⑦)を監視下において取り調べることになった経緯である。

覚え

一 今月朔日、長州に対する幕府のご処置が言い渡された。同三日に毛利伊織以下四人の者が「本家の名代である備後助はこのごろ病気全快にもなりましたので、何とぞ同人へ(幕府の)ご裁許を言い渡していただきたい」と歎願したけれども、幕府は許さず、ただちに引き取るよう命じたため、同五日の早朝に、一同は引き払った。もっとも、備後助と小田村素太郎は、ほかに御用があるということで、差し止めになった。

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、楫取素彦(かとり-もとひこ1829-1912)は「幕末-明治時代の武士,官僚。文政12年3月15日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。江戸で安積艮斎(あさか-ごんさい)に師事。第2次幕長戦争では宍戸?(ししど-たまき)に随行して広島にいき,幕府側との交渉にあたった。明治5年足柄県参事となり,熊谷・群馬の県令,元老院議官などを歴任。貴族院議員。大正元年8月14日死去。84歳。本姓は松島。初名は希哲。字(あざな)は士毅。通称は伊之助など。号は耕堂。」】

一 右の二人は御用があるので、同九日朝五ツ半時(午前九時ごろ)、国泰寺へ出頭するよう、前日に通知があったが、翌日四ツ時(午前十時)ごろに備後助は体調不良とのこと。「同様ニ御座候ハバ、同人罷出節罷出申度旨断出候に付」(※同じ状態であれば、同人が出頭できる体調になった時に出頭したいと断ってきたという意味か。よくわからない)、備後助の滞在する寺へお徒目付を差し向けられた。(その氏名は次の通り)

橋爪正一郎 河野大五郎

石坂武兵衛 永井謙吉

もっとも当日、国泰寺へ出張の大小監察(大目付と小目付)は、永井主水正殿・平山謙次郎殿である。非常の措置として、別手組・千人隊・小筒組・歩兵ら相応の軍勢で四方を取り囲んだうえ、お徒目付よりたって出頭するよう申し渡したところ、それは難しいと断ったので、そのまま病床に踏み込むぞと再び申し渡した。すると(備後助は)それならば静座(心を落ち着けて静かに座ること)は難しいが、羽織だけで構わなければ出頭しようと言って出てきた。素太郎はかみしも着用で出てきたとのこと。

このとき、備後助の泊まる寺に素太郎が来て、何か評議中だったので、両人一席で言い渡しが済んだとのこと。前もってお徒目付四人を派遣したのは、特に踏み込む場合に備えてのことだったが、このようなことになった。橋爪正一郎が筆頭だとのことで、もっぱら彼が対応にあたったとのこと。

宍戸備後助

小田村素太郎

備後助については最早名代の御用はなくなった。両人とも不審の点があるので、松平安芸守(広島藩主)にお預けになった。

これとは別に当藩(広島藩)へは次の通り。

宍戸備後助

小田村素太郎

右の備後助についてはもはや名代の御用はなくなった。両人とも不審の点があって、その方に(身柄を)お預けになるので、そのつもりで。(両人の)取り締まりを申し付ける。

一 右の両人とも異議なく(幕府の処置を)お受けするとのことだったので、重要な決まりだから、大小(の刀)を取り上げるので渡すようにと言い聞かせた。備後助は一度、「(別室に)行って、ご命令の趣旨を家来ども一同に申し聞かせ、私より説諭を加えないと、心得違いの者がどのような挙動に及ぶかもわからず、心配です」と申し出たが、許容されず、「もしそのような者がいれば、こちらで厳しく対処する」というお答えだった。それなら家来を目の前に呼び出して言い聞かせたいこともあると願い出たところ、公然と申し聞かすことであれば、かまわないとの答えだった。(備後助らは家来)二人を直ちに呼び出し、今日、かくかくしかじかの経緯でお預けの身分となったので、このことを早々に帰国して知らせるよう、道中も神妙に引き取るようにと申し聞かせたとのこと。まもなく当藩(広島藩)より駕籠を二挺用意し、それに(備後助らが)乗り移ることになった。玄関で家来ども一同と対面するのは構わないというお徒目付の指図があって、皆々が涙を幾筋か流して暇乞いをしたとのこと。(両人は)それより幕府の軍勢の警護により、小笠原侯の本陣まで移送されたが、当藩(広島藩)の用意がいまだ整っていないとのことで、その夜は本陣前の空き倉庫に入れられ、翌日になって、当藩へ渡されたとのこと。ただし両人の家来たちは即刻国許へ引き取るよう命じられ、警衛のため歩兵四小隊だけが残っていたが、八ツ時(午後二時)ごろまでに一同引き払ったとのこと。その後で(備後助らがいた)寺の中を調べたところ、[真行寺という寺である]、床下にケベール銃六挺が薦(こも)に包んで隠し置かれていた。また備後助の居間の壁に切り抜いた個所などが見つかった。どうにも進退が窮まって、これからの術策を相談している最中に、予想外に迅速な(幕府の)処置がとられたため、手もなく「御取締付候様」(?)に察せられる。糺問は、先日幕府の命令を受けた高杉晋作以下の人員が揃ったところで始める模様であります。

(続。このところ私が訳しているのは佐佐木高行が自らの日記に引用した土佐藩家老・福岡宮内の広島出張記です。その宮内の出張記には広島藩側の報告書なども引用されているので、引用に引用が重なって、少し複雑な構造になっていますのでお気をつけください。それと、いつものことながら、意味不明の個所がいくつもあって、申しわけありません)