わき道をゆく第249回 番外編 現代新書はいかにして現代新書になったのか
これは今年、創刊60周年を迎えた現代新書について私が書いた原稿です。講談社学芸第一出版部の冊子『新書へのとびら』に収録されています。(現代語訳・保古飛呂比は今回だけ休載します。)
――編集者ほど割に合わぬ商売はない。なぜかというと、まず第一に、著者という人種は私を含め、だいたいわがままで怒りっぽい。しかもそういう著者に限って筆が遅い。編集者はそんな人間をおだてたり、なだめすかしたりして原稿を書かせなければならない。
第二に、苦心惨憺して仕上げた本が運良く評判をとったとしても、世に知られるのは著者の名だけである。編集者はどこまで行っても縁の下の力持ちにすぎない。
第三に、これが一番やるせないのだが、著者は往々にして忘恩の徒である。自分の下手な原稿に手を入れ、どうにか読めるようにしてくれたのは編集者だという事実をすぐに忘れる。自分一人で書いた気になり、感謝の言葉すら口にしないことがある。
結局のところ、編集者は報われぬまま、この作品を世に送り出したのは自分だというひそかな誇りを胸に生きていくしかない。それが編集者の宿命というものだろう。
そんなことをつらつら考えながら、創刊六十周年を迎える講談社現代新書の歴史を調べていたら、現役編集部員の横山建城から「加藤勝久さん恐るべし!」という見出しのメールが届いた。加藤勝久とは、今ではほとんど忘れられているけれど、戦後の講談社で一時代を画した編集者である。そしてなによりも本稿との関連でいうなら、今から半世紀前、休刊寸前に追い込まれた現代新書の救世主となった男である。
横山のメールの本文にはこうあった。
「昨日(2023年12月15日)の野間四賞の贈呈式も無事に終了いたしました。ことしは芦田愛菜、黒柳徹子、藤井聡太の三氏が出版文化賞受賞でしたから取材が多く、会社も満足だったんじゃないかと思います。それはさておき、賞の冊子にある黒柳さんの文章にビックリしました。やはり加藤勝久さんはすごいです。トットちゃんには『前史』があったわけです」
実は、このメールの数日前、横山と私は現代新書のOB編集者に会い、彼から加藤勝久が残した業績の大きさを教えられたばかりだった。その矢先、思わぬところで加藤の名に出くわしたので横山は驚いたのである。ちなみに、野間四賞とは、講談社の初代社長・野間清治の遺志によって設立された財団が主催する賞のことだ。
授賞式会場で配られた冊子の「受賞の言葉」に黒柳はこう書いていた。
「これまで、たくさんの贈り物をいただいてきた。中でも、今から六十年以上前、私が、『婦人公論』に書いたトモエ学園にまつわる短いエッセイを読んだ講談社の加藤勝久さんが、『一冊に書いてみませんか?』とわざわざ逢いにきてくださって、パンパンに膨らんだ紙袋の中に『講談社』と印字された二百字詰めの原稿用紙がたくさん入っていたときの嬉しさは忘れられない。」
空前のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』誕生にまつわるエピソードである。昭和三十四、五年ごろ、若手タレントとして注目され始めていた彼女は、雑誌『婦人公論』の依頼で自分が子供時代をすごしたトモエ学園での体験を短い随筆に書いた。すると、『婦人公論』のライバル誌『婦人倶楽部』の編集部員だった加藤がやってきたというのである。
が、加藤が渡した原稿用紙にはトットちゃんの原稿は書かれなかった。なぜなら、黒柳が言うには「当時から、少しずつ原稿の依頼があった私は、『ラッキー!』とばかりに、それをトモエ以外の原稿を書くことに使ってしまった」からだった。
それから十数年、加藤が点したたいまつは講談社学芸図書第二出版部の岩本敬子に引き継がれた。岩本は黒柳とほとんど同じ世代で、同じ東京生まれ。学童疎開の経験があることも共通していた。岩本はのちの取材に答えて、「『トットちゃん』の中に展開する東京周辺の牧歌的風景は、私の幼時に焼き付いたそれとオーバーラップしてくる」と語った。書きたいテーマをもっている著者と、それに共鳴・共感できる編集者との幸福な出会いだった。(社史『物語 講談社の100年』より)。
岩本は黒柳にいきなり単行本を書き下ろしてもらうのは無理だと考え、講談社の月刊誌『若い女性』に連載してもらうことにした。黒柳の「受賞の言葉」のつづきである。
「・・・・・『若い女性』で『窓ぎわのトットちゃん』の連載をすることになったときは、また山もりの原稿用紙を頂戴し、お陰様で、『トットちゃん』は大ベストセラーになった。『百万部売れています』なんて言われても実感が湧かなかったが、NHKのニュースで、印刷会社からトラックいっぱいの本が出荷されている映像を見て、初めて、『すごいなあ』と思った。」
昭和五十六(1981)年、初版2万部で刊行された『窓ぎわのトットちゃん』は爆発的な反響を呼び、年末には400万部を突破した。その後も増刷に次ぐ増刷を重ね、現在までの累計発行部数は日本国内で八百万部、全世界で二千五百万部を超え、時代も国境も超えたロングセラーとして世界中の人々に愛されている。
そして令和五(2023)年、黒柳は『続 窓ぎわのトットちゃん』を上梓した。担当したのは現代新書編集部(学芸図書第一出版部)の次長・井本麻紀である。彼女には黒柳のほうから続編執筆の提案があったという。事前の予想通り、続編はたちまち五十万部を超えるベストセラーになった。
黒柳は「受賞の言葉」のつづきで「前作のファンで、『続きを読みたい』と思ってくださった人が多いのだそうだ。四十年以上前とか、そんな昔に読んだ本のことを、今も大切に思ってくれているなんて!」と述べたうえで、こう締めくくっている。
「本の寿命というのは、人間の寿命なんかより、ずっと長いのだ。この野間出版文化賞も、加藤さんの時代から連綿と続く、贈り物のリレーなのかもしれないと感じている」
それにしても、黒柳は講談社の社員ですら忘れかけている加藤の名をなぜ、ここで突然出したのだろう。彼女の律儀さと言えばそれまでだが、私はもう一つ隠された理由があるような気がしてならない。あとで説明するつもりだが、加藤の編集者人生は晩年不幸な形で終わっている。黒柳はそれを知っていて、自分は今も加藤へのリスペクトを失っていないのだということを暗に示しておきたかったのではないだろうか。
黒柳の例だけでなく、加藤はその鋭敏な嗅覚で数多の才能を発掘している。私たちが先に会った現代新書OBによると、『豆腐屋の四季』や『ルイズ 父に貰いし名は』などの名作で知られるノンフィクション作家の松下竜一もその一人である。
松下は大分県中津市生まれ、幼児期に肺炎による高熱で右目を失明、青少年期には結核にかかり、母の死で大学進学を断念し、家業の豆腐屋を手伝いはじめた。昭和四十三年(1968)、そんな地方青年の切ない気持ちを和歌と文章で綴った自費出版本を出した。中津の印刷店で作ってもらったタイプ印刷の粗末な本だった。
『出会いの風 松下竜一未刊行著作集 2』(海鳥社刊)に記された本人の弁によると、他に読者はつかなくても、五人の姉弟に読まれるだけでいいという覚悟で出した自費出版書だったが、すぐに千冊がなくなった。そのとき初めて、どこかの出版社が公刊してくれないだろうかと思ったのだが、彼には知り合いの編集者はいない。仲介してくれる人もいなかった。
たまたまそのとき読んでいた本に挟まれていた読者カードを目にして、「そうだ、このはがきの宛先に本を送ろう」と思いついた。それが講談社の「心シリーズ」という著名人の心を伝えるエッセー集だった。「著名な人だけでなく、町の無名の豆腐屋の心も伝えてほしい」といった手紙を添えて粗末な本を送り出したのは、その年の暮れである。
加藤から「ぜひ出版したい」という返事が速達で届いたのは年明けの一月八日だった。「のちに思えば、これは稀にみる幸運だったのだ。ふつう大出版社に紹介者もなしに送りつけられた原稿や自費出版書が、編集者に読んでもらえるチャンスはほとんどない。おそらく、特別な嗅覚を持つ編集者であったからこそ、この粗末な自費出版書を読んで下さったのだろう」と、松下は振り返っている。
デビュー作『豆腐屋の四季』は昭和四十四年(1969)四月に公刊され、大きな反響を呼んだ。いわば名伯楽を得て松下は世に出たのだが、彼が名伯楽にも悩みがあると知ったのは、十三年後の昭和五十七年(1982)のことである。
この年、松下は無政府主義者・大杉栄の遺児の人生をたどった『ルイズ 父に貰いし名は』(講談社刊)により第四回講談社ノンフィクション賞を受賞した。授賞式のあと銀座のクラブを引き回したのは加藤だった。彼はしきりに「これでぼくもほっとしたよ」という言葉をくり返した。松下はつづけてこう書く。
「これまで(加藤)氏は多くの新人の本を世に送り出したが、それを機にそれまでの職を捨てて作家へと転身する例が多く、そのほとんどはつぶれていったという。そういう悲劇を見るたびに『あのとき自分が本を出してやったばかりに』と、にがい悔いを抱いたのだ。
私もまた、『豆腐屋の四季』公刊の翌年に豆腐屋を廃業して転身したのだが、そのとき加藤氏は、『ああ、またしても……』」と、悲劇を予感してくやんだという。
『もう心配ない。あなたは立派な作家になった』とくり返して、氏はその夜遅くまでグラスを傾けていた」。
もっと、加藤の人となりや足跡を知りたいと私は思った。しかし、その手がかりとなる文献が見つからない。彼ほどの大編集者なら回顧録の一つや二つあって不思議ではないし、彼の動向を伝える雑誌記事もすぐ見つかるだろうと思っていたが、国立国会図書館や大宅壮一文庫で検索してもまったくヒットしない。異様なほどの情報量の少なさである。そこにも加藤が講談社を去ったときの複雑な事情が影を落としているのだろうか。
以下は、社史『物語 講談社の100年』にある断片的な記述、『追悼 野間省一』(講談社第四代社長の追悼録)に本人が寄せた短文、社史『講談社七十年史 戦後編』編纂のための座談に出席した本人の証言(以下「七十年史資料」)、それに、私の取材に応じてくれた元部下らの証言などをもとにしたものであることを承知していただきたい。
のちに「卓越した編集者にして恐るべき酔っ払い」と評される加藤は、大正十四年(1925)生まれ。東大文学部の国文科を出て、昭和二十五年(1950)、講談社に入社した。面接試験に長髪のまま臨んで、社長の野間省一からそのいわれを訊かれたというから、そのころから自己流を押し通す個性の強さが際だっていたのだろう。
そこが野間の気に入ったのか。並みの大企業ではあり得ぬことだが、新入社員のころからよく野間の酒の相手を仰せつかった。加藤は「貧乏学生時代からタシナミとしてバクダン、カストリ、アワモリなどできたえてはいたが、やはり一流料亭の銘酒はまことに結構、社長と献酬二十余度ということもあったし、ときに盃洗の器で一気飲みしたこともあった」と言い、「そんな報いで、ある夜、チョコレート色のドロリとしたものを吐き、人知れず一月ばかり断酒したこともある」と打ち明けている。
加藤が『婦人倶楽部』の編集部にいたときのことらしいが、彼は野間に直接辞表を出したことがあった。それも二度も。
「どうしてそんなことをしたのか、その辺が考えるとも一つはっきりしない。仕事の上のもろもろの不満を、誰にいうあてもないままに社長にぶつけたということだったか、社をやめるというのではなく、かくかくしかじかなるがゆえに現部署からはずしてほしいというほどのことだったと思う。社用箋二、三枚に書きつづり、あたりに人なき折、社長にじかに渡した。しかし、社長からは何の応えもなかった。握りつぶしである」。
二度目は、たしかPホテル(パレスホテルであろうか)のロビーで手渡した、と加藤は『追悼 野間省一』に書いている。
「やはり思いつめた顔をしていたのだろう。社長はちょっと困ったような表情を一瞬うかべたが、さし出した封筒をさりげなくポケットにおさめられた。このときもそれきりである」
東大の国文科卒で、卒論のテーマが「現代短歌」だったという加藤にとって、『婦人倶楽部』はあまり楽しい職場でなかったようだ。加藤は別のところでも「(僕は)婦人雑誌がイヤで飛び出した経過がある」と語っている。
加藤はその後、第二編集局の新雑誌研究部の編集長になった。そこでどんな仕事に取り組んだのか、記録がないのでよくわからない。彼の本領が発揮されるのは、昭和三十七年(1962)、学芸図書第三出版部の部長(といっても部員三人ほどの小所帯だが)になってからである。そのとき、ようやく加藤は講談社で人生をまっとうする覚悟を決めたらしい。『追悼 野間省一』に次のように書いている。
「三度目(の辞表)は……、さすがに出せなかった。少しはものを考えるようにもなっていたし、出したらおしまいだという気持もあった。雑誌から書籍編集にかわっていたが、何よりも、文句をいって辞表を出すより、何か講談社でなければ出せないようなもの、講談社なればこそよく出したといわれるようなものを出したい気持になっていた。
社長は何もいってくれなかったけれど、そんなところをとっくにお見通しで、黙って見ていてくださったのだろう。結局は、ひとりずもうのあげくに、ようやっと何かわかりかけたということか。社長もやれやれと思われたろう」。
当時の講談社の機構はわかりにくいのだが、なぜか第一編集局の学芸図書第一出版部が純文学方面、学芸図書第二出版部は大衆文学方面を担当していた。そして、それ以外の学芸出版物(つまり非小説=広い意味でノンフィクション)を受け持つのが、加藤の新天地となった学芸図書第三出版部だった。
そこで最初に取り組んだのは、すでに刊行準備が進んでいた大型シリーズ『20世紀を動かした人々』を予定通り完結させることだ。が、このシリーズだけでは出版点数があまりに少ない。加藤はもっと活動分野を広げようと、試行錯誤しながら新たな単行本出版の可能性を探っていく。以下は『七十年史資料』に残る加藤の証言。
「(自分が部長になったときは)すでに前からの企画で、例の『20世紀を動かした人々』全十六巻があったわけですよ。だから、僕は社長に『これは私の自責点ではない』(魚住注・うまくいかなくても自分の責任ではないという意味)と言った記憶があるんだけれども、もうとにかく大変な仕事で、一巻に著者五人をつけてやるものだから毎回どんどん遅れていった。それに部員は三人しかいなくて、細々とやっていたのよ。だから(単行本は自分が部長になった昭和)三十七年が六冊、三十八年が九冊、三十九年が六冊しか出ていない。ぼくは婦人雑誌がいやで飛び出した経緯があるから、なにかやらなければいけないんだけれども、なかなかそこまでいかないで、試行錯誤の感じでしたね」
そんななかでも、昭和三十九年(1964)八月に刊行した宗教学者・岸本英夫の『死を見つめる心』がその年の毎日出版文化賞を受賞した。これはガンに冒されながらもくじけず、みずからの生と死を見つめた十余年を綴った、命の記録である。累計で八万三千部を売り上げた。
さらに昭和四十一年(1966)には美術評論家・白崎秀雄の『真贋』が日本エッセイストクラブ賞を受賞した。これは昭和の美術界で起きた著名な真贋事件、つまり美術品の贋作事件を十件検証したものだ。当時世評を賑わせた「佐野乾山事件」をいち早く取り上げていたこともあって話題を呼んだ。
加藤は『死を見つめる心』の成功を受け、以後、吉野秀雄『やわらかな心』(昭和四十一年)、フェデリコ・バルバロ『愛を求める心』、岡部伊都子『美を求める心』(ともに昭和四十二年)などの「心シリーズ」を刊行した。それを無名青年だった松下竜一が読み、『豆腐屋の四季』の出版につながったのはすでに述べたとおりである。
昭和四十一年(1966)、社内の機構改革で加藤の学芸図書第三出版部は、ノンフィクションの新企画を担当する学芸図書第二出版部となり、同年、美術学者の木村重信が『カラハリ砂漠 アフリカ最古の種族ブッシュマン探検記』で毎日出版文化賞を受賞した。
手応えをつかんだ加藤が、新しい体制下で試みたのが、全国規模で無名の著者を発掘し、その人でなければ書けない作品を生み出すことだった。まだ「ノンフィクション」という言葉が出版界に定着する以前のことだが、無名でも、さまざまなテーマをもって、ひたむきに追究する人の書くものは、読む者の胸に迫るのだという確信が彼にはあった。
次も「七十史資料」に残る加藤の証言である。
「いま(当時のラインナップを)見てみると、有名人もいるけれども、無名な人を少し発掘しようという気持ちが、僕はあったわけですよ。だから、壁に日本の白地図を張りまして、各県に一人くらいの著者を持ちたいということで、だいぶやって、東北六県は(発掘した著者が)大概いたかな。九州もわりかた多いんだけれども、全部で六十何パーセントくらいまではいったね。『世界にひらく講談社』だったけれども、国内もまだあるぞということで、もう少し耕そうじゃないかと、わりかた地方の出張に行ったですね」。
第二出版部で加藤の部下だった菅野匡夫によると、部長席の後ろの白地図には、有望な著者が現れるたびに赤いぽっちがつき、やがてそれが各県に二つ、三つと増えていった。
加藤は部内の編集会議で「学者の本は出さない。東京の人間の本は出さない」と口癖のようにくり返した。なぜかというと、学者の本を出すのはどこの社でもやる。東京の著者も他社の目に入る。だから、我々はそういう常識的な線を捨て、学者でも東京在住でもない著者の本を出すんだと言った。
加藤が地方にこだわったのには、別の計算もあった。講談社のように大きな出版社では社内で他の部署との競争が激しいから、自分らの本に広告予算を回してもらえない。だから売れるわけがない。だけど、地方なら地元紙の広告料は安いので広告を打てる。そうすれば、単行本の最低基準の三千部くらいは売ることができるというわけだ。
加藤は本社の席を温める暇がないほど地方を歩き回り、埋もれた才能を発掘していった。部員たちも夜行列車で各地に足を運んだ。こうした努力で有望な著者が見いだされ、話題作、ベストセラーが相次いで生み出されていった。
主だったものを挙げよう。まずは昭和四十二年(1967)年に刊行されるや、たちまち世の話題をさらった『まぼろしの邪馬台国』である。
著者は長崎県・島原在住の実業家で、雑誌『九州文学』同人として歴史を研究していた宮崎康平。彼は昭和十年代に早稲田大学で津田左右吉に師事し、津田教授の思想弾圧を目の当たりにした経験もあり、「邪馬台国」を生涯の研究テーマにする郷土史家だった。「畿内説」が優勢ななかで少数派の「九州説」に立ち、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国への行程を、「古事記」や「日本書紀」と照合する地道な研究に心血を注いだ。
しかし、その研究途上で失明。以後は妻の助けで、資料の読み込み、口述筆記による論考作成にあたった。この論考が「九州文学」に連載されていたのを第二出版部の部員が発掘して刊行にこぎつけた。
この本の出版を機に、松本清張の『古代史疑』(中央公論社刊)、高木彬光の『邪馬台国の秘密』(光文社刊)など、著名作家もあとに続き、一躍「邪馬台国ブーム」を巻き起こして三十万部を超えるベストセラーになった。また、夫婦二人三脚での苦闘と情熱が評価され、優れた業績を上げながらも報われることの少ない人に贈られる「吉川英治文化賞」の第一回(昭和四十二年)を夫婦で受賞した。『まぼろしの邪馬台国』は平成二十年(2008)、竹中直人・吉永小百合主演で映画化されたから、覚えておられる方も多いだろう。
昭和四十三年(1968)年には、一瞬の事故で下半身不随になった女性が、絶望の淵から自分を見つめ直し、人間としての存在の意義を獲得していくエッセイ『この生命ある限り』(大石邦子)がヒットした。
昭和四十四年(1968)に公刊された相沢忠洋の『「岩宿」の発見ー幻の旧石器を求めて』は、民間アマチュア研究者の手記である。貧しくて上級の学校に進めなかった少年が、歴史と考古学への情熱を失わずに独学を続ける。長じて群馬県桐生市で行商人となった彼は、その行商の道筋にある遺跡に魅せられて、一人で何度も調査をくり返し、ついにある石器を発見する。その石器は、日本に旧石器時代が存在したことを確認する重要な手がかりとなり、彼の発見がアカデミズムの研究者も動かしていく。
また、この年には、のちに「ノーベル賞級の世界的文学」と評される石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』が加藤の手で刊行された。これは日本の出版界にとってエポックメイキングな事件なのでその経緯を少し詳しく説明しておこう。
ご存じのように『苦海浄土』は、有機水銀中毒に苦しむ水俣漁民の魂を描いた作品である。当時、水俣在住の主婦だった石牟礼の初稿が雑誌『熊本風土記』に「海と空のあいだに」という題で連載された。彼女と交友のあった福岡在住の作家・上野英信がそれを読んで単行本にしようと思い立った。のちの石牟礼との対談(『石牟礼道子全集・不知火』第3巻所収、藤原書店刊)で上野はその時の心境を次のように語っている。
「私は『苦海浄土』の初稿の掲載誌『熊本風土記』を読ませてもらって、はっと思って、これをぜひとも本にして、できるだけ多くの人に読んでもらえれば、もうそれで、自分は生きていたかいがあったのだと思って、石牟礼さん、私にまかせてください、と言ってね、原稿預かって東京へ行ったんです。どこの出版社がよかろうかと考えたのだけれど、当時、岩波新書がまだ、百二十円ぐらいでしたから、岩波新書に入れてもらえば、お金のない人でもわりに楽に買えるし、また、あの当時、石牟礼さんは今以上に生活に困っておられたし、岩波なら印税も間違いなく入るだろうし、少しでも石牟礼さんたちの仕事にプラスになればということで、岩波書店に持ち込んだわけです。そしてぜひ岩波新書にしてほしいと頼んだわけです」
当時すでに作家として名を成していた上野が「もうそれで、自分は生きていたかいがあったのだ」というのだから尋常な惚れ込みようではない。岩波に持ち込んだ時期は定かではないが、『熊本風土記』の連載が昭和四十年(1965)年十二月に始まり、同四十一年いっぱいつづいているから、おそらく翌四十二年のことだろう。上野がつづける。
「ところが、いつまでたっても返事がない。どれくらいたちましたかね。半年、あるいはそれ以上かかったのではないかと思うのです。なしのつぶてなので、とうとう岩波書店に訪ねて行って、新書課長にどうなっているのか尋ねたところ、新書課長がたいへん気の毒そうな顔をして、原稿を私の前に置きまして、せっかくの上野さんの頼みだからできれば出版してあげたいのだが……」。
上野によると、「新書課長」はつづけてこう言ったという。
「当社は編集部員全員に回覧し、過半数の賛同をえたものを出版することにしていますが、お預かりした原稿は、小職を除いて一名の評価もえられませんでした」(「担ぎ屋の弁」『上野英信集(戦後文学エッセイ選12』所収、影書房刊)
「戦後日本文学を代表する傑作」という後年の評価を知るわれわれからすれば、にわかに信じがたいような話である。なぜ、岩波は石牟礼の原稿を拒んだのだろうか。無名の主婦が書いたものは出版に値しないという判断があったのだろうか。
上野の説明によれば、岩波というのは妙に”量の民主主義”みたいなところがあって、新書なら新書の編集部員の過半数か、何パーセントかが、これはいい作品だと賛成しなければ、いくらこの本を出したいと思っても出せないのだそうだ。
「新書課長」は、「一人でもこれはいい作品だからぜひ出しましょう、と言ってくれれば、私もなんとか期待にこたえられたと思うんですが、お気の毒ながら一人もこの原稿を評価する人間がいない。そうなると課長の独断でこれを出すことはできない」と言ったという。(石牟礼との対談)
上野はこれを聞いたときの気持ちをこう語っている。
「岩波にしてもこの作品はわからんのだな、と言いようのないむなしい気持ちでした。そのへんがやはり、岩波文化といってはわるいけれども、日本のいわば既成の出版アカデミズムといったようなものの限界を示しているような気がする」
上野の言う「岩波文化」とは、知的エリート向けのアカデミックな出版活動を指す言葉で、戦前に一世を風靡した庶民向けの「講談社文化」との対比で使われることがあった。
上野がここで言いたかったのは、編集者がふだんから著名大学教授の権威をバックに仕事をしていると、無名の主婦が地の底を這いずり回るようにして書き上げた作品の価値がわからなくなるということだったろう。上野は対談でこうも語っている。
「ただ、『苦海浄土』の原稿を岩波に持ち込むまえに(水俣生まれの民俗学者で歌人の)谷川健一さんに相談しました。谷川さんが言うには、岩波新書として出ればいちばんいいけれども、この石牟礼道子の原稿をはたして岩波が理解して受けつけることができるかどうかそこは問題だ、ぼくの考えるところでは非常にむずかしいのではないかと思う、といみじくも言われましてね。私はそんなバカなことはない、これが理解できないようでは、なにが岩波だ、というように思って私はまだそのころは岩波を信頼していた。それだけに、私は、さすがは谷川健一さんであると、彼の見る目の確かさに敬服しました」。
石牟礼はそれに対し「私の書くのはなにかやっぱり非常におかしいのですよ。スーッと入りにくいところがあるのでしょうね。私自身が自分でもなにがなんだかわからないみたいなところがありますし、文体もこの世になじまないのですよ、きっと」と応えている。
上野は岩波新書をあきらめ、講談社の加藤に原稿を持ち込んだ。その際、加藤との間でどんなやりとりがあったのか、記録がないのでわからない。
米本浩二著『評伝 石牟礼道子 渚に立つひと』(新潮文庫)によると、昭和四十三年(1968)六月二十一日、水俣の石牟礼に上野から電報が届いた。
「『コウダンシャシュッパンキマッタ』オメデトウ アンシンコウ ウエノ」
電報から二日後、上野から手紙が来た。講談社が出版を正式に決めた経緯をくわしく知らせてくれたのである。
「石牟礼道子様
昨日はなんとも嬉しい日でした。町田行幸さん(講談社学芸二課)から電話がかかって『いま企画会議が終ったところです。出させていただくことに決まりました。もうかっても、もうからなくても、とにかく出すべきものだからという重役の意見で』という報知。嬉しくて嬉しくてさっそく真っ昼まからビールで乾杯。飲んで飲んで飲みつづけ、夜には千々和英行さん(魚住注・上野の親友)も呼んで祝賀会。今日は二日酔いの気味です。来週には町田さんから詳しい連絡の手紙がゆくと思いますが、少し枚数がたりないそうですから、市民会議のことなど、少々「運動」面にふれた部分をかきこんで一応のまとめの章にしてはどうかと思いますが。万事よく町田さんと打合わせて、一日もはやく出版になるよう、最後の努力をしてください。とにかく、こんな大切な記録はないのですから、一人でも多くの人に読んでもらいたいものです」。
それから五カ月後、十一月二十五日の消印で上野から石牟礼に葉書が届いた。
「先日、上京中、講談社に寄りました。あなたの原稿が全部入ったとて、加藤課長(魚住注・加藤部長の誤り)も吉田女史(魚住注・寿退社した町田行幸の後任編集者とみられる)も、とても喜んでいました。私もほっと胸をなでおろしました。なんだかゴーカンしたみたいで、苦しい思いですが、どうぞお許しください。
『海と空の……』というタイトル、一考を要すると思います。独立した一冊の記録のタイトルとしては、少々イメージが弱い感じです。もうひとふんばり、考えてみてはどうでしょう。とにかく、一月を楽しみにしております」(米本浩二著『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』新潮社刊より引用)
『苦海浄土 わが水俣病』は昭和四十四年(1969)一月、講談社から発行された。のちに評伝作家の米本浩二が「『苦海浄土』という題はどなたの命名ですか」と尋ねると、石牟礼は「私と上野さんとウチの先生(夫の弘)の三人で決めました。上野さんが”苦海”を提案し、”苦海であれば浄土はどげんや”とウチの先生が言う。面白い。決まるのに五分もかかりませんでした」と答えたという。
公刊直前の四十三年十二月十八日、石牟礼の日記(『魂の邂逅』より引用)には「上野さんよりデンポウ。デンワかける。講談社、「販売部がホレて」「苦海浄土」にきまった由」と記されている。講談社では編集だけでなく販売の担当者までもが『苦海浄土』の出版を心待ちにしている様子がうかがえる。
岩波と打って変わった講談社側の好意的反応はなぜ生じたのだろうか。それはひとえに作品の魅力のなせるわざにはちがいないが、一方で、それまで地方の埋もれた才能を発掘してきた加藤の実績によるところが大きい。無名の著者でも、加藤が推すものなら間違いないのだという信頼感が社内に行き渡っていたのだろう。
翌四十五年(1970)春、『苦海浄土 わが水俣病』は第一回大宅壮一ノンフィクション賞(文藝春秋社主催)に選ばれた。選考委員の開高健は「患者と添寝せんばかりにして九州方面の話しことばで書きつづった部分に抜群の迫力がある。白眉である。そくそくと迫ってくる凄惨の異相のなかに鮮烈で透明な詩も閃いている」と評し、同じく選考委員の臼井吉見も「著者の水俣病追及は、ひたむきで鋭く、全身的であって仮借するところがない」と絶賛した。
しかし、石牟礼は受賞を辞退した。「選考経過」によれば、石牟礼は「わたし一人が頂く賞ではありません。水俣病で死んでいった人々や今なお苦しんでいる患者がいたからこそ描くことができたのです。わたしには晴れがましいことなど似合いませんのでお断りします」と述べた。加藤は彼女を翻意させるべく、「だいぶ説得したんだけれども、どうしても申し訳ないからといって、辞退しちゃった」と「七十史資料」で語っている。
それから間もなく、ショッキングな事件が起きる。同年三月二十七日の朝日新聞夕刊一面下のコラム「今日の問題」に次のような記事が載ったのである。
この本(『苦海浄土』)が文芸春秋社の第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれた。しかし、著者は受賞を辞退した。(中略)
文芸春秋は、正賞相当額を、患者家庭互助会に寄付するという。大宅壮一賞は、辞退されはした。しかし、この本を選んだことによって、第一回の輝きを得た。文春社が、最大の商売がたきである講談社の本を選んだことも立派だ。
つぎは講談社の出番だ。この本は、昨年一月発売された。すべての書評が絶賛して、たちまち店頭から消えた。そしてそのままである。天下の講談社が、いまはやりの出版妨害を受けたり、自主規制したなどとは考えられない。
文春社から贈られた栄誉を、全国民に還元すること。それが出版業が文化事業であることの証明となろう。この本を一円でも安く、一人でも多くの人に読ませるようにすること。(後略)
はっきりとは書いていないが、講談社が何らかの圧力を受けて『苦海浄土』の増刷を見送り、その結果、店頭に出回らなくなったと暗示する記事である。このころ創価学会の言論出版妨害事件が世間を騒がせていたから、同じような圧力に講談社が屈したのではないかと記者が邪推したのだろう。根も葉もない憶測記事である。
実のところ、公刊当初『苦海浄土』の売れ行きは芳しくなかった。そのため、売れ残りが書店から講談社に返品され「たちまち店頭から消えた」ように見えたのである。
「七」史資料』で加藤はこう証言している。
「いい本だけど、最初あれ(『苦海浄土』)は売れなかったんだよ。そうしたら朝日新聞に『あれは(講談社が)自主規制して増刷しないんじゃないか』と書かれた。僕は『こんなことがあるかっ!』と(朝日新聞の)論説委員室へ乗り込んで、(筆者の)笹山とかいう人に『あんた、ちゃんと調べたのか』と言ったら『いや、書店を三軒くらい回ったけれども(『苦海浄土』が店頭に)なかった』というので、僕は『ないと言ったって、売れなければ返品ということもあるんだ』ということをギューツと言った。そうしたら『じゃ投書欄をあけるから(そこに言い分を書いてくれ)』と言う。それから『週刊朝日』にも(加藤の言い分を書く欄を)ふつうよりちょっと大きくやるというので、僕が(その原稿を)書き始めたら、社内のある人が『そんな大人げない喧嘩をするな』なんて言い出して、だいぶ誤解されたからシャクなんだけれどもさ」
この口ぶりから察すると、加藤は反論文の掲載を途中で諦めたらしい。記事のせいで加藤は講談社の組合大会に呼ばれ、そこで釈明する羽目になった。編集者にとってこれほどの屈辱はなかったろう。しかし、世の中、何が幸いするかわからない。
大宅賞の受賞辞退と朝日の”誤報”騒動が重なって世の注目を集めたため、『苦海浄土』の売れ行きはがぜん良くなり、最終的に約十万部のベストセラー入りを果たした。
『苦海浄土』の出版は加害企業の責任追及と患者の全面救済を求める世論の原動力となった。やがてミナマタは地球規模の反公害運動の代名詞となり、講談社の出版活動は世界で評価された。かつての加藤の「辞表を出すより、何か講談社でなければ出せないようなもの、講談社なればこそよく出したといわれるようなものを出したい」という願いはここに結実したと言っていいだろう。
(魚住より。ここに掲載したのは「現代新書はいかにして現代新書になったのか」の前半部です。つづきをお読みになりたい方はhttps://res.cloudinary.com/kmedia/image/upload/v1715159895/gendai-shinsho-60th/shinsho-no-tobira-240508.pdfへどうぞ。)