わき道をゆく第250回 現代語訳・保古飛呂比 その73

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(以下は、土佐藩家老・福岡宮内の広島出張記に収録された広島藩サイドの文書)

一 当藩(広島藩)の寺尾生十郎(注①)が同月(慶応二年五月)八日に出発して、岩国まで行ったとのこと。これは、三日に前述の(長州藩の)末家の者どもが差し出した文書を返却することになったが、当藩からまだ渡さぬうちに毛利伊織らが(広島を)引き払ったため、(寺尾は)その文書返却の使者として十日に岩国に到着した。そうしたところ、(長州本家の名代として派遣された宍戸)備後助の取締(身柄を拘束して取り調べることを指すか)の一件が伝わってきて大混雑中だった。そのため(寺尾は)文書返却の用件のほかは、何らの応対もできず、引き取ったとのこと。

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、寺尾小八郎(てらお-こはちろう1834-1894)は「幕末-明治時代の武士,実業家。天保(てんぽう)5年生まれ。安芸(あき)広島藩士。坂井虎山(こざん)にまなぶ。勘定所吟味役,用達所詰などを歴任。維新後,士族救済事業につとめ,広島県令千田貞暁(さだあき)の宇品築港に士族授産金3万円をあてた。明治27年8月8日死去。61歳。本姓は田島。通称はほかに生十郎。」】

一 備後助の取締の件を長州藩の本末(本家・末家のことか)へ通達する使者の役目が当藩に仰せつけられ、ようやく十二日に出発したとのこと。

当藩 辻将曹(注②)

右の者は同月十日、不審のかどがあるとして、公辺(幕府)より謹慎を命じられた。つまり先ごろの野村帯刀(注③)と同様である。

五月十三日 探索掛り 山田吉次(土佐藩士)

       小目付兼探索 「当分御留守場ヲ以」(※原文引用。家老の福岡宮内が留守のため、というような意味か) 野崎糺(土佐藩士)

【注②。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、辻将曹(つじしょうそう(1823―1894))は「幕末維新期の政治家。諱(いみな)は維岳(いがく)。芸州藩上士の家に生まれる。ペリー来航を機に家老浅野遠江(あさのとおとうみ)ら改革派と藩政刷新を図るが失敗。浅野長訓(あさのながみち)襲封後は改革派が台頭、1862年(文久2)年寄役となって藩政改革にあたり、2年後年寄上座となる。第二次征長の際、長州藩への寛大な処分を主張、幕府から謹慎を命ぜられた。1867年(慶応3)秋冬の間、薩長芸三藩同盟締結、大政奉還建白の衝にあたり、小御所(こごしょ)会議で紛糾したときは後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を説得して王政復古を成就させた。同年12月参与、翌年内国事務判事、さらに大津県知事に任ぜられた。1869年(明治2)功により永世禄(えいせいろく)400石を賜る。1890年元老院議官に任ぜられ、男爵を授けられる。墓は広島市の誓願寺。[頼 祺一]」】

【注③ 。朝日日本歴史人物事典によると、野村帯刀(のむら・たてわき。没年:明治9.4.29(1876)生年:文化11(1814))は「幕末の安芸藩(広島県)藩士。景従の子。用人を経て,藩主浅野長訓の人材登用政策により,文久1(1861)年7月年寄役(執政職)に任命され,辻将曹(維岳)らの藩政改革を支援。翌2年江戸に赴く途中,入京して尊攘運動の高揚を観察。第2次長州征討に反対し,ために慶応2(1866)年5月幕命により辻と共に謹慎に処せられたが,ほどなく釈放された。同10月寄合役となり藩政指導の第一線から身を退けた。(井上勲)」】

一 次の一つ一つの箇条は備後之助・素太郎の取締以前のことである。

宮内が(土佐に)帰国中のことかと思われる。

松平安芸守(広島藩主)の家来へ

別紙の文書を宍戸備後助へ早々に届けられたい。

四月

宍戸備後助

毛利大膳・毛利長門・長門の惣領に通達することがあるので、来る二十一日までに広島に出頭するように。病気ならば、末家ならびに一門の者を名代として差し出すように。以上のことを早々に帰国し、大膳に伝えるように。

四月

松平安芸守へ

別紙の文書の内容を通達するので、毛利大膳・毛利左京・毛利淡路・毛利讃岐・吉川監物へ、その方より早々に伝えるように。

四月

毛利大膳の家老へ

宍戸備前

毛利筑前

右の者たちに通達することがあるので、広島表に出頭させるようにと、先ごろ伝えておいたが、もし病気であれば、強いて、来る二十一日までに出頭するように申し付けられたい。

四月

毛利左京

本家の大膳父子ならびに長門惣領に申し渡すことがあるので、先ごろ、その方へ広島表に出頭するよう通達しておいたが、もし病気であっても、強いて来る二十一日までに出芸(広島に来ること)するのなら、重臣のうち一人を差し出すようにされたい。

四月

毛利淡路

同 讃岐

吉川監物

右に同じ文言。

宍戸備後助

今般、毛利大膳父子に(幕府の)ご裁許が伝えられた。ついては、一昨年に江戸表で預かりになった大膳ならびに末家の家来、妻子とも広島表で(身柄を)引き渡される。彼等が到着次第連絡するので、受け取りの者を差し出すようにされたい。このことを大膳らに伝えるよう。

四月

松平安芸守へ

宍戸備後介ら一同の(御用が)済んだので、早々に当地を引き払い、帰国するように伝えられたい。

四月

巻上[ママ](※誤字のため意味不明)

口上の覚え

一 大膳父子(藩主・毛利敬親とその子定弘)ならびに長門惣領の興丸(孫の元昭)らがもし病気であれば、末家ならびに吉川監物がその名代をも兼ねて構わない。

ただし末家、吉川監物らも病気のため名代を差し出すことになったら、その名代の者は本家の名代となることはできない。

一 大膳父子ならびに長門総領の名代を差し出すことになったら、一人で(三人分の名代を)兼ねても構わない。

一 通達した期限になって名代も差し出さないでは、済まないので、精々行き違いがないよう、さらによく気をつけるべきこと。

惣領の與丸へ

一 長府・清末は遠路であるので、場合によっては、少し期限を遅れても構わない。

このことは宍戸備後介、ならびに、このたび使者として彼の地(広島)に派遣された者によく言い含めるよう、安芸守の家来に伝えられたい

一 肥前藩より(広島に)出てきていた重役も先月二十日、暫時のお暇を願い、帰国しました。これは最初、小笠原候 (小笠原壱岐守)よりなるべく筆談にするようご指示があって、(筆談で)一部始終のやりとりをしていましたが、なにぶん重大な事柄なので、筆談ではわかりにくいと本国より言って来て、ついに右の結果(重役が帰国すること)となったように聞いています。

覚え

一 先月十五日、(福岡)宮内殿らが当表(広島のこと)を出発された後、次のような風説が出回りました。それは、宮内殿が先ごろ広島に到着したとき、泊まった旅宿に、長藩の木梨彦右衛門[この人物は昨冬から広島に来ている]が訪ねてきて、終夜密談したとか、あるいは木梨の宿に宮内殿が行ったとかいう二様の説でした。そして翌十日に彦右衛門が帰国したのだと言うのです。

ただしこれは、宮内殿が九日夜に到着され、彦右衛門が十日朝に帰国したため、自然、そのような浮説が立ったとのこと。もっとも、これは当藩(広島藩)より出た離間説でして、(宮内殿が)旅宿もわざと長州人の宿寺の近くに置いたなど(という話も当時出回りましたが)、最近になって(それが離間説だったということが)よくよく思い当たります。また、老中・公用人に対してまで、当藩の者がそのような風説を表立って申し出たこともあるとのことですが、もちろん小笠原候らは信用されませんでした。かえって当藩の拙策があらわになり、親交のある藩の者たちとは大いに一笑しました。

当藩 寺尾生十郎

    立野一郎

この両人は同十七日に出発して山口かどこかに行き、同二十五日ごろ(広島に)帰国したとのこと。(出張の)趣旨などはすべてわかりません。もっとも当藩では、かねて今度の(幕府の長州に対する)ご処置が寛大になることを祈っており、さらにも増してそのことを主張している次第です。それは結局のところ畏長(長州を恐れ敬う気持ちということか)の情より、ひたすら彼の国(長州)の人心の折り合いのみを周旋しようという趣旨であり、天下の政治の興廃に対しては着眼していないように思います。最近にいたり、幕府よりのご依頼(広島藩を頼みにする気持ちということか)も次第に薄くなっています。

一 同月二十日ごろより、当藩の世子(浅野長勲のこと。注④)のご上坂(大阪に行くこと)の計画があります。これまた、長州に対する幕府の処置が寛大になるよう、かねてから訴えておられたのですが、老中の小笠原候は断然たるご決心で(訴えを)採用されなかったので、右の事件(世子・長勲の上坂計画)に立ち至ったと見られます。

このたび肥前藩と御国(土佐藩)の重役を呼び立てて、ご依頼になり、(肥前・土佐の両藩が)老中の肩を持つようになったら、寛大な処置を求める動きの邪魔になるため、それで最初離間説を言い触らしたのです。

もっとも、(世子の上坂計画は)小笠原候が再三説得して差し止められましたが、(世子周辺は)ややもすれば幕府の指示に従わない傾向があり、ついに(大阪行きの)日取りも二十三日九ツ時(正午ごろ)のご乗船と決まりました。そうしたところ、当日になって、暫時見合わせという届出があったとのことです。ただし、これは強いて上坂するということで、藩内に異論が生まれ、それゆえ(出発が)延期されたという説もあります。もっとも、全権の辻将曹に植田乙次郎という者を従わせ、同日出発して大坂に向かったとのこと。

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、浅野長勲(あさの・ながこと 没年:昭和12.2.1(1937)生年:天保13.7.23(1842.8.28))は「安芸広島藩最後の藩主。城下大手町の広島藩士沢家に生まれる。幼名は喜代槌。支藩へ養子に入り為五郎,のちに長興と名乗る。本藩の世子となり,紀伊守に任じられ茂勲と改めた。号は坤山。藩地防御,長州征討のため国許を離れられない養父茂長(長訓)に代わり上京,幕末の政局に関与する。当初,幕府の朝廷遵奉という形の公武合体を目指すが,長州征討などの事件を通じて大政奉還による王政復古を唱えるに至る。慶応3(1867)年4月の四侯会議に合わせ,池田茂政,蜂須賀茂韶と同時上京を図るも成らず,薩摩(鹿児島)藩と関係を密にすることとなる。10月に大政奉還を建白。12月には王政復古政変に加わり議定に任じられる。小御所会議において薩摩藩と土佐(高知)藩の間を調停し,会議の取りまとめに成功した。明治13(1880)年に元老院議官となって以降,イタリア公使,華族局長官,貴族院議員,華族会館長,十五銀行頭取,日本鉄道理事を務め,侯爵を授けられた。<著作>『浅野長勲自叙伝』<参考文献>『芸藩志』『坤山公八十八年事蹟』(浅野長孝)」】

一 同月二十二日、彦根・榊原・大垣・福山藩などの留守居役を老中(小笠原壱岐守)の本陣に呼び立てたうえで、御監察(幕府の大目付のことか)より、このたび広島藩の世子の大坂行きの計画があり、壱岐守殿に再三引き留められたが、強いて上坂するということになった。やむを得ぬ次第なので、世子上坂で大勢の者に疑惑が生じ、動揺せぬようにすべしとご指示があったとのこと。

当藩全権 野村帯刀

この者は不審のかどがあるとの理由で、同月二十三日の夜、幕府より謹慎を仰せつけられた。

一 再び当藩(広島藩)の世子が同月二十五日に乗船し、上坂すると通知がありましたが、またまた延期になった模様。これにより、世子上坂は自然立ち消えになったようです。

ただし、世子の上坂計画が持ち上がったのは、最初に大久保市蔵の入説(こうすべきだと説くこと)、備前藩からの密使などが根元になっており、内々に示し合わせたことでありましょう。すでに辻将曹の上坂と同時に、備後藩の新庄作右衛門という者も当表(広島)より上坂したとのこと。現在、長州藩のために周旋する者は因・備・阿・芸の四藩と言われています。もっとも因・備・芸藩は結局のところ脈を通じているというべきでしょうが、阿州はどうでしょうか。まだわかりません。

一 昨日の一日になって、改めて別紙の通りのご指示が出て、当藩よりの使者も今日出発すると聞いています。なにぶんこれまでは、幕府の大目付や小目付の辺りが当藩を頼りにするご初念(当初の気持ち)がありましたが、右の世子が上坂するという一件から、ようやくわだかまりが消えたお方も少なくなく、「壱岐守様の御思召も、従是相行可申と、彼藩士別て相競居申候」(※意味がよくわからないので原文を引用)。

一 一日、二日前から、(長州藩の)三つの末家・吉川(監物)らの使者らしき者が追々到着している模様ですが、いまだ本陣の方へは届けなどはなく、今日までなんらの事情もわかりません。

一 宍戸備後助は昨冬以来、広島に来て、右の万事を一身に引き受けて取り扱う覚悟だと言われていましたが、このたびの(幕府の)処置は、初めて意外なことだったので、当惑しきりの模様だというのが諸藩の見込みです。

この福岡宮内の手記は、極度の秘事であって、当時はすべてわからず、後年、山川良水より(この資料を)贈られて、初めて広島行きの事実を知った。[高行の記述]

六月(※福岡宮内の手記は終わり、ここからは高行の日記に戻る)

一 この月朔日(ついたち)、芸州表(広島方面)よりの知らせで、長州が(幕府の処置)をお受けせず、いよいよ同月五日より討ち入りということである。

先月以来、次々と幕府より大小役人はじめ兵隊らが芸州へ出張とのこと。長州が差し出した嘆願書を(幕府は)取り上げず、差し戻したとのこと。

一 同月八日、本日、松山藩勢が(周防国=現在の山口県)の大島郡へ討ち入りとのこと。

ただし戦争の模様はわからぬという知らせあり。

一 同月初旬、小笠原壱岐守が軍事御用を仰せつけられたとのこと。

これはたぶん小倉方面へ出張することになるであろうという風聞。

一 同十四日、長州と戦争が始まり、井伊(彦根)・榊原(越後高田)両藩が敗北したとの報知があった。勤王家は大敗といい、佐幕家は小敗という。

一 同十六日、長州の奇兵隊(注⑤)が大島で松山藩勢を破ったという。

【注⑤。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、奇兵隊(きへいたい)は「幕末・維新期の長門国萩藩でうまれた軍事組織。高杉晋作(しんさく)が1863年(文久3)6月に下関で編成したのが最初。士庶混成の編成と幹部クラスの会議所による合議体制が特徴で,洋式化された藩軍制のなかに組み込まれ,正規兵に対して奇兵と称された。ほかの洋式部隊とともに諸隊とよばれ,その象徴的存在でもあった。隊は武士的理念で支えられ,65年(慶応元)中には定員400人であった。藩改革派の軍事的基盤となり,藩内戦や第2次長州戦争,さらに戊辰(ぼしん)戦争で活躍したが,維新後の集権的な常備軍編成の動きに反発し,69年(明治2)11月,他の諸隊とともに脱隊騒動をおこし,維新政府は農民一揆との結合を恐れ,徹底的に弾圧した。」】

一 同月中旬になって、開成館(注⑥)の落成までは予算の費用では不足なので、さらに御用金を命じるよう、開成館の階上で執政・深尾左馬助殿から言われた。その際、同僚の関健助らが同席のもとで、(高行が)お受けできないと申し立てた。深尾執政は大いに立腹したが、今日、この館のため百姓へ課役・御用金などを掛けることは、藩のためにならないと言い切った。そもそもただ今、人民を奨励し、国産を興し、遺利(とりこぼしている利益)を拾い、大いに富強を計ることは急務であるが、いまだその事業に着手していないのに、人民に御用金を掛け、開成館を建築し、民の苦痛を厭わぬようなことはしてはいけない。まずは仮小屋同様の場所を設け、国産が興って利益が出るにしたがって、大館の建築をするのはいいだろう。いまだそのことがなく、早く外形を巨大にしたとしても、人民は服せず、効果はあがらず、ついに大館も無用になると、当初よりの意見であったが聞き入れられなかった。それでも格別費用もかからないと着手したところ、今日さらに御用金の命令があった。やむをえずお受けできないと言い、その日から(自宅に)引き籠った。

【注⑥。旺文社日本史事典 三訂版によると、開成館(かいせいかん)は「幕末,土佐藩に置かれた富国強兵策の中心機関。1866年,後藤象二郎が企画運営し,貨殖・勧業・税課・鉱山・捕鯨・鋳造・火薬・軍艦・医・訳などの各局を設置。しかし重税や藩専売に反対する農民や勤王党の抵抗にあい不振であった。」】

一 六月十九日、次の通り、郡奉行・普請奉行を解任された。

その方は郡奉行・普請奉行・外輪物頭格、かつ「附屬の役場共」(※郡奉行などに付随する役職のことと思われる)を退任となる。もちろん役領知(役職手当てのことか)を除かれ、格式は小姓組に差し戻される。

右の通りご指示があったと奉行衆より連絡があったので承知するように。以上。

慶応二年六月十九日、

山内壱岐

留守居 片岡次郎右衛門

佐々木三四郞殿

佐々木三四郞

右の者は左小姓組のお手前の配下で、座列は東野楠猪の次へ入れるので、そのつもりで。三四郞本人へも言い聞かせるように。以上。

六月二十日 柴田備後

片岡武右衛門殿

別紙の通り云々、

同日 片岡武右衛門

佐々木三四郞殿

右の者は今般の開成館の建築費に関して御用金の命令を受けなかった。よって退役を仰せつけられた。退役は罰に当たる。御用金(の命令)をお受けしなかったとき、次の通り文書を差し出した。

このたび藩の軍備と現在のご時勢で臨時の出費などが急務のところ、藩財政が窮迫しているため、郷浦(さとや海辺)の富豪の者より借り上げを命じるので、至急取り調べるようにとお達しがありました。ところが、最近は容易ならざる時節でありますのに、今もって国是が一定せず、誰もが疑念を抱き、議論も少なくありません。この四、五年来、軍備などの件につき、郷浦より寸志金あるいは銅器などの献納そのほかお借り上げ金などが銘じられましたが、軍備はいまだ整わないうえ、近年は打ち続いて土木工事が起こされており、いよいよもって(藩の財政が)窮迫しているとは、下々の民に至っては、理解することができません。にもかかわらず、またぞろこのたびお借り上げを銘じられては、下々の者どもがますます疑念を生じ、何となく人心が折り合わなくなると思います。たとえ(開成館の建設資金の)調達ができたとしても、前述の事情ですので、かえって藩の為になりません。すでにこのたび(藩財政の)節倹を命じられ、諸事不自由をお厭いにならぬことはまことにもってありがたき仕合わせであります。ついては恐れ多いことではありますが、今一段とご奮発なされ、誰もが感服するよう実行されるのはもちろんのこと、重臣の面々にはことさらに(節倹の)趣旨を守り、家中の全員が必至の覚悟をするよう、必ず「御示談」(話合いの意か)を仰せつけられ、面扶持(家族の人数に応じて支給される給与の米)または半知(家臣の知行・俸禄の半分)のお借り上げか、誰もが家臣のつとめとして非常な困難を引き受けるようになるでしょう。そのうえ非常時の対策などが十分に整い、国是が一つに定まり、非常の際に少しも狼狽せぬよう、必ず厳格な制度を立てられ、それでも財貨が不足してやむを得ず、お借り上げを命じられるということであれば、まことに仕方のないことなので、私どももその趣旨を十分尊重し、なるだけ調達金を集め、お国恩に報いるよう尽力いたします。そうなったら家臣の上から下まで(太守さまの)お考えが貫徹し、愚夫愚婦(無知な男女)に至るまで耳目を一洗し、誰もが感激して調達金や寸志などを差し出すでしょう。そのように人心が向かったときは、どれほど(藩の)ためになることかと思いますゆえ、なにぶんご詮議を命じていただきたい。このうえただ今の形で借入金の件を命じられては、決して藩のためにならぬと一途に思っておりますので、はなはだ恐れ多いことではありますが、仕方なく(藩の命令を)お受けすることができませんでしたので、このことを申し上げます。以上。

六月

佐々木三四郞

松田宗之丞

関健輔

これを奉行衆に差し出したところ、聞き入れられず、直ちに退役を命じられた。

一 六月二十日、長州征討のために、松山藩へ蒸気船を用立てることになり、浦戸を出港。

ついでに言っておくと、松山藩へ蒸気船を用立てるのはだめだと、同志の深尾九郎らと致道館で集会、大いに議論したが、(我々は藩中枢の)局外にいるため、なにぶん声は行き届かず、本文の通り、出帆の後となった。遺憾々々。

一 六月二十二日、大坂の天保山沖へ異国船二艘が現れたとのこと。

このため幕府も大いにごたごたしているとの報があった。

一 同二十六日、本日の戦争に紀州藩が大勝利とのこと。

[参考]

一 津和野へ(幕府から)軍監(戦の監査役)として派遣された長谷川久三郎殿の注進(緊急報告)の写し。

さる十六日にご注進した後、次々と長防人が各方面の間道より多人数出動して津和野方面を四方より囲みましたので、防戦もしなければならなかったのですが、なにぶん少人数なうえ後詰め(後方待機の軍勢)もないので防ぎようがないと亀井隠岐守(注⑦)の家来が申し出たため、(津和野の)城下を通さぬよう、野坂口へ軍勢を集めました。そうしたところ、長州人より、軍目付(長谷川自身のことか)に大膳父子が是非会いたいと、隠岐守の家来にたびたび申し込んできた。しかしそれは名義(名に応じて、守るべき義理=デジタル大辞泉)違いのことゆえ、隠岐守の家来といろいろ舌戦を交わすうち、(長州側は大膳父子と軍目付との面会を)取り次がなければ即刻、さまざまな方面から一斉に暴れ込むと言い出しました。そうなれば隠岐守の家来・人民に至るまで一時に滅亡することになるので、仕方なく、昨二十五日に拙者へ言ってきたことについて、(幕府の意向を)伺った上で取り計らうと答えました。そうしたところ、事態が非常に切迫してただ今にも討ち入るような形勢になりました。そうなったら隠岐守らが防戦するのはもちろんですが、そのようになっては尽力の甲斐がありません。眼前の領地を敵国(長州のこと)に渡すことになっては、不忠はもちろん、一般の悲嘆が堪えがたいことになるので、当面の恥辱を忍び、後詰めの部隊が来たなら、その時に忠義を尽くすことにしました。特に「台[多]命ニモ相拘居」(※意味不明)ことゆえ、仕方なく(長州側と)談合のうえ、明二十七日、防州山口へ(大膳父子と)会いに行くことにしました。これは、(幕府から命じられた)お役目外のことでありまして、深く恐れ入りたてまつります。

このことをとりあえず申し上げます。以上。

六月二十六日 長谷川久三郎

岡部三左衛門殿

大早鑛次郎殿

【注⑦。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、亀井茲監(かめいこれみ(1824―1885))は「江戸末期、石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)藩主。号は勤齋(ごんさい)。久留米(くるめ)藩主有馬頼徳(ありまよりのり)の次男として生まれ、15歳で亀井茲方(これのり)の養嗣子(ようしし)となる。隠岐守(おきのかみ)と称する。藩内改革に努めるとともに、海防にも意を配り、小藩ながらも勤王運動に貢献。維新後は新政府の参与事務局判事となり、神祇(じんぎ)官の首脳として重きをなした。また薩長土肥(さっちょうどひ)に先だって廃藩を実施。明治18年3月23日没。養嗣子の茲明は父の勲功により子爵を賜る(のち伯爵)。[大原康男]」】

[参考]

一 六月二十九日、幕府が、長州征討が長期間にわたったため、国庫が不足してほとんど破たんしていると有力大名らに内諭(内々でさとすこと)した。

一 同年六月中、幕府が多人数の兵士を次々と長州に繰り出すという。

六月、長州へ討ち入り以来、勝敗の知らせがあったが、(その内容は一定せず)毎度二様になった。その訳は、佐幕家より出た探索人はその仲間であるので、幕府の勝利をことさらに言ってきた。その一方、勤王家で小吏の面々は、上官に随行して京都・大坂方面または芸州に出張し、または探索などをしたが、かねて同志の輩が長州などへ脱走した人々で、その彼らから密かに通知があれば、長州方の勢力優勢を知らせて来て、(その結果、情報が)二通りになる。甲乙相互に自分が敵視する方の失策を数え上げ、憎悪の情が日々に増長する状況である。

また佐幕家も、開港論を唱える者は僅かで、幕府の外国に対する処置には不満があるので、最近兵庫などで幕府と外人と懇親の模様の風説を聞くと失望の表情をする。

このようなありさまだから、人心はばらばらで一つにまとまらない。自分らはもともと勤王攘夷論であるが、今日の長州征討は名義の上では幕府は朝廷の命令を受けているので、もし暴挙などがあったら(藩の)ためにならず、さりとてただ今の成り行きでは、ついに藩内(の意見対立が)が大いに破裂し、わが君公が叛臣の汚名を負うことになるのではないかと、数少ない同志たちが憂慮苦心し、寝食もままならず、建武延元の昔時(南北朝の内乱を指す)が思いやられた。

保古飛呂比 巻十五 慶応二年七月より同年十二月まで

慶応二年丙寅(ひのえとら) 佐佐木高行 三十七歳

七月

一 この月五日、英国の測量船が浦戸港外に来て、「ハツテイラ」(軍艦のボート)で内海に入った。その速さは飛んでいるようだったと、城下の人心が驚愕した。(英国船は)すぐに帰帆し、書簡を差し出した。(別に記す)。その日、自分は病気で、他から次のことを聞いた。

一 右のことにつき、藩庁より次の通り。

口述

英国船がこの二日、天地浦(現在の高知県西部の西側)へ入港した。塩見崎というところへ灯台を建てるのに便利な土地を調査するということで、(幕府の)老中さまへ談判中だが、その調査のためにやってきたという申し出だった。そうしたところ、(英国船は)昨日の四日、須崎浦へ来て、今日、浦戸港外へ来たとの緊急報告があった。ところで、さる亥年(文久三年)にお触れを出した通り、早鐘で各組へ知らせるべきはずのところだったが、英国船は悪だくみなどがあるようでもなく、申し出の通りのことのようかもしれない。もっとも万一乱暴などの動きがあれば、もちろん以前からの手配の通り、早速一番二番の早鐘を撞かせるようにとのご指示が出ているので、それまでは銘々が御用の他は自宅で待機し、早鐘に応じて迅速に出動する心構えでいるように。また在郷の面々は、ただいま出府(城下に集まること)するよう、かれこれ各組に早々に心得るよう、役場より通達すべき旨を奉行衆より指示があった。以上。

七月五日 大目付

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英国側からの書簡

覚え [七月、幡多郡天地浦へ碇泊、このときに書簡が高知へ廻ってきた]

この艦船は英国の船で「セルヘント」と言う。艦長を「フロック」氏と言う。このたび英国海軍提督より命じられ、塩見崎に灯台を建てるのに便利な場所の調査のために来たものである。英国公使はいまこのことを老中と談判中なので、「かし本[元のまま]於」(※意味不明)役人はもちろん、そのほかの人々がこの艦長を大切に取り扱い、力を尽くして周旋されんことを望む。

英国軍艦「フリンセスローヤル」において

西洋一千八百六十六年八月十日、つまり日本慶応二年七月朔日

水師提督 ショーズキング

紀州の役人あて

この書は先方から差し出したままを記している。かたわらに蟹字(英文)がある。

一 このとき、中老の山内掃部、平士子弟・軽格たちが出張。

中老の松下登□、歩兵頭の池田傳之進・長澤要作が出張。翻訳。七月五日七ツ半時(午前五時または午後五時)ごろ、浦戸沖に碇泊。翌六日の夜明けごろ帰帆。

書簡をもって申し上げる。今般その領海を通航しながら、訪問することができないのは、まことに残念に存じます。しかし「其由」(※意味不明)再訪の機会もあるでしょう。これすなわち英国と日本が親交を結び、その絆を堅くすることに役立つことになるでしょう。いまこの書簡は英国政府の軍艦により贈呈します。返事は横浜の英国公使館まで、「其都合を以て」(※意味がよくわからない)贈呈されることを望みます。拝具謹言。

英国軍艦サラミス、伊予宇和島で。

西洋の一千八百六十六年八月十日、つまり日本の慶応二年七月朔日

英国全権特派公使 ハルリーパルケス

松平土佐守殿

(※ここに封筒の表書きの図解があるが、省略する)

西洋の一千八百六十六年八月十日、宇和島港にある英国女王の船[サラミス]号の船上で「貌利大泥亞国女王」(※読み方不明)の事務宰相が土佐侯に敬意を表する。また、今回は土佐侯の領海を通過して、友愛の訪問をすることができないのを嘆く。しかしながら、思うに、将来この願いを実現し、かつ、それにより、英国と日本のあいだの好意を表することができる日が来るだろう。

この書は、女王の船の一隻により送ることになる。また侯が出したいと望む返書があれば、便宜をもって、横浜にある女王の事務宰相に送ることができる。

松平土佐守―某―某―某―某

ハルリーパルケル 女王特派使節および在日本全権事務宰相

一 浦戸港外へ渡来の英国船は今朝退帆したという注進があったので、各組はそう心得るよう役場より通達すべき旨、奉行衆から指示があった。以上。

一 七月六日、英夷(英国人)が「ハツテイラ」で孕(浦戸湾内の地名)の中の二の棒木まで乗り込んだ。側小姓の津田斧太郎がその舟へ乗り移り、帰るようにさとす。それより本船の方へ帰る。

一 英船に行った者たちは、中濱萬次郎(注⑧)、仕置き役の後藤象次郞(注⑨)、郡奉行・側小姓の樫井銘次郎、その附屬の役も乗る。蟹字は細川潤次郎(注⑩)に見させ、このように翻訳したということだった。

【注⑧。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、中浜万次郎(なかはままんじろう(1827―1898))は「幕末明治期の英学者。別名ジョン万次郎。土佐国中浜(なかのはま)村(高知県土佐清水(しみず)市)の漁夫の家に生まれる。1841年(天保12)、出漁中遭難漂流し無人島(ぶにんとう)(鳥(とり)島)に漂着し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、同国に渡り教育を受けた。1850年(嘉永3)サラ・ボイド号でホノルルから帰国の途につき、翌年8月鹿児島に上陸、長崎で取調べを受けたのち故郷に帰された。1852年12月藩庁に召され、徒士(かち)格に登用されて藩士に列し、1853年幕府に招聘(しょうへい)されて普請役(ふしんやく)格に列し韮山(にらやま)代官江川英龍(ひでたつ)の手付(てつき)を命じられた。ペリー来航時には重用され、外国使臣の書翰(しょかん)の翻訳や軍艦操練所教授、鯨漁(くじらりょう)御用を勤め、1860年(万延1)新見正興(しんみまさおき)の遣米使節には通弁主務として随行した。1861年(文久1)小笠原(おがさわら)島の調査、1864年(元治1)薩摩(さつま)藩に聘せられ軍艦操練・英語教授を委任された。1868年(明治1)土佐藩に召され、翌年徴士として開成(かいせい)学校二等教授として英学を教授した。1870年、プロイセン・フランス戦争観戦のため品川弥二郎(やじろう)、大山巌(いわお)らとともに渡欧を命ぜられたが、翌年病を得て帰国した。以後悠々自適の生活を送った。[加藤榮一]『中浜明著『中浜万次郎の生涯』(1970・冨山房)』」】

【注⑨。朝日日本歴史人物事典によると、後藤象二郎(没年:明治30.8.4(1897)生年:天保9.3.19(1838.4.13))は「幕末の土佐(高知)藩士,政治家。名は元曄,幼名保弥太,通称良輔。暘谷と号した。高知城下に生まれ,義叔父吉田東洋に訓育された。乾(板垣)退助とは竹馬の友。安政5(1858)年,参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡奉行,普請奉行に任じた。文久2(1862)年武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は藩の航海見習生として江戸に出て航海術,蘭学,英学などを学ぶなどして雌伏。翌3年,前藩主山内容堂(豊信)が7年ぶりに帰藩,藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると,象二郎は大監察に就任,慶応1(1865)年,武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当たった。吉田東洋の富国強兵路線を継承し,推進機関たる開成館を開設,開港場長崎に出張所を置き土佐の特産品樟脳の輸出を企て,自ら長崎に出張。このとき亀山社中を経営する脱藩浪士坂本竜馬と邂逅,坂本の論策である公議政体論・大政奉還論に賛同,容堂の強い支持を得,公議政体派として討幕派との鍔ぜり合いを演じたが,王政復古政変から鳥羽・伏見の戦に至り,討幕派に機先を制せられた。 新政府では参与,外国事務掛,総裁局顧問,御親征中軍監,大阪府知事,明治4(1871)年工部大輔,左院議長,6年4月参議を歴任したが,征韓論政変に敗れて下野した。7年1月,板垣退助らと民選議院設立建白を左院に提出するが却下された。このころ,蓬莱社を設立,政府からもらいうけた高島炭鉱を経営したが膨大な負債を抱えて,14年岩崎弥太郎に譲渡。西南戦争(1877)の際は政府と土佐立志社の間にあって複雑な行動をした。14年政変と国会開設の詔の煥発を契機に国会期成同盟系の民権諸派は自由党を創設,後藤は総理に推されたが板垣に譲った。15年板垣との外遊資金の出所をめぐる疑惑が起こり自由党の混乱を醸した。帰国後,朝鮮の政治改革を目指す運動を密かに企図したが失敗した。20年伯爵。同年反政府勢力の総結集を目指した大同団結運動を巻き起こし,機関誌『政論』を刊行するなどしたが,22年黒田清隆首相に誘われると逓信大臣に就任。以後山県有朋内閣,松方正義内閣と留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣。商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって27年1月辞職。晩年は病苦,失意のうちにあった。<参考文献>岩崎英重『後藤象二郎』,大町桂月『伯爵後藤象二郎伝』(福地惇)」】

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、細川潤次郎(没年:大正12.7.20(1923)生年:天保5.2.2(1834.3.11))は「幕末の土佐(高知)藩士,明治大正期の法制学者。儒者細川延平の次男。幼名熊太郎,諱は元,のちに潤次郎,号は十洲。幕末土佐藩の三奇童のひとり。生来頭脳明晰。博覧強記。藩校で学力抜群,安政1(1854)年長崎に赴き蘭学を修業,高島秋帆 に入門して兵学,砲術を学んで帰郷,5年藩命で江戸に出て海軍操練所で航海術を修業し,同時に中浜万次郎から英語を学んだ。文久年中(1861~64),吉田東洋政権の藩政改革の根幹である法典編纂事業に松岡時敏らと従事し「海南政典」「海南律例」を完成させた。維新政府に出仕,学校権判事として開成学校の基礎を固めた。明治4(1871)年米国出張,左院の諸役を勤め法制整備に広く関与した。9年元老院議官,23年貴族院勅選議員。26年から没年まで枢密顧問官。その間に女子高等師範学校長,華族女学校校長,東宮大夫,学習院長心得あるいは『古事類苑』編纂総裁を務め,33年男爵。<著作>『十洲全集』全3巻(福地惇)」】

(続。以前から何度も申し上げていますが、この現代語訳は専門家のチェックを受けていないので誤りがいくつもあると思います。いずれは専門家の力を借りて正確を期すつもりですが、それまでは引用・転載をご遠慮ください)